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K. L. ラインホルトの著作の翻訳

 人間の表象能力についての新理論の試み [1789年] v. 1.0.2.

Versuch
einer neuen Theorie
des menschlichen
Vorstellungsvermögen



  目 次

 はじめに
I. テキストについて
II. 凡例
III. 翻訳 :『人間の表象能力についての新理論の試み』
  献 辞
  序 文: カント哲学がたどったこれまでの運命について
  第1巻: 表象能力への新しい探求が必要なことについての論考
  第2巻:
  第3巻:


  はじめに

 ラインホルトといいますと、哲学史ではふつう軽く、否定的に扱われます。新しく登場したカント哲学を擁護し、それを確実なものに発展させようと、自らの哲学を発表したのまではいいのですが、やがてシュルツェの『アイネシデモス』において手酷く批判されます。そこからおかしなことになり、フィヒテ哲学に反対したかと思えば賛同し、やがてそこを去ってバルディリに接近し、また・・・
 こうした迷走は、当時の人の笑いをさそったようで、シェリングなどはフィヒテ宛の手紙で、彼を嘲ったような物言いをしています。たしかに彼の凝った(よく言えばスタイリッシュな)文体などは、読者をして、ちょっとこれは、と一抹の不安を抱かせるものがあります。が、彼の才気・ユーモア・皮肉は楽しいですし、またマイナー哲学特有の心地よさもあるのではないでしょうか。何よりも、カント哲学のどこが不備・欠陥だと当時思われたのか、それを知るのは興味深いものがあります。彼の初期の代表作を、ここに訳出する次第です。


I. テキストについて

 Meiner 社の Philosophische Bibliothek 版が、ドイツ・アマゾンで手に入ります。しかし、お値段が第1冊だけで 68 ユーロ(第2冊も同額)なのにまず驚かされますが、それを手にとって見ると、千数百円の小型本といった感じなのには、2度びっくり(あまり売れないので、高くなっているのでしょうが)。で、中を開くと、編集者の解説や注が全体の3分の2近くを占めていたりして・・・

 ただしこの版で誤植と思われるのは、以下の通りです。
・53 ページ、上から 13 行目: Er bedarf . . .Es bedarf . . . (理由は、第1巻、§ 1 の訳注(3)を参照してください)


II. 凡 例

・[  ] 内の挿入は、訳者によるものです。
・ドイツ語原文では、段落わけしていない箇所も、訳文では読みやすさを考えて、新段落にしました。原文で段落分けした箇所は、訳文では1行空けています。


III. 翻 訳 : 『人間の表象能力についての新理論の試み』

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              [ 辞]

 慈父のごとき友人各位へ:
   ウィーンのイグナッツ・フォン・ボルン殿、

   ケーニヒスベルクのイマヌエル・カント殿、
           そして

   ワイマールのクリストフ・マルティーン・ヴィーラント殿(訳注1)

 感謝ならびに尊敬、そして愛の記念として。  

                                著者 [ラインホルト記す]


         序 言

    カント哲学が カント哲学がたどったこれまでの運命について


 ドイツの哲学史においては、ライプニッツ-ヴォルフ時代に直接後続する時代が、現在のところまだ過ぎ去っていない。それだけに、この後続時代のもつ利点に対して、まったく異なった判断が下されるとしても、奇異とするには当たらないであろう。また、この後続時代に折衷主義いう名称を、あるいは逆に経験主義という名称を与えねばならぬとしても――ちょうど、後続時代のま近い終わりを、学問の黄金時代の終わりとして、また同時に始まりとして見なさねばならぬように――、同様であろう。(訳注2)

 ちょっと見には奇妙に映るかもしれないが、先行するライプニッツ-ヴォルフ時代についての [人々の] 意見も、同じく分裂している。また、先行時代の創設者 [ヴォルフ] は、後続の今の時代の基礎を置くという功績をなしたが、この功績をもあまりにもしばしば、またひどく、現在の時代の擁護者や賛美者までもが、誤解しているのである。
 ヴォルフは、偉大なライプニッツの諸発見に学問的形式を与えることによって、独断的(
dogmatisch, 教義的)形而上学の完全な体系を立てた。ヴォルフ以後のいかなる独断家も、この体系に重要な変更を加えることはできなかったのである。後の折衷家たちが、この体系からようやく逸脱しだすのは、彼らが形而上学の講演において、学問的形式を放棄し、ラプソディー的な(rhapsodisch)形式をとるようになってからである。
 ライプニッツ-ヴォルフ哲学の体系は、それ以前のいかなる哲学体系にもまして、急速かつ一般的に受け入られた。この哲学体系は、激しくはあってもごく短期間の抵抗にあった後、我が国の最良の頭脳によって、またひどく凡庸な頭脳によっても、採用されたのである。そしてアカデミズムの多くの教師たちは、自分より優れた教師に負けじと、争ってこの哲学に賛意を表した。この哲学のうちでは、思弁におけるもっとも困難かつ重要な問題が、かつてなかったほど根本的に、また明瞭に解決されており、宗教や道徳への関心が理性の先鋭な諸要求と結合されていると、思われたのである。
 だがそれゆえに、この広く愛好された哲学の主要な諸命題は、また同じく容易にその新鮮な魅力を失ったのであった。これらの命題は、いろいろな場で使用されることによって、日常のふつうの規則としての大衆性(
Popularität)を獲得した。また、自立的思索家(Selbstdenker
(訳注3)たちは、まもなくこれらの命題を頼りに、[諸物の] 観察分野へと乗り出さざるをえなくなった。というのもヴォルフの後では、思弁の分野においては、なすべきことがほとんど残されていなかったからである。
 明敏な分析家が、抽象的な観念を扱う仕事は完了したと思ったときに、具体的な経験的概念に移って仕事を継続しようとしたのはごく当然なことである。また、定義づけて意義を明らかにするようなことは、お終いにしなければならなかった後では、観察をはじめたのも当然ではある。
 近ごろの幾人かの著述家たちが、蔑視されているヴォルフ哲学に、鋭く観察的哲学を対比することで、観察的哲学の功績を明らかにしたと信じた。だが、その際これらの著述家たちは、自然に関して観察的哲学が提出した諸問題の大部分は、ヴォルフ哲学のひどく悪しざまにいわれる諸定義によって最初に提示されたか、あるいは詳細に規定されたということを、熟慮しなかったのである。そしてまた、経験の研究というものは、常識や良識のよくなしうるところではなく、ただ原理によって導かれ、練習をつんだ理性によってのみ達成されるということも、また、計画なき場当たり的な手探りが拾ってくる専門知識や、たんなる偶然によって得られる専門知識などは、体系的精神がもたらす学問的な性質をもってはいず、粗雑で使いどころのないコレクションに終わる他ないことも、彼らは考えなかった。
 哲学世界は、新規の経験主義者や切り貼り屋たちでにぎやかであるが、これに対し、本来の心理学美学
Ästhetik)の創始者たちは(訳注4)、ヴォルフ哲学によって教育されたのである。この両学問は、イギリス人たちがこれらの分野で大変うまく行った試みを、根本的に、また完全さにおいてもはるかに凌駕したのであった。
 ヴォルフ学派からは、改革神学(
gereinigte Theologie)や洗練趣味(geläuterte Geschmack)の創始者たちが現れた。[さらに] 哲学的神学者たちや哲学的審美家たち [も登場したが、] 彼らによって哲学の松明(たいまつ)が、ドイツにおいてはそれまで決して照らされなかったような領域にまで、もたらされたのである――聖堂の神秘的な闇から、大臣や諸侯の官房、そしてご婦人方の化粧台まで。
 ここに列挙するには及ばないであろうが、いくつかの幸運な事情が合わさって、世間とアカデミズムを隔てていた無用の古い壁が、完全に崩れさったかのようであった。そしてヴォルフ学派の諸原理は、新規開拓の広大な分野で、妨げられずに影響を及ぼし続けたのであった。が、その反面、これらの原理に基づいたヴォルフ学派形而上学の教義はといえば、一方においては経験的なものへのこれら原理の新規多彩な適用の後で忘却されたのであり、他方においては絶えず拡大しようとする思考の自由によって、衰退していったのである。そして、束縛を解かれ趣味にもかなった哲学的探求が、私たちの間で数多く見られるようになった状況のもとで、厳格に体系的な講義は、以前の名声を失墜したのであった。
 今やすべての人間的、市民的、家庭的な物ごとが、重大なことから瑣末なことまで、散文的にあるいは詩的に哲学されたのである。新しい収穫を取り入れて、いくらか秩序立てるために、いくつもの新しい分野が畳々された。人間学(
Anthropologie)、人類歴史学(Geschichte der Menschheit)、歴史哲学(Philosophie der Geschichte)、言語哲学、教育哲学等々が、学問に、また新しく獲得された哲学領域に組み込まれたのである。

 もし誰かが、「哲学がまさしく隆盛になるにつれて、形而上学は衰退していく時代が到来する」と、ライプニッツやヴォルフ、そしてバウムガルテンに予言したとしたら、彼らはこの人をどう思ったであろうか?だが現実にそうした時代は到来したのであり、これが過ぎ去るにはまだほど遠い。
 むろん哲学という言葉のもつ意味は、この時代に大きく変わってしまった。哲学者たちが獲得したものが拡大するにつれ、この学問の本来の範囲がますますぼやけていった。全学問の女王だという哲学の以前の名声と影響は、しだいに失墜していったが、それは、人々が哲学のおかげをこうむることはより少なく、経験には――この経験に、ついには不可欠な基本原理が置かれたのだが――より多くなるにつれてであり、またこれら基本原理が学問的な性質を失い、「良識の言」と名乗るにつれてであった。
 実証神学(die positive Theologie)(訳注5)や民族宗教は、神話からしだいに純化することによって、倫理性や合理性を高めた。我らが地球についての知識は、自然地理学や諸国・人々に関する学問によって、格段に向上した。そして経験的心理学は、人間精神や魂の深く隠れていた性質の重要な解明によって、あらゆる面において豊かなものとなった。が、その間に、合理的神学・宇宙論・心理学はあるいは等閑に付されたり、あるいは粗略にされたりしたのである。
 形而上学のこれら3部門は、これらの内容についてはデカルトとライプニッツが、また形式についてはヴォルフとバウムガルテンがした仕事によって、すこし以前には、普遍的に妥当する存在論という確固とした基盤の上に永遠に立っているかのようであった。そしてまた、これらの部門は、宗教や道徳の迷信・不信仰に対する完璧な防御をなしているかのようであった。ところが突然、これらの部門は、根拠のない不必要なものとして、宗教や道徳の擁護者たちからさえも見放されたのである。
 こうしたことから、事実の蓄積と分類に忙しく働いていたところの、哲学的大衆の多くが、「形而上学によって危険にさらされた人類の神聖な利益は、自分たちや良識によってまた安全なものなっている」と信じたところで、それを非難するわけにはいかなかった。というのも形而上学は、職業柄あるいは自分の性向からなおも形而上学にたずさわっていた少数の人たちの手によって、ますます体系性普遍的妥当性を失っていったからである。これらがあってこそ形而上学は、[諸学の女王であるという] 以前の要求を正当化できたのであろうが。
 形而上学の方も、経験に基づくべきであったし、ライプニッツはロックによって修正されねばならなかった。あるいはむしろ、両者の理論は統合されねばならなかったのである。存在論の諸原理を経験から導出しようとする試みが、一般の賛同を得るのとまさに比例して、これら存在論的原理の必然性と普遍性は、疑わしいものとなった。
 諸説(Meinungen)が原則から生じた。これらの説は、哲学の新たな著作ごとに別の定式化をされて現れたのである。頭を使う輩はそれぞれが自己流に、これらの説を規定しようとしたり、自らの体系を立てたりした。その際、以前の体系が互に対立しあうものであっても、それが自分の体系のために役立つとみるや、その体系の一部を利用したのである。
 
 自らの道を切り開いたすべての偉大な思想家たちが、後からあとからと引き合いに出された。しかしこうした思想家がだした答えは、彼を引き合いに出す人ごとに違って解釈されるのだった(原注1)。なぜなら、問題の意味についての一致がなかったし、またこの意味が普遍的に通用するもの [すなわち、すべての人が理解する概念・言葉] によって、規定されていなかったからである。
 このよう生じた哲学的試みに対しては――20年ほど前であれば、多くの人が大きく注目したのかもしれないが――、今や少数の讃美者と同様に、少数の、しかも冷ややかな批判者しかいなかった。新しい体系的学説は、それぞれ反論されていたものだが、こうした反論が、この種の著作になおいくらかの関心を持っていた少数の読者のうちのごく少数のものにおいてさえ、見出せなかった。それは、形而上学の研究に対して増大し続ける嫌悪感のためであったし、また直観なき表象について哲学することへの不慣れのためでもあったし、そしてまた、非常に多くの対立する諸説の迷路から、しかも同じく聡明な人たちによって支持されている諸説の迷路から、脱出することが困難であったためでもあった。
 彼らのうちのもっとも慧眼な人々でさえもが、天才の発する才気や陸離たる語法によって、多くはラプソディー的表現形式によって、少なからず惑うはめになったのである。このラプソディー的な形式は、規定さいれていない概念や相互に関連のない原則の産物であるが、それを使う著者には快適なものだし、読者にはおもしろく感じられるわけで、この形式は、本当の哲学的精神や教養ある趣味がもたらす祝福された成果だと言われている。
 
 手引書の類では、哲学は歴史という形式を取ったのだが、それは哲学が厳密な学問
strenge Wissenschaft)という形式から遠ざかったのに、まさしく応じてであった。論理学では、そもそも表象を持つということが思考と混同されて、大部分はたんに経験的心理学が扱われたのである。本来の思考の諸規則については、もののついでに、古くさい些末な事柄の表題のもとで言及されたが、[著者の] 批判を伴っていることも少なくなかった。形而上学においては空隙の箇所(Raum)が確かに残っていたが、通例この空隙は有名な形而上学の諸学説によって埋められ、それらの学説に対する評価は、いわゆる良識の言にしたがってなされた。
 宗教と道徳の基本的真理を明らかにするために、むろん常に前進がなされたし、それに証明も付随してきた。しかしながら、この証明が普遍妥当性をもっているとは、笑うべきアカデミズムの矜持さえもが、ほとんど信じなかったのである。
 ある著者は膨大な論証を行ったのだが、彼はまえもって、それらの各論証が打ち負かされることはないと考えた。なぜなら、彼が論じているところの真理が疑いえないものだから、というのである。別の著者は、唯一の証明だけが通用すると確信して、他のすべてを否定し、それによって自分の証明を強固にしたと信じたのだが、その証明は快くは思っていない同僚によって、他所から手に入れたものであり、また矛盾しているとされた。また他の著者は、自説の懐疑論と職務の板挟みによって窮境に陥っていたのだが、ようやくそこから自ら脱出できたのは、これまでの有名なすべての証明を、歴史的に提示することによってであった。つまり、彼自身はとくにどの証明に賛同するとか、あるいはひっくるめてすべてに賛同するとか、そういうことは表明しなかったのである。
 新しいアカデミズム哲学の広々としたメインストリームが――この上では指導者たち自身が、つねにお互いのじゃまをし合っているのだが――、自分で考える人たち(Selbstdenker)によって――この人たちはアカデミズム近縁の職業についていないため、アカデミズム哲学に漂着はしなかったのである――、しだいに見捨てられていくのは驚くべきことである。
 自分で考える人たちの何人かは、再びスピノザとともに、[自分で考える立場とは] 反対に位置していても、より首尾一貫している独断主義を好んだ。他の人たちはパスカルとともに超自然主義を、またある人たちはついにはヒュームとともに独断的懐疑論を好んだ。その一方では、大勢の中途半端に考える人たち(Halbdenker)は、まったくバカだというのではないのだが、形而上学のぐらつきがたえず増大するのを見たくないばかりに、明瞭ではないものすべてを疑いだした。そして、彼らの非哲学的な無関心を、批判的懐疑論という誤用された名のもとで誇るのだった。この無関心が、たやすく説明できないものすべてを打っちゃっておくというわけである。

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   序文の原注

原注1) 最近の例では、スピノザ主義についてメンデルスゾーン、ヤコービ、レーベルク(Rehberg)、ヘルダーの諸氏が書いたものを、比較していただきたい。

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   序文の訳注

訳注1) ドイツの詩人・小説家。作品には『オベロン』など。

訳注2) カント哲学以前においては、シェリングも「経験論的な実在論が一般的な思考体系となっており、哲学界においてさえも支配的であった」と述べています。『自然哲学についての考察』の「序文への付記」の冒頭を参照してください。
ところで、
Meiner 社・哲学文庫版『人間の表象能力についての新理論の試み』の編者 E. O. Onnasch 氏によれば:
 「ラインホルトは多くの箇所で、経験主義がライプニッツ-ヴォルフ学派に取って代わり、ドイツにおいては通俗哲学(
Popularphilosophie)の名のもとに狼藉に及んだことを、強調している。実際、通俗哲学の理解には、折衷主義が欠かせない。これに関しては、例えば Christoph Meiners の『哲学評論』第1巻、1772年、60, 61ページを参照。同箇所には以下のように述べられている:
『現今の哲学者への全世界の要求は、折衷家であれということである。つまり、哲学者たるものは、よく言われるように、自ら考えよということであり、多くの対立する主張から最良のものを選択し、これをそのすべての根拠を示しながら講義せよ、ということなのである』。
「この折衷主義は 18 世紀にいたるまで、哲学史との関連で重要な教授方法として重きをなした」。(同書、編者による注2, S. 152f.)

訳注3) この
Selbstdenker の具体的な内容は不明ですが、前記訳注 2 中の引用語句「自ら考えよ」前後を、参照下さればと思います。

訳注4) 前述の哲学文庫版の編者
E. O. Onnasch 氏によれば:
 ・「哲学的美学の創始者は、
Alexander Gottlieb Baumgarten」で、『美学(Aesthetica)』(1750年)の著書があります。
 ・「ここで心理学ということでラインホルトの念頭にあったのは、経験的心理学(
Psychologia empirica)すなわち経験心理学(Erfahrungs-Seelenlehre)で、その創立者としてはおそらくヴォルフ自身を挙げねばならないだろう。18世紀の中頃には、形而上学に対して心理学はしだいに独自の学問分野として発展していったが、この心理学においては、経験的な独自の自立的霊魂が想定されていた。ラインホルトの就任演説『学問的ならびに道徳的文化への趣味の影響について(Ueber den Einfluß des Geschmackes auf die Kultur der Wissenschaften und Sitten)』を参照。1788年2月刊行の「ドイツメルクール(Der Teutsche Merkur)」誌の第1巻、167-183 ページ。
「同箇所の173ページには:『こうしてドイツはいわゆる美学の、経験的心理学の、そしてついには理性批判(すなわち、学問的にして高次の心理学)の誕生の地となったのである。そして、主として理性批判によってますます確実に、自余のヨーロッパの高次の啓蒙主義の学校となるであろう。というのも、これまでドイツのみが、全ヨーロッパの国々によって学ばれるにたるほど、謙虚にして向学の心があったがためである』」。(編者による注8。同署、S. 154f.)

訳注5) 平凡社『哲学辞典』(1979年)によれば:
 「実証的と訳される言語 positive とは・・・神または人間jの意志によって設定された、という意味であり、自然的 natural にたいする。たとえば自然神学にたいする実証神学」。(「実証的」の項目)
 「カトリック教会における実証神学とは、神学の基本的な学的考察方法で、聖書、聖伝、諸教理決定など、教会の教えにふくまれている信仰上の真理を確定整備し、これによって思弁神学の基礎となるものである」。(実証神学」の項目)

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(初出: 2011/4/12)
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