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反省・反射・反映反照、映し出すことReflexion (動詞:reflektieren)> (v. 3.2.)

語義
(1) ドイツ語の reflektieren は、ラテン語の動詞 reflectere (直接法・現在形。辞書の見出し語である直接法・現在・一人称・単数形は、reflecto)から派生した言葉で、re-back を、flecterebend を意味します(Oxford Dictionary of English reflect の項目)。したがって、reflectere の原義は、「元へ(後へ)と曲げる(曲がる)」です。
 そこから、reflectere は「1. 後ろへ曲げる(曲がる)。2. 向きを変える」の意味を持ちます(研究社『羅和辞典』1980年)。ただし、この 2 の意味での例文として、reflectere animum (心。思考)が出ており、「反省する」の意味になります。

(2) reflectere のラテン語の名詞形 reflexio は、
A. 反省 [ただし、日常用語では「反省」は、「自分がした行為や思ったことを、後で倫理的に検討し、今後の指針にすること」といった意味ですが、哲学用語としては「意識に生じたことを、後から自覚的に整序すること」です]、
B. 反射
C. 反映反照映し出すこと、Widerschein
の 3 つの意味をもちます(研究社『羅和辞典』1980年。なお、これら以外の意味は、ここでは無関係なので省略)。
 そこで、ドイツ語の名詞 Reflexion も、上記 A, B, C の 3 つの意味をもちます(*1)。そしてドイツ観念論の 3 人も、3 つそれぞれの意味を使っていますので、以下で順に見ていきたいと思います。

ドイツ観念論での用法
A. 反省
(1) 「~についての反省」の意味の場合、前置詞は über ないしは auf をとります。
・よく考える(nachdenken)という場合には、その対象を über で表し、
・「反省」といっても注意(Acht)を向けるというという場合には、その対象を auf で表すようです(Adelungreflectiren の項目 1) )。この auf は、「精神作用の方向」を表す 4 格です(相良守峯『大独和辞典』の auf の項目 II, 5)。

 以下で、über auf の両者を使用した例としてフィヒテの文を、auf の例としてシェリングとヘーゲルの文を、挙げておきます。
フィヒテ:「私 [フィヒテ] の返答は:(認識そのものについて)反省する自由をも(auf die Freiheit der Reflexion (über das bloße Erkennen))、君が実践的なものと見なすのであれば、君 [シェリング] は正しいのだろう。しかし見なさないのであれば、人は私たちのを反省すること自体によって(durch die bloße Reflexion auf unser Wissen)、[超越論的] 観念論へと駆りたてられるのである。」(*2)

シェリング:「多くの人は、自己意識の行為を自由に遂行できないし、またこの行為において自己意識のうちに発生しているものを、反省もできないということ・・・」(*13)

ヘーゲル:「この行為を私たちが省みるならば(Reflektieren wir auf dieses Tun)」(*3)

(2) 前置詞 in が使われる、「自分自身の内での反省(die Reflexion in sich selbst)」という用法もあります:
 「後者の対象は、まずは意識の自己自身のうちでの、たんなる反省(nur die Reflexion des Bewusstseins in sich selbst)であるようにみえる。」(*4)

B. 反射(意味を補って言えば、「反射のような運動」のことです。):「~への」反射の意味の場合は、「auf + 4 格」となり、「~の内への反射」は、「in + 4 格」になります。
(1) そもそもどうしてドイツ観念論において、「反射」ということが問題になるのかということですが――
 フィヒテの超越論的自我は、自己を措定することによって外化し、定在をえます。これが彼の有名な「事行」ですが、この自我の事行は(私たちの忘れやすい点ですが)「自ら自身のうちへと戻っていく」(*5)のです。そこで、外化したものが再び戻ってくるという事態を表すために、Reflexion(反射)という用語が登場します。つまり、光源から出た光が、鏡などで反射して戻ってくるような、折り返し運動の意味で使われます。

(2) そこで、反射するという意味での reflektieren は、「帰還する(=戻ってくる)」と訳したほうが日本語としてこなれた表現になることも、多々あります。とくに in sich reflektieren は、「自己内へ反射する」より、「自己内へ帰還する」の方が多くの場合すっきりします。

C. 反映:「~の内での反映」の意味の場合には、前置詞 in + 3 格 をとります。そして、さらに――

D. これらの意味の重ね合わせ:上記の意味を重ね合わせていると思われる用法もあって、やっかいなものになっています。

 結局、Reflexion (reflektieren) がどのような意味で使われているのかは、それぞれの文脈から見極めていく以外ありません。とはいえ、B, C, D の哲学的用法での Reflexion においては、以前の対象が新たな次元において現われることになります。そこで私たちの観点からは、Reflexion メタ化の運動過程を表しているといえます。

3人それぞれの用例
(1) フィヒテの場合 
 「A. 反省」という意味の Reflexion を、「帰還する」という事態とはじめて関係させたのは、フィヒテだろうと思われます。例えば:
 「形式をその形式固有の内容にし、自ら [=形式] 自身の内へと帰らせるような [in sich selbst zurückkehrt]、こうした自由の第 2 の活動は、反省Reflexion)と呼ばれる」。(*6)

(2) シェリングの場合 
 「A. 反省」の使用例としては:
 「自然が、自ら自身に対してまったく客観的対象(Objekt)になるという、最高の目的に到達するのは、最高にして最終的な反省をまってである。この反省とは人間に他ならず、より一般的に言えば、私たちが理性と名づけるものである。そしてこの反省によって、自然ははじめて完全に自ら自身の内へと帰る(in sich selbst zurückkehren)のである。このことによって自然は、私たちの内部で知的なものとして、意識的なものとして認識されているものと、もともと同じものであることが明らかとなる」。(*7)
 この文例でも明らかなように、ドイツ観念論においては、「反省」は自己の客観的対象化や、自己内帰還と密接な関係があります。

(3) ヘーゲルの場合
 i) 「1800年の体系断片」の草稿からイエナ期(1801-1807年)の前期:
・「A. 反省」の意味で、Reflexion は使われています。反省を行うのは、理性と区別される悟性です。
 理性は、「絶対的なものの現象」ですから「永遠に1つの同じもの」であり、「自らを認識する」もの、結局は「自らにしか関わらない」ものです(*8)。それに対し悟性は、「ただ人間の精神に属し」(*9)、反省において事物を有限なものとして、しかも事物相互の区別を固定したものとして、認識します。

・「C. 反映」の意味には、Reflex が使われています。たとえば、
 「その際には、つねに諸形式の有限性を、しかも諸形式を絶対的なものの反映(Reflex)として、叙述する」(*10)

 ii) イエナ期の中期からの著作
・「B. 反射」の意味で、Reflexion は多くの場合使われています。明瞭な例としては、
 「ここでは絶対的な自己同一性が、措定されている。[すなわち、] 反射(Reflexion)一般の否定が、他物への移行の否定が [措定されているのである]」(*11)。つまり、自己同一性が絶対的に存するときには、他物に移行してまた戻って来るという運動は、ありえないということです。

「自己自身の内への反射(帰還)」という意味で、Reflexion in sich (selbst) が、イェナ期中期からよく使われだすようです。

・「A. 反省」の意味でも、しかしながら使われています。前述の「A. 反省 (2)」の項目で引用したように、、『精神の現象学』(1807 年)の「緒論(Einleitung)」での die Reflexion des Bewusstseins in sich selbst は、「意識の自分自身の内での反省」の意味です。

・「C. 反映」という意味でも、使われます。たとえば:
 「直観としての理念は、直接的であるという一面的な規定性において、すなわち、外面的な反映(Reflexion)のもたらす否定性において、措定されている。」(*14)
 この引用文中の Reflexion は、数行後の「理念の反映(Widerschein)としての直接的な理念」での「反映(Widerschein)」と同じ意味です。

 iii) ところで Reflexion は、「反射(帰還)」の意味の場合でも「反省」とよく訳されており、結果として、ヘーゲル哲学の観念性なるものが示唆されることになります。このように訳され、解釈される説明として、「結局すべての運動は、絶対的精神の内部で起きるのであり、精神の運動であるから『反省』である」と言われます。なるほどこの説明自体は誤りではないにせよ、深読みのしすぎ、ないしは早とちりであって、それでは個々の Reflexion の文脈中での意味が取れなくなってしまいます。
 (下記の(*12)において、『精神の現象学』での典型的な文例を、検討しています。)

 iv) そこで、あれもこれもということで、「反射」と「反省」の両方の意味に取る解釈・訳もあります。「反射(反省)」などと、訳されます。しかし、ふつう学術(哲学)論文では(むろんヘーゲルも含めて)、語の意味は一義的に決めて執筆されます。多義的に用いる場合には、著者によってそれに適した文脈や状況設定がなされます。そうでないと、ただのあいまいな文章ということになるからです。したがって読者の方でも、この文脈ではこの意味しか持ちえないと判断するのが、まずは常道です。(本能寺の変を前にしての、光秀の発句などとは事情が異なるのですね。)

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(*1) 辞書の Adelung には 名詞 Reflexion の意味として、前述の「A. 反省」と「B. 反射」の意味が記載されています。ただし、「反省」をそのような行為と、それから生みだされる考えの 2 つに分けて、計 3つの意味となっています。
 また、動詞 reflektieren Reflectiren で記載)の意味としては、「反省する」と「反射する」の 2 つの意味が記載されています。
 なお、グリム『ドイツ語辞典』と『ゲーテ辞典』には、外来語のためか、名詞・動詞ともに記載されていません。

(*2) 「シェリングの超越論的観念論を読んでの感想」(1800 年に書かれた草稿。SW, Bd. XI, S. 368)

(*3) ヘーゲルのアカデミー版全集で、編集者によって「体系への 2 つのコメント(ZWEI ANMERKUNGEN ZUM SYSTEM)」と題された、1804 年の草稿。アカデミー版全集、第 7 巻、346 ページ。

(*4) この場合、「意識の反省」であることを示すために、Reflexion の後に Bewusstsein が付けられています。(アカデミー版全ヘーゲル集、第 9 巻、60 ページ。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第 3 巻、79 ページ)

(*5)『全知識学の基礎』岩波文庫(1995 年)では、下巻 177 ページ。SW, I, S. 134.

(*6) 『知識学の概念について』第 2 版(1798 年)の第 6 節。レクラム文庫版では、97 ページ、第 6 節の注E。SW 版全集では、第 1 巻、67 ページ。

(*7) 『超越論的観念論の体系』, Originalausgabe von 1800, S. 4f.)

(*8) 『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』、ズーアカンプ版著作集、第 2 巻、17 ページ。

(*9) 講義草稿の断片 1801/02 中の「論理学と形而上学」、アカデミー版全集、第 5 巻、273 ページ。

(*10) 同上、同ページ(アカデミー版全集、第 5 巻、273 ページ)。

(*11) 「イエナ期の体系草稿群 II」(1804/05 年)、アカデミー版全集、第 7 巻、130ページ。

(*12) すこし長くなりますが、段落の最初から訳出します(なお、『精神の現象学』の「序文(Vorrede)」での、反射(帰還)と反省の問題については、こちらをご覧ください):

 「以上の理由から言われるべきことは、経験の内にないものは知られないということである。言いかえれば、感じられた真理として存在していないものは、知られないのである。また、心の内で掲示された永遠なものとして、信仰された聖なるものとして、あるいはその他どのように表現されるにせよ、こうしたものとして存在していないものが、知られることはない。
 「なぜなら経験というのはまさしく、もとのan sich, [即自的])内容が(これは精神なのであるが)、実体が、それゆえ意識の対象が存在するということなのだから。この実体は、精神であって、生成である。つまり、もともとan sich)そうであったものへの、精神の生成なのである。そしてこの自らを自らの内へと反射させる生成としてはじめて、精神はもともと本当に精神なのである。
 「精神はもともと運動であって、この運動は認識を行うことである。前述の即自対自へと変化することであり、実体主体へと、意識の対象が自己意識の対象へと、つまり同じく止揚された対象へと、すなわち概念へと変化することである。この運動は、自らの内へと帰る円環をなしており、この円環はその発端を前提とし、ただ最後においてこの発端に到達する。――・・・」
(アカデミー版全集、第 9 巻、429 ページ。ズーアカンプ版、第 3 巻、585 ページ)

 ここで論じられているのは、ヘーゲル的「精神」の運動(生成・認識の運動)です。そのことを論じた部分である「この自らを自らの内へと反射させる生成(dies sich in sich reflektierende Werden)」は、後の「自らの内へと帰る円環(der in sich zurückgehende Kreis)」と同じ意味です。したがって、in sich reflektierende は「自らの内へと反射させる」運動だと解釈すべきです。「思考する」などのように思惟の活動を示す類語も出てきていないのですから、「自ら(3格)の内で反省する」と訳す理由はありません。

(*13) シェリング『超越論的観念論の体系』, Originalausgabe von 1800, S. 39.

(*14) ヘーゲル『エンチクロペディ―』、第 244 節。

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微差態 Differential> v. 1.1.

語義
 「限りなく小さい状態で、存在しているもの」といった意味です。マイモン(S. Maimon 1753?-1800)独自の用語で、『超越論的哲学についての試論』で使われています。
 従来 Differential は、「微分」と訳されており、また数学の微分から、マイモンがとった用語であることは明らかかです。しかし文脈上からは、「差分」の意味となります。微分というのは、高校数学を用いて言えば(ここではそのような理解で十分です):
 関数 y = f (x) において、x が ⊿x 増加するとき、yは ⊿y 増加するものとします。⊿x が無限に0に近づくときの、⊿y/⊿x の値が微分です。つまり、マイモン流にいえば、⊿x と ⊿y の関係が微分です(⊿y/⊿x = ⊿y : ⊿x ですから)。
 しかし、マイモンは、無限に 0 に近くなった ⊿x や ⊿y そのもの(すなわち差分)を Differential と呼んでいますので、 Differential は「差分」と解さないと、文意が取れないことになります。とはいえ、数学用語の差分をそのまま訳語にしたのでは、意味が通じにくいことや、マイモンは数学の差分を比ゆ的に用いていることから、「微差態」を採用しました。これは廣松渉氏が  Differential を訳すのに用いた(『講座ドイツ観念論』第3巻「カントを承けてフィヒテへ」、弘文堂、1990年、7 ページ)造語ですが、的確な訳語だと思います。
 この「微差態」は、「直観の要素」であり、「悟性理念」です。
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批判哲学 die kritische Philosophie> v. 1.0.

● 批判哲学とは、ふつう、3批判書を中心とするカント哲学のことを言います。

● フィヒテにおいては、カント哲学とそれを基礎づけた自らの知識学を指します。すなわち――

批判哲学の本質は、絶対的な自我がまったく無条件なものとして、より高次のものによっては規定されないものとして、立てられることにある。そしてこの哲学を、道理にしたがって推論していけば、知識学となる」(岩波文庫『全知識学の基礎 上巻』では、148 ページ。SW, Bd. I, S. 119.)。


物質(質料) Materie> v. 1.0.

 以下のシェリングからの引用文によって推測しますと、<物質そのものというのは、現実には存在しない。物質の概念は、ある現実的な現象から構成された、論理上のものである>と、彼は考えていたようです。
 そして、シェリング哲学を知悉していた若きヘーゲルも、当然このような物質観を、とっていたと思われます。

 「思考のうちで、対象をそれが持っている諸性質から切り離し、その後になお無規定な論理上の或るものを残すところから、この対象は現実においても、それら諸性質には依存せずそれだけで存立できるものだと、人は思うのである。また、たとえば物質(Materie, 質料)の概念は、もともと対立する諸力の総合(*1)に由来し、想像力によって生じるものだから、その後で物質のたんに論理的な――どういうものかは私は知らないが――概念(現実的には、まったく可能なものでない概念)から、矛盾率に従って物質の基本的諸力を分析的に導出できると、人は思うのである」。(シェリング『知識学の観念論を説明するための諸論文』(1796/97年)、オリジナル版(SW版)全集、I/1, S. 278.

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(*1) おそらく、ニュートン力学の慣性質量が、シェリングの念頭にあったと思われます:物体にある力を加えたとき、その質量に応じて抵抗力が生じて、加速度がきまります。逆にいえば、加えた力と抵抗力(加速度から分かります)の「総合」から、その物体の質量の概念が「由来」します。


弁証法 Dialektik>(ヘーゲルの場合) v. 1.8.

 ・この項の内容について
 ・弁証法の意味
 ・弁証法の由来
 ・弁証法の位置づけ
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この項の内容について
 ・弁証法についてのより広い観点からの考察(というより、たんなる感想ですが)については、「8つの疑問 7. 弁証法というのは何なの?」を参照ください。
 ・マルクス主義からのヘーゲル弁証法の把握、また同主義の弁証法観は、拙稿の対象ではありません。
 ・また、弁証法の語義(ギリシア語のディアレクティケー)や語の由来(ゼノン、プラトン等)については、哲学的に重要ではなく、煩瑣になるので取り上げていません。
 ・以下の文中では、「弁証法」という語は「ヘーゲル弁証法」のことです。
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弁証法の意味
 弁証法とは、ふつう「正(定立、テーゼ)→反(反定立、アンチテーゼ)→合(総合、ジンテーゼ)」の運動のように受け取られています。しかし、 
(a) ヘーゲルが弁証法という用語で最初に表した内容は、前記の「反」だけを指します。つまり、認識する側の規定であれ、存在する側の規定であれ(注1)、あるいは抽象的論理学の規定であれ、ある規定が否定されて対立的な規定へと、移行する運動です(注2)
 そのような弁証法という用語をヘーゲルが書き始めるのは、「イェナ期の体系草稿群 II」(1804-1805年)の「論理学」だと思われます。やがて弁証法は、彼の最初の主要な著作である『精神の現象学』(1807年)に登場することになり、「否定的な運動としての弁証法的なもの」(注3)などと言われます。

(b) やがて、元の規定とその対立規定が打ち消しあう運動である「弁証法は、肯定的な結果をもつ」(注4)、すなわちたんなる無ではなく、肯定的な新規定が生じることが言われだします。

(c) それのみならず、用語の使い方がずさんなヘーゲルだけあって――彼を弁護していえば、その場その場で意味が通じれば言葉の用は足りるわけで、肝心なのは思想の一貫性です(注5)――、弁証法の意味についても、もとの規定の否定から、新規定(をもった対象)への移行に重点を置く場合がでてきます(注6)

(d) さらに、興が乗ったのか、力が入ったのか、あるいは昔日の自説に疎くなった・軽んじたのか(一般的にこういうことは、案外よく起きます)、肯定的新規定の出現に、焦点を合わせた用法も後年には現れました(注7)

 したがって弁証法については、(a) ないし (a) + (b) が本来の意味なのですが、巷間ではそれを狭義の弁証法、 (c) + (d) ないしは (a) ~ (d) すべてをひっくるめたものを広義の弁証法として、受け取っているようです。(注8)

弁証法の由来
 それではどうして規定性が、自己矛盾から否定的な弁証法的運動を起こすのかということですが、おそらく次のような理由だと思います:
 もともとヘーゲルには(というか、クラシックな哲学者たち一般には)、個別的なもの・有限なものは束の間の現象であって、「有限なものもは・・・真理ではない」という発想があります。さらに、「有限なものに対置される無限なものも、真理ではない」(注9)と、彼は考えます。といいますのは、そのような無限は、有限なものを自らの外に存在させているのですから、その有限なものではないものとして制限を帯びており、したがって有限なものへと転じてしまっているからです。
 そこで、真に存在するといえるのは、それに対置される有限なもののない無限性、すなわち有限なものを自らの内に含み、完全な全体性において存在する絶対的なものです。これは、すべての規定性を免れているはずです。規定されているということは制限されていることであり、それでは有限なものたらざるをえないのですから(注10)。とはいえ、規定性にまったく無縁であれば、絶対的なものは内容のない空虚な無になってしまいます。そこで、絶対的なものとは、すべの規定性が否定されたもの、その意味で観念的なあり方をしているものになります(注11)――すなわち絶対的なものは、肯定的規定性をもたないため実在的ではなく、直接的に現存(Dasein)はしません。
 さて、 個物の方は規定性をともなって現存しますが、フィヒテ以来のドイツ観念論の発想では、個物は絶対的なもの(真の全体)が自らを措定したもの・外化したものです。この個物はやがて絶対的なものに帰一すると、考えざるをえません。もし帰一しなければ、前述したように、絶対的なものの外に有限な個物が存在することになり、絶対的なものは真に無限なものではなくなってしまい、絶対的なものとは言えなくなります。
 では、帰一の運動はいかに行われるのか? 個物Aに対して非A(すなわち、-A)が措定され、A+(-A)=0(すなわち、無規定)になることによってでしょう。この時、絶対的なものは 0 の無規定にとどまりながら、規定性Aの否定的媒介を経ている(止揚されたAを内にもっている)ことになります。
 問題は非Aがどこから来るのかということですが、究極的・根本的には観念的なあり方をしている全体的・絶対的なものからだということになるのかもしれません。が、ヘーゲルは、個物の規定性A自体が「矛盾」を蔵すことを、はやくから考えていたと思われます(注12)。そこで、個物Aそのものが非Aを可能態として含んでおり、それが顕現してAを否定することになります。この間の事情を、彼は次のように述べています:

 「真の無限性とは、規定性が否定されねばならないということが、すなわち a – A = 0 が [拙文では、A+(-A)=0]、実現したものである。真の無限性は、ある種の列――すなわち、つねにその [無限性の] 完成を、自らのつねに外部にある他のもののうちで持つ [項の] 列――ではない。この他のものは、規定されたもの自体がもつのである。規定されたものは、それ自体が絶対的矛盾であり、このことが規定性というものの真の本質である。
 「すなわち、対立する 2 項のうちの 1 つの項はそれだけとしてあるのではなく、対置されて措定されていることにおいて存在する。あるいは、ただ絶対的な対立のみが存在する。対置されて措定されているものは、対置されて措定されていることのうちでのみ存在することによって、それの他のもの [=それに対置されているもの] と同様、対置のうちで破棄される」(注13)

 とはいえ、絶対的なものが個物Aを外化してそれを帰一させ、次にBを外化・帰一させ、そしてCを・・・という構図をとるのであれば、前述までの説明でいいのかも分かりませんが、ヘーゲルの哲学体系では、個物から個物が生じます。「A→B→C→・・・」となるわけで、「A+(-A)=0」(前記ヘーゲルの引用文では、a – A = 0)では不十分で、「A+(-A)=B」でないといけないことになります。
 このBになる理由づけとしてヘーゲルが持ちだすのが、規定の否定はたんなる無ではないという、有名な議論です:

 「[否定である] 弁証法は、肯定的な結果 [前記のB] をもつ。なぜならこの弁証法は、規定された内容をもつからである。すなわち弁証法の結果は、空虚で抽象的な無ではじっさいないからであり、何らかの規定の否定だからである。このため否定された規定は、結果のうちに含まれており、結果は直接的な無ではなく、結果だからである」。(注14)

 なお、「A→B→C→・・・」の進行中、一々Aとその否定-Aがが現れてBに移行、そこで-Bが現れれてCに移行、そして-Cの否定が・・・とせずとも、Aが自己否定をしてBに移行するといった具合に、-Aを便宜上とばして直接次の規定Bへの移行を叙述できるなら、それでもいいわけです。この場合には弁証法は、ある規定が否定されて他の規定(をもつ対象)に移る運動という 、前述の (c) の意味になります。(注15)

弁証法の位置づけ
 さて、ヘーゲルが『精神の現象学』を出版した後、戦火を避けたニュルンベルク時代(1808-1816年)に、弁証法の概念も整備されました。それがよく分かる箇所を引用すると:

 「哲学の内容は、その方法と真髄(Seele)において、3つの形態をもちます。1. 抽象的、2. 弁証法的、3. 思弁的の3つです。
 「哲学の内容が思考一般の領域(Element)において存するかぎりは、その内容は抽象的です。しかし、弁証法的なものや思弁的なものと対置されたたんに抽象的なものとしては、この内容はいわゆる悟性的なものです。この悟性的なものは、[内容のもつ] 諸規定をそれら相互の固定的区別において固持し、知ることになります。
 「弁証法的なものは、この固定的な規定性が運動をして混乱をきたすことです――すなわち否定的な理性です。
 「思弁的なものとは、肯定的に理性的なものであり、精神的なものであって、初めて哲学本来のものなのです。」(注16)

 以上をまとめますと、よく知られているようにヘーゲルにあっては以下のようになります:
・哲学=思考の領域=抽象的な規定性
・悟性=規定性の固定化
・否定的理性=規定性の自己否定的運動=弁証法
・肯定的理性=本来的な哲学=思弁的なもの

 また、ヘーゲル哲学体系の完成形である後年の『エンチクロペディー』(1817年)でも、論理学について同様なことが述べられています(注17)。したがって、こうした前述 (a) の見方が、彼本来の弁証法観だと思われます。とはいえ、巷間「ヘーゲル弁証法」が言及されるときには、(a) ~ (d) すべてが含意される場合が多く、それもヘーゲルの用語のずさんな使い方がきたした結果として、致し方ないといえます。

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注1) 次の一節がよく知られています:
 「弁証法を的確に把握し、認識することが大変重要である。弁証法こそはすべての運動、生命、そして現実活動の原理である。また弁証法は、真に学問的な認識すべての真髄でもある。(『小論理学』、第81節の補注1。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第8巻、173ページ)
 ★ 『小論理学』というのは通称で、1817年に出版された『エンチクロペディー(Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse)』の「第1部 論理学(Erster Teil Die Wissenschaft der Logik)」を指します。それに対し、通称『大論理学』は、1812-1816年に出版された『論理学(Wissenschaft der Logik)』(1830年に第1巻「有論」を改定)を指します。

注2) 例えば次のように言われます:
 「理性の弁証法が存するのは・・・悟性的規定や判断的規定の性質自体においてである。すなわちそれらの規定が、もともと(an sich)その規定にしたがっては措定されておらず、その対立規定へと移行するという性質においてである。理性のもつ弁証法は、まずはたんに規定を止揚することによって、まず否定的なものである。(「中級クラスのための論理学」(1808/09年)、第27/59節。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第4巻、90ページ).
 「理性は、存在の悟性的規定性が、この規定性とは対立する規定性へと移行することを示す。そのことによって、理性は否定的である、すなわち弁証法的である。通常、弁証法的なものが現れるのは、ある主語について2つの対立する述語が主張されるときである。[すなわち、] 純粋に弁証法的なものが存するのは、ある述語における悟性的規定性が、その規定性そのものにおいて、同じくその規定性の対立規定でもあること、したがってその規定性は自らのうちで止揚されることが、示されることにおいてである」。(「上級クラスのための哲学的エンチクロペディー」(1808年以降)、第170節。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集第4巻、55-56 ページ).

注3) 『精神の現象学』、ズーアカンプ版著作集では、第 3 巻 160 ページ。アカデミー版全集では第 9 巻 119 ページ。

注4) この引用語句は、『小論理学』(1817年)第82節、ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第8巻、176-177 ページ)から。

注5) 用語法のブレで、ヘーゲルに文句を言っても仕方ないのかもしれません。ベートーベンは楽器から出ない高音を楽譜に書いているので、演奏時にはその部分は別の楽器を使うそうです。モーツアルトならこういう作曲はしない、とは言えても、だからベートーベンはダメだとはならないようなものでしょう。

注6) この (2) の使用例としては、例えば:
 「普遍的なものが特殊化したものを(die Besonderungen)、たんに解消するだけでなく、産出するような概念の動的原理を、私は弁証法と呼ぶ。(『法の哲学』(1821年)第31節、ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第7巻、84ページ)

注7) 例えば:
 「[古代懐疑論やプラトンなど] より高い概念の弁証法は、たんに制限や対立としての規定を産出する [すなわち、否定的「反」の部分] ばかりでなく、この規定から肯定的内容や結果を産出し、把握しなければならない。このことによって、この弁証法のみが発展であり、また内在的な前進となるようにである。」(『法の哲学』(1821年)第31節、ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第7巻、84ページ)
 このような (d) の意味の用法が最初に現れるのは、『(大)論理学』末尾の「絶対的理念」(1816年)においてかも知れません:
 「第2のものにおける弁証法の契機は、この第二のものに含まれている統一性 [いわゆる「合」] を措定することである」。(ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第6巻、562ページ)

注8) もともとは否定的運動であった弁証法が、肯定的総合へと変わったことを、私たちはヘーゲルの用語法のずさんさだと考えます。それを「狭義」と「広義」だと解釈するのは、いわば泥棒に追い銭でしょう。
 「狭義」と「広義」という事態が成立するのは、両者には共通の内包があるものの、厳密さとか強弱に差がある場合です。しかし今の場合は、「否定的」と「肯定的」というように、意味が逆になっているのですから、狭い・広いなどとは無縁の事態です。それを広・狭で分けるものの、「弁証法」と一括したのでは、混乱をきたします。
 なるほど、どちらも概念の運動であることは、共通しています。しかし運動ということは、ドイツ観念論哲学の結構そのものであり、ヘーゲル的に言えば「実体は主体である」という哲学観ですから、それを「弁証法」というテクニカルな述語で表すのも、不自然です。

注9) 「有限なものも、有限なものに対置される無限なものも、真理ではない」。(「中級クラスのための論理学」(1808/09年)、第36/68節。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第4巻、93ページ).

注10) 「規定されたものは、有限なものである」。(「中級クラスのための論理学」(1808/09年)、第35/67節。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第4巻、93ページ)

注11) 「止揚されたもの(観念的なもの)」(『(大)論理学』(1832年の改訂版)、第1部、第1巻、第1章、C. 生成、c. 生成の止揚、注釈。(ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第5巻、113ページ))

注12) 1801年、ヘーゲルはイェナ大学で教える資格をえるために、12条からなる「教授資格討論提題(Habilitationsthesen)』を提出します。その第1条が、有名な次のようなものでした:
 「1. 矛盾は真理の規則であり、無矛盾は虚偽の規則である」。(ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第2巻、533ページ)  
 おそらくヘーゲルは、森羅万象が「矛盾」を内在的に蔵していると、観じていたのでしょう。なお、フィヒテやシェリングも、自我ないし絶対的なもののうちには「対立(Wiederstreit)」「対置(Entgegensetzung)」があるとは、考えていました。

注13) 「イェナ期の体系草稿群 II」(1804/1805年)、アカデミー版全集、第7巻、33ページ。

注14) 『小論理学』(1817年)第82節、ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第8巻、176-177 ページ)
 なおこのような、規定性の否定は肯定的内容をもつという考えは、ヘーゲルのオリジナルだと思われます。この考えは、『精神の現象学』(1807 年出版)「緒文(Einleitung)」においてすでに現れています。それも当然で、否定の媒介による「A→B→C→・・・」という構成がとられる;ヘーゲルの最初の刊行物が同書ですから、彼はその理由づけを「緒文」においてしたのです:
 「真実ではない知においてその都度生じる結果は、空虚な無に帰してしまうというものではなく、真実ならざる知の無であるという結果として、ぜひとも理解されねばならない。この結果は、真理についての先行する知が、自らのもとに持っていたものを含んでいる。このことは、この『精神の現象学』においては次のように現れる・・・ 新しい対象とともに、意識の新しい形態もまた登場するのである」。(アカデミー版ヘーゲル全集、第9巻、61ページ。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第3巻、79-80 ページ)

注15) ちなみにこうした論理の有効性については、「神-キリスト」の神学的部面だけでなく、(観念的)全体-(実在的)部分の関係が成り立つところでは、一考の余地があるでしょう。例えば、日本語とその個々の発話です。そして万物は、言語と同じく意味を有する記号的あり方をしていると言われえるかぎりは、世界そのものの論理としてもです。

注16) 「ギムナジウムにおける哲学の講義について」(1812年)。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第4巻、412-413ページ)
なお、弁証法を含むこのような3段階が、もっとも早く記されたのは、1808年の「上級クラスのための哲学的エンチクロペディー」第12節だと思われます。論理学について、同じことが言われています:
 「論理学は [Das Logische. そのまま訳すと「論理学的なもの」ですが、前の文で「論理学(Die Logik)」の語が使われているので、繰り返しをきらって das Logische にしたと思われます。ヘーゲルの文中では、こういうことはよく行われます] 3つの側面をもつ。1. 抽象的な、すなわち悟性的側面。2. 弁証法的な、すなわち否定的な理性の側面。3. 思弁的な、すなわち肯定的な理性の側面。・・・弁証法的なものは、概念が [他の概念へと] 移行したり、消滅したりすることを示す」。(ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第4巻、12ページ)

注17) 「論理的なものは形式上、3つの側面をもつ。α)抽象的すなわち悟性的側面、β)弁証法的すなわち否定的・理性的側面、γ)思弁的すなわち肯定的・理性的側面」。(『エンチクロベディー』、第79節。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第8巻、168ページ)


ポテンツ Potenz> v. 1.2.

 シェリング哲学に特徴的な用語で、「勢位」「展相」などと訳されます。簡単に言えば、力能の諸段階を意味します。これら諸段階のあいだには、質的差異はなく、量的差異しかありません。
 (あっ、ちょっと簡単すぎますよね。詳しくは、またのちほど・・)
(初出: 2012.6.29)

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