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8 つの 疑 問  ・・まず、全体の輪郭をつかもう! V. 9.4.
 ● はじめに

ドイツ観念論とは? (v. 3.3.) 

ドイツ観念論は、現代でも通用するの?(v. 2.1.)

3人のそれぞれの特色は? (v. 2.0)

カントを含めない理由は?
カントからフィヒテへの進展の経緯は?

ドイツ観念論は、疎外論では? また、「主-客」弁証法では? (v. 2.2.)

弁証法というのは何なの?

ドイツ観念論の問題点は? (v. 1.3.) 

はじめに
 この『8つの疑問』を書き足していくうちに、長大なものとなってしまい、かえって全体の輪郭がつかみにくくなってしまいました。そこで、『8つの疑問』を手っ取り早く通覧したいときには、『ドイツ観念論の現代的合理性』を見て下さい。
 えっ、もっと手早く!? では、『要旨:ドイツ観念論の現代的合理性』を!
  なお、より初歩的な解説を、拙稿「ドイツ観念論の輪郭」でおこなっています。(共著『思索の道標をもとめて』所収、ドイツ観念論研究会編、萌(きざす)書房)。


ドイツ観念論とは?

 フィヒテが、「自我は、みずからを措定する」と主張したとき(1794年)にはじまった世界観で、
・シェリングや(絶対的なものは産出である)
・ヘーゲルによって(実体は主体である)、
展開しました。(*1)
 3人に共通な考えは:
全実在性をもつもの(自我、絶対者、実体など)が自らを多重化することによって、その実在性は現実化される。そしてその多重化は、またもとの1つのものに戻るというものです――しかし、これでは何のことか意味不明ですので、フィヒテから見ていきましょう。

(1) フィヒテの自我
 上記のフィヒテの自我は、私たちがふつう考えるような、「私」としての個々人の自我ではなく、「すべての実在性をもつ(*2)ものです。現代哲学の用語で言えば、「共同主観性」(廣松渉)が案外近いかと思いま(*3)。ここでは簡単に考えて、すべての実在性をもつことから、世界全体だと理解しておいていいでしょう。
  そこで、世界(あるいは伝統的用語でいうと、「実体」、「存在」)が、自己措定することこそが世界そのものであると、フィヒテは発想したわけですが、これが、ドイツ観念論の基本モチーフになりました。

(しかし注意したいのは、上記の措定する自我は、経験に直接現れることはないということで (*4)。といっても、想像上のもので、仮定されたものでしかないというのではありません。
 例えば「日本語」をとり上げてみますと、これは英語や独語などと共に確かに存在します。また考察の対象ともなりえます。文法はどのようになっているかとか、単語には何々があるとか。しかし、日本語そのものを私たちの眼前に、一挙に現象させることは不可能です。もちろん、文法規則や単語を細大もらさず記述することはできるでしょう。しかしそれは、日本語文法や日本語単語の現象であっても、日本語の現象ではないのです。したがって、現象する(使われる)のはつねに日本語の一部、あるいは正確にいえば一例であって、日本語そのものは超越論的transzendental, 先験的とも)なままにとどまります。
 同様に、フィヒテの「措定する自我」を「世界」として理解するといっても、経験的な世界ではありません)。

(2) 私たちの現代的理解
 だがこれはいかなる事態なのでしょうか。表面的にみれば、世界(存在)を静的なものとしてではなく、動的なもの・つねに創造的過程にあるものとして捉えることになります。しかし、たんに世界は不断の変化・生成のうちにあると観ずるだけでは、ドイツ観念論が世界哲学史に残るようなことはないわけです。それに、運動や変化といっても、物理的・心理的変化ではありません。
 ドイツ観念論の代表作のひとつは、「自然や有限な精神を創造する以前の、永遠の本質における神の叙述 (*5)であるヘーゲルの『論理学』です。またもともとのフィヒテの自我の活動にしても、時間とは関係がありません (*6)。 したがって、
 (i) あえて平板に、今様に言えば、意味論的な展開・運動だということになります。
 (ii) 哲学史的に見れば、カントが創始した超越論的なメカニズムは静的な区分のようなものでしたが、このメカニズムをダイナミック(動的)にしたといえます。
 (iii) 私たちの立場からは、これから述べますように、この運動は「メタ化運動」です。

 身近な例をとれば、言語学でいうメタ言語の「メタ」(「超える」とか「上位の」という意味のギリシア語から)が、自己措定にあたると思われます――つまり、フィヒテなどが自己措定を発想する仕方は、私たちのメタ言語の見方と似ています。メタ言語というのは、「対象 [例えば、"木" や "愛情" など諸々の事柄] について述べる言語を対象言語(object language)というのに対して、対象言語の表現内容について述べる言語。高次言語」(広辞苑)のことですが、簡単に言えば、言語自身を対象として述べる言語です。
 たとえば、日本語( A )の文法的特長をしらべて、「日本語では、目的語は動詞の前に置かれる」(B)と述べたとします。この B の言語はやはり日本語ですが、しかし、同じ日本語 A を対象として述べています。A と B は階層(次元)を異にする別々な言語とみなせます (*7)。このような自己言及的な言語 B が、 A のメタ言語です。(*8)

 ところで、B はどこから生じたのかといえば、 A の日本語からです。あたかも言語的意味性すべてを有する(――日本語話者にとっては) A が、みずからを措定して B になり、自らに対している(für sich, 対自)かのようです。
 そして、 A , B 両者をみると、B も日本語ですから、 A に含まれるとみなせます。このとき B は A に帰還する構図となります。しかも、B がはじめて述べられたときには、もともとの日本語 A に B は現実的にはなかったのですから、 A は以前より豊かになったともいえます。こうした事態は、ドイツ観念論がいうところの自己措定(外化)と自己内への帰還の構図と(*9)、よく合致します(*10)

 そこで私たちは、ドイツ観念論を現代哲学の立場から見るときには、世界のメタ化論、あるいはメタ世界論(metacosmism, Metakosmismus)と捉えるわけです。(*11)
 ではなぜドイツ観念論を、フィヒテ以来の用語を使って、「自己措定」論と称さないかということですが、シェリング(とりわけヘーゲル)になりますと、自我(絶対者)の自己措定ということが、哲学体系を叙述する上からは必要なくなるからです。各世界は、前の世界から直接生じることになります(この点については、「③ 3人のそれぞれの特色は?」を参照してください)。

(3) 根本的な特徴
 さて、世界 A がメタ化し、世界 B が生じます。あるいは、自我(実体、存在) A が自己措定して、B が生じます。この A は「すべての実在性」を持ちますから、精神的な能知の契機も含んでいます。したがって、 A は認識する主観として、B を認識の対象とすることになりますが、B は自己自身ですから、ここに生じている意識は自己意識だといえます――と、一応はこのように、ドイツ観念論を理解することができますが、このままでは誤解のおそれがあります。
 近代的な認識主観(デカルトのコギト、カントの物自体としての心など)とはことなり、上記の A はそれ自体としては現実的に存立していません。また、B もそれ自体としては、対象的な世界たりえないのです。現代的に表現すれば、 A と B の関係態のうちにおいてのみ、認識主観は存するし、自己意識としての対象世界も成立しているのです。「世界(自我)が自己措定することこそが、世界そのものである」と最初に述べたのは、このような意味においてです。
 このことを説明するために、また言語の例を持ち出せば、私が「今日は暖かい」(上記の B)と書いたときに、それがインクのシミとしてではなく、意味を持った言葉として理解されるのは、日本語を解する人に対してだけです。つまり、日本語(上記の A )を有する話者主体がいなければ、「今日は暖かい」は言語たりえません。逆に、書かれたり、話されたりした B, C, D,・・・なくしては、日本語 A は存在しないことになります。
 したがって日本語が真に成立するのは、 A と B (C, D,・・・)との両方が存在することによってです。しかも両方が無関係だったのでは、それぞれ片方しかないのと同じですから、両方は相互に照合していなければならないわけです。(*12)

 ただし、 A と B との関係は、いわば同じ平面上で並列的に、一つのものが半分ずつに分裂したとか、一方がコピーされて他方ができたようなものではありません。2つは、対応関係をともなってはいるが次元が違うという、メタ関係にあります。このことをフィヒテは、後期の代表作『幸いなる生への導き』(1806年)では、内容上の劈頭で次のように述べています:
 「愛は、それ自体としては死せる存在を、いわば 2 重の(zweimalig)存在へと分かつ:この死せる存在を、自らの前に立てながら。そして愛はこのことによって、死せる存在を自我に、すなわち自己にするのである。この自我は自らを直観し、そして自らについて知る。・・・愛は再び、分かたれた自我をもっとも緊密に統一し、結合する・・・」。(*13)
 一般向けの宗教講和ですから、「愛」などの用語がでてきますが、注目すべきは、「自我」が、分かたれた 2 つの存在のどちらかを指すのではなく、2 つともを含んでいることです。そして自己知というのは、分かたれている事から生じています。

 こうして、「メタ化した項との間に、つまり2項間の関係態に、存在性を見る(*14)ことが、ドイツ観念論の根本特徴だと言えると思います。


 第 1 の疑問への注

(*1) これらの有名な語句の引用は、
・フィヒテ: 『全知識学の基礎』(1794年)(Meiner 社、哲学文庫版 1997 年、16 ページ)
・シェリング: 『自然哲学についての考察』の「緒論への付記」(1803 年)(SW 版シェリング全集、第 2 巻、62 ページ)。
・ヘーゲル: 『精神の現象学』「序文(Vorrede)」(1807年)(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第 3 巻、23 ページ)。

 誤解のないように、該当箇所を引用しますと、
・シェリング: 「絶対的なものは永遠の認識活動であるが、この認識活動は自らにとって質料(Stoff)および形態(Form, 形式。形相)であって、産出(Produzieren)である。この産出において、絶対的なものは永遠にわたって、理念としての、純粋な同一性としての自からのすべてを、実在的なものに、形態にする。そしてまた、同じく永遠にわたって絶対的なものは、客観である限りでの形態としての自ら自身を、本質へと、すなわち主観へと溶解する」。

・ヘーゲル: 「私の見るところでは・・・すべては次のことにかかっている:真なるものをたんに実体としてではなく、主体としても把捉し、表現することである」(強調は原文。なお、このテーゼの真の意味については、拙『哲学用語の解説』の「実体は主体である」を参照ください。)

(*2) 「自我は自ら自身を規定する、と言われる限り、自我には実在性の絶対的な総体が帰属する。自我は自らをただ実在性としてのみ、規定できる。というのも、自我は端的に実在性として措定されているからであり、自我のうちには何らの否定性も措定されていないからである。」(『全知識学の基礎』(1794年)SW版フィヒテ全集、第1巻、129ページ)。 
 ところで、このような「全実在性をもつもの」を、フィヒテが確信をもって主張することができ、またシェリングやヘーゲルがそれにすぐコミットできた理由の一つとしては、彼らの念頭にスピノザの「実体」があったことが挙げられます。18 世紀後半の「汎神論論争」以来、スピノザは「死んだ犬」ではなくなっており、気鋭の哲学徒たちは多かれ少なかれ彼の「実体(神即自然)」に、心引かれていました。
 「ただし・・・」という留保を付けつつも、ドイツ観念論の 3 人も同様でした。フィヒテが 1794 年に『全知識学の基礎』を著し、翌年シェリングが『哲学の原理としての自我について』を公にした頃、フィヒテは述べています:
「私は彼 [シェリング] の出現を喜んでいます。特に彼がスピノザに目をつけたのは私には好ましいことです。私の体系も、スピノザの体系から最も適切に解明されうるのです」。(フィヒテからラインホルトへの、1795年 7 月 2 日付の手紙。この手紙には、「シェリングの著書は、私がそこから読み取りえた限りにおいては、全く私の著書の注釈です」という有名な一節があります。なお、テキストを入手していませんので、これらの引用は、R・ラウト著『フィヒテからシェリングへ』(隈元忠敬訳、以文社、p. 17)よりの孫引きです)。

(*3) フィヒテの自我のシェリング版である絶対者について、シェリングは次のように述べています:「主観的なものでもなければ客観的なものでもなく、ある論者の思惟でもなければ、誰かの思惟でもない、それはまさに絶対的思惟である」。(『自然哲学論考』序文への1803年付記。(Manfred Schröter によるシェリング著作集、第1巻、711ページ)
 コギトとしての個人のものではない思惟、しかもたんに「主-客」図式の主観の側にのみかかわるのではない思惟ということですから、こうした自我・絶対者を共同主観性として、まずはみなせると思います。
  むろん、見なさなくてもいいのですが、少なくとも次のことまでは主張したいと思います:ドイツ観念論の「絶対者」は荒唐無稽なものではなく、「共同主観性」の例から類推できるように、現代の理性によっても理解可能であると。

 ちなみに、ドイツ観念論では、観念的なものや概念、知といったものを第一義としますが、むろんこれらは、いわゆるプラトン的なイデア界にあるのではありません。個物に即して存在します。そしてこれらは、廣松渉氏のいう認識対象の<所識の契機>、すなわち、共同主観性を成立させるゆえんのイデアールな契機と、似かよっています。といいますか、廣松氏がこれらを絵解きしたような案配となっています。

 つまり――以下の説明はすこし難しくなり、哲学中級者のためのものです。要は、個別と普遍の関係のあり方です。一応分かっていただければ、アマ 2 段くらいでしょう――、廣松哲学の中枢をなす四肢構造論によれば:

 例えば、愛犬のポチが散歩している姿を、私が認知するという事態は、視覚象(すなわち、散歩している犬という 1 つのレアール [独: real, 英: real, 日:実在的] な像。ある場面のポチの感覚的な像。射影像。)を、ポチという対象像(ポチだとして把握された像)として、認知するということです。
 問題はこの対象像ですが、それは過去のポチの射影像の記憶とか、いくつかの射影像を平均してできた心像ではありません。そのような心像を形成することなく、私は散歩するポチを見て、直覚的にポチと認知(把握)します。すなわち、ポチの対象像を得ます。
 たとえ過去に私が何らかのレアールな心像を、ポチを見ることによって形成したことがあったにしても、ポチの対象像があらかじめ存立していないことには、「散歩しているポチの射影像(視覚像)は、前記の形成されたポチの心像と同じものである」と、つまり射影像は<ポチ>の 1 相貌だと、認知しようがないのです。つまり、「<ポチ>の」と分かるためには、対象像が必要なわけです。
 さて、対象像のポチは、さまざまなポチの射影像において存在していますから(あるいは、各ポチの射影像はポチの対象像を懐胎していますから)、普遍的です。また、射影像は前向き・横向きなどさまざまに変化しても、ポチそのもの、すなわちポチの対象像は不易的で、また遍在的(超場所的)でもあります。このような普遍的・不易的・遍在的な性質をまとめて言えば、イデアール(独: ideal, 英: ideal, 日:理念的/観念的/典型的)となるでしょう。
 以上をまとめますと――イデアールな対象像は、「原基的な場面では、[過去のポチの射影像の] 比較・校合とか、分析・綜合といった比量的な手続きで形成的に認知されるのではなく、それに先だって端的に覚識されるのであるから、対象的個体というイデアールな「所識」の認知はアポステリオリではなくして謂わば ”アプリオリ” である」。(『存在と意味』、岩波書店、1982 年、85 - 86 ページ)

 一方、ドイツ観念論のシェリングは次のように述べます:
 「概念 [前記の廣松氏の例では、ポチの対象像に相当] の起源については、ふつう次のように説明されている:『いくつかの個別的な直観により、特殊な規定を捨象して、一般的なものだけを残すことによって、私たちに概念 [例えば、木] が生じてくる』と。
 「しかしこの説明が表面的であることは、すぐに明らかとなる。というのは、この説明にしたがえば、『いくつかの個別的な直観 [例えば、桜の視覚象、梅の視覚象、柿の視覚象]』を相互に比較しなければならない。けれども、すでに概念によって導かれているのでなければ、どうしてそのようなことができよう。なぜなら、私たちに与えられている諸対象 [桜、梅、柿の視覚象] がまだ概念になっていないときに、こうした諸対象が同じ種類のもの [木] であると、どこから知るのであろうか。
 「したがって、いくつかの個別的対象から共通なものを取りだすという、上記の経験的な方法 [いわゆる科学的帰納法] は、共通なものを取りだすためのきまりを、すなわち概念を、したがって上記の経験的な抽象能力より高次のものを、それ自身すでに前提にしているのである」。(『超越論的観念論の体系』、オリジナル版、S. 288f.) すなわちシェリングも、概念はアポステリオリではなく、アプリオリだと主張しているのですが、フィヒテにおいても同様な発想が、『全知識学の基礎』に(SW版、Sämtliche Werke, I, S. 104f.)あります。(この点については、拙稿「科学的帰納法へのドイツ観念論からの批判」を参照)。

 こうして、イデアールな概念の存在や重要性を認めるところまでは、ドイツ観念論も廣松哲学も同じです。とはいえ後者はマルクスの後をうけているだけに、どのようにしてイデアールな概念・形象は形成されるのか、ということを解き明かします。すなわち、それらイデアールな形象は個人にとってはアプリオリに表れるとしても、実は共同主観的な形象であり、社会的協働を通じて生み出されたものだというわけです。

(*4) 弱冠20才のシェリングは、さすがにこのことをよく理解していました。『全知識学の基礎』(1794年)の出版された翌年に、彼が著した「哲学の原理としての自我について」では、「絶対的 [措定する] 自我」は対象にはなりえない」と、言われています。(シュレーター 版シェリング著作集、第1巻 91ページ)。

(*5) 『大論理学』、ズーアカンプ版第5巻44ページ。

(*6) 『全知識学の基礎』、SW版フィヒテ全集、第1巻、134ページ。
 このように、原理的な場面で、行為や出来事の前後関係を、現実的時間の概念とは関係なく設定することは、よくあることです。フィヒテの先行者ラインホルトも、「意識のうちで、客観と主観に関係づけられるものは、時間においてではなく、その本性にしたがって(seiner N A tur n A ch)、関係づけられる行為より以前に、存在しなくてはならない」などと言っています。(拙サイトの『アイネシデモス』紹介ページを参照) 
 ちなみに S. マイモンによれば、「感覚と想像力 [構想力] は、時間のうちで働く」が、「高次の精神力(悟性と理性)は、時間のうちでは働かない」。(『哲学辞典』"Ich" の項目、1791年のオリジナル版、63-65ページ)
 むろんカントにおいては、「空間と時間は、ただ感官 Sinn においてのみ存在し、感官以外では現実性をもたない」(『純粋理性批判』 B 版、148ページ)。

(*7) 両者を混交すれば、「あるクレタ島人いわく、『クレタ島人はウソつきである』」といった自己言及文のパラドックスが、生じることになります。

(*8)メタ言語は、それが対象にしている言語とは別の言語や記号体系でもかまいません。例えば英語の文法規則を日本語で述べたときには、その日本語はメタ言語です。しかしこの拙論では、両者が同じ言語の場合を想定して説明します。

(*9) 「対自」とか「自己内帰還」といえば、ヘーゲルの用いた術語として有名ですが、もともとはフィヒテの用語です。例えば、
「対自」は:『知識学への第2序論』(1797年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、458ページ、等 。
「自己内帰還」は:『全知識学の基礎』(1794年)、同上、第 1 巻、134 ページ; 『知識学への第2序論』、同上、第 1 巻、458 ページ、等。

(*10) 本当は事態が逆なのです:なぜメタ言語が成立するかといえば、意識がメタ化するからであり、その意識を共同主観性のようなものだと考えれば、つまりは世界がメタ化しているからです。
 ただし言語においては、自己言及的メタ言語は例外的であり、ふつうの言語は、例えば「道を人が通る」「三角形の内角の和は180度である」のように、言語外の対象を言及する対象言語です。ところがドイツ観念論においては、自我(世界)外に存在するものはないのですから、その自己措定はつねにメタ世界になります。

(*11) このメタ世界論を現代的に発展させた、多世界論(pluricosmism)を標榜したものとしては、拙稿「多世界の生成と構造・・新しい世界観を求めて」があります。

(*12) このことをフィヒテから言えば:
 「規定されえる(有限な理性の普遍的な)意識なくしては、規定されている(個人的な)意識を持つことはまったくできませんし、逆もまたそうです。この法則は、有限性にとってはまさに原理なのであり、この [規定されえる意識と規定されている意識の相互への] 変換点(WechselPunkt)が有限性の立脚点なのです」。(1801 年 5 月 31 日付のフィヒテのシェリング宛手紙。『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』。1856 年版では 87 ページ。『アカデミー版フィヒテ全集 III,, 5』 47 ページ。)

(*13) Die A nweisung zum seligen Leben, SW版では第5巻,402ページ。
 後期の宗教講和といっても、フィヒテによれば、それは彼の「哲学的見解」の「成果」なのであり、その哲学的見解は「13年来いかなる点でも変わっていない」、つまり『全知識学の基礎』を発表した前年の1793年以来変わらない、とのことです。(同、399ページ)
 ちなみに、ヘーゲルも同様の考えを(おそらく踏襲してだと思うのですが)、『精神の現象学』の「序文(Vorrede)」(1807 年)の有名な個所で述べています:
 「主体としてのこの実体は、純粋で単純な否定性であり、まさにこの否定性のために単純なものの分裂(Entzweiung)である。すなわち、対置する二重化(die entgegensetzende Verdopplung)であるが、この二重化はふたたびその [二重化した両者の] 関わりあわぬ相違や、[相違する両者の] 対立の否定である」。(『アカデミー版ヘーゲル全集』, Bd. 9, S. 18. ズーアカンプ社『ヘーゲル著作集』, Bd. 3, S. 23)

(*14)「2項間の関係態に、存在性を見る」と、あいまいに表現しましたが、この事態をどのように理解し説明していくかが、ドイツ観念論研究の要諦とも言えます。ちなみに、シェリングは次のように述べます:
 「主観と客観への実在性 [自我] の分割は、主観と客観の両項の間に浮動する第3項、すなわち自我の活動によらずしては、まったく不可能である。そしてこの第3項はといえば、2つの対置する両項自体が自我の活動でなければ、不可能なのである」。(『先験的観念論の体系』、オリジナル版 (1800年)では、、91 ページ)
 ついでながらこのシェリングの発言は、(廣松氏風に言えば)項に先立つ自我の活動 [メタ化運動] の一次性を表しています。
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ドイツ観念論は、現代でも通用する合理性を持つのか?

 たしかにドイツ観念論の巨樹には、枯れ枝となってしまった部分、もともと枝ぶりの悪かった部分もだいぶあります(*1)。しかし、直接の関係者が亡くなって100年以上たつのに、また、政治・経済的圧力をもつ教団・政治組織などはないにもかかわらず、世界史上に残っているようなものは、やはりそれ自体大きな価値をもつと、まずは推測できます。
(高校の日本史で登場する江戸時代の画家たちでさえ(*2)――などと言ってはいけないのですが――、その代表作を観ると、私などは感心してしまいます。泰西名画があれば玉堂はいらない、とはならないわけです。ましてやドイツ観念論の場合は、世界哲学史上に大きな位置を占めていますから、単純な否定は、ちょっとムリでしょう。)

 ドイツ観念論が理解されにくいのは、その発想があまりに奇抜だったせいだと思います。ようやく最近にいたって、理解できる客観的状況ができてきました:
 自我が「自らを措定する」という事態を、私たちは「メタ化」(メタ言語の「メタ」)として理解しようとするのですが、metalanguage なる語の初出は、ランダムハウス英語辞典によると1936年です。ヘーゲルの「赤色は、黄色や青色がそれに対立するかぎりにおいて存在する(*3)という講義録を読んでも、構造主義言語学がブームとなったあとの私たちには、違和感はありませんが、そのブームは20世紀も後半でした。
 そして何よりも、廣松渉氏によるヘーゲル左派・マルクス解釈(1970年頃~90年頃)の登場です。家庭の内情は子供に現れるなどと申しますが、ヘーゲル以降の解明が、逆にドイツ観念論理解に与えたヒント・刺激は、じつに大きいものがありました。

 しかし、ドイツ観念論はヘーゲル左派やマルクスによって克服されてしまった哲学ではないか、との疑念がとうぜん浮かびます。これに対しては、次のように考えたいと思います:
 一般的にいって、新しい哲学は、前代ないし当代の哲学を否定して登場することになります。この点は新しい科学理論の登場の場合と同じです。芸術の場合はこれとは違い、新流派の登場は、客観的にみれば新しいものが付け加わってくることになります。もちろん、新人芸術家の主観的心情としては、それまでのものを否定したと思う場合も多いことでしょう。けれども私たちは、古典主義の音楽も、ロマン主義も12音階音楽も、等しく享受しています。
 つまり、哲学の進展があるかぎり、どのような哲学も否定されます。とはいえ、私たちはニュートンのプリンキピアは読みませんが、プラトンや論語は、さまざまにいたるところで否定されてきたにもかかわらず、あい変らず愛読しています。この点では哲学は、芸術に似ています。
 ドイツ観念論もなるほど否定はされましたが、読みつがれ、新しく解釈しなおされていくというわけです(*4)。 余談ながら、ドイツ観念論を否定する思想のどこに不満があるのかをいえば:
 マルクス主義は、生成する歴史にすべてを還元して、社会の永遠普遍の諸側面・変化しないパターンに、視線がいかない、あるいはそれらを認めようともしない点。廣松哲学は、「共同主観性」や「関係の第1次性」を論証した点で傑出しているにしても、それは私たちの観点からすれば、世界の共時的(synchronic)構造であって、世界のいわば通時的(diachronic)構造(現実の時間的経過は意味しない)である、メタ化構造の把握に弱い点です。(*5)


 第 2 の疑問への注

(*1) シェリングやヘーゲルの自然哲学での具体的議論は、その典型でしょう。しかし、結果的にはともかく、原理的には以下のような構成になっていました:

 「自然哲学(N A turphilosophie)は・・・自然を自立的なものとして措定する。・・・超越論的哲学が [与えることができるような、自然についての] 観念論的な説明の仕方は・・・自然哲学においては行われない。そのような説明の仕方は、自然学(Physik)や自然学と同じ立場に立つ私たちの学問 [=自然哲学] にとっては、意味のないものである。それは丁度、かつての目的論的な説明の仕方や、普遍的な目的原因を、それらによって歪められた自然科学(N A turwissensch A ft)に導入することと、同じなのである。
 「というのも、その固有の領域から自然の説明の領域へと引っぱってこられた観念論的な説明の仕方は、すべてまったくの空想じみた無意味さに堕してしまうのだから。そしてこうした例は、よく知られている。そこで、私たちの学問 [自然哲学] は、すべての真の自然科学がもつ第 1 の格率を――すなわち、すべてのものを自然力から説明せよ――、最大限に受け入れるのである。」(『自然哲学の体系構想への序論』、オリジナル版シェリング全集、第 III 巻、273 ページ)

 そしてシェリングが行った議論は、当時としては最先端のものであり、ゲーテやシラーの賛辞を得たといわれます(『先験的観念論の体系』蒼樹社、昭和23年、赤松元通氏の解説480ページ)。
 現今の認識論を扱った哲学の著作では、相対性理論や量子力学にふれることも多く、私たちは感心しながら読んでいますが、これらもあと50年もたつと、シェリングやヘーゲルの自然哲学と同じ、いやよりひどい運命をたどらぬとは限りません。

(*2) 他方では例えば岸駒(がんく)のように、高位に昇り、財をなし、長寿をえても、今日では専門家と好事家の注意を引くにとどまる人もいます。私もはじめて彼の若い時の絵に接したときは、そのセンス、技術、そして覇気を目にして、「すごい」と感嘆したものです。しかし、今から思えば、画中の人物が、今ひとつ面白くなかったようです。水墨画の人物像には、画家の志や人生観が現われやすいだけに、今となっては「やはり・・・」と納得するのですが、後知恵というものでしょうか。

(*3) 『エンチクロペディー』、42 節の補遺 1。

(*4) 過去の偉大な思想を、現代において解釈しなおすとは?→参照 

(*5) 廣松渉氏の代表的著作である『存在と意味』、および『世界の共同主観的存在構造』を見ても、およそ根源的運動(いわゆる弁証法的運動など)は登場しません。むろんこのことを以って、すぐさま氏の哲学の欠点とするのは、無体というものでしょう。それに、氏の意想を忖度すれば――
 前記の両著作で展開している認識論・存在論は、まだ哲学体系の端緒というべく、その意味で抽象的なものにすぎない。それらが具体的・現実的なものになるのは、そこからさらに上降した歴史的な実践の場においてである。この実践の場においては、共軛的諸個人の活動が、共同主観性を形成している。この共同主観性こそが、おもに生産関係と生産力との 2 大要因の関係によって、生成変化の根源的運動をするのである、云々。

 しかしながら、上記のような氏の意想(?)を承認するとしても、私たちの立場からすれば、抽象的端緒において根源的運動はどのような表現をとるのか、ということが説かれなければならなかったと思います。それは氏の論述に即せば、「反省」においてです(『存在と意味』1982年、138頁から)。ここでの氏の議論は秀逸なものですが、しかし、141 頁にあるように、 反省によって加わるとふつう考えられている "自己意識" は、その場のたんなる「パースペクティブな布置の覚識・・・に他ならない」とされます。つまり氏によっては、"自己意識" 以前と以後との質的相違が――すなわち、私たちの観点からすれば根源的運動の引き起こす相違が――、説かれません。氏の用いた例を援用して説明すると:

 「映画に熱中していてハッと我に返った場面を想定されたい。スクリーンの範囲だけで比較すれば、対象的意識内容には別段変化がないように思える。しかし、今では、それまで見えていなかったスクリーンの両袖、観客席、・・・それにこの ”身体” も意識野内に登場している。対象的意識野に明らかな変化が見られるのである。・・・
 「[ハッと我に返る] 反省において塁加する “自己意識” なるものの実態は、このパースペクティブな布置の覚識([つまり、] ”この(視座的)身体<これは・・・物理的肉体の謂いではない>への帰属の覚識)にほかならない」。

 氏のこうした主張は正しいにしても、しかし私たちとしては、「ハッと我に返る」以前には映画の世界に没入していたのに、以後は日常世界に戻っている、という重要な相違を指摘したいわけです。(この論点については、拙稿『多世界の生成と構造』の第1章を参観下さい)。
 また氏によっては、セルフレファレントな “自己意識” は、必然的に存するという扱いにはなっていません。したがってその必然性の構造なども、問題外のままです。
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3人のそれぞれの特色は?

  まずよく言われる、フィヒテ「主観的観念論」、シェリング「客観的観念論」(*1)、ヘーゲル「絶対的観念論」という特徴づけは、「公民・倫理」のテスト勉強的な知識としてならともかく、哲学的にはあまり意味があるとは思えません。といいますのは、主観的とされるフィヒテにせよ:

1) 彼の自我には「実在性の絶対的な総体が帰属する」(*2)のですから、その自我を主観的と見なすのは早計です。
2) 彼の自我は、デカルト的な私の意識といった主観的なものではなく、「自我と自己内への帰還の行為は、まったく同じ概念である」(*3)と言われるように、メタ化運動をする主体ということに力点があります。したがって、そのような主体を主観的と、まず決めつける必要はありません。
3) なるほどフィヒテは、「意識」という用語を多用することから、彼の哲学は主観的なものだと見なされがちです。しかし、彼が賞賛した先輩のラインホルトの「意識」を、ここで想起すべきだと思います。
 ラインホルトの有名な意識の命題「意識のうちで、表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる」が表しているように、意識はたんに表象(いわゆる意識内容)や主観の働き(意識作用)のみを指すのではなく、客観(物自体)をも包含する、何か大変大きいものを意味しています。むろん、そのようなものがありえるのか、という疑問は残ります。しかし、ラインホルトによって、従来的な主観性に局限されない新しい意識の語法が、生じたとは言えるとおもいます。
 私たちは、この意味での意識の語法をフィヒテは使っており、またシェリングやヘーゲルも継承したと考えます。(*4)
4) フィヒテは、読者に対して彼の哲学(例えば自我の自己措定)を説明するという姿勢のときには、読者自身の内観に訴えるなどしています。そのときは、たしかに彼の哲学は主観的あるいは心理主義的色彩をおびてきます。 (*5)
 けれどもこれは、新しい思想を説明せねばならぬとき、古い用語を使ってなんとかコミュニケーションをはかろうとする、努力の表れといえます。ちょうど子供にクジラを説明するとき、「海に住んでいる、一番大きなお魚さん」というようなものです。

 というわけで、最初のフィヒテを小さく「主観的」とし、それを段々と拡大深化ないし無条件化していったのが、シェリングの「客観的」(*6)およびヘーゲルの「絶対的」だとする見方は、私たちはとりません。むしろ、「①ドイツ観念論とは?」の(2)で述べましたように、3人ともメタ世界論者であってみれば、、彼らの特色はそれぞれにおけるメタ化のありようの違いに、以下求めていきたいと思います。

フィヒテでは
全体者である自我( A とします)は、自己「対立(Widerstreit)」の契機を持ちます。そのことにより、自己措定をするのですが、措定してできた B, C, D・・は、すべて A から直接生じるといえます。これらは、それぞれが全体的な世界です。後期の代表作『幸いなる生への導き』では、低次の感覚的世界から最高次の学問的世界まで、5つの世界が生じま(*7)
 そして、「生を見る見方の可能性は、数において上記の5つのあり方 [1. 感覚的世界~5. 学問的世界] に限られている」(*8)と言われるように、そのうちのどれかは常に生じてきています;しかし、「上記の5つの観点は…すべての時点を満たすことに関して、同様に可能なものとして措定されている」ので、どの世界になるのかは必然的には決まらず、これらのうちのどれも生じる可能性をもっています。(*9)

 ただし、体系をなす知識学の叙述は、「循環(Kreislauf)」をすると主張します。「私たちが出発したところの原理が、最終の結果ともなる」わけです(*10)

シェリングでは
絶対者 A 自体の中に絶対的な「対置(Entgegensetzung)」があり、そのため A は産出の運動(自己措定)をすることができ、B, C, D, ・・・が成立しま(*11)。(この点では、フィヒテの「対立」を一歩進めた形になっています)。
 ところが直接的には、C は B から、D は C からと、個別者から個別者へ継続的に―― in Continuität, Evolution, Succession などの語句が使われていま(*12)――生じます。すなわち、B, C, D などの各「産物は、ふたたび [後続の] 諸産物へと分解」するので(*13)。 このことを可能にさせた点に、彼の自然哲学の意義があるといえます。

 さらにシェリングは、こうした産出の論理を、絶対者の自然の側面を扱う自然哲学から、絶対者の知性(das Intelligente)の側面を扱う観念論哲学にも及ぼします。すこし長くなりますが、有名な『超越論的観念論の体系』(1800年)から引用しますと:
 「観念論をその全広袤において叙述するという、著者 [シェリング] の意図を実現するための手段は、以下のとおりである:哲学のすべての部分を一つながりに、・・・そして自己意識の継続定な歴史として・・・述べたことである。
 「この歴史の正確かつ完全な輪郭を描くことにさいして、とくに重要だったのは、この歴史の個々の時期(Epochen)や、これらの時期がもつ個々の契機を正確により分け、なおかつ一つの連続性において(in einer aufeinanderfolge)表すことだった。この連続性のもとで、人は方法 [前述の手段] そのものによって――この方法によって連続性は発見されるのだが――、確信できるのである:「必然的に存する中項 [中間に存する時期や契機] は、何一つとして省略されてはいない」と。・・・
 「特に著者をして前記の連関――この連関はもともと直観の段階的発展(Stufenfolge)なのであり、この段階的発展によって、自我は最高のポテンツにおける意識へと、高まるのであるが――の記述に、精力を費やさしめたものは、だいぶ以前から抱懐していた自然と知性(das Intelligente)との並行論(Parallelismus)であった。この並行論の完全な記述は、超越論哲学だけでは、あるいは自然哲学だけでは不可能であって、ただ両哲学相まって可能なのである」。(*14)

 つまり私たちの観点からすれば、C, D 以下のメタ世界が、それら以前の個別的諸世界から生じるようになったと言えます。とはいえ、C, D 以下が何によって生じるのかといえば、それは絶対者 A のもつ諸ポテンツ(量的差異のある勢位)が現実化することによってです。つまり、絶対者の規定性(ポテンツ)から直接にC, D 以下が生じています。(絶対者の規定性そのものは、私たちの経験的世界には現れません。この点では、カント以来の超越論的観念論の枠内にあるとも、言えます)。
 そしてその進行の結果、出発点 A と終局点は同じになると、シェリングは主張しました。(*15)
  しかしながら、超越論的観念論と自然哲学という2分野そのものは、並置されたままです。上記引用文のすぐ後の箇所に、超越論哲学と自然哲学は「2つの永遠に対置される学問にほかならず、決して一つのものに移行することはできない」(*16)と、書かれてあるとおりです。この点は、スピノザの実体の2つの属性である物心の並行論を、思わせます。シェリングも、当然スピノザを意識していたことでしょう。

 ところで、後期のシェリングにおいても、上記のような論理構成は変わっていません。例えば、 A が自己措定して現実的存在である B が生じるという論理は、『人間の自由の本質』(1809 年)においては、世界(超越論的観念論と自然哲学の扱う対象)にのみならず、なんと神にも適用されています。(*17) 根拠としての神、すなわち神のうちの自然( A )が、存在(Existenz)としての神(B)を産出するのです(*18)
 また、個別者から個別者が継続的に生じるという論理は、『啓示の哲学』(1831年の講義草稿)では、「エデン(B)→神話(C)→啓示宗教(D)」という展開に生かされています(*19)

ヘーゲルでは
 B → C → D → ・・・ A → B と円環状に、また必然的に進行するのは、B, C, D それぞれの個別者が持つ自己矛盾によると主張しました。つまり、直接には各個別者がもつ規定性(の矛盾)によって、C, D 以下が生じるので(*20)。(個別者が持つ規定性は、当然のことながら私たちの経験的世界に現れます。この点で、カント以来の「超越論的」発想が登場する余地はなく、「超越論的観念論」はヘーゲルによって絶たれたと言えます)。
 したがって、全体(=絶対)者のもつ個別的な諸契機も、シェリングの場合には量的な差異であるポテンツという全体者自身の規定性でしたが、ヘーゲルの場合には、例えば精神の現象学では、「意識の [個別的な] 諸形態」になります(*21)
 ヘーゲルがシェリングを批判するのも、この点においてです。ローゼンクランツによれば:
 「ヘーゲルは率直にシェリングについて意見を述べ、シェリングの大きな功績を暖かく賞賛したが、しかし、[シェリング哲学においては] 絶対的なもののうちでたんに無差別だとして対置されているものが、たんなる量的な区別しかもたないことをとがめた。この量的な区別においては、すべてのものは一方あるいは他方の要因が勝ったものとしてあり、真の区別は存在しないのである。また、[シェリングにおける] 弁証法の欠如をとがめたのである。弁証法は、プラトンにあっては――このこと以外では(außerdem)、シェリングはプラトンと多くの類似点をもつにせよ――どこにおいても [その教説] 内容に伴っていたのだが。・・・シェリングについての前述の意見が、ヘーゲルの常套句となった。」(*22)

  そして、ヘーゲルにあっても全体者である一者のもつ諸契機は個別的な(全体者に対して)諸形態ですが、しかしそれらは1つの循環運動をすることになります。そこにおいては、ヘーゲル哲学を構成している論理学、(形而上学)、自然哲学などの諸分野が、並置されずに、1つの循環過程に置かれているのです。そのような構図はすでに、1801/02 年の講義草稿において取られていますが、前記の分野に加えてさらに精神哲学と宗教・芸術が増設されています。
 そして神も、ヘーゲル哲学においては特定の領域を占めることはなく、この1つの循環の総体が神だとされます。

 ところで個別者の自己矛盾という観点から、フィヒテの『幸いなる生への導き』第5講義に見られるような諸世界観を展開するとき、『精神の現象学』が誕生することになります。(*23)

 しかし、それでは絶対的全体者の A が必要ないかといえばそうではなく、個別者 B, C, D, ・・・は A から存在性を与えられているとする点では、フィヒテやシェリングと同様です。そして、各個別者における自己矛盾とは、私たちから見るとき、それぞれが持つ個別者の契機と、全体者の契機の矛盾にほかなりません。あるいは、個別的契機どうしの矛盾も、全体者のうちにおいて生じているのです。
 結局、フィヒテ以来の自我 A の自己措定というモチーフは、ヘーゲルにおいても保持されており、絶対者が「現実的であるのは、それが自己措定 [B, C, ・・] の運動である限り」においてである、ということになります。(*24)
 ではなぜヘーゲルは、各個別者が自己矛盾を持たざるをえないと発想したの(*25)、という問題が残ります。文献的には、あるいは事実上はこの問題ははっきりせず、諸説あります。しかし、思想史的には:
フィヒテ以来、真の全体者 A は自己対立(矛盾)に付きまとわれてきましたが、、ヘーゲルに至って、 A が自己措定した B, C, ・・も、( A = B, A = C,・・ですから)当然のことながら矛盾を有すると、考えられるにいたった。
――このように見るのが、妥当だと思われます。

 なお、はやくも1800年には個別者の存在を、関係態に帰しているのが注目されます(*26)。そして、1804年に書かれたとされる草稿では、構成諸要素(Glieder)とそれらの間の諸関係とは、等しいとされています(*27)
  そしてこの諸関係の総体――といっても寄せ集めではなく、順次に発展していく関係態の総体――が、ヘーゲルの「全体性・統一性・普遍者・絶対者」です。これら関係態は、具体的には構成要素間の移行運動として現れることになります。
 構成要素(個別者)は一応実在するのに対して、関係態は観念的あり方をしているといえるでしょう。そして実在するはずの構成要素も、すぐに移行運動の内で止揚されます(これは、構成要素の存在性が、総体の関係態のうちに、すなわち運動を本質とする関係態のうちに、あるためです)。そして、1つの契機として保存されます。つまり構成要素も、1つの観念的な関係態としてしか存立しません(*28)
 このようなヘーゲルの観念論をみるとき、ヘーゲル哲学を 「実体主義から関係主義への移行期」としか捉えないのでは、やはり不十分でしょう。この哲学は、実質的には関係主義に立脚しているのです。またそこに、ドイツ観念論内でのヘーゲルの位置づけがあると思います。


 第 3 の疑問への注

(*1) 2 人の観念論にそれぞれ「主観的」「客観的」という形容句を与えた嚆矢は、おそらくシェリング自身だと思われます:
 「例えばフィヒテは、観念論をまったく主観的な意味において考え、それに対して私 [シェリング] は、客観的な意味において考えたということもありえよう。」
(『私の哲学体系の叙述』(1801年)序文, オリジナル版(SW版)全集、第 I 部、第4巻、109ページ)
 ただここで注意すべきは、「フィヒテは、観念論をまったく主観的な意味において考え」たという表現をとるにしても、フィヒテの考える意識は現代風に言えば「意識自体の透明性に立脚した、客観的対象についての意識」だということです:
 「例えば、2 点間を通る直線はただ1本であるという、貴方の意識を考えてみて下さい。ここにおいては、最初に貴方は、まさに自己把握Sich Erfassen)と自己透過性Durchdringen)を、明証的な [心の] 働きを(den Akt der Evidenz)持っています。そしてこれが、私の依拠する点Grundpunkt)なのです」。(1801 年 5 月 31 日付のフィヒテのシェリング宛手紙。『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』、1856年版では84ページ。『アカデミー版フィヒテ全集 III,, 5』 46 ページ。)

(*2) 「自我は自ら自身を規定する、と言われる限り、自我には実在性の絶対的な総体が帰属する」(『全知識学の基礎』(1794年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、129ページ)

(*3) 『知識学への第2序論』(1797年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、462ページ。

(*4) そこでこの「意識」は、現代的に解釈すれば、現象主義者のいう現象に近いものとして――つまり、「主観」「客観」「意識」等といったものをカッコに入れての、現れるがままの現象として――、あるいはそれらの現象が現れてくる現象野として、理解できる場合も多いです。
 なおシェリングは、1801年5月24日付けのフィヒテ宛の手紙では、「意識すなわち自我が、現存する絶対的同一性 [シェリングの絶対者] のいわば南天(Mittagspunkt)として」(『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』、1856年版では 76 ページ。『アカデミー版フィヒテ全集 III,, 5』 40 ページ。)と書いているように、「意識」を「知的直観の自我、すなわち自己意識の自我」(同 125 ページ。S. 58)の意味で用いています。

(*5) シェリングは、この点を強く意識し、フィヒテに主張してもいました。例えば、フィヒテへの 1801-10-3 付の手紙では、フィヒテの 1801年の著作である 『明快な報告』について:
 「この本での観念論は、私 [シェリング] にはかなり心理学的なものに・・・見えました」。(『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』、1856年版では 107 ページ。『アカデミー版フィヒテ全集 III,, 5』 89 ページ。)

(*6) シェリング自身は、フィヒテ知識学との違いをどのように考えていたのかということですが、端的には次の文言が表していると思います。自然哲学についての諸論文を発表し、主著の一つである『超越論的観念論の体系』をも著した直後に、フィヒテ宛の手紙(1800年11月19日付け))でシェリングが述べたものです:

 「[フィヒテならびにシェリングの] 超越論哲学と [シェリング独自の] 自然哲学の対照(Gegensatz)が、眼目となります。私は貴方に次の点だけは、確言できます:私がこの対照をもちだす理由は、[超越論的観念論に関すると思われている] 観念的活動と、[自然哲学に関すると思われている] 実在的活動を区別するためではなく、それよりは高次なことのためです。・・・
 「[両者を区別するかどうかといった論点については、私は貴方と同じ立場です。すなわち、] 私も貴方と同じく、2つの活動を一つの同じ自我のなかに措定しています。――したがって、この点には両哲学を対照する理由はありません。
 「理由は以下の点にあるのです:まさに前述の自我、すなわち、観念的=実在的であって、もっぱら対象的であるような、またそれゆえにこそ同時に生産的でもあるような自我が、この生産そのものにおいて、自然に他ならないのです。知的直観である自我、すなわち自己意識である自我 [=超越論的観念論を形成する自我] は、ただこの自然のより高次のポテンツ [=段階] なのです」。

(*7) 『幸いなる生への導き』(1806年)の「第5講」を参照。
 しかし、フィヒテが提示した「1. 感覚的世界~5. 学問的世界」は、客観的な存在としての対象ではなく、主観的見方の多様性にすぎない;したがって、それら5つの世界はメタ世界としての資格はないから、ここに登場させるのは失当である――このような非難があるかもしれません。
 すなわち、上記 1 ~5 の世界は、神的な存在が外化して現存したもの Dasein や、あるいはそれが持続する世界となったものなどではなく、そのような一つの世界を主観的に見るさいに生じる、見方の多様性にすぎません(同書、SW版では第5巻、463ページ)。とはいえ、
A . 1 ~ 5 の世界は、たんに私たちの内面的な心情 Gesinnung を表したものではなく、特定の見方によって生じている諸対象 Objekte です(同、468ページ)。私たちの立場から言えば、森羅万象がそのような対象として存在しているわけですから、各世界をメタ世界として扱いえます。
 そもそも単一の世界しか暗黙裡に想定しない立場からは、メタ世界なるものも、主観的な見方の多様性といったことになってしまいます。つまりそれを逆に言えば、「世界の見方の多様性」ということだけでは、メタ世界を否定することにはなりません。
b. 1 ~ 5 の世界は、「神的な存在の現存 Dasein と統一されて永遠に存在しており、[ただ] 一つの意識 [=神的現存] の必然的規定性」(同465ページ)です。したがって、たんに私たちの心次第でどうこうなるというものではありません。こうした客観性からも、私たちは 1~5 の世界をフィヒテのメタ世界として、扱いえると思うのです。

(*8) 『幸いなる生への導き』SW版では第5巻、513-514ページ。

(*9) 同、512ページ。

(*10) 『知識学の概念について』(1794年), SW, Bd. I, S.59.

(*11) シェリング『先験的観念論の体系』、オリジナル版 (1800年)では、90ページ。

(*12) シェリング『自然哲学の体系の最初の構想』(1799年)、シュレーター編全集、第2巻、15ページ。

(*13) 同、5ページ。

(*14) 『超越論的観念論の体系』、1800年の Original A usgabe, VIII-IX ページ。

(*15) シェリング『先験的観念論の体系』第3章「序言」。オリジナル版では、80-81ページ。該当箇所だけの引用では分かりづらいので、「序言」の最初から訳出すると:
 「私たちは自己意識から出発するのであるが、この自己意識は一つの絶対的な活動 [ A kt] である。そしてこの一つの活動とともに、自我自体および自我がもつすべての諸規定が措定されているのみならず、これまでの章での記述から十分明らかなように、自我に対して措定されているもの一般も、措定されている。したがって、理論哲学での私たちの最初の仕事は、この絶対的活動の導出であろう。

 けれどもこの活動の全内容を見出すためには、この活動を区分して個々の諸活動へと、いわば細分化しなければならないといえよう。これら個々の活動は、前述の一つの絶対的総合 [=活動] の媒介的な諸成分(Glieder)となろう。

 全部まとまってある状態のそれら個々の活動から、私たちが継続的に(Sukzessiv)私たちの眼前にいわば生じさせるのは、個々の活動すべてを包括する一つの絶対的総合によって、同時かつ一時に措定されているものである。

 このような導出をする仕方は、以下のとおりである:
 自己意識の活動は、同時にそして全くもって、観念的でもあれば実在的でもある。この活動によって、
・実在的に措定されているものは、直接観念的にも措定されるのであり、
・また観念的に措定されているものは、直接実在的にも措定されるのである。
 自己意識の活動の内での、観念的に措定されたものと、実在的に措定されたものとのこの徹底的な同一性は、ただ継続的に生じるものとして、哲学においては表象される。これは次のように、進行するのである。
 自我の概念から私たちは出発するのであるが、これは「主観-客観」[この "-"は "=" の意味です] の概念である。この概念には、私たちは絶対的自由によって、達することができる。さて私たち哲学徒に対して、前述の活動によって、あるものが自我のうちに客観として措定されている。そこでまだ、主観としては措定されていない。(自我自体に対しては、一つの同じ活動のうちで、実在的に措定されているものは、観念的にも措定されている)。
そこで私たちの探求は、
・私たちに対して客観として自我のうちに措定されているものが、
・私たちに対して主観としても自我のうちに措定されていることになるまで、
続けられねばならない。
 つまり、私たちが持つ客観 [的対象] の意識が、私たち [自身] の意識と、私たちに対しても 一致するまで、続けられねばならないのである。すなわち私たちに対し、自我自体が、私たちが出発した地点に到達するまでである」。

(*16) 『超越論的観念論の体系』、1800年の Original Ausgabe,IX ページ。

(*17) フィヒテにおいては、神と自我の両者が存在において通底はしています。例えば:
「知的存在(die verständigen Wesen)である私たちは、その在るところについて言えば、かの絶対的存在(Sein) [=神] ではありえない。しかしながら、私たち現存(Dasein)の内奥の根底においては、絶対的存在と連関しているのである」。(『幸いなる生への導き』、第4講。SW, Bd. V, S.448)
 けれども、両者が、別のものだという点では、シェリングと同じです。その上、、神は「永遠に自己と同一であって、変化しない」と言われます。(『幸いなる生への導き』の「内容目次 第1講」。SW, Bd. V, S. 575.

(*18) 『世界の名著 43 フィヒテ シェリング』中央公論社(1980年)では、427-428 ページ。Über das Wesen der menschlichen Freiheit, SW, Bd. VII, S. 358 f.
 なお、このような人間・神への観点に加えて、<オオカミが子羊や人間を襲ってもそれは「悪」ではない>、なぜならば・・・、ということを考えれば、おのずとシェリングの『人間の自由の本質』は、理解されようというものです。

(*19) Urfassung der Philosophie der Offenbarung, Felix Meiner Verl A g, 1992, S. 7.

(*20) なおここでの B, C, …は、『精神の現象学』においての「このもの」「物」…に該当することはもちろん、例えば『論理学』での「有」「無」…などにも該当します。といいますのは、論理の領域においては、すべてはまず「有」であり、ついでそのすべては「無」となり、…と展開していくためです。むろん「無」となっても、先行する「有」が否定態として保存されているため、まったく消失してしまうのではありません。

(*21) 「全体者の諸契機は、意識の諸形態である」。(『精神の現象学』緒論(Einleitung)、Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、80ページ)

(*22) K. ローゼンクランツ『ヘーゲル伝』。(Karl Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich Hegel's Leben, Originalausgabe, 1844. S. 201. 中埜肇訳、みすず書房(1991年)では、183ページ)
 なお、ヘーゲルのシェリング批判(ヘーゲル本人の弁では、シェリングの亜流への批判)としては、「すべての牛が黒い夜」(GW, Bd. 9, S. 17)などが書かれている『精神の現象学』「序文」が、ポピュラーです。しかし、これを文字どおりにとるとすれば、シェリング哲学への批判としては不適切です。ヘーゲルから『精神の現象学』を送られたシェリングが、その後彼への手紙で、反論しています:

 「君自身が序文の論争的な部分で述べていることに限っていえば、ぼくがこの論争に係わるためにはあまりにも自分を――正しい自己評価になっている範囲内においてだが――軽んじなければならないだろう。だからこの論争は、君がぼくへの手紙で言っているように(訳注3)、ともあれ [シェリングの思想の] 乱用や [シェリングの] 模倣者に対して向けられたものなのだろう。もっとも序文そのものにおいては、[シェリング本人と乱用・模倣者との] 区別がつけられてはいないが。・・・
 「そこで打ち明けると、君は概念を直観に対置させているが、その意味が今もってぼくには理解できない。概念ということで君が考えられるのは、君とぼくが理念と名づけたもの、それしかないはずだ。この理念の性質(Natur)は、理念がある面では概念であり、別の面では直観であるということだ」。
Meiner 社の哲学文庫版 BRIEFE VON UND A N HEGEL (J. Hoffmeister 編)の 194 ページ。なお、上記の手紙の訳については、「シェリングのヘーゲル宛、最後の手紙(1807年11月2日付)」を、参照下さい)。

 けれどもこの限りでは、シェリングの反論が正しいとはいえ、ヘーゲルの真意を忖度(そんたく)すれば、直観が直接知なのに対し(むろん豊かな内容を持ちえますが)、ヘーゲル的概念は媒介知(自らを媒介する)だと言えます。この意味で直観とヘーゲル的概念は異なる、としなければ、ヘーゲル哲学が成立しないことになります。
(むろん初期のヘーゲルは、シェリング的な観点から、直観と概念の同一性を主張していました。例えば、1801年の『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』では:
「超越論的な知と超越論的な直観は、一つのものであり同一である。[知と直観という] 相異なる表現は、たんに観念的要因の優勢さを、あるいは実在的要因の優勢さを、示しているにすぎない」。
「超越論的な本質が、反省と直観を統一する。超越論的本質は、同時に概念であり、存在である」)。(ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第2巻、42ページ)

 なお、シェリングの同一哲学が「すべての牛が黒い夜」ではないことは――むしろ世上ヘーゲルの思想だとして紹介されるものと、そっくり(!)なことは――、以下の引用文が示すとおりです。少し長くなりますが、1806 年のシェリングの著作『改訂されたフィヒテの説と、自然哲学との真実な関係の説明』の一節です:

「理性に見捨てられた単なる悟性が、自ら自身を超え出ようとし、制限と対立から抜け出ようとするとき、この悟性が達する最高のものは、対立の否定である。すなわち空虚で非創造的な統一である。この統一は、その反対物をたんに神聖ではないもの、神的ではないものとしてしか措定できず、また排斥することしかできない。その反対物を自ら自身のうちに受け入れて、自身と真に融和させる(versöhnen)ことはできないのである。
「したがって、この悟性は統一を措定しながらも、その統一自体と対立との間の矛盾を存続させてしまう。このために悟性は統一自体をも、真に措定はしないのである。ところが理性は、統一であると同様、根源的にまた真に対立でもある。そして理性は、この統一と対立を同じように、また1つのものとしてさえ、把握する事によって、活ける(lebendig)同一性を認識する。対立は存在しなければならないのである。なぜなら、生(Leben)が存在せねばならないからである。というのも対立自体が生であり、統一内での運動だからである。
「とはいえ真の同一性は、対立自体を克服されたものとして、自らのもとに保持している。つまりこの同一性は対立を、対立としてまた同時に統一として、措定するのである。こうして初めて、この同一性は自らの内で活動的な、湧き出、創造する統一なのである」。(Sämtliche Werke, I, Bd. 7, S. 52)

(*23) ただし、このようなフィヒテからヘーゲルへの進展は、思想史的に見ればということであって、現実に『幸いなる生への導き』がヘーゲルに影響を与えたかどうかとは、一応別問題です。とはいえ私見では、現実の影響の可能性もあると思います。この点については、拙稿「『精神の現象学』成立における、フィヒテ「5世界観」の影響の可能性」を参照下さい。

(*24) 『精神の現象学』「序文」(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、23ページ)

(*25) ヘーゲルはこの考えを、アカデミックな哲学シーンに最初に登場したときから、持っていたと思われます。1801年、31才のヘーゲルは、イェナ大学で教える資格をえるために、12条からなる『教授資格討論提題 H A bilit A tionsthesen』を、提出します。その提題第1条が、有名な次のようなものでした:
「1. 矛盾は真理の規則であり、無矛盾は虚偽の規則である」。(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第2巻、533ページ)     
 この引用文中の「真理」や「虚偽」に限定がなく、一般的に述べられている以上、この提題は万物に、つまり個別者にも妥当すると見なすのが自然です。すなわち、万物が矛盾を内包しており、それが真実の姿であると、ヘーゲルは言っているようです。
 しかしこれは当時としては、破天荒な考えでしょうし、危険なものさえ感じます。文字通りに受け取れば、世界全体が何かとてつもなく不安定なものとなり、また「神・真理=矛盾」とすらなります。それが提題中の冒頭に位置するところに、彼の自負・気負いをうかがうべきなのでしょう。

(*26) 「多数の生命 [個別者] が、[互いに] 対置している。これら多数の一つの部分は(この一つの部分そのものがまた、無限に多くのものより成っている。というのもそれは生あるものだから)、その存在を [それらから成りたっているところの無限に多くのものの] ただ統合としてもつのであり、関係のうちでのみ考察される。
「別の部分は・・・その存在をただ前述の部分からの分離によってもつのであり、対置のうちでのみ考察される。そこで前述の部分もまた、その存在をただこの別の部分からの分離によって、規定されるのである」。「1800年の体系断片」、Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第1巻、419ページ。

(*27) 「絶対的な全体性は・・・」ではじまり、編集者によって『体系のための1ページ』と題された草稿中に、次の2段落があります:
「[異なる諸構成要素(Glieder)の] 統一は、[絶対的全体の直観という] 理念のうちにあり、理念自体への関係においてある。そして [理念と] 実在する対立との統一、すなわち、単純なる理念自体のうちで必要とされていないものは、また対立 [する構成要素] 自体のうちでも、措定されてはいないという統一 [が存在する]。
「そこで、関係づけられたものとその関係とが、区別されえるかもしれない。つまり、
α) 対立する2つの構成要素 [=関係づけられたもの] と、
β) この2つの構成要素間の2つの関係との、すなわち、
αα) 1つの関係は、ただ2つの構成要素の統一へと反射し、
 [ββ)] 他の関係は、ただつの構成要素の対置へと反射するような、
2つの関係との、区別である。しかし、まさにこれらの関係は、それら自体が2つの構成要素なのである」。(GW, Bd. 7, S. 348f.)
 なお、この草稿が1804年頃であることについては、G. W. F. Hegel: Jen A er Systementwürfe II (Felix Meiner Verl A g, Philosophische Bibliothek) でのHorstmann 氏の序文 XXIII ページを参照。

(*28) 止揚される個別者が、観念的であることについては、例えば、
・「das Aufgehobene (das Ideele)」(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、113ページ)
・「『有限なもの [=個別者]は観念的である』という命題が、観念論を形成する」(同書、172ページ)
などの記述があります。
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カントを含めない理由は?

 私たちとしては、次のように用語を使い分けたいと思います:
カントの哲学は「批判哲学」;
カントの活躍した時代から、ヘーゲルの時代まで哲学者たちが輩出しますが、それらをまとめて言うときには「ドイツ古典哲学」;
フィヒテ・シェリング・ヘーゲルの哲学は、「ドイツ観念論」。

 フィヒテら3人の哲学は、「① ドイツ観念論とは?」で述べましたようにメタ世界観をとりますから、3項図式に立つカント哲学とはまったく異なります。実際、フィヒテはカント哲学を基礎づけようとして、知識学を著したのであり、カントを発展・詳述しようとしたのではありません。基礎づけるものは、基礎づけられるものとは次元を異にせざるをえません。(*1)
 カントはフィヒテの考え方が分かっていない、いやフィヒテの著作をきちんと読んでさえいないと、シェリングは嘆きました。それに対してフィヒテは、彼はもう老人なのだから、責めてはいけないと諭しています。(*2) 

 ところで簡単な哲学史では、カントの次にはヘーゲルが紹介され、両者が対比されます。フィヒテとシェリングは飛ばされがちです。そしてヘーゲルの重要概念である「矛盾」なども、カントの著作に淵源するかのように説かれます。これでは、ドイツ文化史としてはいいのかもしれませんが、たとえ簡略化されたものにせよ、哲学史としてはおかしいのです。
 たとえば、日本史を教えるのに、室町時代後期の戦乱(戦国時代)から、(安土・桃山時代は30年前後しかなかったという理由で)信長・秀吉をとばして、徳川家康の江戸時代に進んだとしたらどうでしょうか。外国人相手であればそれでもいいのかもしれませんが、日本人に対しては、たとえ小学生であっても、日本史を教えたことにはならないでしょう。
 第三者としてみるとき、ドイツ観念論の3人には哲学的な強い絆があります。また、それぞれが著作をするときには、互いの著作や、それらを読んだ読者が前提となっています(もっとも、フィヒテはヘーゲルをほとんど意識しなかったようですが)。私たちがそれぞれの哲学者を十分に理解しようとするときには、他の2人の理解が不可欠となるのです。

 カント哲学に対する態度は、フィヒテの場合は上述したようなことであり、さらに、カントの精神は継承するが、彼の著作の字句は引き継がない、この点では世間のカント学者と反対であると、彼は考えていました。
 シェリングとヘーゲルは、カントの歴史的意義は最大限に認めており、彼の哲学はとうぜん心得ていますよ、といったポーズのもと、しかし私は新しい決定的にすぐれた哲学を出すんです、というスタンスです(*3)


 第 4 の疑問への注

(*1) フィヒテ自身の言葉では:
「私の体系は、カントの体系と異なるものではない。つまり私の体系は、事柄についての同じ見解を含んでいるが、しかし論じ方 Verf A hren においては、カントの叙述からはまったく独立している」。(『知識学への第1序論』SW版、第1巻、420ページ。) 

(*2) シェリングからフィヒテ宛の 1799-9-12 付手紙、フィヒテからシェリング宛の 1799-9-12 頃および 1799-9-20 付手紙を参照。 
 これらの手紙は、師(カント)と弟子(フィヒテ)間の悲劇の典型を物語っており、涙をさそうものとなっています。
 老カントは、フィヒテの作品に対してだけ冷淡であったというのではなく、若い人の著作一般に対して、直接読むということはあまりしなかったようです(これはよく理解できることですが)。カント哲学を批判したシュルツェの『アイネシデモス』に対するコメントも、「2次的な」知識に基づいてのようです(MEINER 社版『アイネシデモス』(1996年)、M. FrankEinleitung, XVIII ページ)。

(*3) こうした事情を窺わせるものとしては、シェリングがカントの逝去に際して書いた『イマヌエル・カント』(1804)があります。いろいろな意味で興味深いオマージュとなっています。
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カントからフィヒテへの進展の経緯は?

 カントに心酔していたフィヒテが、1794年に自らの哲学「知識学」を形成するまでの、思想的な道筋をこれから検討します。しかし、カントの『純粋理性批判』(1781)から『全知識学の基礎』までの、ドイツ思想界の全体的な状況を説明することは、私の手に余りますし、またここでは必要ないでしょ(*1)
 フィヒテの最初の主著である『全知識学の基礎』(1794年9月)に先だって、同年4月にいわば予告編として出版された『知識学の概念について』には、次のように記されています:
「懐疑論者たち、とくにアイネシデモス [=シュルツェ] や、マイモンのすぐれた著作を読むことによって、筆者は以前から予感していたことを、確信するにいたった。つまり、哲学は最近の鋭敏な人々 [カントとラインホルトを指す(*2)] の尽力をもってしても、なお明証的な学問の段階へとは高まっていないのである。」(*3)
 このフィヒテ(1762-1814)の述懐からは、彼の思想形成の過程で、カント(1724-1804)、ラインホルト(1758-1823)、シュルツェ(1761-1833)、マイモン(1753-1800)が重要な役割を果たしたことがうかがえます。そこで順に見ていきましょう。

(1) カント哲学の非原理性
 フィヒテの人生に方向を与え、青春を救ったともいえるカント哲学でしたが、「なお明証的な学問の段階へとは高まっていない」と、彼が『アイネシデモス』を読む以前から感じていたのは何故なのか、これについてははっきりしません。しかし、カント哲学に対する不満は、なにもフィヒテや少数者だけのものではなく、当時多くの人たちが持っていました。上記のシュルツェに言わせると:
「ドイツ各地の大学では、少なからぬ哲学教師たちが、『純粋理性批判』の主要な諸説が真理かどうか、確信をもてないでいる。それらの教師たちは、『純粋理性批判』を偏見を持たないで注意深く研究しており、・・・その上、<この名著に頑固に敵対している輩は、この著作が前提とした出発点 [=問題意識] も、結論も理解してはいない>と、認めてもいるのだが」(*4)

 ふつう、「カントの哲学では、理論理性と実践理性が分裂していたのを、フィヒテが統一しようとした」などと、紹介されます。でもこれでは、カントの理論理性はそのものとしては、十分であったかのようです。しかしカント哲学の薫陶を受けはしても、若い世代から見れば、それは理論理性自体としても学問的に問題をはらんでいたのです。したがって事態は、もっと深刻でした。
 その不満な理由は各人いろいろあるにしても、最大公約数をとってみれば、カント哲学は結局のところ原理的な基礎付けを欠いている、ということだと思われます。当時、哲学あるいは学問の理想は、ユークリッド幾何学にみられるように、1つあるいは少数の自明の原理から、すべての部門・事柄を包括する内容を導出して、厳密な体系を構成することでした(*5)。(ラインホルトやフィヒテが目指したものも、こうした哲学でした)。(*6)
 ところがよく知られているように、「カントは――後年のシェリングからの引用になりますが――、認識の本質については一般的な探求をすることなく、すぐに個々の認識源泉の列挙へ・・・向かいました。これらの諸源泉を、カントは学問的に導出したのではなく、たんなる経験から採用したのです。彼の列挙の完全性や正しさを保証するような、そうした原理はありませんでした」。(*7)
 また、カント哲学はいわゆる三項図式「客観(物自体)―意識内容(現象)―主観」から成りたっており、存在論的になんら共通性をもたぬ3項を前提にしています。口悪く言えば、対象の側でのわけの分からぬ物自体、主観の側でのこれも不可知な物自体としての心、そして両者の合作とされる表象からできており、これではいかにこれら3項を関連付けるにせよ、どこか無理がでてくるのもいたし方ないといえます。(*8)
  
(2) ラインホルトの雄図
 カントより1、2世代若いラインホルトは、「厳密な学としての哲学の可能性」を求め、「意識」による統一を試みました。これが彼の「根元哲学(Elementar Philosophie)」です。その原理として、有名な意識の命題――意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる――を立てました。 そして彼は、すべての原理となるような究極の「一者(das Eine)」も検討しました。けれども後述するように、シュルツェの批判にさらされることになります。

 ラインホルトの企図は失敗したと言えましょうが、私たちが注目すべきは、彼が「客観-表象(意識内容)-主観」の3項を包括する「意識」の概念を、提出したことです。ふつう「意識」といいますと、表象や主観の作用に関する機能にすぎませんが、ラインホルトの「意識」は、客観や主観の<存在>をも含んでいます。むろん、そのような「意識」とやらを設定することは可能なのか、という疑問は残ります。また彼の「意識」の中身の3項が存在的に分断されているために、それらを包括する「意識」はほとんど用をなしていません。しかしとにもかくにも、そのような包括的なものを提起したところに、彼の歴史的意義があるといえます。
 この「意識」に替えるに「自我」をもってして、想を新たに改訂版を出したのがフィヒテでした。フィヒテのラインホルト宛の手紙(1794年3月1日付)には:
「私の書きました『アイネシデモス』の書評では、・・・私がいかにあなたの研究を尊重しているかということ、また、いかに私があなたのおかげをこうむっているかということ、ならびに、あなたが立派に進まれた道を、私はさらに進まねばならぬと信じていることを、記しておきました」とあります。

 フィヒテの知識学では「自我」が原理となります。「自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する(*9)とフィヒテは述べます。この命題は、なるほど前記の意識の命題「意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる」と似てはいます。しかし、自我と非我の2項は、それを包括する自我が分割されたものであって、前記3項のような存在的な断絶はありません。
 (ところでこのように<カント-ラインホルト-フィヒテ>を通して見ることは、同時代の若干20才のシェリングがすでに行っています)。(*10)

(3) シュルツェからの一撃
 今日ではシュルツェと言えば、ショーペンハウアーの先生であったこと(つまり、この生徒がそのノートに「シュルツェのおバカさん」と書いてしまった愛らしいエピソードですね)、そして『アイネシデモス すなわち、ラインホルト教授によってイェナで展開された、根元哲学の基礎について』を著したことが思い出されるくらいです。しかし、『純粋理性批判』が現れてから11年後に刊行されたこの書物は、当時の思想界にインパクトを与え、とりわけフィヒテを熱狂させました。
  「アイネシデモスはぼくを、かなりの間混乱させたし、ラインホルトを突き倒し、カントを疑わしいものとした。そして、ぼくの全哲学体系を根底から引っくり返してしまった。露天では住めやしないというものだ。いやはや! 再び、立て直さなければならなかった」と、フィヒテは『全知識学の基礎』を著す前年の1973年に、友人宛の手紙に書いています。(*11)

 シュルツェが奉じる懐疑論というのは:
「哲学においては、物自体やその諸特性が存在するか否かについては、また人間の認識力の限界についても、争いの余地なく確かで普遍的に妥当する原理によって、何かが確定されたということはない」というものです。したがって、特に何か懐疑論的理説なり、新しい思想なりを提出するものではありません。(*12)
  だからといって、「シュルツェはラインホルトやカントを批判はしても、自らの代案を出しはしなかった」などと彼を非難するのは、的外れです。『アイネシデモス』の副題は、「ならびに、批判哲学 [=カント哲学] の越権に対する懐疑論の擁護」となっています。天下のカント哲学を向こうにまわして、懐疑論を擁護できたのであれば、一大壮挙と言えます。またシュルツェの批判は、余勢を駆って近代哲学全般におよんでいますが、それが成功して、「哲学においては…何かが確定されたことはない」という彼の主張どおりになれば、これは哲学史における偉業といえましょう。(*13)

 そこで彼は、ラインホルトとカントの哲学を内在的に批判していきますが、その論点は多岐にわたっています。しかし、特に次の2点が重要で、影響も大きかったと思われます。

 ● 哲学の原理と、論理学の諸規則との上下関係
 まずラインホルトから見ていきますと、彼の「意識の原理」は、自らによってしか規定を受けない最高原理であるはずです。しかしシュルツェによれば、「意識の命題は、命題としてまた判断として、全判断の最高原理である矛盾律に――すなわち、考えられるものは矛盾する諸特性を含んではいけないという矛盾律に――、従属している。そして意識の命題は、その形式面やそれが持つ主語と述語の結合に関しては、矛盾律によって規定されるのである。(*14)
 この点についてラインホルト自身は、「むろん意識の命題は、矛盾律の下に位置する。しかし矛盾律は、意識の命題を規定するような原理として、上位に存在するのではない。矛盾律は、意識の命題がそれに矛盾してはいけないものとして、存在するのである(*15)と、説明しています。
 「下に位置」しても「規定はされない」というこの言い方が、またシュルツェの批判を招くのですが、いずれにしても、統一的な哲学原理と論理学の規則との関係如何? という大問題が、シュルツェによって提出されたことになります。

 フィヒテはこの問題を、「知識学」関係の最初の著書である『知識学の概念について』(1794年)で取りあげ、次のように述べます:
「知識学は論理学を基礎づけるのであり、その逆ではない。いかなる論理学の命題といえども、知識学に先だって存在することはできないのである」(*16)
(なるほど、同年にその後出版した『全知識学の基礎』では、まず従来の論理学の規則(A=Aなど)に則り、知識学の展開をしています。しかしこれは、読者の理解や叙述の便利さなどを考えた、方便と見なせるでしょう)。
 ただし、ドイツ観念論にふさわしい新しい論理学の登場は、20年近く後、ヘーゲルの『論理学』(1812年)を待たねばなりませんでした。

 ● 因果律の適用可能性
 カント哲学に対しては、因果性 K A us A lität(原因と結果)のカテゴリーを不当に適用していると、私たちの思いもかけぬ批判を、シュルツェは展開します。カテゴリーは、カント自身が強調するように、ただ経験的な対象・直観にのみ適用されえます。したがって、因果性を想定しえるのも、経験的な対象に対してだけです。
 ところがカント哲学の要ともいうべき、ア・プリオリで必然的な総合判断は、カントによれば、物自体としての心から(心によって)生じます。これはシュルツェから見れば、心が原因となって、必然的な総合判断という結果が生じていることになります。この心はそもそも経験の対象とはなりえませんから、カントの前記の主張にしたがえば、因果性のカテゴリーが不当に適用されたことになり、自己矛盾しているわけです。(*17)
 もちろんこのシュルツェの批判には、さまざまな反論がありえますが、それらに対しシュルツェも辛らつに再批判しています。例えば「必然性は、ヒュームの指摘するように対象の側に見出されるはずはないので、主観の側の心から生じると考える以外にはない」という反論には、「そうとしか考えられないということから、そうであるということは帰結しない。つまり、思惟から存在は導出できない。もしできるのであれば、カントが批判した独断論といったものも、立派に成立してしまうことになる」等々(*18)

 さらにカントによれば、認識の素材である感覚表象は、対象の物自体が認識主観を触発して生じさせますが、このとき対象の物自体(+主観)は原因となっており、表象は結果です。そこで因果律の適用を経験的なものに限るとすれば、表象が物自体(+主観)から生じたと立言することは不可能となります。
 このことを、因果律そのものを認めなかったヒュームにまで遡って一般化すれば:
「ヒュームの、因果関係の概念や法則を使用することへの攻撃は、まことに深刻なものであった。…ロックやライプニッツの時代以来、全哲学は表象の源泉についての研究によって基礎づけられてきたが、このヒュームの攻撃によって、哲学を体系化するための素材が、私たちからはまったく奪われたことになる。
「したがって…認識の発生の仕方や、…表象の外部に存在するはずの何かあるものについて…言明したり決定したりなど、できはしないのである。」(*19)

 かりにカントにしたがって、因果律は経験的対象にだけは適用できるとしたところで、経験内で充足できるのは、個別的科学です。哲学はそもそも、経験が成立するし方や経験の意味を問うものですから、どうしても経験外のものを引合いに出さざるをえず、またそこに哲学の活動の場があります。ということは、哲学においては因果律は使えないということです。つまり、「 A (経験外に存在し、原因となるもの)→ 因果律→ B (経験的対象、表象)」という構図は無理です。
 これではフィヒテならずとも、「混乱させられる」というものでしょう。けれども、八方塞な状況とはいえ、じつは1つの脱出路を用意していた人がいたのでした。それが天才と評される――というか、欧州三界をさまよい、貧困と戦いながら自己の思想を紡ぎだすという、哲学者の古典的イメージにぴったりな――マイモンでした。

(4) マイモンの志向
 ラインホルト宛の手紙(1795年3/4月)においての、フィヒテの次のマイモン評はよく知られています:
「マイモンの才能への私の尊敬は、限りがないものです。私はかたく信じており、また証明する用意もあるのですが、全カント哲学さえも――この哲学が一般に、また貴方によっても、理解されている意味においては――、彼によって根底から覆されたのです。このことすべてを、彼はなしたのですが、だれもそれに気づかず、しかも世間の人は彼を見下すしまつです。これから百年というもの、私たちは [マイモンへのこうした仕打ちによって] ひどい嘲笑を受けることでしょう」。
 このような手紙を受け取った方としては、災難としか言いようがないわけですが、出した方のマイモンへの感謝は、よく伝わってきます。

 1793年の末に「自我」の概念に想到するまでに、フィヒテがマイモンの著作の何を読んだかは、はっきりしないようです。しかし年代と内容面で、おそらく『超越論的哲学についての試論』(1790年)だと思われます。同書には、「受動 leiden」などの語が見え、フィヒテも『全知識学の基礎』(1794年)でこの語を使っていることから、影響を受けたことが窺えます。しかしこの『試論』は、マイモン独自の思想展開であり、残念ながら私にはまだ把握できていません。そこで同書の内容の概略につきましては、この第5節の(*1)に挙げました廣松渉・瀬戸一夫両氏の論文を参観願えたらと思います。
 私も早急に把握に努めますが、今は平凡社の『哲学事典』(1979年)の記述、「マイモンは…カントの物自体説の批判を通じて、意識の能動的一元論の立場を志向した」をもって、お茶を濁したいと思います。

(5) 結 論 
 こうしてフィヒテは、「A → B」ならぬ「A → A」(自我はみずから措定する)の哲学に、たどり着くことになります。
 そしてカント哲学を発展させる、ないしは批判するといったカントへの拘泥は、ラインホルト・マイモン・シュルツェ達をもって終ったと、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルの目には映っていたようです。このことは、後者の3人にはカント哲学を主題とした論考が無いという事情からも、うかがえます。
 フィヒテは、カント哲学が述べていることは結果としては正しいと考え、その内容を改変しようとはしていません。ただ、カント哲学が前提としていることを基礎づけようと、すなわち、原理がもたらす体系的統一性のうちへ置こうとしました。そのことによって一つの新しい世界観が開かれ、ここにドイツ観念論は創始されたのでした。


 第 5 の疑問への注

(*1) カント~フィヒテ時代の多士済々なドイツ思想界を、紹介したものとしては、『講座 ドイツ観念論』第3巻所収の、廣松渉「総説 カントを承けてフィヒテへ」、瀬戸一夫「カントとフィヒテとの間」などがあります。

(*2) フィヒテは私信では、「最近の鋭敏な人々」の実名を出しています:
「『アイネシデモス』は、ここ10年のうちでも注目すべき書物だと思いますが、この本は私がすでにはっきりと予感していたことを、確信させてくれました:カントやラインホルトの著作の後でさえ、哲学はまだ学問だとは言えないのです」。(1793年末のJ. F. Fl A tt 宛の手紙)

(*3) 『知識学の概念について』「序文」、SW 版、29ページ。

(*4) 『アイネシデモス』、オリジナル本(1792年)では、38 ページ。

(*5) マイモンも、1790年に出版した『超越論的哲学についての試論』で、次のように述べています:
「アプリオリな諸原理に基づくような、本来の学問は、ただ2つしかない。すなわち、数学と哲学である。その他の人間の認識対象においては、この2つが含まれている程度に応じて、学問的といえるのである」。(オリジナル版、2 ページ)

(*6) ラインホルトは『哲学者たちのこれまでの誤解を訂正するための論集』(1790年)の第5論文で、「厳密な学としての哲学の可能性」を問題にしており、そうした哲学を建設するために、すべての原理となるような究極の「一者(das Eine)」を求めています。「この第一者は、哲学にとって必須であり、多くの古代哲学者によってぼんやりと予感され、カントの『純粋理性批判』によって暗示され、この論文 [第5論文] によってもっとも明瞭かつ正確に検討されている」。そして、「ゆるぎなく、疑問のよちなく確固とした、全哲学体系」を建設しようとしました。
(ラインホルトからの引用は、『アイネシデモス』からの孫引きです。前記テキストを入手しだい、確認します)。
  またフィヒテも、「ただ、唯一の原則から展開することによってのみ、哲学は [明証的で普遍的に妥当する――筆者挿入] 学問になるのです。こうした原則は存在するのですが、まだ原則としては立てられていない」と考えました(1793年末のJ. F. Fl A tt 宛て書簡)。そして1793年12月の H. Steph A ni 宛ての手紙では、「たぶん二、三年後には、ぼくたちは幾何学のような明証性をもった [フィヒテ自身の] 哲学を、持てると思う」と書いています。
 なによりも「知識学 Wissensch A ftslehre」という用語自体、文字どおりに訳せば「学問論」です。1794年の『知識学の概念について』は、正確には『学問論すなわちいわゆる哲学の、概念について』です。(したがって「知識学」は悪訳であり、少なくともラインホルト以来の時代潮流を分かりにくくさせていると言えます)。
 この「哲学=学問」は、シェリングやヘーゲルにも引きつがれます(「学問は精神の現実性であり、精神が自己の本領において建設されるところの領域である」『精神の現象学』序文、Suhrkamp 版29ページ)。これが破られるのは、教養ある自由な精神、ニーチェ(1844-1900)を待ってなのでしょう。

(*7) 『近世哲学史』(1833/1834年)、SW 版、第 I 部、第 10 巻、79 ページ。
 このような考えを、シェリングは『純粋理性批判』を読んだ当時からもっていたようです。19歳の彼は書くのでした:
 「『純粋理性批判』において、私には最初からまったく疑わしく無理だと思えたのは、一つの原理を――すなわち、すべての個別的な形式の基礎にあるような原・形式そのもののみならず、この原・形式とこれとは独立の個別的諸形式との必然的連関をも、基礎づけるところの原理を――立てることなくして、全哲学の形式を基礎づけようとする [カントの] 試みである。」(『哲学一般の形式の可能性について』1794年、SW 版全集、本巻第 1 巻、87ページ)

(*8) とはいえ、カント哲学はアカデミックな精密さを備えるとともに、近代的常識にもよく合致しています。しかも哲学の各要素を、バランスよく配置しています。したがって、彼の批判哲学に不満はあっても、その不満な個所をいじくると、とたんに全体が崩れ、大怪我をしてしまうことになりかねません。カント哲学がなお今日に至るまで、大枠としては残っているゆえんです。

(*9) 『全知識学の基礎』, SW, Bd. I, S. 110.

(*10) シェリングによれば:
 「カントは哲学および哲学者間の争いを調停しようとして、争点を<いかにして先天的総合判断は可能か?>という問いで表現した。「この問いは、最高度に抽象的に考えるときには、次のことを意味する:『いかにして絶対的自我は自己の外へ出て行き、非-我を自己に端的に対置するのか?』」[これはシェリングが知識学の立場から、カントの問いを解釈しています]。
 「このカントの問いは、最高度に抽象的に考えられないときには、その答えともども誤解せられたに違いなかった。したがって次にやるべきことは、この問いをより高い抽象度において考えることであり、そして問いに対する答えを、確かな仕方で用意することであった。このことを表象能力の理論の著者 [ラインホルト] は、意識の原理の提示によってしとげたのである。この原理において、抽象化は最終的段階にまで進んだのであるが、すべての抽象よりさらに高いもの [=知識学の立場] へ達するには、その前に、この最終的段階に人は立たねばならなかったのである」。(『哲学の原理としての自我について』(1795年)、第5章の注 A nmerkung)

(*11) 1793年12月の H. Steph A ni 宛ての手紙。

(*12) 『アイネシデモス』、オリジナル本(1792年)では、24ページ。
 引用文中の「確定された A usgem A cht worden sei ということはない」という過去の事実判断を、「決められるなどということがない」と、一般的原則のように訳している論文もあります。しかし、それではシュルツェの懐疑論とは違ってきます。シュルツェの立場からすれば、「一般的に」決められるかどうかは、分からないということでしょう。
 つまりシュルツェは、いわば最低限の防御線を築こうとしているのであり、したがって『アイネシデモス』の副題は謙虚にも、「批判哲学の越権に対する懐疑論の擁護」となっている次第です。
 なお、この「越権 A nm A ßung」は、カントへの皮肉です。カントは『純粋理性批判』において、「権利問題」を提起し、「越権」を戒めました(B版、116ページ)。しかし、カント自身が「越権」行為をしているではないかと、シュルツェは言いたいのです。

(*13) その上シュルツェは、先験的総合判断の導出に関して、彼の立場からできる範囲での提案もしています。同書、同本、156-157ページ。

(*14) 同書、オリジナル本で 60 ページ。

(*15) 同書、オリジナル本で 62, 63 ページ。

(*16) 『知識学の概念について』SW版では、第1巻、68 ページ。

(*17) 『アイネシデモス』、オリジナル本で 155 ページ。
 なお、『純粋理性批判』に対する批判は、同書の「ヒュームの懐疑論は、理性批判によって本当に論破されたのか?」の章全体(オリジナル本の130ページ以下)で展開されています。

(*18) 同書、オリジナル版で 174-175 ページを参照。

(*19) 同書、同版、179-180 ページ。
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ドイツ観念論は、疎外論では? また、「主-客」弁証法では?

 ドイツ観念論をいわゆる疎外論(*1)と見なすのは、大きな誤解です。また、いうところの「主-客」弁証法の構図に、なっているのでもありません。このような誤解は、ドイツ観念論の矮小化につながり、
・マルクスの物象化論の登場によって疎外論は克服されたので、ドイツ観念論は用済みであるとか、
・ドイツ観念論は、近代的「主-客」図式の枠内にあるとかいった、
結論になりがちです。

(1) 疎外論ではなく、メタ化運動

 疎外論とは、何らかの精神的な主体が、物質的な対象・客体へと変ずることをいいます。では、
 (i) よく引き合いに出されるヘーゲルの「実体は主体である」を、検討してみましょう。この「実体」ということで念頭に置かれているのは、スピノザの実体ですが、それは「自らのうちに、知の直接性 [即自的な知] ならびに存在の直接性、すなわち知に対する [=知の対象の] 直接性を含んでいる」[強調は原文] (*2)
 つまりもともと「実体」は、知の契機(能知的な主観、精神的な主体)と対象的契機(物質的な客体性も)の両者を含んでいるのです。しかし、この実体は直接的(即自的)なままに留まっているとヘーゲルの目には映っており、そこで主体的運動をすることによって新しい段階へと進展していかねばならないと、彼は主張します。
 スピノザ哲学は汎神論だと言われるように「神=実体=世界」ですから、結局この進展によって、最初の世界が次々と新しい世界へと生成していくことになります。したがってヘーゲル哲学は、「精神的主体」が客体化するような疎外論ではなく、世界のメタ化なのです。

 (ii) 次に、「自我は自己を措定する」というフィヒテのテーゼ――これによって、ドイツ観念論は創始されたのですが――を見てみます。
 この措定する自我は、経験的に知ることのできような現実に定在する自我ではありません。いわゆる超越論的自我です。つまり、「実在性の絶対的な全体が帰属する」ところの自我です(*3)。したがってこの自我を、対象的な物質に対置されて、それによって制限されているような精神的主体だと考えるわけにはいきません。すなわち「両者 [意識と事物] は、自我のうちで、[すなわち] 観念=実在的なもの(dem ideal=realen)にして、実在的かつ観念的なもの(realidealen)のうちで、じかに統一されているのです」(*4)
 簡単に言い切ってしまえば、フィヒテの自我も、ある種の世界全体なのです。

 (iii) 疎外論においては、疎外されるべき本質的な当体が、真実の実在として前提にされます。そしてこの当体は、たとえ疎外がなくとも、存在する実体です。しかしドイツ観念論においてはそのような当体は、精神的な主体に限らず一般に、想定されていません。
 そもそもフィヒテの自我からして、「自我は自らを措定する。そしてこの自らによるこの措定そのものによって、自我は存在する(*5)と言われるように、自我が存在するのは、自己措定の運動をまってなのです(フィヒテの「事行」)。
 フィヒテは、後年の絶対的なもの(das A bsolute)についても:
   「絶対的なものは、ただ 1 つの絶対的な――すなわち、多様性に関してはまったくもってただ 1 つの、単純な、永遠に自らと等しい――外化 [Äußerung] を、持ちえるだけなのです。そしてこれが、まさに絶対的な知です。
 「そして、絶対的なものそれ自体は、存在ではなく、知でもなく、[存在と知] 両者の同一性ないしは無差別でもありません。そうではなく、絶対的なものはまさしく――絶対的なものであり、それ以上のすべての言葉は悪から来るのです」。(*6)
 つまり、ドイツ観念論の創始者フィヒテにあっても、自我・絶対者は、超越論的な意味はおいて実質的には、無でした。それなら、「絶対者(神)は・・・」などと言わなければいいではないか(絶対者を主語に据える必要はない)、実在的な発展過程の総体をもって絶対者とすればよいではないか、と主張したのがヘーゲルでした(*7)

 (iv) したがってドイツ観念論は、ちなみに、一者である神ないし絶対的なものから万物が流出するという、流出論(エマナティオ, Emanation. 新プラトン学派のプロティノスなどが有名)でもありません。ヘーゲルの説明によれば:
 「絶対的なものをもってすべての始原とすべきである、と言えるようにも思われよう。・・・しかし [始原は] まずはたんに即自的なのだから、始原はまだ絶対的なものではないのである。・・・即自的なものは、抽象的で一面的な契機にすぎない。したがって [始原からの] 進行は、流出Überfluss)の類(たぐい)ではない。始原がすでに実際に絶対的なものであるのならば、この進行は流出であろうが。むしろこの進行は、普遍的なものが自らを規定して、対自的に普遍的なもの――これは個別的なもの、主体でもあるのだが――になることなのである。ただ進行が完結することによってのみ、この普遍的なものは絶対的なものである。」(*8)

 (v) なお、ドイツ観念論の著作において、「疎外(Entfremdung)」や同義語の「外化(Äußerung, Entäußerung)」の用語はむろん使われています。例えば:
   a) すでに引用した部分と重なりますが、「私 [フィヒテ] にはもとより明瞭だと思われるのですが、絶対的なものは、絶対的な・・・外化を持ちえるだけなのです。そしてこの外化は、まさしく絶対知です」(*6)
  フィヒテがこのように述べた背景には、ヤコービの『スピノザ書簡』(1785年)で紹介されている、スピノザの思想があったのでしょう:
 「存在 [=実体] のさまざまな外化(Äußerung)のうちのいくつかは、存在の本質から直接流出する。それらは延長ならびに思考の、絶対的で実在的な連続態(Kontinuum)である」(*9)

 ところで、シェリングやヘーゲルは、これらの Äußerung の用法を知っていたと思われます。なるほど、フィヒテのÄußerung はシェリング宛の手紙中に書かれています。しかし、シェリングはフィヒテからの手紙については、イェナ大学での同僚(というより、部下?)であったヘーゲルにも見せ、意見交換などもしていたのではないでしょうか。

  b) ヘーゲルが「外化」「疎外」の語を多用するのは、『精神の現象学』(1807年)ですが、その前にも「イェナ期の体系草稿群 III」(1805-1806年)での使用が見られます(*10)
 
 しかしながら、このように「外化」「疎外」の使用がドイツ観念論に見られるとは言っても、彼らの思想を「疎外論」と規定すべきでないことは、上記 (i) - (iii) で説明したとおりです。

(2) 「主-客」弁証法ではなく、両者の統一態の発展

 ヘーゲル弁証法は、「主-客」図式という近代的世界観の枠内での「主-客」弁証法だと、貶められることがあります。つまり、ヘーゲルは、存在論的に分断された主観と客観を、最初から前提にしており、それに基づいて両者の交渉を論じているというわけです。その例として持ちだされるのが、『精神の現象学』です。
 しかし、『精神の現象学』は、自然的な意識が学問的(哲学的)知へと上昇していく認識の発展を、叙述したものです。したがって一種の認識論なのですから、そこには知る側(主観)と知られる側(客観)が、相対して登場するのは当然です。けれどもこれらは、自立的で分断されたものではなく、もともとは統一態なのです:
 「知が変化することにおいて、意識に対する対象自体もまた、実のところ変わるのである。というのも、現存する知は、本質的に対象についての知であったからである。知とともに、対象もまた別のものになるのだが、それは、対象はその知に本質的に所属していた( A ngehörte)からである」(*11)
 つまり、実在するのは、「主-客」の統一態です。そして、この統一態の対象ないし知の側(契機)にそれぞれ自己矛盾が生じるのは、それらの統一態が自己矛盾をおこすからです。このことによって、統一態の全体が次の段階へと発展(メタ化)していくというのが、『精神の現象学』の構造だと思います。
 
 ところで、ヘーゲル哲学を語る場合には、よく『精神の現象学』が取り上げられます。しかしこの作品は、本来は彼の「学問へと至る道」であって――ある意味ではこれ自体が学問であるにしても――、いわば前座なのです(*12)。真打は『論理学』なのですから、私たちはこれによって自らのヘーゲル観が妥当するかどうかを、検証すべきでしょう。
 そうすると、『論理学』もむろん弁証法的に書かれていますが、それを考察して、ヘーゲル哲学は「主-客」弁証法であるとの結論などは、出てこようはずがありません。むろん正しく解すれば、『精神の現象学』を読むことによってもヘーゲル哲学の正鵠を得ることはできるのでしょう。が、これはなかなかの難事です。


 第 6 の疑問への注

(*1) 「疎外」については、廣松渉氏の以下の著作に多く教わりました:
 ・『疎外概念小史』(廣松渉著作集 第7巻所収、岩波書店、1997年。同氏『ヘーゲルそしてマルクス』にも所収、青土社、1991年)
 ・『マルクス主義の理路』の「第三章 疎外論の論理をめぐる問題構成」(勁草書房、1974年)
 ・『「疎外革命論」の超克に向けて』(廣松渉著作集 第14巻所収)の第一、二、七節。

(*2) ヘーゲル『精神の現象学』の「序文」、アカデミー版全集、第 9 巻、14 ページ。

(*3) 木村素衛訳、岩波文庫版『全知識学の基礎』では、下巻、168 ページ。S. W., I, S. 129.

(*4) 1800-11--15 付の、フィヒテからシェリングへの手紙。(『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』、1856年版では 54 ページ。『アカデミー版フィヒテ全集 III,, 5』 360 ページ。)

(*5) フィヒテ『全知識学の基礎』(1794年)、岩波文庫版では、上巻110ページ。フェリックス・マイナー社の「哲学文庫」版(1970年)では、16ページ。

(*6) フィヒテのシェリング宛の手紙(1802-1-15 付)。(『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』、112 - 113 ページ。1856 年版の Fichtes und Schellings philosophischer Briefwechsel では、124 ページ。)

(*7) 『精神の現象学』の「序文」、ズーアカンプ版のヘーゲル著作集では、第 3 巻、26-27 ページ。アカデミー版全集では、第 9 巻、20-21 ページ。

(*8) ヘーゲル『(大)論理学』、ズーアカンプ版ヘーゲル著作集では第 6 巻 555-556 ページ。

(*9) Über die Lehre des Spinoza (直訳すれば『スピノザの思想について』)、第3版、127ページ。

(*10) Entäußerung は:Jenaer Systementwürfe III, Gesammelte Werke, Bd. 8, S. 281.
 Entfremdung は:ibid., Bd. 8, S. 164.
 この「体系草稿群 III」以前には、哲学的な「外化」と「疎外」の使用はないようです。「体系草稿群」の I と II(1803-1805)の索引(Felix Meiner Verl A g, Philosophische Bibliothek )、および『ズーアカンプ版ヘーゲル著作集』の別巻「索引」で第1巻と第2巻のところを見ても、記載がありません。

(*11) 『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」、アカデミー版全集、第 9 巻、60 ページ。なお、「緒論」の拙訳がありますので、「知が変化すること」で検索してみて下さい。 

(*12) 『精神の現象学』の「緒論」、アカデミー版全集、第 9 巻、61 ページ。なお、「緒論」の拙訳がありますので、「学問へのこの道」で検索してみて下さい。

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弁証法というのは何なの?
   (とくに、ヘーゲルの弁証法については、こちらを。)

(1) 私たちの観点
 通常の論理(いわゆる形式論理学)とは異なる、あるいはそれを否定する弁証法というものが、どうして登場してこなければならなかったのでしょうか。それは、フィヒテが「自我( A )は自らを措定する」といったとき、自同律(同一原理principle of identity(*1)など、論理学の諸原理が破られたことによります。

 彼は上記の命題「A は A を措定する」を、「A = A」という式で表しました。この式は一見すると自同律そのものですが、左側の A は措定する(行為する)自我であり、右側の A は措定された自我(事実として残った自我)です。もとより同じ自我ですから、“=”で結ばれています(自同律)。しかし、まるっきり同一であれば、措定と非措定の区別はなくなり、デカルト以来の自我となり、フィヒテ登場の意味はなくなってしまいます。この2つの A は、区別でもあるというのが、フィヒテの命題「A = A」です。
 しかも、個別的なものが複製されるといったことではありません。 A はすべての実在性をもつ世界全体ですから、話はいろいろと面倒になってきます。 A はつねに自己措定しているので、それら措定されたものを区別するために B, C, . . . とすれば、もとの A は全体であり、B 以下はその部分となります。けれども、B なども世界全体が措定されたものですから、とうぜん全体でもあるわけです。したがって、全体と部分との関係も常識どおりにはなりません。
 さらに、規定性というものは、例えば規定 A は、それ自体として存立しているのではなく、他の規定 B, C, . . . との相互関係において成立しているという了解が、フィヒテをはじめとして 3 人にはあります。ところが通常の論理学で想定されているのは、自立的・自己完結的な規定性です。つまり、 A の存在ないし意味するところのものは、B, C, . . . とはかかわりなく A であると想定されています。
 という次第で、新しい論理学ならびに方法論が、必要となる状況に至っていたといえま(*2)。その1つの定式化が、ヘーゲル弁証法だと思います。したがって弁証法とは、フィヒテ的な「A = A」の世界の論理学、私たちの観点からいえば、メタ世界の論理学ということになります。

(2) これまでの弁証法観
 弁証法とは何か、ということについては各人各様の説明がありまして、まだ定番といいますか、定説はないようです。
 よくある説明は、弁証法の語義であるギリシア語の「対話」あたりから説き起こし、プラトンの対話編を引き合いにだして、まず弁証法的展開をうんぬんすることになります。でもこれでは、対立する 2 人がお互いのいいところを取り入れて、より広い見地から考えてみるというだけのお話です。軽い調子で、「この問題はもっと弁証法的に見ないと」などと言われるときも(えっ、もうそんな風に言う人はいない!?)、こうした意味です。こうしたレベルでは、まわりくどい「弁証法」より、真か偽かの二分法 dichotomy, Dichotomie での一撃必殺が、好ましいと私なども思います。

 そこで、哲学的にはとくにヘーゲル弁証法が問題となります。なんといっても、弁証法を主張し、有名にしたのはヘーゲルですから。彼の「論理学=客観世界の運動法則=認識の発展法則」である弁証法的運動は、矛盾によって生じるとされます。ところが、この矛盾は原理的にどうして起きるのか、という肝心な点がヘーゲルの読者にはよく分かりませんでした。彼がおそらく、うそも方便という感じで持ちだした「飛んでいる矢」の例なども、少しは物理学や数学を勉強したものにとっては、へ理屈・詭弁にしか響きません。
 そもそも、論理学でもあれば、客観的世界と主観的認識の法則でもあるようなしろものが存在するのか、と疑がわれていましたし、現実をみても「正(テーゼ)-反(アンチテーゼ)-合(ジンテーゼ)」の弁証法的運動にならない例は、いっぱいあります。タイムスパンのとり方しだいでは、「正-反-両方ともポシャッた」とか「正-正-正」で押しとおしたの類です。
 (「長期的に見れば・・・」と反論する人もいますが、「長期的には、人はみな死ぬ」というケインズの名言がありますし、数十億年後には太陽系の壊滅、そして銀河系とアンドロメダ星雲との衝突、さらには宇宙の膨張による素粒子レベルでの崩壊などがひかえています。これらを弁証法的に捉えるというのも・・・)

 こうした事情から、ふつうであれば弁証法はあまり注目されることもなく、専門哲学者の関心事で終わってしまうところだったのでしょう。ところが、マルクス主義が「逆立ちしているヘーゲル弁証法を足で立たす」形で批判的継承をしたのみならず、イデオロギー的武器として使ったために、冷戦終結までは注目されることになりました。とはいえ、典型的にはエンゲルスが指摘したような弁証法の 3 法則――「否定の否定は肯定」「対立物の相互浸透」「量と質の相互転化」――は、科学的にはそうだともいえるし、そうでないともいえる大変あいまいなものです(というか、科学はそもそもこうしたことを、問題にはしません)。また哲学的には、「なぜ 3 つであって、それ以外にはありえないのか?」「この 3 つはバラバラに並立したままであるが、より根底的なものはないのか?」といった批判を、こうむることになりました。

 しかし他方では、弁証法の祖形はフィヒテ知識学の「正-反-合」にあるのですから、かりにヘーゲル弁証法は分からなかったとしても、フィヒテなどを研究することによって、弁証法の合理的核心が見出せないかといった探求がなされます。
 またヘーゲルの『論理学』や、弁証法的方法論にもとづいて書かれたとされる、マルクスの『資本論』に触発されて、さまざまな人が、これこそ真の弁証法であるとの説をたてました。ここではそれら諸説にたちいることはできませんが、管見のままに感想を述べれば、それら諸説は弁証法の一面を捉えてはいるものの、全体像を提示してはいないようです。

 よく知られた廣松渉氏のものだけに触れておきますと、氏は事態が進展していく際に、当事者の意識と、それを外部からながめる学知者との意識のくいちがいに、弁証法的発展の原動力を設定しています。このことは、シェリングも彼の方法論として提示していたのですが(*3)、私たちからすれば、なるほど弁証法の重要な1局面の指摘ではあっても、全体像(メタ世界の論理学)にはならないのです。

(3) 誤解による非難
 ときおり耳にする誤解による(というより勘違いによる)弁証法非難に、次のようなものがあります:
 「弁証法は、『自同律』や『矛盾率』などを破棄し、形式論理学を認めないというが、それではいかなる論理も成立するはずがない。すべて論述は形式論理にのっとらねば、狂人のたわごとになってしまう。例えば、『AはBである』と述べた後で、AをCの意味に説明も無く変えて、『AはBではなくCである』とは展開できない」。

 このような批判に対しては:
1) 論理学(これを、私たちは思考や論述の対象にします)と、言語の使用規則(これに則って、私たちは自らの考えを伝えるべく、文章を作成します)を、混同ししている可能性があると、指摘したいと思います。
 なるほど弁証法家は、形式論理学を、それが正しいと信じられているようには認めません。しかし弁証法家といえども、論述するさいには使用する言語の規則(文法やレトリック)に、当然のことながら従います。そうしなければ、自らの意図する言語的意味が生じてはこないし、また他人に伝達することも不可能だからです。したがって、弁証法家の論述する文章が、形式論理学にしたがっているようにみえても、それは使用している言語の規則にしたがっているまでなのです。
 だから前述の非難例に対しては、「『同じ論述のうちでは、一つの言葉が説明も無く別の意味をとってはならない』という言語規則(文法)が、社会的に(暗黙にではあれ)ある以上、弁証法家も当然それに則っています」と、答えるわけです。(*4)

2) 弁証法家が形式論理に反対するのは、ある世界とそのメタ世界との関係が、かかわる場面においてです(そして哲学上の諸問題は、おもにこのような場面で生じるのですが)。したがって同一世界内では、形式論理は妥当します。


 第 7 の疑問への注

(*1) 広辞苑(第5版)によれば:
 「思考原理の一。「 A は A である」の形式で表されるもので、概念は、その思考過程において同一の意味を保持しなければならないということ。」
 私たちとしては、私は思考過程のみならず、客観の側の対象もふくめて同一律を考えています。

(*2) しかしフィヒテ自身は、自同律や矛盾率を真理だと見なしていました(それらは「知識学」によって、基礎付けられねばならないにしても)。「『アイネシデモス』への書評」(1794年)において、シュルツェに対する皮肉として、彼は次のように述べています:
「自同律と矛盾律がすべての哲学の基礎として、あるべきように立てられるときには、望むらくはもう誰も次のように主張しないことを:私たちは将来、矛盾することを可能なものとして考えられるような文化の段階に、達することも可能であろう、と」。(I. H. Fichte 版フィヒテ全集、第1巻、13-14ページ) 

(*3) シェリング『先験的観念論の体系』1800年(Felix Meiner 社、Philosophische Bibliothek 版、2000年、57-58ページ)。(ただし、廣松氏にとっての「当事者の意識」が、シェリングでは「私たち学知者」として記されています)。
 ところでシェリングのこうした観点は、フィヒテの知識学を反映しています。フィヒテによれば:
「知識学においては、大きく異なった2つの精神活動の列がある:哲学者が観察している、[当事者である] 自我の [活動の] 列と、[学知者である] 哲学者の観察 [活動の] 列である。知識学以外の哲学においては・・・思惟のただ1つの列しか、すなわち哲学者の思考の列しか存在しない。」(『知識学への第2序論』1797年、I. H. フィヒテ版全集第1巻454ページ)

(*4) (1) だからといって、次のような言語使用を認めないわけではないのですが、これらは哲学外の問題となってしまいます。
・子供と話すときなど、文法的な規制は希薄で、通じればそれでいい場面が多いですから、1つの語の意味をずらしたり、別の意味で使用する。
・使用言語の文法に半ば従いつつも離反して、固有の意味表現を創出する――これは詩人の仕事ですね。

 (2) 「しかし言語の文法は、形式論理に則ったものではないのか。だから、文法に従うときには、結局のところ形式論理にそうことになるはずだ」との反論が、あるかも知れません。これに対しては:
 たしかに、ネイティブスピーカーにとっては、母国語の文法は、実質的には形式論理に則っていると感じられます。ところがその言語を外国語としている人が、客観的・形式的にみれば、その言語が非論理的だと思われる場合は、多々あります。例えば、二重否定になっているにもかかわらず、たんなる否定の意味になるとかです。日本語のように主語が省略される、いえ省略するという意識すらない――意識されるのは、外国語と比較することによってです――言語は、それこそ論理以前というべきかもしれません。
 したがって、言語の文法が形式論理にのっとっているとは、単純にはいえません。とはいえ、各言語は正常に機能することができ、また、母国語は論理的だと思いえるという事実は、あります――しかし、問題がことここにいたりますと、これは「言語・意味・世界」といった別の大問題となってしまいます。そこでこれ以上は立ち入りませんが、私見では、このような問題の解明にも、弁証法は重要な役を果たすはずです。(そのさい、重要な論点が 2 点あります。世界に意味論的真空は存在しないことと、言語ならびに世界のメタ性です)。

 (3) 「それでは、形式論理学をさらに精密化した記号論理学を根幹にすえて、これに豊富なボキャブラリーを与え、すべての言語をこれに翻訳してしまえばいい。そのときには、文法と形式論理学は一致することになる」との反論に対しては:
 記号論理学は数学であって、はたしてそれが「言語」となりえるのかという問題があります。記号論理学の延長上に理想的な言語が望見できるのであれば、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』から、日常言語へ転回する必要はなかったわけです。私見では、記号論理学をいくら精密化ないしは豊富化しても、意味論的な空隙が残ってしまい、どの言語も持っている「世界すべてをおおいえる(しかし、すべてを表現しえるのではないのですが)」という特性を、獲得できないと思われます。
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ドイツ観念論の問題点は?

(1) まず、誰もが思いつくこととしては、「部分の展開・発展は、どのように全体に反映されるのか」という問題があります。ドイツ観念論では、部分や個別的なものは、全体によって存在を与えられ、規定されます。これは、すぐには悪しき全体主義であるとはいえません。たとえば現代の構造主義言語学の構図(各言葉はそれが占めるところの、言語全体の中での位置に応じて、言語全体から意味を付与される)にも通じるものであり、一応了解することができます。
 しかし、部分がまったく全体によって規定されるのであれば、いくら部分が変化したところで、また新しい経験をしたと思われたところで、それらは全体にとってはすでに織り込みずみのもの、既知のものでしかありません。それらは、全体のうちにすでに内蔵されていたものが、新たに展開しただけとなります。
 歴史的なドイツ観念論は、このような枠組みの中にあると思われます。というのも、ドイツ観念論者にとって究極の全体性はキリスト教の神ですか(*1)、全知全能の神が新しいものを獲得するとか、新しい経験をするということはありえないからです。(ありえると考えると、これは大問題といいますか、枠組みそのものが違ってきますので、完全に異端ないしは別宗教になってしまいます)。

 しかし現代の哲学では、全体は言語であったり、人類社会(の歴史)であったりと、たとえそれが観念的・理念的なものであっても、此岸的に想定されます。したがって、部分の変化・経験が全体へフィードバックされないと、困ってしまいます。
 哲学的に見た場合、部分から全体へフィードバックする構造を確保できないということが、歴史的ドイツ観念論の問題点だと思います。とはいえ、欠陥ではないでしょうが。例えば将棋でいえば、振り飛車は飛車を動かすために、一手余計にかかります。これは問題ではあっても、欠陥だとは誰も言いません。これもまた、一局の将棋なのです。

(2) ドイツ観念論では事物の進展は、A → B → C →・・・→ Y → Z → A → B →・・・と、1 つの系列をたどります。しかし、現代はインターネットに代表されるようにグローバルな時代ですから、過去の他文化の思想も当然視野に入ってきます。すると、華厳宗などでは「重重無尽」の縁起が言われ、多元的な系列の存在観になっています。
 これは、因陀羅網(いんだらもう)などの比喩で説明されます。帝釈天宮を荘厳するために幾重にも張りめぐされた宝網には、一つ一つの結び目に宝珠が付けられています。それぞれの宝珠の上には、他の一切の宝珠の影が映じ、またこの影の一々には他の一切の宝珠が映し出されており、かくして無限の交錯・反映が成立しているとされます。むろんこうした比喩だけでなく、いわゆる十玄六相の教学もあります。

 さらに真言宗となりますと、松風や川のせせらぎなど、森羅万象が真実を語っているとも説くようですから、個物の存在性を他者との関係性に帰するだけでなく、個物の積極的な自己主張の契機も勘案しているようです(実存? 筆者は真言密教には、残念ながらはなはだ不案内です)。
 このように見てくれば、ドイツ観念論の構えはやはり手狭であるとの感が、無きにしもあらずです。

(3) 私見では、ドイツ観念論のみならず仏教諸派の存在観も、世界のメタ化という事態に帰趨します。この事態において肝要なことは:
 (i) 新しく出現するメタ世界は、元の世界の一部から出現するするために、元の世界からメタ世界を見れば、より「抽象的」で「貧しく」なっています。しかし、メタ世界から見れば、その世界は元の世界より「豊か」なものであること(実体的な世界観では、この理由を説明することは不可能です)――禁欲的信仰の世界がアピールしたり、オタクの世界に魅入られたりするのは、こういう理由なのです。

 (ii) メタ世界が出現するときには、元の世界にいわばフィルター(これもまた、元の世界の一部です)が掛けられるのですが、そのフィルターの種類によってメタ世界の内容やそこでの法則が決定すること。

 メタ世界観については拙稿『多世界の生成と構造』で、十数年前にはじめて述べたのでしたが、その後の進展が見られなかったことについては、我ながら慙愧に堪えません。そろそろドイツ観念論からは足を洗い、軸足をそちらに移したいところです。


 第 8 の疑問への注

(*1) 「神からの帰結(Folge)である諸事物は、神の 1 つの自己啓示である」。(『人間の自由の本質について』(1809年)、Sämtliche Werke, hrsg. von K. F. A . Schelling, VII. Band, S. 347)
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