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  シュルツェGottlob Ernst Schulze 1761-1833) v. 1.1

 ドイツの懐疑論者で、カントとその支持者ラインホルトの鋭い批判者であった。シュルツェの匿名の著書『アイネシデモス Aenesidemus』(エーネジデムスとも表記)は、フィヒテや新カント学派に影響を与えた。

 カントの批判者たちは、はじめカントをヒュームのような懐疑論者だと非難した。それに対し、ラインホルトたちは、カント哲学は懐疑論を反ばくするのみならず、懐疑論を反ばくできる唯一可能な哲学だと主張した。しかしシュルツェは、<カントとその弟子たちは、とりわけ、客観である物自体が、物自体としての心に因果的に作用するということを、はじめから不当にも前提にしており、そのことによって懐疑論者たちの主張を無視している>と、批判した。つまり、シュルツェ(=ヒューム)によれば、因果律といえども、まずはたんに主観的なものであって、表象に属し、また表象相互の結合に属するものなのである。
(詳しくは、当サイトの『アイネシデモス』の紹介をご覧下さい)。

 シュルツェはヴィッテンベルク
Wittenberg, ヘルムシュテット Helmstedt, ゲッティンゲン Göttingen の各大学で教えた。彼の生徒の1人がショーペンハウアーで、大きな影響を与えた。
 だが、シュルツェの生涯については、あまり詳しいことは伝わっていないようである。(彼の経歴については、ここをご覧下さい)

 

シュルツェ略伝

(フェリックス・マイナー社の「哲学文庫」版(1996年)『アイネシデモス』に添えられている、フランク氏
Manfred Frank の「序論(Einleitung)」を、参照しました)

 1761年8月30日、チューリンゲン
Thüringen に生まれた。父親は、ヘルトルンゲン城 Schloß Heldrungen の管理人であった。
 名門校であるプフォルタ
Pforta の王立学校 Fürstenschule である Schulpforta に入学(同窓のフィヒテは、1年後輩)。

 1780年、ヴィッテンベルク大学
Universität Wittenberg に入学。専攻の神学のほかに、論理学や形而上学も学んだ。
 1783年、哲学修士となり、ヴィッテンベルク大学の講師となった。2つの学位請求論文
Dissertationen は、古代哲学に関するものであった。

 1788年、シュルツェの著した『哲学概説(
Grundriss der philosophischen Wissenschaften)』(1788-90)の第1巻が好評だったため、ヘルムシュテット大学(Universität Helmstedt、当時は Helmstädt)に招聘された。そこで彼は、生産的な学究生活をおくった。
 1810年、ヘルムシュテット大学は、ゲオルギア・アウグスタ(
Georgia Augusta)大学と合併して、ゲッティンゲン(Göttingen)大学となった。この後22年間を、シュルツェは同大学でおくることになった。

 同大学での彼の生徒の一人が、ショーペンハウアー(
Arthur Schopenhauer)であり、大きな影響を与えたと言われる。ショーペンハウアーへの有名な助言として、次のものがある:「まずは、プラトンとカントに精力を注ぎなさい。彼らがよく分かるようになるまでは、他の哲学者には、とりわけアリストテレスとスピノザには、注意を向けないように」。(注1)
 ショーペンハウアーは、この助言をよく守った。とはいえ彼のノートには、ときおり「シュルツェのおバカさん(
Rindvieh Schulze)」なる字句が見られるという。これはフランク氏によれば、「いささかの無礼によって、ショーペンハウアーは、その師への根本的依存から解放された」との由である。
 ヘルバルト(
Johann Friedrich Herbart, 1776-1841)、フリース(Jakob Friedrich Fries, 1773-1843)などの哲学者にも、シュルツェは大きな影響を与えた。

1833年1月14日、逝去。享年71歳であった。

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注1)ショーペンハウアーのエルトマン(
Johann Eduard Erdmann)宛ての手紙(1851年)。  (戻る)


著 作

・De cohaerentia mundi partium earumque cum deo conjunctione summa secundum Stoicarum disciplinam (1785年、学位請求論文)
・De ideis Platonis
(1786年、学位請求論文)
・Grundriss der philosophischen Wissenschaften
『哲学概説』 (1788-90)
・De summa secundum Platonem philosophiae fine
(1789)
・Über den höchsten Zweck des Studiums der Philosophie 『哲学研究の最高の目的について』
(1789)
・Aenesidemus
『アイネシデモス』 (1792)  紹介
・Über das philosophische Magazin
「哲学雑誌について」(1792)
・Kants Kritik der Urteilskraft
『カントの判断力批判』 (1793) (カントのこの著書は1790年に出版された)
マイモンの懸賞論文である『哲学の進歩
Über die Progressen in der Philosophie』の別冊として (1794) (無署名)
・Kants Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft
『カントの「たんなる理性の限界内の宗教」』 (1794)
・Kants Streitschrift gegen J. A. Eberhard, Ueber eine Entdeckung, nach der alle Kritik der Vernunft entbehrlich gemacht werden soll
『カントの J. A. エーベルハルトへの論駁文「すべての理性批判を不要なものとしてしまうある発見について」』 (1794)
・Einige Bemerkungen über Kants philosophische Religionslehre
『カントの宗教論についての若干のコメント』 (1795)
・Kritik der theoretischen Philosophie
『理論哲学の批判』 (1801)
・Grundsätze der allgemeinen Logik
『一般論理学の諸原理』 (1802)
・Aphorismen über das Absolute als das alleinige Princip der wahren Philosophie über die einzige mögliche Art es zu erklären, wie auch über das Verhältnis aller Dinge in der Welt zu demselben
『絶対者を説明する唯一可能な仕方について、また世界内の全事物の絶対者への関係について [考察する] 真の哲学がもつ、ただ一つの原理としての絶対者についてのアフォリズム』 (1803) (このちょっと小ばかにしたような題名が暗示するように、これは反シェリングの著作のようである)。
・Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften
『哲学百科』 (1804)
・Die Hauptmomente der skeptischen Denkart über die menschliche Erkenntnis
『人間の認識についての、懐疑論的考え方の要点』 (1805)
・Ueber Galls Entdeckungen die Organe des Gehirns betreffend
『脳髄に関するガルの諸発見について』 (1807)
・Über die Glaubwürdigkeit und den anthropologischen Werth der Heckerwelderschen Nachrichten
『ヘッケヴェルダーの報告の信憑性と人類学的価値について』 (1821) (これは、ヘッケヴェルダー Johann Heckewelder が、アメリカインディアンの歴史・習俗について行った報告への批評)。
・Über die Entdeckung, daß Leibniz ein Katholik gewesen sey
『ライプニッツがカトリック教徒だったという発見について』 (1827)
・Über die menschliche Erkenntnis
『人間の認識について』 (1832)


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