例えば、その昔、ある未開の島で風土病がまん延しており、多くの村民が亡くなっていたとしましょう。この悪疫は、その島の高山に住む悪魔が人々に取りついておこると、村民の間では信じられていました。そのため、強力な悪魔をなだめるための儀式・お供えが、ひんぱんに行われたのです。 ところが、賢者だと評判の村の呪術師は、いろいろ観察するうち、病人や死者が村を流れる川近くに多いことに気づきます。この悪疫は高い山の大悪魔ではなくして、川にすむ小悪霊が取りついたのではないか? 小悪霊であれば、なだめて機嫌をとらなくてもぼく滅できるはずだ――。そこで呪術師は、瓶(かめ)に入っている飲食で使う川の水を、木の棒でたたいたり、呪文で苦しめたりしますが、相変わらず病人は出つづけます。しかし、水を火で苦しめるために沸とうさせますと、悪疫の流行が沈静してきました。 ――と、めでたし、めでたしになるのですが、ここで問題となるのは、呪術師の考えをどう評価するかです。もし彼が私たちと同じ現代人であったならば、彼の考えは迷信で誤っており、川の微生物が風土病の原因であると、当然主張すべきでしょう。 しかし、呪術師とは直接の関係はない時代に生きている私たちにしてみれば、むしろ、彼の考えやそこにいたるまでの過程は、積極的に評価すべきだし、学ぶべきものとなります。もし彼を実際に見る機会があったとすれば、彼が、 ・気さくに病人の家をまわって、現場をよく観察し、 ・因習的な考え方にとらわれずに、別の原因を想定し ・恐怖感に身をまかせずに「原因−結果」の枠組みを設定して、試行を繰り返した等々、深い感銘を与えられたにちがいありません。 かりに、悪疫は微生物によって起きると、正しく主張した人が現代に出てきたとしても、その主張が教室で教わったことの繰り返しであったり、今回の悪疫を起こした病原菌の場所は山だと間違えたりするのであれば、私たちはその「正しい」人を評価しないでしょう。 微生物原因説が正しいといっても、正確に言えば、微生物そのものではなく、それが生み出す化学物質が原因でしょう。そしてさらに将来は、病原菌とその毒素といった素朴な科学的理解は打ちすてられて、原子・素粒子レベルでのメカニズムが直接問題となるかもしれません。現代の科学的真理もまた、いつかは過去の「小悪霊」と同じ意味になってしまうわけです。 それに対し、呪術師の生きいきとした活動、聡明な心の動き、的確な方向を示す能力などは、いつまでも人を引きつけ、教えると思うのです。そして、彼の「水の中に住んでいる小悪霊を火で苦しめる」という考えが、その時代時代の理論によって、解釈しなおされていくわけです。つまり、「その考えは比喩であって、実はこうなんですよ」と、語られていくのです。 (初2005-4-9) ご意見・ご感想をお待ちしています。 |