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  多世界の生成と構造 (v. 1.1.6.)

               ――新しい世界観を求めて    


じめに――世界の多数性について

 数年前に、チャンネル数が数百であることをを誇る、有線ラジオの番組表を見ていたとき、哲学のチャンネルを発見した。ところが、それが入っているジャンルは「睡眠」なのであった。その哲学の前のチャンネルでは、神経を静めるための音楽を、後のチャンネルでは例の「羊が一匹、二匹、…」を流している。さすがに、やんぬるかなの思いになったが、「現実的なものは、理性的である」との古人の言を思い出すまでもなく、無理もないと納得したのであった。

 哲学がこのような窮状をむかえるにいたった原因は、多々あるに違いない。その一つとして、さまざまな価値観や世界観がグローバリゼーションのもと、一堂に会する現代において、これまでの哲学のように一つの世界しか想定しないのでは、多元論的構図をいかにとってみたところで、やはりさまざまな無理が生じざるをえず、結果として人心を得られないことがあろう。そこで拙稿では多世界説を提唱したい。

 さて、哲学史上さまざまな多元論が登場してきたが、世界そのものの多数性を主張する多世界説は少ないようである。ここで多世界説というのは、「現実界―イデア界」「此岸―彼岸」など、「現象―本質」のような関係にある二世界論的なものではない。また、最近の量子力学での平行宇宙説や、可能的諸世界の中での一つが、この世界として実在するといったものでも無論ない。多数の世界が同等の資格で、現実的に並立すると考える世界観のことである。
 ヘーゲルの観念論などはその例であり、そこでは多世界が各段階として生じている。彼にあっては、真実に存在する唯一の実体が、次々と主体的に自己変成していくが、実体は全体性だから、実体の変成過程も総体的・包括的となる。そこで、変成過程である諸段階は、それぞれのレベルにおいて諸世界になる。これらの世界は、前段階の世界の自己矛盾によって、必然性に基づいて順次発生しなければならないとされている。(しかし、私たちが主張する多世界説においては、各世界の発生とその仕方は、あらかじめ決まっているわけではない。)

 ところで、多世界ということを言いだせば、すぐに「それでは、私も多数いることになるのか?」との疑問(というより反論)が寄せられる。答えは、哲学的観点からは然りである。ヘーゲルの『精神の現象学』の例でいえば、「感覚的確信」である私、「知覚」である私、「悟性」・・・と、複数の認識主観が存在している。
 しかし、多くの人は「私は 1 人しかいない」と考えるが、ではどこで考えているのかといえば、ふつうは日常的世界においてであろう。あるいは知的な人は、科学的・物理学的世界のうちでかもしれない。宗教を信じている人なら、その宗教的世界においてである。いずれにしろ、1 つの世界において(によって)なのである。そのとき他の諸世界は、その 1 つの世界に収斂しているのだから(第 1 章を参照)、複数の私もこの 1 つの世界の 1 人になっているのは、当然なのである。


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1章 諸世界の積層化と収斂(れん)

 退屈しのぎに、部屋の片隅のラジオをつけたところを、想定してみよう。そのラジオから流れでたピアノの音は、すこしカナッぽく、これではピアノ音の再生は無理かなと思う。しかし、やがてその音響に私の意識は集中し、空間はピアノ音楽でみたされる。「生きいきとした大胆な演奏だ、独自の解釈だな」と、私はつぶやく。やがて私の意識は音楽に同一化していき、「なるほど、この精神はシューベルトのものだ。このように世界は展開するのか…」――そして曲は終わり、ラジオからはアナウンサーの声が聞こえだす。

 この例では、はじめ普通の日常的世界があり、そのような世界の一部として、ラジオの音が聞こえ出した。しかし、その音に耳をかたむけたことにより、一切が、世界全体がピアノ音楽として、演奏家の心やシューベルトの精神として、現前したのである。つまり、ラジオの音から演奏家の心が、次いでその心から作曲家の精神が生みだされている。
 したがってここでの構造を形式的に述べれば、日常的世界は演奏家の心の世界を含み、後者はまたシューベルトの精神世界を含んでいたといえよう(日常世界>演奏家の心>シューベルトの精神)。この三つの世界は、包含関係が連続する入れ子型の構造になっている。

 ところで、音響に意識が集中したとき、その大胆な演奏の覇気に感動して、日常性を超克する心情がうまれたのであれば、逆に演奏世界のほうが、日常世界を否定的にせよ対象化しているのだから、構造的により包括的となる。さらにシューベルトの精神世界を感じることで、この演奏には品位が欠けていると思ったならば、同上の理由により、そこに展開した作曲者の精神こそが、もっとも大きいことになる(日常世界<演奏家の心<シューベルトの精神)。この場合には、はじめとは逆の入れ子型の構造が成立していることになる。

 上記の例では、諸世界は三層になっているが、もし私が演奏者のことに思いいたらなかったならば、まん中の層が発生しないのだから二層となる。したがって、諸世界はさまざまな組み合わせと順列において、入れ子型に積層化するのである。

 さて演奏が終わり、ラジオからアナウンサーの声が聞こえだした場面にもどってみよう。「良かった」と思いつつ、私はほっと一息ついて、また日常世界のうちにいる。演奏家やシューベルトがくり広げた世界も、今や日常の「良かった」経験の一つとなっている。積層化した世界は、ふたたび一つの日常的世界に収斂したといえる。
 積層化と収斂、この二つが世界の基本的存在様式なのである。

 通常私たちは、このもどってきた日常世界こそがほんとうに実在し、また具体的な現実そのものだと思っている。それに対し、一音楽家のくり広げた世界は、彼の感情ないし心的風景にすぎないとみなされる。しかし、私たちはただシューベルトの感情に共感し、彼に心を操られたにすぎないのだろうか。いや、聴き入っていたときには、まさしく森羅万象が私たちの外部に開けていたのではないか。なるほど、日常世界においてまわりのものを見たり、触ったりするのと同じ感覚や、パースペクティブにおいてではない。だが、その音楽固有の広がりのうちに、やはりすべてを感知したのである。もしその音楽的世界を抽象的で、非現実的と呼ぶべきだとするならば、日常世界のほうにも音楽的存在が欠けている以上、これも抽象的といえる。また、諸家によって日常世界は、通常もっとも豊かなものと想定されがちだが、宗教的世界観の持ち主にとっては、そのような世界は、真理・永遠性などを欠いた非本質的なもの、一つの派生態とうつるかもしれない。つまり、各世界は常に他の世界の一部から生成するため、それぞれのあり方で抽象的である。

 近代科学についてはどうであろうか。たとえば、素粒子などを対象とする物理学は、その領域において全事物を扱うかのようである。逆に、物理学と関連が無いようなものは、端的に存在していないとされる。しかし、周知のように、いわゆる「精神―物質」と二分するさいの精神分野がここではまったく欠落している。赤い花を見て、その赤色がいかにして生じたかを近代科学は見事に説明する。太陽からの波長700nmの光が花びらで反射して、人間の瞳孔へ入り、網膜に当たって視神経を興奮させ、それが伝わって大脳の一定の部位が化学的・電気的に活性化する、云々。しかし、その説明が「赤」そのものの質感に到達することは、原理的にありえない。「赤い」というこの質感そのものは、物理学的世界には初めから存在しないからである。したがって、科学的世界も抽象的であることに変わりはな(注1)

 各抽象的領域を「世界」と、ここでことさら呼ぶのは、それぞれが次のような特質を持つためである。

一.森羅万象何事についても、対応する事象が領域内にある。たとえばさきの「赤い」という感覚は、自然科学的世界では、脳の一定部位の興奮にあたる。(しかし、異なった領域の二つの事象、たとえば「赤い」質感と脳の特定の興奮は、対応しあうとはいえ、異質で通約できない。二つの事象は、共通の構成物をもたず、還元しあえないのである。)

二.各領域内においてそれぞれ固有のロゴス(法)が、森羅万象を律しており、そのようなロゴスを有するゆえに自立的領域となっている。

三.各領域は、他領域の万象(その世界そのもの)を帰着させる事象と、その「万法を一に帰す」論理を持つ。(例がよくないが、宗教世界全体を、日常世界において非理知的人間の妄想の一つとみなし、どうしてそのような妄想に至るかといえば、云々、などと言う場合。)

 諸世界がばらばらに四散しないのは、他世界は自らの一部から成り立っており、他世界を自らの一部として含むからである。また、そのことによって各世界は互いの可能性の条件となっており、相互に制約しあっている。例えば、日ごろ文学作品などには親しんだことのないA君が、何思うところがあってか、詩をつくったとしよう。彼の詩世界は、日常世界の一部である物思うA君がうみ出したのであるから、A君の物思いによって条件付けられている。すなわち、いかなる世界が展開されているにせよ、読むに値しないということになる。   


(注1) 批判され、相対化されたとはいえ、今なお近代自然科学は他の知を威圧する権威を持っている。むろん、この科学は一定の範囲では有用で精確なのだが、他の知と共通の必然的欠点をのがれてはいない。
 たとえば、自然科学にパラダイム・チェンジが起きると、それまでの理論は、当然のことながら根本的に誤っていたとされる。それまでの発展は、迷妄から真理への接近ではなく(つまり、あいまいだったものが正確になっていくといったような)、たんに非真理からのある種の遠ざかりにすぎなかったのである。

  また、自然科学も特異点をもっており、そこでは法則が働かなくなってしまう。(たとえばニュートン力学では、運動法則は光速に近い物体へは適用できない。)戻る


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2章 有体的存在物

 世界内に存在する事物や事象に、目を転じてみよう。それらは、物理的、物質的なものであれ、心的、精神的なものであれ、それぞれのあり方で具象的だが、それを「有体性」をもつと言うことにする。いかなる存在物も直接現れるとき、それは一体的な「有体的」現前なのである。したがって、私たちは存在物を、存在論的にその構成要因に分解したり、また二重化しない。「実在的(レアールな)契機/観念的(イデアールな)契機」といったように。

 たとえば、幾何の問題が解けずに困っている生徒がいるとしよう。彼を助けるべく、数学の教師は黒板上に直線と円を描くのであるが、これら二つの図形にはチョークの太さがあり、またいささか歪んでもいる。しかし、生徒はこれらを幾何学的図形――幅をもたない線、ある一点から等距離にある点の集合など――として受けとる。そして、問題を理解して、解法をみいだしたとする。さてこの場合、生徒は黒板上を見ることによって、初めてその円と直線の関係がわかったのであるから、これらの図形は数学的(幾何学的)世界のうちに、幅を持たない線などとして、有体的に現れていたと考えられよう。それを生徒は認めたといえる。

 しかし、多世界説をとらず、暗黙のうちに一つの世界しか前提にしない論者は、「実際レアールに存するのは、太さのあるゆがんだチョークの跡のみであり、この跡を生徒が幾何図形として、イデアールに捉えたのだ」と主張する。しかし生徒が、太さのあるチョークの跡といったものを見出すのは、数学の問題に没頭することをやめ、日常世界に移ってからである。その時には、なるほどチョークの跡こそが現前しており、幾何学的図形の方はどこにも見出されない以上、前者を<レアール>、後者を<イデアール>とでも称するほかはあるまい。したがって、論者によってイデアールな契機とみなされたもの(幾何学的図形)は、別の世界(日常世界)からみられた存在物なのであ(注2)

(数学の領域を一つの世界と見なすのは、無理だとの指摘があるかもしれない。考え方さえ分かって頂ければ幸甚です。)

  今度は、葬式に参列しているところを例にとってみよう。葬式は死者のためというより、生者どうしが相互の社会的関係を確認・強化しあう場であるとの見方もあろうが、いまは常識どおり死者を送るものとみなす。すると送られる故人が、物理的死体としてではなく、「人」として存在していなければならない。そうであればこそ「Aさん、貴方は・・・」という弔辞が、しめやかに響くのである。つまり、故人は、観念として人々の記憶の中にあり、参列者はそれぞれの記憶を持ち寄っているのではない。式が終わって、彼らが会食しながら故人をしのぶ場合などは、そうであろう。しかし、葬儀の最中にはみな一定の方向を、故「人」の方をむいている。彼は参列者の記憶の中にではなく、葬儀場に、いってみれば遺影や棺のあたりに、物理的ならぬ霊的な有体的存在物としているのである。

 したがって、対象は私たちに生理的「感覚」(カント)によってのみ与えられるのではない。理性的世界にあっては理性的に、魔術的世界では魔術的に対象は有体的に現象する。

 なるほど、イギリス経験論を継承したカントにあっては、近代科学的生物としての人間の感覚器官が、物質的刺激を受け取り(直観)、それを材料にしてのみ「経験」が形成される。一般的常識としても、このような考えは強く残っており、またそれで不便のない場面も多いことは事実である。しかし、ひとたび省察を加えると、中学校の生物レベルで理解されている感覚器官への「刺激―中枢神経」段階であり、最近の学説――認識主体の側からシグナルが発せられ、その変調によって認識が可能となる、等など――とは齟齬をきたしてしまう。そこで諸家は、既成の学説・イデオロギーをはなれて、実情を見定めようとするのだが、そのとき対象は意味にまとわりつかれており、情動や価値が負荷されていることを発見する。しかし、私たちの観点からすれば、このような「ありのままに現れた」対象、「生きられた世界」における対象を諸家が想定するとき、どうも、日常世界を前提とするように思われる。素朴科学的世界も、日常世界もなんら特権的世界でない以上、私たちは「対象は、それぞれの世界に応じて有体的に現象する」というに止めざるをえない。 


(注2) 対象を<として>構造のうちに捉えようとする上記のような見解、すなわち「レアールな所与Aは、つねにそれ以上のあるもの、イデアールなBとして現象する」との主張が生まれるのは、ある事象Bが他のときにはAとして現れるという経験があるからであろう。(この場合、AとBの異なる事象がなぜ同一物と判断されるのかといえば、それはAとBが同じ時刻に同一空間を占めていたと、後から反省されるからである。つまりAとBが、物理的世界において考えてみれば、同一の座標をしめるせいである。)むろんAとBは質的規定性が異なる以上、「別物」でもあらねばならない。そこでこの背反する事態の説明のため、<として>構造が設定されることになる。私たちは、物理的空間・時間の世界を前提とし、それを媒介にしてのこのような説はとらない。戻る


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3輪郭線としての存在物

  なるほど前節で述べたように、存在物はその固有の世界にあっては有体的で、その世界のあり方にしたがって具象的である。しかし、他の世界から見た場合には、すなわち、他の世界のうちへと収斂したときには、それは固有の世界全体を「地」とする部分として、「図」として現れる。「図」が存在するのは、「地」との差異のためである。第一節でのラジオの例でいえば、シューベルトの世界において喜びの表情が生じてくるという事態は、日常世界からみると、ピアノ音が流れていく中で特定の音階のつながりが現れるということでる。

 また、図Aが成立しているときには、世界はAと非Aの二つに分かたれている。「地」に対する図Aがもつ差異は、いわば「図」を取り囲んでいる輪郭線のようなもので、輪郭線の外には非Aの同一性が、内にはAの同一性が広がっている。「地」も「図」も、隙間とか間隙といったものをもたない。空白や真空は世界内に存在しないのである。

 図B、C、D、・・なども、互いに重なり合う部分をもちながら、やはり世界全体が分割された諸部分となっている。つまり、他の世界より見られるときには、世界全体は、個別者に先立つ。

 世界内に差異が無ければ、とうぜん「図」は生じない。逆に、同一性や均一性を認めなければ、世界は無限に細かく分割されることになり、また「図」は現れえない。何を同一物とするかを決めるアプリオリな原理は、まずは、無いといえよう――

 ある少女が大切にしていた「ミカちゃん」という人形を、母親がどこかで紛失してしまった。母親は同じ種類の人形を再び買って少女に与えたが、泣いている少女はそれは「ミカちゃんではない」と言って受け取らない。確かに少女の世界では、二つの人形はまったくの別物であって、これを論駁する方を哲学者は知らないのである。

 他の世界より見られるとき、対象の存在性は単にそれがもつ差異に、輪郭線に存することになる。したがって、そうした対象は、具象的でもなければ、内容が豊かなわけもなく、抽象的なものにすぎなくなってしまう。ヘーゲルによれば、「(具体的であるはずの)感覚の行う規定は、ただ抽象的な直接性である。(注3) 彼は、すべての対象をその固有の世界において出現させた後、絶対知の観点から見た。そのため、感覚的対象ですら、抽象的となったのである。
 他の世界から見られた存在物のありようを、さらに詳しく検討するために、ここで言語を考察してみよう。ただし、日常世界の一部である日常言語については、その表現する意味もおりおりの状況に依存しているので対象外とし、自立的で自己完結的な体系をなしている第二次言語(文学言語、科学言語など)をとりあげよう(注4)
 言葉が発せられるとき、表現するものに応じて、そこにはさまざまな世界が現れる。「赤いセーターを軽く肩にかけて、彼は大門をくぐった。」たとえば、この文章によって文学的世界が生じたとする。その世界ではセーターの赤色は、現実的感覚の赤色のイメージにおいてではないにせよ、とにかく文学的有体性において、直接私たちに立ち現れている。しかし、この文章をたんに言葉の連なった文章として捉えるときには、すなわち、文学世界の外から言語学的観点より考察すれば、この「赤」は「黄や茶がそれに対立する限りで存在している」ことになる(注5) ヘーゲルや構造主義言語学が主張するように、言葉の意味は、他の言葉との対比において決定されるのである(注6)

 一般的にいえば、他の世界より見られた存在物は、孤立していず、自立的でもない。逆に、相互関係のうちにあり、さらにその中へ溶け込んでいる。たとえば構造主義者は、言語学的項、すなわち語を、言語という自己完結的体系内でたんに差異的位置をしめるものとして扱う。また、ヘーゲル・マルクス主義者にとって、事物が諸関係の結節点であると映ずるのは、彼らが事物を媒介されたものとして、高次の視点から見るためである。

 第一節での例をとれば、日常世界でバラの花が赤く見える事態は、自然科学の世界ではある波長の光の反射、視神経の電気的興奮等の関係態であった。逆に、ある波長の光はといえば、日常世界においては、科学的探究の連関の結果であって、つまり、一連の実験と専門家による推定などの諸事象の連関より成り立つ。そして、連関態は原理上、無限に、世界全体にわたって拡大している――バラの赤色とは、700nm波長の光が太陽から放出され、太陽と地球間にはこの光を遮るものはなく・・等々。

 結局、ある世界での有体的対象も他世界より見れば、廣松渉氏のいうようにA、B、C、・・諸事象の全世界的関係の結節点として現れる。そして、事象Aもまた、他世界からすれば、L、M、N、・・の関係態であり、B、C以下についても同様である。


(注3) ヘーゲル『精神の現象学』序文 戻る

(注4) 竹内芳郎 『言語・その解体と創造』1972, pp.12-14. 戻る

(注5) ヘーゲル『エンチクロペディ』§42.補注I. 戻る

(注6) ヘーゲルは、「言語」とは言わずに、「概念」という用語を使っている。けれども、彼にあっては、「(真理=精神=思考=知=)概念=(規定=)言語」の等式が成り立つ。 戻る


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4章 分布している主体

 さて、存在物を対象とする私たちの側は、どのような事情のもとにあるのだろうか。

 いかなる世界のものであれ、存在物に私たちは「接近」(ハイデッガー)できる、つまり何らかの意味でそれを経験することができるが、そのことは存在物を対象としてもつということである。私たち人類は、共同主観的・対象志向的共働によって、歴史的にすべての対象を生産、すなわち意味を付与してきた。(注7) この生産(意味付与)は、同時に対象への接近可能性の獲得だった。存在論的にいえば、存在するとは接近可能性にほかならない。

 私たちの主体性や自己性も、この共同主観的共働において形成されるが、しかし、むろん誰も彼も同じようにではない。むしろ、質的に異なっており、(注8)分布している。以下の例を見てみよう。

 数人の子供たちがサイコロで遊んでいて、その中のAがサイコロを投げたところ、三の目が出た。そのとき、子供たちは皆サイコロを見ており、一見同じ状況に直面しているかのようである。むろん、彼らの反応はそれぞれ違っている。AとFは投げて出た目にがっかりし、三以外の目がどうなっているのかは関心がない。Bは自分の期待した目が、サイコロの横側にあることにも気づいた。Cはサイコロのまわりをぐるりと回り、四つの横側の目を知ろうとする。反対側にある目の数どうしを足せば、七になることをDは知っており、サイコロの下側の目は四であることを、Dは察知する。そして、Eは・・

 ここで、各人が知ったサイコロの目の個数を調べてみるならば、二〜三個知った子供がもっとも多く、一個ないし四〜五個が少なくなっていよう。子供の人数が多いときは、不注意からサイコロの目をまったく見なかったものも出てこよう。横軸に知った目の個数、縦軸に知った人数をとってグラフをかくならば、正規分布に似た曲線が描けると思われる。すなわち、私たちが「同じ」とみなされた対象志向性のもと、共同主観的共働をいとなむとき、私たちの知覚、思考、行動などは、それらが一定のフォーマット(上の例では、子供たちが知った目の個数)上にあるとき、じつは広がりをもって分布していることになる。

 反論があるものと思われる。 「なるほど、上記の例や、クラスの生徒たちのテスト点数などについては、そうしたこともいえよう。しかし、交通信号を知覚するケースなどでは、そうはならない。誰もが、自分の前の信号が何色になっているか、知っているのだから。」

 たしかに、交通信号のような例では、分布パターンが大きく歪んで一方に片寄っていたり、バイアスがかかっていたりする。したがって、ほとんどの人の認識結果が同一となる。けれども、サンプル数が多いときには明らかなように、分布そのものが消失するわけではない(だから、交通信号への不注意による交通事故が起きている)。私たちの間での知覚などの差は、日常的あるいは科学的観点からは、私たちの能力、注意力、体力などの相違によるといえよう。しかし、存在論的にいえば、私たちの共同主観的意識そのものが始めから分布のうちで形成され、働いているのである。(注9)

 私たちの活動があるフォーマット上にあるとき、私たちはある分布曲線のどこかに位置することになる。その位置に応じて、たとえ面する状況が「同じ」で、また語ることも同一だとしても、私たちはそれぞれ違ったパースペクティブや価値観を持っているのである。したがって、心は「本性上、すべての存在者と出会うところの存在」(トマス・アクィナス)なのではない。各個人の心も分布に従い、それぞれ本性上出会えないものをもつ。  

(付言すれば、存在物が私たちによって分布的に知覚されるのだから、「存在するとは知覚されることである」との格言にそって、存在自身が私たちに対して分布していると考えていくこともできよう。)


(注7) 廣松渉 『世界の共同主観的存在構造』 1972 戻る

(注8) ここでの「質的」という用語は、価値評価とは関係がない。戻る

(注9) 分布パターンがいかなるものとなるか、あるいはどう定式化されるか、といったことは、この小論の関心外である。戻る


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5章 新世界創出のメカニズム

 子供のころ私も、世界の高山に関心を持った。一番高いのはエベレストで八千何メートル、次は・・。けれども、しばらくして友達から「地球は丸いのだから、高さは重要でない」などと言われたのである。それまでまとまりがあり、曲りなりにも充足していた私の日常世界に、突如「科学的」世界が侵入してきたのであった。

なるほど、固有の世界においては存在物は有体的に現れる。すなわち、物的あるいは心的な性質や、肯定的ないし否定的な価値をもち、また、私たちに「感じ」といったものを与える。そして、これらの諸特徴が、存在物を私たちにとって有意味なものにしている(子供の私にとって、高山の素晴らしさ)。しかし、存在物を他の世界から見れば別の意味が、他の世界が元の世界を包含する点では、意義といったようなものが表れる(山の高さの瑣末さ)。対象の意義を理解するには、それを他の世界より見て、そこで再考するほかはない。AイズムはAイストの愚かしさを説明しないのである。

 ではいったい、既存の世界の一部から新しい世界ないしメタ世界はどのように創られるのであろうか。この小論を終えるにあたって簡単にみておこう。本格的検討は後日を期すことにしても、問題を整理しておかねばなるまい。

 例えば自然数一、二、三、・・の集合があるとき、その要素である二つの数を掛け合わせると、その結果はやはり自然数であるから、元の集合の要素になっている。このとき、自然数の集合は乗法の演算について「閉じている」といわれる。同様に、ある世界という集合をとってみると、その要素である個別的事象がいかに変化したところで、それに先立つ世界そのものは、やはり変化以前と同じものであり続け、変化はその世界の地平内にとどまる。したがって、世界はその変化について「閉じ」ており、新世界を創るものは、既存世界のたんなる変化や変質ではない。

 しかし、変化が、世界全体を「地」としてではなく、その特定の一部を「地」として現れるとき、つまり捨象的となるとき、それらはもとの世界を超越し、別世界が現れる。彫刻家が石を刻むとき、日常世界に生きる子供の目からすれば、ある石の形が変化しているにすぎない。当の彫刻家にとっては、その変化は日常世界の一部である石の形のみを「地」として現れ、表現となって、芸術世界を形成することになる。つまり、新世界創出のメカニズムは、世界が減ずることをもって自らを超越することにある。

 「それでは、この彫刻家の場合でも、第一節のラジオを聞く私の例でも、日常世界を捨象ないし抽象し、他の世界へと変換したのは人間であるから、諸個人の精神こそが多世界相互移行の実質的主体であるといえまいか。その精神を、デカルト的コギトととらえるか、共同主観的あるいは分布的とするかは、おくとしても。」こうした説がここで当然出てこようが、なるほどこの説は日常世界においては正しい。そこにおいては、たしかに人間精神が、各自の「私の心」が変換機である。

 私たちは多世界説をとるのだから、「私」もそれぞれの世界に応じて多となる。それではこれらの「私」はすべてそれぞれの世界において変換機、つまり主体になりえるだろうか。まず確認すべきは、これら非日常的世界の「私」は、日常的世界の「私」とはあり方がまったく異なることである。各世界にはそれぞれ固有の時空があり、他世界のものとは異質で通約できない。したがって、私に関しても「この有体的私」は、まさしくここだけにしかいず、他世界には存在しない。同一の世界が他にあるわけではないのと同様、同一の「私」も他にはない。

 そして、非日常的世界では、宗教の天地創造などを引き合いに出すまでもなく、多くの場合人間は新しい世界を作り出すような主体ではない。一般的にいえば、世界の種類に応じて、そのような主体もさまざまなのである。

 意味のある主体論を展開するには、また意味のある特定の世界を俎上に載せていなければならない。が、それは本稿の範囲外なので割愛したい。


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 以上で拙稿を擱筆しようと思いますが、日曜大工の流儀でせいぜいしゃれた犬小屋を目指すべきところを、多世界の存在論という大伽藍に着手してしまった感があります。不明を恥じるほかはありません。積層化・収斂、有体性、主体の分布、等々の基本概念は紹介できたものの、それらを詳述発展させることは今後の課題となります。礎石はあっても建築物の見えぬことを、懼れるばかりです。

(1998.09.01 改訂)


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