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ヘーゲルのイェナ(Jena, イエナ, イェーナ)時代 ・年表(1801-1807) (v. 5.5.) |
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凡 例 (1) 年表内の説明について (2) 略記号 (3) 字体と色 (4) 講義告示 (5) [ ]の挿入 用語の説明: 学期(Semester) ・ ボーゲン(Bogen) 謝 辞 年: 1801 1802 1803 1804 1805 1806 1807・・・1812 1801 年------------------------------------------------------ 1月 フランクフルト(Frankfurt am Main)からイェナ(Jena)に引っ越す。(ヘ) 4月から8月 「ドイツ憲法論」を書く。(ヘ) 8月 「教授資格試験のためのテーゼ(Habilitationsthesen)」に関する、討論会が行われる。(ヘ) ヘーゲルの冬学期・講義(1801/02 年)の告示は(1801-9-19: BH-JL, 310): 「論理学と形而上学を私的に教え」(注12)、 「無料で哲学入門を講じ」、 「シェリング教授とと共に哲学演習(disputatorium philosophicum)を指導する」(BH, IV-1, 80)。 10月19日 イェナ大学の冬学期が始まる (BH, IV-1, 310) 。 10月 『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違 [あるいは、差異]』を出版する。(ヘ) 10月 教授資格請求論文「惑星軌道論」を提出する。(ヘ) 1802 年------------------------------------------------------ 1月 [『批判的哲学雑誌(Kritisches Journal der Philosophie)』の]「序文 哲学的批判一般の本質、およびこの批判の特に哲学の現在の状態への関係について」と、「常識は哲学をどう受けとるか」を発表。(S, 2, 171/188) 3月 「懐疑論の哲学への関係」を発表。(S, 2, 213) ヘーゲルの夏学期・講義(1802 年)の告示は(1802-3-17: BH-JL, 310): 「論理学と形而上学、すなわち反省の体系と理性の体系を、同書名 [論理学と形而上学] で出版される著書にもとづいて」(注11)、 「さらに、自然法、市民法、そして万民法を口述で」、 教える。(BH, IV-1, 80) 5月10日 イェナ大学の夏学期が始まる (BH, IV-1, 310) 。 6月 コッタ出版社(Cotta-Verlag)は、ヘーゲルの「論理学と形而上学」に関する本を、予告。(B) 7月 「信仰と知識」を『批判的哲学雑誌』に掲載。(ヘ) ヘーゲルの冬学期・講義(1802/03 年)の告示は(1802-9-11: BH-JL, 310): 「1) 論理学と形而上学を、来たるべき市日に出版される著書にもとづいて」(注13)、 「2) 自然法を口述で」、 教える。(BH, IV-1, 80) 10月18日 イェナ大学の冬学期が始まる (BH, IV-1, 310) 。 11月~1803年5月 「自然法の学問的な取り扱い方について」を発表。 冬~1803年 「人倫の体系」を書く。(ヘ) 1802~1805年 自然法に関する講義草稿を書く。(ヘ) 1803 年------------------------------------------------------ ヘーゲルの夏学期・講義(1803 年)の告示は(1803-4-20: BH-JL, 310): 「1) この夏に(コッタ社から)出版されるハンドブックにもとづいて、哲学一般の概論を」、 「さらに、2) 自然法を口述によって」、 教える。(BH, IV-1, 81) 5月9日 イェナ大学の夏学期が始まる (BH, IV-1, 310) 。 この1803年から1804年 「イェナ期の体系草稿群 I」(思弁哲学の体系)を書く。これは、この年から翌年にかけての冬学期講義用の草稿のようである(D/K, XXIV)。 ヘーゲルの冬学期・講義(1803/04 年)の告示は(1803-10-15: BH-JL, 310): 「私的に 1) 自然法を」、 「2) 思弁哲学の体系――これは、a) 論理学と形而上学、すなわち超越論的観念論、b) 自然哲学、そして c) 精神哲学、を含む――を」、 「口述によって説明する」。(BH, IV-1, 81)(注1) 10月17日 イェナ大学の冬学期が始まる (BH, IV-1, 310) 。 1804 年------------------------------------------------------ 夏以前 「形而上学の区分(Gliederungsentwurf zur Metaphysik)」を書く。(H, II) ヘーゲルの夏学期・講義(1804 年)の告示は(発行日付なし: BH-JL, 311): 「哲学の一般的体系を、講じるであろう。すなわち、ある講義では論理学と形而上学を、そして精神哲学を、他の講義では自然哲学を教えるという具合に」。(BH, IV-1, 81)(注14) 4月30日 イェナ大学の冬学期が始まる。 (BH, IV-1, 311) 夏学期 実際には上記の講義は行われなかった。(ヘ) この夏から1805年始め 「イェナ期の体系草稿群 II」(論理学、形而上学、自然哲学)を書く(H, II)。これらの草稿は、清書されているので、印刷用に予定されていたとも、推定されえる」(H, II, XIII) 9月29日 ゲーテ(J. W. Goethe)宛の手紙で、「私がこの冬に、講義のために完成させたく思っていますもの(Werk)は、純粋に学問的な哲学的論考(Bearbeitung)なのですが・・・」と書く。(BH, I, 85) ヘーゲルの冬学期・講義(1804/05 年)の告示は(発行日付なし: BH-JL, 311): 「哲学の全学問を――すなわち思弁哲学(論理学と形而上学)、自然哲学、そして精神哲学を――口述によって・・・講じるであろう。」(BH, IV-1, 81)(注15) 10月15日 イェナ大学の冬学期が始まる。 (BH, IV-1, 311) 1805 年------------------------------------------------------ ヘーゲルの夏学期・講義(1805 年)の告示は(1805-3-30: BH-JL, 311): 「a) 哲学の全学問を――すなわち思弁哲学(論理学と形而上学)、自然哲学、そして精神哲学を――、夏に出版される著書にもとづいて」、 「b) 自然法を同書にもとづいて」、 講じるであろう。(BH, IV-1, 81)(注10) 上記哲学の全分野を扱った書物との関連で――この書物はまた前年9月のゲーテ宛手紙の「著作(Werk)」でもあるのだが――「イェナ期の体系草稿群 II」は書かれたようである。(H, II, XIV) 5月ないしそれ以前?(注2) 清書稿の断章「絶対知・・・」、「a) 神的権利・・・」が書かれる。(B, 533) 5月6日 イェナ大学の夏学期が始まる。 (BH, IV-1, 311) 5月頃?(注3) フォス(Voss)宛の手紙のための主要草稿(Hauptentwurf, 3 つある草稿のうちでもっとも長文)で、「秋には哲学体系としての書物を、著すつもりです」と述べる。(BH, I, 99) ヘーゲルの冬学期・講義(1805/06 年)の告示は(1805-9-30: BH-JL, 311): 「a) 純粋数学を、例えばシュタールの『純粋算術の基礎』(第 2 版)にもとづいて算術を、ローレンツの『純粋数学の初歩』(第 2 版)にもとづいて幾何学を」、 「b) 実在哲学、すなわち自然哲学と精神哲学を口述により」、 「c) 哲学史を」、 教える。(BH, IV-1, 81) 1806年にかけて 「イェナ期の体系草稿群 III」(自然哲学、精神哲学)を書く。清書されてはなく、したがって印刷原稿用ではなく、講義用の草稿である。(H, III, XXIV) 冬学期 自然哲学および精神哲学の講義が行われたことの証拠はない。(H, III, XXIII) 10月21日 イェナ大学の冬学期が始まる。 (BH, IV-1, 311) 冬 ゲープハルト書店(Joseph Anton Goebhardt)と後年『精神の現象学』となった書物の出版契約を結ぶ。(ヘ) 1806 年------------------------------------------------------ 2月 ゲープハルト書店から出版予定の本の印刷始まる(ヘーゲルのこの年 8 月 6 日付のニートハマー(I. Niethammer)への手紙による)。しかしこの本のタイトルが何であるかは、言及されていない。 だが、初版 1807 年の『精神の現象学』の印刷見本ボーゲン紙への印付け(Bogenkennzeichnung)から、「第1部。 意識の経験の学問(Erster Theil. Wissenschaft der Erfahrung des Bewußtseyns)」というタイトルが、最初の印刷ボーゲン紙の構成要素だったと推測できる。(B, XIX) ヘーゲルの夏学期・講義(1806 年)の告示は(1806-3-10: BH-JL, 311): 「a) 純粋数学を、例えばシュタールの『純粋算術の基礎』(第 2 版)にもとづいて算術を、ローレンツの『算術および幾何学の概説』(第 2 版)にもとづいて幾何学を」、 「b) 思弁哲学すなわち論理学を、まもなく出版される自著『学問の体系』にもとづいて」、 「c) 自然哲学と精神哲学を口述により」、 教える。(BH, IV-1, 82) 3 月頃の(注7)この夏学期講義の告示においては、「思弁哲学すなわち論理学」を扱った「学問の体系」に関する本が予告されている。しかし哲学の全学問を扱った本については、言及されていない。自然哲学と精神哲学に関しては、ヘーゲルは相変わらず口述する予定であった。つまり、ヘーゲルは「(全)学問の体系」に関する本を計画はしたが、とりあえずは「学問の体系 第1部」つまり「意識の経験の学問」ないしは続きの「論理学」のみを対象とせざるをえなかった。また、「学問の体系の第1部」である「意識の経験の学問」については、言及されていないことから、ヘーゲルの念頭にまずあったのは「論理学」の出版だった、といえるかもしれない。(B, XXI) 5月5日 イェナ大学の夏学期が始まる。 (BH, IV-1, 311) 夏学期 告示 c の自然哲学および精神哲学の講義は、確かに行われた。(H, III, XXIII) 告示 a の純粋数学の講義は、行われなかったようである。(BH, IV-1, 460) 聴講生のガーブラー(Gabler)(注17)とローゼンクランツ(Rosenkranz)によれば、ヘーゲルは思弁哲学だけでなく精神の現象学についても、講義した。(B, XIX) ローゼンクランツによれば、「ヘーゲルは、1804 年以来出版の準備をしてきた現象学を、1806 年の夏、実際に 1 度講義した。現象学の印刷はすでに始まっており、聴講生一人ずつに印刷されたボーゲン紙 [複数枚] が配られた。しかし印刷は、1807 年にようやく完成した。・・・ヘーゲルは現象学を論理学への導入とした。そして [『精神の現象学』の最後で生じる] 絶対的知の概念から直接、[論理学の最初の] 有(Sein)の概念へと移行した。同じ学期 [夏学期] に彼はまた、自然哲学ならびに精神哲学を実在哲学として講義した」。(R, 214)(注16) ガープラーによれば、「ヘーゲルは、論理学については概説しただけであり、現象学に関連して述べた。この論理学は、[後の論理学の] まだ萌芽であり、一時的な基礎にすぎなかった」。したがってヘーゲルは、「論理学」については、印刷にまわせる原稿をまだ用意できていなかったようである。しかし「現象学は、完全に発展した形態で登場し、また当時すでにバンベルグ [ゲープハルト書店の所在地の一つ] で印刷されていた。ヘーゲルは彼の聴講生が、イェナで [精神] 現象学が印刷されたボーゲン紙を、入手できるように手配していた」。(B, XX) このガープラーの報告のオリジナル原稿は失われており、ホフマイスターの不完全なコピーしかなく、正確さにも疑問は残る。(は, 82, 263) 4~9月? 草稿断片「C. 学問」を書く。(B, 538)(注4) 8月6日付のヘーゲルのニートハマー宛の手紙には、「印刷は2月に始まりました。元もとの [ゲープハルト書店との] 契約では、この部分(dieser Teil)は復活祭 [3月下旬から4月頃] 前には完成していなくてはならなかったのです。私は [完成を、夏学期] 講義の初めにまで、延期せざるをえませんでした――しかしこれも、実現しなかったのです」。(B, XXI) (しかしこの8月6日付けの「手紙のオリジナルは失われていて・・・かなり不完全な抜粋しか残されていない」)。(は, 66) また、前記の「元もとの契約」は、現存していない。(B, XXII) 8月、ヘーゲルとゲープハルト書店との間にはトラブルがおきる。このトラブルの事情については、ヘーゲルの息子の K. ヘーゲルの記録によるしかない。それによれば、ヘーゲル(父)は「印刷の遅延(Verschleppung)と、作品の半分の印刷後に支払われる報酬が支払われなかったことで、[ゲープハルト書店に] 苦情を言った。これに対し書店側は、著作の半分がどれほどの量になるかを知りえるためには、まず原稿のすべてを提出してもらわねば困ると、反論したのである」。(B, XXII) この書店側の反論で、ヘーゲルは窮地に立った。というのも著作の完成原稿すべてを提出することはできなかったからである。ヘーゲルの執筆状況では、論理学の原稿はもはや問題外で、「第1部 意識の経験の学問」の原稿だけが問題だった。これが後の『精神の現象学』である。(B, XXII)) ヘーゲルの冬学期・講義(1806/07 年)の告示は(1806-9-20: BH-JL, 311): 「a) 粋数学を、例えばシュタールの『純粋算術の基礎』(第 2 版)にもとづいて算術を、ローレンツの『算術および幾何学の概説』(第 2 版)にもとづいて幾何学を」、 「b) 論理学と形而上学すなわち思弁哲学を、それらの前に位置する精神の現象学――これについては、彼の著書『学問の体系』のまもなく出版される第一部にもとづいて [教える] ――と共に」、 「c) 自然哲学と精神哲学を、口述により」、 教える。(BH, IV-1, 82)(注6) 9月12日のヘーゲルのニートハマー(Niethammer)宛の手紙によれば、すでに最初の 21 ボーゲン紙(1-336 ページ)は印刷された。1ページのタイトルはおそらく、「第1部。 意識の経験の学問」だったであろう。(S, 3, 595-6) 9月29日 ヘーゲルの代理人ニートハマーとゲープハルト書店との間に、再契約がなされる(K. ヘーゲルの記録)。(B) K. ヘーゲルの記録では、この再契約の内容は: 「もし著者のヘーゲルが、[同年] 10月18日までに原稿の残りを [ゲープハルトに] 引き渡さなければ、ニートハマーがその時までに印刷されていた全印刷物(21ボーゲン紙)を、1ボーゲン紙あたり・・・の金額で引き取るというものであった。これに対しゲープハルト側は、期日どおりの原稿の引渡しの後で、著書の想定された半分の量である24ボーゲン分の報酬を・・・支払うことを約束した」。(B) 21ボーゲン紙(336ページ)というのは、「V. C. 自らに対し、即自かつ対自的に実在的な個体性」までに該当し、そこまでがすでに印刷されていたことになる。[私見では、印刷部数が記されてないことからも、著者(ヘーゲル)のための校正用印刷でしょう]。著書の想定された半分の量である、24ボーゲン紙(384ページ)というのは、かなり精確に著書の実質的な後半範囲に対応している。(B) したがって9月末の時点では、『精神の現象学』の原稿はまだ完成してはいなかったにせよ、全体の実質的な分量は、[著者ヘーゲルによって] すでに把握されていたのである。(B) イェナ大学の冬学期は、10月19日に始まるとの公告が出る。 (BH, IV-1, 311) 冬学期 イェナでの [戦争の] 災危により、講義は行われなかった。(ヘ) 冬学期 おそらく自然哲学および精神哲学の講義は、行われなかったであろう。(H, III, XXII) 9月18日 ヘーゲルの思弁哲学についての講義の終了。(R, 214) 10月 「精神の現象学」の残りの原稿が完成する。(ヘ) 11月~年末 バンベルクに避難し、原稿を校正し、「序論(Vorrede)」を書く。(ヘ) 1807 年------------------------------------------------------ 1月 「序論(Vorrede)」をゲープハルト書店に送る。(B) ヘーゲルの夏学期・講義(1807 年)の告示は(1807-3-14: BH-JL, 311): 「a) 純粋数学を、例えばシュタールの『純粋算術の基礎』(第 2 版)にもとづいて算術を、ローレンツの『算術および幾何学の概説』(第 2 版)にもとづいて幾何学を」、 「b) 論理学と形而上学を、それらの前に位置する精神の現象学――これについては、彼の著書『学問の体系、第 1 部』(バンベルクならびにヴュルツブルク、ゲープハルト書店、1807 年)にもとづいて [教える] ――と共に」(注8)、 「c) 自然哲学と精神哲学を、口述により」、 「d) 哲学史を」、 教えるであろう。(BH, IV-1, 82)。 イェナ大学の夏学期は、4月20日に始まるとの公告が出る。 (BH, IV-1, 311) 夏学期 実際には講義は行われなかった。(ヘ) 夏学期 自然哲学および精神哲学の講義は、確実に行われなかった。(H, III, XXII) 3月末/4月始め 『精神の現象学』の印刷見本(die ersten Druckexemplare)が出版される。書名は『学問の体系(System der Wissenschaft)』で、副題が『第1部、精神の現象学。(Erster Theil, die Phänomenologie des Geistes.)』。(B) なお、序文(Vorrede)と緒言(Einleitung)の間にはさまれた書名(Zwischentitel)は、「I. 精神現象の学問(I. WISSENSCHAFT DER PHÄNOMENOLOGIE DES GEISTES)」ないしは「第1部。 意識の経験の学問。(ERSTER THEIL. WISSENSCHAFT DER ERFAHRUNG DES BEWUSSTSEYNS.)」、あるいはこれら両方(注5)。(B, 547-548) ヘーゲルの冬学期・講義(1807/08 年)の告示は: 「哲学の彼の講義は、彼が旅行より帰って知らせる」。(BH, IV-1, 82) 「ヘーゲルはバンベルクで新聞の編集者をしていた全期間をとおして、なおイェナ大学の教授であった。ようやく 1808 年 11 月になって、ヘーゲルは辞職願をカール・アウグスト(Karl August)公爵に提出した」。(BH, IV-1, 310) 10月 ヘーゲル自身の書いた広告では: 「[第1巻の『精神の現象学』に続く] 第2巻 [Band] は、思弁哲学としての論理学の体系、および哲学のそれ以外の2部門 [Teile] の体系である自然学 [die Wissenschaften der Natur] と精神学 [des Geistes] になります」。(S, 3, 593) 1808 年------------------------------------------------------ --- 1812 年------------------------------------------------------ 5月 『(大)論理学』(初版)の「序文(Vorrede)」が書かれ、以下のように言われている: 「学問の体系第1部の [精神] 現象学」には、第2部が続くはずであった。この第2部は論理学と、自然哲学および精神哲学の2つの実在的学問なのであって、これでもって学問の体系は、終結する予定であった」。(S, 5, 18) (注1) ラテン語の原文では、「口述によって」という語句が「1) 自然法」も含む構文になっています(BH, IV-1, 81)。『ヘーゲル事典』の「ヘーゲル詳細年譜」では、「口述によって」が「2) 思弁哲学の体系」のみを指すかのようです。 なお、『イェナ文芸新聞での講義告示』のドイツ語文(BH, IV-1, 83)では、「自然法」は、「思弁哲学の体系」の後に別段落として記載され、「口述によって」の語句に修飾されてはいません。しかし、この新聞告示は、ヘーゲルだけでなく他の講師の講義告示と一緒のものであり、したがって簡略化された記述になっています。より正確な内容は、当然ラテン語の方だといえます。 (注2) 「5月ないしそれ以前」と推測する根拠は、薄弱なようです。(B, 533) によれば: 「1枚の緑青色をした四つ折り版用紙があり、その一方の面には、断章「絶対知・・・」が書かれており、他方の面には、断章「a) 神的権利・・・」ならびにフォス(J. H. Voss)宛の手紙の草稿(『ヘーゲル交換書簡集』 J. ホフマイスター編、第1巻、95-101 ならびに 457 ページを参照)の一部が書かれている。用紙名(Beschriftung des Blattes)の横には、4.5 cm 幅の外側余白が残されており、この外側余白は縦の折り目によって区画されている。 「この外側余白や、書かれているテキストの配置からから推測されることは、断章「絶対知・・・」は用紙の表側に書かれているのであり、表側の下側3分の1 [つまり、この断章の下側] には、何も書かれてはいない。したがって、上記の断章「a) 神的権利・・・」に、直接 [断章「絶対知・・・」は] 続いていない。 「断章「絶対知・・・」には、用語の簡略化や略語がなく、清書稿の様子がある。 「フォスは、ヘーゲルの手紙への返信を 1805 年 8 月 24 日に出しているので、ここから遅くともこの日までには、ヘーゲルの手紙の草稿も書かれたということが分かる [実際に出されたヘーゲルのフォス宛手紙自体は、現存していないようです(は, 19)]。 「[そしてまた、] この手紙の草稿はさらに別の用紙へと続いているが、この用紙の裏側(Rückseite)には、2つのメモ書きがある。このメモ書きの内容は、ヘーゲルが聴講生に対して、彼の講義の始まりを延期することを伝えるものである。このことから、断章の「絶対知・・・」および「a) 神的権利・・・」が書かれた時期として、1805年の5月はじめ(夏学期 [講義] の始まり)が可能となってくる。 「そしてとりわけ断章「絶対知・・・」は、『精神の現象学』へのヘーゲルの最初の取り組みを表す、明確な証となっている」。 この引用した箇所で行われている推論は、厳密にみれば「?」が付くことの連続です。用紙の表側が裏側より先に書かれたなどという前提などは、推理小説のアリバイ崩しの適例だと言えるでしょう。(戻る) (注3) 「5月頃」と推測する根拠は、薄弱なようです。(注2)を参照下さい。(戻る) (注4) この「C. 学問」を、(ヘ)では「清書断片」と記しています。しかし、(B, 535) では、「草稿段階に特徴的な略記や略語はないものの、多くの抹消や挿入語句があるため、清書稿の様子はもたない」と言われています。そこで、この年表では「草稿断片」としました。 なお執筆時期としては、他に1805年4~6月(B, 536) や 1806年初め~春 (B, 537) などが挙げられています。 なお原崎道彦氏は、「キメレが・・・作ったクロノロジー表に・・・よれば、この断片 [C. 学問] の字形は1805年3月4日および翌年1月14日付けのヘーゲルの手紙(どちらもニートハンマー宛)と同じであり、それは1805-06年の『自然哲学・精神哲学』の草案と共通するという」ことを、強調しています。(は, 21-22) 傾聴に値する論点ですが、ただ原崎氏が指摘された範囲で言えば: 1) 「C. 学問」の字形が、1806年4~9月には使われてはいないことは、指摘されていない。 2) もともと字形による年代推定は、字の姿や筆勢の自然な変遷を、見るものだと思います。したがって、10年単位であれば有効でも、1~2年の範囲での年代特定は、特殊な場合を除いて(例えば、急病になって体力が激減したとか、社会的地位の激変によってサインの字体が変化した、など)、難しいのではないでしょうか。 3) 氏は、「s の字のかきぐせ」に言及されています。しかし、私などもサンズイを3つくらいの書体で書いていますが、草書風の書体を1年間使っていなかったものの、ふとある時書き出すということはありえます。その書いたものが1年前のものだと判断されたりするのは、おかしなことでしょう。 4) キメレが字形の年代推定をしたときに、複数の筆跡鑑定の専門家が加わっていたかどうか不明です。 という次第で、私たちとしてはキメレの字形による年代判断には、信を置きがたいものがあります。(戻る) (注5) 書名が3種類にもなってしまったのは、製本段階での書店の側の不手際が、原因だったようです(は. 90)。とはいえ、そのような「不手際」を引き起こすきっかけは、どたん場でのヘーゲルの執筆変更ではなかったでしょうか。書店も本作りのプロですから、誤植はひんぱんに起きるにしても、書名そのものの混乱は執筆者側に書名の差し替えのようなものがないと、考えられないことです。 (注6) 『ヘーゲル事典』付録の「ヘーゲル詳細年譜」では、この箇所が誤訳になっているようです。また、「B, XVIII」の原文引用は正確ですが、「S, 3, 595」での引用は不正確です。 なお、「S, 3, 595」のドイツ語訳では、nach 以下の語句は、前の spekulative Philosophie を修飾していないことが、判然としません。 (注7)この告知が3月頃だったことは、「イェナ講義カタログから推測される。そのカタログには、講義目録のために、各学期ごとに日付の付いたはしがきがある」。(B, XXI) (注8)『ヘーゲル事典』付録の「ヘーゲル詳細年譜」では、この箇所が誤訳になっているようです。 (注10) この文に対応する、『ヘーゲル事典』付録の「ヘーゲル詳細年譜」に記載の訳は、語句相互の関係が分かりにくく、カッコの表記にも誤植があるようです。 (注11) 『ヘーゲル事典』付録の「ヘーゲル詳細年譜」での、この講義告示の訳は、誤訳を含むと思われます。 (注12) 「論理学と形而上学」は、需要の多い一般的な講義題目だったようで、例えば 1801/02 年の冬学期にはヘーゲルの他に 2 人、1802 年の夏学期には他に 4 人が講義予告しています(BH, IV-1, 83)。 (注13) 『ヘーゲル事典』付録の「ヘーゲル詳細年譜」での、この講義告示の訳は、誤訳を含むと思われます。 (注14) 『ヘーゲル事典』付録の「ヘーゲル詳細年譜」での、この講義告示の訳は、誤訳を含むと思われます。 (注15) 『ヘーゲル事典』付録の「ヘーゲル詳細年譜」での、この講義告示の訳は、誤訳を含むと思われます。 (注16) Karl Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich Hegel's Leben, Originalausgabe, 1844. S. 214. (注17) 姓の Gabler を、「ガープラー」と表記している本もあります。普通名詞の Gabler は、「2 才の牡鹿」の意味ですが、Gabeler と綴ることもあって、「ガーブラー」と発音します。そこで、拙訳では姓の Gabler も、「ガーブラー」と記しています。 凡 例 (1) 年表内の説明的記述には、私見とは異なる場合もありますが、スタンダードな見解と思われますので、掲載しました。 (2) 略記号 (は):原崎道彦 『ヘーゲル「精神の現象学」試論』(未来社、1994年) (ヘ: 『ヘーゲル事典』(加藤尚武ほか編、弘文堂、1992年)の「ヘーゲル詳細年譜」 (630-670 ページ)。 (B): Wolfgang Bonsiepen 氏編集の、G. W. F. Hegel: Phänomenologie des Geistes (Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek Bd. 414) ・例えば、(B, XIX) は、 XIX ページ(Bonsiepen 氏の序文)を指します。 (BH): J. Hoffmeister 氏編集による、Briefe von und an Hegel (Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek) ・例えば、(BH, I, 85)は、同書、1969 年刊行の第 1 巻(Bd. 1)、85 ページを示します。 (BH, IV-1, 80) は、同書、1977 年刊行の第 4 巻(Bd. 4)、第 1 冊(Teil 1)、80 ページを指します。 (BH-JL): Intelligenzblatt der (jenaischen) All. Literatur-Zeitung ――通称『イェナ文芸新聞(Jenaer Literaturzeitung)』。しかし、イェナ文芸新聞が Intelligenzblatt (公告)を付録のような形で発刊していたのか、あるいはイェナ文芸新聞の正式名称が Intelligenzblatt der (jenaischen) . . . なのか、訳者には不明です。なお、オンライン上には、Intelligenzblatt der jeanischen allgemeinen Literatur-Zeitung あるいは Jenaische allgemeine Literatur-Zeitung などで出ています――は、イェナ大学の講義告示(ラテン語)をドイツ語で掲載していました。この掲載公告は、「おそらく大学のラテン語の講義一覧表にもとづいて、編集された」ようです(BH, IV-1, 310)。 このドイツ語公告が掲載されている『イェナ文芸新聞』(略記: JL)の発行日付が、BH, IV-1 には記載されています。しかし、大学の講義告示の日付と、『イェナ文芸新聞』による講義公告の日付はおそらく異なりますが(同時発表という協調体制は、古き良き時代のことですからなかったでしょう)、どちらが先に発表されたかは分かりません。といいますのは、『イェナ文芸新聞』は日刊ではなかったでしょうから(1804 年の Intelligenzblatt には日付もついていません。なんとなく分かるような・・(笑))、現在の週刊誌のように発行日以前に発売されることがありえます。 ・例えば、(1801-9-19: BH-JL, 310)は、BH, IV-1, 310 ページに記載されているところの『イェナ文芸新聞』の発行日付が、1801 年 9 月 19 日であることを示します。 (D/K): Klaus Düsing / Heinz Kimmerle 両氏の、G. W. F. Hegel: Jenaer Systementwürfe I (Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek Bd. 331) への序文(Einleitung)。 (H, II): Rolf P. Horstmann 氏の、G. W. F. Hegel: Jenaer Systementwürfe II (Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek Bd. 332) への序文(Einleitung)。 ・例えば、(H, II, XIV-XV)は、同書の XIVから XV ページ(Horstmann 氏の序文)を示します。 (H, III): Rolf P. Horstmann 氏の、G. W. F. Hegel: Jenaer Systementwürfe III (Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek Bd. 333) への序文(Einleitung)。 (R): Karl Rosenkranz: Georg Wilhelm Friedrich Hegel's Leben (1844). (S): G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Wänden (Theorie Ausgabe, Suhrkamp Verlag) ・例えば、(S, 2, 188)は、同書の第 2 巻、188 ページを指します。 (3) 字体と色 講義告示中の太字は、原文がイタリック体の部分です。 発表された著作は、太字にしています。 未発表の草稿は、緑字にしています。 『精神の現象学』に関係することは、赤字にしています。 (4) 講義告示の拙訳については、ラテン語原文の単語ごとの意味と文法の説明を掲載していますので、ご参照下さい。 (5) [ ] 内は、筆者の挿入です。 謝 辞 この年表は、上記の書籍をもとに作成しました。深謝する次第です。 ご意見や記述に誤りがあるときは、takin#be.to(# を @ に変更して下さい)まで、お知らせいただければ幸甚です。 |
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