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フィヒテ小伝  v. 1.1.8.
   目 次

はじめに
1. 幼少の頃
2. 学生時代と家庭教師
3. イエナ時代
4. 「無神論論争」


   はじめに

 フィヒテの一般的といいますか、世間的なイメージは――
 貧困や苦境と戦いながら、理想を追求する人。その反面、馬力があって自己主張の強い(注1)、トラブルメーカーというものです。
 むろん、思想家や芸術家の人間性は、結局は彼らの作品において知るほかありません。したがって、伝記の類は彼らのいわば外面性を伝えるだけであり、まして伝記的な事実をいくら詮索したところで、作品の偉大さや美は解き明かしようがありません。
 とはいえ、内面と外面双方が照らしあうときにはじめて、その人を全体的に知りえるということも、真実でしょう。とくにフィヒテの伝記は波乱万丈であり、一服の清涼剤といえば不謹慎ですが、とにかく私たちを勇気づけるものとなっています。嵐を呼ぶ男であり、四面楚歌からの奇跡のカムバックは(時代環境が後押しもしたようですが)、感嘆に値もします。

* 以下の文献などを参照しました。深謝する次第です。
 ・レクラム文庫『知識学の概念について』の序論(Einleitung von Edmund Braun
 ・「世界の名著 フィヒテ シェリング」(中央公論社)所載の年譜
 ・「フィヒテ全集」(晢書房)
* 引用文などにおける [ ] の部分は、私の挿入です。
* 外国語のカタカナ表記は、『広辞苑』にしたがっています。

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注1) カロリーネ・シュレーゲルの絶妙の表現があります


   1. 幼少の頃

 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)は、1762 年 5 月 19 日に寒村ラメナウ(Rammenau(注1)に生まれた。
 彼は長子で、7人の弟妹がいた。父親(Christian Fichte)は紐職人(Bandwirker/Weber) で、実直な道徳心のあつい人であり、フィヒテは終生父を敬愛したといわれる。フィヒテ少年は、貧しい生活環境のうちにあり、家業の手伝いのため就学できなかった。しかし、その才能はつとに村人の注目するところであり、次のようなエピソードが伝わっている:
 マイセン(Meißen(注2)の男爵ミルティッツ(Freiherr von Miltitz)が、ラメナウに親族を訪れたおり、高名な牧師 A. G. ヴァーグナーの説教を聴こうとしたが、時間に遅れてしまいはたせなかった。しかし、村人の勧めにしたがってフィヒテ少年を呼んだところ、少年は牧師の説教を見事に再現した。
 この有名な逸話は、少年フィヒテのすぐれた理解力・記憶力ともに、抜群の言語行使能力をも示している(注5)。この自信からか、彼の著作は独自の句読点法で書かれることになり、初学者にとってはかえって読みづらいものになってしまった。

 1771年、感心した男爵はフィヒテの教育を引き受けることにし、居城のジーベンアイヘン(Siebeneichen(注3)へ連れ帰った。そして、ニーデラウ(Niederau)の牧師に2年間託した。その後フィヒテ少年は1年間マイセン(Meißen)の私立学校に通った。

 1774年、プフォルタ(Pforta)の王立学校(Fürstenschule(注4)に入学し、奨学生となり、1780年卒業した。

 男爵のもとで教育を受けられたことは、じつに大きな幸運であった。しかしその反面、9 才にして親元を離れ、いわゆる「他人の飯を食って」成人したことは、フィヒテの性格形成に、少なからず影響したと思われる。

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注1) ドレスデンの北東20数キロメートルにある。概略地図は:  http://www.postleitzahl.org/sachsen/images/karte_rammenau.png
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注2) ドレスデン北西約 20 kmにある陶器で有名な町。 戻る
注3) ジーベンアイヘン城の写真です。 戻る
注4) 領主が設立した寄宿学校。なおこの Schulpforta には、一年先輩にシュルツェG. E. Schulze, 『アイネシデモス』の著者)がいた。 戻る
注5) なお、「多数の言語に通じていたフィヒテは、スイス旅行の折には方言の収集をし、イェナ大学在任時代には『言語能力と言語の起源』論文を著すほど言語に興味を示」したようである(藤澤賢一郎:『フィヒテ全集 第19巻』晢書房の「ベルリン大学哲学講義 I 解説」、564 ページ)。
 他の大哲学者同様フィヒテにも、幼児期から言語シンボルへの関心と適性があったといえよう。 戻る


   2. 学生時代と家庭教師

 1780 年の冬学期より、フィヒテはイエナ(Jena)大学神学部に入学。やがて、スピノザの『エチカ』の購読によって、哲学に関心をもち、研究しだした。(ちなみに、ドイツ論壇をゆるがす「スピノザ論争」のきっかけとなった、ヤコービ『スピノザ書簡』の出版は 1785年)。

 1781 年、ライプチヒ(Leipzig)大学に転学。ミルティッツ男爵が亡くなった 1774 年以降は、その未亡人より援助を受けていたが、1781 年には、その援助も無くなった。個人教授をして窮乏生活をしのぐこととなる。1784 年、試験が受けられず、学業を中断し、ザクセン(Sachsen)の各地で家庭教師をすることとなった。

 1787年、田舎牧師の職を得ようとしたが、彼の宗教的見解のために拒まれた。1788 年には、貧窮のうちに自殺を考えるにいたったが、スイスのチューリヒ(Zürich)のオットー家での家庭教師を紹介され、1790年までつとめた。

 1790 年 5 月、ライプチヒにもどったフィヒテは、ある学生からたのまれて、カント哲学を教えることになる。それをきっかけに、カントの『実践理性批判』、『判断力批判』、『純粋理性批判』をこの順に読む。この読書は、彼の思索と人生に決定的な影響を与えた。旧友ヴァイスフーン(F. A. Weißhuhn)への同年 9 月の手紙によれば:

 「『実践理性批判』を読んで以来というもの、ぼくは新しい世界に生きている。決定的だと思われるその文章が、ぼくを圧倒した。証明されることは決してないだろうと思っていた、例えば絶対的自由だとか義務だといったことが、証明されているのだ。・・・このカントの体系が、どれほど人間への尊敬と、ぼくたちに力を与えるかは、想像できないほどだ。・・・道徳が根底から破壊され、およそ義務なる概念がすべての辞書から抹消された時代にあっては、これはなんという恵みだろう!」

 また、弟のゴットヘルフ(S. Gotthel)f宛の手紙(1791 年 5 月)には:

 「カント哲学にはまったので、いやな気分も忘れてしまった。この哲学には、頭が変になるくらい心が高揚する。この勉強が、ぼくの心も頭もいっぱいにしていたわけだ。ぼくの嵐のようだった精神も静まって、今まででは、もっとも幸せな日々だった。毎日パンには困ったが、それでもぼくは、当時地上でもっとも幸せな人間の一人だった。」

 1791 年 4 月、家庭教師の職につこうとして、現ポーランドのワルシャワ(Warschau)に出発。しかし、つけなかったため、7 月 4 日、ケーニヒスベルク(Königsberg)にカントを訪問した。その後、8 月まで論文「あらゆる啓示への批判の試み(Versuch einer Kritik aller Offenbarung)」を書き、カントに差しだした。これによってフィヒテはカントの好意をえることができ、カントの仲介により、ダンチヒ(Danzig)の家庭教師先と出版業者を紹介されたのである。

 1792 年 3 月、『あらゆる啓示への批判の試み』がケーニヒスベルクの出版社から刊行されたが、出版者の言によれば手違いにより(!)、著者フィヒテの名前が表題紙に印刷されなかった。そこでこの書はカントの著作と世上信じられたが、カントが実際の著者の名前を公表したことにより(注2)、フィヒテの名声は一挙に高まった。

 1793 年 3 月ダンチヒ(Danzig)をたち、6月チューリヒ(Zürich)にもどる。そこで、ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi)のサークルと交友し、ペスタロッチはフィヒテの教育観に大きな影響を与えた。この間、
・パンフレット『フランス革命に関する公衆の判断を訂正するための寄稿(Beiträge zur Berechtigung der Urteile des Publikums über die französischen Revolution)』と、
彼がプロシア(Preußen)で苦しめられたところの検閲を批判し、思想の自由を譲渡しえぬ権利として擁護するために、
・『思想の自由を抑圧してきたヨーロッパ諸侯からの思想の自由の返還要求(Zurückforderung der Denkfreiheit von den Früsten Europens, die sie bisher unterdrückten)』を、ダンチヒから匿名で出版した。

 同年半ばに、シュルツェG. E. Schulze, 1761-1833)の『アイネシデモス』(エーネジデムスとも表記)(注1)を読む。この本は、シュルツェが匿名で、カントの継承者ラインホルトK. L. Reinhold, 1758-1823)やカント哲学を批判し、懐疑論を弁護するために出版したものである。
 1793 年の終わりに、フィヒテは次のように書いている:

 「『アイネシデモス』は、ここ十年のうちで注目すべき作品です。この書によって、私が予感していたこと、つまり、カントやラインホルトの業績をもってしても哲学はまだ学問の状態にはいたってないということが、確信へと変わりました。・・・ただ、唯一の原則から展開することによってのみ、哲学は学問になるのです。こうした原則は存在するのですが、まだ原則としては立てられていないのです。」(チュービンゲン大学(Tübinger Stift)教授フラット(J. F. Flatt)宛て書簡)

 同年 10 月には、1789 年に知り合い婚約していたが、経済的事情から延期されていたヨハンナ(Johanna Maria Rahn)と、チューリヒ(Zürich)で結婚した。1 週間の新婚旅行の後、哲学の研究に没頭した。

 年末、突如として自我の根本原理がひらめく。
 1793 年の 12 月に、フィヒテは友人シュテファニー(H. Stephani)に宛てて書いている:

 「君は『アイネシデモス』を読んだかい? 『アイネシデモス』は、ぼくをかなりの間混乱させたし、ラインホルトを突き倒し、カントを疑わしいものとした。そして、ぼくの全哲学体系を根底から引っくり返してしまった。露天では住めやしないというものだ。いやはや! 再び、立て直さなければならなかった。それを、この 6 週間というもの、まじめにやっている。ありがたい事には、全哲学が簡単に発展していけるような、新しい基礎を発見できたんだ。――一般的にいえばカントの哲学は正しい。しかし、結果として正しいのであって、基礎づけがそうなのではない。ぼくにはこの比類ない思索家が、ますます驚嘆すべきものに思えてくる。彼には精霊がついていて、彼に真理を明らかにするのだが、真理の根拠は彼に示さないかのようだ。結局のところ、たぶん二、三年後には、ぼくたちは幾何学のような明証性をもった哲学を、持てると思う。」

 1794 年 2 月、「一般学芸新聞(Allgemeine Literatur-Zeitung)」の依頼により、書評「アイネシデモス(Rezension des Aenesidemus)」を書き、批判哲学を弁護した。

 2 月半ばから 4 月まで、チューリヒのラーヴァーター家で、著名人たちのために哲学の講義をした。題は「批判哲学の概念と体系」で、そこで自らの哲学を語った。イェナ大学での講義「全知識学の基礎」は、これをもとにしている。

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注1) 正確な署名は:
 『アイネシデモス、すなわちラインホルト教授によってイエナで展開された根元哲学の基礎について および、理性批判の越権に対する懐疑論の擁護(Aenesidemus oder über die Fundamente der von dem Her. Prof. Reinhold in Jena gelieferten Elementar-Philosophie. Nebst einer Verteidigung des Skeptizismus gegen die Anmaßungen der Vernunftskritik)』 戻る

注2) カントの「訂正」という声明が、1792 年 8 月『一般文芸新聞(Allgemeine Literatur Zeitung)』誌上に掲載された。(岩波書店『カント全集 13』による。全文面は同巻、17, 18 ページ)。


   3. イエナ時代

 1794 年初頭、フィヒテはイエナ(Jena)大学に助教授として招かれた。前任はラインホルトであったが、キール(Kiel)へ転任したのである。当時のイエナ大学は、「ドイツにおけるもっとも盛んな大学の一つであり、あらゆる探究心に燃える人々の集まり場所」(注1)であったという。
 最初フィヒテは、自分の新哲学を仕上げるために、1 年間の猶予を願ったが、結局招請を受け入れた。同年の夏学期より、公開講義と私講義で授業を受けもつことになる。
 
 4 月の終わり頃には、『知識学の概念、あるいはいわゆる哲学の概念についてÜber den Begriff der Wissenschaftslehre oder der sogenannten Philosophie)』を書き上げ、5月11日に小冊子として公刊された。副題が「この学問についての講義への、招待状として(als Einladungsschrift zu seinem Vorlesungen über diese Wissenschaft)となっているように、イエナ大学の学生たちに、みずからの哲学を紹介する意図をもっていた。
 フィヒテはこの小冊子を、ゲーテ(J. W. Göte, 1749-1832)、カント(I. Kant, 1724-1804)、ヤコービ(F. H. Jacobi, 1743-1819)、マイモンS. Maimon, 1753-1800)などに送るが、マイモンをのぞき、悪評であった。遅れて現れた諸批評でも、否定的扱いをうけた。

 5 月下旬より、公開講義「学者の使命について(De officiis eruditorum)、5 月 26 日より私講義「全知識学の基礎」を行う。前者は、夏学期中に『学者の使命に関する数講(Einige Vorlesungen über die Bestimmung des Gelehrten)』として出版。後者は、『全知識学の基礎。聴講者のための手稿としてGrundlage der gesammten Wissenschaftslehre als Handschrift für seine Zuhörer)』という題で、前半第 1 部と 2 部を 9 月末に、後半第 3 部を 1795 年 7 月末あるいは 8 月はじめに出版した。
 1794 年 10 月にフィヒテは『全知識学の基礎』前半を、カント(I. Kant, 1724-1804)、ヤコービ(F. H. Jacobi, 1743-1819)、ゲーテ(J. W. Göte, 1749-1832)などに謹呈したが、評判は良くなかったという。

 1794 年の夏学期から冬学期にかけて、フィヒテは大学評議会(der Senat der Universität)と、続いて学生側と激しく対立したため、95年の夏学期は講義を中止させられるはめとなった。しかし、95 年から 96 年の冬学期には講義を再開し、続く 3 年間は邪魔されることもなく、大きな成功を収めたのであった。

 また著作活動も旺盛で、
1796 年
には:
・『知識学の原理に基づく自然法の基礎(Grundlage des Naturrechts nach Prinzipien der Wissenschaftslehre)』 [Prinzipien の前になぜ den が付かないのかは、私には不明です。後の『道徳論の体系』の場合には付いています。] の第 1 部(第 2 部は 1797 年)

1797 年には:
・「知識学への第1序文(Erste Einleitung in die Wissenschaftslehre)」
・「すでに哲学的体系を持っている読者のための、知識学への第 2 序文(Zweite Einleitung in die Wissenschaftslehre, für Leser, die schon ein philosophisches System haben.)」

1798 年には:
・『知識学の原理に基づく道徳論の体系(Das System der Sittenlehre nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre)』
などがある。

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注1) シュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)「第42章 フィヒテ」の項。 戻る
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