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 『精神の現象学』の成立過程と、論理学 (v. 6.9.1)

(旧稿: 『精神の現象学』成立における、フィヒテ「5世界観」の影響の可能性を
改稿しました)

      目 次

 はじめに
 凡 例

I. 1806 年 2 月の「印刷」と、中間タイトル(中間表題)
   (1) 「意識の経験の学問」について
     (i) ヘーゲルの著作から
     (ii) ローゼンクランツ『ヘーゲル伝』から
     (iii) イェナ期の論理学と、後年の論理学の相違
   (2) 「第 1 部」について

II. 1806 年 3 月頃の講義告示

III. 『論理学』から、『精神の現象学』への変更理由

IV. 1806 年 4(5)月のフィヒテの 5 世界観

V. その後の体系構成

VI. 付記:『精神の現象学』のいわゆる異稿断片について
   (1) 異稿「C. 学問」について
   (2) 異稿「絶対知」について


  はじめに

 ヘーゲル(1770-1831 年)の最初の著書である『精神の現象学』(1807 年出版)は、彼のイェナ期(1801-1807 年)の研究・著作活動の最後に、突然出現したような趣を呈しています。つまり、それまでのヘーゲルは、真の哲学が自己完結していることを主張し(*1)、この哲学そのものにたずさわっていたのでした。そして彼の講義も、それに沿っていました。『精神の現象学』が叙述するような、自然的で非哲学的な意識が歩む「学問 [=哲学] への道」(*2)を、説こうなどとはしていなかったのです。
 そこでこの著作の位置づけが――すなわち、彼の哲学体系の形成過程であったイェナ期における、また彼の哲学全体における位置づけが――、問題となり、さまざまな説が展開されてきました(*3)。ここで、それら諸説にほぼ共通な了解事項を、あげておきますと――
(1) ヘーゲルは 1805 年の冬に、結局は『精神の現象学』として現われる書物に関して、ゲープハルト書店と出版契約を結ぶことになった(*12)

(2) したがって、ヘーゲルは『精神の現象学』の執筆を、遅くとも 1805 年の冬頃から始めた。

(3) 翌 1806 年の 2 月には、この書物の一部の印刷が始まった(*4)

(4) このとき印刷された中間タイトルZwischentitel)――すなわち、序文(vorrede)と緒論(Einleitung)の間に置かれたタイトル・ページ――は、「第 1 部。意識の経験の学問。(Erster Theil. Wissenschaft der Erfahrung des Bewusstseyns.)」だったと推定される(*5)

(5) この翌年の 1807 年に、『精神の現象学』は出版されたが、その「緒論(Einleitung)」では、精神の現象学は意識の経験の学問だと言われている(*6)。したがって、1806 年 2 月の印刷物の中間タイトルが、表記していたであろう「意識の経験の学問」とは、「精神の現象学」を意味している。

(6) そこで、前記の 2 月の印刷物は、まさしく彼の著書『精神の現象学』のはじめの部分であった。

 しかし、このようなこれまでの通念対して、私たちは、1806 年 2 月の「印刷」はイェナ時代の「論理学」であったが、その後ヘーゲルは同年の春に、突然その本を『精神の現象学』に変更したと考えます。私たちの主張の輪郭を、示しますと:

(A) 1806 年 2 月の時点では、「第 1 部 意識の経験の学問=イェナ期の論理学」の可能性が、高いと考えます。したがって、ゲープハルト書店と出版契約したヘーゲルは、その後、「論理学」を執筆していたのです。
(B) ところが、同年春にヘーゲルは本の内容を「精神の現象学」に変更して、翌 1807 年に出版します。
(C) 内容変更の理由は、庶子の誕生を予測しての経済的事情によるものでした。
(D) 変更のきっかけ(理由ではなく)としては、彼が、1806 年の 4 月初めに出版されたフィヒテの講演集『幸いなる生への導き』(*7)によって、「5 世界観」を知ったことが考えられます。
(E) それまではヘーゲルの哲学(学問)体系の第1部は、イェナ期の「論理学」でしたが、こうして緊急避難的に、第 1 部が「精神の現象学」に変更されます。
(F) しかし、それではやはりすわりが悪いものですから、やがて 1817 年の『エンチクロペディー(哲学全書)』では、論理学が第 1 部に復帰し、精神の現象学は第 3 部の精神哲学の一部へと吸収されます。これによって、もとのイェナ時代の意想にも沿った、あるべき体系の姿に戻ったことになります。

 『精神の現象学』の成立過程を示す確実な物証は、ごく僅かしかありません。ヘーゲルの講義告示や、聴講生の報告――それも報告のオリジナル原稿は失われ、後世の人の疑わしい抜粋があるだけ、といった場合もあります――などからの推測に頼ることになります。
 出版に関することに言及したヘーゲル本人の手紙は残っているのですが、彼の性格を勘案するとき、それらにもあまり期待はできません。と言いますのも――
・イェナ時代に実現しなかった著作の出版予告を、彼は 4 回行っており、ゲーテへの猟官運動のための手紙においても、この将来の著作に言及するのですが(*8)、結局予告したようには実現しませんでした。彼の苦衷を察すべきではありますが、それにしても不履行回数の多いのが気になります。約束を律儀に(あるいは強迫観念から)、果たす性格ではなかったようです。
・率直に(あるいは、わざわざあからさまに)、事情を話すような性格とも違います。彼は後年の哲学史の講義で、フィヒテがイェナ大学を辞職したことに触れたおり、フィヒテは「黙っていることもできたろうに [それで事は納まったのに]」と、述懐したことがあります(*9)。また、フロムマン夫人に自分の婚約を知らせた手紙では、そのことを庶子の母親には「秘密に」しておいてもらいたいと、頼んでもいます(*10)。(彼の苦衷を・・・)(*11)
 ヘーゲルがウソを書くことはなかったにしても、彼の手紙の文脈がおのずとほのめかすが如き事態を、私たちは安易に想定してしまってはいけないということです。あくまで事実のみに着目すべきでしょう。

 結局、1807 年に『精神の現象学』の本の印刷見本が現れるまでの成立過程の解釈については、極端に言えば何でもありということになります。しかしやはり、状況証拠を固めながら、疑う理由が特にないかぎり彼の手紙や同時代人の証言も参考にして、可能性の大きい事実を探っていこうと思います。

 なお、拙サイトに「ヘーゲルのイェナ期年表」がありますので、ご利用ください。


  「はじめに」の注

(*1) 例えば、アカデミー版全集で編集者によって「体系への 2 つの注記」と題された、1804 年の草稿では、次のように記されています:

 「絶対的な認識としての哲学は、いかなる他のものにも――この他のものが、認識として考えられようと、存在として考えられようと――依存せず、あるいは他のものを前提にはしないものとして、立てられているのである」。(GW, Bd. 7, S. 343)
 「哲学は・・・ただ 1 つの提題(Satz)しかもたない。この提題が、哲学の全内容を形成するのである。そこで哲学は、この提題の外へは決して出て行かないし、他の提題へと移行することもない。全体的体系としての哲学の組織は、それ自体がこの哲学の理念 [=提題] を表現したものに他ならない。哲学の組織は、この理念の説明に他ならない・・・」(ibid.)

 なお、この草稿が1804年頃に書かれた可能性が大きいことについては、Rolf P. Horstmann の『イェナ期・体系草稿群 II』への序文 XXI-XXII ページを参照。

(*2) G.W., Bd. 8, S. 61 / Werke in 20 Bändenb Bd. 3, S. 80.

(*3) さまざまな見解を簡略に概観したものに、『ヘーゲル事典』(弘文堂、1992 年)の「精神(の)現象学」の項目があります。

(*4) このことが分かるのは、ヘーゲルのニートハンマーFriiedrich Immanuel Niethammer, ニートハマーとも表記)宛の手紙(1806-8-6 付)からです:
 「印刷は 2 月に始まりました。そして、もともとの契約では、この部分は復活祭の前にでき上がるはずでした」。

(*5) このように推定される理由は、こちらを参照して下さい。

(*6) 「・・・学問へのこの道自体がすでに学問なのであって、その学問の内容からは意識の経験の学問である」。(Werke in 20 Bänden, Bd. 3, S. 80

(*7) フィヒテの講演集『幸いなる生への導き』の出版が、4 月初めだと推測されることについては、こちらをご覧ください。

(*8) Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 85.

(*9) Werke in zwanzig Bänden, Bd. 20, S. 387. 確かにヘーゲルの言うとおりですが、黙っていたとすれば、フィヒテではなくなってしまいます。

(*10) Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 362.

(*11) ヘーゲルの名誉のために一言すれば、彼はずるく立ち回るタイプではむろんありません。状況に流されてしまった後で(そこに問題があるといえばいえますが)、保身のためやむなく「最善」の方策をとる――という、ふつう私たちが考える仕方で振るまったのでしょう。
 30 才でイエナ大学に赴任するまで、反体制的な宗教社会学的とでもいうべき評論を多く残していますが、これらは発表のあてなき草稿でした。そもそもが大学の神学部を卒業したのですから、キャリア聖職者になればよかったのでしょうが、気の利かない青年が理想と共に人生を歩みだしたのでしょう・・・
 10代始めには母親をなくし、20 代の終わりには父親も他界、妹はヘーゲルの病死後 3 ヶ月もしないうちに、投身自殺をしています。中年にいたっても、先輩や同僚などに借金せざるをえなかった生活でした。前記フロムマン夫人への手紙にしても、惻隠の情を禁じえぬ面もあります;危ない橋を渡りもしたのでした。
 苦労と忍耐の多かった彼ですが、精神的ダメージも相当あったはずで、引きつったような、あるいはねじれたようなものが、残ったのではないかと思われます。

(*12) 『ヘーゲル事典』の「ヘーゲル詳細年譜」、弘文堂、平成4年、642 ページ。


  凡 例

精神の現象学からの引用は、『アカデミー版』のヘーゲル全集第 9 巻に基づいた、マイナー社(Felix Meiner Verlag)の哲学文庫版Philosophische Bibliothek 414, 2006年) Phänomenologie des Geistes からしました。(この版は、また「学生用廉価版(Studienausgaben)」などとも呼ばれています。)
 ただし、この哲学文庫版には『アカデミー版』でのページ数も記されていますので、引用(参照)箇所の提示は、より一般的な『アカデミー版』のページ数でしました。

イェナ期・体系草稿群 I (II, III)というのは、『アカデミー版』のヘーゲル全集第 6 (7, 8) 巻に基づいた、マイナー社の哲学文庫版Philosophische Bibliothek 331 (332, 333)Jenaer Systementwürfe I (II, III) のことです。

Briefe von und an Hegel (ヘーゲル往復書簡集)とあるのは、ホフマイスター(Johannes Hoffmeister)が編集した、マイナー社(Felix Meiner Verlag)の哲学文庫版Philosophische Bibliothek))のものです。

・著作物は、以下のように略記しました:
  GW: Georg Wilhelm Friedrich Hegel, Gesammelte Werke
      ヘーゲルの全集で、いわゆる『アカデミー版』、ないしは『批判版(Die kritische Edition)』、または『歴史的批判版(Die historisch-kritische Edition)』、あるいは『決定版ヘーゲル大全集』と、呼ばれるものです。
  Werke in 20 Bänden: G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Bänden
      ズーアカンプ(あるいはズールカンプ)社(Suhrkamp Verlag)版ヘーゲル著作集』です。

・引用したドイツ語は、現在の正書法で表記しました。

・原文では段落分けをしていない箇所でも、訳文は読みやすさを考えて、新段落にしました。したがって、文章をどこで切って新段落にするかという判断には、筆者の解釈が入っています。
 なお、原文で段落分けをしている箇所は、訳文では 1 行空けて新段落としています。

[  ] 内は、断り書きがないかぎり、訳者の挿入です。


I. 1806年2月の「印刷」と、中間タイトル(Zwischentitel, 中間表題)

 1806 年 2 月にはじまったとされる印刷は、販売用の本自体の、最初の部分の印刷と、ふつう受けとられているようですが、むしろ、著者ヘーゲルの初校用の可能性が大きいと思います。というのは――
・常識からいって、原稿がまだ書き終えられていない段階で(ヘーゲルが原稿を出版社に渡し終わったのは、同年10月)、1000 部前後にもなる製本用の印刷を、出版社がするはずはありません。段階的に印刷する予定だったとしても、員外教授の処女出版の原稿が出来上がってない段階で、数百部印刷するとは、考えにくいのです。
・また著者の校正を経ずして、そのような印刷がされることはないですが、1806 年 2 月以前に、ヘーゲルが校正を行ったという記録はありません。
 そこでヘーゲルは、この段階での校正用印刷の内容を、後で大きく変えたり、はなはだしい場合にはすべてを差し替えることもできます。すなわち、この段階での印刷内容が、後日の『精神の現象学』の初めの部分であるとは――言い換えれば、『精神の現象学』の初めの部分は、すでに2月に書かれていたとは――、確言できないわけです。
 私たちの見解としては後述するように、「印刷」のうちには、『精神の現象学』の緒論(Einleitung)に流用された部分が、含まれていた可能性があります。しかしこの「印刷」のうちそれ以外のものは、4月(5 月?)以後には削除されて、『精神の現象学』に適合した緒論ならびに「I. 感覚的確信」以降の本文によって、置き替えられたと考えられます。(むろんそのような大幅な改変を、まだ無名の学者がすれば、出版社との関係は悪くなって当然です。これも原因の1つかどうかは分かりませんが、後でゲープハルト書店とはトラブルが起きます)(*17)
 なお、『精神の現象学』冒頭の「序文(Vorrede)」は、緒論(Einleitung)より前に置かれていますが、緒論と本文が完成した後に書かれ、翌 1807 年の 1 月にゲープハルト書店に送ったことがはっきりしているので、拙稿の対象外です。

 では 2 月の印刷の中間タイトルが、「第 1 部。意識の経験の学問」だったことはどのように説明できるのでしょうか? このタイトルが表すものは、 2 月の時点では、まだ『精神の現象学』ではなく、イェナ期の論理学のことだったと推測できます。タイトルに使われている用語を、一つひとつ見ていきましょう。

  (1) 「意識の経験」について
    (i) ヘーゲルの著作から

  ヘーゲルの著作において、「意識の経験(Erfahrung des Bewusstseins)」という用語は、『精神の現象学』緒論の有名な一節(*1)以外では、1805 年から1806 年にかけて執筆されたとされる(*2)「イェナ期の体系草稿群 III(自然哲学と精神哲学)」の「精神哲学」の1ヶ所で使われています。しかしその他では、おそらくは使われていません。
 したがってこの「精神哲学」の個所は、2 月印刷の中間タイトルと同じ頃に書かれたということもあって、重要です。以下に引用しますと:

 「理解や洞察は区別であるが、この区別は事物の中にあるのではなく、悟性に対する事物の区別である。――悟性は、本来はここ [精神哲学] に属するのではなく、意識の経験に属するのではあるが」(*3)。 

 上記引用文中の「意識の経験」という語句には、編集者(*4)が注を付けており、「下の余白には、『悟性、判断、推論――』と記されている」 [――線は原文] と述べられています。すなわち、ヘーゲルが下の余白に「悟性、判断、推論(Schluss)――」と書いたのは、「意識の経験」には「悟性、判断、推論」などが関係している、という思いがあったためでしょう。

 (ア) この「悟性」については、ヘーゲルのその後の余白への書き込みから、この悟性がどのような領域で活動するものかを、うかがうことができます。つまり、上記引用文には、

 「したがって自我は、物へ、すなわち普遍者そのものへ、働きかける・・・」

という文が続くのですが、この「自我」にも編集者の注がついており、ヘーゲルが余白に書き込んだことが採録されているのです(*5)。この採録文中では、前記の「自我」は「悟性」と言われていますが、この悟性は『精神の現象学』というより、「論理学」の領域で活動しているように思われます。
 そこで、論理学の領域ではたらく悟性を探してみますと、前年の清書された「イェナ期の体系草稿群 II」(1804/1805年)に、それへの言及があります:
  「この無限なものは、論理学の第1部と、すなわち悟性の論理学と名付けられたものに他ならない」。(*6)
 この言及によれば、「論理学第1部=悟性の論理学」となります。そして、悟性が論理学(少なくとも最初の部分)を担当するというのは、じつはヘーゲルのもともとの体系プランでもありました(*7)。したがって、「精神哲学」からの前記引用文の下の余白に書き込まれた「悟性」は、論理学中のものだと言って差支えないでしょう。。

 (イ)「判断、推論」については、前記の「イェナ期の体系草稿群 II」では、「論理学」の部分の「II. B. B. 判断」と次の「II. B. C. 推論」で扱われています。
 
 (ウ)悟性が判断、推論とともに「論理学」のうちで扱われることは、すでに 1801/1802 年の講義草稿「論理学と形而上学」において(つまりヘーゲルの講師活動の最初期から)、予定されていたことでした:
 「[私たちは] 悟性を・・・概念、判断、推論という段階において考察するであろう」(*8)

 こうして(ア)、(イ)、(ウ)より、「意識の経験」はイェナ期論理学と密接な関係があるといえるでしょう。
 もし仮に、この「意識の経験」が後に『精神の現象学』として現れるものをを指したとします。すると、問題となっている「悟性、判断、推論――」の「悟性」は、『精神の現象学』の「III. 力と悟性」の「悟性」に、相当すると解するより他ありません。しかし、この「III. 力と悟性」の内では、「判断、推論」がどこにも登場してきません。これでは、ヘーゲルが「悟性、判断、推論――」と書き込んだ意味が、取れなくなってしまいます。

    (ii) ローゼンクランツ『ヘーゲル伝』から (*18)

 意識の経験と論理学については、ローゼンクランツ『ヘーゲル伝』にも記述されている箇所がありますので、ここで見ておきたいと思います:

 「そこで彼 [ヘーゲル] は、意識が自分自身についておこなう経験の概念をまずは論理学と形而上学へのいくつかの入門 [講義] において、展開した。ここから 1804 年以降、現象学への構想が生まれた」。(*9)

 まず、この記述の信憑性が問題となりますが、しかし、これを覆すような反証もないようです。そこで、ローゼンクランツのこの回想を信ぴょうして、話を進めまたいと思います。
 a) イェナ期のヘーゲルが、「論理学と形而上学へのいくつかの入門」講義において、「意識が自分自身についておこなう経験の概念を・・・展開した」とすれば、この「展開」は、
・講義のテーマである「論理学と形而上学」に沿っていたか、つまり、「論理学(と形而上学)」自体が「意識が自分自身についておこなう経験」であったか、
・講義のテーマからは離れた余談・脱線のようなものであったか、
このどちらかですが、おそらく前者でしょう。
 というのは、前者の可能性は、前記「(i) ヘーゲルの著作から」で述べたことより、ありえます。しかし、後年の『精神の現象学』を思わせるような草稿は残っていないので、後者だとは想定しにくいことがあります。
 b) 前記引用文中には、論理学のみならず形而上学も併記されています。「意識の経験の学問」に形而上学も含めるのかどうかについては、両者の名称の変遷問題も絡んできて、難しい問題です。しかしいずれにしても、拙稿の論旨には影響しません。
 c) 「ここから・・・現象学への構想が生まれた」とのローゼンクランツ説は、賛成できません。なるほど結果的には、『精神の現象学』が生まれたのですが、後述するように、1806 年の前半くらいまでは、ヘーゲルに『精神の現象学』を書こうとの意図はなかったのです。

    (iii) イェナ期の論理学と、後年の論理学の相違

 こうして私たちは、「(1806 年 2 月の)意識の経験の学問=イェナ期の論理学」だと考えます。ここで注意しておきたいのは、イェナ期の論理学と後年の論理学では、存在性格が違うことです。つまり後年のものは、「自然や有限な精神を創造する以前の、永遠の本質における神の叙述」(*10)という表現が端的に表しているように、論理学は絶対者の構造の叙述です。
 しかしイェナ期では(*7)での引用文が述べているように、論理学は、悟性が扱うところの、真の同一性には達していない有限的な形式です。この悟性もまた有限的なものであり、同引用文の少し後では、「有限性の主観的な諸形式、すなわち有限的思考、[すなわち] 悟性」だとか、「悟性はたんに人間の精神組織に属する」と、説明されています(*11)。したがって、「最後に私たちは、悟性的諸形式そのものを理性によって止揚しなければならない」のですが、このことにって形而上学へといたる道に「障害物をなくす」ことができ、「論理学は哲学への導入(Einleitung)として役立つことができる」といわれます(*12)

 つまり、イエナ期の論理学はヘーゲル哲学の導入部の性格をもっており(*13)、この点で『精神の現象学』とは共通します。1806年前半での前者から後者への乗り換えを、容易にした理由の1つだと思われます。

  (2) 「第 1 部」について

 中間タイトル「第1部。意識の経験の学問」中の「第1部」ですが、これは言うまでもなく学問の体系の第1部(冒頭部)を指します。このような「第1部」は、『精神の現象学』(1807年)以前においては、周知のように論理学になります。
 ヘーゲルの体系構成を、彼がイェナ大学の私講師となってアカデミズム哲学を始めた1801年から、『精神の現象学を』を著す前まで通覧すると:
 論理学形而上学 自然哲学精神哲学
の順になります(*14)。なおヘーゲルは、
 (a) 「論理学+形而上学」、ないしは「論理学」を、思弁哲学とも呼んでいます。(この後者の「論理学」と、形而上学の関係については、拙稿の論旨の範囲外なので省略します)。
 (b) 「論理学+形而上学」を、超越論的観念論とも呼んでいます。
 (c) 「自然哲学+精神哲学」を、実在哲学Realphilosophie)」とも呼んでいます。

 しかし、「ヘーゲルが『精神の現象学』を執筆しだした前後では、学問の第1部は論理学から精神の現象学へと変化し、論理学は第 2 部へと移行したのではないか」との、反論が予想されます。彼がゲープハルト書店と、結局は『精神の現象学』となった書物の出版契約を結んだのは 1805年の冬であり、翌 1806 年の 2 月には、この書物の「印刷」が始まりますから、この頃の事情が問題です。
 それを窺わせるものに、1806 年 3 月頃(*16)のヘーゲルの夏学期講義の告示がありますので、次にそれを検討したいと思います。


  第 I 章の注

(*1) 「・・・学問へのこの道自体がすでに学問なのであって、その学問の内容からは意識の経験の学問である」。G.W., Bd. 8, S. 61. / Werke in 20 Bänden, Bd. 3, S. 80.

(*2) ただし注の部分は、それ以降の可能性もあるらしいですが(Rolf P. Horstmann の『イェナ期・体系草稿群 III』への序文 XXIV ページを参照)、そうであっても拙論の論旨には影響しません。

(*3) GW, Bd. 8, S. 196.

(*4) 引用は、編集者の注も含めて、Meiner 社の哲学文庫版に拠りました。この哲学文庫版は、アカデミー版のヘーゲル全集に基づいているとされ、アカデミー版の対応ページ数も記載されていますので、汎用性を考えてページ数はアカデミー版で記しました。

(*5) この個所のヘーゲルの書き込みの全訳は、こちらです。

(*6) 『イェナ期・体系草稿群 II』(GW, Bd. 7, S. 175)

(*7) 1801/1802年に書かれた講義用草稿「論理学と形而上学」によれば:
 「真の論理学の対象は、以下のようになろう。
I. 有限性の諸形式を提示すること。しかも・・・それらの形式が、理性から出現するようすを、だが、悟性によって理性的なものを奪われて、形式の有限性のうちに現象するようすを提示する。
II. 悟性の仕事(Bestrebung)を叙述すること。悟性が、同一性を算出する理性を模倣しながらも、たんに形式的な同一性しか生み出すことができないようすを叙述する。・・・
III. 最後に私たちは、悟性的諸形式そのものを理性によって止揚しなければならない・・・」(GW, Bd. 5, S. 272

(*8) GW, Bd. 5, S. 273.

(*9) Karl Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich Hegel's Leben, Originalausgabe, 1844. S. 202. ローゼンクランツ『ヘーゲル伝』(中埜肇訳、みすず書房、1991年第2刷)では、184ページ。

(*10) Wissenschaft der Logik, Werke in 20 Bänden, Bd. 5, S. 44.

(*11) GW, Bd. 5, S. 273.

(*12) GW, Bd. 5, S. 272f.

(*13) 「哲学への導入」というイェナ期論理学の位置づけが、変更されたことがはじめて記されるのは、おそらくヘーゲルが『精神の現象学』を書き上げた後で、その「序文(Vorrede)」を執筆した時です。次のように記されてい ます:
 「・・・ここをもって、精神の現象学は終わる。精神は自らのうちに、は知の領域(Element)を用意する。・・・ [そこにおいては] 精神の諸契機は、もはや存在と知相互の対立に陥るということはなく、真理という形式における真理である。・・・精神の諸契機の運動は、この領域において、全体へと組織されるが、それは論理学である、すなわち思弁的哲学である」。(GW, Bd. 9, S. 29. / Werke in 20 Bänden, Bd. 3, S. 39.
 このように論理学が「真理」の領域へと格上げされたのは、当然でしょう。将来論理学を講じ、著作するにしても、『精神の現象学』で哲学への導入を果たしたのですから、再び哲学導入をしてどうするの、というわけです。
 この後の 1808 年からのニュルンベルク時代には、ヘーゲルはギムナジウムでこの格上げされた論理学を、講義することになります:
 「論理学は・・・それ自体で思弁的な哲学である。というのも、事物の思弁的な考察の仕方は、事物の本質の考察に他ならないからであり、この考察は、事物の本性や法則と同様に、純粋で、理性に固有な概念なのである」。(「上級クラスのための哲学的エンチクロペディー」、第 14 節(1808年)、Werke in 20 Bänden, Bd. 4, S. 12.
 やがて、従来の「論理学(Logik)」は、出世魚よろしく「論理の学(Die Wissenschaft der Logik)」(「中級クラスのための論理学」、第 1 節(1810年)、Werke in 20 Bänden, Bd. 4, S. 162)と改称され、1812年の『論理学(Wissenschaft der Logik)』へと至ることになります。

(*14)  体系構成がこのようになっていたことが分かる資料としては、例えば以下のものがあります。
・ 1804年から1805年にかけて書かれた「イェナ期の体系草稿群 II(論理学、形而上学、自然哲学)」では、論理学が最初に来ており、論理学の展開の結果を受けて形而上学が、さらにそれを受けて自然哲学が続きます。
・ 1805 年夏学期の講義題目の告示の一部は:
 「哲学の全学問を――すなわち思弁哲学(論理学と形而上学)、自然哲学、そして精神哲学を・・・」(*15)
・ 1805年から1806年にかけて書かれた「イェナ期の体系草稿群 III(自然哲学、精神哲学)」では、自然哲学の後に精神哲学が続きます。

(*15) Briefe von und an Hegel. Bd. 4. Teil 1. Hrsg. von J. Hoffmeister. Philosophische Bibliothek 238a. S. 81.

(*16) この告示が 3 月頃だったことは、「イェナ講義カタログから推測される。そのカタログには、講義目録のために、各学期ごとに日付の付いたはしがきがある」。(マイナー社の哲学文庫版『精神の現象学』での W. ボンジーペン氏の解説、XXI ページ)。

(*17) このトラブルの解決を、ヘーゲルは同郷・同学先輩である地方行政顧問官(Landesdirektions Rat)ニートハンマーに、1806-8-6 付の手紙で依頼します。この件で注意すべきは、ヘーゲルは出版元であるゲープハルト(Göbhardt)書店を手紙でいろいろと非難していますが、明確な「契約違反」という言葉が――契約違反をしたかのような文脈はあっても――、これ以降も出てこないことです。
 「ヘーゲル詳細年譜」」(『ヘーゲル事典』弘文堂、平成 4 年の付録)によれば、彼は 1805 年末の冬にゲープハルト書店と、『精神の現象学』となって現れる書物の出版契約を結んでいます。この時には当然契約書を作成し、ヘーゲルへの支払いの条件と額、また出版部数などを取り決めたはずです。したがって、ふつうであればトラブルは起きるはずがありません。双方が持ちあう契約書というものは、トラブルを起こさないために作成するのですから。(なお、この契約書は失われています。)
 また一般的には、出版社は講師とはいえ大学の先生とは、トラブルを避けようとするものです。かりにゲープハルト書店があくどい出版社であったとしても、交渉時にきびしい条件を出しはしても、契約成立後に過度な要求をするとは思えません。そこで、トラブルが起きたということは、ヘーゲルの側が変則事態を起こしてしまった、そのためヘーゲルも契約違反を主張することはできなかった、とまずは推測すべきでしょう。
 さて、前記の 8 月 6 日付の手紙の後、でニートハンマーは仲介の労をとり、書店との交渉が成立したようです(書店の側としては、お役人に出てこられてはいやも応もなかったでしょう)。しかし、そのことをヘーゲルに知らせるニートハンマーの手紙も、ヘーゲルが紛失(あるいは破棄?)したようで残っていません。その次に残されている手紙は、9 月 5 日付のヘーゲルのニートハンマー宛のものです。書き出しは、次のようになっています:
 「敬愛する友人である貴方のお手紙、ならびにそこに示されたゲープハルト書店との関係の締結については(die darin angezeigte Einleitung der Verhältnisse mit Göbhardt)、私には感謝のしようがありません。また、貴方が [私に] 望まれることすべてに、完全に同意します。・・・」
 これを見ますと、オリジナルの契約が復興・順守されるということではなく、新しい状況下での再契約といったおもむきです。やはり、契約をした前年の冬からこの 8 月までの間に、ヘーゲルの側で何かが起きたと考えるべきではないでしょうか。

(*18) Karl Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich Hegel's Leben,


II. 1806 年 3 月頃の講義告示

 1806 年夏学期に行うヘーゲルの講義の題目は、同年 3 月頃に以下のように告示されました:

 「a) 純粋数学・・・、 b) 思弁哲学すなわち論理学を、まもなく出版される自著『学問の体系』にもとづいて、c) 自然哲学と精神哲学を口述により」教える。(*1)

 b から読み取れることは、
・ヘーゲルは『学問の体系』という著書を出版しようとしており、その内容には体系冒頭の論理学(=思弁哲学)は含まれるにしても、後続の自然哲学と精神哲学は、まだ出版への準備が整ってはいないようであること、
・同書の論理学にもとづいて、学期の講義をしようとしていることです。

 著作にもとづいて哲学係の講義をするという彼の意図、そして体系を第 1 部から著作していこうとする姿勢は、彼がイェナ大学で講師活動を始めて以来、変化していないようです。このことを彼の講義告示で、簡単に振り返ってみますと:

・1802 年夏学期:「論理学と形而上学、すなわち反省の体系と理性の体系を、 同書名 [論理学と形而上学] で出版される予定の著書にもとづいて・・・教える」。
・1802/03 年冬学期:「 論理学と形而上学を、来たるべき市日に出版される著書にもとづいて・・・教える」。
・1803 年夏学期:「この夏に(コッタ社から)出版されるハンドブックにもとづいて、哲学一般の概論を・・・教える」。
・1805 年夏学期:「哲学の全学問を――すなわち思弁哲学(論理学と形而上学)、自然哲学、そして精神哲学を――、夏に出版される著書にもとづいて・・・講じるであろう」。
・そして、今問題の 1806 年夏学期の講義題目になります。

 このように見てくると、
・著書に盛り込もうとする内容が論理学と形而上学にとどまるのか、あるいは全哲学を包含しえるのか、
・出版計画が現実的に思えて、講義予告に「著書にもとづいて」の語句を入れるのか、あるいは展望が見いだせずに語句を入れられなかったり、「口述により」で終わってしまうのか(1803/04 年冬学期、1804 年夏学期等々)、
こうした違いはあるにせよ、前述の1806 年夏学期の告示までは、ヘーゲルは同じような状況の内に低回していたようです。そして、それまで「精神の現象学」への言及は一度もないのですから、 1806 年 3 月頃も学問の体系の第 1 部は、やはり論理学だったと、言わざるをえません。
 ではなぜこの講義告示に、精神の現象学についての言及がないのか? 私たちの観点からはその理由は簡単で、3 月頃にヘーゲルが体系の第 1 部ということで執筆していたのは論理学であり、精神の現象学などは念頭になかったからです。

 ところが通説のように、この時点で彼は精神の現象学を執筆中であり(すなわち、2 月にはじまったとされる印刷は『精神の現象学』の始めの部分であり)、それが第 1 部だったとすれば、
 「なぜ、3 月頃の講義告示では第 2 部にあたる論理学は講義告示されているのに、第 1 部の「精神の現象学」はされなかったのか?」
という疑問に、答えづらくなります。

 (1) 「ヘーゲルが執筆していたのは『精神の現象学』であったが、夏学期での講義は論理学を予定していたので、論理学のみの告示となった」とも、一応は考えることができます。
 しかしこれは当時の彼の状況から、可能性は低いと思われます。そもそもヘーゲルが著作を出版するのは、講義に使用するためです。ヘーゲルのゲーテ宛の手紙(1804 年 9 月 24 日付)が、講義と著作がリンクしていることを端的に示しています:
 「私が講義のために、この冬に完成させたく思っています著作は、哲学の純粋に学問的な論考なのですが・・・」(*2)
 推測になりますが、口述にたよる講義では、学生はそれを筆記せねばならず、また彼としてもそれに合わせてゆっくりと話さねばならず、双方に負担が大きくかかります。その上、講義告示にいつまでも「口述による」が付いたのでは、あまり体裁もよくなく、私講師ないしは員外教授のヘーゲルが教授を目指すためにも、「著書にもとづいて」としたいところです。
 おそらくそのような理由で、彼は講義内容に合致した哲学の著作を、何度か計画し、また出版予定でもあることを告知したのでした。1806 年 3 月の講義告示の時点で、次の夏学期の論理学講義のための印刷準備もできていないのに(『論理学』の著書が現われるのは、ようやく 1812 年)、講義はしない「精神の現象学」を執筆していたとは、ちょっと考えられません。

 (2) また W. Bonsiepen によれば:
 「1806年の春には、ヘーゲルの念頭に論理学の出版がまずあった」ので、「第 1 部である意識の経験の学問 [=精神の現象学] には、特に言及しなかった」(*3)というものです。
 しかし、かりにヘーゲルが論理学をまず一番に考えていたにしても、出版する本の最初の部分である第 1 部は、そのとき執筆中とされる精神の現象学なのです。これに言及せずして、第 2 部の論理学のみを、その上第 2 部だとも言わずに、告示するのも、いささか変です。

 (3) 仮に、「3 月にはヘーゲルは「精神の現象学」という語句を、まだ思いついてはいなかった」と考えてみても、それを指すような語句が、すなわち「論理学(思弁哲学)」以外の語句が、出ていないのは不思議です。
 (ちなみに、「精神の現象学」という用語がはじめて出てくるのは、これより 5 ヶ月後の 1806 年 8 月、冬学期講義の告示においてです)。


  第 II 章の注

(*1) Briefe von und an Hegel. Bd. 4. Teil 1. Hrsg. von J. Hoffmeister. Philosophische Bibliothek 238a. S. 82.

(*2) Rolf P. Horstmann の『イェナ期・体系草稿群 II』への序文 XIII ページ。

(*3) マイナー社の哲学文庫版『精神の現象学』での、ボンジーペンの「序文」XXIページ。


III. 『論理学』から、『精神の現象学』への変更理由

 1806 年の 3 月頃のヘーゲルは、「第 1 部 論理学」の出版を目ざして書き進めていたのでしょう。今回は、1804年から5年にかけて書かれた「論理学」の清書草稿がありますので、これまでのように途中で行づまって出版を延期するという事態は、避けられます。しかしやがて、突然多額の収入が必要になるという、深刻な事態に当面したはずです。
 翌 1807 年の 2 月 5 日に、庶子が誕生しています。そこで、庶子の母親と関係を持ちだした頃か、あるいは母親から妊娠を告げられたときかは判然としませんが(*1)、ヘーゲルが大金の必要性を知ったのは、1806 年の 3 月の後半から 4 月前半にかけてだと思われます。
 彼 1 人が生活していくだけの余裕しかないところに、下宿の家政婦だったと言われる(*2)庶子の母親の生活費までも、しばらくは彼が出さざるをえないでしょう。しかし、事情が事情だけに、他人に借金を頼むことはしづらいものがあります。そこで、金策の方途は、その時書いている原稿しかなかったと思います(*3)

(1) まず、原稿の量を、増やす必要がありました。原稿料は、「ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン」で支払われる(*4)からです。
 前記の「論理学」の清書草稿は、アカデミー版にもとづくマイナー社の哲学文庫版では、129 ページ(+最初の部分の欠損が数ページ)です(その後に続く「形而上学」は 57 ページ)。(*5)
 これに対して『精神の現象学』は、同社のこれもアカデミー版にもとづく哲学文庫版では、「論理学」と1 ページ当たりほぼ同量の活字数で、529 ページです。そのうち、本文執筆後に付けられた 「序文(Vorrede)」が、51 ページを占めています。この長大な序文は、思いつくままに書かれていったという印象を与えるのですが、原稿料の増大に資するという目的があったものとみえます(*6)
 思弁的な内容の「論理学」を書いていたのでは、その後の「形而上学」を入れたところで、こうも原稿の量を膨らませることはできなかったでしょう。

(2) 印税収入のことを考えれば、おもしろい内容にして、よく売れなければなりません。しかし、論理学はそういうことからもっとも遠い分野です。それに、ヘーゲルの聴講生にしても、また一般人にしても、まだ無名の講師の自己流論理学を知りたいと思うでしょうか? 論理学を学びたいのであれば、まずはアリストテレス流の古典論理学でしょう。
 ところが『精神の現象学』であれば、読者受けするようにも書けたはずです。ヘーゲル自身の手になる広告文(1807 年)中の、「『精神の現象学』は・・・興味深い哲学」であるという一文は、なかなか示唆に富んでいるように思われます。


  第 III 章の注

(*1) 後者の可能性があるかどうかを知るためには、幅をもたせた計算をいろいろせざるをえませんが、そのような計算をするためにドイツ観念論を勉強しているわけではないので、省略。

(*2) 『ヘーゲル事典』のブルックハルト夫人の項目(平成4年、弘文堂、442 ページ)を参照。
 なお、同項目によれば、彼女にはすでに 2 人の庶子がいたようです。孤児院などに入れられてなければ、彼らの生活費も彼女が働けない間は、ヘーゲルがみなければいけなかった可能性があります。

(*3) ヘーゲルに一時金、「最初で最後のイェナ大学の俸給 100 ターレル」が支給されるという知らせが、ゲーテから来るのは、この後の 1806 年 6 月 27 日です(支給されたのは、7 月 1 日)。(『ヘーゲル事典』の「ヘーゲル詳細年譜」、弘文堂、平成4年、642 ページ)
 これでヘーゲルも、すこしは気が楽になったでしょう。しかし、まだまだ不足していたであろうことは、「私にとっては、このもめ事が近いうちに調停されることが経済的にぜひとも必要であること」(1806年9月5日のヘーゲルからニートハンマー宛の手紙)という文言からうかがわれます。

(*4) Briefe von und an Hegel, 1887, Bd. 1, S. 62 に掲載されているところの、ヘーゲルの息子 Karl Hegel による、ヘーゲルとゲープハルトとのトラブルの説明から引用。

(*5) 『精神の現象学』が出版された直後に書かれた、ヘーゲル自身の手になる広告文(1807年)に、次のような 1 文があります:
 「第 2 巻は、思弁哲学としての論理学および、哲学のそれ以外の 2 部門であるところの自然学精神学の体系を、納めることになります。」

 ヘーゲルの構想する「学問の体系」の第 1 巻が、『精神の現象学』ですが、次の第 2 巻に「論理学・自然学・精神学」の 3 部門が、充(あ)てられることになっています。このことからも、彼が当時抱懐していた「論理学」は、『精神の現象学』に比べればそうとう分量の少なかったことがうかがえます。

(*6) 「ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン」で支払われることは、上記 (*4) の K. ヘーゲルの説明から推測すれば、最初の契約で決まったことでした。その後、ニートハンマーの仲介で再契約がなされます。このとき原稿料がどのように決められたのかは、資料が残されていないため分かりません。
 しかし、原稿料の条件が変更されたことを示す資料はなく、また、ふつうはボーゲン紙(日本では原稿用紙) 1 枚)いくらと決められていたでしょうから、それが再契約でも踏襲されたのではないでしょうか。


IV. 1806 年 4(5)月のフィヒテの 5 世界観

 「論理学」の執筆から「精神の現象学」に切り替えた原因が、上記のような経済的なものだとすれば、直接のきっかけになったもの、あるいは切り替えにあたって参考になったのは、フィヒテの『幸いなる生への導き』だった可能性があります。
 この講演集は、1806 年 4 月初めに出版されました(*7)。この第 5 講義では、さまざまな世界観が紹介されています。最低次から最高次にかけて、次の 5 つです:
 1. 感覚的世界、すなわち「自然」に実在性を帰すような見方。
 2. 客観的な合法性、すなわち定言的命令の観点。
 3. 本来的な倫理の観点。
 4. 宗教的な観点。
 5. これら先行するものを、一つの実在的なものから明瞭に見るところの、学問の観点。

 この 5 世界観が、『精神の現象学』誕生のヒントになったといいといいますのは――

(a) 『精神の現象学』では、私たちの意識が最低次の感覚的確信から、道徳、宗教などのさまざまな段階を経て、絶対知にまでいたる過程が叙述されます。これらの諸段階とフィヒテの 5 世界観は、発想や内容面で類似点があります。(*2)

(b) 意識の必然的な発展段階という意味での参詣所(Station)」という用語は、ズーアカンプ版ヘーゲル著作集では、第 3 巻『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」 72, 74 ページで初めて登場します。(むろんこの版には、イエナ期の草稿群が採録されていませんので、それ以前にヘーゲルが Station を使用していないとは断定はできないのですが。また、たんなる「段階」という意味では、宗教関係の論文を集めた第 1 巻 65, 117 ページで使用されています)。
 一方フィヒテは、『幸いなる生への導き』の「内容目次(Inhalts-Anzeige)第 3 講」で、「実際の精神的生は、ただ次第に、そしていわば Stationen を経ながら、発展する」と書いています。フィヒテからヘーゲルへの影響が、考えられてしかるべきです。なおこの内容目次が、1806年の初版の VII - XIV ページに付いていたことは、F. メディクス版の『幸いなる生への導き』(Felix Meiner 社、1970年版)211 ページから分かります。
 ちなみにシェリングは、同様の事態を表現するのに、Stufenfolge などの用語を用いています(*3)

 しかしながら、フィヒテの『幸いなる生への導き』が『精神の現象学』の誕生を触発したということは、今まで問題にされてこなかったようです。これは当然のことではありました。というのも――
 『幸いなる生への導き』の出版は 4 月はじめです。ところが 同年の 2 月には、『精神の現象学』(とこれまで見なされてきた書物)の印刷が、始まっているのです。したがって、たとえヘーゲルがこの本の出版を待たないで、何らかの方法で、5 世界観が語られている第 5 講義(1806年2月16日)(*4)の内容を知ったとしても、彼が その影響下に執筆して、それを 2 月中に印刷することは不可能だと、見られたのでしょう。

 こうして、『精神の現象学』にはフィヒテの 5 世界観と似たような記述があったところで、それは例えば、「当時の思想的風潮のうちで、ヘーゲルもまたフィヒテと同様な発想を独立にした」、といった判断にならざるをえませんでした。しかし既述したように、私たちは 1806 年 2 月の印刷物は、まだ『精神の現象学』ではなく、『論理学』だったと考えます。したがって、2 月の印刷は、『幸いなる生への導き』が『精神の現象学』の成立に影響を与えること を、妨げはしません。
 
 さて、『精神の現象学』は大部の書物ですが、執筆は速く進んだと思われます。といいますのは:
・正確な引用をしたり、典拠を示しつつ諸学説を検討したりする面倒さはありません。
・ヘーゲルは哲学史の講義もしていましたから、哲学史上の知識は十分にあり、書くべき素材を豊富にもっていました。その上、文学・キリスト教・政治・歴史に関する教養も、彼にはありました。
・規定性が、いわゆる弁証法的に展開していくという彼独自の方法論はすでに持っていました。
・「イェナ期の体系草稿群 I, II, III」(1803-1806年)と現在呼ばれている膨大な草稿もありました。。
 したがって、『精神の現象学』執筆の着想は 4 月ないし 5 月に得たとしても、推敲を重ねた文体ではなく、走り書きのようにしていけば(実際そうなっているわけですが)、1 ヶ月でも相当の分量がこなせたはずです。

 かくして 5 月から始まる夏学期に、『精神の現象学』の一部を講義することや、『精神の現象学』の始めのほうの印刷(十分な校正はなされていなくても可)を、聴講生用に何十部か印刷することは、可能だったと思われます(*5)。 もっとも、ヘーゲルが 5 世界観を知ったのが 5 月で、しかも 5 月の講義では印刷物がすでに聴講生用に用意されていたというのであれば、この拙稿第 IV 章での議論は成立しません。
 しかし、ローゼンクランツの報告では、「ヘーゲルは・・・現象学を、1806 年の夏(im Sommer)、実際に 1 度講義した。現象学の印刷はすでに始まっており、聴講生一人ずつに印刷されたボーゲン紙 [複数枚] が配られた」(*6)となっています。文中の「夏に」が正確だとすれば、印刷されたボーゲン紙が配られたのは、6 月以降ということになります。


  第 IV 章の注

(*2) もし誰かがこの類似をヘーゲルに指摘したとしても、ヘーゲルはかえって誇りにしたのではないかと思います。大家が断片的な輪郭でしか示さ(示せ)なかったことを、彼はあっというまに換骨奪胎して、壮大な作品に仕立て上げたのですから。

(*3) 例えば 1800 年の『超越論的観念論の体系』の「序文」(Original Ausgabe von 1800, S. IX.

(*4) 日付は、『フィヒテ全集』(晢書房)第15巻、『幸いなる生への導き』の訳注によります。なお、第 1 講義は 1 月 12 日、最終第 11 講義は 3 月 30 日。

(*5) 1806 年 9 月末の時点でも、まだ原稿の半分しかゲープハルト書店に渡していないのですから、夏学期の講義で渡せる印刷物は、『精神の現象学』のはじめの方のはずです。

(*6) Karl Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich Hegel's Leben, Originalausgabe, 1844. S. 214. 『ヘーゲル伝』、中埜肇訳、みすず書房(1991年)では、 192 ページ。

(*7) この講演集の出版が 4 月初めであることは、Hansjürgen VerweyenFelix Meiner 社の『幸いなる生への導き』(2012 年)の序文が指摘しています。そして、フィヒテの 1806-4-9 付の父親宛手紙への参照を求めています。その手紙には、
 「 この大市のときに出版された(diese Messe erschienenen)ぼくの本をいくつか・・・送ります」
と書かれており、そのうちの 1 冊が『幸いなる生への導き』だというわけです。


V. その後の体系構成

 1807 年 4 月上旬には、『学問の体系 第 1 部、精神の現象学』という現在良く知られている書名で、懸案の本の印刷が完成します。結局は、ヘーゲルの哲学体系の第 1 部が『精神の現象学』になったのですが、やはりこれは無理とはいわないまでも、すわりの悪いものでした。
 なるほど、精神の現象学という「学問へのこの道自体が、すでに学問なのである」し(*1)、最初に出版されるのが精神の現象学なのですから、それが「第 1 部」とされていいとも考えられます。そして、「学問の体系第 1 部の [精神] 現象学」には、第 2 部が続くはずであった。この第 2 部は論理学と、自然哲学および精神哲学の 2 つの実在的学問なのであって、これでもって学問の体系は、終結する予定であった」(*2)のも、一応納得できます。
 とはいえ、それでは本来の学問である論理学以下の分野が、第 2 部に押し込められてしまい、第 1 部は学問への準備段階でもある精神の現象学が、すべてを占めてしまうことになります。かといって、論理学を第 2 部、自然哲学を第 3 部、等々としたのでは、精神の現象学と論理学、自然哲学等々が、同格で並んでしまいます。精神の現象学は、その展開の方法論は学問的であるにせよ、内容的には学問以前なのですから、他の分野と同格にはありません。どのようにしたところで、体系構成としては体裁が悪いというか、不自然です。

 ヘーゲルがこうした事を、どのように考えたのかは不明ですが、彼の体系構成の全貌が姿を現す 1817 年の『エンチクロペディー』(いわゆるハイデルベルク・エンチクロペディー)では、やはり論理学が「[哲学] 全体の第 1 部」(*3)だと言われます。つまり、「哲学の全範囲の概観」(*4)である『エンチクロペディー』の冒頭には、「第 1 部 論理学」が置かれたのです。

 したがって、ヘーゲル哲学本来の体系構成からすれば、第 1 部は論理学でしょう。ただ1806 年春には、いわば緊急避難的に――論理学執筆は進捗しないが、原稿料は是非とも得なければならなくなって――、『精神の現象学』が登場したのです。それがそのまましばらくは――精神の現象学を『エンチクロペディー』の第 3 部の「精神哲学」の一部へと吸収するまでは(*5)――、尾を引いたのだと思われます。


  第 V 章の注

(*1) 『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」(GW, Bd. 9, S. 61

(*2) 1812年『(大)論理学』初版の「序文(Vorrede)」(Werke in 20 Bänden, Bd. 5, S. 18

(*3) GW, Bd. 13, S. 5 / Werke in 20 Bänden, Bd. 8, S. 11.

(*4) GW, Bd. 13, S. 5 / Werke in 20 Bänden, Bd. 8, S. 11

(*5) なるほど 『精神の現象学』でなされる意識の経験は、真理・学問そのものではなく、それに至る道程です。しかし、「哲学の真理のうちにおいて [存在しないものは]、真の経験そのものにおいてもまた、登場しない」(*6)と言えるのですから、『精神の現象学』の内容から夾雑物を取り除き、必要な修正をほどこせば、それは本来の学である「精神哲学」へと組みこめるのでした。

(*6) 「イェナ期の体系草稿群 II」(1804/1805年)、アカデミー版ヘーゲル全集編纂者によって「体系への2つの注釈」と題された草稿の余白の注。同全集、第7巻、347ページ。


VI. 『精神の現象学』のいわゆる異稿断片について

 ところで、『精神の現象学』の異稿断片と言われるものが、2つ存在します。『精神の現象学』を執筆する過程において、出版されるにいたった成稿とは別に、利用されずに終わった草稿なるものが、断片として残されているのです。もしこれらの草稿が、確かに『精神の現象学』用として書かれ、しかも1806年春以前のものでしたら、私たちの観点は――ヘーゲルの著作が、その時以降に論理学から『精神の現象学』へと切り替わったとの観点は――、すこし危うくなります。
 しかし、残された2つの異稿である「絶対知・・・」(Kim. 73)と「C. 学問」(Kim. 75)については、はっきりとしたことは言えないようです。

  (1) 異稿「C. 学問」(Kim. 75)について

 まず「C. 学問」からですが、1805年ないし翌年に書かれたと推定され、清書はされていず、印刷用原稿の体裁を整えてはいません(*1)。これも清書されていない講義用草稿として「イェナ期体系草稿 III」(1805-1806年)が残されていますが、その中に「精神哲学 III. C. 芸術、宗教、学問」の節があります。この「学問」を補強するために、異稿「C. 学問」の草稿が書かれたという線が、考えられてしかるべきだと思います。つまり――
 講義用草稿「精神哲学 III. C. 芸術、宗教、学問」の内の「宗教」が、アカデミー版の全集で 280 ページから 286 ページまでなのに対し、同草稿内の「学問」(=哲学)は 286 ページから 287 ページと、手薄なままで終わっています。ヘーゲルは 1806 年の夏学期講義、1806/07 年の冬学期講義、そして 1807 年の夏学期講義の告示において、精神哲学を題目の 1 つに挙げているので、その 1 部分である「学問」は補強しておきたいところでしょう。内容的にも両「学問」には類似点が多くあります。そして、異稿「C. 学問」の「C」とは、「精神哲学 III. C. 芸術、宗教、学問」の「C」の可能性があります。

 (i) では異稿「C. 学問」の内容が、『精神の現象学』と類似する面があるのはどうしてかといえば、それはヘーゲルが『精神の現象学』執筆に当たって、「C. 学問」の内容を使ったということではないでしょうか。また、「C. 学問」が1806年春以降に書かれた場合には、『精神の現象学』の異稿だったとしても、私たちの議論には影響がありません。

 (ii) しかし、「C. 学問」に、『精神の現象学』の「第1章 感覚的確信」の記述内容に言及したような個所が、見られるのは(*2)どうしてでしょうか? やはり、この草稿が『精神の現象学』の異稿だったせいなのでしょうか。私たちとしては、その個所はヘーゲルの1805年冬学期・哲学史講義での論争家スティルポンの説明に(*3)、言及したものだと考えます。
 スティルポンで説明されていることは、「第1章 感覚的確信」での議論と似かよっていることで有名であり、また「今は西暦1805年である」という文言があることから、講義が行われた時期もはっきりしています。つまり、異稿「C. 学問」が1805年ないし翌年に書かれたと推定されていることからすれば、この草稿でヘーゲルは直前に行った講義内容に、言及しているわけです。

 (iii) とはいえ、異稿「C. 学問」は精神哲学の講義であり、他方のスティルポンは哲学史での講義です。別の講義内容に言及などしても、学生には理解できないとの恐れがあります。しかし、ヘーゲルの2つの講義の受講者は、多くが重なっていたとすれば、不都合・不自然ではなくなります。

 (iv) そこで、異稿「C. 学問」中の語句「以前のコメント(Bemerkungen)」も、『精神の現象学』中のコメントではなく、1805年の「哲学史講義」中のコメントに言及していると思われます。(*4)

  (2) 異稿「絶対知・・・」(Kim. 73)について

 「絶対知・・・」の断片は、1805年春以前に書かれたと推定されており、綴りの省略や略語がないので清書原稿のようです(*5)。短いので、(*6)で訳出しました。この最初の文中に「そこで(so)」とあることから、何かを受けてこの断片が書かれたと推測できます。しかしそれが何なのか、つまりはどのような意図でもってこの清書断片が成立したのかは、私たちにすれば不明としか言いようがありません。
 ヘーゲルの著作中では『精神の現象学』でしか見られない「絶対知」という用語があるので、この断片は『精神の現象学』のために書かれた、という主張がありますが、この用語がヘーゲルの造語であれば、そのような主張も議論として成立するとは思います。しかし、「絶対知」はすでにシェリングなどが使っており(*7)、流行最先端の用語ですから、ヘーゲルが使わない方がむしろ不思議なくらいです。
 また、異稿「絶対知・・・」中の「立法的理性」の用語についても、同様な主張があります。しかしこれも私たちの観点からは、ヘーゲルが後年『精神の現象学』執筆に当たって、異稿「絶対知・・・」断片の内容を使ったことになります。

 これら2つの草稿は、「『精神の現象学』に向けて努力するヘーゲルの努力の証拠」と一般的に見なされているようですが、それは早計だと、私たちは判断せざるをえません。


  第 VI 章の注

(*1) マイナー社の哲学文庫版『精神の現象学』付録での、ボンジーペン氏の解説によります。同書 535-536 ページ。

(*2) マイナー社の哲学文庫版『精神の現象学』付録「C. 学問」、541-542ページ。

(*3) Werke in 20 Bänden, Bd. 18, S. 535-537.

(*4) なお、異稿「C. 学問」中に見られる用語「絶対的宗教(absolute Religion) が、「イェナ期体系草稿 III」の「精神哲学 III. C. 芸術、宗教、学問」では使われているが、『精神の現象学』中には見られない――と主張されることがありますが、実は『精神の現象学』中の「VII. 宗教、C. 啓示宗教」で使われています(Werke in 20 Bänden, Bd. 3, S. 552, Z. 12)。したがって、この用語を手がかりに立論することはできません。

(*5) マイナー社の哲学文庫版『精神の現象学』付録での、ボンジーペン氏の解説によります。同書 533 ページ。

(*6) 「そこで絶対知は、まず立法的理性として登場する。人倫的実体の概念そのもののうちでは、意識と自体的存在(Ansichsein)との間に区別はない。というのは、純粋な思考を純粋に思考することが、自体的なことだからである、すなわち、自ら自身に等しい実体だからであり、同様にそれは意識なのであるから。しかしながら、この実体における規定性が出現することによって、そしてやがて明らかになるように、最初の規定性は、が与えられる、ということによって、意識と即自体的なものとの区別も、また表れてくる。この自体的なものとは、人倫的な実体そのものである、すなわち、絶対的な意識である」。

(*7) 例えば、拙訳『自然哲学についての考察』の「序文への付記」(1803年)で、「絶対知」を検索して下さい。(Ideen zu einer Philosophie der Natur, Zusatz zur Einleitung, Schellings Werke, I. S. 709.)


(初出: 2007-12-05)
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