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  ヘーゲルとニートハンマーの、往復書簡の翻訳と説明
   (ゲープハルト書店とのトラブル関係)
(v. 2.9.)
            

    目 次       

  凡 例  (v. 1.3.)
往復書簡の一覧表と訳
  解 説  (v. 2.9.)
  テキストについて  (v. 1.0.)
  人物紹介 ヘーゲル ニートハンマー ゲープハルト カール・ヘーゲル (v. 1.7.)


  往復書簡の一覧表と訳

・1806-8-6 ヘーゲル → ニートハンマー (v. 2.5.)
・1806-8 月中旬 おそらく紛失: ニートハンマー → ヘーゲル (v. 1.1.)
・1806-8 月中旬/下旬 おそらく紛失:ヘーゲル → ニートハンマー (v. 1.1.)
・1806-8 月末/9 月初 紛失が確実: ニートハンマー → ヘーゲル (v. 1.0.)
・1806-9-5 ヘーゲル → ニートハンマー (v. 1.5.)
・1806-9-12 ニートハンマー → ヘーゲル (v. 1.1.)
・1806-9-17 ヘーゲル → ニートハンマー (v. 1.1.)
・1806-9-29 紛失が確実: ニートハンマー → ヘーゲル (v. 1.3.)
・1806-10-3 ニートハンマー → ヘーゲル (v. 2.9.)
・1806-10-6 ヘーゲル → ニートハンマー (v. 1.4.)
・1806-10-8 ヘーゲル → ニートハンマー (v. 2.1.)
・1806-10-13 ヘーゲル → ニートハンマー (v. 1.7.)
          (馬上のナポレオンの記述があります!)
・1806-10-18 ヘーゲル → ニートハンマー (v. 1.4.)
・付録 1. K. ヘーゲルによるトラブルの説明 (v. 1.2.)
・付録 2. 1807-5-1 ヘーゲル → シェリング (v. 1.2.)

* 「紛失」と記してあるのは、正確には「公刊されることなく紛失」です。上記のヘーゲルからニートハンマーへの手紙は、すべて紛失したようです。
** これらの往復書簡を交わした期間をとおして、ヘーゲルはイェナに、ニートハンマーはバンベルクに住んでいました。)


1806-8-6 ヘーゲル → ニートハンマー (S. 112f

 [ニートハンマーの家族を、一しきり話題にした後で――]

 もし貴方が 4 週間前にバンベルクにいらっしゃれば、あの出版業者(*1)を正してくれるよう、お願いするところでした。彼とは今、私は手紙で言い争って(Diskussion)おり、彼からの返事をなお待っています。けれども、おそらくは貴方に間に入っていただくことを、お願いしなければならないかもしれません。といいますのは、彼のやり方はだいたいがひどくて、返答はしないし、私が書いたものを無視はする(*2)、そして自分の好きなように行うのです。――印刷は 2 月に始まりました(*3)。そして、もともとの契約(ursprünglichen Kontrakt)では、この部分は復活祭の前にでき上がるはずでした(*4)。[しかし、でき上がらなかったので] そこで私は、講義の始まる前までにと、譲歩したのです――しかしこれも、かなえられなかったのです・・・(*5)

 そのうち機会があるでしょうが、何部(Exemplare(*6)印刷されたのかを(*7)、彼の印刷所から表立てずに聞いてみてください。この印刷部数について、私が不信をもつようになりましたのは、1 つには彼の態度からですし、またはっきりとした理由としては、彼自身が交渉において(*8)、印刷部数を 1000 部(Ex.)から 750 部に引き下げたからです。部数が減った結果、報酬も減少しました。
 こうしたことで私が最初に疑いをいだいたのは、彼が自分の印刷所を 1 つ持っていることを、私が知ったときです(*9)。彼は意図的に、このことを黙っていたのです。このことを、私が当地 [イェナ] で印刷してほしいという要求をしたときに彼がもちだせば、それは私の要求への重要な反対理由となったにもかかわらずです。
 いったいどうして著者が、この点についての証拠を求めてはいけないとされるのか、私にはさっぱり分かりません――私がある人と、私の森で 100 棚(*10)の木を切ることに同意した後で、その人がそれ以上の木を取ってはいないかどうか数えさせるのと同じく、当然のことでしょうに。(*11)

 貴方にこのような事をお聞かせしたり、それへの貴方の助けさえも請うたりすることを、お許しください。
 [この後は、話題が人の消息に移ります。]

 何らかのご返事を期待しつつ(*12)
                          忠実な友 ヘーゲル

 [文中の「・・・」は原文。]
(目次)

 「1806-8-6 の手紙」の訳注

(*1) ゲープハルト(Goebhardt)書店のゲープハルト(Göbhardt)を指しています。そしてこの箇所が、『精神の現象学』の出版をめぐるヘーゲルと出版社とのトラブルを、最初に記した文言となりました。

(*2) 原文は:
 . . . er hat gewöhnlich die schlechte Manier, nicht zu antworten, zu ignorieren, was ich geschrieben, . . .
(1) あくまで初級文法の範囲内でのことですが、antworten (返答をする)は自動詞なので、後の was を目的語にはとりません。そこで、「(ヘーゲルの手紙での要求に)返答をしない」という意味でしょう。

(2) この文の後半、「私の書いたものを(was ich geschrieben)無視はする」の「書いたもの」とは、手紙以外のもので、おそらく著作の原稿だと思います。といいますのは、
 (i) もし手紙だとすれば、「私の手紙を(meine Briefe)」と記せばいいので、わざわざ「私の書いたもの」とする必要はなかったでしょう。またこの箇所の直前で、ヘーゲルからの手紙での要求に対しては、「返答をしない」と、すでにヘーゲルはすでに述べてあります。

 (ii) ヘーゲルは他の手紙(H, 10-13)で、彼の原稿のことを「私の書きもの(meine Schreibereien, 拙稿)」と言っています(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 121)。

(*3) この 2 月に始まった「印刷」は、具体的にはおそらく植字による活版の制作だと思います。つまり、文字どおり(広義の)印刷の始まりの段階です。なお、「印刷」に関しては、こちらを参照ください。

(*4) 1806 年の復活祭がいつだったのかは、調べていないのですが(親切な方のご教示をお待ちしています)、ふつうは 3 月末から 4 月中です。
 「でき上がる」というのは、活版が組み上がった(あるいは、組んで校正用印刷もできた)段階なのか、数百部の製本用印刷がすんだ段階を意味するのか、字句からだけでは不明です(『ドイツ難語句』の Druck の項目を参照下さい)。

(*5) (1) イェナ大学の 1806 年・夏学期は、5 月 5 日から始まりましたが(Briefe von und an Hegel, Bd. 4, Teil 1, 1977, S. 311)、ヘーゲルの講義は、5 月 20 日前後に始まったようです。ヘーゲルの 5 月 17 日付ニートハンマー宛手紙に、「次の月曜日に、私は講義を始めることになります」とあります。(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 108)

(2) この後、8 月 6 日付の手紙が書かれるまでに、この印刷はでき上がったのかどうか、気にかかるところですが、原文には省略記号「. . .」があるだけです。(おそらくこの省略は、一般読者には煩雑な個所なので、ヘーゲルの子息 K. ヘーゲルが編集方針にしたがって行ったものと思われます。)
 可能性としては 3 つあります。
 (i) 印刷はでき上がり、製本用の印刷もされた/されている。
 この場合には、製本用の印刷もされた/されているということで、この直後の文章「そのうち機会があるでしょうが、何部(Exemplare)印刷されたのかを、彼 [ゲープハルト] の印刷所から表立てずに聞いてみてください」へと、うまくつながって行きます。
 しかし、この後の訳注(*7)で述べましたように、製本用の印刷が行われた可能性は低いようです。

 (ii) 印刷は「でき上がった」――つまり、活版は制作された。しかし、製本用印刷まだである。
 活版ができたのであれば、報酬のことを除き、ヘーゲルとしては取りあえず不満はないはずです。印刷を講義の始まる前までに完成させたかったのは、聴講生に配るためでしょうが、活版が組み上がっていれば、ゲラ刷りを配布できるのです。
・しかしそれでは、ヘーゲルの要求が通ったことになりますので、すこし前の文章「(ゲープハルトは)自分の好きなように行うのです」と、平仄(ひょうそく)があいません(もっとも、感情的に書かれている手紙を、論理的に解釈できるものかどうか、つねに不安は残るのですが)。
・また、手紙(H, 8-6)のこの箇所は、悪らつなゲープハルトへの非難と自らの窮状を具体的に述べ始めたところです。そして、ニートハンマーの同情を引き出そうとしているのですが、ヘーゲルにとって取りあえずは満足できる状態になったことから書くというのは、おかしな話です。

 (iii) そこで、2 月に印刷の始まった最初の箇所は、活版さえもまだでき上がらなかったと、想定するのが比較的に妥当だと思います。この箇所の活版が組みあがるのは、ニートハンマーが新契約を結んだ後になります。

(*6) ここでの「何部(wie viele Exemplare)」の「部数(Exemplar, あるいは Ex.)」というのは、製本用に何百部と印刷される紙の部数です。
 これ以外に、Auflage という「部数」もあります。これは、ボーゲン(全紙。16 ページ分)とそれにに対応する活版が、念頭に置かれているようです。
 拙訳では、部数の後に Exemplar なのか Auflage なのかを記すことにより、両者を区別したいと思います。
 むろん一般的には、Auflage は製本用に多数印刷される部数をも意味します。例えば、「この講演の印刷部数(Auflage)は少なかったため、ぼく自身はあと残り 1 部だけしか持っていない」。(シェリングの 1807 年 11 月 2 日付ヘーゲル宛手紙)

(*7) 原文は:
 . . . zu erfahren, wie viele Exemplare abgedruckt worden;

 この「[製本用に] 印刷された」というのは、内容的に判断して、<現在すでに印刷された>ということではなく、<未来のある時点において、印刷された(したがって現在は、まだ印刷されていない)>という意味だと思います。といいますのは、
(1) まず文法からみますと、文末 worden の後には、
 (i) sind の省略が考えられます。この場合、受動態の現在完了形になっています。現在完了形は、未来完了形の形が冗長なため、未来完了形の代用としてよく使われます。(桜井和市著『改訂 ドイツ広文典』、1997 年、260 ページ。橋本文夫著『詳解ドイツ大文法』、1975 年、196 ページ)

 (ii) あるいは、sein werden の省略が考えられます。この場合には、受動態の未来完了形です。

 (i) と (ii) のいずれにしろ、今問題の箇所は文法的に、未来完了の可能性がありえるのです。この場合、<未来のある時点において、印刷された>という意味になります。

(2) 次に内容面から見ますと、
 (i) ゲープハルトが、ほとんど無名の学者の処女作を出版するにあたって、原稿がすべてそろわないうちに、何百部と製本用に印刷するとは想定しにくいものがあります。

 (ii) 印刷用製本をする前には、著者が校正刷り(ゲラ刷り)の校正を行う必要があります。ところが、8 月以前にヘーゲルが校正を行ったという資料は、管見の範囲ではありません。
 また、原稿執筆に追われる彼が、同時に校正もするというのは、困難だったでしょう。

 (iii) ニートハンマーによって 10 月 3 日頃、ゲープハルトとの「完全な和議の締結」をみます(N, 10-3)。ヘーゲルの子息である『K. ヘーゲルによるトラブルの説明』では、和議の条件は、

「著者が原稿の残りすべてを 10 月 18 日までに [ゲープハルトに] 引き渡さないときには、これまでに印刷された著作(ボーゲン 21 枚)のすべての部数を、ボーゲン 1 枚につき 12 フロリーンの価格で [ニートハンマーが] 買い取る」
 . . . die ganze Auflage des Werks, soweit es bis dahin gedruckt war (21 Bogen), zum Preis von 12 fl. für den Bogen zu übernehmen, . . . Briefe von und an Hegel. Hrsg. von K. Hegel. Bd. 1. 1887. S. 62)

というものでした。この引用文中においては、製本用の印刷を示す「部数(Exemplar)」の語は出てきていません。
 「すべての部数(die ganze Auflage)」ということで直接示されているのは、21 枚のボーゲンです。つまり、植字して、1 ボーゲンに相当する活版を組み維持するのには費用を伴いますから、まずその賠償が必要となります。しかし、それ以外に、製本用に印刷された部数(Exemplare)の賠償も、このボーゲン 1 枚につきに 12 フロリーンに算入されているかとなると、そうではないように思います。
 もともとの契約では、ヘーゲルへの報酬は、1 ボーゲンにつき 18 フロリーン・ラインでした(K. ヘーゲルの「説明」)。賠償額は 12 フロリーンで、フロリーン・ラインとフロリーンは同じ貨幣単位でしょうから(同一の出版に対して違う貨幣を使うというのも、おかしな話ですので)、もし製本用の(例えば 750 部の)印刷紙の賠償額も算入されていたとすれば、賠償額はもっと高くなっていたのではないでしょうか。
 したがって、製本用印刷紙代が算入されていないということは、印刷もされてはないということです。

 (iv) ローゼンクランツの『ヘーゲル伝』には、「ヘーゲルは・・・現象学を、1806 年の夏、実際に 1 度講義した。現象学の印刷はすでに始まっており、聴講生一人ずつに印刷されたボーゲン紙 [複数枚] が配られた」とあります(Karl Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich Hegel's Leben, Originalausgabe, 1844. S. 214. 『ヘーゲル伝』、中埜肇訳、みすず書房(1991年)では、 192 ページ)。
 このローゼンクランツの記述は、すでに夏には製本用の印刷が、行われていたかのような印象を与えます。
 a) しかし、この引用文中の「印刷」は、私たちの想定では実際は、活版を制作すること(あるいは、それプラス校正刷り(ゲラ刷り))です。

 b) 「印刷されたボーゲン」を聴講生に配るには、製本用の印刷紙でなくても、校正前のゲラ刷りを聴講生の数だけ刷って渡せば十分です。誤植などは、講義中にヘーゲルが訂正できます。

 c) なお注意すべきは、2 月に印刷の始まった最初の箇所の活版は組まれていなくても(前記訳注(*5)の(2)の(iii)を参照)、その後の「感覚的確信」などの活版は制作できることです。活字は、1 ページごとにまとめられています。そこで例えば、
・1 ボーゲンに対応する活版の最初から「感覚的確信」を植字して、「感覚的確信」の活版を制作しておきます。
・ニートハンマーの新契約が締結された後で、「緒論」のページの植字を完成させます。
・「緒論」の活字のページの後に、「感覚的確信」の最初のページの活字をページごと結合すれば、製本用の活版になり、不都合はおきないのです。
 (なお、ボーゲンの順序を示す「A, B, C, . . . 」の記号は、テキスト行――ページ数の表示行を除いて、全 29 行――の下に印字されるので、活字をページごと移動させ終わったあとで、自由に植字できます)。

 以上より、この 8 月6日の手紙が書かれたときには、活版は組まれていても、まだ製本用の印刷はされていなかった可能性が大きいと思われます。

(*8) この「交渉において」というのは、1805 - 1806 年の冬にゲープハルトと出版契約を結んだときの交渉ではなく、彼との間にトラブルが起きてからあとの交渉を指すのでしょう。つまり、契約では 1000 部の出版だったのですが、ヘーゲルがなにか変則的なことを(要求)したために、ゲープハルトはまだ無名氏の処女出版の先行きに不安を感じ、リスク軽減のために出版部数を減らそうとしたのだと思います。
 最初の契約時であれば、双方それぞれが希望の出版部数を提示することになりますので、1000 部希望のヘーゲルに対して 、ゲープハルトが「いや、750 部」と言ったところで、「彼自身が交渉において、印刷部数を 1000 部から 750 部に引き下げた」という表現にはならないでしょう。「ゲープハルトは、一般的に行われている 1000 部ではなく、750 部しか提示しないのです」といった表現が、取られると思います。

(*9) 編集者注によれば、
 「出版業者ゲープハルトが、バンベルクにあるラインドル社(Reindl)でヘーゲルの本を印刷させたことを、おそらくヘーゲルは知らなかったようである。」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 461)
 ちなみに、現在のバンベルク(Bamberg)市に、ラインドル社という書籍と美術写真の印刷会社(J. M. Reindl Buch- und Kunstdruckerei OHG)があります。
 住所: Gutenbergstraße 1, 96050 Bamberg, +49 951 1880
 電話: (0951) 188-0

 ここが件(くだん)の「ラインドル社」なのかどうか、もしそうであれば、倉庫の奥深くの片隅に、ヘーゲルの草稿などが残っていないものかどうか、探究してもいいかもしれません・・(笑)

(*10) 「棚」の原語は Klafterで、1 Klafter = 約 3 立方メートル。

(*11) 印刷部数ならびに印刷所に関して、ヘーゲルの言わんとすることは、以下のようなことでしょう:
 <ヘーゲルとしては、印刷部数が減れば稿料も減るので、それは避けたい。しかし、ゲープハルトは秘かに印刷部数を減らすかもしれないので、そうさせないように印刷部数を確認しておきたい。それには、印刷所がヘーゲルの住んでいるイェナにあればよい。そうであれば、自ら出向いて確認できるからである。
 <しかし、ゲープハルトは――彼は出版会社の社主(Verleger)であって、印刷会社(Druckerei)の社主ではないが――、自社所有の印刷所も持っているらしい。だから印刷を印刷業の他社に委託するということをせず、自社の印刷所でこっそりと印刷して、印刷部数を減らそうと思っているのではないか。なぜなら、もしこっそりとは印刷しないというのであれば、ヘーゲルが当地イェナで印刷してほしいと要求したときに、「いや、私は自前の印刷所を、バンベルクに持っているので、そこで印刷したい」と、堂々と主張したはずではないか。
 <ゲープハルトが、「印刷をどこでするのかは当方が決めることで、ヘーゲルの関与することではない」と主張するのであれば、それは間違いである。なぜなら、自分の所有する森からある量の木を切りだすことを誰かと合意したときには、その人がその量以上の木を切り出してないかどうか、現場の森で(=印刷所で)確認することは当然だが、それと同様だからである>。

 だいたい以上のような文意だとは思いますが、読者からは「それにしてもヘーゲルの文章は分かりづらい。それで相手に、うまく伝えることができたのか?」との質問があるかもしれません。はい、ニートハンマーは愛すべき後輩の SOS 信号を、悲鳴を、あやまたず聞きとり、すぐに調停に入ったのでした。ちょうど、子供が悲鳴をあげたとき、親はその言葉の意味に注意を払うのではなく、すぐに子供のもとに駆けつけるように。

(*12) 手紙の訣辞(けつじ)が、「何らかのご返事を期待しつつ」という要望になっているのは、ヘーゲルがゲープハルトとのトラブルで、ニートハンマーの援助を強く求めていることの表明でしょう。

(初出:2013-9-10)


1806-8 月中旬 おそらく紛失:ニートハンマー → ヘーゲル

 <訳者注

 ヘーゲルの手紙(H, 8-6)を 8 月 10 日過ぎに――イェナ-バンベルク間の郵送に、5 日間はかかったことは、こちらを参照――受けとったニートハンマーは、仲介の承諾と、詳しい事情やヘーゲルの要望を問う手紙を、すぐ 8 月中旬にヘーゲルに出したはずです。
 ニートハンマーはヘーゲルに味方して仲介するのですから、先にヘーゲル側の情報を持たずに、ゲープハルトに会いに行くとは思えません。

(初出:2014-8-4)
(目次)

1806-8 月中旬/下旬 おそらく紛失:ヘーゲルニートハンマー

 <訳者注

 8 月中旬のおそらくは紛失したニートハンマーからの手紙に対して、ヘーゲルは具体的状況と要望を、やはり 8 月中旬に(遅くても、20 日過ぎには)ニートハンマーに返信したと思います。
 このヘーゲルの返信があったと推測できるのは、以下の理由からです:
(1) K. ヘーゲルの「説明」には、「このもめ事は・・・著作の半分が印刷された後での支払いが要求されていた報酬――ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン――が支払われなかった事とによる」とあります。
 では、 K. ヘーゲルはどこで「ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン・・・が支払われなかった」ことを知ったのでしょうか? 現存しているヘーゲルの手紙には、どこにもこのことは書かれていません。K. ヘーゲルが誕生するのは 1813 年で、後年父から子へ 18 フロリーン・ラインについて語られたとも思えません。
 したがって、今は失われてしまったであろうこの 8 月中旬/下旬の父の手紙を、子は読んで知ったとしか考えようがないのです。

(2) ヘーゲルは手紙で、「私にとっては、このもめ事が近いうちに調停されることが経済的にぜひとも必要であること、このことはすでに申しあげました」(H, 9-5)と書いていますが、8 月 6 日の彼の手紙には、「経済的にぜひとも必要である」とは書かれていません。そこで書いているはずのこの 8 月中旬/下旬の手紙の存在が、推理されるのです。

(初出:2014-8-4)
(目次)

1806-8 月末/9 月初 紛失が確実:ニートハンマーヘーゲル

 <訳者注

 ヘーゲルの 1806-9-5 付の手紙の冒頭には、「尊敬する友人である貴方からのお手紙・・・につきましては、たいへん感謝いたしております」とありますが、この手紙は紛失したようです。
 このニートハンマーの手紙を受けとったヘーゲルは、すぐにも 9-5 付の手紙を書いたでしょうから、この手紙は 8 月末ないし 9 月始めに、ヘーゲルに出されたはずです。

(初出:2014-7)
(目次)

1806-9-5 ヘーゲルニートハンマー (S. 114)

 尊敬する友人である貴方からのお手紙(*1)、およびそこに示されていますゲープハルトとの関係の導入(*2)につきましては、たいへん感謝いたしております。そして貴方のご要望には、すべて同意いたします。・・・

 私にとっては、このもめ事が近いうちに調停されることが経済的にぜひとも必要であること、このことはすでに申しあげました。この件が期待されているような結果になりましたときには、おそらく [得られた金銭の] 一部を用いて、もしよろしければ、貴方をお訪ねすることにします。そして奥さまの(*3)お供を、あるいは私 1 人で、あるいは私たちの希望しますように、貴方ご自身が奥さまを迎えに来られるときには(*4) 2 人して――その方が願わしいことですが――、することにします。
 [契約の] 全体に関しては、私自身がゲープハルトと交渉もできましょう――しかし、貴方によってまずは部分契約が、締結されていなくてはなりません(*5)。それなくしては、私はここで生活していくこともほとんどできないのです。ましてや旅行などは、とうてい無理です。

 [この後、話題はヘーゲルの就職や社会情勢のことになります。なお、文中の「・・・」は原文。]
(目次)

 「1806-9-5 の手紙」の訳注

(*1) ニートハンマーからのこの手紙は、紛失しています。こちらを参照ください。

(*2) 原文は: die darin angezeigte Einleitung der Verhältnisse mit Göbhardt
 この「ゲープハルトとの関係の導入」は、おそらく新契約においては、契約当事者がヘーゲルからニートハンマーに代わるということを、意味すると思われます。このことについては、こちらを参照ください。

(*3) 「奥さま」の原文は、Mde Niethammer です。本来は Frau とすべきところが、Mde となっているわけですが、この語は管見の範囲では英・独・仏の辞書に出ていません。おそらくフランス語の Madame (~夫人)の省略形だと思われます(別の箇所では(H, 1804-12-10)、Mde. になっており、最後に省略を表すコンマが打たれています)。
(1) Madame の省略形はふつう Mme ですが、ヘーゲルが意図してそれとは違う Mde を使っているのかどうかは不明です。

(2) いずれにしろ、Frau に代えてフランス語を使うのは、夫人がフランス人だということではなくて、ニートハンマーとの男の暗黙の了解があったのではないかと思います。小島貞介訳『ヘーゲル伝』(日清堂書店、昭和50年、55, 76, 297 ページ)によりますと――
 ニートハンマー夫人は、イェナの宮中顧問官フォン・エッカルト男爵の娘で、最初神学者デーデルライン(Döderlein)と結婚しました。やがて、未亡人となり、子息をつれてニートハンマーと再婚します。家庭は円満で、ヘーゲルは夫人を「最良の夫人(die beste Frau)」と呼んでいたようです。
 夫人の姉であるフォークト夫人の夫も宮中顧問官で、そして数学及び物理学の教授でした(J. H. Voigt)。権門の一族といえそうです。そこでニートハンマー氏は、幸せな家庭生活のただ中において、時としてぼやきたくもなったのではないかと推察されます。そこにヘーゲルは調子を合わせ、「マダム」の称号を奉ったのでしょう。

(*4) 当時、ニートハンマー夫妻はバンベルクに住み、別居などはしていませんでした。しかし、ヘーゲルがここで、「ニートハンマー自身が奥さまをを迎えに来られる(abholen)ときには」という表現をしているのは、夫妻は別々の場所にいることが多かったためでしょう。その事がうかがえるのは――
 「奥さまが現在バンベルクにおられないことから、敬愛する友である貴方がバンベルクにいることが判明しました――なんという夫婦関係でしょう! 奥さまのおられるところに、貴方もしかるべくおられるべきでしょう。」(H, 8-6. Briefe von und an Hegel, 1969, Bd. 1, S. 112)

 「奥さまが、ご旅行の機会をたくみに見つけられ・・・」(H, 9-17. Briefe von und an Hegel, 1969, Bd. 1, S. 116)

 ニートハンマーは仕事(地方行政顧問官)の出張が多く、名門出の夫人の方は、社交的外出が多かったとみえます。

(*5) 「部分契約の締結(Teilabschluss)」というのは、『精神の現象学』の原稿のまず(例えば)前半分に対して、ゲープハルトが支払う金額の取り決めのことだと思います。
 つまり、「ゲープハルトの側は、期限内に原稿が引き渡されたときには、著作の半分だと推定された印刷ボーゲン(Druckbogen) 24 枚分の報酬を・・・払うことを約束した」(Briefe von und an Hegel. Hrsg. von K. Hegel. Bd. 1. 1887. S. 62.)ということが、「部分契約の締結」でしょう。

(初出:2014-7-5)


1806-9-12 ニートハンマー → ヘーゲル (S. 115)

 同封物から(*1)、私が厳密に貴方の指示に従っていることが、十分に納得されると思います。今回のゲープハルトとの件を、できるならば決裂させないという貴方の希望にそって、事態をうまく取り扱うべく極力努めました。もっとも、ここに同じく同封した、じっさい(ゲープハルトご自身の言いぐさを、彼に適用すると)間抜けな手紙は――これは彼が私に送り届けてきたものです――、そのような [注意深い] 取り扱いにはまったく値しませんが。
 それにもかかわらず決裂という事になったとしても、今後私たちは、すくなくともその責任を負わされることはないでしょう。次の月曜日に [ゲープハルトからの] 返事が来なければ、彼はどんな抗議を受けざるをえないか、あのやくざ者にもう一度、そして無遠慮に――昨日 [彼と取り決めたところの] の文書(Schreiben)の条項にかかわりなく――宣告してやろうと、私は決心しています。また、彼に対して取られねばならないあらゆる措置を通告したところで、彼に対して何の効果もないとしても、私は訴訟を起こすでしょう・・・

 [この後、話題はヘーゲルの就職に関することへと移ります。なお、文中の「・・・」は原文。]
(目次)

 「1806-9-12 の手紙」の訳注

(*1) この「同封物」とは、部分契約に関する書類だと思われます。ヘーゲルは前便(H, 9-5)で、「貴方 [ニートハンマー] によってまずは部分契約が、締結されていなくてはなりません。それなくしては、私はここで生活していくこともほとんどできないのです・・・」と、述べていました。

(初出: 2013-10-14)


1806-9-17 ヘーゲルニートハンマー (S. 116)

  貴方の友情のこもった [9 月] 12 日付のお手紙を、同封物(*1)とともに、たしかに受けとりました。そしてお手紙および同封物によって、貴方がいかばかりのご親切な心づかいでもって、私のゲープハルトに対する件を引き受けて下さったのかが分かりました・・・

 [この後は、ヘーゲルの近況報告になります。なお、文中の「・・・」は原文。]
(目次)

 「1806-9-17 の手紙」の訳注

(*1) この「同封物」は、ニートハンマーの前便(N, 9-12)で言及されていた「同封物」のことです。ただし、前者は aus der Anlage と単数形、後者は mit den Anlagen と複数形です。

(初出:2014-7-5)


1806-9-29 紛失が確実:ニートハンマーヘーゲル

 <訳者注

 この手紙が存在したことは、ニートハンマーの 1806-10-3 付の手紙の冒頭に、「[同じような] 手紙をまたもや書きます。というのも一つには、9 月 29 日付の私の最後の手紙が」とあることから、明らかです。

 この手紙は、ニートハンマーが 9 月 29 日にゲープハルトと契約を結んだ(K. ヘーゲルによるトラブルの「説明」)あと、そのことをヘーゲルに伝えたものですが、その内容は、それを受けとった後のヘーゲルの返信(H, 10-6)から推測できます:
(1) 手紙には、同封物がありました。(この同封物については、こちらを参照ください。)

(2) 「重要事であるすべての原稿の発送は、間違いなく今週に行います」とヘーゲルが書いていることから、ニートハンマーは原稿の最終締め切りも伝えています。

(初出:2014-8-4)
(目次)

1806-10-3 ニートハンマー → ヘーゲル (S. 117)

  [同じような] 手紙をまたもや書きます。というのは一つには、9 月 29 日付の私の最後の手紙が(*1)、貴方のもとに遅れて届きはしないかと心配ですし、また、ゲープハルト氏との完全な和議の締結を、貴方に知らせるためでもあります。
 さて、[この 10-3 付手紙の] 同封物のなかに、添付文書があります(*2)(*3)・・・これらから、貴方も確信することでしょうが、ゲープハルト氏は彼の安全性を、それに対する義務を負うことなしに、最大限確保しようとする善意を(*4)すくなくとも持っていたのです。またそれに対しては、私には添付文書の E が示しているように返答する理由が、十分あったのでした(*5)
 この添付文書 E は・・・ゲープハルト氏自身が思いついたのでしたが、彼は要求されていた 144 フロリーンを持ちだして(*6)、あれは債務証書(Revers)についてのたんなる誤解だったと、説明したのです(*7)。・・・

 そこで、今や事態はまったくよくなっており、あとは貴方が原稿を遅れずに私に送ることだけが問題です(*8)。このことに関しては、貴方にくり返し注意をうながさざるをえないのですが、それはゲープハルト氏にこれについての抗弁の余地を残さないためです。というのも[貴方が期日内に原稿を送ってくれれば]、彼に私の [作った] 債務証書をまさに字句どおり順守させることが、私にはできるはずだからです・・・いずれにしろ必要だと思われるのは、最後の原稿を郵送するときには、郵便局から詳細な受取証を発行してもらうことです。それによって、ゲープハルト氏からのあらゆる苦情や悪意を防ぐためです。
 最後の郵送の最終発送期限は、10 月 13 日、月曜日です(10 月 18 日にはここに(*9)確実に到着しているようにするには)。期限をたがえないで下さい! 
 その時までに原稿の見直しが完全には終えることができないのであれば、私にアドバイスできることとしては、貴方自身が [原稿と] ともにこちらへ来て(*10)、ここで印刷の誤植訂正のかたわら原稿の訂正も完成させるようにする、ということだけです――むろんここに来るのは、軍隊が出ているのでいささか大変でしょう。しかし、不可能ではないでしょうし、またこちらに来れば、そちらでいるよりたやすく落ち着くこともできるでしょう。

                                  Nh. [ニートハンマー]

  [文中の「・・・」は原文。(*11)]
(目次)

 「1806-10-3 の手紙」の訳注

(*1) この 9 月 29 日付手紙は、J, ホフマイスター編 Briefe von und an Hegel (1969 年の第 3 版)には収録されておらず、失われたもようです。

(*2) つまり、ニートハンマーから届いた小包のような郵便物のうちには、ニートハンマーの手紙と、封筒のような同封物(Anlage, 単数)が入っており、この同封物のなかに添付文書(Beilagen, 複数)が入っていたことになります。
 今日では失われたニートハンマーの前便(N. 9-29)でヘーゲルに伝えられた契約は、まだ細部までは完成していませんでした。したがって、ヘーゲルの感想も、「この度(たび)の問題の収束(Beendigung)――収束と見なせると思うのですが――にあたっては・・・」と、不確かな部分を残していました。(例えば、9 月 29 日に、全原稿の引き渡し期限は 10 月 18 日だと決定されたとしても、それが守られなかった場合にはどうするのかという、債務証書で扱う事柄がまだ未定だったのです。)

 その後の 3 日間でニートハンマーは契約の細部まで詰め、この手紙(N. 10-3)に「完全な和議の締結を、貴方 [ヘーゲル] に知らせる」とあるように、完成された契約書(債務証書を含む。あるいは債務証書のみ)が添付文書として同封されていたことになります。したがって今回はヘーゲルも、「貴方からの [10 月] 3 日付の大切なお手紙を、今日受けとりました。・・・債務証書あるいはむしろ完成した契約は、私の望みえることすべてに合致しています」と書いたのでした(H, 10-8)。

 なお、この債務証書によってニートハンマーは、ヘーゲルが期限までに原稿を提出しなければ、身銭を切って代金を支払うことになりますが、このことは、9 月29日の契約ではまだ決定されていません。そのことは、ヘーゲルがニートハンマーのこの「英雄的な仲介」や債務証書に言及したのが、ニートハンマーの 10 月 3 日付の手紙を読んだ後の 10 月 8 日付の手紙だったことから推測できます。
 そこで、K. ヘーゲルの「説明」は――すなわち、「ニートハンマーは・・・1806 年 9 月 29 日にこの出版者と契約を締結することができたのである。この契約によって(wodurch)、著者が原稿の残りすべてを 10 月 18 日までに引き渡さないときには・・・」は――、不正確です。正しくは、「この契約」ではなく、「この数日後の契約」だと思います。

(*3) この箇所には、以下の編集者注が付けられています:
 「ゲープハルトにヘーゲルへの報酬を支払わせるために、ニートハンマーは書面で次のように約束した:もしヘーゲルが原稿の残りを 1806 年 10 月 18 日までに [ゲープハルトに] 渡さないときは、[すでに] 印刷されたボーゲン 21 枚のすべての部数(die ganze gedruckte Auflage)の料金を、ボーゲン 1 枚につき 12 フロリーンで、ニートハンマーはゲープハルトに支払う。
 「ニートハンマーはこの契約書を、それまでの [ゲープハルトと交わした] 交換文書とともに、このヘーゲルへの手紙 [N, 10-3] に同封したのである(Diesen Vertrag mit dem vorausgegangenen Schriftwechsel fügte Niethammer seinem Brief an Hegel bei.)」。(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 462.)

 上記の編集者注から言えることは:
(1) 編集者は、この 10 月 3 日の手紙の添付文書が、ヘーゲルの原稿が遅れた場合はニートハンマーが代金を払うことを記した文書であると、見なしています(私たちも同意見)。また、代金を払うことの具体的内容は、K. ヘーゲルの「説明」におけるものと同じです。
 しかし、後半の「それまでの交換文書とともに(mit dem vorausgegangenen Schriftwechsel ――直訳すると「先行する文書交換とともに」です。したがって、この文書が単数なのか複数なのかは、分かりません)」は、新しい情報です。この手紙(N, 10-3)は「プロイセン国立文書館(Preuß. Staatsbibl.)にある手稿より、最初に印刷された」ものだとの編集者注(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 462)がありますので、おそらくその文書館で、編集者は直接手紙と添付文書、および交換文書を目にしたのでしょう。もしそうだとすれば、「ボーゲン 21 枚」とか、「12 フロリーン」という数字は確実なものとなります。

(2) ヘーゲルが原稿を期日までに完成できなかったときには、ニートハンマーはすでに印刷されたボーゲン 1 枚につき、12 フロリーンを支払います。当時の貨幣価値がどれくらいかは不明ですが、この金額がかなりのものだとしても、ゲープハルトが強欲だとは断定しにくいものがあります。といいますのは、
 (i) K. ヘーゲルの「説明」によりますと、もともとヘーゲルへの稿料は、つまり「著作の半分が印刷された後での・・・報酬」は、「ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン」でした。(ただし、フロリーンとフロリーン・ラインが、同じ場合です。むろんドルとカナダ・ドルのように、違う場合も多いのですが、しかしこの場合、ゲープハルトが違う貨幣で払う理由はないと思います)。

 (ii) ゲープハルトは、委託した印刷会社に相応の支払いをせねばなりません。ゲープハルト書店自体も、それまでヘーゲル関係の仕事をしてきており、また今後の組んでいた予定や収入の見込みがなくなってしまいます。

(3) ボーゲン 1 枚は本の16ページ分ですので、1806年9月末には 21 x 16 = 336 ページ分の『精神の現象学』(1806-10-18 以降に書かれた「序文(Vorrede)」は除く)が印刷されていたか、あるいは少なくとも印刷できる状態で、ゲープハルトの手元にあったことになります。
 (i) 336 ページ分をごく単純に 1807 年版の『精神の現象学』に対応させますと(1807 年版のページ数は、マイナー社の哲学文庫 2006 年版付録の「ページ対照表(Konkordanz)」(622-627 ページ)からも分かります)――
 a) 「V. 理性の確信と真理」の「C. 即かつ対自的に実在的な個人」中の「a) 精神的に動物の領域と・・・」が 333 ページから始まりますので、だいたいそのあたりまでに相当します。

 b) あるいは、論理学から『精神の現象学』への転換時には問題になったであろう「緒論」の、活版がまだ完成されておらず、「緒論」を除けて「感覚的確信」(22 ページから開始)から計算しなければならなかった場合には、
――この場合の可能性も、まだ製本用の印刷が始まってない段階ではありえます。たとえ「感覚的確信」から後だけの活版を組んでいても、活字はページごとに木枠に入れられていますから、製本用の印刷をするときには、後ほど訂正されて完成した「緒論」の最後の木枠の後に、「感覚的確信」の最初の木枠を移動させるだけでいいのです。したがって活版は、組めるところから(今の場合は「感覚的確信」)組んでいたと思います――、
後から「緒論」が加わってきますので、22 + 336 - 1 = 357。この 357 ページというのは、「V. 理性の確信と真理」の「C. 個体性」中の「b. 立法的理性」が 358 ページから始まりますので、だいたいそのあたりまでに相当します。

 (ii) 1807 年版の『精神の現象学』が終了するのは、765 ページです。したがって、結果的には 765 - 338 (357) = 427 (408) ページ分を、これからヘーゲルはゲープハルトに渡さねばならないことになります。そのうちの何ページ分が、すでに書かれていたのかは不明です。

(*4) 「善意(den guten Willen, 好意)」は、ニートハンマーのゲープハルトに対する皮肉です。

(*5) 添付文書の E とは、訳注 (*3) で紹介した編集者注で言われているところの、
 「もしヘーゲルが原稿の残りを 1806 年 10 月 18 日までに渡さないときは、印刷されたボーゲン 21 枚のすべての部数の料金をボーゲン 1 枚につき 12 フロリーンで、ニートハンマーはゲープハルトに支払う」
ということが書かれた債務証書だったと思われます。
 といいますのは、
(1) ヘーゲルの原稿提出が遅れた場合には、ニートハンマーが少なからぬ金額で印刷プリントを買い取るということは、ニートハンマーとしてもヘーゲルに言わざるをえない、「和議」に含まれる重要な事項です。その事が書かれた債務証書を同封さえしておけば、言わずとも済むものではないでしょう。
 ところが、この手紙においてこの事項を述べたような箇所は、他には見当たらないのです。

(2) ニートハンマーの手紙(N, 9-12)の一節、「私 [ニートハンマー] が厳密に貴方 [ヘーゲル] の指示に従っていることが・・・」にありますように、ニートハンマーはヘーゲルの意向にそって、ゲープハルトとの交渉に当たっていました。しかし、1806-10-3 付の手紙のこの箇所では、「それに対しては、私には添付文書の E が示しているように返答する理由が、十分あったのでした」と書かれており、ヘーゲルの意向とは関係なく、ニートハンマー自身が判断したものと見えます。
 したがって、添付文書の E の内容は、ヘーゲルには相談しなくてもいいことであり(あるいは、相談してはまずいことであり)、しかも手紙の始めの方でわざわざ述べられているのですから、重要事ではあったのでしょう。そのような事項としては、ニートハンマーの出費による印刷プリントの引取りが、可能性としてあります。

(3) ニートハンマーは「私には・・・返答する理由が、十分あった」と、抽象的に(というよりあいまいに)は述べているものの、具体的にはその理由をヘーゲルに示していないのは、ふつうの事項では考えにくいことです。これは(ゲープハルトとの)ヘーゲルのトラブルへの対処なのですから。
 そこで、やはり添付文書の E は、ニートハンマーがいざというときにはヘーゲルのために出費するという内容であり、それが恩着せがましくなることを恐れて、「私には・・・返答する理由が、十分あった」などとぼかしたのだと思います。

 したがって、添付文書 E を生ぜしめるにいたったゲープハルト氏の「善意」、すなわち、
 「ゲープハルト氏は彼の安全性を、それに対する義務を負うことなしに、最大限確保しようとする善意をすくなくとも持っていた」
と言われるさいの「善意」というのは、<ヘーゲルの原稿が期限通りに渡されないときには、すでに印刷したプリントを貴方(ニートハンマー)が買い取ってほしい>と、ゲープハルトが要求したことを指すのでしょう。

(*6) 原文は:
 Herr G. [= Göbhardt] . . . brachte die geforderten 144 fl. . . .

(1) fl. (フロリーン。Florin)は、「フローリン」とも表記し、グルデン(Gulden)金貨(銀貨)のことです(相良守峯『大独和辞典』)。

(2) 「144 フロリーン」という金額は、この手紙(N, 10-3)以外には往復書簡にも、また K. ヘーゲルの「説明」にも)出てきません。そこで、推測する以外にないのですが――
 (i) この箇所の直後には、「あれは債務証書についてのたんなる誤解だったと、[ゲープハルトは] 説明した」とありますから、債務証書に書かれていることと関係がありそうです。すると、
a) ゲープハルト側がヘーゲル側に要求する金なのか(例えば、原稿の引き渡しが遅れたことなどの違約金として)、
b) ヘーゲル側がゲープハルト側に要求する金なのかが、
問題です。
 ヘーゲルがなにか契約違反を犯していたということは、彼の手紙の調子(特に、H, 8-6)から考えにくいので、b のヘーゲル側の要求の金だと思えます。つまり、「要求されていた/いる(geforderten)」のは、主語のゲープハルトです。

 ニートハンマーは 144 フロリーンに関しては、何の説明も加えていませんので、この金についてはヘーゲルがよく知っていることが前提になっています。そこで、ヘーゲルはどこで知ったのかということですが、
c) この箇所の直前に出てくる「添付文書 E」(これも債務証書であることは、訳注(*5)を参照)を読んだけ結果だったのでしょうか。しかしそれでは、「彼は(新しく締結された添付文書 E に書かれているところの)要求されている 144 フロリーンを持ちだして、あれは債務証書についてのたんなる誤解だったと、説明したのです」となり、ゲープハルトが何を言おうとしているのか分からなくなります。

d) そこで、144 フロリーンは、ヘーゲルがよく知っている金額でもあり、またゲープハルトが要求されているものでもあるということから、K. ヘーゲルの「説明」中の、「著作の半分が印刷された後での支払いが要求されていた [ところの、ヘーゲルへの] 報酬」の可能性があります。
 この報酬は、「ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン」でした。そして、144 (フロリーン)という数字は 18 (フロリーン・ライン)で割ると――フロリーンとフロリーン・ラインは、同じ貨幣単位でしょう。ゲープハルトが違う貨幣単位を使い分ける理由は、見当たりません――、 8 (ボーゲン)で割り切れる数字なのです。したがって、この金額は、1805 - 1806 年の冬に結ばれたもともとの契約に関するもので、「著作の半分が印刷された後での支払い」の額だと思います。

(3) 「持ちだして(brachte)」というのは、ゲープハルトが彼に要求されていた 144 フロリーンの件案を、ニートハンマーとの交渉の場で「持ちだした(話題にした)」ということでしょう。つまり、実際に 144 フロリーンの金銭を持ってきて、ニートハンマーに渡したということではありません。といいますのは――
 ヘーゲルは 10 月 13 日付の手紙で、
 「貴方 [ニートハンマー] が、[私への報酬(=稿料)の] 総額の一部を [ゲープハルトに] 現金払いさせることを検討して下さったなら・・・と、どんなに私は思ったことでしょう」
と書いています。これからすると、ヘーゲルはまだゲープハルトから金銭をまったく受けとってはいません。もし前記の 144 フロリーンを、ゲープハルトがニートハンマーに渡していたならば、ニートハンマーはさっそくヘーゲルに送ったでしょう。

(4) 上記の (2) の d で述べたように、144 フロリーンが「著作の半分が印刷された後での支払い」の額であれば、
 (i) 144/18 = 8 (ボーゲン分)です。1 ボーゲンは 16 ページですので、16 x 8 = 128 (ページ)が印刷された(=活版が組まれた)にもかわらず、ヘーゲルには報酬が支払われなかったことになります。

 (ii) この 128 ページ分をごく単純に 1807 年版の『精神の現象学』に対応させますと――
a) 「IV. 自分自身についての確信の真理」の「B. 自己意識の自由」が 129 ページから始まりますので、だいたいそのあたりまでに相当します。

b) あるいは、「緒論」を除けて「感覚的確信」(22 ページから開始)から計算する場合には(「H, 10-3」の訳注(*3), (4), b) を参照)、後から「緒論」が加わってきますので、22 + 128 - 1 = 149。この 149 ページというのは、前記「B. 自己意識の自由」中の「不幸な意識」が 140 ページから始まりますので、だいたいそのあたりまでに相当します。

 (iii) 前記 (ii) の a, b いずれにしろ、ヘーゲルは 130 ~ 150 ページに相当する原稿量をもってして、「著作の半分」だと率直に思っていたのでしょう。つまり、ただ稿料がすぐ欲しいがために、半分だとゲープハルトに主張したのではないということです。といいますのは――
 「感覚的確信」から始め、「知覚」「悟性」を述べて「自己意識」に到達すれば、残りは「理性」「精神」「宗教」そして「絶対的知」といったところですから、まあ、「自己意識」あたりで半分は書いたかなとヘーゲルが思ったとしても、無理からぬものがあります。
 ところが、1807 年版の『精神の現象学』は 765 ページ(+「序文(Vorrede)」 91 ページ)ですから、予定を超えてそうとう長大な作品になったといえます。その理由としては、次の 2 つが考えられます:
 (i) 創作意欲が高まり、次から次へとテーマや書くべきことがあふれ出たのでしょう。

 (ii) もともとの契約での報酬(稿料)支払い方法は、「ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン」でしたが(K. ヘーゲルの「説明」)、ニートハンマーによって締結された新契約でも、同じだったと思われます。報酬の支払い方法や額は重要項目にもかかわらず、書簡中にも K. ヘーゲルの「説明」中にも、変更があったとは記されていません。また、変更する理由も見あたりません。
 すると、原稿量と報酬は比例しますので、ヘーゲルは「奮起」し、そこで長大なものになったと考えられます。いくら報酬額が増えても、彼のバックには(というより、前面には)地方行政顧問官であり、学界・宗教界にも顔がきくニートハンマーがいます。新参の小出版社主・ゲープハルトに文句の言えるはずはありません――とヘーゲルが、無意識的/意識的に思ったかどうかは別として。

 訳者は、(i), (ii) 2 つともが理由だったように思います。

(*7) 訳注(*6)の (2) で述べましたように、144 フロリーンがもともとの古い契約に関するものなので、この「債務証書」も、古い方のものだと思います。つまり、ゲープハルトは最初、ヘーゲルに報酬 144 フロリーンを支払わなかったのでしたが、ニートハンマーが 252 (= 12 x 21)フロリーンを担保したので(K. ヘーゲルの「説明」)、条件――すべての原稿が期日内に渡されるという――を付けたうえで報酬を払う気持ちになったのでしょう。
 その後で、過去に報酬を支払わなかったのは、もともとの債務証書について「たんに [私が] 誤解をしていた」ためだと、言いわけをしたのだと思います。つまり、ゲープハルトとしては、思いどおりに確保すべきものはしたので、過去のことについてはヘーゲル側の顔を立てたのでしょう。これをニートハンマーは、ヘーゲルへの配慮もあったのでしょうが、計算高い卑屈さのように書いています。しかし、これはビジネスマンとして当然といいますか、あるいは致し方のないところです。

(*8) ヘーゲルが原稿を直接ゲープハルトに送るのではなく、ニートハンマーの方に送らなければならないことの解釈については、「解説」の V を参照下さい。

(*9) 原文は hier (ここに)で、バンベルク(あるいは、市内のニートハンマー宅)を指します。郵便馬車(ないし騎馬)がバンベルクに到着した後、郵便局の方で自宅配達までしたのか、あるいは住民の方で郵便局へ引取りに出向いたのかは、浅学のため不明です。

(*10) ニートハンマーの住むバンベルクには、ゲープハルト書店および書店が印刷を委託した印刷所もありました。

(*11) この手紙(N. 10-3)は、訳者注(*3)の (1) に記しましたように、プロイセン国立文書館にある手稿に依拠していますので、原文の「 . . . (・・・)」は編集者ホフマイスターによる省略記号でしょう。

(初出:2014-7-12)


1806-10-6 ヘーゲルニートハンマー (S. 118)

                           イェナ、1806 年10月6日(月曜日)

 かけがえのない友人である貴方に、手短に返信いたしますが、この度(たび)の問題の収束(Beendigung)――収束と見なせると思うのですが――にあたっては、私は貴方にどれほどのおかげを被ったことでしょう。また、貴方からのお手紙は(*1)、同封物ともども(*2)ようやく今日受けとりました。
 当地を月曜日に発送される手紙は、水曜日やあるいは金曜日に発送されさえする手紙より、[貴方のいる] バンベルクに早く到着しないことがよくあるのですが、この手紙を月曜日に発送したく思いました。といいますのも、今回は [早く到着するように] 偶然がすこし味方するかもしれないですから。貴方からのお手紙には、味方しませんでしたが(*3)

 重要事であるすべての原稿の発送は、間違いなく今週に行います。・・・

 そちらへの旅行については、貴方のご好意ある招待をお受けしたしたいのですが、目下の情勢がそれを許しません。――10 月 13 日、あるいはおそらく 20 日には、大学の講義が始まります。そのこと自体は大したことではありませんが、しかしそれとは別に、帰ってこれなくなる危険を、おそらくは貴方のもとへと着けなくなってしまう危険をもおかす事になるかもしれません。――
 郵便馬車は騎馬郵便よりもたやすく引き返させらりたり、阻止させられたりします。したがって、私が原稿を [郵便馬車でバンベルクに] 持参したく思っても、そういうことなので、騎馬郵便で発送するよりも到着が遅れてしまいかねません。――
 とはいえ、戦争はまだ勃発していません。現在の時点こそが、重大です。数日後には、平和の風が吹くやもしれません。そうすれば、10 月のそよ風をいとわずに、貴方のもとへと旅立ちましょう。

 [文中の「――」 と 「・・・」は原文。]
(目次)

 「1806-10-6 の手紙」の訳注

(*1) この手紙とは、ニートハンマーの 1806-10-3 付の手紙に書かれていたところの、彼の 1806-9-29 付のヘーゲルへの手紙です。
 1806-10-3 付の手紙の方に対するヘーゲルの返信は、この後の1806-10-8 付の手紙になります(この 10-8 付の手紙の冒頭には、「貴方からの [10 月] 3 日付の大切なお手紙を、今日受けとりました」と書かれています)。

(*2) 「同封物 [複数] ともども」の原文は mit den contentis です。この同封物の内容は、ゲープハルトと交わされた新しい契約書でしょう。子息 K. ヘーゲルによれば、「1806 年 9 月 29 日にこの出版者と契約を締結することができた」(K. ヘーゲルによるトラブルの「説明」)とのことです。そこで、ニートハンマーはさっそくヘーゲルへの手紙(N, 9-29)に、この契約書(ないしは、その要旨を書いたコピー)を同封したものとみえます。

(*3) これは、ニートハンマーの 1806-9-29 付の手紙が遅れて、ようやく「今日 [10 月 6 日]」ヘーゲルに到着したことを指します。正常であれば、5 日で到着したはずです。
 なお、原文は:
  . . . indem vielleicht diesmal ein Zufall günstiger ist, wie der in Ansehung des Ihrigen [Briefs] ungünstiger war.
 この原文中の wie については、こちらを参照下さい。

(初出:2014-7-16)


1806-10-8 ヘーゲルニートハンマー (S. 118f

 貴方からの [10 月] 3 日付の大切なお手紙を、今日受けとりました。貴方に折り返し便で(*1)お返事します。
 貴方の 9 月29 日付のお手紙を、私がこの前の月曜日 [10 月] 6 日に受けとったことは、同じ日[6日] に [手紙で] 貴方にお知らせしました。またその時、貴方の [9 月29 日付の] お手紙から遅れの原因が分かりましたし、その手紙はその後しかるべく到着しました。
 このもつれた問題を貴方が片づけて下さり、なんと嬉しいことでしょうか。そして、貴方にはいくら感謝してもしたりません。債務証書あるいはむしろ完成した契約は、私の望みえることすべてに合致しています。貴方がそのように仲介してくださり、発行部数すべてを(die ganze Auflage)引き受けようと申しでられたのは(*2)、言うまでもなく英雄的な仲介です。このことによって相手 [ゲープハルト] は、さらに言いのがれをする余地がいよいよなくなり(*3)、そして私は貴方の恩義をますます被ることとなりました。
 もしこの件について、私が奥さまにお話しするようなことでもあれば、こう申しましょう―― 2 人は腕相撲で争ったが(*4)、ゲープハルトは貴方に後れをとったと。・・・

 貴方の友情への私の感謝をすべて言い表すには、私がこの問題でどれほど困惑していたかを述べるほかありません。この問題が完全に幸運な結末へといたったことを、共に期待したいと思います。ここに原稿の半分を、同封します。残り半分は、金曜日(*5)です。
 それで、私の側でしなければならなかったことは、したことになります。もっとも、その [原稿の] うちの一部が失われれば、途方にくれるしかありません。それをまた書くことは、私には困難です。そして今年中に本を出すことは、まったくできないでしょう。

 [この後は、擱筆(かくひつ)するにあたっての挨拶になります。なお、文中の「・・・」は原文。]
(目次)

 「1806-10-8 の手紙」の訳注

(*1) 原文は mit umlaufender Post です。相良守峯『大独和辞典』の umlaufen の項目、I, 8 に mit umlaufender Post が記載されており、umgehend 3 を見よとあります。そしてその箇所には、「mit umgehender Post, 次便で。折り返しの便で」とあります。
 つまり、ヘーゲルのいるイェナに 10 月 8 日に到着した郵便馬車は、郵便物を降ろした後すぐには出発せず、御者や馬の休養・食事のために数時間滞在したのでしょう。その間に、ヘーゲルはニートハンマーへの返信を書き、それを滞在している郵便馬車に託したと思われます。そこで、託した郵便馬車は「折り返しの便」でもあれば、「次便」でもあるというわけです。

(*2) このことをヘーゲルが知ったのは、ニートハンマーの 1806-10-3 付手紙に同封された「添付文書の E」からだったと思われます。

(*3) 原文は:
 . . . das aber dem Freunde um so weniger weiter Ausreden übrig ließ, . . .
 文頭の関係代名詞 das の先行詞は、「ニートハンマーの英雄的な仲介」、すなわち、彼が発行部数すべての代金を引き受けるということですが、Freund(e) の意味が問題です。この Freund(e) は「取引先」のことで、「友人」と取ったのでは文意が解せません。そこで、ニートハンマーの「取引先」、すなわちゲープハルトを指します。
 また文中の aber の意味は「しかし」ではなく、たんに接続を示す「そして」です。

(*4) 原文は:
 . . . dass die zwei Rechten aneinander gekommen . . .
 RechtenRechte (右手)の複数形です。aneinander kommen は熟語で、「格闘する」です。
 そこで、2 つの右手が格闘するのですから、腕相撲のことだと思います。。腕相撲では、両者は力の限りを尽くすことになります。

(*5) 10 月 10 日 になります。

(初出:2014-7-16)


1806-10-13 ヘーゲルニートハンマー (*1) (S. 119f

                          イェナ、1806 年10月13日(月曜日)
                        フランス軍によってイェナが占領され、
                        皇帝ナポレオンが、イェナの囲壁(*2)
                        内に到着した日に。

 先週の水曜日と金曜日 [10 月 8 日と 10 日] に発送しました原稿を、私がいかに心配せずにはいられないか、[上記の] 日付から(*3)お分かりと思います。――きのうの夕方、日没の頃、ゲンペンバッハタールとヴィンツァーラの両方向から(*4)同時に、フランス軍の斥候隊の射撃音が聞こえました。夜にはプロイセン軍が、ヴィンツァーラから追い払われました。射撃音は 12 時過ぎまで続き、今日の 8 時から 9 時の間にはフランス軍の散兵が――それから 1 時間後には正規兵が侵入してきたのです。
 この 1 時間が、不安の 1 時間だったのです。不安になったのはとりわけ、これら [フランス軍の] 小部隊に対して、私たちの誰もが、フランス皇帝自身の意志によって権利をもっていることを、私たちが知らなかったためです――小部隊の要求に従う必要はなかったのです、落ちついて必要なものを与えてやればよかったのです。多くの人が、不手ぎわな振るまいや用心を怠ることによって、困ったことになりました。
 しかしながら貴方の御義姉は(*5)、デーダラインのお家(*6)共々、不安をかかえながらも困ったことにはならず、ご無事です。郵便 [馬車・騎馬] の出発のために、私が御義姉と今夕お話ししたとき、御義姉は私にニートハンマー夫人と貴方に [御義姉の近況を] 書くようにと、頼まれました。――今、御義姉は 12 人の [フランス軍] 将校を、[自宅に] 宿泊させています。
 皇帝が――この世界霊魂が――馬に乗って、町を通りぬけ偵察に出るところを見ました。――ここの一点において、馬上に座し、世界に力を及ぼして支配しているような個人を見るのは、実際驚嘆する思いでした。(*7)
 [この後話題は、プロイセン軍のことなどになります。]

 ・・・私はおそらく、たとえ今日はうまく切り抜けたとしても、他の人同様に、あるいはそれ以上に被害を受けたかもしれないのです。――周囲のありさますべてから、水曜と金曜に発送した私の原稿が到着したかどうか、疑わずにはおれません。――実際のところ私の損害は、まったくもって大きすぎるということになりましょう。――他(ほか)の知人たちは、損害を被りませんでした。被るのは私だけでしょうか?
 貴方が、[私への稿料の] 総額の一部を [ゲープハルトに] 現金払いさせることを(*8)検討して下さったなら、また、失権期限(*9)をあれほど厳しくは取り決めにならなかったらと、どんなに私は思ったことでしょう。とはいえ、当地から郵便が出ましたので、あえて送ることにしたのです。どんなに重苦しい気持ちでそうしたのかは、神がご存知です。しかし軍隊の背後では、郵便が今は自由に行き来していることも、疑いのないところです。
 [この後話題は、フランス軍のことになります。]

 宮廷顧問官フォークト夫人が私に語ったところによれば、郵便馬車の御者をようやく明日早く出立させるそうです(*10)。私はこのことについて、安全のために護衛をつけてもらうことを、彼女の家に陣取っている [フランス軍] 参謀部に頼むよう、彼女に申しました。拒絶はされないでしょう。
 期限内に拙稿が、神の計らいによって貴方のもとへ届きますように望んでいます(*11)。[ゲープハルトが稿料として] いくらかのお金を私に送ることができるということを、貴方がお聞きになりましたときには、送って下さることをすぐにも切にお願いすることになります(*12)。近いうちに、まったくもってそれが必要となります。

 [この後話題は、イェナの様子などになります。なお、文中の「――」と「・・・」は原文。]
(目次)

 「1806-10-13 の手紙」の訳注

(*1) このヘーゲルの 10 月 13 日付手紙は、郵送によってではなく学生によってニートハンマーに届けられたものでしょう。ヘーゲルの 10 月 18 日付の彼宛手紙には、「貴方は学生を通じて 1 通の手紙を、おそらくこの [18 日付の] 手紙より後に、受けとるでしょう」とあります(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 122)。
 この「1 通の手紙」が、 10 月 13 日付の手紙であろうということは、以下のことから推測できます:
(1) 10 月 13 日早朝よりフランス軍がイェナに侵攻しており、おそらく郵便物の発送は中止されたはずです。軍事常識として、侵攻・占領直後はいっさいの交通・情報伝達は停止させられ、占領軍の態勢が整ったところで、必要・無害なものが許可されます。
 また、実際のところ、
 (i) 前線を郵便馬車/騎馬が横断することは、危険です。
 (ii) フランス軍としても迅速な軍隊の展開をしなければならないところに、そのような馬車などがうろうろされたのでは、迷惑ですし、
 (iii) 軍隊や物資の配置などの軍事情報を、敵側にもたらされる恐れがあります。
 したがって、 10 月 13 日付手紙が郵送されたとは推理しにくいものがあります。

(2) 上記の「貴方は学生を通じて・・・」(H, 10-18)という文は、フランス軍侵攻によるイェナの混乱を描写した箇所に、思いついたように挿入されています。そして、 10 月 13 日付手紙の大部分も、イェナの混乱の描写に当てられています。
 つまり、ヘーゲルは 18 日付の手紙でイェナの町の様子を書いているときに、<13 日付の手紙にも町の様子を書きましたから、詳しくはそちらを読んで下さい>と、ニートハンマーに言いたかったのでしょう。

(3) 10 月 13 日付手紙は、書かれたのは 13 日でも、学生に託されたのはその後になります。したがって、もしも 3 ~ 4 日後に託されたり、学生がニートハンマーの元に直行しなかったりすれば、フランス軍の「兵站将校殿が私たちに与えてくれた」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 122)機会を利用して発送された 18 日付手紙より、遅く届くことは、十分ありえます。

(4) 10 月 13 日付手紙の内容のほとんどは、イェナの町の近況報告なので、途中で失われても実害はありません。したがって、学生に託すこともできます。

(*2) 原語は MauernMauer の複数形)です。ヨーロッパの町は、防備のために周囲を城壁(壁, Mauer)で囲われています。

(*3) つまり、この手紙の上部に書かれた差出日付(10 月 13 日)の下に記してある、「フランス軍に・・・」という説明から、分かるということでしょう。
 
(*4) ヴィンツァーラ(Winzerla, カタカナ表記は、グーグル地図によります)は、グーグル地図・航空写真で見ますと、イェナの南方 2 – 3 km の近郊に位置しており、今は住宅地です(当時はおそらく村落でしょう)。なお、ゲンペンバッハタール(Gempenbachtal)は発見できませんでした。おそらく小村だったために、町村合併などで、名前が消えていったのでしょう。

(*5) ニートハンマーの「御義姉(Ihre Frau Schwägerin)」とは、この後にも出てくる「宮廷顧問官フォークト夫人」のことです。彼女は「ニートハンマー夫人の姉」で、「その夫は [イェナ大学の] 数学及び物理学の教授、宮中顧問官 J. H. Voigt である。大学理事のフォークトとは別」とのことです(小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』、76 ページ)。
 なお、ヘーゲルの記した「宮廷顧問官フォークト夫人(die Frau Hofrätin Voigt)」では、夫人自身が宮廷顧問官のような印象を与えます。しかし、編集者注のフォークト夫人の説明では、「宮廷顧問官フォークトの妻(Gattin des Hofrats Friedrich Siegmund Voigt)」となっています(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 463)。夫のフォークトが宮廷顧問官であることは確実ですが、フォークト夫人はそうではなかったようです。(夫が Hofrat であった場合、妻の方も Hofrätin と呼ぶ習慣があったのでしょうか? 元大使でも Ambassador と呼ぶように、呼称の習慣はなかなかやっかいです。)

 夫人は宮廷顧問官ではないということであれば、夫人自身は行政的権限を持たないことになります。すると、このすぐ後の「郵便の出発のために(wegen des Postabgangs)、私が御義姉と今夕お話したとき」という箇所は、「郵便を出発させるために」ということではなく、たんに「郵便の出発について」という意味あいになります。
 いずれにしろ、彼女はおそらく夫をとおして、またフランス軍将校たちを宿泊させて便宜をはかっていることから、郵便の運行についての情報を知りえる位置にはいましたし、若干の影響力も持っていたようです。この 13 日付手紙の後の方には、
 「宮廷顧問官フォークト夫人が私に語ったところによれば、郵便馬車の御者をようやく明日早くに出立させるそうです。私はこのことについて、安全のために護衛をつけてもらうことを、彼女の家に陣取っている [フランス軍] 参謀部に頼むよう、彼女に申しました。拒絶はされないでしょう」
などと書かれています。

(*6) 「デーダラインのお家(das Döderleinsche Haus)」は、編集者注によれば、「ニートハンマー夫人の所有」物だったとのことです(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 463)。しかし、「デーダライン(Döderlein)」が何を意味するかは、不明です。WIKIPEDIA によれば、デーダラインはドイツ人の姓ですが・・・

(*7) この箇所の原文は:
 . . . ; den Kaiser -– diese Weltseele –- sah ich durch die Stadt zum Rekognoszieren hinausreiten; -- es ist in der Tat eine wunderbare Empfindung, ein solches Individuum zu sehen, das hier auf einen Punkt konzentriert, auf einem Pferde sitzend, über die Welt übergreift und sie beherrscht.

(1) Weltseele は、「(世界統御の根本原理としての)世界霊魂」という意味です(小学館『独和大辞典 第 2 版』)。この語を「世界精神」とヘーゲル哲学的に訳している例も見かけますが、ヘーゲルはニートハンマーが『精神の現象学』を読んでいるとは思っていませんので(時間的にも当りまえですが)、ここでは一般的な意味での「世界霊魂」として書いています。
 なお、シェリングに Von der Weltseele (1798年) という論文がありますが、『世界霊について』という訳になっています(たとえば、燈影舎『シェリング著作集』、第1巻所収のもの)。

(2) durch die Stadt は「町を通りぬけ」の意味で、「ぬけ」を付けることが重要です。といいますのは、この後に hinausreiten 「馬に乗って出る」とありますように、町の外に出ることに文意の重点があるからです。
 「町を通り」とか「町を通って」と訳したのでは、「町中で(~する)」ということになったり、「町を通る」ことに視点が行きそこに重点があることになったりします。(あっ、すこしニュアンスに拘泥したため、ドイツ文学特講になってしまったかな?)

(3) Rekognoszieren は「偵察する」(相良守峯『大独和辞典』。小学館『独和大辞典 第 2 版』)という動詞を、名詞として使ったものです。その前の zu は、「~のために」という目的を意味します。
 つまり、翌日(10 月 14 日)にイェナ郊外で行われたプロイセン軍との会戦のために、ナポレオンは下見をしに郊外へと出かけたのでしょう。皇帝だとはいっても、まず彼は野戦司令官だったのです。

(4) wunderbare Empfindung をそのまま「驚嘆すべき感情」と訳すと、その感情そのものが驚嘆すべきものとなって、日本語としてはおかしくなります。そこで、「驚嘆する思い」と訳出しました。

(5) hier (ここ)は、ヘーゲルがナポレオンを見たとき両者のいた場所、つまりイェナ市のある地点を表すと思います。

(6) auf einen Punkt konzentriert (一点に集中し)というのは、世界に浸透している世界霊魂がナポレオンの姿形(= einen Punkt, 一点)に象徴化され、その彼の姿形が周囲から浮き出て鮮やかにヘーゲルの目に映ったようすを、表現したものだと思われます。
 しかし「一点に集中し」では、訳として分かりづらいので、「一点において」と訳出しました。

(7) なお、konzentriert を能動的に「集中し」と書きましたが、文法的には他動詞 konzentrieren (集中させる)の過去分詞で、受動を意味します。つまり、hier auf einen Punkt konzentriert はその後の auf einem Pferde sitzend (馬上に座して)と共に、どちらも文中で副詞句として使われています。
 この文の主語は das、定動詞は übergreift beherrscht です。

(8) auf einem Pferde を多くの方が「馬上豊かに」と、なぜか副詞「豊かに」を挿入して訳されていますが、理解に苦しみます。といいますのは、
 (i) 現代の私たちが「馬上豊か」と聞けば、馬にゆったりと乗っている「美少年」を思い浮かべます(その理由は、グーグルで「馬上豊か」を検索して下さいね)。しかしナポレオンは、言うまでもなく美少年では(また大男でも)ありませんでした。

 (ii) 世界の覇者となりつつある皇帝だから「豊かに」、つまり「余裕がある。ゆったり」(『全訳 古語例解辞典』、小学館、2003年)を付けて、訳されているのかもしれません。しかし、このような「豊かに」は、むしろ伝統的な王侯貴族にふさわしいものでしょう。ナポレオンの自己アピールは、「君主制の圧政を打ち砕く革命の子」ですから、皇帝にはなってもそこは創業の一代目、むしろ気さくな仕事人の雰囲気だったのではないでしょうか。
 (余談ながら、馬ではなくベンツのお話を――その昔、八王子にある東京富士美術館(「大ナポレオン展」も、いつだったかしていましたが)を見に行ったおり、創価大学とのあいだの道を、ベンツが走りぬけて行ったのでした。その車には、一月の寒い時期ではありましたが、窓を全開して、歓呼する人たちに身を乗り出して手を振っている方が、写真でよくお見かけした方がいました。微笑まれながら私の方にも視線を移されたので、礼を失するのもなんですから、私も手を振りかえしたのです・・そのときふと、馬上のナポレオンの話を思いだし・・・閑話休題して――)

(9) übergreifen はグリム『ドイツ語辞典』を引きますと、I. 1) に、
 「あるものをつかみ取りながら覆(おお)う。抱きかかえる。」
とあります。この über die Welt übergreift は比喩的な意味ですので、「世界に力を及ぼし」と訳出しました。

(10) ところで、ナポレオンは敵地で群衆の前に体をさらして、大丈夫なのかということですが――もちろんこれは、彼の大胆さのしからしめるところだったのでしょうが、当時の銃がまだライフルではなかったこともあるでしょう。おそらく 50 m くらい離れていれば、ピストルで撃ってもなかなか当たらなかったのではないでしょうか。

(*8) ヘーゲルがゲープハルトから報酬を得るのは、10 月 18 日までに原稿すべてを引き渡した後です。フランス軍の侵攻による混乱で、8, 10 日に郵送した原稿が失われますと、ヘーゲルは報酬をまったく手にすることができません。そこで、18 日以降に支払われる報酬の一部を、すでに得られたら(それも為替などではなく現金で)と、彼は望んだのでしょう。

(*9) 「失権期限(den präklusiven Termin)」とは、ニートハンマーがゲープハルトにヘーゲルの原稿を提出する最終期限だと思います。原稿提出がその期限内にできなければ、契約によってニートハンマー(あるいはヘーゲル)が報酬を得る権利は、失効するということでしょう。
 ヘーゲルはニートハンマーから、原稿を 10 月 18 日までにバンベルクに到着させるように言われています(N, 10-3)。するとこの「失効期限」は、10 月 18 日ないしはその翌日くらいでしょう。

(*10) 原文は:
 . . . dass sie den Postillon erst morgen früh werde abgehen lassen, . . .
 PostillonPostillion とも)は郵便馬車の御者または、郵便騎馬の騎手のことですが、この一文は意味の取りにくい文となっています。
(1) 郵便の御者(騎手)は、郵便馬車(騎馬)とは違うことに意味があるとすれば、郵便馬車(騎馬)を再開するために、まず必要な人員の配置をすることを意味します。

(2) しかし、Postillon の語で郵便馬車(騎馬)をも含ませているとすれば、郵便配達の再開を意味していることになります。けれどもこの場合でも、郵便は「明日 [14 日]」には再開されなかったようです。10 月 18 日付のヘーゲルの手紙に、「月曜日 [10 月 20 日] には、[イェナからの] 最初の郵便が、騎馬郵便と同様に馬車郵便も、ふたたび出発します」とあります。再会されたのは 20 日だったようです。

(*11) この「拙稿(meine Schreibereien, 複数形)」とは、この 13 日付の手紙でさんざん心配されているところの、水曜(10 月 8 日)と金曜(10 日)にニートハンマーに送られた原稿のことです。ここで不思議なのは、10 日に送ることのできなかった原稿の最終部分に対する言及が、この手紙ではまったくなされていないことです。(なお、ヘーゲルが原稿の最終部分をまだ送ってはいないことを、私たちが知ることができるのは、次の 10 月 18 日の手紙においてです。)
 ヘーゲルがこの 13 日付の手紙でもっとも書かねばならなかったことは、当然のことながら、13 日の郵便は戦乱によって運行しなかったため、10 日に送れなかった原稿の最終部分はまたしても送れなかった、したがって、最終締め切りには不可抗力的に間にあわなかったということでしょう。そしてそれを書く機会は十分にあったのです:
(1) この手紙の「追伸」(編集者による [P. S.] の部分)は、夜 11 時に書かれたと記されていますので、そのときには最終部分を郵送できなかったことが確定しています。

(2) 「郵便の出発のために、私が御義姉と今夕お話ししたとき・・・」とありますが、郵便出発の話をヘーゲルがしたのは、原稿の最終部分を郵便で送るためにほかなりません。したがって、ヘーゲルがこのように書いているときには、未発送の原稿のことが念頭にあったのですから、ふつうは、「まだ未発送の原稿があるのです・・・」くらいのことは書き加えるはずです。が、ヘーゲルのペンは意図的にこれを避けたと思えます。

 なるほどこの 10 月 13 日に書かれた手紙は学生に託されるものなので、ニートハンマーは「おそらく・・・ [18 日付の] 手紙より後に、受けとる」(注の (*1) を参照)ことになります。したがって、18 日付の手紙で未発送の原稿のことを書けばよく、13 日付の手紙では言及する必要がなかったのでしょうか?
 しかし、この説は成り立ちません。18 日付の手紙は、「兵站将校殿が私たちに与えてくれた」(H. 10-18 の冒頭)機会を利用して出されたものです。13 日付の手紙が書かれているときには、そのような機会があることを、ヘーゲルも兵站将校も知るはずがありません(翌 14 日は、イェナ郊外でのいわゆるイェナ会戦です)。

 原稿の最終部分を送れなかったことを、ヘーゲルが書かなかったのは、彼の念頭に次のような理屈があったからかも知れません:
 (i) 13 日付の手紙は、13 日は(おそらく、その後数日も)郵便が出ないので、人に託して送るにせよ、到着は 18 日以降になるであろう。

 (ii) ニートハンマーは、イェナが 13 日にフランス軍に占領されたことを、すぐに知るはずである(この手の情報は急速に広範囲に伝わるので)。そして、イェナからの 13 日以降の郵便が停止になることを、予想するはずである。

 (iii) その予想通り 18 日頃にイェナからの郵便はバンベルクに来ないので、ニートハンマーは、ヘーゲルが原稿の最終部分を郵送できなかったことを、18日頃に確認できる。

 (iv) すると、(i) ~ (iii) より、18 日以降に到着する 13 日付の手紙に、原稿の未発送を書く意味はなくなる。

 ――ここまで述べてきて、ふと、別の第 2 の想定がありえるのではないかと(恐ろしいことですが)、訳者は思いました。(iii), (iv) が成立するのは、当りまえの暗黙の前提――ヘーゲルは 10 日(金曜)の原稿郵送時に、<まだ最後の部分が残っていますが、それは 13 日に郵送します>というメモないし手紙を同封していた――が、あってこそです。
 なぜこれが当りまえの前提かといいますと、そのようにメモなどで通知しなければ、ニートハンマーへの前回の手紙(H, 10-8)では、
 「ここに原稿の半分を、同封します。残り半分は、金曜日 [10 月 10 日] です。それで、私の側でしなければならなかったことは、したことになります」
などと書いているのですから、ニートハンマー(ならびに彼から原稿を受けとるゲープハルト、そして印刷会社)は、10 日の原稿が最後のものだと、勘違いしてしまうのです。

 ところが、ヘーゲルはメモのようなものを同封しなかった、つまりニートハンマーに(したがってゲープハルトにも)原稿の最終部分がまだ残っていることを、知らせなかった可能性が浮上してくるのです。
 その場合の彼の言いわけは、18 日付の手紙で書かれているとおりでしょう:
 (a) 「水曜日と、8 日前の金曜日とに発送したものが、まちがいなく到着したとすれば、印刷が止まっていることはない」。

 (b) 「ゲープハルトが、[原稿の] 最後の a) すこしばかりのボーゲン紙が、b) [戦乱によって] 生じた状況によって、遅れたことに異議を唱えることもでき」ない。
 (これらの言いわけが成り立ちにくいことは、18 日の手紙の訳注(*10)で検討します。)

 (c) そして、原稿の最終部分の未発送を知らないニートハンマーやゲープハルトは、やがて発送できる見通しがついてからその事を知らせたときには驚くであろうが、それまでは安心しておれるのだし(知らぬが仏ということですね)、上記 (a) と (b) が示すように実害はない。云々。

 けれども、たんに最終部分の原稿を送らなかったのでは、やはり後々まずいので、フォークト夫人に、夫の同僚でもあれば義弟と懇意にしている後輩でもある哲学教授ヘーゲルは、接近します――
 <ニートハンマー氏に手紙を出すのですが、貴方が無事であることなども、書きましょうか?>と話しかけ、<お願いしますわ>という返事を取りつけます。その後、<郵便の運行の再開は、どうなるんでしょうね>と気になっていることをたずねて、アドバイスもします。かくして、ニートハンマーに親戚の無事や、彼の妻所有の家には損傷がないことなどを知らせ、自らの活動をアピールしておく・・・
 これが第 2 の想定ですが、さすがにこのようだったとは、訳者として思いがたいものがあります。

(*12) お金をヘーゲルに「送って下さる」のは、ゲープハルトではなく、ニートハンマーです。この箇所の原文は:
 . . . sobald Sie [= Niethammer] erfahren, wie etwas Geld an mich zu schicken ist, so bitte ich Sie aufs Äußerste, es doch zu tun;
 zu tun するのは、Sie のニートハンマーです。

(初出:2014-7-17)


1806-10-18 ヘーゲルニートハンマー (S. 122 - 124)

 私たちに手紙を送る機会を、兵站(へいたん)将校殿が与えてくれたので、これを利用して貴方にすこしばかり書きます(*1)
 [戦争によるイェナの混乱と、知人たちの様子を述べた後で――]
 ところで私の件(*2)についてですが、アスフェルスに(*3)この件の法的側面について尋ねました。彼が言うには、このような [戦争で混乱した] 状況はあらゆる債務(Verbindlichkeiten, 法的義務)を無効にするはずである(*4)、とのことです。
 月曜日 [10 月 20 日] には、[当地イェナからの] 最初の郵便が、騎馬郵便と同様に馬車郵便も、ふたたび出発します。そこで、騎馬郵便で(*5) [原稿の] 最後のボーゲン紙 [複数] をお送りします。これらのボーゲン紙はあれ以来(*6)、イェナ大火の前の、恐怖の一夜からの手紙とともに(*7)、ポケットに入れていつも持ち歩いていたものです(*8)。――
 ところで水曜日と、8 日前の金曜日とに発送したものが、まちがいなく到着したとすれば、印刷が止まっていることはないし(*9)、またゲープハルトは、[原稿の] 最後の a) すこしばかりのボーゲン紙が、b) [戦乱によって] 生じた状況によって遅れたことに、異議を唱えることもできません(*10)。 [この後話題は、戦乱のなかでのヘーゲルの様子に移ります。]

 ・・・結局のところ、貴方にお金を、たとえ 6 – 8 カロリーン(Carolin)でも、送って下さるようお願いすることになります。ゲープハルトから得ていただくのがよいとは思いますが、たとえ彼から得られる見込みがなくとも、そのようなご好意に甘えさせていただくことをお願いする次第です。

 [この後話題は、戦況などに移ります。なお、文中の「・・・」は訳者。 ]
(目次)

 「1806-10-18 の手紙」の訳注

(*1) Kriegskommissar は「兵站(へいたん)将校」ですので(相良守峯『大独和辞典』)、der Herr Kriegskommissär を「兵站将校殿」と訳出しました(aä の違いは無視!)。兵站とは(現代では、ロジスティックスというのが一般的ですが)、軍隊において物資を移動させることですから、兵站将校はそれを担当する責任者です。そこで民間の手紙の配送なども、手配できたのでしょう。
 この 10 月 18 日付手紙は、したがって郵便で送られたのではありません。この後、「月曜日 [10 月 20 日] には、[当地イェナからの] 最初の郵便が・・・ふたたび出発します」とありますから、13 から 19 日にかけての 1 週間、郵便はストップしていました。
 なお、このときイェナはフランス軍に占領されているので、この兵站将校は当然フランス側です。しかし、「殿(Herr)」を付けて親しみを表しているのは、「私 [ヘーゲル] がすでに以前からそうでしたように、今やすべての人がフランス軍の幸運を祈っています」などという事情のせいでしょう。(H, 10-13) (Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 121)

(*2) 「私の件(meine Geschichten)」というのは、その後の「アスフェルスにこの件の法的側面について・・・」以下が暗示するように、ヘーゲルが原稿の最終提出期限を守れなかったことを指します。ではなぜ、「私の件」などと一般的な書き方をしたのかということですが、ふつうに推測しますと、
(1) ニートハンマーはすでにその重大事を知っていて、「私の件」だけで話が通じるからです。つまり――
 ヘーゲルがニートハンマーに 10 月 10 日(金曜日)に原稿を発送したときには、<この後にまだ送るべき原稿があり、それは 13 日に郵送する>由を書いたメモないし手紙を、同封したと思います。そのように知らせなければ、ニートハンマーの方にはすでに 10 月 8 日付の手紙で、
 「ここに原稿の半分を、同封します。残り半分は、金曜日 [10 月 10 日] です。それで、私の側でしなければならなかったことは、したことになります」
と書いている以上、彼や彼から原稿を受けとるゲープハルト、そして印刷会社は、10 日の原稿が最後のものだと勘違いしてしまいます。
 ところが、期限の 18 日までには最後の原稿を乗せた郵便馬車が到着しなかったのですから、戦争の混乱のためとは知りつつも、ニートハンマーは相当気をもんで対策なども考えていたはずです。

(2) ヘーゲルはこの件を、さり気なく書きたかったためです。前の段落では、戦火の混乱と知人たちの様子を彼は述べたのでしたが、それに続けて、「ところで私の件についてですが・・・」と、軽いタッチで切りだしたのでした。そして、この件を書き終えた文「ゲープハルトが・・・遅れたことに異議を唱えることもできません」は、なんとセミコロンで終わらせ、小文字で始まる次の話題へと、流れるように移っていったのでした(. . . keine Bedenklichkeiten machen; da ich hier . . .)。

(3) 子供がなにか悪いことをしでかして親に報告するさい、遠回しに話をはじめる、しかも言いわけやもっともな理由を、した事よりも先に述べるという事情が、ここにもあるのでしょう。「私の件」については、まっ先に言いわけと正当化(戦争によって郵送できなかったので、債務は無効になる)が述べられ、次いで 20 日に郵送するという対策が言われ、ようやくその後で、原稿の最後の部分は期限に遅れたという事実が登場したのでした。

 ただし、10 月 10 日(金曜日)の原稿郵送時に、ヘーゲルが前記の「メモないし手紙」を同封しなかったときは(「第 2 の想定」です)、上記 (1) は成立しません。が、彼はそれほどのワルだったのでしょうか――たしかにこの手紙(H, 10-18)の調子は、気をもんでいる相手に答えるといったものではなく、どちらかといえば、知らぬが仏の相手を安心させながら、事態を明らかにしていくようなていのものではあるのですが・・・

(*3) アスフェルス(Asverus, カタカナ表記は小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』に従っています)は、小島氏の注記によれば、イェナ「大学の法律顧問」だとのことです。(同書、79 ページ)

(*4) 「あらゆる債務を無効にする」のですから、当然ニートハンマー(ヘーゲル)に対して設定された原稿の締切期限も無効になっているはずである、ということをヘーゲルは暗示しています。

(*5) 騎馬郵便にするのは、馬車郵便より早く着くからでしょう。

(*6) 「あれ以来(seitdem)」がいつ以来なのか、はっきりしません。この箇所の原文は、以下のとおりです:

 Montags geht die erste Post, sowohl fahrende als reitende, wieder ab; mit dieser schicke ich also die letzten Bogen ab, die ich seitdem immer in der Tasche herumschleppe mit einem Briefe aus der Schreckensnacht vor dem Brande.

 この原文中には、seitdem の語より前に、「あれ(dem)」に相当する字句は見当たりません。そこで、前の段落にまで目を移すと、10 月 13 日のフランス軍のイェナへの侵攻および同日の大火の与えた影響が、書かれています。ヘーゲルの関心の中心はこうした事ですから、そこで「あれ以来」とは、「それらが起きた日(13日)以来」という意味だと思われます。
 いずれにしろこの箇所の文意は、<通常であれば郵便が出た 13 日には、原稿の最後の部分は完成しており、郵送できたはずでした>ということでしょう。

(*7) 「恐怖の一夜からの手紙」とは、10 月 13 日付のヘーゲルの手紙を指します。編集者の注によれば、イェナ大火は、10 月 13 日に起きました(Vriefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 464)。したがって、大火の「前の、恐怖の一夜」は 12 から 13 日にかけての夜になり、「恐怖」というのは 13 日の手紙で、「夜にはプロイセン軍が・・・」の箇所で表現されていることでしょう。
 なお、「恐怖の一夜からの手紙」という語句は、<恐ろしかった夜に書かれた手紙>ということの文飾的表現だと思います。 

(*8) この一文は、戦火の混乱の中で敢闘するヒロイックなヘーゲルを表したものとして有名ですが、実際はだらしなく、情けない姿といえそうです。
 この 18 日付手紙でヘーゲルが言わんとしていることは、以下のような内容でしょう――

 <原稿の最後の部分であるボーゲン紙を、10 月 20 日の郵便で貴方(ニートハンマー)に発送します。貴方のお手紙(N, 10-3)には、「最後の郵送の最終発送期限は、10 月 13 日、月曜日です(10 月 18 日にはここに確実に到着しているようにするには)」とありましたから、締め切り期限を守らなかったことにはなります。しかし、フランス軍が 10 月 13 日に侵入し、再び郵便が再開されるのは 10 月 20 日ですから、法律顧問のアスフェルスが言うように、「このような状況は」期限の順守という債務も無効にするはずです。
 <また、私は期限を順守しようとして、最後の原稿は 10 月 13 日までに書き終えて、13 日付の手紙(=恐怖の一夜からの手紙。上記の(*7)を参照)とともに、安全のために持ち歩いていたのです>。

 しかしながら、
・ヘーゲルは 10 月 6 日付の手紙で、以下のように書きました:
 「すべての原稿の発送は、間違いなく今週 [10 月 13 日が月曜日ですから、10 月 6 日は月曜日。したがって「今週」は 6 日から11日までです。] に行います」。

・また彼は、10 月 8 日付のニートハンマー宛手紙でも、10 日には最後の原稿を発送する旨を確言しています:
 「ここに原稿の半分を、同封します。残り半分は、金曜日 [10 月 10 日] です。それで、私の側でしなければならなかったことは、したことになります」。

 そして実際のところ、10 月 18 日までに最後の原稿をバンベルクのニートハンマーに届けるには、10 日に(13 日ではなく)、残り原稿すべてを発送しなければならなかったのですし、そのことをヘーゲルは自覚してもいました。といいますのは、
(1) 郵便の発送日は月・水・金の 週 3 回だったようですが、「当地 [イェナ] を月曜日に発送される手紙は、水曜日やあるいは金曜日に発送されさえする手紙より、バンベルクに早く到着しないことがよくある」(H, 10-6. Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 118)のです。

(2) すると、最後の原稿を 13 日(月曜)に郵便で発送すると、15 日(水曜)や 17 日(金曜)に発送したものより早く着かない可能性大となります。

(3) イェナ-バンベルク間は、郵便で 5 日くらいかかったようですから(*11)、15 日(水曜)や 17 日(金曜)に発送したのが着くのは、20 日とか 22 日になります。

(4) そこで 13日に郵送した原稿が、20 日や 22 日以降に着くかもしれないとなれば、最終締め切りの 18 日をオーバーしてしまうのです。

 その上、迫りくる戦争による郵便の遅延・停止の恐れも、ヘーゲルの念頭にはありました。そのことは、10 月 6 日付のニートハンマー宛手紙に書かれています:
 「そちらへの旅行については・・・目下の情勢がそれを許しません。・・・帰ってこれなくなる危険を、おそらくは貴方のもとへと着けなくなってしまう危険をもおかす事になるかもしれません」。(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 118)

 ところがヘーゲルは、実質的な最終期限である 10 日に、すべての原稿を発送しなかったのです。これでは、原稿を「ポケットに入れていつも持ち歩」くようになったとしても、いたし方なかったとしか評しようがありません。

(*9) 「印刷が止まっていることはない」というのは、
 <水曜と金曜に到着したヘーゲルの原稿を、広義の意味で印刷する作業――実際は植字による活版の制作。ヘーゲルはその原稿を校正はしていないので、製本用の印刷ではありません――がまだ続いており、最後の原稿が遅れたために作業が休止して、そのため印刷会社に損失が生じるなどということはない>
という理屈でしょう。

(*10) しかし、このヘーゲルの言いわけは、あまりにも事態を単純に見ているようです。といいますのは、
(1) ニートハンマーが仲介に入った後にできた新しい契約では、契約当事者はヘーゲルではなくて、おそらくニートハンマーです。この場合、戦乱によってイェナに生じた混乱は、バンベルクに住んでいるニートハンマーが同市のゲープハルト書店に原稿を渡すのには、影響しません。したがって、原稿の遅れは単純に、ニートハンマーの契約不履行となってしまいます。

(2) 契約当事者がもともとの契約と同じヘーゲルだったとしても、問題は残ります。たとえニートハンマーが、担保の 252 フロリーンを要求されることはなくても、13 日には発送されるべき最後の原稿が 20 日に発送されれば、1 週間遅れです。すると到着も、ほぼ 1 週間遅れることになります。
 これだけ遅れれば、印刷会社に損失が生じる可能性がないとは言えません(例えば、植字工や校正刷りもする場合には印刷工などの人員、および道具・機械の手配が計画通りにいかず、他の仕事に支障をきたした場合など)。
 では、その損失は誰が負担するのかということですが、印刷会社やゲープハルトであるはずはなく、ヘーゲルです。ヘーゲルが原因を作ったのですし、また彼は、原稿の遅れを回避することのできた唯一の当事者ですから。

(*11) 5 日くらいかかったことは、
(1) ヘーゲルの10月8日付の手紙に、「貴方からの [10 月] 3 日付の大切なお手紙を、今日受けとりました」とあることなどから分かります。

(2) また、ニートハンマーがヘーゲルの原稿を 18 日までにバンベルクに届かせるために、発送締め切りを 13 日に設定したのもそのためでしょう。

(初出: 2014-7-23) 


付録 1. K. ヘーゲルによるトラブルの説明 (*1)

 以下のヘーゲルのニートハンマーへのいくつかの書簡(Korrespondenz)は、『[精神の] 現象学』の出版者であるゲープハルトとの面倒なもめ事に関するものである。このもめ事は、印刷が遅れた事と、著作の半分が印刷された後での支払いが要求されていた報酬 [=稿料] ――ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン(*2)――が支払われなかった事とによるが、ヘーゲルはこのもめ事を [ニートハンマーに] 訴えたのだった。
 こうしたヘーゲルの主張に対し、ゲープハルトは異議を唱えた。原稿全部の半分がどれほどであるかを、ゲープハルト自身が算定するには、先に原稿全部を手にしなければならないというのであった。そこでヘーゲルは、友人であるニートハンマーの助力を求めたのである。
 ニートハンマーは、この手ごわい出版者と実りのない交渉をしたあとで、ようやく英雄的な仕方でもって、1806 年 9 月 29 日にこの出版者と契約を締結することができた。この契約によって、著者が原稿の残りすべてを 10 月 18 日までに [ゲープハルトに] 引き渡さないときには、これまでに印刷された著作(ボーゲン 21 枚)のすべての部数(Auflage)を、ボーゲン 1 枚につき 12 フロリーンの価格で買い取る義務を、彼自身(ニートハンマー)が負うこととなった(*3)。ゲープハルトの側は、期限内に原稿が引き渡されたときには、著作の半分だと推定された印刷ボーゲン(Druckbogen) 24 枚分の報酬を、その後 2回に分けて払うことを約束した(署名された契約原本が、[手紙に] 添えられている(*4))。
 ニートハンマーのこのような友情にたいするヘーゲルの感謝が大きかっただけに、戦争が勃発して、送った原稿が期限内に出版者の手に渡ったかどうか、たいへん疑わしく思われた最後の瞬間には、ヘーゲルの状況はいよいよ厳しいものとなった。
 こうした事に関する書簡を抜粋して、ふつう興味深く感じられる範囲で、[以下で読者に] お伝えしたい。

(目次)

 「付録 K. ヘーゲルによるトラブルの説明」の訳注

(*1) ヘーゲルの子息 Karl Hegel による、ゲープハルトとのトラブルのこの説明は、Briefe von und an Hegel, 1887, Bd. 1, S. 62 に掲載されています。なお、冒頭の「以下のヘーゲルのニートハンマーへのいくつかの書簡」ということでまとめられている手紙は、1806-9-5, 9-17, 10-6, 10-8 付の4 通です。

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(*2) フロリーン・ライン(fl. rhein)は、この後に出てくるフロリーン(fl.)とおそらく同じ貨幣単位だと思います。
・フロリーン(Florin)は、グルデン(Gulden)のフランス名です。(相良守峯『大独和辞典』)
・グルデンは、「昔の金貨、のち銀貨」(相良守峯『大独和辞典』)であり、「(14 – 19 世紀に使われたドイツおよび近隣諸国の)グルデン金貨<銀貨>」(小学館『独和大辞典 第 2 版』)です。
・ 1 フロリーン(グルデン)が、当時どれほどの価値があったのかは、浅学ゆえ不明です。

(*3) この箇所の原文は:
 . . . er selbst (Niethammer) sich verbindlich machte, die ganze Auflage des Werks, soweit es bis dahin gedruckt war (21 Bogen), zum Preis von 12 fl. für den Bogen zu übernehmen . . .
 (Niethammer) の挿入は原文です。

(*4) この原文は:
 der Vertrag liegt unterzeichnet im Original bei.
 拙訳では im Original を、「(契約)原本に(署名された)」と解釈しました。Original を「オリジナルの手紙(手紙のコピーではなく)」と取るのは、むずかしいと思います。K. ヘーゲルが見たこれらの手紙は、当然のことながらオリジナルですから、それをここでことさら言うというのも変です。

(初出: 2014-8-1) 


付録 2. 1807-5-1 ヘーゲル → シェリング (S. 161f (*1)

   [手紙の前半は、省略します。]

 ぼくの本は、ようやくでき上がった。しかし、友人たちへ献呈本を送るにさいして、いまわしい混乱がまたしても起きてしまった。これと同じ混乱が、[本の] 出版と印刷の全過程を、しかもその上部分的には構成自体をも、支配したのだったが(*2)。そういうわけで、ぼくからの本は、まだ君の手に渡っていない。しかし、君がすぐにも受けとれるようにしたいと思っている。
 君がこの『[学問の体系] 第 1 部 [精神の現象学]』――これは本来は、[第 1 部ではなく] 導入部(Einleitung, 緒論)なのだが。というのも率直に言って(*3)、ぼくはまだ導入以上に出てはいないのだから―― の考え(Idee)に対してどう言うか、ぼくは知りたく思っている。
 ぼくの感じでは、[この本においては] 細部にまで入りこんだことが、全体を概観しづらくしているようだ。全体そのものはといえば、その性質上、あちらへ行ったり・こちらに来たり(Herüber- und Hinübergehen)の組み合わせなのだが、この全体がよりよく明瞭になりえるとしても、より明確で完成されたものへといたるまでには、なお多くの時間がかかるだろう。個々の箇所も自分のものとするには、なおいろいろな下準備が必要だということは、言うまでもないことだ。君もすぐにそう思うことだろう。あとの方の箇所がだいぶ不恰好なのは、とにかくイェナ会戦前日の夜中に書き終えたということで、大目に見てほしい。
 [『精神の現象学』の] 序文については、君は次のようには思わないだろう(*4)とりわけ君の [提示した] 諸形式をひじょうに損ない、君の学問を不毛な形式主義へと追いやった平板さに対し、ぼくがあまりにも好意的だったとは。
 ところで、君には言う必要もないことだが、[『精神の現象学』の] 全体の数ページでも君が賛同してくれるなら、これはぼくにとっては、他の人たちが全体に満足する/しないということより、重要なのだ。また、この本をむしろその人によって世間に紹介してもらいたいと望めるような人を、そして、この本についての判断さえもぼくに与えてくれることを望めるような人を、ぼくは [君以外には] 知らないのだ。

 では、お元気で。ニートハンマー家の皆さんによろしく――君たちのところに、皆さん無事着くものと思われます。そしてなかんずく君のご令室にも。

                                        君のヘーゲル

(初出: 2014-9-16)
(目次)

 「付録 2. 1807-5-1 ヘーゲル → シェリング」の訳注

(*1) このヘーゲルの手紙は、彼の『精神の現象学』が製本されて出版されだした頃、ミュンヘンにいるシェリングに出されたものです(ヘーゲルは 1807 年 3 月にバンベルクに移住)。やはり Meiner 社の 哲学文庫版 Briefe von und an Hegel (ホフマイスター(J. Hoffmeister)編。第 3 版、1969 年)に、159 - 162 ページに渡って収録されています。
 ここに訳出した部分は、『精神の現象学』に関係のある手紙の後半部分です。

(*2) この箇所の原文は:
 . . . die [= dieselbe unselige Verwirrung] den ganzen buchhändler- und druckerischen Verlauf, sowie zum Teil die Komposition sogar selbst beherrschte.

 混乱に支配された「構成自体」が、何を指すのかが問題です。ふつうは、次に述べられている「[叙述が] 細部にまで入りこんだこと」を指すと、考えられているようです。そのことによって、本の出版がまた遅れてしまったというわけです。しかしながら――
(1) 『精神の現象学』を見ますと、多くの箇所で「細部にまで入りこん」でいます。ところが、「構成自体」に起きた混乱は「部分的」だと、ヘーゲルは述べています――といいますのは、zum Teil (部分的)はその前の ganzen(全)と対比されているからです。つまり、出版と印刷における混乱が全過程をつうじてであるのに対し、構成自体に起きた混乱は部分的である(=多くの箇所ではない)というわけです。

(2) なるほど、叙述が細部に入りこんだことによって著作に時間がかかり、出版が遅れたことは事実です。しかしそれが、出版業者ゲープハルトとのトラブルと同様に「混乱」とまで言いえるかは疑問です。

(3) 細部にまで入りこんだことは、内容的な不備として述べられています。それによって、時間を大きく取られてしまったとは書かれていません。

 そこで、この構成自体の混乱とは、私たちの想定では 1806 年 4 月頃になされた論理学から『精神の現象学』への執筆内容の転換を指すと思われます。

(*3) 「率直に言って」の原語は、in mediam rem で手元の辞書には記載がありません。しかし、in medias res は「前置きは抜きで。単刀直入に」などとあります(小学館『独和大辞典 第 2 版』)。この resres の複数・対格ですが、それが単数・対格 rem に替わっただけの表現が、ここでの in mediam rem だと思います。

(*4) この箇所はヘーゲルも注意深く婉曲的に書いてますので、こなれた訳を目ざさず、直訳にしました。


  解 説

 はじめに
I.. 非は、出版社側?
II. 非は、ヘーゲル側?
III. 変則的事態の起きた可能正
IV. 考えられるトラブルの内容
V. 新契約の契約者は、ニートハンマー?
VI. まとめ:トラブルのたどった経過と、解決


 はじめに

 ヘーゲルは、1807 年に『精神の現象学』を出版しますが、その過程で出版社であるゲープハルト書店とトラブルに陥ります。このトラブルがいかなる事態であったのかは、ヘーゲルと同書店との契約書が失われていることもあり、はっきりしません。
  しかし、両者の間をヘーゲル側に立って調停したのは、ヘーゲルの先輩であるニートハンマーでしたが、このニートハンマーとヘーゲルとの往復書簡は、多くが公刊されています。そこから、トラブルの内容・経過を推測することは可能です。そのさい私たちとしては、事実として受けとれる事柄と、文脈が示唆しているとふつうは思われる状況を、読み分ける必要があります。そして前者だけを、採用すべきです。するとこれらの手紙の真実は、通念的な理解とは別のところにあると思われるのです。
 むろんこれらの手紙においてヘーゲルは、勘違いはあっても意図的にウソを書いたとは、彼の性格からして思われません。それに手紙の相手のニートハンマーには、出版社との仲介を頼むのですから、かりにウソをついたところですぐに分かってしまいます。しかし、まずいことをした子供がそのことを親に話すとき、ウソはつかないにしても、内容の取捨選択・順番・精粗などを按配するという事情が、私見ではこれらの手紙にもあるようです(例えば、1806 年 8 月 6 日付の手紙。また、同年 10 月 18 日付の手紙。以後、「H, 10-18」のように略記。なお、N のときはニートハンマーを指します)。

  このトラブルのありようを知ることは、ヘーゲルの『精神の現象学』の成立過程をうかがううえで重要ですし、ひいては彼の哲学体系における『精神の現象学』の位置づけとも関係します。そこで、当トラブルに関する両者の書簡を翻訳した次第です。

 なお、当時のヘーゲルの状況を理解するうえでの重要な背景として、1807 年 2 月 5 日の庶子の誕生があります(『ヘーゲル事典』、弘文堂、644 ページ)。ふつうに考えますと、彼がこれらの手紙を書いていたときには、庶子の母親が妊娠していることを、すでに知っていたことでしょう。そのことが、ヘーゲルの収入確保への焦燥(しょうそう)をかき立て、また人生全体への不気味な通奏低音をなしていたであろうことは――彼に結婚する気はなかったのですから――、想像に難くありません。

 またこのさい、私としてはゲープハルトの名誉回復をはかりたいとの願いもあります。彼は、ヘーゲルとニートハンマーの往復書簡でそれこそボロクソに書かれたおかげで、悪名を後世に残しました。歴代のご子孫は(おられた場合ですが)、じつに肩身の狭い思いをされたのではないでしょうか。
 そしてこれは個人的感慨なのですが――中学生の頃、迫りくるテストを気にしつつ、近視の度も強めながら、不安のうちにシャーロックホームズものを読みふけったのでしたが、当時の熱中が今またよみがえり、やはり人生に無駄なしとの古人の言が、思い出されてくるのでした・・・


I. 非は、出版社側?

 出版業者ゲープハルトとのトラブルがはじめて書かれた、ヘーゲルの手紙(H, 8-6)を読めば、ふつう次のような感想になります:
 「ヘーゲルは出版の契約を結んだが、性悪なゲープハルトのために、印刷は遅らされ、印刷部数も(そのため報酬も)減らされる結果となった」。
 しかし、そのように出版社側が一方的に悪いのだとすれば、私たちには理解しがたいことがいろいろ出てきます。
(1) まず、この手紙(H, 8-6)の文面についてですが――
 (i) 「彼 [ゲープハルト] とは今、私は手紙で言い争って(Diskussion)おり」と、ヘーゲルは書いています(H, 8-6)。この Diskussion というのは、「個人間の、彼らに関わる特定の問題についての論争(Auseinandersetzung)」(*1)ですが、論争の各当事者はそれなりの正当性を主張することが、前提となっているように思われます。非難と悪罵の応酬だけでは、Diskussion は成り立たないでしょう。
 そこでこの言葉がヘーゲルによって使用されたということは、ゲープハルトの側にも言い分があることを、暗示しています。だからこそヘーゲルは、ニートハンマーに「[両者の] 間に入って [調停して?] いただくことを、お願いしなければならないかもしれません」と、書いたのです。彼がヘーゲルの側に立って交渉するにしても、相手を一方的に非難して押しきれる状況ではないということです。
 むろん、ヘーゲルがこの件をニートハンマーに切り出したときには、「あの出版業者 [ゲープハルト] を正してくれるよう、お願いするところでした」と書いています。これは、ヘーゲルには自分が正しいという言い分があるのですから、彼の観点から相手が間違っていると主張しているわけで、それによってニートハンマーの同情をえ、加勢してもらうつもりなのです。

 (ii) ゲープハルトが「・・・自分の好きなように行うのです」と、ヘーゲルは悪口を書いたあと、その文にダッシュ(――)を付けて、印刷状況の説明に移ります:「印刷は、2 月に始まりました。そして、もともとの(ursprünglichen)契約では、この部分は復活祭の前にでき上がるはずでした・・・」。
 ここで読者は、ゲープハルトはひどい奴だ、「自分の好きなように」契約に違反したことをしている、と思うはずです。
   (a) しかし、「契約では・・・復活祭の前にでき上がるはず」だったのに、できなかったとすれば、これは明らかにゲープハルト側の契約違反ですから――このように書く以上、ヘーゲルはゲープハルトに原稿を渡していたはずですので――、ヘーゲルはニートハンマーに調停を頼む必要などはないはずです。裁判所に行けばいいわけです。そこで、ここにはまだヘーゲルによって書かれていない事情が、あるはずです。

   (b) また、なぜ「契約」の語に「もともとの」という形用語が付いているのでしょうか? ふつうは、たんに「契約(der Kontrakt)」ないしは「私たちの契約」と書くはずです。その理由としては、後述するように、もともとの、つまり最初の契約が仮定していたものとは違う状況に、なっている可能性があります。

 (iii) ヘーゲルは、ゲープハルトが「印刷部数を 1000 部から 750 部に引き下げ」、これからもさらに引き下げることを心配しています。しかし、最初の契約には、印刷部数やそれと連動するヘーゲルへの報酬の取り決めがあったはずです。それの変更を、欲深いゲープハルトが、正当な理由もなく強要したり、こっそりと行うというのであれば、これは彼が一方的に悪くて契約違反です。
 しかし、手紙には「契約違反」だとか、「契約の順守」といった言葉は出てこず、かえってニートハンマーに「彼の印刷所から表立てずに(unter der Hand)聞いてみてください」などと、用心した行動をお願いしています。

(2) 一般的に、出版社が相手の不利益になるような契約変更を求めれば、それは出版社の信用問題になります。ヘーゲルは無給の員外教授とはいえ大学の先生ですから、ゲープハルトも自分からトラブルは起こしたくないはずです(これは、学問・学者を尊重するといったことではなくて、・・・ですね)。
 その上、ヘーゲルはニートハンマーの紹介による客でした。ニートハンマーはといえば、かつてヴュルツブルク大学で教授兼聖職者を務め、大学と教会関係 2 つに顔が効き、現在は地方行政顧問官というえらいお役人さんです。そのような後ろ盾をもつヘーゲルを、駆け出し小書店(おそらく彼と、使用人 1~ 2 人)のゲープハルト氏としては、正当な理由もなく不快な目にあわせることは、ふつうしないでしょう。
 仮に出版社があくどいことをするにしても、相手の無知につけこんで、あるいは足もとを見て契約時に買いたたくのであって、契約後に契約内容の変更を強要するというものではないと思います。

(3) ニートハンマーは仲介に入り、ゲープハルトとの一応の取り決めが文書としてまとまった翌日、ヘーゲル宛に「[ゲープハルトと] 決裂という事になったとしても、今後私たちは、すくなくともその責任を負わされることはないでしょう」と、書いています(N, 9-12,)。
 これは、「昨日 [取り決めたところ] の文書」以前であれば、つまりもともとの契約に従えば、ヘーゲルにトラブルの責任が生じる可能性もあったことを暗示しています。

(4) ヘーゲルの子息 K. ヘーゲルは、彼が編纂した『ヘーゲル往復書簡集』(1887年)の説明で、その『往復書簡集』や残された書簡には記載されていない事実――たとえば、最初の契約ではヘーゲルに支払われる「ボーゲン 1 枚につき 18 フロリーン・ライン」の報酬や、ヘーゲルの主張に対するゲープハルトの異議の内容など(付録 1.)――も、述べています。彼は、事情を詳しく知っていた可能性があります。その彼が上記の説明においては、ゲープハルトを非難するようなことはしていないのです。また、父親の正統性も主張していません。

(5) 上記の K. ヘーゲル によるトラブルの説明では、ゲープハルトは印刷を遅らせたにもかかわらず、再契約での解決はゲープハルトに有利であったような印象を与えます。再契約では、
 「ゲープハルトの側は、期限内に原稿が [ヘーゲル側からすべて] 引き渡されたときには、著作の半分だと推定される印刷ボーゲン(Druckbogen) 24 枚分の報酬を、その後 2回に分けて払うことを約束した」
とあります。しかし最初の契約でも、「著作の半分が印刷された後で」ゲープハルトはその分の支払いをする、ということだったのです。しかも再契約では、原稿提出の締め切りが設定され、それが守られなかった場合、巨額の違約金までもがヘーゲルの代理者ニートハンマーに課せられます。
 なぜ、こうした再契約になったのでしょうか。8 月 6 日付手紙の出版された部分には書かれていない事情が、また K. ヘーゲルが述べはしなかった事情があるのでしょう。

 こうして、ゲープハルト側が一方的に悪かったとは、推定しにくいといえます。


II. 非は、ヘーゲル側?

 しかし逆に、ヘーゲルの側が、
(1) 最初の契約に単純に違反したとか(例えば、期日までに原稿を提出できなかった)、
(2) 最初の契約の修正を求めたのであれば(例えば、稿料の割増や印刷部数の増加)、
彼がゲープハルトを、あのように激しく非難するはずもありません。


III. 変則的事態の起きた可能性

 そこで考えられることは、最初の契約後になにか変則的事態が起きてしまい、それへの対処の仕方が、利害もからんで両者でくい違ったのではないかということです。
 ヘーゲルはニートハンマー宛手紙で、「[ニートハンマーからの手紙に] 示されていますゲープハルトとの関係の導入につきましては、たいへん感謝いたしております」と、書いています(H, 9-5)。このゲープハルトとの関係(. . . der Verhältnisse mit Göbhardt)は、ニートハンマーによって導入(Einleitung)されるのですから、最初の契約とは異なるところの新規の契約でしょう。それにヘーゲルが賛成しているということは、最初に仮定されていた状況ではなくなっており、一方的にゲープハルトを責めることもできないことを、ヘーゲルは認識していたと思われます。

 では、どちらに変則的事態が起きたのかが問題ですが、もしゲープハルトの側であれば、
(1) ヘーゲルは 1806-8-6 付の手紙、ないしはその後のニートハンマー宛の手紙に、しかるべく書いたと思います。例えば:「ゲープハルトは・・・などという取るに足らぬ理由で、契約内容の変更を私に求めるのです。云々」。

(2) また、一度結んだ契約を出版社が変更するというのは、通常はよくよくの事情がある場合でしょう。例えば、印刷所に火災が発生したとか、印刷工が病気などで足らなくなってしまったとかです(むろん、そのような事を口実にして、より利益になる仕事を優先させる可能性もあります)。そして、そのような場合には、通常はお詫びや代償が、著者に提供されるはずです。

 でも書簡集からは、そうした事があったようには見えません。そこで、ヘーゲルの側に何かが起きたのでしょう。その時期ですが――
・「印刷は、2 月に始まりました」(H, 8-6)とありますから、1806 年の 2 月の何日かまでは、最初の契約にそって事態は進行していたようです。
・「この部分は復活祭の前にでき上がるはずでした」の「この部分」とは、2 月に印刷され始めた部分だと考えていいでしょう。するとこの始めの部分が、予定どおりの「復活祭 [3 月末から 4 月] の前に」、でき上がらなかったことになります。
 したがって、2 月のころから 4 月にかけて、変則的事態がヘーゲル側に起きた可能性が高いようです。 1806-8-6 付の手紙が与えようとしている印象――ゲープハルトが勝手に印刷を遅らせている――に、惑わされてはいけないと思います。
 ゲープハルトとしても印刷は他の会社に委託しているので、ヘーゲルから予定外の要請があった場合に、すぐに応じられるというものでもなかったでしょう。無名で、売れそうにもない本を書いているヘーゲルのために、印刷会社と再調整(期日、支払など)しなければなりませんし、そうした話を印刷会社に持っていくというのも、しんどいことです。


IV. 考えられるトラブルの内容

 ヘーゲル側に何が起きたかを示す資料は、残されていないようです。しかし、たんに著作の内容が変わった――例えば最初、論理学の緒論を書いていたのが、長大になってしまい、結局は「精神の現象学」の内容になったなど(*2)――くらいでは、彼とゲープハルトの間で問題とはならなかったでしょう。ゲープハルトにとっては、もっともらしい内容であれば何でもよかったはずで、それがトラブルを引き起こしたとは考えにくいです。

 私たちの推測では、ヘーゲルは最初「論理学」の始めの部分の原稿をゲープハルト書店に渡し、活版も組まれていたのでしたが、その後で『精神の現象学』に切りかえたために、ゲープハルトとの間でトラブルが起きました。おそらく、ヘーゲルが差し替えのために提出してきた『精神の現象学』原稿を、受容しなかったのでしょう。そこから、「(ゲープハルトは)私 [ヘーゲル] が書いたものを無視はする」(H, 8-6)という文言になったのだと思われます。出版社が著者の原稿を無視するなどということは、ふつうは考えられません。
 最初は「論理学」が書かれていたと推測する主な理由は、次の 2 つです:
(1) ヘーゲルの 1806 年・夏学期講義の告示(おそらく 3 月(*3))は、「・・・b) 思弁哲学すなわち論理学を、まもなく出版される自著『学問の体系』にもとづいて・・・」講義するでした(Briefe von und an Hegel, Bd. 4, Teil 1, 1977, S. 82)。

 この大学側の講義告示についてですが、
・1805 年度の夏学期と冬学期の講義告示はこれとは異なっていますので、大学側がうっかりして前年度の告示を 1806 年度の夏の告示にも使ってしまったということはありません。
・また、ヘーゲルはいい加減な気持ちで講義内容を提示していたのでもないようです。彼の真剣さが分かる例としては――
 ラテン語の講義告示を、『イェナ文芸新聞』はドイツ語に短縮・編集して、掲載していました。1806 年度・夏学期の告示中の mentis の語は、menschlichen Verstandes (人間の悟性)に翻訳されていました。それの des Geistes (精神)への「訂正(Berichtigung)」が、3 月 22 日発行日付の同新聞に掲載されたのです(Briefe von und an Hegel, Bd. 4, Teil 1, 1977, S. 311)。ヘーゲルがこの新聞公告を見て、訂正を要求したのでしょう。

 したがって、上記の「まもなく出版される自著『学問の体系』にもとづいて」、「思弁哲学すなわち論理学を」講義するというのは、1806年 3 月時点における――あるいは、講義内容を大学側に提出したのが 2 月であれば、2 月時点の――ヘーゲルのはっきりとした意図でした。ここには「精神の現象学」の文字はなく、自著の題は「学問の体系」であり、その内容は論理学であることが明瞭です。

(2) 『精神の現象学』のもともとの「中間タイトル」(1806 年 2 月頃の活版で印刷された?)は、「第 1 部 意識の経験の学問」でした。つまり、<この本は、著者ヘーゲルの哲学体系の 第 1 部なのであり、意識の経験を扱っている学問である>ということです。
 そして『精神の現象学』が現われるまでは、
・ヘーゲルの体系の第 1 部は「(イェナ期の)論理学」でしたし、
・また、「意識の経験」というのも「論理学」のことだと思われます。(このことについては、ここを参照して下さい。)

 ところが、3 月末か 4 月頃、ヘーゲルは著作を『論理学』から『精神の現象学』に変更する決心をします(*4)。そしてすぐに、ゲープハルトに内容の変更を通知して、すでに組み上がっている活版も(*5)、特定の箇所以降は崩して(*6)、内容を差し替えるよう求めたと思います。ヘーゲルにすれば、組み上がった活版のうちのいくらかを崩しても、それは校正による修正の延長といった感覚だったのかもしれません。
 しかし、ゲープハルトにしてみればこれはとんでもない話です。もしそうなれば、彼が印刷会社のラインドル(*11)に対して、賠償金を払うという事態にもなりかねません。そこで彼は、ヘーゲルの要求を拒絶したのでした。例えば、<組み上がった活版はそのまま使い、ヘーゲルが内容を変更するのであれば、それから後の原稿でしてもらいたい>などのようなことを、主張したと考えられます。
 仮にヘーゲルが、活版を一部崩すことの賠償金を払ってこの場をのり切ろうとしても、払える金は彼にありませんでした。ゲープハルトの側としては、ヘーゲルに支払うべき稿料から賠償金の額を差し引くという方法では、危険すぎます。無名の学者の処女出版が、この先計画通りに運ぶかどうかは不確定ですから。このような事態は契約書には仮定されておらず、おそらく則(のっと)るべき慣例もなかったのではないかと思います。こうして事態はこう着し、「[5 月の] 講義の始まる前まで」にその部分ができ上がらなかったのでした。

 しかしながら、ここで疑問がおきます。私たちの想定するように、著作が『論理学』から『精神の現象学』へと変わったときの不都合が、トラブル発生の理由であるならば、なぜ K. ヘーゲルは彼の「説明」において、そのことに言及しなかったのでしょうか?
 おそらくヘーゲルは、ニートハンマーへの例えば 8 月中旬/下旬の手紙で、その事を知らせたと思います。K. ヘーゲルはそれを読んだはずですから、活版の取り崩しなどの件があれば、その事を知ったはずです――
 なるほど、ここまではそのように考えられます。しかし、K. ヘーゲルの「説明」を見ますと、全体で半ページあまり(1887 年版の Briefe von und an Hegel で)の短いものなのです。そこでは彼は、ヘーゲル側から見たトラブルの直接の原因(印刷の遅れと、報酬の未払い)については書きましたが、それにいたった理由については、言及する気がなかったと思われます。
 そもそも K. ヘーゲルがトラブルに関する手紙を公刊したのは、「ふつう興味深く感じられる範囲」においてでした。著作の内容が途中で変わり、組んでいた活版が云々という事実などは、歴史家だったかれの興味を引きはしなかったでしょうし、これらの事実を伝えたところで一般読者も同様だったでしょう(これについては、「テキストについて」の (2), (iii) も参照ください)。当時は『精神の現象学』の成立史への問題意識などというものは、ほとんどなかったと思われます(今でもだいぶマイナーな、好事家的分野ですが)。

 こうして、
・著作の最初の部分の活版制作でもつれ、
・また、「著作の半分が印刷された後での支払いが要求されていた報酬」も、ヘーゲルに支払われないままでした(K. ヘーゲルによる「説明」)。
・他にも、ヘーゲルには出版部数がはっきりせず、
・報酬額の問題も解決していなかったようです(H, 8-6)。
 感情的な確執も絡まって、事態は「もつれた(verwirrt)問題」(H, 10-8) へと発展したのでした。
 かくして ニートハンマーが、仲介に乗り出すことになります。


V. 新契約の契約者は、ニートハンマー?

 さて、ゲープハルトとのトラブルの解決に向けてニートハンマーが尽力し、ヘーゲルも「ゲープハルトとの [新しい] 関係の導入」に賛成したことによって(H, 9-5)、「ゲープハルト氏との完全な和議の締結を」みることに(N, 10-3)なります。
 この和議による新契約においては、ヘーゲルの原稿が締切日までに渡されなかったときは、ニートハンマーが 252 フロリーンをゲープハルトに支払うという、「英雄的な仲介」(H, 10-8)がこれまで注目されてきました。しかし、注意すべきはむしろ、「あとは貴方 [ヘーゲル] が原稿を遅れずに私 [ニートハンマー] に送ることだけが問題です」(N, 10-3)という奇妙な文の方でしょう。なぜヘーゲルは原稿を、直接ゲープハルトに送るのではなく、ニートハンマーに送らねばならないのでしょうか。
 ニートハンマーが、ヘーゲルの完全な代理人を務めることになったとも考えられます。なるほど、現金の授受などについては、代理人を通すのは納得できます。例えば、ヘーゲルはゲープハルトからの支払いについては、彼に直接連絡を取ろうとせず、ニートハンマーを通しています(*7)。しかし、原稿をニートハンマーに送り、彼がゲープハルトに渡すというのでは、ヘーゲルはなにか部外者であるかのような感じです。
 そして、ヘーゲルのニートハンマーへの手紙においては、ヘーゲルが新しい契約に同意したことをゲープハルトに知らせたとか、署名した契約書を彼に送ったとか、とにかくヘーゲルがゲープハルトと何らかの連絡をとったことが、書かれてはいないのです。ゲープハルトとの新契約では、ヘーゲルの登場する場がないかのようです。そこで新契約は、ニートハンマーとゲープハルトとの間で結ぶ形をとった可能性があります(*8)

 K. ヘーゲルによるこのトラブルの「説明(*9)も、ニートハンマーが契約者になったことを示しているようです。この説明には、「ニートハンマーは、この手ごわい出版者と実りのない交渉をしたあとで、ようやく英雄的な仕方でもって、1806 年 9 月 29 日にこの出版者と契約を締結することができたのである」とあり、ニートハンマーがゲープハルトと契約をしたようになっています(*10)
 そして、その後の契約内容の説明においても、説明最後の「・・・払うことを約束した」まで、ヘーゲルの名前は出てこないのです。なるほど「著者(Autor)」なる語は、実質的にはヘーゲルのことですが、ここではたんに原稿の制作・提供者という抽象的な意味しかもっていません。誰であってもかまわないわけです。
 このような文章の流れからいって、「・・・払うことを約束した」の直後の文、「署名された契約原本が、[手紙に] 添えられている」における署名者とは、ゲープハルトとニートハンマーの可能性が大きいといえます。契約の署名者は契約の当事者ですから(むろん、代理人を立てた場合には、代理人も署名しますが)、このことからもニートハンマーが、たんなる代理人の域をこえて、契約者だったように思います。

 その方がゲープハルトとしても、都合がよかったでしょう。ニートハンマーは同じ町に住む名士で、信用がおけます。ニートハンマーが払うかもしれない 252 フロリーン(= 12 フロリーン x ボーゲン 21 枚)も、ヘーゲルの違約金の担保ではなく、直接ニートハンマーの違約金であった方が、確実・迅速なものとなります。

 かくして新契約では、ヘーゲルという不確実性は、取り除かれてしまったのでしょう。私たちとしては、この不確実性を包含してしまったニートハンマーの運命やいかに、というところです。(結局ヘーゲルは、H, 10-18 で明らかになったように、原稿の最終締切りを守れなかったのでした。)


VI. まとめ:トラブルのたどった経過と、解決

 以上をまとめますと、『精神の現象学』の出版をめぐるトラブルは、あくまで蓋然性が大きいと思われる 1 つの推測にすぎませんが、以下のような経過をたどったことになります:

(1) 1806 年の 1 - 2 月に、『論理学』の「緒論」と、本文の最初の部分の原稿を、ヘーゲルはゲープハルト書店に渡す。

(2) 2 月に、その部分の活版制作が始まる。

(3) 3 月末か 4 月頃、ヘーゲルはゲープハルトに内容の部分変更を通知し、すでに組み上がっている活版も、特定の箇所以降は崩して、内容を差し替えるよう求める。

(4) ゲープハルトは、その指示を拒否する。その結果、8 月になっても、 2 月に印刷(植字)に入った、最初の部分の活版は完成しない。

(5) ゲープハルトは、著作の半分への報酬をヘーゲルに支払うことを拒否する。また、ヘーゲルは報酬額や、出版部数に満足できないまま、事態は紛糾する。

(6) ヘーゲルの 8 月 6 日付の手紙により、ニートハンマーが、仲介に乗り出す。

(7) 「ニートハンマーは、この手ごわい出版者と実りのない交渉をしたあとで、ようやく・・・ 9 月 29 日にこの出版者と契約を締結することができた」(K. ヘーゲルの「説明」。

(8) この新しい契約の特徴は:
・ゲープハルトとの契約者が、ヘーゲルからくニートハンマーに替わった。
・原稿が期限までにゲープハルト側に渡されないときは、ニートハンマーがすでに印刷された全部数(Auflage)の代金を払う。
・ヘーゲルは、ゲープハルトの最初の主張通り、全原稿を引き渡すまでは、報酬を得ることができない。

(9) 結局ヘーゲルは、期日の 10 月 18 日 までには原稿すべてを引き渡すことができなかった。

(10) しかし、どうにかなったのか、あるいはニートハンマーがどうにかしたのか、翌 1807 年「 4 月上旬『精神現象学』の印刷が完成する」(『ヘーゲル事典』、弘文堂、平成 4 年、644 ページ)。


 解説の注

(*1) Duden Deutsches Universalwörterbuch, 6. Aufl.

(*2) 「緒論」が拡大・膨張して『精神の現象学』になったという説について、一言すれば――
(1) それが論理学の「緒論」の場合には:
 なるほど、『精神の現象学』の緒論(Einleitung)は、もともと論理学の緒論だったということは納得できますが、その次の「感覚的確信」や「知覚」の章の内容も、論理学の緒論の延長だったと見なすのは困難です。

(2) ヘーゲルの哲学体系全体の「緒論」の場合には:
 彼の 1806 年・夏学期講義・告示の原稿が書かれたのは、同年の 2 月下旬から 3 月上旬です。((2) 略記号の(BH-JL)の項目と、1806 年の「ヘーゲルの夏学期・講義(1806 年)の告示は(1806-3-10: BH-JL, 311)」を参照)。
 その頃には、体系全体の「緒論」も相当な分量になっていたことでしょう。この「緒論」は、思弁哲学(論理学)には属さず、別のものとして分類されます。すると夏学期講・義告示は、思弁哲学(論理学)だけに言及するのではなく、「緒論」をも(あるいは「緒論」だけを)取りあげたものになったと思われます。例えば、「b) 全学問 [=哲学] 体系への緒論、および論理学を、まもなく出版される自著『学問の体系』にもとづいて」、あるいは、「b) 全学問体系への緒論を、まもなく出版される自著『学問の体系』にもとづいて」などです。

(*3) 1806 年・夏学期の講義公告を掲載した『イェナ文芸新聞』は、3 月 10 日の発行日付になっています(Briefe von und an Hegel, Bd. 4, Teil 1, 1977, S. 311)。

(*4) 変更することに決心した理由としては、以下のようなことが考えられます:
(1) イェナ大学からまだ定まった給与を得ていないヘーゲルとしては、この処女作はなんとしても売れなければ(次の出版につなぐためにも)、という思いがあったことでしょう。しかし後のいわゆる『(大)論理学は』、既成の論理学用語を利用しながら論述されていますが、イェナ期の論理学は、1804 - 1805 年に書かれた清書草稿(いわゆる「イェナ期・体系草稿群 II 論理学・形而上学・自然哲学」)に見られるように、<自家製>の論理学なのです。
 これでは一般受けしないばかりか、ヘーゲルの受講者に半強制的に買わそうとしても、無名学者の自家製ではきびしいものがあります。そこで、分かりやすく比喩的に言えば、純文学の私小説から、大衆文学へ、あるいはむしろ新国劇へと変更したのでしょう。(この比喩は我ながら当をえたものだと思うのですが、ただ難点は、ご高齢の方以外には理解しにくいことです。しかしここで、「純文学」「私小説」「新国劇」などを説明しだすと、価値観の問題もあって泥沼になりますので、端折らせていただきます。)

(2) 1806年の 3 月末から 4 月にかけて、フィヒテの講義集『幸いなる生への導き』が出版されます。その第 5 講義では、5 つの世界観が述べられています。このことが、ヘーゲルが著作の内容変更を決心する引きがねに、なったと考えられます。
 その傍証として、『講義集』の「内容目次(Inhalts-Anzeige)第 3 講」には、『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」で有名になった Stationen (「参詣所」の複数形)という宗教用語が、登場していることが挙げられます。フィヒテの『講義集』からの影響については、こちらを参照いただければと思います。)

(*5) 『論理学』のどこまでの内容の原稿が、活版に組まれていたかということですが、最初の「緒論」と、本文冒頭の「I. 単純な関係 A. 質」とであった可能性が考えられます。といいますのは――
 ヘーゲルが『論理学』を出版しようとすれば、1804 - 1805 年に書かれた清書草稿(いわゆる「イェナ期・体系草稿群 II」の論理学)をもとにして、原稿を書くと考えるのが自然です。そこでこの草稿の論理学の部分を Meiner 社の哲学文庫版(Bd. 332, 1982)で見ますと、冒頭の「I. 単純な関係 A. 質」は、最初が失われており、4 ページ余り(哲学文庫版で)が残っているだけです。
 そこで、考えられることは:
(1) ヘーゲルは「I. 単純な関係 A. 質」すべての原稿を、ゲープハルト書店に渡したが、

(2) ボーゲンに相当する活版を組むさい、前記の 4 ページ余りの活字が組まれた活版は、その後の、例えば 10 ページ分くらいが空白になってしまったので、校正用の印刷をしなかった。したがって、ヘーゲルに渡した校正用印刷は、その前の活版までであった。

(3) 校正用印刷を受けとったヘーゲルは、それに相応する草稿は破棄したが、まだ印刷されていない草稿部分(前記の 4 ページ余り)は、残しておいた(自分が何を書いたかを知る必要がありますし、印刷所で事故があれば、印刷されていなかった部分を回復するすべはありません)。

 このような可能性があるため、「I. 単純な関係 A. 質」の原稿が 2 月からの印刷(植字と校正用印刷)に回っていたと思うのです。

(*6) でき上がった活版すべてを崩すというのは、いくらなんでも無理だったでしょう。それに、最初から書き直すのは、ヘーゲルにとっても大変です。そこで、論理学の緒論の多くは『精神の現象学』の緒論(Einleitung)へと転用されたと思います。
 『精神の現象学』は、学問以前の自然な意識が、学問へと高まる道程を扱った書物です。しかしその緒論は、学問が真理を把握できるかどうかということが論じられて学問論になっており、いかにも不調和です。その理由は、この緒論が本来は論理学(=哲学(学問)体系の第 1 部=意識の経験の学問)の緒論だったからでしょう。

(*7) 例えば:
 「[ゲープハルトが稿料として] いくらかのお金を私に送ることができるということを、貴方 [ニートハンマー] がお聞きになりましたときには、送って下さることをすぐにも切にお願いすることになります」(H, 10-13)。
 「結局のところ、貴方 [ニートハンマー] にお金を、たとえ 6 – 8 カロリーン(Carolin)でも、送って下さるようお願いすることになります。ゲープハルトから得ていただくのがよいとは思いますが、たとえ彼から得られる見込みがなくとも・・・」(H, 10-18)。

(*8) 契約者がヘーゲルからニートハンマーに代わることを、ヘーゲルが承認したことを示すのが、彼の 1806-9-5 付手紙の冒頭部分だと思います:
 「尊敬する友人である貴方からのお手紙、およびそこに示されていますゲープハルトとの関係(Verhältnisse)の導入につきましては、たいへん感謝いたしております。そして貴方のご要望には、すべて同意いたします」。

 つまり、この「[新しい] 関係の導入」が、契約者変更のことだと思います。稿料や印刷部数といった個別的な事柄ではなく、(契約)関係がここでは言及されているのでしょう。
 なお、ニートハンマーが「関係」を導入せざるをえなかったのは、ヘーゲルの訴えを 8 月 6 日付の手紙で聞いて以来、長い間「手ごわい出版者と実りのない交渉をした」(K. ヘーゲルの「説明」)ためでしょう。

(*9) Briefe von und an Hegel. Hrsg. von K. Hegel. Bd. 1. 1887. S. 62.

(*10) K. ヘーゲルが、直接契約書を読むことができ、したがって契約者を知りえたことは、説明文中の「(署名された契約原本が、添えられている)」という箇所から明らかです。

(*11) 原文は Reindl。(Briefe von und an Hegel, Meiner 社の哲学文庫版、第1巻、Bd. 1, S. 461, Anm. 67)

(初出:2013-9-10) (目次)


  テキストについて

(1) 今回翻訳したヘーゲルのニートハンマー宛手紙はすべて、オリジナルが失われています。現在もっとも信頼できる Meiner 社の 哲学文庫版 Briefe von und an Hegel (ホフマイスター(J. Hoffmeister)編。第 3 版、1969 年)も、これらの手紙については、ヘーゲルの子息カール・ヘーゲル(Karl Hegel)が 1887 年に編纂した Briefe von und an Hegel に拠っています(*1)。つまり、「不完全な K. ヘーゲルによる初版の、再印刷」となっています(各手紙の編集者注の冒頭)。

(2) K. ヘーゲルの 1887 年版は、ゲープハルトとのトラブルに関する手紙―― 1806-9-5, 9-17, 10-6, 10-8 付の4 通――については、「こうした事に関する書簡を、抜粋して、ふつう興味深く感じられる範囲で、[以下で読者に] お伝えしたい」という編集方針をとっています(*2)。この「抜粋して(auszugsweise)」というのは、
 (i) まず、手紙をより分けるという意味があります。
 拙稿の「往復書簡と一覧表」で、「紛失」と記したすくなくとも 4 通の手紙が、公刊されていません。

 (ii) 1 通の手紙のなかで、内容をより分けることも意味したようです。
 原文で記号「. . . (・・・)」で示された部分は、K. ヘーゲルによって省略されたのでしょう。

 そして、「興味深く感じられる範囲で」ということで、
 (iii) 事務的に煩雑な部分は、とり除かれています。
 K. ヘーゲルによって採録されたヘーゲルの手紙は、いずれもゲープハルト書店とのトラブルが記されているだけでなく、知人たちやイェナの様子が描写されており、当時の読者には(とりわけ関係者の子孫には)さぞ興味深かっただろうと思われます。
 それに対し、ほぼトラブルの具体的状況だけが記されていたと思われる、前記の 4 通は、一般読者の興味を引くことは考えられないのでした。当時、『精神の現象学』の形成史といったことが問題になることも、ほとんどなかったでしょう。その上、K. ヘーゲルは哲学者ではなく、歴史家でした。

 (iv) 同時に、父ヘーゲルを傷つけるような、あるいは家名を汚すような箇所は掲載しないという、含みがあるのかもしれません。

 こうして、私たちがヘーゲルの手紙によってトラブルの事情を知ろうとしても、大きな制限および不確定な部分が残ります。とはいえ、高名な歴史家だったK. ヘーゲルが、文章を潤色したり虚偽を加えるとは思えないので、公刊されているものについては信頼できると思われます。


 「テキストについて」の注

(*1) K. ヘーゲル編の Briefe von und an Hegel を閲覧する仕方については、「付録 K. ヘーゲルによるトラブルの説明」の訳注(*1)を参照くだ下さい。

(*2) K. ヘーゲルの「説明」を参照。


  人物紹介 (*1)

ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)
 ヘーゲルは懸案であった初めての本を出版するために、1805 - 1806 年の冬に出版社のゲープハルト(Goebhardt)書店と、出版契約を結びました。この書店にしたのは、「ニートハンマーの斡旋(あっせん)によって」だったようです(*2)
 しかし、やがてこの書店主ゲープハルトとの間で、トラブルが生じます。このことが私たちに初めて明らかとなるのは、彼の 1806年 8 月 6 日付ニートハンマー宛手紙によってです。
 ところでヘーゲルは、1801 年以来イェナ大学で講義していましたが、前記手紙執筆時には、まだ無給の員外教授です。つまり、大学から一定の給与を支払われるのではなく、自分の講義に集まった学生の授業料(の一部?)が収入になるという、不安定な身分でした。前月(7 月)に、はじめて大学から 100 ターレルの小金を受けとっていますが、なお財政的には苦しい状況でした。
 来年 2 月上旬には庶子が誕生していますが、当サイトで翻訳した手紙執筆時には、おそらく誕生を予知していたと思われます。そこでいよいよ収入の確保が、喫緊の課題となったはずです(庶子の母親もしばらく働けなくなるので、その間の生活費も必要だったでしょう)。

ニートハンマー(ニートハマーとも表記。Friedrich Immanuel Niethammer, 1766 - 1848)
 ヘーゲルとは同郷(ヴュルテンベルク, Württembertg)・同学(テュービンゲン神学院, Tübinger Stift, 「神学院」は神学校、大学とも訳されます)の先輩です。「ヘーゲル詳細年譜」(*1)の 1789 年 9 月 19 日には、「卒業する 4 歳年長のニートハンマーを囲み、懇親会を催す」などとあります。手紙では、2 人は互いに礼節の距離を保った Sie (貴方)を使っています。(ちなみに、ヘーゲルとシェリングは 5 才差ですが、気の置けない Du (君)で書いており、表現もまったく対等です。)
 ヴュルツブルク(Würzburg)大学で教授兼聖職者などを務めた後、このヘーゲルの印刷問題が起きたときには、バンベルク(Bamberg)に在住し(*3)、地方行政顧問官(Landesdirektions Rat)でした。その後、同「1806 年 ミュンヘンに赴いて学務・宗務関係の高級官僚となる」(「ヘーゲル詳細年譜」)。
 ゲープハルト書店はバンベルクにありましたし、ニートハンマーは出版社との交渉は慣れていたはずですので(*4)、ヘーゲルにとっては絶好の人が、まさにいい時・いい所にいたのでした。

ゲープハルトJoseph Anton Goebhardt また Göbhardt とも。1813 年死亡)
 1807 年に出版された『精神の現象学』の出版を請け負った、ゲープハルト書店(書肆(しょし)とも表記)の社主です。書店といってもいわゆる本屋さんではなく、出版社です(例えば岩波書店の「書店」)。バンベルク(Bamberg)とヴュルツブルク(Bürzburg)に店舗がありましたが、ふだんはバンベルクにいたようです。(両市は直線距離にして70 km くらいです。バンベルクとヘーゲルのいたイェナは 120 km)。
 なお、印刷は別会社に委託する(下請けにだす)という方式を取っていました。同書店の実際の活動時期は 1804 - 1811 年と短かかったようですが、疫病神のようなヘーゲルのせいで、シューベルトの作曲原稿を断った出版社などと同様、歴史に悪名を残すことになりました。

カール・ヘーゲルKarl Friedrich Wilhelm von Hegel, 1813 - 1901)
 ヘーゲルの嫡子で、「高名な歴史学者・政治評論家でエアランゲン大学教授となった」ようです(『ヘーゲル事典』、弘文堂、平成 4 年。「ヘーゲル家」の項目)。
 1887 年に父ヘーゲルの往復書簡集を編纂(へんさん)し、Briefe von und an Hegel (全 2 巻)を出版しました。この中の第 1 巻、62 ページに、『精神の現象学』の出版をめぐるトラブルの説明があります。
 (ドイツ語版 ウィキペディアの Karl von Hegel

(目次)

 「人物紹介」の注記

(*1) 「ヘーゲル詳細年譜」(『ヘーゲル事典』弘文堂、平成 4 年)を参照しました。

(*2) Th. Haering: Die Entstehungsgeschichte der Phänomenologie des Geistes, in „Verhandlungen zum Dritten Hegelkongreß“, 1934, S. 122 を参照。
 Th. Haering が「ニートハンマーの斡旋によって」と述べる典拠は不明ですが、おそらくそうでしょう。といいますのは、ニートハンマーに出版トラブルを報告した最初の箇所(H, 8-6)で、ヘーゲルは、「もし貴方が 4 週間前にバンベルクにいらっしゃれば、あの出版業者を正してくれるよう、お願いするところでした・・・」と切りだしています。
・「あの出版業者」で、ニートハンマーには十分話は通じたのです。なるほどニートハンマーは、ヘーゲルからの前便(H, 5-17)をゲープハルトを介して受け取っていますが――「親愛な友である貴方 [ヘーゲル] のお手紙は、昨日ゲープハルト氏によって私に届けられました(N, 5-26)――、それだけの接触であれば、「あの出版業者」と書かれれば面食らったことでしょう。

・また、ニートハンマーがゲープハルトを斡旋したからこそ、ヘーゲルはいささか唐突・ぶしつけに、「あの出版業者を正してくれるよう、お願い」できたのだと思います。

 そしてヘーゲルが、「そのうち機会があるでしょうが、何部印刷されたのかを、彼 [ゲープハルト] の印刷所から表立てずに聞いてみてください」(H, 8-6)と書いたのも、ニートハンマーがゲープハルトと今もって交渉がある(とヘーゲルが考えている)ためでしょう。

(*3) したがって、小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』(日清堂書店、昭和50年)で、1806-8-6 付のヘーゲルのニートハンマー宛手紙を、「四週間前にバンベルクに [貴方=ニートハンマーが] 来られたのでしたら・・・」(66 ページ)と訳しているのは、不適切です。原文は:
 . . . wenn Sie vor 4 Wochen im Bamberg gewesen wären,. . .
 そこで、「来られたのでしたら」ではなく、「おられたのでしたら」が正しい訳となります。

(*4) ニートハンマーは 1786 年には、「ドイツの学識ある人々の哲学雑誌(Philosophisches Journal einer Gesellschaft teutscher Gelehrten)」を刊行しています。ところで、翌年の自らの運命を知ることのなかったヘーゲル君は、彼宛の手紙(1805-3-4 付)で、冗談とともに次のようなアドバイスをしたのでした:
 「ただ一言申し上げれば、貴方はもう Nitribitt のところでは印刷しない方がいいと思います。彼の印刷の仕方には内容がないので [=塩(しお)がない(Salz mangelt)]、彼の名前からして塩を請うています」。(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, 1969, S. 93)
 つまりヘーゲルのダジャレによれば、Nitribitt という印刷屋の名前は、塩(しお。Nitro)を請うて(bitte)いるというわけです。なお、現代では Nitro- は窒素化合物を表しますが、語源はラテン語の nitrum で「天然のソーダ」 [炭酸ナトリウム] を意味しています(『羅和辞典』、研究社、水谷智洋編。ギリシア語源は省略します)。したがって、nitro- は語源的にはナトリウム系の化合物を表していたようです。そこで、ヘーゲルは nitro- を塩(しお。塩化ナトリウム)と解したのでしょう。
(目次)


  凡 例

・ヘーゲルとニートハンマーの往復書簡のうち、訳出した箇所は、ヘーゲルの『精神の現象学』の出版をめぐるトラブルに関する部分だけです。

・原文の引用は、現在の正書法に直して、
(1) ヘーゲルとニートハンマーの手紙については、Meiner 社の 哲学文庫版 Briefe von und an Hegel (ホフマイスター編。第 3 版)からしました。
 拙稿で Briefe von und an Hegel とだけ記載しているのは(つまり、Hrsg. von K. Hegel と表記されてないものは)、このホフマイスター編の第 3 版を指しています。

(2) K. ヘーゲル(ヘーゲルの子息)の、出版をめぐるトラブルの「説明」については、彼が編集して 1887 年に出版した Briefe von und an Hegel. Hrsg. von K. Hegel. Bd. 1. 1887. S. 62 からしました。

・手紙のタイトル(例えば: 1806-8-6 ヘーゲル → ニートハンマー)の横の( )内に書かれたページ数(例えば: S. 112f)は、ホフマイスター編の第 3 版テキストでのページ数です。

・「編集者注」というのも、上記テキストでの注です。

・例えば(H, 8-6)というのは、「ヘーゲルのニートハンマー宛、1806 年 8 月 6 日付の手紙」を表します。なお、H ではなく、N はニートハンマーです。

・原文では段落分けをしていない箇所でも、訳文は読みやすさを考えて、新段落にしました。したがって、文章をどこで切って新段落にするかという判断には、訳者の解釈が入っています。
 なお、原文で段落分けをしている箇所は、訳文では1行空けて新段落としています。

・ [  ] 内は、断り書きがないかぎり、訳者の挿入です。

・地名のつづりは:
   イェナ(Jena
   バンベルク(Bamberg

・小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』からの引用は、昭和 50 年に日清堂書店より再発刊されたものからしました。

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