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シュルツェ(Gottlob Ernst Schulze, 1761-1833)の著作の翻訳 |
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『アイネシデモス』(エーネジデムスとも表記)(1792年) v. 1.4.8 正確な題名は、 『アイネシデモス すなわち ラインホルト教授によってイエナで展開された根元哲学の基礎について および、理性批判の越権に対する懐疑論の擁護』 Aenesidemus oder über die Fundamente der von dem Herrn Professor Reinhold in Jena gelieferten Elementar-Philosophie Nebst einer Verteidigung des Skeptizismus gegen die Anmaßungen der Vernunftkritik |
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拙稿の目次 (1)『アイネシデモス』の目次 (注) [ここからば、ワケあって、飛びとびでの全訳となります。ページ数は、1792年初版の『アイネシデモス』です。マイナー社の哲学文庫版でも、上段内側に該当する初版のページ数が記されています。] 以下工事中 (2) はじめに 白面のフィヒテをして、「アイネシデモスはぼくを、かなりの間混乱させた・・・いやはや! 再び、立て直さないといけないということだろう。」と感嘆(実のところ、慨嘆ではなかったでしょうが)させました。 フィヒテが『アイネシデモス』を読んだのは、出版の翌年の1793年で、著者シュルツェはフィヒテより1才年長なだけですから、フィヒテとしても力の入ったことでしょう。カント学派の不備を突いたこの書をきっかけに、『全知識学の基礎』は生まれます。 『純粋理性批判』から約10年、当時の思想界を知る上でも、必見です。内容は分かりやすく、面白いものです。 なお、副題にある「理性批判の越権 Anmaßung に対する・・・」は、カントへの皮肉です。カントは『純粋理性批判』において、「権利問題」を提起し、「越権」を戒めました(B版、116ページ)。しかし、カント自身が「越権」行為をしているではないかと、シュルツェ(Gottlob Ernst Schulze, 1761-1833)は言いたいのです。 (3) 『アイネシデモス』の説明 i)『アイネシデモス』の構成について 『アイネシデモス』の目次をご覧になった方は、その複雑さにあきれると思います。一見しただけでは、どのような構成になっているのか、見当がつきません。そこで、少し説明します。 まず、カントやラインホルトに賛同するヘルミアスと、懐疑論の立場のアイネシデモス(=著者シュルツェ)との書簡交換から、本書は始まります。それが第3便まで続きます。 その後、割り込む形で、ラインホルトの根元哲学の主要な論点が紹介されだし、それに対するアイネシデモスのコメントが付されます。この紹介とコメントは、1~3までなされます。 そして、本書『アイネシデモス』のいわば付録とも言うべき「不当な理性批判からの、懐疑論の擁護」が、付け足されます。それが1~4章に渡ります。 ここで、またラインホルトの哲学の紹介とコメントにもどり、4~9に渡ります。 そして最後に、最初の往復書簡の体裁にかえり、第4, 5便で終了となるのです。 TOP ii) 『アイネシデモス』での「表象」の意味について 「表象 Vorstellung」という用語は、ふつう、対象が感覚器官をとおして心にもたらす像や、記憶・空想による形象だと思われています。しかし、ラインホルトとシュルツェは、悟性のもつ概念や理性のもつ理念も含めて、広い意味で使っています。(この点はカントと同じです。例えば、『純粋理性批判』B版、129-130, 143 ページを参照)。 例えば:「[表象の] この特性は、表象の類概念においても考えられるが、それはこの特性が、感覚的な表象・概念・理念、この3者に共通するものを、含む限りにおいてである。そのときにはむろん、表象のこれら3つの種にそれぞれ特有なものは、捨象されねばならない」。「感覚的表象や概念等々が表象である・・・」。(『アイネシデモス』、フェリックス・マイナー社、哲学文庫版、63ページ)。また、本書『アイネシデモス』で引用されているラインホルトの『論集』§VII.を参照してください。 iii) 『アイネシデモス』の著者について この『アイネシデモス』について紹介されるときには、ときに、「シュルツェ(Gottlob Ernst Schulze, 1761-1833)がアイネシデモスの匿名で出版した、云々」と記されます。しかし、これは不正確なのです。(こんな事を知っても、役に立たないのは言うまでもありませんが)一応私に分かる範囲で、事態をお知らせすれば: この本は、ヘルミアスとアイネシデモスとの往復書簡の体裁をとっています。アイネシデモスは、もともと紀元前1世紀の有名な懐疑論者ですが、彼の名前を借りてきたというより、彼が現代にやって来て議論をしているという風情です。したがって相手のヘルミアスも古代ギリシア的名前となっています。 本の内容の大半はアイネシデモスの議論が占めていますので、本の題もまずは『アイネシデモス』になっています(プラトンの著作の題名と、事情が似ています)。しかしそれだけでは、古代ギリシアの哲人に関する本と勘違いされますから、その後『あるいは、ラインホルト教授によって・・・』と長い説明が続くわけです。 では肝腎の著者名ですが、これは記載されていません。また、ふつうは著者が書く序文も、本の発行者(署名は、「発行者 Der Herausgeber」のみで、名前は記されていません。)が書いています。したがって、著者シュルツェは、無記名のまま本を出したことになります。 しかしこれではさすがに格好がつきませんから、序文で発行者が次のように述べたくだりがあります: 「アイネシデモス、あるいは誰が、この本に含まれている、批判哲学の諸原理の解明の著者であろうとも、・・・」 この個所から、この本の著者を「匿名アイネシデモス」と言い慣わすようになったと思われます。 著者名のない出版にいたった本当の理由は私には分かりませんが、序文のその少し後ではその理由 [すなわち著者の謙虚さ] をほのめかすように: 「ただ哲学における認識をより完成させたいという願いが、著者を動かしてこの本の出版への同意を与えたということを、私 [発行者] は保障できる。この本はもともとは、出版される予定ではなかったのである」と書かれています。 iv) テキストについて (a) 読むためのテキストとしては、フェリックス・マイナー社の「哲学文庫」版が便利です。 (b) 各ページ内側には、1792年初版本のページ数も表記されています。(左ページでは右側上部、右ページでは左側上部)。ただし、表記の誤りも散見されます: ・ 81-82 は、81-83 が正解。 ・ 82-84 は、83-84 が正解。 ・ 158-159 は、158-160 が正解。 (哲学文庫版 116 ページの上から 6 行目、erklären. の後にあるべき改ページ記号が、欠落しています) ・ 159-160 は、160-161 が正解。 (えっ、どうして知ったのかですか? テキスト中のページ区切りの記号を、前後からたどっただけですよ) (c) 用語の索引はありません。 (d) また誤植が散見されます。 ・ Inhalt(目次)中の Fundamental-Lehre der Elementar-Philosophie. の章、第2節の Bemerukungen のページ数が"74"となっているのは、"66"が正しいです。 ・ 62ページ24行目の das は daß の誤りだと思われます。 (e) 購入先:ドイツアマゾン(www.amazon.de/) が便利です。 TOP (4) 凡例 (6) 『アイネシデモス』の訳出 内容一覧(INHALTSANZEIGE) アイネシデモス 第1便:ヘルミアスからアイネシデモスへ [この往復書簡(第1便~第5便)は、カント学派のヘルミアスと、友人である懐疑論者のアイネシデモスとの間で、やりとりされた体裁をとっています。第3便までは、原文の訳出ではなく、内容の要約を以下では掲載しています。 ところで、カント哲学の分かりやすい紹介を、シュルツェ自身が本書で行っています。カント哲学に不案内であれば、「『純粋理性批判』によれば、必然的な総合判断の源泉や価値は、何であるのか」(とりわけそのうちの、「原注」)と「理性批判にもとづく、因果関係の諸概念と諸原理の使用の、限界について」の一読をお勧めします。] ヘルミアスは懐疑主義者だったが、カントの「純粋理性批判」を読んで、彼の批判哲学に傾倒する(11-14)。しかし、「純粋理性批判」の多くの個所が理解できない(14)。とりわけ、批判哲学の全体系の究極的な根拠に関して、多くのものがヘルミアスには不分明なままに止まっている(14)。 そこで、カント哲学の継承・発展者として令名の高いラインホルトの『カント哲学についての手紙』や『哲学者たちのこれまでの誤解を訂正するための論集』を読んだ。また、彼の「根元哲学」の主要論点を研究した。その結果、これらの論文が明かしたところの、哲学すべてに妥当する最高の諸原理に満足した(15-16)。 [私たちにとって興味深いのは、当時すでにラインホルトの上記『論集』の第5論文では、「厳密な学としての哲学の可能性 die Möglichkeit der Philosophie, als strenger Wissenschaft」が問題になっており、そうした哲学を建設するために、すべての原理となるような究極の一者 das Eine が希求されていると、言われていることです。「この第一者は、哲学にとっての必須 Not であり、多くの古代哲学者によってぼんやりと予感され、カントの『純粋理性批判』によって暗示され、この論文 [第5論文] によってもっとも明瞭かつ正確に検討されている」(16)。それに基づいて、「ゆるぎなく、疑問のよちなく確固とした、全哲学体系」(37)の建設が問題となるような、時代背景でした。 フィヒテ(ならびにシェリング、ヘーゲル)が課題としたのは、この「厳密な学としての哲学」であり、究極の一者の探求(自我、絶対者)からの「確固とした全哲学体系」の構築でした。] TOP 第2便:アイネシデモスからヘルミアスへ アイネシデモスによれば、表象 [本書での「表象」の意味] の存在の確実性や、意識自体のうちに直接現れるものの確実性、意識によって与えられるものの確実性は、懐疑論者といえども疑いはしない(26)。 懐疑論の立場からは、カントの批判哲学や、ラインホルトの表象能力の理論ならびに根元哲学には、納得できない(21)。 懐疑論が主張していることは、「物自体が存在するかどうかについては、普遍的に妥当する原理に基づくような形では、いまだ何も分かってはいない。また、人間の認識能力の限界についても、そのような形では、何も分かってはいない」ということである(26)。しかし、「これら物自体や人間の認識能力については、まったく何も知りえない」と主張するのは、行き過ぎである(27)。 むろん、カントが人間の認識能力の範囲と限界を規定した功績については、十分に認める(31)。 ドイツのいろいろな大学で、少なからぬ哲学教師が『純粋理性批判』を、党派心にくもらぬ目でもって研究してきた。その人たちは、この偉大な著作を頑固に斥けている輩は、この著作を理解していないだけだ、ということを知っている。しかし、その人たちも、この著作の主要な学説の真理性については、確信が持てないでいる(35)。 [ここまでは、アイネシデモス(=シュルツェ)の見解の一般的な表明だけであり、具体的な議論はなされていません。読者としては少しジリジリとしてくるのですが、何はともあれ、あっぱれな若武者(シュルツェ、時に31才)の登場というべきでしょう――礼儀も心得ていれば、目配りも十分です。名声のある諸大家にも腕力で劣るわけではありません。威風堂々にも、小技をきかすことも、一応なんだってできます。もちろん論争上手なことだって、やがて分かるでしょう・・・このように主張するかのような文章です]。 TOP 第3便:アイネシデモスからヘルミアスへ [次の章からは、ラインホルトの] 根元哲学が基礎にしているものの真理性や普遍的妥当性について、私 [アイネシデモス] の疑念を、[コメントで] 述べようと思う。 [コメントの] 前には、これら根元哲学の基礎についての説明や証明を、ラインホルト自身が述べているとおりに、そのつど記しておいた(38)。 私は次の2つの命題を、すでに確定し通用するものとして、根元哲学の評価をするさいの基礎とする。 1) 私たちの内部にはいくつかの表象がある。これらの表象相互間にはさまざまな区別が現われているが、またこれら表象においては特定のの特色(Merkmale)も見いだされ、これらの特色に関しては表象は互いに一致する。 2) すべての真理の試金石は、普遍的な論理学である。事実についてのいかなる推論も、普遍的論理学の諸法則と一致する限りで、正当性を主張できる(40)。 TOP ラインホルト教授によって、イエナで展開された根元哲学の基礎についてのコメント 予備的な報告:根元哲学の規定と、この哲学の本質的な諸特性について [この章からは、冒頭でアイネシデモスによるラインホルトの根元哲学が要約紹介されます。 ラインホルトは言うまでもなく、カントのただの亜流ではありません。カント哲学を、より厳密に体系化することによって、継承・発展させようとした第一人者です。したがいまして、俊英シュルツェ(=アイネシデモス)の根元哲学の要約と、その後の「コメント」でのラインホルト批判は、私たちにとってはカント-フィヒテ間の哲学事情を知るうえで、格好のものといえそうです。 ラインホルトの、最初の原理が表現するところの意識における事実 Faktum についての説明は、フィヒテの「自我は自らを措定する」という事行Tathandlungについてもあてはまります。 興味深いところですので、これより以下の拙訳は全訳です。] [アイネシデモスによる、ラインホルトの根元哲学の要約] 理論哲学ならびに実践哲学、また形式哲学ならびに実質 material 哲学が建設されるときには、従わねばならない諸原理が存在するが、それら諸原理の唯一可能な体系が「根元哲学」なのである。根元哲学は、普遍的に妥当する原理のうえに、確固として立っていなければならない。根元哲学はどの部分においても確定的でなければならないし、いかなる紛糾も根元哲学のうちにあってはならない。(『論集』、344ページ)。 原理というのは、それによって他の諸命題が規定されるような命題である。原理は他の命題の形式を規定するのみで、質料は規定しない。他の命題の主語と述語を規定するのではなく、ただ両者の結合を規定するのである。 したがって、一つの原理から他の諸命題を導出するということは、他の諸命題の内容を形成している、主語と述語それぞれの表象を導出するのではなく、ただこの2つの表象の結合を――この結合によって主語と述語は命題になるのだが――、いやむしろ結合の必然性を、導出するのである。 原理は、ただ類概念の内容を表すだけであり、この内容によって類概念の範囲も、たしかに一般的には規定される。しかし、この内容のうちには、類概念の個々の特殊な諸部分の内容は含まれていない。だから学問は、最初の原理によって直接には、ただその形式を受け取るのである。学問の素材 Materialien については、原理が役だつのは、この原理が関係のない素材を学問の領域から締め出したり、欠けている素材を探したりすることによってである。(『論集』、115-119ページ)。 哲学における絶対的に最初の原理によって、哲学の内容ははじめて学問としての統一を受け取る。またこの原理のうちに、それ以外のすべての哲学の諸原理の必然性が基づいている。そしてこの原理へと、哲学の諸部分を形成するすべての命題は、立ち戻ることができなければならない。このような絶対的に最初の原理は、自らの意味の規定性を他の命題から受け取ることはできず、また受け取ってはならないのであるから、自らによってすべての誤解から守られていなければならない。 したがって、この最初の原理によって立てられる諸概念の特性は、最初の原理自体によって規定されるものでなければならず、他の諸特性から導出されてはいけない。そこで、こうした諸概念の特性は、すべての表象されえるものの、究極の根源的な特性として、最初の原理の中に含まれていなければならない。 最初の原理のみが、誤解の可能性の不安なしに、前提できる確定的なものである。その他の命題はいずれも、自らによって規定されている命題 [=最初の原理] を介して規定されているかぎり、誤解から守られて確定的になったものとして、使用できる。自らによって規定されている命題は、普遍的に妥当する命題でありえるし、またそうでなければならない。 一貫しては規定されていない命題でも、たんなる誤解から、確定的な命題として立てられることがある。[命題の] 述語を主語と結合させたときの根拠が、諸概念のうちへうっかり取り入れられた余分な特性のうちにあるときや、あるいはこの結合の根拠が、うっかり諸概念から抜かされて欠如してしまった特性のうちにあるときには、そうしたことが常におきるのである。そして、こうしたことが起きたと気づいたとしても、[その命題についての] 判断は不可能なものとなっていよう。[この辺の叙述は、具体例が示されていないこともあって、どういったことを念頭におけばいいのか、分かりづらいものとなっています]。 自らによって規定されている命題の場合には、こうしたことは起こりえない。このような命題が含んでいる諸特性は、判断の行為そのものによってまったく規定されているので、このような命題は、まったく考えることができないものか、あるいは正しく考えられねばならないものかの、どちらかである。その限りにおいてこの命題は、誤解によって主張されることもなければ、否定されることもない。このような命題では、命題がもつ諸概念の根本的な特性を、完全に意識するためには議論が必要なのではなく、ただ言葉の意味についての反省が必要なのである。この言葉の意味は、この命題自体によって、この命題が表現している事実のために、規定されている。 最後に、自らによって規定されている命題は、ただ一つしかありえない。このような命題が、自らによって規定されているかぎり、この命題を規定するような、あるいはこの命題のもつある特性を規定するような他の命題が、この命題に先行するということはありえない。 したがって、自らによって規定されている命題が提示する諸特性が、より高次でより普遍的な特性のもとに含まれているということはありえないのであって、むしろこれら諸特性自体が、もっとも普遍的で最高次の特性でなければならない。自らによって規定されている命題は、表象されるもののうちでもっとも普遍的で高次の諸特性を、提示する。これらの諸特性は、表象されえるものすべてに共通しており、したがって、表象されえる最高次の類である。この最高次の類は唯一のものだから、自らによって規定されている命題もまた、唯一可能な最高次の類を規定する命題として、本質的に唯一のものでなければならない。(『論集』、353ページ以下。『基礎』、82ページ以下)。 絶対的に、最初にして普遍的に妥当する、哲学すべての原理は、一つの事実 Faktum を表現するだけである。この事実は、すべての人に対して、人がこの事実について反省できる時・状況下ではいつでも、そしてただ反省によって、納得されるものでなければならない。したがってこの事実は、外部感覚や内部感覚の経験のうちに存するのではない;この「経験」ということが、常に個人的で、普遍的には伝達できない感覚的な知覚を意味する限りにおいては。この「事実」は、私たち自身のうちで生起しなければならないのである。 そしてこの「事実」は、普遍的に納得のいくものでなければならないのだから、特定の経験や議論に結びつくものであってはならない。この「事実」は、私たちが意識しえるすべての可能な経験や思考に、伴うものでなければならない。まさにそれゆえにこの「事実」は、ほかならぬ意識自体のうちに存しえるのである。この意識が表象されえる限りは、「事実」を表現する命題は、この意識を表現しなければならない。(『論集』、142ページ以下)。 したがって意識は、根元哲学の全原理の源泉である。そしてこれらの原理は、意識しか表現しない命題である。最初の原理は、すべての意識において生起することを表現し、表象能力一般の理論は、根元哲学の諸前提や基礎を根拠づける。(『論集』、162ページ)。 さて、根元哲学においては、最上位の原理以外には、 ・この原理のもとに直接含まれる命題や概念しか、 ・すなわち、種概念が直接に上位の類概念に [包括されて] 関係するように、最上位の原理に関係する命題や概念しか、 提示されてはいけない。これらの概念や命題が省略されるならば、最初の原理とそれによって提示される根元哲学の土台は、まったく用をなさないものとなろう。(『論集』、360ページ)。 [アイネシデモスの] コメント 以下のことについては、私 [アイネシデモス] はラインホルトにまったく同意する:「哲学には今まで、普遍的に妥当する最上位の原理が欠けていた、つまり、残りすべての命題の確実性を、直接あるいは間接的に基礎づけるような原理が欠けていた。そうした原理の発見と提示のあとで、はじめて哲学は、一つの学問としての栄誉を要求できるのである」 また次のことも、確定的だと思われる: 1] 哲学がいつの日か、疑わしい生半可な諸命題の狂想詩であることをやめるべきであるなら、 2] 哲学界を混乱させてきた争いが、調停可能であるなら、 3] 人間のもつ知識の限界を述べることが、可能であるべきなら、 これらは、とりわけ次のようなことによって為さねばならない: 4] 哲学において、諸概念のうちでもっとも高次なものから、つまり表象可能性 Vorstellbarkeit [表象されえること] の概念と表象の概念から、出発することによって、 5] 上記4の概念のもっとも普遍的にして必然的な諸特性を、完全に提示し、規定することによって、 6] 上記5の諸特性を正確に表現している、普遍的に妥当する命題を述べることによってである。 ロックやライプニッツはたしかに、彼らの理論的・実践的哲学を、諸表象の源泉・差異・本質的な構成要素についての研究、ならびに表象能力の性質についての研究に基づいて創設した。理性批判の著者 [カント] は、これらの研究が不完全で、研究が基づいている諸前提も不確かで誤っていることを、見いだした。したがって彼は全哲学の革新を、認識能力のすべての発現の検討から――この検討は、ロックやライプニッツとは違った原理によってなされたが――始めたのである。そしてこの検討によって、カントは感覚的表象、悟性、そして理念それぞれに本質的な諸特性を、導出したのである。したがってカントは、「哲学におけるすべての真理の究極的な根拠を、とりわけ、種類の異なった諸表象の正しい検討から導かねばならない」とも、確信していた。 [カント哲学の分かりやすい紹介を、シュルツェ自身が本書で行っています。カント哲学に不案内であれば、「『純粋理性批判』によれば、必然的な総合判断の源泉や価値は、何であるのか」(とりわけそのうちの、「原注」)と「理性批判にもとづく、因果関係の諸概念と諸原理の使用の、限界について」の一読をお勧めします。] そして私の知るかぎり、カントの理性批判の有名無名の論敵のうちで、次のことに反対した人はいない:「カントは彼の体系を、感性、悟性、そして理性の批判にもとづいて基礎づけた。そしてカントは、異なった仕方で表象されるさまざまな事物の認識の価値を規定するために、異なった種類の表象の検討から始めた」。 そこで、表象の正しい理論と、表象されえるものの本質的な諸特性の検討を、哲学体系の基礎にしようという意図は、反対すべきものではないのだから、[ラインホルトの] 根元哲学とその基礎を [私たちが] 評価するに当たっては、まず次のようなことを調べることが大切である: ・根元哲学とその基礎のうちに、表象についての普遍的に妥当するしっかりとした理論が、ほんとうに含まれているかどうか。しかも、どの学派の原理にしたがっても、同意できるものとなるように、その理論は、表象されえるものの概念を規定し、発展させるものでなければならない。 ・根元哲学とその基礎が、普遍的に妥当し、自ら自身によって完全に規定された、絶対的に最初の、原理に基づいているかどうか。その原理の上に、より高次の命題があってはいけないのである。 ・根元哲学とその基礎が、提示された最上位の命題 [=絶対的に最初の原理] のうちには直接含まれていない命題や、この最上位の命題からは正しく導出されない命題を、提供していないかどうか。 ・最後に、根元哲学とその基礎が、普遍的に妥当し、疑問の余地無く明瞭な諸前提Prämissenを、次のような理論哲学と実践哲学に提供しているかどうか:これらの哲学の認識するところのものこそが、今なお哲学者たちの間に存在しているすべての争いを調停し、恒常的平和を哲学の領域にもたらすことができるのである。 哲学体系を先天的な表象と後天的な表象の起源の認識に基づくものにしようという、[ラインホルトの] 意図に対しては、当然ながら、次のような問題への信頼できる回答が、前もって述べられておくべきだった: ・先天的な表象や後天的な表象の起源の認識は、およそ可能であるのか? ・そのような認識は、私たちの心Gemütの能力のまったく手の届かないものではないのか? というのは、これらの問題への回答だけが、前述のラインホルトの [哲学体系を、表象の起源の認識に基づくものにしようという] 意図が理性的であり、達成可能でもあることを、はじめて明らかにするからである。そしてこれらの問題への回答は、表象の起源の探究に基づいて建設される哲学体系に、堅固さと確実さを与えるからである。 表象の構成要素の起源が、意識のうちに現れる事実から検討される前に、同時に次のような問いもまた、探求されねばならなかったであろう: ・意識について熟考することが、表象の形式と素材の認識について、信頼できる解明を与えるのか? ・また、事実 Faktum ([しかじかの] 意識 [が存在する])から、経験すべての外部にあるものの正しい認識(=表象の構成要素の発生の認識)に到達しえるのか? しかしながら、これらの問題や、[カント=ラインホルトの] 批判哲学に対するこれらの問題の重要性を、私たちがもっとも良く検討できるのは、私たちが批判哲学の基礎をより詳しく知ったときである。そこで、今のところはこれらの問題を、検討せずに残しておこう。 TOP 根元哲学の基礎的学説 FUNDAMENTAL-LEHRE 哲学者たちのこれまでの誤解を訂正するための [ラインホルトの] 論集においての、根元哲学の新叙述に従っている 1. 意識の命題 §I. [この章では、いよいよラインホルトの有名な「意識の命題」という原理が、問題となります。ラインホルトはこの原理からカント哲学のすべてを導出しようとしました。それが彼の根元哲学です。 私たちからみて興味深いのは、「意識以前には、表象・客観・主観などの諸概念はない」と言うことによって、意識という現象領域がまず第一の地位に押し出されており、現象主義的構図に半歩踏み出しているところです。もちろん、意識以前にないのは、諸概念であって、客観・主観などが実在しないとまでは言っていません。 アイネシデモスの 「コメント」では、意識の命題が最初の原理にはなりえないことが、思考の最高原理と一般に考えられている矛盾律を持ち出すことによって説明されます。しかし、この後のフィヒテからのドイツ観念論では、逆にこの矛盾律を否定する弁証法が登場ことになります。] [アイネシデモスによる、ラインホルトの根元哲学の引用] [§の付いたローマ数字は、ラインホルト『論集』(1790年版)の章を示しています。 参考のために、ラインホルトの意識の構造を、図解しました。] §I. 意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる。 この命題は直接的に、意識のうちで起きる事実そのものを表している。これに対し、表象・客観・主観などの諸概念は間接的に、すなわちこれら諸概念が、上記の事実によって規定される限りで、[それらが意味するものを表している。] 意識以前には、表象・客観・主観などの諸概念はない。これらの諸概念は、もともとはただ意識によってのみ可能となるのである。意識のうちで、そして意識によって、表象・客観・主観は、はじめて互いに区別され、互いに関係づけられる。 この [意識の] 根源的な特性は――この特性もとで、表象・客観・主観という3つの意識の構成要素が、意識のうちで生じるのだが――、根源的である限り、また表象された客観に対しているもの(いかなるものであれ)からの抽象によってもたらされるのではない限り・・・、この [意識の] 特性はしたがって・・・抽象されることなくして直接に、意識自体から由来し quillen [quellen の異形?]、いかなる論議も前提とせず、すべての哲学に先行する。 したがって意識の命題 [意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる。] は、表象・客観・主観といった哲学的に規定された諸概念をなんら前提としない。逆にそれらの諸概念が、意識の命題のうちで、また意識の命題によって、はじめて規定されて立てられるのである。これらの概念は、諸命題によって表現することができるが、これらの諸命題の意味は、意識の命題からもたらされるのである。そしてこれら諸命題は、意識の命題にまったく含まれており、意識の命題から直接導出されるのである。 (『論集』167-168ページ) [アイネシデモスの] コメント 意識の命題によって、 ・「意識の現れ Äußerungen の多くのうちで、表象は客観と主観から区別され、そしてこれら両者へと関係づけられる」という事実が表現される限り、 ・また、客観と主観との実在的・客観的な区別や、この両者と表象との実在的・客観的な区別が、主張されない限り、 ・意識の現れのうちに、直接含まれており、また生起するもののみが示される限り、 意識の命題は、それ自身への私たちの懐疑心を刺激しながら、しかも私たちの根拠のある異議には、超然としているのである。 意識の命題は、根元哲学において全哲学の最高の原理として立てられてはいる。しかし、ラインホルト自身が全哲学の最上位の原理に対して求めたような完全性を、この意識の命題は持ってはいない。このことは、つぎのような理由から明らかであろう。 すなわちまず第1に、意識の命題は、絶対的に最初の原理などではない。つまり、いかなる点でも他の命題には従属しておらず、他の命題によってはまったく規定されない原理ではないのである。[しかし] 意識の命題は、命題としてまた判断として、全判断の最高原理である矛盾律に、すなわち、考えられるものは矛盾する諸特性を含んではいけないという矛盾律に、従属している。そして意識の命題は、その形式面やそれが持つ主語と述語の結合に関しては、矛盾律によって規定されるのである。 [というのも] もし矛盾律が [最高原理として] 確立していなければ、意識の命題はいったいどのような妥当性を、持ちえるというのだろうか [以下では、矛盾律が確立していない場合の例を挙げている] : ・もし表象・客観・主観が、非表象・非客観・非主観としても考えられていいとすれば; ・もし意識の命題が表現している意識の構成諸要素の分離と、それら相互の関係が、非分離と非関係としても考えられるとすれば。 そして、ラインホルト自身のまったく正しい説明(『論集』、115ページ)によれば、 ・ある原理から諸命題を導出するということは、それら諸命題中に表れる表象どうしの結合の必然性を、原理から導出するということを意味するのであり、 ・意識の命題中の主語と述語の結合は、まさに矛盾律によって、明白に規定されるのだから、 意識の命題は矛盾律に従属しているのである。意識の命題のうちに含まれている、主語と述語の結合は、矛盾律のうちに含まれている、判断すべての規則に適合していることによって、意識の命題は命題となるのであるから、意識の命題は形式面から言って、矛盾律によって規定されねばならない。だから意識の命題は、その諸特性のすべてをただ自らによって規定することは、できないのである。 むろん矛盾律は、意識の命題の真理性の実在的根拠Realgrundでないことはありえる。というのは、意識の命題は、それが表現する [実在的] 経験のうちに含まれているからである。しかしながら、意識の命題はその形式面からは、矛盾律に依存しなくてはならず、また矛盾律に従属しなくてはならない。さらに矛盾律は、すべての思考の基礎をなし、すべての判断の頂点に立つ以上、証明されることはないし、またありえない。したがって矛盾律において表れる、矛盾律の主語と述語の結合の必然性が、まず意識の命題によって規定され、意識の命題から導出されえなければならないというのは――これは、もし意識の命題が、すべての哲学や原理の最高原理だというのであれば、起こりえる主張ではある――、理不尽なことである。 すべての思考の最高原理としての矛盾律は、他の命題からは導出されえない(導出の過程で、循環論法を犯すのでなければ)。したがって、意識の命題の題材 Materie は、すべての諸特性 Merkmale のうちでもっとも普遍的で最高の諸特性を形成するにしても、意識の命題に含まれている諸表象の結合の真理性は、重要なな面において(すなわち論理的側面において)、より高次の命題である矛盾律の真理性に依存しなければならないのである。 (原注)矛盾律は、すべての思考の最高の原則なので、意識の命題の下には位置しない。なるほどラインホルトは、次のように言ってはいる(『哲学的知識の基礎について』、1791年初版85ページ): 「むろん意識の命題は、矛盾律の下に位置する。しかし矛盾律は、意識の命題を規定するような原理Grundsatzとして、上位に存在するのではない。矛盾律は、意識の命題がそれに矛盾してはいけないものとして、存在するのである」。 しかし [私に言わせれば] まず第一に、ある規範 Gesetz の下に立ち、その規範に矛盾してはいけないものは、やはり原理としてのその規範によって、またその規範の定式 Formel によって、規定されると言うべきであろう。 第二に、ある規範の下に存在し、その規範に矛盾してはいけないということが、原理の下に存在し、その原理によって規定されるということを、意味しないにしても、やはり意識の命題は――根元哲学によればこの意識の命題は、表象行為 Vorstellen を律する規範を表現するはずであるが――、原理ではない、つまり他の諸命題がそれによって規定されるような原理ではない。ましてや哲学の全原理の原理などではない。哲学のうちの諸命題が矛盾してはいけないただの規範なのである。 最後の三番目に、意識の命題中の主語と述語の結合が、矛盾律に合致するよう規定されていなかったとすれば、意識の命題は命題たりえないことは、明らかである。 したがって意識の命題は、矛盾律によって規定されている。これに対し矛盾律は、正しい定式によって表現されているときには、自らによって、そして自らのうちに生じる諸特性によって規定される。矛盾律は、自らによって規定されねばならない。というのも、もし矛盾律で表現されている思考可能性Denkbarkeit [考えるという行為が成りたちえること] が、他の命題によってはじめて規定されるのだとすれば、矛盾律はすべての思考の最高の原理ではないからである。 とはいえ、以上のこと [第一~第三のアイネシデモスの主張] から、矛盾律によって表現されている、思考可能性の概念が、表象可能性 [表象するという行為が成りたちえること] の概念には従属しない概念だということにはならない。人は何かを考える sich denken ことによって、何かをまた表象してもいる。したがって、意識の命題のうちに、表象行為の本質的な諸特性が、述べられているのであれば、矛盾律は思考することの本質的諸特性を述べることによって、あるものを、すなわち意識の命題によって規定されているものに含まれるようなあるものを、規定せねばならないだろう。とはいえ、意識の命題において、またこの命題によって提示される、何かの個別的認識は die besondere Erkenntnis von etwas、たんに表象行為であるというだけではなく、また何かの個別的思考でもある。この個別的思考は、すべての思考の根本法則 [矛盾律] の下に立ち、この根本法則によって直接に規定される。そして、意識の命題がたんに表象行為の諸条件を述べる限りにおいて、この個別的思考は、意識の命題から導出されることはできない。 (原注の終了) 2番目に [1番目は、このコメント内の「まず第1に」で始まった段落からここまでを指します]、意識の命題は次のような諸点で、自らによって規定されている命題とは言いがたい。すなわち、意識の命題は: ・まったく考えられえないか、あるいは、正しく考えられえるかのどちらかであるような命題ではない。 ・意識の命題を構成している言葉の意味についての、反省だけによって正確に理解しえるというような命題ではない。 ・命題で用いられている諸概念に結合している諸特性には、余分なものも不足するものもない、というような命題ではない。 ラインホルト自身が説明しているように(『論集』、354ページ)、意識の命題が提示している主観・客観・表象という概念は、この命題が述べている「区別する」「関係させる」によって規定される。したがって、意識の命題が自らによってまったく規定された命題であるのならば、意識のうちで生じるとりわけ「区別する」「関係させる」という行為は、意識の命題で用いられている言葉によって、正確にまた完全に規定されて、述べられなければならなかったであろう。つねにすべての人が同一の、過不足のない諸特性を「区別する」「関係させる」に与えられるようにである。 「区別する」という概念に関していえば、この概念には意識の命題を考えるさいに、あるときはこの特性、またあるときは他の特性、そしてまたあるときはより多くの、他のときにはより少ない特性が、結合させられるということがありえるのである。なるほど、意識の命題への注においては、この命題は直接的には、ただ意識に表れる事実だけを示すことが、明確に言われている。このことによって、意識のなかの客観・主観・表象を区別することでもって、客観的で実在的な区別ではなく、ただ主観的な区別が理解されるべきだということが、同時に述べられてはいる。しかしどこの誰が、主観的な区別や客観的な区別が、どういった点にあるのかを知っていよう;また、意識の命題において示されている、表象と客観・主観との区別が、主観的区別なのか客観的区別なのか、知っていよう。 しかも、主観的で論理的な区別には、多くの種類がある。しかし意識の命題においては、表象の客観と主観からの区別のされ方は、どのような種類のものなのかということついては、まったく述べられていない。また、どのように表象は、客観と主観には付与されることができないような諸特性を持っているのか、ということも述べられてはいない。すなわち: ・意識に表れる表象と客観・主観の区別は、全体的な区別として、あるいは部分的な区別として考えられるべきだろうかか。 ・表象の客観・主観からの区別の種類は、 1] 根拠が根拠付けられたものから、 2] 全体がその部分から、 3] 実体がその属性から、 4] 質料が形式から、 区別される仕方のうちの、どれと同じ種類なのだろうか、あるいは他のどのような種類なのだろうか。 意識のうちでの表象の客観と主観からの区別は、まったく特定の事実だから、多くの可能な区別の種類のうちの、ただ一つの種類でしかありえない。しかし意識の命題においては、この区別の種類は述べられていない。 したがって、根元哲学の基礎となっている最高の根本法則 [意識の命題] は、一貫して自らによって規定された命題ではない。すなわち、すべての誤解を排除して、まったく考えられないか、あるいは、正しく考えられるかのどちらかであるような命題ではない。この根本法則はあいまいなまま表現されているので、いくつかのまったく異なった解釈を受け入れることを許し、また、根本法則中で示されている諸概念には、あれやこれやの特性が結合されえるのである。 同様に不確かなのは、意識の命題において示されているところの、表象の客観と主観への関係は、どのような諸特性をもたねばならないのか、またどのような諸特性はもちないのかということである。ラインホルトの説明によれば(『表象能力の新理論』、324ページ)、表象の客観と主観への関係とは、それらのお互どうしの結合である。多様で異なったものを結合するとは、それらを一つのものとして表象行為である。周知のように、多様なものの結合にはさまざまなもの viele Modifikationen がある。したがって、意識の命題の場合、次のように問われるのももっともであろう:「表象の客観と主観との結合は、どのように表象されるべきであろうか?」 意識のうちの表象が、客観と主観に関係するのは、 ・原因が結果に、 ・実体が遇有性に、 ・全体が部分に、 ・記号がそれによって表されたものに、 ・形式が質料に 関係するのと同様であろうか。 また、表象が主観と結合される仕方は、表象が客観と結合される仕方と同じでないといけないのだろうか? 表象の客観と主観への関係のし方については、上記のうちのいずれとも、またそれ以外のものとも、意識の命題おいてはハッキリと述べられていない。したがって、意識の命題を知った人が、表象の客観と主観への関係の仕方として、関係の仕方が数ある中でどれを選ぶかは、その人の恣意に任されている。 さらに、ラインホルトが『表象能力の新理論』と『論集』で、表象の客観と主観への関係について、互いに両立しないさまざまな説明を与えているので、意識の命題においてただぼんやりと示されているこの関係の仕方を、明確に察知することは不可能である。 「表象の素材は、客観に関係する」という表現は、彼の説明によると、次のようなことを意味する:「表象の素材は、客観に属している angehören、――客観の位置を代表するvertreten dessen Stelle、――客観に帰さねばならないbeizumessen、――客観のものとならねばならないzuzueignen、――客観に依存する、――客観によって規定され、与えられる、――客観に相応しkorrespondieren、対応するentsprechen、――客観について何かを示さねばならない」。 「表象の形式は、主観に関係する」という表現の方は、彼の説明によると、次のようなことを意味する:「表象の形式は、主観に属している、――主観の働きである、――表象の素材を表象にまで高めるために、主観によって素材に付与される、――主観について何かを示さねばならない」。 これらの比ゆ的な言い回しは、同じようなことを意味しているのだろうか? また、「属している」「位置を代表する」「帰さねばならない」「ものとならねばならない」「対応する」「表象に高める」といった言葉は、哲学的に規定された意味をもつのだろうか? そして、意識の命題がもつ諸概念は、このようにたくさんの特性が結合されえる言葉を使って表されているが、このような命題が、一貫して自らによって規定された命題という栄誉を、要求できるものだろうか。あるいは、私たちの言語は表現能力に乏しいので、表象の素材を表象にまで高めるためには、意味が定まっていないでどちらとも取れる、そのため非哲学的な多くの表現を、使わざるをえないのだろうか。 (原注)ラインホルト自身の説明によれば、表象・客観・主観の諸概念は、本来は意識の命題が表現しているところの行為、すなわち意識のうちでの「区別する」と「関係づける」という行為によって、規定される。このことから、意識の命題が、その内容や意識の命題において考えられることに関して、「なぜ絶対的に最初の原理などとは、見なせられえないのか」、という理由が明らかとなる。 すなわち意識の命題においては、表象は意識のうちで客観と主観に関係し、またこの両者から区別されるものとして、説明され、規定されている。このことによって意識の命題においては、表象心の現われの諸特性は、思考によって規定され、説明されることになる。というのは、心のうちで結合や分離すべては、思考なのだから。したがって根元哲学は、本来的に表象を思考によって検討している。根元哲学は、諸類中の最高の類 [表象] を規定しようとして、この最高の類を下位の種 [思考] によって規定するのである。 なるほどラインホルトは『表象能力の新理論』(324ページ)で、「意識のうちで表象が[主ならびに客観へと]二様に関係づけられていること [自体] は、表象ではない」と主張している。しかし関係づけや分離という心の行為は、明らかに「思考」だし、また「表象」でもある。さもなければ、これらの行為は一体何なのか? 心の発現としての現実的意識のうちで生じる、二様に表象が関係づけられることを、「表象する」こととは呼ばないとしても、意識の命題において表現されている、あるものの関係付けと分離は、概念や表象であろう。というのは、もしそうでないとすれば、意識の命題は、概念や表象からは構成されていない判断を形成することになってしまうからである。 したがって根元哲学は、意識の命題において、表象の諸特性を述べているが、この諸特性は「考える」ことであり、したがって「表彰する」ことなのである。 (原注の終了) 最後の3番目に、意識の命題は、普遍的に妥当する命題ではない。また意識の命題は、特定の経験や推論とは結びついていないような事態を表してはいない。そして、私たちが意識するであろうすべての可能な経験や思考に、伴うような事態も表してはいないのである。というのも、意識の命題が誤解から守られてはいないこと、この命題を提示する言葉が多くの解釈を許すこと、まさにこうしたことによって、この命題を、すべての哲学者によってすでに確定された命題であるとは、見なすことができないからである。あるいは、次のように想定すべきなのだろうか:ある秘密の不思議な力のせいで、この意識の命題を聞いたり読んだりする人は、みな同様の仕方でこの命題を思いうかべると。 意識の命題が、普遍的に妥当する確実な命題であるとの栄誉を、要求できない根拠はまだ他にもある。確かに、意識の発現の若干においては、意識の構成要素としての表象・客観・主観が、相互関係のうちに存在する。このことは否定できないし、また自分の心のさまざまな状態に注意を払ったことのある人は、みな認めるであろう。 私が以前見たことのある対象を想いだすときには、表象・客観・主観が存在しており、それらは特定の特徴によって相互に区別されているが、また互いに関係してもいる。さらに、今私がパレスチナ [地名] を表象するならば、表象・客観・主観という意識の3つの部分が、パレスチナのまったき表象を成り立たせていることを、認めることができよう。 けれども、根元哲学における意識の命題は、普遍的命題として立てられている。この普遍的命題は、すべての表象(それが表象である限り)の特性と、意識のすべての発現がもっている本質的なものを、表し規定するという。しかし、意識の命題が述べている意識の全構成要素(すなわち表象・客観・主観)、および象の客観と主観への関係が、現れないような意識の発現が現実にある。 私の外部に現実に存在するといわれる対象の直観においては、私はなるほど直観する私の自我と、直観の内容を形成する表象を認める。しかしながらこの直観にあっては、直観している間は客観の知覚が――すなわち、私の自我およびこの自我のうちに存在する表象とは、異なる客観の知覚が――、欠けている。 そして、私が直観と呼んでいる表象には、この表象とは異なる、客観的な現実の対象が対応しているものと、私がおそらく思索にもとづいてではあるが、想定し確信しているにもかかわらず、直観活動の間は、また直観を続けているかぎり、表象は、この表象が関係するとされる対象から、まったく区別されないのである。 同様に私たちがなにかを熟考しているさいにも、私たちは思考している自我や、その自我によって互いに比較される諸概念は意識しても、概念とは異なる特定の対象 [客観] については、常に意識するというわけではない。最後に、何かを表象するという心の活動においても、少なからぬ場合に、主観つまり表象している自我と客観との区別、および表象との区別が、まったく欠けていることは、経験から十分に知られていることである。 したがって、意識の命題において、表象・意識状態のすべてに本質的に属するとされている構成要素が、すべてそろっては現われない状態が――すなわち、私たちが行う表象や意識の状態が――、ときにあるのである。そこで私たちが、表象とは区別される客観を意識することなく、何かを表象する場合があるとすれば、「すべての意識のうちで、表象は主観によって客観と主観から区別され、そして両者へと関係づけられる」という命題は、「特定の経験に結びついてはおらず、すべての経験に伴っているような事態」を表す命題ではないのであろう。だからこの命題が普遍的命題とされると、[前述したような] 明白で周知の事実に抵触するのである。 (原注) 確かにすべての表象は、この表象とは異なるところの客観と主観に関係するものにまで、高められえるということは、否定できない。しかし、このことをもってしても、「なぜ意識の命題は、普遍的に妥当する命題ではありないのか、また、すべての経験によって確認される命題ではありえないのか」ということの上述の理由が、否定されはしない。というのも、この意識の命題は、各表象が高められえるものを、規定するものではないからである。意識の命題は、現実の表象において事実として存在するものを含み、述べなければならないのである。 (原注終了) さて、意識の命題が、命題中の最高のものではなく、一貫して自らによって規定された命題でもなく、普遍的に妥当する命題でもないとすれば、それはいかなる命題なのだろうか? この私のコメントのもともとの意図は、「ラインホルトの根元哲学は、争う余地なく確実な、全哲学の原理を含むものではない」ということを示すことにあるわけだから、この問いへの回答は省いてもよいであろう。 根元哲学の全体と、根元哲学の不当な行為について正しく評価するために、意識の命題にふさわしい評定をすることが、役だつであろう。そこで、意識の命題に関して、今までのコメントに加えるに、さらに以下のことを述べよう。 まず、意識の命題 [意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる。] は、その述語が主語([すなわち] 意識 [文法的にみれば、意識の命題の主語は「表象」になります。しかしアイネシデモスは、この意識の命題を内容面からみて、すなわち、「意識は、そのうちで表象が、主観によって主観と客観から・・・関係づけられる、ところのものである」と言いかえて、主語を意識だとしています。] )について何かを述べる総合的命題である。だから述語が主語(意識)において、その特性や構成要素として前もって考えられるということはない [前もって考えられるのであれば、分析命題になってしまう]。そして、表象・客観・主観の諸概念は、主観による表象の客観と主観への関係づけと同様、意識の命題中の主語 [意識] の概念を発展させただけでは、与えられない。 [与えられるとすれば、意識の命題は分析命題になってしまう]。意識の命題の実質的な真実性は、表象・客観・主観と表象の客観と主観への関係が、現れた意識に属しているという、[私たちの] 経験に基づいている。この経験がなければ、私たちは表象についても、意識のうちでの表象の客観と主観への関係についても、また意識一般についても、なんら知識を持ちはしないのである。したがって、全根元哲学は、事実とその発展の上に築かれた哲学である。 しかしそもそも、経験の対象において観察するものが、 ・その対象において観察できる唯一のものであるかどうか、 ・あるいは、将来ともその対象においてのみ観察されであろう唯一のものであるかどうか、 などということについては、私たちには確信の持ちようがないのである。そして根元哲学も、事実とその検討に基づいているからには、根元哲学もまた――仮に、根元哲学の最初の命題 [意識の命題] が、ラインホルトが与えようとした完全無欠さを備えていると、仮定したところで――、次のようなことを保障することはできない: 「最初の命題 [すなわち意識の命題] より導出された根元哲学の学説は、 ・未来永劫にわたって妥当し、 ・根元哲学の基礎を成している事実の諸特性を、より厳密に研究した後でも、大きな訂正ないしは全面的な変更を必要とするものではまったくない」。 2番目に [1番目は、「まず、意識の命題・・・」から今まで] 意識の命題は、抽象された命題であり、いくつかの(ラインホルトによれば、すべての)発現した意識どうしが共通に持っているものを示している。意識の命題においては、発現した諸意識に共通なものが表現されているのであって、意識の命題が成立しえるのは、これらの意識に互いに共通なものを、互いに相違するものから、人が抽象するからである。意識の命題が立てる特性や概念は、すべて類的特性や類概念であるが、これらの特性や概念が [通用する] 領域や範囲は、この抽象によって規定されているのである。 したがって、かりに根元哲学の最初の命題 [意識の命題] が普遍的命題であり、そしてラインホルトが最初の命題に備わっていると思い込んでいる諸性質を、すべて持っていたとしても、根元哲学は、 ・意識の命題から導出された、 ・また意識の命題に基づいた すべての学説と主張に関しては、意識の命題において述べられているところの、諸概念や抽象の規定性が有する確実性と不変性以上のものを、要求するわけにはいかないのである。そして、これら諸概念や抽象の規定性が恣意的であって、不変的な規則 Regel には――すなわち、諸概念において、過不足のない諸特性を理解させるような不変的な規則には――結びついていないのであるから、根元哲学がもたらすものには、恣意性が伴わずにはいないだろう。 TOP 2. 表象の根源的な概念 §§II.-V. [ラインホルトの根元哲学の主要な概念である「表象・客観・主観」が完膚なきまでに批判されます。しかし、いわゆる三項図式「客観-意識内容-主観」を廃却して、「意識」による統一を構想しようとしているラインホルトの根元哲学に対し、シュルツェの批判は、はたして角を矯めて牛を殺すことになっていないのでしょうか?] [アイネシデモスによる、ラインホルトの根元哲学の引用] §II. 表象とは、意識のうちで主観によって客観と主観から区別され、そして客観と主観の両者へ関係づけられるものである。 ここに提示されている表象の特性 [すなわち、上記の「意識のうちで・・・関係づけられる」] は、意識についての反省によって得られるのであって、異なる種類のさまざまな表象から抽象して得られるのではない。この [§II.で述べられている] 特性によって表象は、表象一般としてではなく、また類としてではなく、表象そのものとして考えられるのである。たしかにこの特性は、表象の類概念においても考えられるが、それはこの特性が、感覚的な表象・概念・理念、この3者に共通するものを、含む限りにおいてである。そのときにはむろん、表象のこれら3つの種にそれぞれ特有なものは、捨象されねばならない。 しかし、表象そのものという純粋な概念においては、表象についてのいっさいの思念 Spekulation [前述の抽象化などを意味する] の前に、したがって類概念として規定化される前に、表象が意識のうちで存在する限り、表象は考えられる。しかも表象が考えられるのは、次のような特性によってである: ・類や種の規定からは生まれず、ただこれらの規定によって説明されえるだけの特性、 ・[さまざまな表象から私たちが] 抽象 [するに] にさいしては、前提となる特性、 ・類や種をとおして見出されても、それらによっては与えられない特性。 感覚的表象や概念等々が表象であるということを、また、これらのうちで私が表象として想定するものを、私は根源的にはただ意識によって知るのである・・・ (『論集』168-169ページ) 客観の根源的な概念 §III. 客観とは、意識のうちで主観によって主観と表象から区別され、そして主観とは区別される表象が、関係づけられるところのものである。 ここに提示されている客観の概念が含む特性 [すなわち、上記の「意識のうちで・・・関係づけられる」] は、反省によって意識から得られたものであり、さまざまな種類の客観から、抽象によって得られたものではない。この [§III.で述べられている] 客観の概念は、根源的で究極的な特性を提供するが、この特性は客観の類概念の根底にあって、類概念を可能にする。・・・ (『論集』170-171ページ) 主観の根源的な概念 §IV. 主観とは、意識のうちで自らによって表象と客観から区別され、そして客観とは区別される表象が、関係づけられるところのものである。 ここに提示されている主観の概念が含む特性 [すなわち、上記の「意識のうちで・・・関係づけられる」] は、もともと意識自体から得られたものである。またこの特性は、表象している主観に付与しえる他のすべての諸特性の根底に、直接的であれ間接的であれ、存在していなければならない。そしてこの特性は、外的ないし内的な個々の経験から抽象されるものではなく、すべての経験に伴っている意識から直接由来する。・・・ (『論集』171-172ページ) 表象そのものの、根源的な概念 §V. 表象そのものとは、意識のうちで客観と主観に関係づけられ、そして客観と主観の両者から区別されるところのものである。・・・ 表象を表象そのものとして考えるときには、この表象を、現実的に客観と主観に関係づけられているという点においてではなく、ただ、両者に関係づけられえるという点においてのみ、考えねばならない。意識のうちで、客観と主観に関係づけられるものは、時間においてではなく、その性質上、関係づけられる行為より以前に、存在しなくてはならない。関係づけられるものが存在しないときには、何ものも関係づけられないからには。したがって、表象そのものが、客観と主観の可能性――すなわち客観と主観は、[表象に関係づけられることで] 意識に現れえるかぎり――の根拠をもつ点において、表象そのものは、意識のうちで客観と主観に先行する。 客観と主観の両者は、ただ表象によって、つまり表象が両者へ関係づけられることによって、意識に現れる。これは、表象そのものが、つまり両者に関係づけられるものが、存在することによってのみ可能なのである。 表象そのものは、直接意識のうちに現れる。これに対し、客観と主観は間接的に、表象によって現れる。すなわち客観と主観に関係づけられた表象が、両者とは区別されることによって、客観と主観として意識のうちに現れる。そして客観と主観は、この区別によってのみ表象そのものとは異なるものとして、考えられることができる。主観ならびに客観は、表象そのものによってのみ、意識のうちで可能となるのである;すなわち、主観と客観は、表象が両者へ関係することによってのみ、表象するもの・されるものとして可能なのであり、また、表象が両者とは区別されることによってのみ、主観自体・客観自体として、可能なのである。 確かに表象そのものは、客観と主観なくしては考えられない。というのも、表象そのものは、客観と主観に関係づけられるものとしてのみ、考えられえるからである。そして表象そのものは、この両者からは区別されるものとしてのみ考えられ、またその性質上、意識のうちで客観と主観に先行するものとしてのみ、考えられるのである。また表象そのものは、客観と主観の両者を意識の構成要素へと高め、意識のうちの両者がその下で考えられねばならぬような述語 Prädikat を、形成する。 表象そのものの概念は、意識の命題によって規定されているが、この概念において統合されねばならぬ諸特性を、私は内的なものと外的なものに区別する。・・・表象そのものは、客観と主観から区別されたものとしてのみ考えられるのであるから、客観と主観は、表象そのものの概念の外的諸特性である。この概念の内的諸特性は、表象そのもののうちに含まれているものから成りたっている。この表象そのもののうちに含まれているものは、表象にあって、表象そのものとは区別される客観と主観に関係づけられる。また、この表象そのもののうちに含まれているものによって、表象そのものも、この両者に関係づけられる。 このような表象そのもののうちに含まれているものもまた、客観と主観なくしては考えられず、またこの両者とは異なるものとしてのみ考えられる。・・・表象そのものの内的な諸条件の総体Inbegriffからは、客観と主観は排除されねばならない。・・・客観と主観はそれ自体としては、また直接には、表象そのものの概念には属さない。客観と主観は、表象そのもののうちでこの両者に関係しているものを介してのみ、表象そのものの概念に入る gehören in のである。 (『論集』173-175ページ) [アイネシデモスの] コメント 表象・客観・主観の諸概念は§II, III, IVで提示されているが、これらの概念の規定は、意識の命題において表わされているという事実に基づいてはいる。が、しかしこの規定は、抽象にまったく依存していないのではない [『論集』からの上記引用では、抽象によって得られるのではないと言われていました]。また、根元哲学が述べている表象・客観・主観の諸特性は、たんに意識についての反省によってだけではなく、意識のうちの個別的なものや特殊なものを捨象することによって、得られたものである。 つまり、 ・意識の命題において述べられている仕方で、意識が現実に発現するときには、また、表象・客観・主観が相互関係のうちに見いだされるときにも、 ・意識のうちに現れているこれらの表象・客観・主観は、たんに表象・客観・主観一般なのではないし、また、相互関係の面からのみ表象されるのでもない。 むしろ表象というものは、その内容と広がりによって規定された、特定のものなのである。 主観すなわち私の自我は、意識という現実の発現において現れるが、この主観もまたそのつど特定の変容をうけ、多くの性質によって規定された主観である。 同様に、意識のうちに現実の客観として現われる客観も、たんに、主観によって主観と表象から区別されたもの、主観によって区別された表象が関係づけられるところのものではないのである。この客観は、意識のうちに客観として現われるすべてのものと同様、関係しているという普遍的性質をもつが、それ以外にも、多くの特定の性質および絶対的な性質を持っている。そしてそれらの性質が、この客観を内容面から規定するのである。 さらに、意識の命題あるいは表象や主観が、ある特定の意識の客観であるときでさえ、それらが客観であるのは、常にただそれらが、意識のうちの客観ということでそれらに与えられる規定以外にも、特定の規定およびそれらにのみ固有の特性を、備えているかぎりである。 したがって根元哲学が与える、表象・主観・客観の諸概念は、意識のうちの事実についての反省によってのみならず、意識のうちの特殊なものの捨象によっても、生じている。これらの諸概念は、意識のうちに現れて相互に関係づけられるところの、特殊な諸表象・諸主観・諸客観が、共通に持っているものが統合されて、ある表象の内容になることによってのみ、得られたのである。 しかし私たちは、根元哲学が表象・客観・主観について述べている諸特性が、どのようにして意識から得られたのかということについては、争おうとは思わない。むしろ探求したいのは、根元哲学において意識の命題より導出された、表象・客観・主観の諸概念が正しいかどうかということである。とりわけ、表象の概念が次のような諸特性だけを、すなわち、表象を形成しているものにおいて、また表象と考えられてしかるべきすべてのものにおいて、常に変わることなく見いだされる諸特性だけを、含んでいるかどうかということである。 さて、根元哲学が提示する、表象の本質的な諸特性の説明は、説明されるべきものより明らかに狭小である [このことについては、前述の「根元哲学の基礎的学説」中の「1. 意識の命題 コメント」でも詳述されています]。 ・全根元哲学の根底にある、表象の概念規定は、 ・また、すべての表象の構成要素の起源について、そして表象能力の本質 Natur について、根元哲学が行うすべての議論の基礎にある、表象の概念規定は、 すべての表象において現実に見いだされる諸特性の規定などではない。このことは、意識の命題が、すべての意識において現実に見出されるものを述べていないのと同様である。根元哲学が行っている上記のような表象の概念規定は、ある特定の種類の表象の概念規定なのであり、ある特定の仕方で心が表象するときの、表象の概念規定なのである。 つまり、 ・主観によって客観と主観から区別され、そしてこの両者へ関係づけられるもののみが、表象を形成するとすれば、 ・また、知覚されたものだけが、心 [=主観] によって互いに区別され、そして互いに関係づけられるとすれば(というのは、区別することや関係づけることなどの行為は、互いに関係づけられたり、互いに区別されたりできる何かが存在するときに [つまり、知覚されたときに] のみ、はじめて行われえるからである。また、区別されえるものが何も存在しないとき [つまり、知覚されないとき] には、区別ということはまったく考えられないからである)、 直観 [によって得られる像] は表象という類 [に含まれる下位] の種ではないであろう。[しかしこれは、むろん不条理である] 。というのは、表象には類の概念が、まったく適合しないからである。すなわち、直観している間は、客観を表象から区別するということは起きない。というのは、直観が続く限り、表象とは異なる客観はまったく認められない [=知覚されない] からである。もし表象と客観の区別が発生したりすれば、すぐに直観が成りたたなくなってしまうだろう。 さて、ラインホルトが書いたあらゆる文書で主張されているように、直観は一種の表象であるから、 [ラインホルトの考えに従ったのでは] §II.ですべての表象の必然的な特性だと称されているものを、本質的に含まないような表象が、存在することになってしまう。 こうしたことは、「§II.で提示されている表象の説明は、その説明の対象 [=現実に存在する表象] より範囲が狭い」ということを明らにする一例にすぎない。そして、意識の命題において表現されている事実自体が、こうした例を提供するのである。すなわちこの [§II.で提示されている] 説明によれば、「表象」という言葉の使用は、意識のうちで客観と主観に関係づけられ、そして両者から区別されるものだけに、制限されねばならない。したがって、意識を構成している唯一の要素だけに、制限されねばならない。 しかしながら、表象を客観と主観へ関係させること自体や、表象をこの両者から区別すること自体もまた――意識の内部において見られるように(なお、この意識の性質については、根元哲学 [『論集』] の§I.で述べられている。もっともこの性質には、意識なるものが主観や客観に関係させることも、主観や客観から区別することも、結びついてはいないのだが)――、ある物の性質(Beschaffenheiten des Etwas)を表象行為であることは、やはり否定できない。 なるほどラインホルトは、『表象能力の新理論』の323ページで述べている:「言語慣用では、表象を客観と主観へ関係させることを、『表象行為である』とは、まったく言えないのである」。しかしラインホルトのこの主張は、いかなる証明もなくして言われているので、重要ではない。意識の内部で、表象を [客観と主観から] 区別したり、[この両者に]関係させたりすることが、私たちが「表象する」と呼んでいる心の行為と違うとすれば、それはいったい何だというのか? またどの点で、前記の区別したり関係させたりすることが、表象という言葉の通常の用法に抵触するというのか? 通常の言葉の用法では、心のうちで区別することや関係させることすべては、表象行為でもある。 こうしたことから帰結するのは再び、根元哲学で表象行為について述べられている諸特性は、現実に表象を形成しているものや、言葉の用法に従えば「表象する」と呼ばれなければならないこと\のすべてには、当てはまらないことである。 同様に確かなことは、一般的な言語使用においては「表象する」という言葉が、意識のうちで表象が関係づけられ、そして区別されるところの客観と主観を知覚することや認知することに、使われることである。客観や主観も、意識のうちに現れる限り、またそこで表象されるのである。 ラインホルト自身も、『表象能力の新理論』と『論集』で、私の上記の主張のように言語を使っている。表象が関係づけられたり区別されたりするところの客観と主観を知覚することを、表現するなにか特別の言葉を、彼は指定してはいない。意識のうちで表象が関係づけられ、また区別されるところの客観の知覚は、なにかが主観によって客観と主観に関係づけられることに存するのではなく、またなにかがこの両者から区別されることに存するのでもない。こうしたことは、表象が関係づけられ、またそれが区別されるところの主観の認知についても、言えるのである。 表象とは、主観によって客観と主観に関係づけられ、またこの両者から区別されるものだとする表象の説明は、それが説明しようとするもの [=現実の表象] すべてを対象とはしていない。そしてこの説明は、意識の行為――この行為は、意識の命題によって表現されているが――において現れるすべてのものに、表象行為を現実に形成しているすべてのものに、行き届いてはいない。 余りにも狭く恣意的な、このような表象行為の説明に、全根元哲学はそのすべての成果と共に、基づいている。したがって、このような説明によっていったい何が証明され、また確定されたと言うのであろうか?(原注10) (原注10) 根元哲学が、表象行為とその本質的な諸性質について与える説明によれば、主観が私たちのうちではじめて表象されるのは、人が主観を個別的意識の客観にすることによってである。そしてこの客観には、この客観や表象する自我とは区別されるもの [表象] が、関係づけられる。こうしたことがなされるまでは、根元哲学によると、主観は私たちのうちで表象4されることは、まったくできなかったかもしれないのである(訳注1)。 しかし、一般的に通用している言葉の用法によれば、主観はすでに表象されていたのかもしれない。たとえ主観が、個別的意識の対象にまで高められたことなどまったくなくても、また将来もまったく高められえなくてもである。誰かがある物体を直観し、その物体を意識しているとき、その人について次のように言うことは、言葉の慣用的な用法から外れているわけではけっしてない:「直観していた間、彼は直観しつつも、彼の直観する主観の表象も持っていた」。 この言葉の用法を通用しないようにしようとすれば、つじつまの合わないことを仮定し、弁護するほかはない。つまり主観が――[根元哲学によれば] この主観には、この主観や客観とは区別される表象が、心のうちで関係づけられるのだが――、何物かの表象でないとすれば、この主観は表象以上か表象以下のものである。自我 [=主観] が――自己意識 [自我の意識] は多くの表象に付随するし、またすべての表象に付随することができる――、表象以上のものだとすれば、私たちは表象の主観について(von dem Subjekt unserer Vorstellungen)、この主観を表象することなくして知っていることになる。また心のうちに表象でないものが、存在することになる。 逆に、この自我が何ものかの表象以下だとすれば、私たちはまたしても、この何物かの表象を持つことなくして、その物を認識し、知覚することができることになってしまうのである。 (原注10 終了) 以上のことから、§V.で提示された表象そのものの概念について、またこの概念の価値について、どのように考えればよいかは十分に明らかである。したがって、この表象そのものの概念を、ことさら吟味する必要もないであろう。 ただ一言したいのは、§V.への私のコメントのなかで、 ・表象そのものについて、 ・および、意識のうちでこの表象がもつ、客観と主観の可能性への関係について、 言われていることは、その同じ理由から主観や客観についても、意識のうちでの現実の表象の存在ということに考慮して、言われねばならないということである。すなわち、互いに関係づけられるものが存在していないときには、何ものも互いに関係づけられないとすれば、意識のうちの現実の表象もまた、客観と主観がすでに客観そのもの・主観そのものとしてそこになければ、客観と主観に関係づけられはしない。したがって、意識のうちでこの両者は、表象に先行する。客観と主観の両者は、表象が意識のうちに現れる可能性の根拠を、もっているのである。また現実の表象は、客観と主観に関係づけられて存立するものであるかぎり、表象でありえるためには、関係づけられるべき客観そのものと主観そのものが、すでに存在していなければならない。 だから、客観そのものと主観そのものは、意識のうちに直接現れるのである。それに対して、現実の表象はただ間接的に、ただこの両者に関係づけられ、そして区別されることによってのみ、意識のうちに現れることができる。[ここでシュルツェは、§V. でのラインホルトの主張とは逆のことを述べている]。 意識の構成要素 [表象・客観・主観] のうち、何が他のものに先行し、他のものを可能にするのか、お分かりいただけたであろうか? TOP 3. 表象能力の根源的な概念 §§VI. - VIII. [ カント哲学の三項図式「客観(物自体)-現象(意識内容・表象)-主観」に対し、ラインホルトの根元哲学は、意識の一元論を目指しました。ところが、カテゴリーの誤った使用などがあり、そこをシュルツェに突かれて破綻します。 いかに不満はあろうとも、カント哲学はそれなりによくできた(というか、きわどいバランスの上に立った)哲学であり、へたに改作をしようとすると大怪我をするという、一例ではあります。 ちなみに、ラインホルトの「意識」を想を新たに改訂したのが、フィヒテの「自我」ということになります。] [アイネシデモスによる、ラインホルトの根元哲学の引用] §VI. 表象 [する] 能力 Vorstellungsvermögen とは、この能力によって表象そのものを、つまり、意識のうちで客観と主観に関係し、そしてこの両者から区別されるところの表象を、可能にするところのものである。 そしてまた表象能力は、すべての表象より以前に、表象の原因のうちで――すなわち表象が現実に生じる根拠を含んでいるもののうちで――、存在していなければならない。 表象そのものが現実化する根拠を含んでいるものを、表象 [する] 力vorstellende Kraft と呼ぶならば、表象能力とはこの力 Kraft の能力 Vermögen のことである。あるいは、表象能力によって、表象力はその結果のうちで、つまり表象のうちで、表れるのである。したがって表象能力は、この結果より以前に、表象力のうちでこの結果の条件として、確実に存在していなければならない。・・・ (『論集』175-176ページ) §VII. 感覚的表象や概念そして理念が、共通に表象という名前を使い、この表象という名前が、表象一般という肩書きのもとで、感覚・概念・理念に共通なものを指すように、感性・悟性・理性は、感覚的表象能力・概念能力・理念能力といえる。そして表象能力というのは、また感覚的表象能力・概念能力・理念能力これらに共通なものというのは、表象能力一般なのである。・・・・・・ したがって表象能力ということで、表象しているもののうちに存在する、作用したり受動したりする個々の能力が、言われるのではない。表象そのものを可能にするものが、言われているのである。そしてこのようなものが、主観に帰属しているのかどうか、またどのように帰属しているのかが、まず問われるべきである。・・・ (『論集』176-177ページ) §VIII. 表象能力一般は・・・感性・悟性・理性の外部では存在しない。しかし表象能力の概念は、力 Kraft [表象力] からではなく、ただ表象能力の結果から、つまり表象そのものから導出される。しかも、表象そのものの概念からのみ――そして、この概念が「意識の命題」によって、規定されている限りで――、導出される。 作用する原因は、つまり表象そのものが現実に表れる根拠は、表象力と呼ばれる。表象そのものは、この力のうちに留まっていることも、そこから発生することもある。表象力と表象そのものとは、原因が結果と異なるように異なっている。表象力を構成する実質 Substanz は、表象そのものには含まれていない。この表象そのものを介してのみ、表象力は意識のうちに現れる äußern。 したがって、表象そのものにおいて、つまり表象力の結果において、表象力から現れることができるのは、表象力の活動の仕方Handlungsweiseに他ならない、つまり、表象力のもつ能力の形式である。しかし表象力は、結果以前にではなく、ただその結果を介して現れることができるのだから、表象力の活動の仕方も、この結果から、つまり表象そのものから認識される。・・・ 表象能力の諸特性は、表象そのものの諸特性からのみ、導出されることができる。したがって、主観自体や客観自体からは導出されない。意識のうちで表象そのものとは区別されねばならないすべてのものは――例えば、物自体としての外的経験の諸対象や、表象能力が属している実質 Substanz そのものなど――、この導出にはまったく役だたない。・・・ したがって、表象能力そのものの規定された概念、あるいは、表象能力そのものの内的な諸特性を得るには、意識の命題によって規定された、表象そのものの概念を、完全に展開せねばならない。 (『論集』178-179ページ) TOP [アイネシデモスの] コメント すでに長い間、次の問題が哲学における最重要問題の一つであった:「私たちが持つ表象はどこから由来し、また表象は、私たちの内部でいかなる仕方で生じるのか?」 私たちの内部の表象は、表象されている事物そのものではないのだから、「とりわけこの問題への信頼できる根本的な回答によって、私たちのもつ表象と、私たちの心の外部にある事物との関連が、明らかとならねばならない。また、認識のさまざまな構成要素の実在性についても、確実性が求められねばならない」と考えられたのも、もっともである。 さて、批判哲学 [=カント哲学] の主張では、諸対象の私たちの内の表象が、もっている規定や特性の多くの部分は、私たちの表象能力の本質に基づいているとされる。この主張において、ロックとライプニッツが人間の表象の発生について行った互いに対立する説明が、統一されている。そして、認識能力の諸部門 [=感性・悟性・理性] が持つ境界や規定について、批判哲学において言われていることの大半の信頼性や真実性は、この主張の真実性に基づいている。 したがって、批判哲学の本当の価値や、批判哲学の主張の正当性を――すなわち、異論の余地なく明らかで、無謬な結論を得たという主張の正当性を――、的確に評価しようと思えば、根拠と原理を――すなわち批判哲学が、「私たちの認識においては、心によって規定された先天的なものが現れる。そしてこの先天的に規定されたものが、認識のために後天的に与えられる素材の形式を、形成する」と説明するとき、批判哲学が準拠している根拠と原理を――、吟味する必要がある。 この吟味にさいしては、とりわけヒュームの懐疑論 [ヒュームの懐疑論については、シュルツェによる要を得た紹介が、本書にありますので、まず目を通すことをお勧めします。(原注のdの個所。 フェリックス・マイナー社の「哲学文庫」版では、91-92ページ)] の主張を、顧慮する必要がある。ヒュームの懐疑論への反論が、理性批判 [=カント哲学] の主要な目的に、そして理性批判で行われた人間の認識能力の測定の主要な目的に、なっているからである;またそればかりではなく、批判哲学の支持者たちが、一致して次のように主張しているからでもある:「ヒュームの懐疑論は、批判哲学が表象能力から人間の認識 [の構成要素] のある部分 [=先天的な認識形式] を導出することによって、完全に克服された。この明晰な賢者 [ヒューム] が、 ・充足理由律 [十分な理由がなければ、いかなる事実も成立せず、またいかなる判断も真ではない。] の確実性や使用に関して、 ・また、私たちのうちの表象から、私たちの外部にある事物の存在への、移行の可能性に関して、 ・また、私たちのうちの表象から、この事物の肯定的あるいは否定的な諸性質への、移行の可能性に関して、 独断論者 [単純な実在論者] に向けて提出した正当な諸要求は、[批判哲学によって] すべて十分すぎるほどに満たされた」。 したがって、批判哲学全体の価値を判断するにあたっては、次の諸問題の探求が、たいへん重要である: ・理性批判は、ヒュームの諸要求を十分満足させたのだろうか? ・理性批判は、その偉大な創始者 [カント] 自身の告白によれば、ヒュームの懐疑について熟考し続けたことが、きっかけとなって生まれたのだが、理性批判はこのヒュームの懐疑を、解決したのだろうか? ・理性批判は、人間の認識のさまざまな構成要素の価値と成立の仕方について、しっかりと基礎づけられた体系を展開したのだろうか? これらの問題の検討に当たって必要となるのは、ヒュームの主張や課題を、批判哲学の諸原則や根拠と――すなわち、批判哲学が私たちの認識がもつ形式の存在を、先天的に証明しようとしたときに、批判哲学が依拠した諸原則や根拠と――、慎重に比較することである。私の知る限り、批判哲学の賛同者であれ反対者であれ、まだ誰もこうした比較には、とりかかってはいない。批判哲学の創始者 [カント] の告白――「ヒュームの懐疑が私の独断論の眠りを破り、私を哲学原理の探求へとうながした」――は、この比較へのきっかけをなすに、十分であったにもかかわらず。 [一方ラインホルトの] 根元哲学は、認識の構成要素の起源を求めて、独自の道を行った。純粋理性批判が示しているところの、この起源に案内する指標とは、別の指標によって、根元哲学はこの起源を発見したように見える。そこで私たちは、この2つの指標のうちどちらが信頼できるものなのかということも、探求しなければならない。したがって、「心は表象において多くのものを規定する」ということを明らかにするために、根元哲学が出発点とした証明のみならず、同じことを明らかにするために、純粋理性批判において述べられている証明も、吟味されなければならない。 『論集』の§VI.~VIII.で、表象能力についてさしあたり言われていることは、次のようなことである: a) 表象能力は、表象が生じることの原因であり、根拠である。 b) 表象能力は、すべての表象より以前に存在し、しかもある特定の仕方において存在する。 c) 表象能力は、原因が結果とは異なるように、表象とは異なっている。 d) 表象能力の概念は、ただ表象能力の結果からのみ、すなわち表象自体からのみ導出される。表象能力の内的な特性あるいは概念を得るためには、表象自体の概念を完全に展開しなければならない。 これら a) ~ d) においては、ただ表象能力の概念の規定のみが、目ざされているようである。しかしながら、a) ~ d) によれば、「表象能力ということでもって、客観的で現実的なある物を――それは表象が現実に生じる原因と条件をなし、すべての表象以前に存在している――考える」ことも、表象能力の概念に属しているというのだから、私たちはまず次のことを探求せねばならないのだろう: ・前記のようなある物が客観的に存在しているという大仰な見解に、根元哲学はどうやって到達したのか? ・そしてどのような推論によって、根元哲学はこのある物の存在を――この存在については、意識の命題中には何も含まれていない(意識の命題は、事実を表すだけだとされる)――立証するのか? 根元哲学の主要な契機についての新しい叙述 [1791年の『哲学的知識の基礎について』を指すと思われます] においては、表象能力が客観的に現実に存在することについては、どこにも証明されていない。しかし、『表象能力の新理論』[1789年] の190ページでは、この証明が検討されている。そこでは次のように書かれている: 「現実に存するということで、すべての哲学者の見解が一致しているのは、表象だけである。少なくとも何かが存在するのであれば――このことについては哲学界において一致がある――、それは表象である。観念論者であれ、自我主義者であれ、独断的懐疑論者であれ、表象が現存することを否定することはできない。そして表象を認める人は、表象能力をも、すなわちそれなくしては表象が考えられないところのものをも、認めなくてはならない」。 思考が存在から区別されていることを知ろうとする批判哲学の賛同者 [ラインホルト] から、表象能力の客観的存在――この存在への確信に基づいて、最新の哲学においてはじつに多くのことが立論されている――についてのかかる証明は、ほとんど予期できなかったというほかはない。この証明においては、 私たちの内部の表象の性質や思考の性質から、私たちの外部の事物自体の性質が、実際に推測されている。表象能力の客観的現実性の証明は、つまるところ以下のように推論されている: ・互いに相手なくして考えられないものは、互いに相手なくしては存在することもできない。 ・そして、表象の存在や現実性は、表象能力の存在や現実性なしには、考えられない。 ・ゆえに、表象能力は考えねばならない。ゆえにまた表象能力も、客観的に、表象が私たちのうちに存在するのと同じように確実に、存在しなければならない。 もし上記の推論が正しく、何ごとかを証明しているというのであれば: ・スピノザ主義も、ライプニッツの体系も、観念論も、物自体に関して互いに矛盾しあった主張をしている全独断論も、揺るぐことなく確立していることになろう。 ・私たちは、反論の余地のない、理論理性による次のような証明を持つであろう。 1] モナドの客観的存在に対する証明(というのは、構成されたものの des zusammengesetzten 存在 [例えば、眼前にある机など] は、それを構成している単純な諸部分 [モナド] の存在なくしては、考えられないからである)。 2] 私たちの内部で思考する主観の、客観的単一性と人格性の証明(というのは、この主観はただ単一なものとして、一つの実体として、考えられるからである)。 ・理論理性は、世界創造者が客観的に存在することについて、必然的な論証をなしえるだろう(というのは、条件づけられたものの全系列 [=世界] が存在するということは、条件づけられていない世界創造者の存在なくしては、考えられないからである。) ・空間と時間は、私たちの外部で現実的に存在するであろう(というのは、物体の存在はただ存在している空間の中でのみ、そして変化はただ存在している時間の中でのみ、考えられるからである)。[カント=ラインホルトは、空間・時間を直観形式として、認識主観に帰属させた]。 ・したがってカントが、「物自体の性質は、思考によって究明することはできない」と、悟性と理性の能力の欠如について主張し、証明したと信じたことは、すべて誤っていたことになる。そして私たちの表象の外部に存在する事物の性質を、究明しえる原理を、私たちは持つことになる。 では――と、人は問うかもしれない――懐疑論者は、人間のうちなる感性・悟性・理性の存在を否定するのだろうか? 懐疑論者は独断論との争いにおいては、つねに悟性と理性に拠り所を求めてきた。したがってどうして懐疑論者が、自らを否認することなくして、悟性と理性両者の存在を否定したり、疑ったりできよう。 人間のうちなる直観・概念・理念の存在と、それら相互の区別を、懐疑論者は否定しない。というのも、それらの存在と、それらの区別の存在は、事実なのであるから。 また懐疑論者は、次のことも否定しない:私たちは、感性・悟性・理性の表象を――すなわち、直観・概念・理念とは異なる特定の力としての、またその力を発揮する能力としての感性・悟性・理性の表象を――、もっている。また、表象の存在をより分かりやすいものとするために、私たちは表象を、表象自体とは異なっている能力の結果と見なしもする、ということも否定しない。 しかしながら、 ・このような能力が、この能力の表象の外部に客観的に現実に存在するのかどうか、 ・私たちのうちの直観・概念・理念をはじめて可能にするような、そうしたある物についての思考は、客観的な価値のまったくない空虚な考えでないのかどうか、 ・どこからそのようなある物の表象がやってくるのか、 などということについては、懐疑論によればまったく不確定である。そしてこれらの問題は、哲学が今に至るまで示してきた諸原理によっては、肯定も否定もされないのである。 懐疑論の主張によれば、上記 1] ~ 3] の問題について決定が下せるのは: 1] a] 充足理由律 [十分な理由がなければ、いかなる事実も成立せず、またいかなる判断も真ではない。] の使用は、どの範囲まで及ぶのか、 b] 充足理由律は、物自体にまで適用できるのか、それとも私たちが物自体に関係させている表象にのみ適用できるのか、 という問いが、根拠に基づいて決着を見たときか、あるいは、 2] 充足理由律以外の否定しようのない諸原理によって、表象と表象外部の事物との関連が、理解できるように説明されたときである。 したがって、懐疑論者が「理性」や「悟性」などの用語を用いるのは、平易に述べるためなのである。天文学者が分かりやすくするために、日の出・日の入りについて話しはしても、天文学者は太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回るということを知っている。同じように懐疑論者も、感性・悟性・理性・表象能力・認識能力などの言葉を使うが、これは他の人たちに分かってもらえるようにするためであり、いろいろな表象の区別を、言語の使用によって示すためである。しかし、懐疑論者の確信するところでは、そもそも客観的な根拠が――すなわち、人間のうちの直観・概念・理念およびすべての表象・認識などとは異なってて、しかもそれらを生み出したところのある客観的な根拠が――、存在するのかどうかということは、哲学並びにその諸原理の現状においては、なおまったく不確かなのである。 ところが根元哲学は、客観的に現実的なものとしての表象能力から、現実の表象を導出して、表象能力が表象の原因だと説明する。このことによって根元哲学は、自らの諸原理ならびに理性批判がもたらしたものと、矛盾をきたしてしまうのである。 すなわち理性批判によれば、カテゴリー [=純粋悟性概念。「原因」「結果」「因果関係」なども、カテゴリーです。] の使用は経験的直観だけに限られるべきだし、またそのことによってのみ、知識は私たちのうちで完成される。したがって、純粋悟性概念 [=カテゴリー] を私たちの経験を超えて、直接は表象されずに考えられるだけの対象にまで拡張するのは、まったく許されることではない。また、そのように拡張しても、何かある対象の性状について教えられることはないのである。 ラインホルトは『表象能力の新理論』において、理性批判によって規定されたカテゴリー使用の制限を、変更はしなかったし、さらに上カント自身が行ったよりもより詳しく、カテゴリーのそれ以外への適用はありえないことを、説明しようとしている。ところが、根元哲学はその基礎をすえるにあたって、原因や現実性というカテゴリーを、感覚を越えた対象へ――すなわち、直観されることができず、経験においても与えられないところの、表象するという特定の能力へ――、適用しようとしているのである。その適用する権利をどこから得るのか、私たちにはまったく理解できない。 根元哲学はこの権利を恣意的に、また自らの思索の結果に反してまで行使する。そのことによって、充足理由律を経験の外部の事物に適用することを介して、[逆に] この充足理由律はただ経験的直観にのみ適用できるということを、まごうかたなく証明してしまった。だが、原因と結果という概念や、これらと関係した批判哲学の体系中の諸命題を、使用することによって矛盾が実際にどう現れるかについては、この後で語ろうと思う。つまり、理性批判自体のうちで提示されているカントの哲学体系が、持っているもっとも堅固で最終的な支えを、私たちが吟味するに至ったときに、より詳しく語ろうと思うのである。(原注11) (原注11)根元哲学 [『論集』] の§VI, VII, VIIIにおいては、「表象能力が問題となるのは、たんに現実の表象の考えられえる根拠としてであり、認識される根拠としてではない」というようなことは、言われていない。むしろ、これらの章で言われていることすべてが示唆するのは、ラインホルトが多くの独断論者と同じように、表象能力ということでもって、何か客観的に現実的なものを理解したと、思いたがっているということである。これまでの私のコメントは、私のこの主張とその理由に関するものであった。 根元哲学が現実的な諸表象を導出してきたところの表象能力ということでもって、たんなる思考上の物が理解されるべき [だとラインホルトがもし考えている] ならば(なにぶんこのことは、§VI, VII, VIIIを読みながら推測する他はないのだが)、根元哲学はまず次のことを明らかにすべきであったろう――というのも、根元哲学は己が領域ですべての論争を終らせ、哲学上の争いに終止符を打つはずなのであるから――: ・私たちはこのような思考上の物を、現実的な諸表象の可能性を把握するために使わねばならない。 ・また、この思考上のものは、そのためには十分役だつ。 こうした点については、やがていくつかコメントをしよう。 (原注終了) さて、表象能力の特性を知るために、根元哲学において提案され、使われているやり方に関して言えば、そのようなやり方はまったく役には立たない。表象自体の性質から、表象能力の性質を導出することは、もともと実りないものである。結果の性状から、原因の性状へは、確実性をもって推論することはできない。その上、原因はその結果とは異なっているものとして、考えられねばならない。また多くの性質は、原因のうちに存在しても、結果のうちにはまったく現れない(現実によくみられるように)。このことは、結果についてもいえる。 かりに表象能力が実際に存在すると証明されたとしても、表象能力の特性を、表象の特性の説明から見いだせると、望みえるのだろうか? こうしたし方は、ある物の特性をそれとはまったく異なっているものに、移しこむことではないのか? 根元哲学において提示されているところの、表象能力についての説明は、力とか能力といった空虚な名称を与えられてはいても、実際は、表象自体の特性についての、説明以上のものではない。[ヒュームなどによって] とっくに分かっていることだが、変化や事実をそれの原因や能力から説明することは、根本的には、たんに現象や事実自体のくり返しなのである;つまり、現象や事実の性質を解明しようとしてなされるそうした通常の説明は、これらの現象や事実に力や能力といった言葉を付加して、たんに繰り返しているのに過ぎないのである。 例えば、棒を水から引き上げたとする。すると棒には、数滴の水がついている。このとき、「どうしてこのような事が、起きるのか?」との質問に、「棒には水を引きつける力がある」と答えたとする。しかしこの答えによって、数滴の水が棒についたという事実は、少しは解明されたのだろうか? また水滴を棒に付着させたものが、規定されたのだろうか? 考える訓練を積んでいないものは、あのような答えでもっても満足しよう。しかし、言葉の意味を探求することや、空虚な表現を意味のあるものから区別することに慣れている者は、「あのような答えは、感覚的な対象 [水のついた棒] において存在している事実や変化の根拠について、何も知ってはいないということの告白にすぎない」ことを、見てとるであろう。 それとまったく同じようなことが、言うところの表象の能力から、現実の表象を説明したり、導出したりする時におきている。根元哲学はこうした導出を用いるが、しかし、表象そのものとして理解されている以上のことが、私たちのうちの表象の存在や特質(Natur) について明らかにされるわけではない。むしろ表象の導出にさいしては、根元哲学は表象能力の存在を恣意的に前提にしており、私たちが経験により表象において出会うとされるものを、[表象能力の] 性質や働き方として、表象能力に付与するのである。 その上、根元哲学において提示される表象能力の説明は――まあ、何ごとかを説明しているとして――、ただ特定の表象の存在のみを――つまり客観と主観に関係づけられ、またこの両者から区別されるような表象の存在のみを――理解可能なものとする。なぜならこの説明は、こうした種類の表象だけから抽出されたものだからである。だがこの説明は、別種の表象の可能性を――すなわち、客観と主観に関係づけられることもなく、また両者から区別されることもないが、それでいて確かに表象であり、表象と呼ばれるに値するようなものの可能性を――、説明しない。 表象する力の本質について、以前に独断論者が述べていたことよりも、はるかに少ないことしか、『論集』の§VI ~ VIIIにおいては、表象能力の特質について語られていない。それにもかかわらず、この少ない内容が根元哲学によって、十分な根拠もなく正しいものとされ、仮定されているのである。 さて、理性批判はいくつかの根拠に基づいて、「私たちの認識のいくつかの規定は、表象能力に由来することを、異論の余地なく証明した」と称している。そこで私たちは、表象能力の特質についての、根元哲学のこれまでの主張とは別の主張を、吟味する前に、理性批判の提示するこれらの根拠の検討をしたい。このためには、すでに前にのべたように、ヒュームの懐疑論と、理性批判の導出した諸結論が基づいているところの諸原理との、詳細な比較が必要となろう。 ----------------------------------------------------------- (訳注1) この文の原文は: . . . ehe dieses geschehen ist, kann nach der Elementar-Philosophie das Subjekt durchaus nicht in uns vorgestellt worden sein. 文中の kann vorgestellt worden sein は、話法の助動詞 können に(受動の)完了不定詞が伴っていますので、主観的叙述ということになります(桜井和市『改定 ドイツ広文典』287ページ)。すると意味は、「表象されたかもしれない」で、können は可能性の「かもしれない」です。 むろん、定評ある文法書に、「完了不定詞を伴う話法の助動詞はすべてこれ [主観的叙述] である」(前掲書、同ページ)と書かれてあるからといって、盲従する必要はないのですが、浅学菲才の身としては一応従っておきます。 [続く] TOP |
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