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ヘーゲルの訳
『精神の現象学』の「緒論Einleitung (v. 2.6.5.)

Phänomenologie des Geistes
Einleitung


  目 次

 はじめに (v. 1.0.)
I. テキストについて (v. 1.0.)
II. 凡例 (v. 1.1.)
III. 翻 訳 (v. 1.0.2.)


III. 翻 訳

 <68>哲学においては問題そのものに――すなわち、真に存在するもの(*1)を実際に認識することに――取りかかる前に、あらかじめ認識というものについて了解しておく必要があると考えるのは、自然なことである。この認識は、絶対なものを自分のものとするための道具(
Werkzeug)だと思われている。あるいは、手段(Mittel)だと思われており、これを通して絶対なものを見つけるのである。
 このとき、次のように心配するのも、もっともである:
・認識にはいろいろな種類があって、ある種の認識は他の種類より [絶対なものを認識するという] 最終目的を達成するには、適しているだろう。ということはまた、これらの種類のなかから誤ったものを選択するということも [ありえるのだ]。
・また認識は、範囲をともなった特定の種類の能力だから、その性質と限界についての厳密な規定なくしては、真理の天空にはあらずして誤謬のかたまりをつかむことになってしまう。
 さらにこうした心配は、以下のような確信にまで転化することにもなろう:「そのままにあるものを、認識によって意識にもたらそうとすることのすべてについて、そうした考え方はばかげている。認識と絶対なもの [=そのままにあるもの] の間には、この 2 つを完全に分かつ境界があるのだ」。
というのは、
・認識が絶対的な存在を自分のものとするための道具ならば、この道具を或る事態に適用すると、事態はその事態だけである [=そのままにある] のではなく、むしろ成形や変化をこうむってしまう――このことにすぐ気づくからである。
・あるいは、認識は私たちの活動であるところの道具といったものではなく、いわば受動的な媒体(Medium)であって、それを通して真理の光が私たちに達するのだとしても、やはり私たちは真理をそのまま受けとるのではない。この媒体を通しての、また媒体のうちで存在するような、真理を受けとるのである。
 これら 2 つの場合に私たちが用いた手段は、<69>すぐに使用目的とは反対の結果をもたらす。あるいはむしろ、手段を用いることが、そもそもばかげているのである。
 むろんこうした不都合は、道具の働き方を知ることによって、除去できるようにみえる。というのは、道具の働き方を知ることによって、私たちが道具の介在下で得る絶対なものについての表象のうちで、道具に属する部分を結果 [絶対なものについての全表象] から差し引くことができるからである。そうすれば、真実を純粋に得られるというわけである。
 しかしながら、このような修正は実のところ、私たちをもといた場所に引き戻すだけであろう。成形を受けた事物から道具が与えた成形を取りさると、ふたたびその事物は――ここでは絶対なものだが――、余計なものとなった [道具使用の] 骨折りをする以前と、まったく同じなのである。
 [以上の場合とはちがって、] 絶対なものは道具によっては何も変えられずに、ただ私たちの近くへともたらされるだけだと、想定してみても――例えば、鳥もちの付いた竿で、鳥が引き寄せられるように――、絶対なものがもともとすでに私たちのかたわらにいなければ、またいようと望んでいなければ、おそらく絶対なものはこうした策略をあざ笑うだろう。
 なぜなら、この場合の認識は、策略ということになるだろうから。というのも、認識はいろいろと骨折ることによって、[絶対なものとの] ただ直接的で、したがってたやすい関係を作ることとはまったく別のことを、しているそぶりをするからである。
 また、媒体として考えられている認識を調べることで、光線の屈折の法則が分かるにしても、この屈折を結果 [である対象の視覚像] の中から差し引くというのも、役にたたない。なぜなら、光線の屈折ではなく、光線自体――この光線によって真理は私たちに達する――が認識だからである。そこでこの認識が差し引かれてしまうと、私たちに示されるのは、たんなる純粋な方向、つまり空虚な場所であろう。
 
 誤ることへの心配から、学問に対して不信感がもたれているが――だが学問の方では、そのような疑念はもたずに仕事そのものへと向かって、実際に認識しているのだが――、しかしこのとき、
・なぜ逆に、この不信感に対して不信感がもたれないのか、
・また、この誤まることへの恐れが、すでに誤りそのものではいかと心配されないのか、
理解できない。
 実のところ、誤ることへの恐れはあるものを、しかも少なくない数のものを、真理として前提にしており、それらによって疑念や結果は支持されている。<70>しかしそれらの前提自体が、真理であるかどうか、あらかじめ調べられるべきなのである。
 つまりこの恐れは、認識道具媒体であるという考えを前提にし、また私たち自身とこうした認識との区別も前提にしている。とりわけ、絶対なものが一方の側にあり、他方の側では認識が絶対なものからは分断されてそれだけでありながら、なおも実在的なものであるということを、前提にしている。
 そしてこれと共に、認識は絶対なものの外部にあることで、おそらくはまた真理の外部にもあるのだが、それにもかかわらず、なおこのような認識が本当であることを、前提にしているのである。
 つまり、このような仮定 [前提] によって、誤りに対する恐れと称されているものの正体が、むしろ真理への恐れだということが、露わになっている。

 このような帰結になるのは、絶対なものだけが真実であるということ、すなわち、真実だけが絶対であることからもたらされている。この帰結を次のような区別をもうけることによって、拒否することはできる:
・「学問が望むようには、絶対なものを認識しない認識でも、なお真実でありえる」とか、
・「そもそも認識というものは、なるほど絶対なものを把握することはできなくとも、他の真理に対して適していることは可能である」と。
 しかしながら、やがて分かることだが、このようにあれこれと述べることは、絶対的な真理とその他の真理との区別を、あいまいにしてしまう。それに、絶対なもの、認識等々は、意味をもった言葉であるが、これらの意味をつかむことが、まず最初に問題になるのである。

 絶対なものを捉える道具としての認識、あるいは真理を透かし見る媒体としての認識等々、認識についてのこのような役にも立たぬ考えや決まり文句――こうした事態へと、絶対なものからは分離されている認識という考えや、認識からは分離されている絶対なものという考えは、すべて行きつくのだろうが――、このような考えや決まり文句には、私たちは煩(わずら)わされないで [いいのである。]
 また、学問をすることのできない無能さが、前記の事態を前提にして行う言い逃れについても――この言い逃れは、学問の苦労から免れると同時に、真剣かつ熱心に尽力している振りをするためなのであるが――、煩わされないで [いい。]  
 同様に、これらすべての考えや決まり文句、言い逃れに答えることにも煩わされないで、これらを偶然的で恣意的な<71>考えとして、まったく退けていいだろう。そして、これらと結びついている言葉――たとえば「絶対なもの」、「認識」や、「客観」、「主観」、その他あまたの言葉であるが、それらの意味は広く知られているものとして前提にされている――、こうした言葉の使用は、ごまかしとさえ見なしてもいいだろう。というのは、それらの言葉の意味は広く知られているとか、人々はそれらの理解をもしているという口実によって、むしろ肝心なことを――すなわち、この理解を提供することを――、たんに省こうとするように見えるからである。
 しかしより適切なのは、学問そのものが遠ざけられることになってしまうあのような考えや決まり文句に対して、そもそも注意を払うという労を省くことだろう。というのも、あのようなものは、知の空虚な現象を形成しているが、そうしたものは学問が登場するとすぐに消え去るのだから。
 けれども学問も、登場するとという点では、それ自体がなお 1つの現象である。登場するときには、学問はまだその真の姿に仕上げられても、展開されてもいない。その際に、
・学問が他のものとならんで登場することでもって、学問を現象だと思おうが、
・この他のものである真実でない知を、学問の現象と名づけようが、
それはどうでもいいことである。
 しかし、学問はこの [現象という] 見かけの姿から、開放されねばならない。それができるのは、学問がこの見かけの姿にきちんと向かい合うことによってだけである。というのも学問は、
・真実ではない知を事物の凡庸な見方であるとして、たんに退けたり、
・「学問はそれとはまったく別の認識である」とか、「真実ではない知は、学問にとっては無に等しい」などと、たんに断言したりするわけにはいかないからである。
また学問は、真実ではない知自体のうちにあるより良きものへの予感に、依拠することもできないからである。
 前述の断言においては、学問は自分の存在を、自分の威力だと宣言している。しかし、真実ではない知もまた、自分が存在していることに依拠するのであり、「自分にとっては学問は無に等しい」と断言するのである。一方の空疎な断言は、他方の断言と同じように有効である。
 ましてや学問は、より良き予感などに――つまり、真実ではない認識のうちにあって、まさにそこで学問を指し示しているとかいわれる、より良き予感に――、依拠することはできないのである。というのも一つには、学問はまたしても前述と同様に、存在に依拠するだろうからである。またさらには学問が、<72>
・真実ではない認識のうちにあるような学問に、すなわち学問の存在の悪しきあり方に、
・そして学問の本来的なあり方にではなく、むしろ学問の現象に、
依拠するからである。
 このような理由から、現象する知の叙述が本書でなされねばならないのである。

  さて、この叙述はたんに現象する知を対象とするのだから、この叙述自体は、自由な、自らの固有な形態において運動する学問ではないように見える。この観点からは、むしろこの叙述は、真実の知へと突きすすむ自然な意識がとる道程と、考えることができる。つまり、魂の道程と考えられるが、この魂は自分の一連の諸形態を――すなわち、魂の本性にしたがって設(もう)けられた参詣所(さんけいじょ)(*3)である諸形態を――遍歴する。これは魂が、自分自身を完全に経験して、本来の自分自身についての知に到達することによって、精神へと浄化されるためである。

 自然な意識は、たんに知の観念(*4)であることが、すなわち現実的な知ではないことが明らかとなるであろう。しかし、自然な意識は、かえって自分をそのまま現実的な知だと見なしているので、前述の道程はこの意識にとっては否定的な意味をもつ。そして知の観念の実現は、この意識にはかえって自分自身の喪失である。というのも、道程の途上においてこの意識は、自分が真理であるということを喪失するからである。
 したがってこれは、疑いの道程と見ることができる。あるいより適切には、絶望の道程である。つまり、この道程においては、ふつう「疑う」ということで理解されていることは――すなわち、思いこんでいるあれやこれやの真理に対して動揺することは――起きない。ふつうには動揺の後で、疑いがしかるべくまた消えて、以前の真理へと戻ることになり、その結果、問題は以前のように理解される。けれどもここでの疑いは、出現してくる知が非真理であることの、意識的な洞察なのである。出現してくる知にとっては、じつは現実化はされないたんなる観念が、かえって最も現実的なものであるのだが。
 したがって、このように遂行される懐疑主義 [=疑いの道程] は、
・学問においては<73>権威ある他人の思想に服することはせず、すべてのことを自分で調べ、自らが確信することだけにしたがうという、決意でもないし、
・あるいは、なおいいことは自らすべてを作りだし、自らが行うことのみを真実なものと考えることだという、決意でもない。
真理や学問について真摯な熱意のある人々は、おそらくこうした決意を持つことで、真理や学問への準備万端は整ったと錯覚をおこすのである。
 この道程において意識が通過する一連の意識形態は、むしろ意識自身が学問へと形成されてゆく詳細な歴史である。前述の決意は、決意という単純なやり方でもって、この形成を直接してしまって済んだことだと思っている。しかしこうした思い違いに反して、この道程は実際に遂行するものなのである。
 自らの確信に従うのは、なるほど権威に頼るのよりはましである。しかし、権威による見解から自らの確信による見解に変えても、それで見解の内容が必然的に変わるものではないし、真理が誤謬にとって替わるわけでもない。他人の権威によって思い込みと先入観の体系にはまっているのと、自分の確信からそうであるのとは、たんにうぬぼれの有無によって区別されるだけである。後者の場合には、うぬぼれが伴っているのである。
 これに対して、現象する意識の全範囲を対象にする懐疑主義は、何が真理であるかを調べることに、精神をはじめて熟達させる。それは懐疑主義が、いわゆる自然な表象・思想・考え――これらが自らのものとされようが、他人のものとされようが、それには関係なく――に対する絶望を、実現することによってである。だが、これら表象・思想・考えをまさに調べ始めた [懐疑的] 意識は、これらによってなおも占められており、取りつかれている。そのために実際には、意識はやろうとしていることができないのである。 

 欠けることなくそろった、実在的ではない意識の諸形式が(*5)、[諸形式の] 進行および関連自体の必然性から生じることとなる。このことを理解するために、あらかじめ次のことが一般的に言える: 真実ではない意識を、その非真理性のうちで叙述したものは、たんに否定的な運動だけを表すものではないということである。
 [しかし] 概して自然な意識は、そのような叙述については、否定的運動だという一面的な見方をする。こうした一面性を<74>本質にしているような知は、未完成な意識形態の一つであって、この形態は道程自体の過程に属しており、そこに現れるであろう。つまりこの意識形態は、結果のうちにとにかく純粋な無だけしか見ようとしない懐疑主義であって、この懐疑主義は、「この無は、まさにこの無を生じさせたものの無である」ことを捨象している。
 無がそれを生じさせたものの無として受けとられるときには、無とは実のところ本当のの結果にほかならない。そこで、無自体は画定されたものであり、内容を持っている。無や空虚という捨象されたもので終わる懐疑主義は、この捨象からさらに進むことができず、新しいものが現れはしないかと待ち望んだり、現れるなにか新しいものに期待したりせざるをえないのである。そして、この新しいものを、同じ空虚な深淵(しんえん)の中へと投げ込むことになるのだが。
 これに対し、結果が実際にあるとおりに、すなわち画定された否定として把握されると、すぐに新しい形式が生みだされ、そしてこの否定において [形式の] 移行がなされている。これによって、欠けるところのない諸形態の系列の進行が、おのずと生じるのである。

 進行する系列と同様に進行の目的地も、知に対して必然的に定められている。そこは、知が自らを越えてさらに向こうへと行く必要のもうない所、知が自分自身を見いだす所、そして概念が対象に、対象が概念に一致する所である。したがって、この目的地への進行は止まることがなく、手前の参詣所で満足することはない。
 自然な生のうちに制約されているものは、自分自身では、自分の直接的な存在の外へ越え出ることができない。こうした生は、他のものによって越え出るべく追い立てられる。このように外へと引き裂かれることは、生の死である。しかし、意識はそれ自体で自分自身の概念であり、このことによってそのまま、制約を越えて出ていくことである。そして、この制約は意識に属しているのだから、自分自身を越えて出ていくことなのである。
 意識にとっては個別なものとともに、彼岸が同時に措定されている。たんに空間内での直観であるかのような表現になってしまうが、制約されているものの傍らに措定されているのである。だから意識は、制限つきの満足を台無しにされるという強制力を、自分自身によってこうむるのである。
 この強制力を感じると、真理に対する不安から意識は<75>たじろぐかもしれないし、また失おうとしているものを維持しようとするかもしれない。だがこの不安は、安らぎを見いだすことができない。たとえ不安が、考えることをしない怠惰のうちに居つづけたいと思ったところで、思考が考えないでいることを妨げるし、思考のせわしさが怠惰をじゃまする。あるいはこの不安が、「すべてのものは、その種(しゅ)なりに良い」と断言する感傷主義として、腰をすえようとしても、この断言は理性から同じく強制力をこうむる。というのも理性は、或るものが一定の種であるというまさにそのことでもって、或るものを良くないと見るのである。
 あるいは真理に対する恐れが、ある見かけの背後に、自身と他人から隠れていることもあるだろう。この見かけとは、<真理そのものへのまさに熱い思いが、他の真理を――つまり、自分でえたり、また他人から知ったすべての思想よりつねに利口であるといううぬぼれ、このうぬぼれがもたらす唯一の真理以外の真理を――見つけることを、困難にしている、さらには不可能にしている>というものである。
 このうぬぼれは、すべての真理を無に帰して、自らの内へと戻ることを心得ており、そして自分の思考を好む。この自分の思考は、いつもすべての思想を解消して、いかなる内容であれそれに替えて、たんに空疎な自我を見いだせるのである。このようなうぬぼれがもつ満足は、打っちゃっておくほかはない。というのも、この満足は普遍的なものを避け、たんに独自なものを求めるだけだからである。
 
 [道程の] 進行の仕方や必然性については、これまでさしあたりの概略は話したが、詳述の方法についても、少し述べておいた方がいいだろう。こうした叙述は、学問の現象する知への関係として、また認識の現実性探求および検査として考えられた場合には、何かある前提無しには、つまり、基準となる物差しのようなもの無くしては、なしえないように思われる。なぜなら検査というのは、調べられるものに対して承認されている物差しをあてがい、この2つの一致あるいは不一致を明らかにすることだからである。つまり、調べられているものが正しいかどうかの決定である。
 検査にあたっての物差しは、また学問が物差しの役を果たすとすれば学問もまた、本質的存在Wesen)、つまり自体的なものdas an sich)のことだと想定されている。しかし、学問がはじめて登場するここでは、学問であれその他何であれ、それらは本質的存在や自体的なものとしては証明されていない。だが、そのようなものが無くては、検査はできないように見える。

 この矛盾とまたその解消が、より明瞭になるのは、とりわけ知と真理の抽象的な諸規定に――それらが意識に現れるがままに――、注意を向けるときである。すなわち、意識はあるものを自らとは区別し、それと同時にこのあるものに関係している(*8)。つまり、ふつう言われるように、あるものが意識に対してある。
 そして、この関係の特定の側面が、すなわち、あるものの意識に対する存在の側面が、知である。この他のもの [=意識] に対する存在から、私たちは自体的存在das an sich Sein)を区別する。知に関係づけられるものは、また知からは区別され、この関係の外部においても存在するものとして措定される。この自体的なものという側面が、真理だと言われる。
 これらの規定がさらにどうなっているのかについては、ここでは私たちに関わりがない。というのも、現象する知が私たちの対象であることによって、対象の諸規定はまずは、現われるがままに受けとられるのであるから。そして、諸規定は [このように] 把握されたように、やはり現れるのである。

 さて、私たちが知が真理かどうかを検討するときには、何が自体的なものとして存在するのかということを、検討しているように見える。けれども、この検討において存在しているのは私たちの対象であって、私たちに対するものが存在するのである。そこで、生じてくるもののそれ自体は、むしろこの生じるものの私たちに対する存在であろう。私たちがこの生じるものの本質的存在と主張するものは、むしろ生じるものの真理ではなくして、たんに生じるものについての私たちの知であろう。
 本質的存在すなわち物差しは、私たちに帰属している。そこでこれと比較されるべきものは――つまり、この比較によって正しいかどうかを決定されるべきものは――、必ずしもこの物差しを承認しなくてもよいかのようである。

 しかし、私たちが検査している対象の性質は、このような [物差しと比較されるものとの] 分離を、すなわち見せかけの分離や前提を、免れているのである。意識は、意識が持つ物差しを自らにさし出すのであって、物差しによる検査とは、意識の自分自身との比較であろう。なぜなら、先になされた [物差しと比較されるものの] 区別は、意識に属するのだから。
 意識のうちでは、あるものが、ある他のものに対して存在する。つまり、一般に意識は、知の契機という規定性を自らのもとに持つ。同時に意識にとってこの他のものは、意識に対して存在するのみならず、この [意識への] 関係の外部でも、すなわちそれ自体としてan sich)も存在している。これは、真理という契機である。したがって、意識が自らの内部において「それ自体」と、すなわち真なるものと解釈するものを、私たちは物差しとする。そして、意識自身がこの物差しを、真なるものについての自分の知を計るときに持ちだすのである。
 概念と名づけ、本質的存在すなわち真なるものを、存在するもの(das Seiende)すなわち対象と名づけるとすれば、概念が対象に相応するかどうかを眺(なが)めるのが、検査ということになる。しかし、本質的存在対象それ自体を概念と名づけ、対象ということで、あるものの他のものに対するあり方としての対象を意味するとすれば、検査とは対象がその概念に相応するかどうかを眺めることである。
 これら2つのことが同じであるのは、見やすいところである。が、ここで重要なのは、私たちの検討すべてにおいて、以下のことをしっかりと心にとめておくことである:
概念対象、あるいは他のものに対する存在自体的な存在という2つの契機を、検査する知そのものに属させること。
・そのことによって、私たちが物差しを持ちだしたり、検討にさいして私たちの思い付きや考えを適用するといった必要をなくす。
 私たちの思い付きや考えを省くことによって、私たちは事態を本来的なあり方でan und für sich selbst)、考察することになるのである。

 そして、概念と対象、あるいは物差しと検査されるものが、意識自体の内部に存在することから、私たちがなにか追加することが余計であるばかりでなく、これら 2 つのものの比較や本来の検査も、私たちはしなくていいのである。そこで、意識が自らを調べることになり、この点からも私たちに残されているのは、ただたんに眺めることだけである。
 というのも、意識というのは一面では対象の意識でありながら、他面では自ら自身の意識だからである。すなわち、自らにとっての真なるものの意識であり、また、自らが真なるものについて持つ知の意識である。対象と知の 2 つが、同じもの [=意識] に対していることで、この同じ意識自体が 2 つの比較をする。対象についての意識の知が、対象と相応するかどうかということが、同じ意識に対して生じているのである。
 なるほど対象は意識に対し、たんに意識が対象を知るように存在するだけのようである。意識はいわば対象の背後にまわって、対象をそれ自体として――意識に対して存在するようにではなく――洞察することはできないようにみえる。したがって、対象において意識の知を検査することも、できないようにみえる。しかしながら、意識がそもそも対象を知るということ、まさしくそのことのうちに、すでに区別が現存しているのである。つまり、意識にとっては、あるもの(etwas)が自体的なものであり、知すなわち対象の意識に対する存在は、別の契機であるという区別だが、検査はこの現存する区別にもとづく。
この比較において両者が相応しなければ、意識はその知を対象に合うように、変えねばならないかにみえる。しかし、知が変化することにおいて、意識に対する対象自体もまた、実のところ変わるのである。というのも、現存する知は、本質的に対象についての知であったからである。知とともに、対象もまた別のものになるのだが、それは、対象はその知に本質的に所属していた(angehörte)からである。
 こうして意識に対し、
・以前の意識にとっては、自体的なものdas an sich)だったものが、そうではないこと、
・すなわち、それはただ意識に対して自体的なものだったということが、
生じる。
 したがって、意識が対象において、自分のもつ知が対象とは相応しないことを見出すことによって、対象自体も維持されないのである。すなわち、検査において物差しをあてがわれるものが存続しないときには、物差しは変化する。そして検査は、知の検査であるばかりでなく、物差しの検査でもある。

 こうした弁証法的運動を、意識は自らのもとで、[つまり] 自らの知においてと同様、自らの対象においても行うのだが――この運動から新しい真の対象が、意識に対し生みだされるかぎり――、この運動は要するに経験と呼ばれるものである。この [経験という] 点に関しては、前述の [運動] 過程におけるある契機を、より立ち入って論じておかねばならない。このことによって、以下の [精神の現象学の] 叙述の学問的側面に、新しい光が投じられることになろう。
 意識は何かあるものを知るが、この対象が本質的存在、つまり自体的なものである。そしてこの対象は意識に対しても、自体的なものである。このことによって、この真なるもの [=自体的なもの] の両義性が生じる。今や意識は2つの対象を持っていることになる。一方は最初の自体的なものであり、他方は、この自体的なものの意識に対する存在である。後者の他方の対象は、まずは意識の自分自身のうちでのたんなる反省であるようにみえる。つまり、対象の [じかの] 表象ではなく、前者の一方の対象についての、たんなる意識の知という表象のようにみえる。
 しかしながら先ほど示したように、前者の一方の対象は、意識に対して変化するのである。この対象は自体的なものであることをやめ、意識にとって、たんに意識に対して自体的なものになる。かくして、自体的なものの意識に対する存在が、真なるものである。つまり、この意識に対する存在が、本質的存在であり、すなわち意識の対象である。この新しい対象は、最初の対象が無に帰したことを含んでおり、最初の対象についてなされた経験なのである。

 この経験の過程の叙述においては、この経験と、ふつう経験ということで理解されていることとが一致しないような契機が存在する。というのは、最初の対象とその知から、別の対象――この対象のもとで、経験はなされたと言われるのだが――への移行については、次のように述べておいた: 最初の対象についての知が、すなわち、最初の自体的なものの意識に対するものが(das für das Bewusstsein des ersten an sich)、次の対象そのものになるのだ、と。これに対して、ふつう私たちが最初に持っていた概念が、真理ではないという経験がなされるのは、私たちが偶然何かのきっかけで出会ったようなある別の対象においてである。その結果として一般的には、自体的な(an und für sich)もののたんに純粋な理解Auffassung)だけが、私たちに属すことになる。
 しかし、前述した [私の] 見解では、新しい対象は意識自体の改心Umkehrung)によって生成したものとして現れる。事態(Sache)のこのような考察は、私たちが追加したものであるが、これによって意識の経験の系列は学問的進展へと高まるのである。だが、この追加は、私たちが考察している意識にとっては、存在しないのだが。
  実のところこうしたことは、前に述べた本書の叙述と懐疑論の関係についての事情と、同じである。すなわち、真ならざる知のもとでそのつど生じる結果は、空虚な無になってしまうのではなく、その無が生じてきたところの無として、ぜひとも把握されねばならないということである。そのような結果は、真なるものについての先行する知が持っていたものを、含んでいるのである。
 こうした事情はここでは、次のように現れる:
・最初には対象として現象したものが、意識にとって対象についての知になり下がったり、
自体的なものが、自体的なものの意識に対する存在になったりすることで、
この自体的なものの意識に対する存在が、新しい対象なのである。このことによって、意識の新しい形態も登場するが、この新しい形態にとっては先行する形態のときとは違うものが、本質的な存在である。
 こうした事情が、意識形態の連なり(Folge(*6)の全体を、必然的なしかたで導く。ただ、この必然性自体は、つまり新しい対象の発生は――意識に対し新しい対象が現れるにしても、それがどのように起きるかは、意識には分からないのだが――、私たちに対しいわば意識の背後で生起するのである。
 このことによって意識の運動には、自体的なものの契機が、すなわち私たちに対する存在という契機が介在してくるのだが、この契機はまさしく経験のさ中にいる意識には、表れてはこない。しかし、私たちに対して発生してくるものの内容は、意識に対しても存在し、私たちはただ発生するものの形式を、すなわち純粋な発生 [仕方] を理解するだけである。この発生したものは、意識に対しては対象として存在するが、私たちに対しては同時に運動であり生成として存在する。

 この [運動・生成の] 必然性によって、学問へのこの道自体がすでに学問であり、かくしてその内容からいえば、意識の経験の学問なのである。

 意識が自らについて行う経験は、この経験の概念からいえば、意識のうちで意識の全体系を、すなわち精神の真理の全領域を、包含することに他ならない。その結果、経験がもつ諸契機は、抽象的で純粋な契機としてではなく、各契機に固有の規定性において表れる。これらの契機は、各々が意識に対して存在するように、すなわち意識自体が諸契機との関係のうちで登場するように、表れるのである。このことにより、[経験] 全体が有する諸契機は、意識の諸形態である。
 意識は、自らの真の存在(Existenz)へと進み続けることで、[それまでの] 見かけを――すなわち、異物としてたんに意識に対して存在するところの余所よそしいものに、取りつかれた見かけを――脱ぎすてる地点に到達する。そこでは、現象が本質的存在に等しくなり、このことによって意識についての叙述は、精神本来の学問であるまさにこの地点と一致する(*7)。そしてついに、意識が自らの本質を理解することで、絶対的な知の性質(Natur)そのものを、意識は示すことになるのである。

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(*1) 「真に存在するもの(was in Wahrheit ist)」は、以下で登場する「絶対なもの(das Absolute)」、「そのままに(an sich)あるもの」、「絶対的な存在(das absolute Wesen)」、「真理(das Wahre)」などと同じ意味です。

(*3) 「参詣所」の原文は、Stationen

(*4) この「観念」の原文は、Begriff

(*5) 形式(Form)も形態(Gestalt)も、意味は同じです。

(*6) 系列(Reihe)と同じ意味です。

(*7) ここの原文は、文法的におかしいようで、文の構造ならびに意味がはっきりしません。少し前の文から引用すると:
 . . . wird es [= das Bewusstsein] einen Punkt erreichen, . . . wo die Erscheinung dem Wesen gleich wird, seine [= des Bewusstseins] Darstellung hiemit mit eben diesem Punkte der eigentlichen Wissenschaft des Geistes zusammenfällt, . . .

 問題は、seine Darstellung 以下ですが、
(1) 動詞 zusammenfällt が後置なのは、関係副詞 wo で導かれた副文だからです。Wo の先行詞は einen Punkt です。この Punkt は、eben diesem Punkte Punkt と同じ意味(「地点」)を持っていると思うのですが、そうすると wo(地点)を説明する副文の中に、また「地点」が登場することなってしまいます。
(2) 自動詞 zusammenfällt(一致する) は何に一致するのかということですが、
a) 拙訳では mit 以下の diesem Punkte にとっています。これは、辞書に「zusammenfallen mit 3格」の用例があるためです。この場合、der eigentlichen Wissenschaft は 2 格となり、前の diesem Punkte を修飾して「本来の学問であるこの地点」となります。
b) der eigentlichen Wissenschaft を 3 格にとり、これと一致するとも考えられます。
・しかし辞書に 3 格との一致用例は載っていないことと、
mit eben diesem Punktemit がしっくりこないことが(auf であればいいのですが)、
問題となります。

(*8) このような「区別し、関係する」という発想は、ラインホルトの意識の命題が広めたようです:
 「意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる。」(『論集』、1790 年、§ 1)


  はじめに

 『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」は、ヘーゲルが彼の認識観を述べた箇所として有名です。しかし、全体的によく分からないという声もありますので、訳出してみました。なお、諸大家の訳とは異なり、どうして拙訳のようにしたのか、ということにつきましては、ここをご覧下さい。

 なお、この「緒論」での認識論は、けっきょく唯心論になり下がっており、客観的対象を真に認識する構造にはなっていない、との批判が昔からあります。なるほどふつうに読めば、あるいは近代的三項図式を暗黙のうちに前提すれば、そうとしか言えません。しかし、「主観=客観」の「自我」に立脚したフィヒテの知識学、それを受けてのシェリングの『超越論的観念論の体系』、これらを通過し受容した目で読めば、俄然興味深いものとなるはずです。
 何度も言うようですが、信玄から家康を部分的には理解することも可能でしょうが、やはり信長と秀吉をとばすのはムチャです。同様に、カントから直接ヘーゲルへ行くことはできず、フィヒテとシェリングの理解が必須となります。そして丁寧(ていねい)に見ようとするときには、例えば楽市・楽座にしても信長の前に先駆的諸大名がいたように、フィヒテの前にもラインホルトやマイモンなどが存在しており、彼らの所説を確認する必要があります。
 ヘーゲルに対しても、速断に陥ることなく、哲学史を念頭においての評価をお願いする次第です。

 なお、『精神の現象学』の「序文(Vorrede, 序論)」の釈については、こちらをご覧くださればと思います。


I. テキストについて

 『精神の現象学』原文テキストとしては、次の2つが入手しやすく、読みやすいです。
(1) Meiner 社の Philosophische Bibliothek 版(BAND 414)
 ・アカデミー版のヘーゲル全集(Gesammelte Werke)、第 9 巻 に基づいており、テキスト・クリティークの面で安心です。
 ・単語のつづりや句読法は、現代表記と異なる場合があり、初心者をまごつかせます。
 ・『精神の現象学』成立の事情に関する編集者の序文や、テキストに対する注も豊富です。『精神の現象学』を研究するというのであれば、必要な版です。
 ・しかし、人命索引はあっても、事行索引がないのが困るところです。

(2) Suhrkamp 社のヘーゲル著作集、第3巻
 ・事行索引を利用するには、著作集の別巻を別途購入する必要がありますが、買っておきたいところです。
 ・現代表記(ただし、新正書法以前)になっているので、まごつかなくて済みます。



II. 凡 例

・ [  ] 内の挿入は、訳者によるものです。
・ < >内の数字は、Suhrkamp 社のヘーゲル著作集、第3巻での、ページ数を表します。たとえば<68>は、大よそこの位置から 68 ページが始まることを示します。

・原典で、改行して段落分けをしている箇所は、訳でも段落分けをし、段落間には一行空白を設けています。

・原典での段落分けを訳でも踏襲すると、とくにモニター画面では大変読みづらくなります。そこで、原典では文章が続いている箇所でも、訳では改行して段落分けをほどこしています。しかし、一行の空白は設けていません。
 したがって、訳でのそのような段落分けは、訳者の解釈(その箇所で意味が区切れるという)を伴っています。

・前記 Meiner 社の
Philosophische Bibliothek 版で、隔字体になっている箇所(前記 Suhrkamp 社版ではイタリック体)は、拙訳では太字にしています。

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(完訳版初出: 2012.3.4.)
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