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哲学と批評


学的帰納法への
ドイツ観念論からの批判
v. 1.9.



 科学的帰納法の欠点については、ふつう次のようなことが指摘されます:
 例えばカラスの羽の色を知ろうとして、99 羽のカラスを観察したところ、黒であった。しかし100羽目が白でないという保証は、得られない。したがって、帰納法による真理は蓋然(がいぜん)的である、云々。

 帰納法のこの欠点は古くから知られており、哲学的著作においても例えば、
・カントの「経験というものは、厳密な普遍性も反論の余地のない確実性も、与えない」(『純粋理性批判』B版、47ページ)は有名ですし、
・S. マイモンが『超越論的哲学についての試論』(1790)で指摘してもいます:「将来いつか・・・[反例となる] 対象が、見いだされるかもしれない。だから私たちは、諸表象から帰納法によってアポステリオリに導出された普遍性を、アプリオリな必然性へと高める根拠を、持ってはいないのである」(オリジナル版の342ページ)。

 ただ、現代科学においては、多くの人は「アプリオリな」、あるいは必然的な真理なるものを求めてはいません。そのような真理はありえない、ないしは不可能であって、推計学的に高い確率を確保すればそれでよい、というのが一般的な了解だと思われます。したがって、「100 羽めが…」という批判は、科学的には通用しそうもありません。

 しかし、哲学的観点からすれば、帰納法にはやはり本質的な欠陥があります。帰納法は、論点先取の誤謬を犯さざるをえないのです。このことは、案外知られていないので紹介すれば:

 例えば、「鳥類とは何か」ということを知りたくて、科学者A氏は、スズメ、タカ、ダチョウを観察したとします。そこから、3 匹の動物に共通な重要な特質 a, b が得られ、それらをもつものが鳥類だと、A氏は結論します。
 しかし、彼はなぜコウモリを観察しなかったのでしょうか?「それは、コウモリが鳥類ではないからだ」と彼は答えるでしょう。しかし問題は、彼がコウモリを鳥類ではないとする権利を、持っていないことです。鳥類とは何かが科学的に分からないから観察しているのですから、コウモリが鳥類かどうか判定できるわけがありません。A氏は観察対象を、鳥類とはこういうものだという「予断・偏見」に基づいて、つまり論点先取をして、選んだといえます(注)

 もちろん現実には、科学的帰納法を適用するときには、疑わしい境界領域のものも(私たちの例ではコウモリ)観察対象に加えたり、他の事項(例えば、より詳しく分かっている哺乳類)と比較したりします。また、くり返し帰納法を適用することによって精度をあげもしますから、実際には上記問題を回避できる場合が多いといえます。しかし、論理構造においては、そのつど論点先取にならざるをえないわけです。そしてこの問題は社会的な問題を扱うときには、しばしば先鋭な形で現れてきます。(例えば、「民主主義とは何か?」を探求するとき、「某国は民主国家ではないのか、あるいは民主主義の一つの歴史的あり方なのか?」等)。

 したがって、認識論を哲学的に論じるとなれば、どうしても科学的帰納法は批判の対象になってしまいます。そしてこのような批判をいち早く(?)したのは、シェリングでした(1800年):

 「概念 [私たちの例では「鳥類」] の起源については、通常は次のように説明されている・・・『いくつかの個別的な直観から [スズメ、タカ、ダチョウの観察から]、特殊な規定を捨象し、一般的なものだけを残すことによって、私たちに概念が生じてくる』と。
 「しかしこの説明が表面的であることは、すぐに明らかとなる。というのは、上記の特殊な規定の捨象や一般的なものを残す作業をするためには、個別的な諸直観を相互に比較しなければならない。けれども、すでに概念によって導かれているのでなければ、どうしてそのようなことができよう。なぜなら、私たちに与えられている諸対象 [スズメ、タカ、ダチョウ] がまだ概念になっていないときに、こうした諸対象が同じ種類のもの [鳥類] であると、どこから知るというのであろうか。
 「したがって、いくつかの個別的対象から共通なものを取りだすという、上記の経験的な方法 [科学的帰納法] は、共通なものを取りだすためのきまりを、すなわち概念を、したがって上記の経験的な抽象能力より高次のものを、それ自身すでに前提にしているのである。」(『超越論的観念論の体系』、1800年のオリジナル版では、S. 288-289。SW 版全集では、第I部、第3巻、S. 512)

 ところで、このような視角は、科学的帰納法に対する個別の批判というより、超越論的観念論(ドイツ観念論)からの実在論への批判といえそうです。この批判の原型となるようなものは、フィヒテの『全知識学の基礎』(1794年)にすでに見られます。話題が自我と非我であるため、分かりにくい内容となっていますが、後半の「たんに何かある対象を、措定することができるためにも…」以下に、注目いただければと思います:

 「ふつうの考えでは、非我の概念はたんに、すべての表象されたもの [=自我ではないもの] から抽象によって生じた、普遍的な概念である。しかしこのような説明の浅薄さは、すぐに明らかにすることができる。
 「[この説明にしたがえば] 私が何かあるものを表象すれば、私はすぐにこれを表象するもの [=自我] に対置しなければならない。ところで、表象された対象には、たしかに何かあるXが――つまりこのXによって、この客体が表象されたものであって、表象するものではないと見て取れるのであるが――、なければならないし、またありえもする。
 「ところが、このXをもつものはすべて、表象するものではなく表象されたものであるということは、私はいかなる対象からも知ることができないのである。たんに何かある対象を、措定することができるためにも、私はすでにXを知っていなければならない。したがってこのXは、根源的にすべての可能な経験に先だって、私自身のうちに、表象するもののうちになければならないのである。
 「この解説はきわめて明白であるから、これを理解しなかったり、これによって超越論的観念論へと高められなかった人は、疑いもなく精神的に盲目であると言うほかはない」。(『全知識学の基礎』、C 版 (1802年)、21-22 ページ)
 最後の憎まれ口がすこし・・・などと、小心者の私は思ってしまいます。

 ヘーゲルも、当然前の2人に同調して:
 「概念も判断も、たんに私たちの頭の中にあるのではない。また、たんに私たちによって形成されるのでもない。概念は事物のうちに内在するものであって、これにより事物はそれがあるところのものとなっている。したがって、ある対象を把握するということは、その対象の概念を意識化することである。
 「次に対象についての判断であるが、これは対象にあれこれの述語を [私たちが] 与えるという、私たちの主観的な行為などではない。判断とは、対象がもつ概念によって措定されているところの規定性において、対象を考察することである」。(『エンチクロペディー』、第 166 節の補遺(Zusatz))


(注)  この例は、外延における論点先取を問題にしたものですが、さらに、廣松渉は内包においての論点先取も指摘しています(『存在と意味』岩波書店、1982年、266ページ以下)。前述の例を使って論旨を紹介すれば:
 A氏が導出した特長 a, b には、「陸生である」ということが、含まれていませんでした。その理由をA氏は、「陸生ということは、この 3 羽に偶然共通していても、鳥類の特徴ではないからだ」と、答えるでしょう。しかし、ここでもまた、鳥類が何かということが分かっていないときに、そのように結論するのは論点先取です。(戻る)

初出 2005.4. 16.


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