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ヘーゲルの訳
『精神の現象学』の「緒論Einleitung (v. 2.5.)

Phänomenologie des Geistes
Einleitung


  目 次

 はじめに
I. テキストについて
II. 凡例
III. 翻 訳


  はじめに

 『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」は、ヘーゲルが彼の認識観を述べた箇所として有名です。しかし、全体的によく分からないという声もありますので、訳出してみました。なお、諸大家の訳とは異なり、どうして拙訳のようにしたのか、ということにつきましては、ここをご覧下さい。

 なお、この「緒論」での認識論は、けっきょく唯心論になり下がっており、客観的対象を真に認識する構造にはなっていない、との批判が昔からあります。なるほどふつうに読めば、あるいは近代的三項図式を暗黙のうちに前提すれば、そうとしか言えません。しかし、「主観=客観」に立脚したフィヒテの知識学、それを受けてのシェリングの絶対的観念論、これらを通過し受容した目で読めば、俄然興味深いものとなるはずです。
 何度も言うようですが、信玄から家康を部分的には理解することも可能でしょうが、やはり信長と秀吉をとばすのはムチャです。同様に、カントから直接ヘーゲルへ行くことはできず、フィヒテとシェリングの理解が必須となります。そして丁寧(ていねい)に見ようとするときには、例えば楽市・楽座にしても信長の前に先駆的諸大名がいたように、フィヒテの前にもラインホルトやマイモンなどが存在し、彼らの所説を確認する必要があります。
 ヘーゲルに対しても、速断に陥ることなく、哲学史を念頭においての評価をお願いする次第です。

 なお、『精神の現象学』の「序文(Vorrede, 序論)」の原文解釈については、こちらをご覧くださればと思います。


I. テキストについて

 『精神の現象学』原文テキストとしては、次の2つが有力です。
(1) Meiner 社の Philosophische Bibliothek 版(BAND 414)
 ・アカデミー版のヘーゲル全集(Gesammelte Werke)、第 9 巻 に基づいており、テキスト・クリティークの面で安心です。
 ・単語のつづりや句読法は、現代表記と異なる場合があり、初心者をまごつかせます。
 ・『精神の現象学』成立の事情に関する編集者の序文や、テキストに対する注も豊富です。『精神の現象学』を研究するというのであれば、必要な版です。
 ・しかし、人命索引はあっても、事行索引がないのが困るところです。

(2) Suhrkamp 社のヘーゲル著作集、第3巻
 ・事行索引を利用するには、著作集の別巻を別途購入する必要がありますが、買っておきたいところです。
 ・現代表記(ただし、新正書法以前)になっているので、まごつかなくて済みます。



II. 凡 例

 ・ [  ] 内の挿入は、訳者によるものです。
 ・原典で、改行して段落分けをしている箇所は、訳でも段落分けをし、段落間には一行空白を設けています。
 ・原典での段落分けを訳でも踏襲すると、とくにモニター画面では大変読みづらくなります。そこで、原典では文章が続いている箇所でも、訳では改行して段落分けをほどこしています。しかし、一行の空白は設けていません。
 したがって、訳でのそのような段落分けは、訳者の解釈(その箇所で意味が区切れるという)を伴っています。

 ・前記 Meiner 社の
Philosophische Bibliothek 版で、隔字体になっている箇所(前記 Suhrkamp 社版ではイタリック体)は、拙訳では太字にしています。


III. 翻 訳

 哲学においては課題そのものに――すなわち、真に存在するもの(訳注1)を実際に認識することに――取りかかる前に、あらかじめ認識というものについて了解しておく必要があると思うのは、自然なことである。ここでの認識は、絶対的なものを我がものとするための道具(
Werkzeug)として、あるいは絶対的なものを透かし見るための媒介物(Mittel(訳注2)として考えられている。
 このとき、次のような不安に襲われるのももっともであろう:
・認識にはいろいろな種類があって、ある種の認識は他のものより [絶対的なものを認識するという] 最終目的を達成するには、適しているだろうから、誤った認識を選択してしまうと、真理の天空にはあらずして誤謬の霧中に迷うことになってしまうだろう。
・あるいはまた、認識は特定の決まった範囲内での能力だから、その性質と限界についての規定を知らずしては、これも誤謬のうちに迷うことになろう。
 さらにこうした不安は、以下のような確信にまで転化することとなる:「自体的なもの(
An-sich, ありのままのもの)を認識によって意識にもたらそうという企てすべては、その考え自体がばかげたものである。認識と絶対的なものの間には、この 2 つを完全に分かつ境界があるのだ」。
というのも、
・認識が絶対的存在を我がものとするための道具ならば、この道具を課題に適用すると、事態はそのもののあり方ではなくなり、むしろ変容や変化をこうむってしまう――このことにすぐ気づくからである。
・あるいは、認識は私たちが作動させる道具ではなく、それを通して真理の光が私たちに達するような、いわば受動的な媒体(
Medium)であるとしても、やはり私たちは真理をそれ自体として受けとるのではなく、この媒体をとおして、媒体のうちで受けとるのである。
 これら 2 つの場合には、媒介物 [道具と媒体] が用いられているが、その使用はすぐに使用目的とは反対の結果をもたらす。すなわち、むしろ媒介物を用いること自体が、ばかげているのである。
 むろん、こうした不都合は道具の働き方を知ることによって、除去できるように見える。というのは、働き方を知れば、私たちが道具の介在によって受けとる絶対的なものの表象において、道具に帰属する部分を [認識] 結果から差し引くことができのであって、そうすれば真実を純粋に受けとれるからである。
 しかしながら、このような修正は実のところ、私たちをもといた場所に引き戻すだけであろう。変容を受けた物から道具が与えた変容を取りさると、ふたたびその物は――ここでは絶対的なものだが――、余計なものとなった [道具使用の] 苦労をする以前のものなのである。
 「いや、絶対的なものは道具によって、何も変えられることなく、たんに私たちの近くへともたらされるだけである」というのであれば――例えば、鳥もちの付いた竿で鳥が引き寄せられるように――、この絶対的なものがもともとすでに私たちの傍にいない限り、またいようとしない限り、絶対的なものはこうした [鳥もち竿の] 策略をあざ笑うだろう。(訳注3)
 というのは、この場合の認識は、策略ということになるだろうから。なぜなら認識は、ただ直接的な、したがってたやすい [絶対的なものとの] 関係をつくりだす振りをするのだが、それは、それとまったく違うことをいろいろしようと努めることによってなのだから。
 また、媒体として考えられている認識を調べることで、光の屈折の法則が分かればこの屈折を結果から差し引くというのも、役にはたたない。なぜなら、認識は光の屈折なのではなく、光自体――これによって真理は私たちに達する――だからである。そこでこの認識が差し引かれてしまうと、私たちに対し生じるのは、たんなる純粋な方向性、あるいは空虚な場所であろう。
 
  誤ることへの不安から、学問に対して不信感がもたれているのだが――この学問の方では、誤るなどという疑念はもたずに仕事自体へと向かい、実際に認識しているのである――、しかし、
・なぜ逆に、この不信感に対して不信感がもたれないのか、
・また、誤まることへの恐れが、すでに誤りそのものではいかと心配されないのか、
そうしたことは見て取れない。
 実のところこの恐れは、あるものを、しかも多くのものを真理として前提にしているし、この恐れのもつ疑念や下す結論は、それらの前提に基づいている。しかしそれらの前提こそ、真理であるかどうか、あらかじめ調べられるべきである。
 つまりこの恐れは、認識道具媒体であるという考えを前提にし、また私たち自身とこうした認識との区別をも前提にしている。とりわけ、
・絶対的なものが一方の側にあり、他方の側では認識が絶対的なものからは分断されてそれだけでありながら、なおも実在的なものであるということを前提にしている。そしてこのことによって、
・認識は絶対的なものの外部にあることにより、おそらくは真理の外部にあるのだろうが、なおこのような認識が本当であるということを、
前提にしているのである。
 そしてこうしたことが仮定されていることで、誤りに対する恐れと称されているものは、むしろ真理への恐れだという、その正体が露わになっている。

 [私ヘーゲルの] このような結論は、絶対的なものだけが真実であるということ、すなわち、真なるものだけが絶対的であるということから出ている。区別をもうけることによって、この結論を拒否することはできる。つまり、
・「学問が望むようには、絶対的なものを認識しない認識でも、なお真実でありえる」とか、
・「要するに認識は、絶対的なものを把握することができなくとも、他の真理は把握できるのである」と、
区別立てすることで、拒否はできる。
 しかし、やがて分かることだが、
・[区別立ての] あれこれの無益な議論は、絶対的に真なるものとそれ以外の真なるものとの区別を、あいまいにしてしまうし、
・絶対的なもの、認識等々は、まずその意味の究明が問題となる言葉なのである。

 絶対的なものを捉える道具としての認識、あるいは、真理を透かし見る媒体としての認識、等々――絶対的なものから分断された認識や、認識から分断された絶対的なものについての考えすべては、こうしたものに行きつくのだろうが――、こうした認識についての役にも立たぬ考えや決まり文句については、私たちは煩わされることなく、偶然的で恣意的なものとして完全に退けていいだろう。
 同様に、学問をすることのできない無能さが、前述の事態を前提にして行う言い逃れについても――つまり、学問の苦労から免れるとともに、まじめかつ熱心に尽力している振りをするための言い逃れについても――、また同じくこうしたものすべてに対しての応答についても、私たちは煩わされることなく、退けていいだろう。
  そして、あのような考えや言い逃れに使われる言葉――「絶対的なもの」、「認識」や、「客観的なもの」、「主観的なもの」、その他あまたの言葉――の意味は、広く知られているものとして前提にされているが、こうした言葉の使用は、ごまかしとさえ見なされていいだろう。
 というのは、それらの言葉の意味は広く知られているとが、理解さえされている(訳注4)という口実によって、むしろたんに肝心なことをせずに済まそうとするように見えるのである。すなわち、それらの言葉に概念を与えることをである。が、それよりも適切なのは、学問そのものが遠ざけられることになってしまうあのような考えや決まり文句に、まったく注意を払う労を取らないことだろう。というのも、あれらの考えや決まり文句は、知の空虚な現象をなしているが、そうしたものは学問が登場しだすとすぐに消え去るのだから。
 けれども学問自体も、登場するということにおいては、1つの現象である。登場するときには、学問はまだその真の姿に仕上げられても、展開されてもいない。その際に、
・学問が他のものの傍らに登場することでもって、学問を現象だと思おうが、
・この他のものである真実ではない知を、学問の現象と名づけようが、
それはどうでもいいことである。
 しかし、学問はこの [現象という] 見せかけから、自由にならねばならない。そして自由となれるのは、この見せかけにきちんと反論することによってだけである。というのも学問は、
・真実ではない知を、事物の凡庸な見方であるとしてたんに退けたり、
・「学問はそのような知とはまったく別の認識である」とか、「そのような知は、学問にとっては無に等しい」などと、たんに断言するわけにはいかないのであり、
・また、真実ではない知自体のうちにあるより良きものへの予感に、依拠することもできないのである。
 前述の断言によれば、学問は自分が存在していることをもって、自分の威力だと解釈している。しかし、真実ではない知もまた、自分が存在していることに依拠するのであり、「自分にとっては学問は無に等しい」と断言するのである。一方の空疎な断言は、他方の断言と同じ程度に有効である。
 ましてや、真実ではない認識のうちにあって、まさにそこで学問を指し示しているというより良きものへの予感などに、学問は依拠することはできない。というのは、一つには学問が、またしても存在していることに依拠するからである。またさらに学問が、
・真実ではない認識のうちにあるような学問に、すなわち悪しきあり方での学問の存在に、
・そして、本来的なあり方(an und für sich)での学問ではなく、むしろ学問の現象に、
依拠するからである。
 このような理由から、現象する知の叙述が本書でなされねばならないのである。

  この叙述はたんに現象する知を対象とするのだから、この叙述自体は、自由な、自らの固有な形態において運動する学問ではないように思える。こうした観点からは、むしろこの叙述は、真実の知へと突きすすむ自然な意識の道程と考えられる。つまり、魂の道程と考えられる。魂は一連の自らの諸形態を――魂の本性(Natur)にしたがって設けられた参詣所(Stationen)としての諸形態を――遍歴するのである。これは、魂が精神へと純化するためであるが、それは、魂が自分自身を完全に経験して、本来の魂そのものを知るようになることによってである。

 自然な意識は、たんに知の概念であることが、すなわち現実的な知ではないことが明らかとなる。しかし、自然な意識は、むしろ自分をそのまま現実的な知だと見なしているので、前述の道程はこの意識にとっては否定的な意味をもつ。そして知の概念の実現は、この意識にはむしろ自分自身の喪失である。というのも、道程の途上においてこの意識は、自分が真理だと考えていたものを失うからである。
 したがってこれは、迷い(Zweifel)の道程と見ることができる。あるいはむしろ、絶望の道程である。つまり、この道程においては、ふつう「迷う」ということで理解されていることは――すなわち、思いこんでいるあれやこれやの真理に対して動揺することは――起きない。ふつうには動揺の後で、迷いがしかるべく消えて、以前の真理へと舞戻ることとなり、その結果、問題は旧来どおり扱われる。 けれどもここでの迷いは、現象する知は非真理であるという、意識的洞察なのである。だが現象する知にとっては、実現もしていないたんなる概念が、実はむしろ最も実在的なものである。
 それゆえ、この自ら遂行する懐疑主義 [=迷いの道程] は、真理や学問への真摯な熱意をもつ人が、これを行うことによって真理や学問への準備万端は整ったと、錯覚するようなものではない。すなわち、
・学問においては権威のある他人の思想に頼ることはせず、すべてのことを自分で調べ、自らが確信することだけにしたがうという、決意とともに、
・また、なおいいのはすべてを自ら作りだし、自らの行いのみを真実なものと考えることだという決意とともに、
準備はできたと錯覚するものではないのである。
 むしろ、この道程において意識が通過する一連の意識形態は、意識自身が学問へと形成されゆく詳らかな歴史である。前述の決意は、決意という単純なやり方でもって、この形成をすぐに片づき済んだことだと思っている。しかしこうした思い違いに反して、この道程は実際に遂行することなのである。
 自らが確信するところに従うのは、なるほど権威に頼るのよりはましである。しかし、権威に依存する見解を自らの確信による見解に変えても、それで見解の内容が必然的に変わるというのではないし、誤謬が真理と入れ替わるわけでもない。他人の権威に頼るのと、自らの確信から思い込みと先入観の体系にはまり込むのとは、たんに虚栄心の有無によって区別されるだけである。後者の場合には、虚栄心が伴っているのである。
 これに対して、現象する意識の全範囲に向けられる懐疑主義は、精神をしてはじめて何が真理であるかを調べるのに熟達せしめる。それは懐疑主義が、いわゆる自然な表象・思想・考え――これらが自らのものとされようが、他人のものとされようが――に対する絶望を、実現することによってである。だが、まさにこれら表象・思想・考えを調べ始めた意識は、これらによって占められ、取りつかれている。このことによって意識は、行おうとしていることが実のところできないのである。 

 実体のない(nicht real)意識の諸形式(訳注5)、その完全な全体が、[道程の] 進行および [形式間] の関連自体の必然性から生じる。このことを理解するために、あらかじめ次のことが一般的にいえよう: 真ではない意識をその非真理のうちで叙述したものは、たんに否定的な運動ではないということである。ふつうの自然な意識は、この叙述については否定的運動であるとの、否定的な一面的見方をする。こうした一面性を本質にもつような知は、前述の道程の過程に属すのであって、そこに現れる未完成な意識形態の一つである。すなわちこの意識形態は、結果のうちにとにかく純粋な無だけしか見ようとしない懐疑主義なのである。
 この懐疑主義は、この無がこの無を生じさせたものの無であると、規定されていることを捨象する。無がそこから由来したものの無として受けとられるときには、無とは実際は真の結果にほかならない。そこで、無自体は規定されたものであり、内容を持っている。無や空虚という捨象されたもので終わる懐疑主義は、この捨象からさらに進むことができず、何か新しいものが眼前に現れはしないかと待って、はじめてそれを同じ [捨象の] 奈落へと投げ込めるのである。
 これに対し、結果が本当にあるとおりに、すなわち規定された否定として、把握されることによって、すぐに新しい [意識の] 形式が生みだされる。そしてこの否定において [形式間の] 移行がなされ、移行によって [意識] 諸形態の完全な系列の進行が、おのずと生じるのである。

 進行する系列と同様に進行の目的地も、知に対して必然的に定められている。そこは、知が自らを越えてさらに向こうへと行く必要のもうない所、知が自ら自身を見いだす所、そして概念が対象に、対象が概念に相応する所である。したがって、この目的地への進行は止まることがなく、手前の参詣所で充足してしまうことはない。
 自然的な生のうちに制約されているものは、その直接的な存在の外へ、自らによっては越え出ることができない。こうした生は、他のものによって越え出るべく追い立てられるのである。この自らの外へと引き裂かれることは、この生の死である。しかし、意識はまさしくそれ自体で自らの概念であり、このことによってそのまま、制約されたものから出ていくことである。そして、この制約されたものは意識に属しているのだから、自らを越えて出ていくことなのである。
 意識に対しては、個別的なものと共に、同時に向こう側のもの(das Jenseits, 普遍的なもの)が措定されている。空間のうちでの直観のように、この向こう側のものが、制約されているものの傍らにあるかのようだが。だから意識は、制約された充足が台無しにされるという暴力を、自らによってこうむるのである。
 この暴力を感じると、真理に対する不安感があるいはぶり返し、この不安感は、まさに失おうとしているものを維持しようとするかもしれない。 だがこの不安感は、安らぎを見いだすことができない。たとえ不安感が、考えることをしない怠惰のうちに留まりたいと思ったところで、思考が考えないでいることを妨げるし、思考活動が怠惰をじゃまする。あるいはこの不安感が、すべてをそれなりにin seiner Art, 直訳は「その種類において」)良しと断言するような感受性として落ち着きをえようとしても、この断言は理性から同じく暴力をこうむるのである。理性は、あるものがまさにある種類(eine Art)に属することをもって、それが [限定されているために] 良くないと見るのである。
 あるいは真理に対する恐れが、ある見せかけの背後に、自身と他人から隠れていることもあるだろう。この見せかけとは、真理そのものへのまさに熱い思いが、他の真理を――自身から、また他人から得たすべての思想よりつねに賢明だという虚栄心、この虚栄心という唯一の真理以外の真理を――見つけることを、困難にしている、さらには不可能にしているというものである。
 この虚栄心は、すべての真理を無に帰せしめ、自らの内へと戻ることを心得ており、そして自分流の考え方を好むのだが、この考え方によれば、つねにすべての思想が解消され、いかなる内容であれそれに替えて、たんに空疎な自我が見出されるのである。このような虚栄心の満足は、打っちゃっておく他はない。というのも、この満足は普遍的なものを避け、たんに独自なもの(Fürsichsein)を求めるからである。
 
 [道程の] 進行の仕方や必然性については、これまでさしあたりの概略は話したが、遂行の方法についても、少し述べておいた方がいいだろう。学問の現象する知への関係の叙述、そしてまた認識の現実性探求および検査叙述というものは、何かある前提無しには、つまり、基準となる物差しのようなもの無くしては、できないように思われる。なぜなら検査というのは、調べられるものに対して承認されている物差しをあてがい、この2つの一致あるいは不一致を明らかにすることだからである。つまり、調べられているものが正しいかどうかの決定である。
 検査にあたっての物差しは、また学問が物差しの役を果たすとすれば学問もまた、本質的存在Wesen)、つまり自体的なものdas an sich)のことだと想定されている。しかし、学問がはじめて登場するここでは、学問であれその他何であれ、それらは本質的存在や自体的なものとしては証明されていない。だが、そのようなものが無くては、検査はできないように見える。

 この矛盾とまたその解消が、より明瞭になるのは、とりわけ知と真理の抽象的な諸規定に――それらが意識に現れるがままに――、注意を向けるときである。すなわち、意識はあるものを自らとは区別し、それと同時にこのあるものに関係している(訳注8)。つまり、ふつう言われるように、あるものが意識に対してある。
 そして、この関係の特定の側面が、すなわち、あるものの意識に対する存在の側面が、知である。この他のもの [=意識] に対する存在から、私たちは自体的存在das an sich Sein)を区別する。知に関係づけられるものは、また知からは区別され、この関係の外部においても存在するものとして措定される。この自体的なものという側面が、真理だと言われる。
 これらの規定がさらにどうなっているのかについては、ここでは私たちに関わりがない。というのも、現象する知が私たちの対象であることによって、対象の諸規定はまずは、現われるがままに受けとられるのであるから。そして、諸規定は [このように] 把握されたように、やはり現れるのである。

 さて、私たちが知が真理かどうかを検討するときには、何が自体的なものとして存在するのかということを、検討しているように見える。けれども、この検討において存在しているのは私たちの対象であって、私たちに対するものが存在するのである。そこで、生じてくるもののそれ自体は、むしろこの生じるものの私たちに対する存在であろう。私たちがこの生じるものの本質的存在と主張するものは、むしろ生じるものの真理ではなくして、たんに生じるものについての私たちの知であろう。
 本質的存在すなわち物差しは、私たちに帰属している。そこでこれと比較されるべきものは――つまり、この比較によって正しいかどうかを決定されるべきものは――、必ずしもこの物差しを承認しなくてもよいかのようである。

 しかし、私たちが検査している対象の性質は、このような [物差しと比較されるものとの] 分離を、すなわち見せかけの分離や前提を、免れているのである。意識は、意識が持つ物差しを自らにさし出すのであって、物差しによる検査とは、意識の自分自身との比較であろう。なぜなら、先になされた [物差しと比較されるものの] 区別は、意識に属するのだから。
 意識のうちでは、あるものが、ある他のものに対して存在する。つまり、一般に意識は、知の契機という規定性を自らのもとに持つ。同時に意識にとってこの他のものは、意識に対して存在するのみならず、この [意識への] 関係の外部でも、すなわちそれ自体としてan sich)も存在している。これは、真理という契機である。したがって、意識が自らの内部において「それ自体」と、すなわち真なるものと解釈するものを、私たちは物差しとする。そして、意識自身がこの物差しを、真なるものについての自分の知を計るときに持ちだすのである。
 概念と名づけ、本質的存在すなわち真なるものを、存在するもの(das Seiende)すなわち対象と名づけるとすれば、概念が対象に相応するかどうかを眺(なが)めるのが、検査ということになる。しかし、本質的存在対象それ自体を概念と名づけ、対象ということで、あるものの他のものに対するあり方としての対象を意味するとすれば、検査とは対象がその概念に相応するかどうかを眺めることである。
 これら2つのことが同じであるのは、見やすいところである。が、ここで重要なのは、私たちの検討すべてにおいて、以下のことをしっかりと心にとめておくことである:
概念対象、あるいは他のものに対する存在自体的な存在という2つの契機を、検査する知そのものに属させること。
・そのことによって、私たちが物差しを持ちだしたり、検討にさいして私たちの思い付きや考えを適用するといった必要をなくす。
 私たちの思い付きや考えを省くことによって、私たちは事態を本来的なあり方でan und für sich selbst)、考察することになるのである。

 そして、概念と対象、あるいは物差しと検査されるものが、意識自体の内部に存在することから、私たちがなにか追加することが余計であるばかりでなく、これら 2 つのものの比較や本来の検査も、私たちはしなくていいのである。そこで、意識が自らを調べることになり、この点からも私たちに残されているのは、ただたんに眺めることだけである。
 というのも、意識というのは一面では対象の意識でありながら、他面では自ら自身の意識だからである。すなわち、自らにとっての真なるものの意識であり、また、自らが真なるものについて持つ知の意識である。対象と知の 2 つが、同じもの [=意識] に対していることで、この同じ意識自体が 2 つの比較をする。対象についての意識の知が、対象と相応するかどうかということが、同じ意識に対して生じているのである。
 なるほど対象は意識に対し、たんに意識が対象を知るように存在するだけのようである。意識はいわば対象の背後にまわって、対象をそれ自体として――意識に対して存在するようにではなく――洞察することはできないようにみえる。したがって、対象において意識の知を検査することも、できないようにみえる。しかしながら、意識がそもそも対象を知るということ、まさしくそのことのうちに、すでに区別が現存しているのである。つまり、意識にとっては、あるもの(etwas)が自体的なものであり、知すなわち対象の意識に対する存在は、別の契機であるという区別だが、検査はこの現存する区別にもとづく。
この比較において両者が相応しなければ、意識はその知を対象に合うように、変えねばならないかにみえる。しかし、知が変化することにおいて、意識に対する対象自体もまた、実のところ変わるのである。というのも、現存する知は、本質的に対象についての知であったからである。知とともに、対象もまた別のものになるのだが、それは、対象はその知に本質的に所属していた(angehörte)からである。
 こうして意識に対し、
・以前の意識にとっては、自体的なものdas an sich)だったものが、そうではないこと、
・すなわち、それはただ意識に対して自体的なものだったということが、
生じる。
 したがって、意識が対象において、自分のもつ知が対象とは相応しないことを見出すことによって、対象自体も維持されないのである。すなわち、検査において物差しをあてがわれるものが存続しないときには、物差しは変化する。そして検査は、知の検査であるばかりでなく、物差しの検査でもある。

 こうした弁証法的運動を、意識は自らのもとで、[つまり] 自らの知においてと同様、自らの対象においても行うのだが――この運動から新しい真の対象が、意識に対し生みだされるかぎり――、この運動は要するに経験と呼ばれるものである。この [経験という] 点に関しては、前述の [運動] 過程におけるある契機を、より立ち入って論じておかねばならない。このことによって、以下の [精神の現象学の] 叙述の学問的側面に、新しい光が投じられることになろう。
 意識は何かあるものを知るが、この対象が本質的存在、つまり自体的なものである。そしてこの対象は意識に対しても、自体的なものである。このことによって、この真なるもの [=自体的なもの] の両義性が生じる。今や意識は2つの対象を持っていることになる。一方は最初の自体的なものであり、他方は、この自体的なものの意識に対する存在である。後者の他方の対象は、まずは意識の自分自身のうちでのたんなる反省であるようにみえる。つまり、対象の [じかの] 表象ではなく、前者の一方の対象についての、たんなる意識の知という表象のようにみえる。
 しかしながら先ほど示したように、前者の一方の対象は、意識に対して変化するのである。この対象は自体的なものであることをやめ、意識にとって、たんに意識に対して自体的なものになる。かくして、自体的なものの意識に対する存在が、真なるものである。つまり、この意識に対する存在が、本質的存在であり、すなわち意識の対象である。この新しい対象は、最初の対象が無に帰したことを含んでおり、最初の対象についてなされた経験なのである。

 この経験の過程の叙述においては、この経験と、ふつう経験ということで理解されていることとが一致しないような契機が存在する。というのは、最初の対象とその知から、別の対象――この対象のもとで、経験はなされたと言われるのだが――への移行については、次のように述べておいた: 最初の対象についての知が、すなわち、最初の自体的なものの意識に対するものが(das für das Bewusstsein des ersten an sich)、次の対象そのものになるのだ、と。これに対して、ふつう私たちが最初に持っていた概念が、真理ではないという経験がなされるのは、私たちが偶然何かのきっかけで出会ったようなある別の対象においてである。その結果として一般的には、自体的な(an und für sich)もののたんに純粋な理解Auffassung)だけが、私たちに属すことになる。
 しかし、前述した [私の] 見解では、新しい対象は意識自体の改心Umkehrung)によって生成したものとして現れる。事態(Sache)のこのような考察は、私たちが追加したものであるが、これによって意識の経験の系列は学問的進展へと高まるのである。だが、この追加は、私たちが考察している意識にとっては、存在しないのだが。
  実のところこうしたことは、前に述べた本書の叙述と懐疑論の関係についての事情と、同じである。すなわち、真ならざる知のもとでそのつど生じる結果は、空虚な無になってしまうのではなく、その無が生じてきたところの無として、ぜひとも把握されねばならないということである。そのような結果は、真なるものについての先行する知が持っていたものを、含んでいるのである。
 こうした事情はここでは、次のように現れる:
・最初には対象として現象したものが、意識にとって対象についての知になり下がったり、
自体的なものが、自体的なものの意識に対する存在になったりすることで、
この自体的なものの意識に対する存在が、新しい対象なのである。このことによって、意識の新しい形態も登場するが、この新しい形態にとっては先行する形態のときとは違うものが、本質的な存在である。
 こうした事情が、意識形態の連なり(Folge(訳注6)の全体を、必然的なしかたで導く。ただ、この必然性自体は、つまり新しい対象の発生は――意識に対し新しい対象が現れるにしても、それがどのように起きるかは、意識には分からないのだが――、私たちに対しいわば意識の背後で生起するのである。
 このことによって意識の運動には、自体的なものの契機が、すなわち私たちに対する存在という契機が介在してくるのだが、この契機はまさしく経験のさ中にいる意識には、表れてはこない。しかし、私たちに対して発生してくるものの内容は、意識に対しても存在し、私たちはただ発生するものの形式を、すなわち純粋な発生 [仕方] を理解するだけである。この発生したものは、意識に対しては対象として存在するが、私たちに対しては同時に運動であり生成として存在する。

 この [運動・生成の] 必然性によって、学問へのこの道自体がすでに学問であり、かくしてその内容からいえば、意識の経験の学問なのである。

 意識が自らについて行う経験は、この経験の概念からいえば、意識のうちで意識の全体系を、すなわち精神の真理の全領域を、包含することに他ならない。その結果、経験がもつ諸契機は、抽象的で純粋な契機としてではなく、各契機に固有の規定性において表れる。これらの契機は、各々が意識に対して存在するように、すなわち意識自体が諸契機との関係のうちで登場するように、表れるのである。このことにより、[経験] 全体が有する諸契機は、意識の諸形態である。
 意識は、自らの真の存在(Existenz)へと進み続けることで、[それまでの] 見かけを――すなわち、異物としてたんに意識に対して存在するところの余所よそしいものに、取りつかれた見かけを――脱ぎすてる地点に到達する。そこでは、現象が本質的存在に等しくなり、このことによって意識についての叙述は、精神本来の学問であるまさにこの地点と一致する(訳注7)。そしてついに、意識が自らの本質を理解することで、絶対的な知の性質(Natur)そのものを、意識は示すことになるのである。

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訳注1) 「真に存在するもの(was in Wahrheit ist)」は、以下で登場する「絶対的なもの(das Absolute)」、「自体的なもの(An-sich)」、「真実(das Wahre)」などと同じ意味です。

訳注2) ヘーゲルはここで、Mittel (媒介物)という用語を使っています。しかし、用語使用の統一という観点からは、後で登場する Medium (媒体)の語を、彼はここで用いるべきでした。つまり、<Mittel(媒介物)には、Werkzeug(道具)と Medium(媒体)とがある>という用語法で、一貫すべきだったのです。

訳注3) ここでのヘーゲルの真意は、認識主観と認識対象が根本的に分かたれていては、いくらその間を媒介物で結び付けようとしたところで、真の認識は得られないということです。フィヒテ以来の「主観=客観」の観点に立脚しない限りは、どうしようもないのです。

訳注4) 原文は:
 dass man selbst ihren Begriff hat,
 文中の Begriff は、「理解」という日常的意味で使われていると思います。しかし、哲学的な「概念」という意味もありますので、ヘーゲルは次の文ではその意味に使って、切り返すような文体にしています。ヘーゲルは「機知がある人」という、シェリングの評を思い出します。(ただし、哲学的発想力はともかくも、と暗示せんがための皮肉。『近世哲学史』1833/1834 年)

訳注5) 形式(Form)も形態(Gestalt)も、意味は同じです。

訳注6) 系列(Reihe)と同じ意味です。

訳注7) ここの原文は、文法的におかしいようで、文の構造ならびに意味がはっきりしません。少し前の文から引用すると:
 . . . wird es [= das Bewusstsein] einen Punkt erreichen, . . . wo die Erscheinung dem Wesen gleich wird, seine [= des Bewusstseins] Darstellung hiemit mit eben diesem Punkte der eigentlichen Wissenschaft des Geistes zusammenfällt, . . .

 問題は、seine Darstellung 以下ですが、
(1) 動詞 zusammenfällt が後置なのは、関係副詞 wo で導かれた副文だからです。Wo の先行詞は einen Punkt です。この Punkt は、eben diesem Punkte Punkt と同じ意味(「地点」)を持っていると思うのですが、そうすると wo(地点)を説明する副文の中に、また「地点」が登場することなってしまいます。
(2) 自動詞 zusammenfällt(一致する) は何に一致するのかということですが、
a) 拙訳では mit 以下の diesem Punkte にとっています。これは、辞書に「zusammenfallen mit 3格」の用例があるためです。この場合、der eigentlichen Wissenschaft は 2 格となり、前の diesem Punkte を修飾して「本来の学問であるこの地点」となります。
b) der eigentlichen Wissenschaft を 3 格にとり、これと一致するとも考えられます。
・しかし辞書に 3 格との一致用例は載っていないことと、
mit eben diesem Punktemit がしっくりこないことが(auf であればいいのですが)、
問題となります。

訳注8) このような「区別し、関係する」という発想は、ラインホルトの意識の命題が広めたようです:
 「意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる。」(『論集』、1790 年、§ 1)

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(完訳版初出: 2012.3.4.)
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