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S. 198-200 
 すなわち、これまで哲学においては、つねにリアルな洞察が求められた。そしてこの洞察は、表象と表象の外部に客観的に存在するものとの現実的関連についての認識に、基礎づけられてきた。つまり、哲学分野での人々の洞察の信頼性や真理性は、このような関連に由来するのである。
 理性批判の著者 [カント] さえもが、こうした仕方で、彼の体系がもたらす成果の不変性ならびに真理性を、明らかにしようとしたのである。しかし、ラインホルト氏は思弁的理性の問題を解明するのに、根元哲学においてまったく新しい道を開拓したのであった。表象に対応するものが実際にあるかどうか、あるとすればそれはいったい何であるのか、またないのか――こうしたことについては、彼はまったく未決定のまま放っておく。彼が示すのはただ、以下のようなことだけである:
・私たちは、知識の性質をどのように考えるべきかということ、
・私たちは、知識のうちのあるものを所与として、あるものを表象する主観によって生みだされたものとして、考えねばならないこと、
・私たちは、空間と時間をただ感性の形式として考えることができること、等々。
  ラインホルト氏によれば、表象そのものの概念についての、唯一可能な説明にして、根元哲学哲学において初めてなされた説明が、哲学を形成している思弁の進行の全範囲を規定する。またこの説明は、私たちが思考においての表象能力にたいし設けなければならぬ限界を、告知するというのである。
 彼によれば、私たちが行う認識は、思考の有する特性を越えでることなどは、決してできない。また、目下の生活における思考や表象すべてが、それらの外部に存する何かあるものに現実に関係したり、なんらかの仕方で対応したりするかどうかは、私たちはすこしも知りはしないのである。

S. 225-227 原注24 
 ・根元哲学の意図するところが、表象や表象能力、そして認識の発生や認識の構成要素の性質などについて、私たちはどのように考えねばならないか、たんにそれを示したいというのであれば、また、
・ [a] 表象や表象能力、それに表象能力の働き方が、実際にとうなっているのか、そして私たちの思考から独立にどのような性質のものなのか、[b] あるいは、表象や表象の発生の仕方などの概念が、概念の外部に存在する物と関係しているのかどうか、こうしたことについて、根元哲学は決着をつけようとはなんら望んでいなかったというのであれば、
これらのことに関して、私はあえて結論づけようとは思ってなどいないことを認めるのにやぶさかではない。
 というのも、
・たしかに表象能力の理論においては、表象自体について論じるさいに、なるほど次のようにはっきりと言われてはいる:「この議論にさいして肝要なのは、表象や表象能力の唯一可能な概念だけであって、現実にある表象や表象能力そのものを、説明することでもなければ、表象の唯一可能な概念とこの概念の外部に存するものとの関係を、規定することでもない」と。
・また、根元哲学はその所説のどこにおいても、これらの所説が概念――つまり、私たちが形成しなければならないとされる、表象や表象能力、この能力の構成要素などの概念――だけの説明から、概念の外部に存在する対象の説明に切り替わったとは、告知してはいない。
 ところが、根元哲学が、表象そのものの所与の概念の帰結として述べている全文章においてさえ、根元哲学が表明していることはといえば、あたかもそこで問題になっているのは、私たちがある物をどのように考えねばならないかではなく、ある物が現に実際どうであるかのようである。それだから根元哲学は、例えば次のように主張するのである:「表象そのもののうちでは、主観の [もつべき] 素材が与えられており、素材の形式が生じている」と。
 したがって、根源哲学にとってもっぱら重要なのが、表象や表象能力の概念、そして表象能力の働き方の概念を規定することであるならば、この哲学の基本原理にふさわしいのは、次のように言うことだったろう:「表象そのものの内では、素材は主観に与えられたものとして、形式は主観によって生み出されたものとして、考えられねばならない、と。
 そして、根源哲学の基本原理や命題、そしてこの哲学のくだす結論が、たとえ疑うことのできないものであるとしても、この哲学は、実際に存在する物に関する哲学や、真理に関する洞察を与えたり、基礎付けたりするものではないであろう。むしろ根元哲学が述べているのは、私たちが意識のうちに見いだすままの表象を思考の法則にしたがって論じるとき、表象能力やこの能力の働き方ということで、私たちが考えるべきことだけなのである。
 したがって、表象についてのこうした考えが、真理を有するかどうかということは、根元哲学は示さないのである。また、この哲学は、
人間の自然な欲求を――この欲求にもとづいて、現実に存在しえるものに関する哲学が発生し、改良されていったのだが――、満たしもしない。つまり、認識の真理性と実在性の本質をなすのは、認識をかたちづくる表象と表象の外部に存する物との関係である。
 表象がそのような関係をもたないのであれば、あるいは表象の外部には、表象が関係できるものがどこにもないのであれば、表象に真理を与えることなどまったくできない。私たちが前記の関係を理解もできなければ、見つけ出すこともできないのならば、表象に実在性や真理を与えてはいけないであろうし、また、表象においては真理と虚偽の区別をしてもいけないのであろう。
 したがって、何人かの批判哲学の支持者たちが主張して、「真理に関しては、認識と表象外部に存する対象との関係はまったく問題ではなく、すべては表象と表象能力の法則との関係にかかっている」、「真理は本来、表象と、表象能力のもつ根源的形式・原理・法則との完全な一致に存する」などと言うのは、真理の歪曲である(この歪曲のままに、実務的な事を行なおうとすれば、たいへん不都合な結果になろう)。
[以下は工事中]

S. 226-230 
 私たちが直接もっているものとしては、とにかく表象しかないのであり、私たちはただ表象を意識するのである。私たちが見たり、聞いたり、感じたり、考えたりなどするところのものは、それ自体としては、また直接的には私たちの心のうちに存在するのではなく、そのとき存在するのはたんにそれらの表象である。
 ところがそれにもかかわらず、表象の外で表象からは独立して存在し、表象と共には生成消滅しないが、なお表象と関係はするようなある物が、実在的に現存するという、こうした確信が、人々の間には一般的に広まっている。[読者のご参考のために、以下の文も訳出します。] この確信とその一般性は、どこに由来するのか? この確信は、あいまいな感情に基づくのか、あるいは明瞭な認識に基づくのか? またとりわけ、私たちの心の外部に現存する物についての確信や、表象のこれらの物への関係を、独断論が作り出そうとするとき、その根拠は何なのであろうか? これらの問いへの返答は、独断論に対する懐疑論の元来の主張を知らしめるであろう [懐疑論の方が正しいことが明瞭になる]。

S. 230-231 
 新生児が、自分が最初にもった諸表象によって、これら表象の外部にある何物かの実在的現存を知るなどということは、疑わしいといえよう。おそらく新生児は、自分の能動的あるいは受動的な能力をはじめて用いることによって、さまざまなあり方に局限された(modifiziert)自分自身の自我をともかく認識するのであろう。そのさい自分の外部の物の現存については、なにも予感はしていないのだが。
 盲目から後年回復した人々(とくに、1729年チェゼルデン(訳注)が視力を回復せしめた先天的盲人の報告(原注)の [回復した] 視覚の最初の状態ならびに除々の変化についての報告によって、私たちはこうしたことをはっきり認識することができる。したがって、もともと私たちのもつ表象は、私たちの外部ならびに表象の外部に存する何ものかへの関係を、含んではいないのであろう。むしろこれら表象は、私たちの内部に存し、私たちに属するたんに主観的なものと、見なされるだけであろう。
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(訳注) William Cheselden (1688-1752) イギリスの外科医。眼球の虹彩切除手術を初めて行った。
(原注) この報告は、ヴォルテールの『ニュートン哲学要綱』第6章に記載されている。

S. 231-232 
 そこで、人々がまず最初はたんに主観的なものと見なした表象に、彼らの外部の物への、また表象の外部の物への関係を、付与するのはなぜであろうか? なぜ人々は、表象する自我が局限したもののたんなる認識から、実在的に存在する物へと、考え方を変えるのであろうか? そしてこの移行の根拠は何なのか? ――それは、ある種の表象の特定の性質についての、はっきりはしない理屈付けである。そして、私たちがぼんやりした推論にしだいに慣れてしまっために、表象の外部に存在するという物の現存を、もはや推論されたものとしてではなく、直接認識されたものとして見なすようになったためである。

S. 232 
 つまり、私たちの持つある種の表象においては、2重の必然性が現われる。一方は、表象の現存に関することであり、他方は、表象の内容を形成している多様なものの結合に関することである。
 例えば私たちが家を見るとき、この見る状態が続くかぎりは、その家を見ないということは不可能である。家が見えている場所のそばに、人や木やその他のものがあるとは、私たちは考えることができる。しかしながら、家のある場所に家以外のものを見ることは、私たちにはまったくできない。
さらに、私たちが家を見ている間は、家の諸部分の結合のしかたは、それが現にあるとおりのしかたであらざるをえない。私たちが結合のしかたを変えることは、できないのである。なるほど家の屋根が下に、家の土台が上にあることを私たちは考えられるし、また家の右側にあるものが左側にあるとも考えることはできる。しかし、そのように知覚はできない。私たちは見ている家の諸部分の結合しかたを、見ている間は、それが現にそこにあるがままにさせざるをえないのである。

S. 234 
 ・・・これら2種類の必然性が、私たちがおこなう認識のすべての部分においてまったく無かったならば、あるいはこれらの必然性が私たちの心から導出されたならば、多くの人たちが観念論に対しておそらくは好意的だったであろう。

S. 348 
    [アイネシデモスの] コメント

 近代になって、人間自身の内部において存在したり、起きたりすることに、多くの注目がされ始めて以来、意識もまたたいへん重要な思索の対象であった。しかしラインホルト氏には、これまでこうした思索によってよく知られるようになったものすべてが、あいまいで不確かなものであり、欠陥だらけと見えたのである。そこで氏は、全哲学を彼が改革する以前に存在するすべての哲学において、この点では共通の誤りや欠陥を、根本から永遠になくすために、私たちに意識の理論を贈ったのである。
 私たちは、まずこの理論の全貌を明らかにし、その後この理論において現われるいくつかの命題を、解明しよう。

 近代において、意識とそのさまざまなあり方を検討しようと努めた哲学者たちは、この検討を主にはただ実践・応用哲学との関係で行った。これら哲学者たちは意識一般ということで、この言葉が使用される意味にそって、「表象する自我は、変化や自我のかたわらに現実に存する表象などとは、違うものである」と、理解していたのである。
 けれども彼らは、表象の――この表象から、意識している自我は区別される――内容がもつ全般的多様性についての詳しい探求などはせずに(しかしながらこの探求は、意識の完全な検討のためには、むろん必要であっただろう)、主として、意識の一部としての自我が表象する内容の検討だけに、留まったのである・・・

[続く]
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