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 ヘーゲル自身による『精神の現象学』の広告文
翻訳
 (v. 1.1.)
  目 次 

  はじめに
(1) テキストについて
(2) 凡例
(3) 『精神の現象学』の広告文の翻訳


   はじめに

 『一般文芸新聞(Allgemeine Literatur-Zeitung)』などに掲載された、ヘーゲル自身による『精神の現象学』の広告文(1807年)を、以下に訳出します。

 この広告文の内容は、とくにどうということもないのですが、あえて深読みするとすれば、以下の点が注意を引きます。
(1) 『精神の現象学』の「序文(Vorrede)」では、ヘーゲルの考えとして、「実体は主体 [的運動] である」ということが強調されていたのですが、この広告文ではたんに「或る観点(einem Gesichtspunkte)」と、あいまいな表現にとどまっています。

 むろん、広告文では内容に深入りすることをさけたとも思えますが、しかし、「実体は主体である」という主張が、彼の哲学を表現するものとしては不十分であることに、気づいたとも考えられます。フィヒテ哲学は、自我が「自身を措定する」という主体的な運動です。また、シェリング哲学もその自然哲学以来、無条件なもの、存在そのものは物(Ding)ではなく、活動(Tätigkeit)です。(『自然哲学の体系についての最初の草案』(1799年)。SW版、III, 12)
 したがって、「実体は主体である」という表現は、言葉どおりに受けとれば、フィヒテ以来のドイツ観念論全体に妥当します。ヘーゲルのオリジナルというわけではありません。

(2) 広告文中の「『精神の現象学』は・・・興味深い(interessante)哲学となっており・・・」は、ヘーゲルが強調したかった箇所ではないでしょうか。興味深い本にして、多くの人に買ってもらいたかったのでしょう。最初の予定どおり、『論理学』を出版したとすれば、印税は微々たるものだったでしょう。当時のヘーゲルは、できるだけ多くの収入が、とにかく必要だったのです。


(1) テキストについて

 この広告文(Anzeige)の原文は、オンライン上にあります。
 また、Felix Meiner 社の哲学文庫版『精神の現象学』の 549-550 ページに、付録として掲載されています。


(2) 凡 例

・ [  ] 内は、訳者の挿入です。
・原文で新段落に移ったところは、訳文では 1 行あけて改行しています。
・訳文での読みやすさを考慮して、原文では同じ段落内で続いている文でも、訳文では新段落にしました。その場合には、1 行あけることなく改行しています。


(3) 冒『精神の現象学』の広告文の翻訳

[以下の拙著が、] Jos[eph] Ant[on] ゲープハルト書店([所在地:] バンベルク及びビュルツブルク)で出版され、すべてのしかるべき書店に配送されています。
    G. W. F. ヘーゲル著『学問の体系』。
      第1巻。『精神の現象学』を納める
大八つ折り版。1807年 [出版]。定価 6 フロリーン。

 この第1巻では、生成する知について述べています。この『精神の現象学』は、心理学的な説明あるいはまた知の基礎づけについての抽象的な論議に、取って代わるものです。『精神の現象学』では、学問への準備が或る観点から考察されていますが、この観点によって、『精神の現象学』は新しい興味深い哲学となっており、また哲学の最初の部分です。『精神の現象学』は、精神のさまざまな形態を道程上の――この道程によって精神は純粋な知に、すなわち絶対的精神になるのですが――滞留所(Stationen, 参詣所)として、含んでいます。そこで、『精神の現象学』のいくつかの部分に分かれた本編では、意識、自己意識、観察し行為する理性などが考察されます。精神自体も、人倫的・教養的・道徳的な精神として、そして最後にはいろいろな形態での宗教的精神として、考察されるのです。
 最初は混乱のうちに表れたかにみえた精神の豊富な諸現象も、学問的秩序へともたらされています。この秩序のうちで精神の諸現象は、それらの必然性に従って叙述されます。そしてこの必然性のうちで、不完全なものは解体されてより高次なものへと、すなわちそれの次の真理へと、移行します。不完全なものが目ざす最後の真理は、[道程] 全体の結果として、まず宗教のうちに、次いでの学問のうちに存するのです。

 「序文(Vorrede)」においては、現代の哲学が陥っていると思われる窮状について、筆者の意見が表明されます。さらに、哲学的決まり文句の横柄さや乱暴さ――この乱暴さが、現在哲学を貶(おとし)めているのですが――についても、また哲学や哲学研究において一般的に大切なことについても、表明されています。

 第 2 巻は、思弁哲学としての論理学、ならびに哲学のそれ以外の 2 部門である自然学精神学、この体系を納めることになります。(*1)

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(*1) この個所は、
(1) ヘーゲルの書き方がすこしおかしくなっているとも言えるし、
(2) これが彼の真意だと言えないこともなく、
やっかいです。原文は:

 Ein zweyter Band wird das System der Logik als speculativer Philosophie, und der zwey übrigen Theile der Philosophie, die Wissenschaften der Natur und des Geistes enthalten.

(1) 文の構造を見ますと、
 das System der Logik . . .und der zwey übrigen Theile [= der Wissenschaften der Natur und des Geistes] ですので、論理学(Logik)と自然学(Wissenschaft der Natur)と精神学(Wissenschaft des Geistes)をまとめたものが、das System (体系)だと言われています。(もし、論理学・自然学・精神学のそれぞれが、体系をなすのであれば、
das System ではなく、die Systeme とするか、
und der zwey übrigen Theileではなく、und dieselbe der zwey übrigen Theile などにする必要があります。)
 しかし、論理学と自然学と精神学をまとめたものは、das System そのものではなく、その一部のはずです。といいますのは、本の題名を見ますと――

 G. W. F. HEGELl'S SYSTEM DER WISSENSCHAFT.
    Erster Band, die PHÄNOMENOLOGIE DES GEISTES
    enthaltend.

 (G. W. F. ヘーゲル著『学問の体系』。
      第1巻。『精神の現象学』を納める。)

 したがって、1 つの全体的な SYSTEM DER WISSENSCHAFT(学問の体系。SYSTEMは単数)がまずあって、その最初の部分は「精神の現象学」です。このことは、「『精神の現象学』は、新しい興味深い哲学 [=学問]」となっており、また哲学の最初の部分です」とはっきり言われています。
 この『精神の現象学』の後の部分が、第 2 巻の「論理学と自然学と精神学」なのですから、これら 3 部門は、SYSTEM の「それ以外の(übrig, 残りの)」部分、すなわち体系の一部になります。

(2) とはいえ、『精神の現象学』が表れるまでのヘーゲルのイェナ時代の全期間(1801-1806 年)をつうじて、彼にとって学問(哲学)とは、「論理学・(形而上学)・自然哲学・精神哲学」のことでした。『精神の現象学』は「学問への準備」にすぎないのであって、主には販売戦略から「学問」だと強弁しているものの、本来的には学問ではないという意識がヘーゲルにはあったはずです。(そのため、後年の『エンチクロペディー』は論理学からはじまり、『精神の現象学』の内容は解体されて精神哲学に吸収されることになります。)
 このような彼の真意が、論理学・自然学・精神学をまとめたものを学問の「体系(das System)」と記す表現として、現われたのかもしれません。
 (むろん、彼は『精神の現象学』の「序文(Vorrede)」でも、学問への「準備」だとはいえ、弁証法という方法論によっている以上、やはり学問には違いないと主張します。しかし、学問へといたる認識(まだ学問ではない)の発展が、弁証法によらないとすれば、弁証法とは何なのでしょうか。弁証法はすべての存在・認識をつらぬく普遍的なものでは、ありえないことになってしまいます。)


(初出:2016-5-9)
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