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 理性批判 [カント哲学] の越権に対する懐疑論の弁護 [2]

   
ヒュームの懐疑論は、理性批判によって本当に論破されたのか?

 [いよいよ、カント哲学そのものへの批判が、開始されます。シュルツェは、例えば次のように論難します:
 <カント哲学によれば、客観の側の物自体と同様、主観の側の心そのもの(物自体としての心)も、まったく認識することができない。それなのに、私たちの認識における必然的なものや、普遍的に妥当するものが心から由来すると、どうしてカントには言えるのか>。<カントは、物自体としての心が「原因」となって、必然的な総合判断 [先天的総合判断] が生じると言う。しかし、「原因」や「結果」のカテゴリー [=純粋悟性概念] は、[前節で述べられているように] 経験的対象のみに適用できるはずなのだから、物自体としての心には適用されえないではないか>。
 こうした批判は、まさにカント哲学の中枢である「先天的総合判断」を危うくするものです。カントのいわゆるコペルニクス的転回ができるのは、中心となる太陽(物自体としての心、認識主観)があってこそですが、その太陽については、私たちは何も知りえないというわけです。
 また言うまでもなく、シュルツェ(=ヒューム)のこうした論法は、同時に単純な実在論をも撃破していることになります。]


 カントに特有学説の主な支柱は、
・必然的な総合判断を心から導出することのうちに、
・またこの判断と、経験的対象の認識との関係の規定のうちに、
含まれている。もしこの導出と規定が、疑いようのないものであり、確固とした諸原理に基づいているのであれば、[カントの] 批判哲学は確実なものであっただろう。そして、ヒュームもついに論破されることになっただろう。「原因」と「結果」の概念を、事物に適用することに対するヒュームの疑いは、根拠のないものであったろう。
 したがって、表題の「ヒュームの懐疑論は、理性批判 [カントの哲学] によって本当に論破されたのか?」という問いに答えるにあたっては、次のことを探求することが、重要となる:
・「必然的な総合判断は、心から、すなわち表象の内的な源泉自体から、由来しなければならない。そしてこの判断は、経験的な知識の形式を形成する」ということの根拠として、カントが持ち出したいくつかの根拠は、ヒュームもまた十分なものと、また実証されたものと、見なしえるものであっただろうか?
・一般的に言って、必然的な総合判断を、カントのように心の本質的な諸規定から導出することに対しては、根拠や道理のある反論がありえるのではないか。また、この判断のもっている価値についての規定に対しても、そのような反論がありはしないか?

 さて、必然的な総合判断が、人間の認識のうちには存在するということや、この判断が認識の不可欠の構成要素をなしているということは、否定できない事実である。そしてそのようなものとして、疑いをいれえない。だが同様に次のことも確かである:この必然的な総合判断の、主語と述語の結びつきの必然性は、
・かつてこの結びつきが存在したということからは、
・また、心のうちにしばしばこの結びつきが存在するということからは、
・そして、いくつかの経験が一致するということからは、
導出することができないことである。
 すなわち、私たちがいくつかの表象を、一度あるいはしばしば相互に結合させたからといって、私たちは常にまた必然的に、これらの表象をそのように結合させねばならない、ということではない。そして私たちは、認識のうちのある種の総合判断に帰せられる必然性については、経験そのものからも、また私たちのうちに存する経験の存在の知覚からも、理解することはできないのである。

 [カントの主張する] 上記のことはまったく正しいにしても、なお私は次のように主張したい:
・「人間の心のもつ根源的な諸規定が、必然的な総合判断の実在的根拠、すなわち源泉である」と、『純粋理性への批判』が称するかぎり、
・また『純粋理性への批判』において、「必然的な総合判断の根拠として、私たちが想定できるのは、ただ表象能力だけである」ということから、「現実に心が、必然的な総合判断の根拠でなければならない」と、推論されている限り、
『純粋理性への批判』においては、以下の [a~c の] ことが、すでに争いの余地なく確実で確定的なものとして、前提とされてしまっているのである
a) 私たちの認識のうちに存在しているものすべてについて、実在根拠が、またそれら存在しているものとは実在的にことなるところの原因も、客観的に存在している。
b) 一般的にいって、充足理由律 [十分な理由がなければ、いかなる事実も成立しない。] は、表象と表象相互の主観的結合についてだけではなく、事物そのものについても、また事物相互の間での客観的な関連についても、妥当する。
c) 表象のうちに存在するものの性状から、私たちの外部に存在するものの客観的な性状へと、推論する権利を私たちは持っている。
 さらに私が主張したいことは:
前記のことより、実際のところ理性批判は、ヒュームがその信頼性を強く疑ったところの諸命題を、実のところたんに、すでに確実で確定したものだと前提にすることによって、ヒュームの懐疑論を反駁しようとしている――ということである。

 上記の私の推測の正しさを分かってもらうには、理性批判が自らの新哲学体系を基礎づけるのに用いたところの最上位の諸命題を、ヒュームが疑い、不確かだと言明したものと、比べていただくだけでよい。
 すなわち、ヒュームを論破するというのであれば、それはただ次の場合に、なしえるのである:
・彼の因果の結合に関する主張の反対を、争う余地のない確かな命題から説明するか、
・ヒュームの主張は――すなわち、「原因」と「結果」の関係についての私たちの表象の使用は、確かなものではないという彼の主張は――矛盾しており一貫していない、ということを示すかである。
 しかしこのいずれも、理性批判によってなされてはいない。むしろ理性批判は、人間の認識の異なった源泉 [感性・悟性・理性] についてのすべての主張を、まさにヒュームが不確かで、欺まん的だと見なした諸命題でもって、証明しているのである。

 [以下の「 」内では、これまでのアイネシデモス(=シュルツェ)の主張に反対する側の主張が、代弁されています。]
 「こうした [上述のアイネシデモスの] 議論や、これに付随するような議論は――この手の議論には、批判哲学の多くの支持者たちが、すぐさま反論するのを私はよく耳にしているのだが――、理性批判の本質的な目的を見誤っている人だけを、欺くことができよう。ヒュームの疑いを解消することについての理性批判の功績を、正しく評価しようと思うならば、ヒュームが主張したこと全体に、留意しなければならない:すなわち、ヒュームが哲学者たちに対して、彼らの哲理の諸原理の確実さに関して、要求したこと全体にである。因果律の使用に関するヒュームの疑いにのみ、拘泥してはいけない。彼のすべての要求は、理性批判において見事にまた完ぺきに、満たされている。したがって、因果律を使用することについてのヒュームの疑いも、完全に論破されたのである。
 「すなわちヒュームは、彼の懐疑論において、理論的理性がもつ唯一最重要の概念から出発した。すなわち、「原因」と「結果」の結合の概念からである(それゆえ、その帰結である「力」「行為」などの概念からでもある)。そしてヒュームは、因果関係の概念を生み出したと称している理性に、何の権利があって理性は次のように想定するのか、釈明するようにと要求したのである:すなわち、「あるものが措定されているときには、それとは異なるものも、必然的に措定されねばならない」と想定する権利である。というのも、この想定は、原因の概念を表しているからである。
 「ヒュームが、反論の余地なく証明したのは、先天的には、また概念からは、そのような [因果の] 結合を考えることは、理性にはまったく不可能だということである。というのはこの結合は、必然性を含むからである。[つまり、たんに] あるものが存在するということからは、
1] どうしてそれとは違うものも必然的に存在しなければならないと、言えるのかということや、
2] 1のような結びつきの先天的概念が、どのようにして導入されえるのか、
ということは分からないのである。
 「こうしたことから、ヒュームは次のように推論した:『理性はこの概念を、自らの子供だと誤想している。この概念は、想像力によってもうけた私生児に他ならないというのに。この想像力は経験によって身ごもり、特定の諸表象を連想の法則のもとへもたらした。そこから生じた主観的必然性を、すなわち習慣をこの想像力は、認識から得られた客観的な必然性だと、称しているのである』。

 「さて、理性批判はまず、ヒュームの異議を [上記のように] 一般的に紹介し、そして次のことを示した:『原因と結果の結び付きの概念だけが、悟性をして 「[ある特定の] 事物相互の結び付きは先天的だ」と思わしめるような、そうした唯一の概念ではない』。さらに理性批判は、すべての結び付きの概念の完全な演えきを、提供したのである。この演えきによれば、結び付きの概念は、経験に由来するのではなく、純粋悟性から生じたのである。
 「すなわち、結び付きの諸概念やそれに関係する諸原理には、必然性と普遍性が付随しているが、理性批判はこの必然性と普遍性から、次のことを反論の余地なく証明する:
・これらの諸概念や諸原理の [成立する] 原因は、人間の心のうちに求められねばならない。
・これらの諸概念や諸原理は、認識として先天的に私たちのうちに存在するので、感性や判断の形式しか含むことはできない。この形式は、表象する主観のうちに存在しており、主観の有する諸力が現実に発現することよりも、先行する。
 「じっさい真の認識が獲得されるのは、先天的 [必然的] な総合判断や、その判断のうちに含まれている概念を、経験の諸対象へ適用するときなのである。このこともまた理性批判は示した。すなわち、『独断論的な哲学は、物自体についての知識をもっているという自負を、証明することができない』、ということから示したのである。

 「したがって理性批判によって、ヒュームの懐疑論は完全に反駁されたのである。そしてまた、先天的 [必然的] な総合判断が、私たちに内在しており、そしてこの判断は感覚的な知覚において正しく適用される、というあり方も示された。同時にこのことによって理性批判は、人間に可能な知識の全領域を、精確に測定したのである;また私たちのすべての認識が生じてくるところの、知識の構成要素の源泉をも告げたのである」。

 [ここからはまた、アイネシデモスの主張になります。]
 たしかに、理性批判によって与えられた、必然的な総合的命題 [=判断] の可能性についての説明は、明敏さや哲学的精神の産物として、意味深いものであろう。しかしながら、この説明によっては、ヒュームへの反論にはなっていないのであり、また一般的にいって、何かが確定されたというのでもない。

 すなわち理性批判の著者 [=カント] は、「私たちのうちの必然的な総合的命題は、いかにして可能か?」という普遍的な問題に対し、明らかにただ次のことをもって解答としている:
・私たちのうちの、経験の後に存在している特定の判断に、因果律を適用する。
・[すなわち] この判断を、(あるものの)結果の概念のもとに包摂する [つまり、何かの結果だとする]。
・この包摂に応じる形で、心を [結果である] 判断の作用原因と見なし、そのように称する。
 こうしたやり方によって、同時に必然的な総合的判断の正しい規定や価値も、決定的に確定されたと、カントは思ったのである。というのも、
・この判断が、心や、表象の内的源泉に由来することや、
・そしてなおこの判断が、諸対象に関係することから、
「この判断は、ただ経験的な知識の形式を形成するのであり、経験的な知覚へ適用されることによって、はじめて意味をなす」と、カントは推論したのである。
 したがってカントが、確定的なものとして前提にしているのは、「人間の認識の各部分は、実在的な根拠を持っており、この根拠によってそれらは生じる」ということである。この前提なくしては、理性批判において必然的な総合的判断について言われていることは、まったく意味をなさない。したがって理性批判が、「必然的な総合的判断は、いかにして可能か?」という重要な理論哲学の問題を解こうとしたときには、次のような問いはすでに確実に [肯定的に] 決せられたことを、前提としていたのである:
・現実に存在するものは、因果律によって互いに結び付けられているのだろうか?
・そして、私たちの判断がその諸規定とともにそこから由来してくるような、そうした特殊な原因 [例えば、物自体としての心] は存在するのだろうか?
これらの問いは決せられているという前提にしたがって、理性批判は必然的な総合的判断の源泉を探求したのである。

 したがってヒュームならば、カントに対して、まず次のことへの説明を要求したであろう:
・批判哲学の基礎づけにさいして、何の権利があって因果律の適用がなされたのか?
・批判哲学は自らの体系を築き始めるにあたって、なぜ私たちのうちに存する必然的な総合判断を、何かの原因の結果であると見なすにいたったのか?
 当然のことながら、ヒュームはまた次のようにも言えたであろう:
・因果関係の概念や原理をどのように使いえるかが、まだ不確かであるかぎり、
・そしてこの概念や原理がどのようなものであるのかが、不確かであるかぎり、
・この概念や原理は、たんに主観的なものを形成するのか、あるいは現実的なものの客観的な賓辞 Prädikate であるのかが、まだ疑わしいかぎり、
認識のさまざまな部分の源泉を調べて、何ごとかを達成しようとするのはむだである。
 というのも、「私たちの認識の、源泉と原因は何か?」と問う前において、「すべて現実的なものには、根拠や原因が存在する。とりわけ私たちの認識は、そのすべての規定において、特定の原因の結果である」ということが、すでに確定していなければならないからである。
 
 しかしながら、私たちは一度、次のことを受け入れてみようと思う:
・「現実的なものはすべて、因果関係によって結び付けられている」ということは、確かであって疑いえない。
・悟性は、認識の発生根拠と規定根拠を問う権限をもっている。
 これらのことを受け入れたあとで、次のことを探求しようと思う:すなわち理性批判が、
・「心は、必然的な総合判断の原因である」ということを説明するのに使った推論が、
・また、必然的な総合判断が私たちのうちに存在することの認識から、この判断の原因・源泉の理解へと進むのに使ったこの同じ推論が、
正しいかどうかということを。そしてこの推論が、ヒュームに対してのみならず、一般的に何かを証明したかどうかということも、探求しようと思う。

 さて、この推論は次のようになっている:
1] 私たちによって、ただある1つの仕方でおいてのみ可能なものとして表象されるものは、このただ1つのの仕方で、存在することもまた可能である
2] 私たちの認識のうちの必然的な総合判断は、ただ次のような仕方でのみ――すなわち私たちが、「この判断は心から、また心の先天的に規定された活動の仕方から、由来する」と見なすことでのみ、私たちによって可能なものとして表象される
3] ゆえに、必然的な総合判断は、ただ心から、また心の先天的に規定された活動の仕方から、現実に生じている [=現実に存在する]。

 したがって理性批判は、「認識のうちに必然的な総合判断が存する可能性は、この判断を心から導出することによってでしか、私たちには表象したり考えたりできない」ということでもって、「この判断は現実に実際にも、心から由来したものにちがいない」と証明するのである。したがって理性批判は、私たちのうちの表象や思考の性質から、表象の外部に存在する物の、客観的で実在的な性質を推論する。すなわち、「ある物はかくかくしかじかの性質を、実際にもっている。なぜなら、そのある物はそれ以外には考えられないからである」と、証明するのである。
 まさにこの推論こそ、ヒュームが疑った当のものである。彼はこの推論を詭弁だと明言した。というのは、私たちの表象とその諸特性が、対象とその諸特性にどの程度まで一致するか、そして、私たちの考えのうちに存在するものが、考えの外部のものにどれくらい関係しているか、このようなことを規定する原理を、私たちは知らないからである。
 このような推論はまた、すべての独断論が基づく論拠でもある。この論拠は、表象の外部に存在するものの客観的性質や、真なる実在を規定するために、哲学においては昔から使われてきたのである。また、この論拠を適用することによって、すべての理論哲学の体系が――これらの体系が帰結するところは、互に矛盾するのであるが――、基礎づけられてきたのである。
 つまりは、ヒュームを反駁するために、理性批判は一つの推論 [すなわち、上記 1 ~ 3 の推論] を用いたのであるが、この推論こそヒュームが、まったくもって欺瞞的だと明言したものなのである。また理性批判は、「私たち人間は、物自体については何も知りえない」ということを証明するために、ある論拠 Argumentation を用いているが、この論拠は私たちを、物自体の無限の領域での重大な諸発見に導くことができよう [この1文、どういう意味なのか、筆者には不明] 。それだけにいっそう、理性批判が自らの体系の基礎固めにおいて、どのように上記の推論を用いえるのか、理解しがたいものがある。というのも理性批判は、
・表象と、表象からは独立して存在しているはずの事物との違いを、何度にもわたって、強く主張しているからである(このことによって上記の推論は、説得力や確信を失わずにはいないだろう)。
・そのうえ理性批判は、その体系でもっとも重要な部分の一つである「先験的弁証論」を、とりわけ次のことを前提することによって基礎づけているからである:すなわち、「私たちの表象と思考の有する諸規定からは、私たちの外部に存在するものの諸規定へ、決して推論できない」との前提である。

 上記の推論の小前提 [ 2] の部分] を用いて、理性批判は、「必然的な総合判断は心から由来し、私たちのうちに先天的に存在する」ことを証明するが、しかしこの小前提には、大前提 [ 1] の部分] と同様、欠陥がある。そして、「必然的な総合的判断が可能なものとして考えられるためには、この判断は先天的に存在するものとして、そして心から由来するものとして、考えられねばならない」ということは、まったくの誤りである。
 一般的に言えば、「文化の現在の段階では、人間の悟性はただある1つの仕方でおいてのみ、あるものの可能性を表象行為ができる」ということから、「つねに、またとりわけ悟性がより成熟したときには、悟性はこのあるものの可能性を、上記のただ1つのの仕方で考えられるであろう」ということは、まったくもって帰結しないのである。
 さて、理性批判で言われているのとは別の仕方においても、「私たちの認識のある部分で、必然性や厳密な普遍的妥当性が、存在しえる」ことの可能性は、理解可能である。そして、必然性やある種の総合的な判断に関しては、理性批判において述べられているのとはなお別の根拠を、考えることができる [原文は:und es läßt sich von der Notwendigkeit, die gewissen synthetischen Urteilen, noch ein anderer Grund denken, als in dieser angegeben worden ist. この文の「die gewissen synthetischen Urteilen」は、「den gewissen synthetischen Urteilen」の誤植だとして訳出しました]。すなわち、次のようなことが考えられる:
・私たちのすべての認識は、実際に存在する対象が、心に作用することに由来する。
・認識のある部分に見出される必然性も、外部の事物が心を触発する affizieren [カントの用語:対象が私たちの感性を刺激し、直観を成立させること] 特殊な仕方から、また、外部の事物が心のうちに認識を引き起こす特殊な仕方から、生じる。
・したがって、必然的な総合判断は、この判断のうちに見出される表象ともども、心から由来するのではない。対象から由来するのである。すなわち、理性批判によれば偶然的で可変的な判断を私たちのうちに生み出す対象、その同じ対象から由来する。

a) そこで、理性批判において想定されているようなことは、誤りである:すなわち、ある種の総合的命題に伴っている必然性の意識は、この総合的命題の先天的源泉、すなわち心という源泉のまごうかたなき印(しるし)だということは、誤りなのである。
 たとえば、外部知覚 [視覚・聴覚など] のじっさいの感覚には――批判哲学によれば、この感覚もまたその素材に関しては、心から由来するのではなく、私たちの外部の事物から由来するのであるが――、このじっさいの感覚には、その経験的な起源にもかかわらず、必然性の意識が結合している。すなわち、ある感覚が私たちのうちに現前しているときには、私たちはその感覚を、存在するものと認識せざるをえない。たしかに、その感覚がなかったと、あるいはその感覚のかわりに他の感覚があったと、思い浮かべることはできよう。しかしながら私たちは、この他の感覚をじっさいに感じとることはできないし、最初の感覚を消してしまうこともできない。むしろ、最初の感覚の現前を、なにか必然的なものとして、意識するのである。
 同様に、外部の対象のじっさいの感覚において現れる、諸特性 Merkmale の配置と結合についても、私たちはそれらをあるがままにしておくほかはない。[例えば] 私たちは、眼前の木のいくつかの枝を、それらが私たちの心に現前しているがままの配置で、知覚するよりほかはない。したがって、私たちの外部の対象が心に影響することによって、必然性の意識をよび起す場合が、じっさいここにはあるのである。そしてこの場合、外部の対象は、私たちが知覚しているのとは別の仕方で知覚することを、不可能なものにしている。

 さて、[上記のような] 内的そして外的な現実の感覚にともなう必然性と、ある種の総合判断において現れる必然性のあいだには、たしかに顕著な違いがある:内的そして外的な感覚にともなう前者の必然性は、一時のあいだ持続するだけであり、また特定の状況下においてしか存在しない;それに対し、私たちのうちにしばしば存在する後者の総合判断においては、[述語で表される] 性質が主語とつねに結合されていることの、必然性の意識が現れる。
 しかしながら、経験的な対象が何らかの仕方で私たちの心を触発したために、必然性の感情が一定期間私たちのうちで起きるということ [つまり前者の場合]が、一般的に不可能ではないとすれば、次のようなこともまた可能であろう:すなわち、経験的な対象が、[主語と性質の] 結合がつねに必然性の意識に伴われているというような認識を、私たちのうちに生じさせることである。というわけで、ある種の認識において見出される必然性が、その認識のアプリオリな源泉 [心] のまごうかたなき印(しるし)であるとは、言うことができないのである。

b) 理性批判が主張するように、私たちは物自体をまったく知ることができないとすれば、物自体が私たちの心へ影響することによって、どのような諸規定が心にもたらされるかということも、まったく知ることはできない。というのも、私たちに全然知られていない事物については、それがもたらしえるものについても、また、もたらしえぬものについても、私たちには分からないからである。したがって、「客観的に存在はしても私たちにまったく知られていない感覚の対象 [=物自体] は、必然性をともなう認識を生じさせることはできない」ということが、どうして確実であるといえようか?

c) 私たちの認識のなかの必然的なものや、普遍的に妥当するものを、
・心から導出することは、
・私たちの外部の対象や、この対象の作用の仕方から導出することに比べて、
必然的なものの存在を少しも理解させやすくするものではない。というのも、理性批判も認めるように、心はそれ自体としては私たちにはまったく分からないのだから、私たちの認識のうちの必然的な命題を、私たちの外部の対象からではなく、心から、また心の活動の仕方から導出したところで、どのみち理解できないことに変わりはないのである。
 「必然的な総合判断の起源は心である」ということが、「起源は私たちの外部の対象である」ということより、理解しやすいというのであれば、私たちの外部の対象には欠けている少なくとも1つの性質を、心がもつことを、私たちは知っていなければならない。この性質が、心の起源の方を外部対象の起源より、理解しやすくするわけである。しかしながら理性批判は、心のそうした性質をまったく提示しないままである。

[ここからの「 」内の主張は、アイネシデモス(=シュルツェ)に反対する側の論者を、代弁したものです]。
 「しかし、『原因と結果の相互関係は、必然性 [の観念] を含んでいるので 、原因と結果の概念は、経験からは生じえない』ということについては、ヒュームと理性批判は完全に一致している。また、原因と結果の概念を、習慣やヒュームが提示したところの観念連想の法則から導出するということも、ヒューム自身がさして評価してはいなかったらしい、同時代の哲学者の独断論を、侮辱するためのたんなる試みである。ということであってみれば、今述べたことはヒュームの反論だと――すなわち、人間の認識のうちに存する必然的なものと普遍的に妥当するものの、起源について、理性批判が主張したことに対するヒュームの反論だと――、どうして見なすことができようか?」

 [ここからは、アイネシデモス(=シュルツェ)の主張になります]
 理性批判においては、必然的な総合判断の心からの導出が提示されたが、この導出が証明されてはいないかぎり、また証明されえないかぎり、ヒュームはこの導出に対して、確かな反論をしたと言うべきであろう。ヒュームは、理性批判が主張するのと同じ観点から、「経験は、必然的なものについては、私たちに何も教えない」と主張するのではない。すなわちヒュームは、この主張を同時代の哲学者たちに対して使ったのだが、これらの哲学者の主張は次のようであった:「転変する自然のうちに存する一様性Gleichförmigkeitは、以下のことを否定すべくもなく証明している:『対象のうちには、ある特定の結果を必然的に生みだす力がじっさいに存在している。そしていくつもの経験が一致することのうちに、原因と結果の間に存する必然性の表象の、根拠や源泉がある』」。
 こうした主張に対しては、当然のことながらヒュームは次のように注意する:「ある種の変化のうちでの一致や一様性は、結果の必然性を含んではいない。こうした一致や一様性にもかかわらず、いわゆる原因が措定された後でも、結果が伴わないということは考えられる。したがって、かの哲学者たちが経験のうちで出会うことができると誤信しているものを、経験はまったく含んではいないのである(『人間知性の探求』の「探求IV」を参照 Die Versuche über die menschliche Erkenntnis. Versuch IV.)。
 これに対し理性批判は、「私たちが持っている知識の総体には、必然的な諸命題 [判断] もまた含まれている」とは認める。しかし理性批判が否定するのは、「必然的命題は経験から、すなわち [認識の] 対象が心へ作用することから生じえる」ということである。
 したがってヒュームが、「経験は、あるものが必然的であることを教えない。あるものが、かくかくしかじかの性状である、ということのみを教える」と言うとき、これは、「人が結果の必然性を見出したくなるような変化のうちには、いかなる必然性も含まれてはいない。そして必然性の概念が、互に一致する諸知覚の [共通の] 構成要素をなしてはいないのだから、そのような諸知覚からは発生できなかった」、ということを意味する。
 しかし理性批判が上記のこと [「経験は、あるものが必然的で・・・ことのみを教える」] を言うときには、これは、「心に作用することによって、私たちのうちに偶然的な認識を生み出すような対象が、私たちの認識のうちに必然的なものや普遍的に妥当するものを生じさせることは、不可能であった」、ということを意味する。したがってヒュームの場合には、経験において存在しなければならないものが問題なのに対して、理性批判の場合には、経験において存在するものの源泉が問題なのである。(原注)

(原注)理性批判が、必然的な総合命題の可能性について論証したのは、「表象の構成要素の一部は、すべての経験や、外部の対象が心へ与えるすべての印象から、独立している」ことを説明するためであった。言うまでもなくこの論証は、理性批判のうちではもっとも重要で、強力なものである。そこで私たちの今行っている検討――理性批判の出した結論の、最終的な根拠についての検討――においては、他の部門における薄弱な諸根拠の評価にまで、たずさわる必要はないであろう。
 認識における純粋空間や純粋時間の存在について書かれた先験的感性論において、上記の薄弱な根拠が、ある種の表象のすべての経験に対する先在性ということのために、証明できることはといえば、必然的な総合判断がそのために証明できることに比べると、何ほどのこともないのである。その上こうした薄弱な根拠は、批判哲学の反対者たちが何度も述べたように、誤った諸前提ないしは推論から成りたっているのである。
(原注終了)

 さて、「私たちの認識のうちの、必然的なものや普遍的に妥当するものは、ただ心から、また心の先天的に規定された活動の仕方からのみ.、由来することができる」ということは、理性批判においては証明されていない。同様に、「私たちのうちに存在すると言われる先天的な表象や判断は、経験の認識のたんなる形式であり、またそれらは、経験的な直観との関連でのみ、妥当性や意味を持つことができる」ということも、理性批判は明らかにして確定してはいない。したがって、人間の認識能力の力のあるなしを、測定などはしていないのである。

 すなわち理性批判が、すべての先天的な認識の価値を規定する論証は、以下のとおりである:
A) ある現実の対象 [例えば、机の上のリンゴ] に先行する直観や概念が、この対象に関係する仕方は、ただ一つ考えられるし、表象できる:すなわち、これらの直観や概念が、現実的な対象の認識形式 [例えば、空間・時間] 以外のものを含まないということ、形式そのものであるということである。私の主観のうちにあるこの形式は、現実のすべての印象に先行するが、そのことにより私は対象によって触発されるのである。
 したがって、私たちのうちに存する先天的な直観や概念もまた、経験の認識の形式以外のものをじっさい含まないのであり、形式そのものである。そして、これらの先天的な直観や概念は、経験的な直観に適用されるときにのみ意味をもつ。

B) 今まで独断論的哲学は、物自体を認識しているという自らの主張を証明できなかった。むしろ、物自体を規定することにおいて、矛盾に陥っていたのである。人間の認識能力も、本来的に、またこの認識能力の規定により、物自体の認識には到達できないのである。

 Aの証明について [の私アイネシデモスの考え] は:
a) Aのうちには、「事物は、私たちがそれの性状を表象行為ができるようにのみ、客観的かつ現実的に、そのような性状であることができる」という考えが、再び含まれている。したがってAの証明においては、私たちが表象する対象の特徴は、私たちがこの特徴について考えねばならないように、また考えざるをえないように規定される。Aの証明では、客観的存在が、主観的思考から論ぜられるのである。
b) 現実の諸対象に、私たちのうちに先天的に存在している表象や概念は、[理性批判が主張する] 仕方以外でも――すなわち、現実の諸対象の認識のただ条件や形式だけを、形成するという仕方以外でも―― 、関係することができると、[私には] 考えられる。
 すなわち、私たちの認識能力の働きの結果と、私たちの外部の事物の客観的性状との予定調和によって、先天的な表象や概念は、事物の客観的性状へ関係することができる。つまりこの予定調和にしたがって、心がその活動時に用いねばならない直観や先天的な概念によって、あるものが表象されると、その表象は、たんに私たちの認識の仕方において主観的な妥当性を持つのみならず、物自体の性状にも対応しており、またこの性状を表しもするのである。
 このような、先天的表象と客観的に存在するものとの予定調和の仮説は、決して何か不合理なことや考えられないようなことを、含んでいるわけではなかろう。人間が外部の事物のうちに性質として存在しているものに直面していても、知覚や感覚をとおしては、認識が人間にもたらされることは不可能であることを自然は認識したので、自然は次のようなしくみを作ったのかもしれない:すなわち、もし物自体のもつ客観的な諸性質の心への影響が可能であったならば、これらの諸性質が与えたであろうようなものを、人間のもつ先天的な表象が同時に含んでいる [=予定調和] というようなしくみである。
 [このような仮説は無謀だと思う人もいよう。だが、] 誰が自然自体を知っていよう? 自然が人間や人間の認識を巻きこんで、いかなることを企図したか、誰が知ろう? そして自然が、いかなる手段を使ってこの企図をなしたか、誰が決定できようか? [上記の予定調和説に反対するのであれば、] 自然自体についてそのように考えるのを妨げるような、自然自体のなにかの賓辞 Prädikat [=規定性] を、少なくとも1つは知っていなければならないだろう [しかしそのような賓辞を、私たちは知るべくもないのである]。何かを認識するさいには不可欠な先天的な表象や判断が、たんに現実の対象の認識形式を形成する [=理性批判の立場] といったことなくして、これら諸対象に関係しえるということ――このような可能性については、そのいくつかを容易に見つけ出せるだろうし、また考え出せるというものである。

 2番目のBの証明は――すなわち、理性批判によって提示された、「人間の認識能力は、物自体を認識できない」とか、「先天的な表象は、ただ経験的な直観に関してのみ妥当性をもつ」ということの証明は――、厳密に考えれば1番目のAの証明と同様、何事も証明してはいない。つまり、「人間の理性は、あらゆる試みや労苦にもかかわらず、あることをいまだ成しとげてはいない」ということから、「人間の理性はこれからもどこにおいても、その本質的なしくみのために、、それを成しとげることはできない」ということは、確実には推論できないのである。
 もちろん、哲学的理性が思弁の領域でなした多くの過ち [つまり、カントが非難した過去の形而上学の過ち] は、私たちを用心深くさせる。またこうした過ちの危険性は、「確かな導きを手元に持っているのでないかぎり、わけの分からぬ物自体の領域には、入らないように」ということを、教える。しかしながら、「物自体の領域は、今にいたるも発見されていない」ということから、「この領域は、将来とも発見されない、また発見されえない」ということは、確実には帰結しない。だから私たちは、人間の認識能力のもつ力や無力さそのものについては、いまだに不確かといえよう。そして、この力や無力さを規定しようとする理性批判の試みは、まったく成功しなかったのであり、自分で考えようとする人が、物自体の知識を得ようとするのを、当然ながら思いとどまらせはしないであろう。
 
 だが理性批判は、ついには命題「必然的な総合判断は、心や心の先天的に規定された活動の仕方から、由来する」を、因果律の使用によって証明する―― [とはいえこの証明たるや、] カテゴリーの適用可能性についての理性批判自身の原則に、反しているところの因果律 [これもカテゴリーの1つ] の使用によってであるか、あるいは、理性批判自らの原理にしたがえば、まったくもって証明にはなっていないかである。
 批判哲学に対するこうした [私の] 抗弁にあっては、すべては次のことにかかっている:
・必然的な総合判断を生じさせる心という表象する主観は、理性批判によればいったい何であるのかを、
・またどのような点で、「心は、必然的な総合判断の根拠を含んでいる」と、理性批判において言われているのかを、
探求することである。

 ところで批判哲学においては、心は、認識のうちの必然的なものの源泉を、形成することになる。その限りで心ということでもっては、物自体あるいは本体Noumenon, 可想的存在可想体)、あるいは超越論的理念が、考えられねばならない。
 理性批判 [=批判哲学] にしたがって、
物自体としての心が、必然的な総合判断やこの判断に属する諸表象の源泉であるとすれば、
・また心それ自体に――つまり、私たちが心をどのように表象するかにはかかわりなく、実際に、客観的に――、私たちの認識の特定部分 [=必然的な部分] の<原因となるもの Verursachung>という賓辞が、帰属するとすれば、
これは、通常の考え方には適合しているといえよう。この通常の考え方では、ある物のもつ現実な存在は、このある物の根拠をなしている別の物の現実存在でもある。
 こうしたことから、批判的体系 [カント哲学] の多くの支持者たちが、表象する主観ということでもって、実在的で客観的・現実的なものを、理解するようになったのであろう。彼らは私たちのうちの必然的な表象や判断の存在に関して、この客観的・現実的なものに対し、<原因となるもの>という認識しやすい賓辞を、付与するのである。
 しかしながら、必然的な総合判断の、[心という] 物自体からのこうした導出は、批判哲学の精神全般に明らかに矛盾していよう。またこうした導出は、批判哲学によれば人間には不可能なはずの認識を、前提としてしまっている。つまり、批判哲学のもっとも重要な原理や結論によれば、原因現実性 Wirklichkeit のカテゴリー [=純粋悟性概念] は、それらの適用が意味を持ちえるには、ただ経験的な直観にのみ適用されねばならないのである。ところが私たちには、いわゆる表象する主観 [=心] を、直観することはできない。批判哲学も認めるように、私たちは直接には内的感覚の変化だけを知覚するのであるから、このいわゆる主観は、私たちに認識可能な対象の領域には、属すことができない。そこで上記のいわゆる主観には、批判哲学自身の主張にしたがい、認識可能な実在的現実性も、そしてまた認識可能な実在的原因性も、付与してはいけないのである。
 その上、必然的な総合判断の存在を理解するために、[心という] 物自体を援用することは、この存在を説明するにあたって、悟性をまったく使用しないことであり、理性を怠惰ならしめることである。同じこの理由から『純粋理性への批判』では、自然のうちに存する秩序や合目的性を、神の存在や意志から説明することを退けているのである。そして、この秩序や合目的性について [説明するさいに]、たとえ乱暴な仮定を使ったとしても、それが物理的なものである限りは、先験的な事物 [物自体] や神的な創始者を援用するよりは、ましであると明言している。
 そこで、理性批判は私たちのうちの必然的な総合判断の存在を、心から、すなわち物自体から導出したのであるから、理性批判は自らの原理に背いているといえよう。理性批判は、必然的な総合判断に自然的な説明根拠が欠如している点を、超自然的 hyperphysisch な説明根拠 [=物自体としての心] によって補ったのだが、そうしたことで、必然的な総合判断が存在することの納得のゆく原因を求めながら、かえって理性の怠惰を促進させたのであった。
 したがって、批判哲学の精神にとってふさわしいのは、必然的な総合的命題 [判断] が存在していることの原因を、私たちがまったく知らない先験的対象 [=物自体としての心] のうちに求めることではない。むしろ、必然的な総合的命題の存在を、そのつどそれに先立って私たちのうちに存在している諸判断や諸表象の性状から、導出することだと私には思われる。むろんこのような仕方では、私たちのうちの必然的な総合的命題がどのようにして生じ、存在しえるようになるのかは、私たちには正しく把握できない。しかしながら、私たちがその客観的な性質の面からは、まったく理解していない心が、いったいどのようにして必然的な総合判断の原因でありえるのかについても、私たちには同じく理解不能なのである。
 そして理性批判の主張によれば、どのようにしてある事物の存在が、それによって必然的に措定されるところの他の事物の存在に、関係することができるのかについては、私たちには一般的に理解できないのであり、分かることといえば、知覚物 Gewahrnehmungen を「原因」と「結果」の概念のもとに包摂することの必然性だけである。そこで、私たちの認識のうちの必然的な総合的命題と、先行する諸認識 [=私たちのうちに存在している諸判断や諸表象] との結合を、私たちが理解できないということ、そしてまた、必然的な総合的命題において現れる諸規定を、先行する諸認識から導出することが、私たちにできないということは、[逆に言えば] このような導出に対する根拠のある抗弁を、だれも述べることはできないということでもある。[したがって私の考えでは] むしろこのような導出だけが、経験論的な諸原則に基づく限り――この諸原則にしたがって、すべての経験は説明されるべきであるが――、哲学の精神にふさわしい、唯一許容されるものであろう。
 しかし、次のように主張する人もいるであろう:「私たちが生きているあいだに生じている、一連の表象や内的変化のすべては、主観そのもの [=物自体としての心] という前提を必要とする。この主観において、こうした一連のものは存在するのである」。
 けれどもこの主張によっても、私たちのうちに生じる必然的な総合判断を、先行する諸命題や諸表象から導出することが、不合理だとは証明されていない。というのは、主観において存在する一連の表象すべては、その規定すべてとともに、それより先行する他の一連の表象から、そしてこの先行するものは、またさらに先行するものからという具合に、経験の原則にしたがって、導出されるだろうからである;そうしたときには、表象において表れるものを、主観自体から導出する必要は少しもないであろう。
 したがって一言でいえば、自然における秩序や合目的性を、自然自体の根拠や自然の法則から説明するのではなく、先験的創始者 [=神] を持ちだして説明することが、非哲学的で悟性の使用を破壊することであるならば、同様に非哲学的でもあれば、理性を怠惰ならしめもするのは、私たちの認識のある種の特徴を [すなわち、必然的な総合判断をもつという特徴を]、先験的存在から、すなわち表象する超自然的な主観から、そしてこの主観の活動の仕方そのものから――こうしたものについては、私たちは何も知ってはいない――、説明しようとすることである。そしてまた、超自然的な存在に訴えてみても、自然の秩序や合目的性を説明することができないのと同様に、こうした先験的存在に訴えてみたところで、私たちのうちに必然的な総合判断が存在することやその諸規定を、説明することはできないのである。(原注17)

原注17)ところで、私たちの認識のうちの必然的なものを、物自体としての心から導出することは、カントが理性批判において、表象する主観を認識することについて与えた明瞭きわまる説明に、矛盾する。こうした導出が、カントの批判的体系に矛盾することを見出すには、『純粋理性への批判』中の純粋理性の誤謬推理 Paralogismen を扱った章 [すなわち「I、第2部門、第2部、第2編、第1」、I, Zweiter Teil, Zweite Abteilung, Zweites Buch, 1. Hauptst.] を(理性批判のうちでも最もすばらしい部分であり、各行に哲学的精神があふれている)、ざっと読むだけでよい。
 しかし私はこうした導出を、おそらくカント自身が提示したようには、ここでは検討しなかった。ただ、多くのカントの体系の信奉者たちが、主観そのものを表象の形式の原因だと、つねに称する限りにおいて、またそれによって心を認識していると――この認識は、理性批判にしたがえば、人間にはまったく拒まれている――、思い上がっている限りにおいて、私は検討したのである。
 ここから分かることは、カントは彼の信奉者たちによってすら、あまり理解はされていないということである。これらの信奉者たちは、カントの批判的体系を唯一の真なる哲学体系と考えており、この体系へのすべての敵対者に対して、つねに次のように言って見せるのである:「この体系を正しく理解することと、この体系を争いの余地なく確かな、唯一の真の哲学と考えることは、同一である」。
(原注17終了)

 本体Noumenon)なるものは、悟性によってのみ表象されえるような、たんに知解的な(intelligibel)対象であり、また、また他に適当な物がないので、それへと経験的な諸知識を結合させるために、悟性が用いる知解的な対象である。この本体としての心が、認識における必然的なものの原因だというのであれば:
1] 理性批判は、空虚な想像物を――この想像物については理性批判自身が、「私たちにとって現実的なものを認識するためには、無くてもすむのみならず、それはまったく未知のものでもあるから、それは何かであるのかどうかさえ、私たちには決して知りえない」と主張している――、認識の構成要素の起源にまで高め、この想像物に「原因」のカテゴリーを適用することになろう。というのも理性批判によれば、すべてのカテゴリーは本来、感性によって与えられた対象をのみ規定できるからであり、これらカテゴリーはたんなる考えられた物に適用されると、まったく意味を持たないからである。
2] 私たちの認識のうちの必然的なものを、心から導出することは、形式面からいえばただの思考の産物 Gedanke、まったく真理性をもたぬ思考の産物ということになろう。しかもこの導出に、批判哲学があげたもっとも重要な諸成果の信頼性は、かかっているのである。
3] したがって理性批判において、「心は、必然的な総合判断の根拠である」という命題から推論されたすべてのものに対しては、理性批判自身の説くところにしたがい、確実性や真理性が否認されねばならないであろう。(原注18)

原注18)私がヌーメノンという語を用いるのは、理性批判において多く用いられている意味においてである。この意味では、ヌーメノンは、「理性-理念」とは区別されねばならない。しかし、[カントの] 批判哲学の多くの支持者たちは、ヌーメノンを物自体だと理解している。このことのきっかけは、カント自身がヌーメノンの語を、以前のアカデミズムで慣用されていた意味において、数回用いたことによる(『プロレゴメナ』101、106ページ。ならびに『純粋理性への批判』423ページの注を参照)。
 このようなことを述べたのは、批判哲学の諸前提や成果を正しく理解せずとも、この哲学の信奉者にはなりえることを、このことが証明していると思われるからである。
(原注18終了)

先験的な理念としてだけの心(表象する主体)に、私たちの認識のうちの必然的なものの根拠を、付与しなければならないのであれば、
・またこの意味で理性批判は、心にこの根拠を付与するのであれば、
私たちは、理性批判が私たちの認識のうちの必然的な総合的命題の源泉について与えた説明に対して、確実性や現実的な真理性をまったく否認しなければばならない(この理性批判の説明は、理念の規定や私たちの認識の限界についての、理性批判自身の原則と主張にしたがって、理性批判の最も重要ないくつかの学説において与えられている)。
 私のこのような結論が正しいことを証明するためには、まず、理性批判が先験的理念の特質・源泉・規定性について説くところを、簡単に述べておく必要があろう。

[以下しばらく、カント哲学の主張が紹介されます]。
 理性(推論したり、普遍的なものから特殊なものを認識したりする能力)の使用については、(理性批判が主張するところでは)論理的使用のみならず、現実的な real 使用がある。これらの使用に応じて、理性自体が諸概念や、諸原理を生みだすが、こうしたものは感性や悟性から借りてきたものではない。

 悟性が制約のある非自立的な認識をするのに対して、理性の論理的使用においては、理性は無条件なものを見出そうと努める。それは、制約のある非自立的な認識が、可能な最高の統一と絶対的な完成を得んがためである。
 こうした理性の論理的な使用でのし方は、理性の現実的な使用についての、またこの使用において根本に存する原理についての、確かな情報を私たちに提供してくれるのである。この根本に存する原理は、次の命題で表される:「条件づけられたものが与えられているときには、互いに順に従属しあっている諸条件の完全な系列も――この系列自体は、したがって無条件に存しているのだが――、また与えられており、客観的に存在している」。
 この命題は、必然的な総合的命題である。したがって先天的な命題であって、いずれにしろこの命題に適した経験的な使用はなされえない。このことによって、この命題は悟性のすべての原理から、まったく区別される。

 判断の形式が、直観の総合的統一の概念であるときには、この判断の形式は [理性批判によれば]、純粋悟性概念 [カテゴリー] と称せられる。同様に、理性の推論(間接的な推論)の形式が、カテゴリーの基準にしたがって、直観の総合的統一に適用されたときには、この理性の推論の形式は、特殊な先天的概念の源泉を含む。この特殊な先天的概念は、カテゴリーとは厳密に区別されえるためには、先験的 transzendentale [超越論的] 理念と呼ばれねばならない。

 こうした先験的理念のうちで最高のものは、絶対的な無制約者 das absolute Unbedingte [無条件者。まったく制限を受けてはいず、なんらの条件も付いていないもの] の概念である。

 この最高の理性概念 [理念] の下に位置するさまざまな理念を、見つけるためには、理性の推論のさまざまな形式を、検討しさえすればよい。というのも、これらの形式のおのおのには、特殊な理念が対応しているからである。したがって、まず最高の理性概念の下に位置する3つの理念がある。すなわち:
a) 絶対的で完全な主体の理念。この主体は、他のものの述語にはならない。
b) 現象には諸条件 [制限] が課せられているが、それらの条件がつくる一系列の、絶対的統一の理念。
c) 思考一般のすべての対象には、条件が課せられているが、その条件の絶対的統一の理念。

 悟性の諸概念と諸原理は、感覚的な知覚の統一性のみに関する。悟性の諸概念と諸原理を、感覚へ適用することなくしては、悟性はなんら実際の認識をもたらすことができない。同様に、理性の諸原則と諸理念は、悟性を感覚的な知覚へ適用することによってすでに獲得されているところの、知識の統一に関係する。したがって、[悟性のもつ] カテゴリーが、経験的な対象についての思考の特定の形式であるように、理性がもつ理念は、悟性がもたらした諸知識の特定の形式である。すなわち、この理性という能力の特性によって規定された、統一の形式である。
 したがって、理念がまず経験の諸対象へと向かうということは、決してないのである。理念は、感性と悟性によって獲得された経験知を、理解しえるためにこそ存在するのである。理念はまた、経験知において、最高の統一性と完成を――この統一性と完成については、悟性のあずかり知らぬところであるが――、理性自身の要求にしたがって、生み出しえるためにこそ存在する。

 このようなわけで、理念と理性の諸原理は、何かある先験的な対象の認識を――この対象が、私たちのもつ表象の外部に存在しているかぎり――、私たちにもたらすことなどはない。そして、経験の外部に存在する対象を、理念によって認識しようとすることは、理性の意図するところではない。理念や理性の諸原理すべては、理性の本質にしたがって、私たちの経験知のうちに限りなき統一性と完全性をもたらすために、存在するのである。そしてこの完成は、諸原理の完全性によって達成される。したがって、理性の有する理念の使用は、たんに統制的な regulativ ものであって、ただ統一性にのみ関係する。私たちの経験知は、理性のために完全になるために、この統一性を必要としているのである。

 とはいえ、純粋理性の有する原理や理念には、私たちがもつ表象の外部でもそれらが客観的に妥当するのだという、仮象がくっついている;これら諸原理や理念は、誤解によって――この誤解は、ただ理性批判によってのみ廃棄することができるのだが――、
・私たちの認識を感覚世界を越えて拡張するものと、
・また私たちに物自体の認識を与えるものと、
見なされてきたのである。つまり理念は、客観的に存在する対象についての認識だと、想定されてきたのである。理念はただ、悟性のもつ知識を完成するのに役だつものだとは、理解されえなかった。したがって、たんに私たちの認識のしくみ Einrichtungに属することがらが、物自体の客観的な特性に属することがらと、取り違えられたのである。そしてこの取り違えが、合理的心理学や先験的宇宙論、そして先験的神学などといった空想の産物の起源なのである。
[ここまでが、アイネシデモスが『簡単に述べておく必要があろう』と言ってからの、批判哲学の内容紹介でした]。
 
 私たちの上述の判断を裏づけるには、次のことを調べることが重要であろう:すなわち理性批判自身が、理念の誤用とこの誤用から生じる幻想について述べていることが、批判哲学の基礎においても――なかでも批判哲学においてされているところの、表象する主観からの必然的な総合判断の導出において――、当てはまりはしないかということである。そしてまた、どの程度まで当てはまるのかということである。
 批判哲学の賢明な擁護者たちのはっきりとした発言が、明らかにしているのは、「心が、私たちの認識のうちの必然的なものの源泉であるかぎり、批判哲学にしたがえば、心ということでもって、先験的な理念を理解しなければならない」ということである。ところが私の知るかぎり、カントは、主観ということでもって――認識のうちの必然的なものが、由来するところの主観ということでもって――何を考えるべきかを、『純粋理性への批判』のどこにも、明確に説明していない。
・『純粋理性への批判』の緒言 Einleitung や先験的感性論においても、
・またカントが表象と諸原理を、心から由来するものとして表現している個所すべてにおいても、
この心というものが――すなわち彼によれば、私たちの知識のうちの特定の構成要素 [=必然的な総合的判断] の源泉として、考えられねばならぬ心が――そもそも何であるかを、彼はいっこうに示してくれてないのである。むしろ心ということでもって、あるいは物自体を、あるいはヌーメノンを、そしてまた理念を、彼の読者に気ままに理解させるのである。
 『純粋理性への批判』における純粋理性の誤謬推理 Paralogismen を扱った章――すなわち、「どうして心が、すなわち表象する自我が、私たちのもつ知識のうちの必然的なものの根拠であり、源泉であると考えられねばならないのか」を、明瞭に語ったと推測される章――でさえも、この点についてはいかなる説明もしていない。そしてカントがこの章を執筆したときには、この章を読んだ読者が、当然にも次のような疑問を持つようになるとは、彼の念頭に浮かばなかったにちがいない:「私たちの思考の主体 Subjekt [主観] が、私たちにはまったく知られないとするなら、ではこの主観が私たちの知識のうちのある構成要素 [=必然的な総合的判断] を実際に形成すると、いったいどこから知ることができるのだろうか?」
 そのうえこの章では、私たちは実践理性という能力を参照するよう求められる。[カントによれば] 私たちはこの唯一の能力によって、私たちの理性主体 Subjekt [主観] の特性についての、私たちが本当に求めているところの知見を、得ることができるのである [原文は:Es wird überdies noch in diesem Abschnitt auf die praktische Vernunft, als dem alleinigen Vermögen verwiesen, durch welches wir . . .文中の als dem alleinigen Vermögen が3格となっている理由が、筆者には不明です。誤植?]。そして、思弁的な理性に対しては、表象する主体が現実に何であるか、また何でないかを決定する能力は、まったく認められていないのである。とはいえ、理性批判のいくつかの個所から、とりわけ『プロレゴーメナ』§46 から、人は次のように推測するにちがいない:「批判哲学の創始者 [カント] は、表象する主体が私たちの認識のうちの必然的なものの源泉であるかぎり、表象する主体ということでもって、ただ先験的な理念のことだと理解されるよう望んでいる。そしてその限りにおいて、この表象する主体に、『必然的な総合判断の、考えられうる原因 Kausalität』という述語を、付与している」。
 このことについては、ラインホルトがとりわけ明確に、『表象能力の新理論』において(とくに530ページ以下を参照 [原文は:m. s. besonders S. 530. ff. この「m. s.」の意味が、筆者には不明です])説明している。この説明によれば、たんなる理念としての表象する主体に、「私たちの認識うちの必然的なものや形式的なものの根拠」という、考えられうる述語を付与することが許されるし、また可能なのである。

 したがって、
・理性批判が行ったような、必然的な総合的命題の源泉や可能性についての説明に対しては、
・またその説明は、理性批判において提示された新哲学体系の基礎づけにもされているが、そのような説明に対しては、
まさしく以下のことが、主張できるだろう:
a) この説明によって、理性批判は私たちに、すべての経験を越え出る知見を提供した。というのは、どのようにして表象 [今の場合、必然的な総合判断にかかわる表象] が私たちのうちに生じるのかということは、私たちは一度も経験しないのであって、経験するのはただ、表象が生じており、存在しているということだけだからである。表象の起源のあり方については、ただ推測しえるだけなのである。

b) 上記の [理性批判が行った] 説明においては、経験に属するあるもの(つまり、必然的な総合判断)の存在や諸規定を理解するために、先験的理念の助けがもとめられる。しかしこの理念は、経験における悟性の使用ということについては、もともと何の役にもたたないし、経験によって確証されることも、逆に反駁されることもないのである。ただこの先験的理念が、理性の意図するところにとって欠くべからざるのは、理性がこの理念を用いて、悟性によって手を加えられた経験的知識を、絶対的な統一と完成に高めるためであり、またそのような経験的知識に、統一と完成を持ったものとして通用する刻印を押すためなのである。

c) また上記の [理性批判が行った] 説明では、悟性は、経験において生じるものから、内的感覚の諸変化の絶対的な主体 [=心] のもとへと、すぐさま舞い上がっていく。と見るやただちに悟性は、再びこの絶対的な主体から、経験に属しているものの可能性や原因の規定性へと、下降する。

d) 最後に、上記の [理性批判が行った] 説明では、悟性のもつカテゴリーが、理性のもつ理念の対象へと適用されるが、その理由は、経験にまぎれもなく属しているものの可能性は、こうした適用においてのみ考えられねばならないためである。[シュルツェの皮肉!]

 理性批判はその新しい哲学体系を、必然的な総合的命題の源泉についての説明の上に築いているが、この説明の要点を検討してみた結果、次のことが明らかであろう:必然的な総合的命題の発生の仕方について、また私たちの知識の限界について、この説明によっていかほどの真なる知見が得られたのかということ [得られなかった];そしてまたこの説明には、どのような価値があるのかということ [ありはしない]。
 つまり理性批判は、
・合理的な心理学・宇宙論・神学などの学説に対して、
・また、独断論がこれまでしてきた学説の証明の正当性に対して、
異議をとなえてきたが、そのときのすべての論拠が、
・私たちの認識のうちに存する必然的なものの、心からの導出に対しても、
・またこの導出の根拠に対しても、
・そして、私たちのもつ表象のある部分 [=必然的な総合的命題] の真の源泉について、この導出から生じる知見に対しても、
異議をとなえるのである。
(原注)

(原注)この点についてすぐに納得するには、理性批判が用いた主要な諸概念を――すなわち、ある種の表象の先天的な源泉について証明した個所で、用いた主要な諸概念を――、合理的な心理学・宇宙論・神学が、それらの有名な諸論証で用いた諸概念と、取り替えてみるだけでよい。このことによって、[合理的な心理学などの] これらの諸学が形成されるときに基盤とした証明が、まったく完全な形で得られることになろう。[シュルツェの皮肉!]
 例えば、 [合理的心理学の行う] 「思考する自我である真なる主観性」の [存在] 証明は、次のようになる:
1] ただ主観として存在しているとしか考えられないものは、やはりただ主観として存在している。
2] 私たちの思考している自我は、ただ主観として存在していると、考えられる。
3] したがって、私たちの思考している自我は、やはりただ主観として存在している。
 理性批判は、先天的な表象の源泉を説明するために、次のように推論する:
1] ただ先天的に生じたとしか考えられないものは、やはり先天的に生じたのである。
2] 私たちの認識のうちに存する必然的なものは、ただ先天的に生じたとしか考えられない。
3] したがって、云々 [この必然的なものは、やはり先天的に生じたのである]。
(原注終了)

 というのも、
1) 理性批判が、人間の認識能力について行ったと主張する綿密な研究とやらにしたがえば、ある対象について、その対象を経験しえる範囲以上に認識しようとすることや、経験的な対象ではない物の認識を要求することは、まったく馬鹿げたことであろうから。
 さて、さまざまな種類の認識が「発生すること」や、「心」ならびに「心の活動の仕方」といったものは、経験的な対象ではない。そしてこれらは、いかなる経験的直観においても、私たちに与えられてはいない。したがって、
・私たちの認識の本来の源泉を、
・とりわけ、心から認識の源泉を、
・あるいは、心の本当の活動の仕方を、
・そしてまた、心が現実の認識にもたらすものを、
いつの日にか理解しようととすることは、理性批判にしたがえば、やはりまったく馬鹿げたことなのである。

2) 理性批判によれば、すべての先験的理念についてそれらが役だつのは、ただ悟性によって手を加えられた経験的知識を、できる限り完全なものに近づけるためにである。私たちが先験的理念の用途を正しく理解するとき、先験的理念は、経験に属さないものや、現実には存在しないものについての認識を、私たちにもたらすことはできないのである。したがって、私たちの認識のうちの必然的なもの源泉を、絶対的な主観 [=心] から説明するために、この絶対的な主観という理念を使用するならば、それは理性批判 [の本来の論理] によれば、理性概念 [=理念] の誤用なのである。そして理性批判 [の本来の論理] によれば、この説明は悟性に任されねばならないのだが、悟性は自らの規定にしたがうとき、その概念を経験以外の対象へ適用することについては、何も知りはしない。
 したがってこのような [理性批判本来の] 観点では、理性の理念を――この理念は、もともと悟性による知識に、絶対的な完成を与えるためにのみ使用できるのだが――、諸事実を理解することのために適用したり、またこのことによって悟性の使用を制限したり、やめたりするのは、理念の誤用である。(原注)

(原注)理性は、私たちの認識のうちの必然的なものを、表象する主観から導出することを、要求などしてはいない。また私たちは、内的感覚の諸変化の認識を完成させるために、絶対的主観という理念を欠くことはできないかもしれない。たとへ、表象がそのすべての諸規定とともに、私たちの外部の物から由来することが確かとしてもである。
(原注終了)

3) 最後に、
・悟性がその思考によって、客観的で現実的な存在に到達したと思い込むならば、
・またこのような存在がもつ性状を、思考に帰属する諸規定から推論するならば、
こうしたこともまた、理性批判によれば、たんなる錯覚である。
 そこで、私たちの認識のうちに存する必然的なものの根拠が、心のうちに含まれていると考えられることだけから、この必然的なものの本当の現実的な根拠を発見したと信じるのもまた、理性批判 [本来の論理] によれば、たんなる錯覚であり、この錯覚は悟性の自己認識の欠如から生じている。
 したがって一言でいえば:
・合理的な心理学・宇宙論・神学が約束する認識の現実性に抗して妥当するものは、
・必然的な総合的命題の源泉を、表象する主体 [=心] から説明する学説が約束する認識の真理性にも抗して、
また妥当する。そしてこの表象する主体からの説明は、そのすべての証明や根拠付けとともに、理性批判において提示されているような仕方においては、詭弁としか言いようがない。ただ、私たちが批判哲学にしたがって、悟性と理性の諸概念の真なる規定性を知ったときには、こうした詭弁の仮象もすぐさま消えうせるというものである。

 さてこうした詭弁によって、ヒュームの懐疑論は根本から除去されたり、消失させられたというのだろうか? いささかなりともそのように思われるとすれば、それは彼の懐疑論によって提出された課題を、まったく不十分にしか知らないためである。理性批判が行ったところの、私たちの認識のうちの必然的なものを心から導出するといったようなことに対しては、少なくともヒューム自身はまず次のように言ったことであろう:
「この導出は、そのすべての特性からして、純粋理性の弁証論についての部 [『純粋理性への批判』, I, Zweiter Teil, Zweite Abteilung(I、第2部門、第2部)] に属する。理性批判は、この部を、とりわけ誤謬推理 Paralogismus を扱った章 [I, Zweiter Teil, Zweite Abteilung, Zweites Buch, 1. Hauptst.(I、第2部門、第2部、第2編、第1章)] を、『私たちの認識の一部は、霊魂から由来する』という主張でもって、増補すべきだった」。[シュルツェの皮肉!]。

[ここからの「 」内の主張は、アイネシデモス(=シュルツェ)に反対する側の論者を代弁したものです]。
 「しかし上記の [アイネシデモスの] 反論は、理性批判に対しては、まったく当をえたものではない。つまり、理性批判はただ、
・『私たちは、認識のうちの必然的なものの源泉を、悟性と理性の特性のしくみ Natureinrichtungen にそって、どのように想定しなければならないか』ということを、説明しようとしたのであって、
・『この源泉が客観的・現実的にどのような性状であるのか』ということを確定しようとは、少しも望んでいなかったのである。
 「理性批判は、必然的な総合的命題を心から導出することによっては、
・何かある先験的なものについての認識を、
・また心自体についての認識を、
・そして心のうちで、すべての経験に先だって、存在していたり生じたりしたものについての認識を、
約束も与えもしない。上記の導出によって――この導出が、理性と悟性の本質にかなっている限り――理性批判が証明するのはただ、『私たちは、物自体の認識を得ることなどはできない』、『私たちのすべての現実の知見は、ただ感覚的世界に限られねばならない』ということである。
 「もっとも、理性と悟性の本質にかなっているものは、また私たちにとっても、おそらく真実であろうが」。

[ここからはまた、アイネシデモス(=シュルツェ)の主張となります]。
 上記のような主張に対して:
1] まず言われるべきは、「理性批判は、『私たちのもつ異なる諸表象間での優先順位を、どのように考えるべきか wie wir uns den Vorsprung unserer verschiedenen Vorstellungen zu denken haben』ということ以上のことを、説明しようとは欲していなかった」との主張は、理性批そのものからは読み取れないということである。理性批判は、私たちの認識のうちの必然的なものや偶然的なものの源泉についての自らの主張に、たんに論理的な真理性を与えるのではなく、どこでも実在的な真理性を与えている。そして、理性批判はこの自らの主張を、もっとも確定的なものだと表明する。理性批判によれば、
・哲学はこの確定的なものをただ提示 aufweisen しさえすればよく、
・私たちはこの確実なものを、理性批判が規定したように考えねばならないのみならず、
・この確実なものは私たちの表象の外部で、理性批判によって規定されたようなそれ自体の性状において、現実に存在する、
というのである。

2] さらに、理性批判が認識の構成要素 [=必然的な総合的判断] の源泉について主張することの真理性と確実性を、私たちの悟性にたいして十分証明したというのであれば――すなわち、「この源泉は、理性批判で述べられている仕方以外には、考えられない」ということから、理性批判が私たちに十分証明したというのであれば、先験的な心理学・宇宙論・神学の諸教説もまた、十分に確実なものといわれるべきであろう。というのも、これらの教説は、「これらにおいて述べられている仕方以外には、考えられない」ということから、ふつう証明されるのであるから。そしてこれらの教説も、理性批判とその諸成果ともども、確実性と信頼性を要求できよう。理性批判を成立させる根拠と、先験的心理学などを成立させる根拠は、まったく同じ事情にあるのである。

3] 最後に、必然的な総合的命題が心に源泉をもつということの論拠として、理性批判が挙げているすべての根拠が、たんに主観的なものであれば、つまり
・これらの根拠は、ただ私たちの思考の仕方についての無いとはいえない諸規定からのみ、由来するのであって、
・私たちの外部の事物とは、なんら関係がないのであれば、
次のような問いが生じるのも、もっともであろう:「これらの根拠がもたらす結果は、私たちの認識の諸法則に適切で適合はしていても、仮象 Schein 以外のものではありえないのではないか? そしてこの仮象は、認識総体にかかわる真の理解へと、私たちを導くのだろうか?」

 ここでは、およそ次のようなことも考察されねばならない:「実在的な充足理由律が、たんに主観的な原理であり、経験における諸表象の連関にのみ適合する原理であるとされるならば、物自体に帰属するものや、私たちの表象の外に存在するものは、意味されなくなってしまう;また、認識の構成要素の現実的な根拠については、何も言えなくなる。そしてこの根拠についての探求は、すべて無意味となってしまう」ということである。
 すなわち、「私たちのもつ知見 Einsichten のあれこれの構成要素の、本当の実在的根拠や原因は何か?」ということを、理性的に問いえるためには、すでに次のことが確定されて、確実でなければならない:
・因果関係が、現実的なものの des Wirklichen 客観的な賓辞であること。 [例えば:現実的なものである A は、現実的なもの B の原因となっている。]
・私たちの認識の構成要素が、因果関係の法則にしたがって、[客観的な] 事物 Etwas ともともと実際に結びついていること。
 これとは逆に因果関係が、たんに表象や思考の仕方に属するものならば、それらとは異なるものとしての、認識の現実的な源泉について、また認識の真の原因について、問うことはできない。したがって、理性批判において提示されたような因果律の規定 [=たんに表象や思考の仕方に属するものであるという規定] は、私たちのもつ知識の真の源泉に関する哲学や、この知識の発生の仕方に関する哲学すべてを破壊する;また、知識の源泉についての主張すべてを、またこの主張から導出されるすべてのものを、空想の産物と明言することになってしまう。というのも、前記 [理性批判] の因果律の規定にしたがって考えるときには、「表象の根拠ないし原因として、ある何ものかが実際に存在するのか?」ということを問うことすらできず、ただ、「諸表象を経験として理解しえるためには、悟性は己が活動の諸規定にしたがって、どのように諸表象を相互に結びつけねばならないのか?」と、問えるだけなのであるから。

 因果律はたんに主観的な悟性原理であるという [理性批判による] 規定は、理性批判の反対者すべてにとって、まさに [理性批判に賛同するための] 最大の障害であった。すなわち、「原因」と「結果」の概念は、たんに表象どうしの結合が変容 Modifikation したものであるとして、「私たちの認識のうちの必然的なものは、心から現実に由来して生じたものである」とみなすことは、理性批判の反対者たちには、理解できないことだったのである。
 そして彼らにとっては、批判哲学の枢要な命題である「必然的な総合判断は、表象する主観がもつ能力の産物である」は、何の意味も持たなかった。というのもこの命題は、カテゴリーや理念の本質についての理性批判自身の説明にしたがえば、次のことをしか言ってはいないからである:「私たちは必然的な総合判断を、悟性の主観的格率によって、悟性使用の1形式の産物と(つまりある能力の産物と)、見なさなければならない。そして、特性としてのこの悟性使用の1形式は、理性使用の1形式(すなわち表象する主観)に帰属する」。

 さて、「ヒュームの懐疑論は、理性批判において提示されているように、認識のうちの必然的なものを心から導出するということによって、完全に否定されてしまったのか?」という問題に対して、私は納得のいく解答をすでにしたと思う。しかも私には、批判哲学のもっとも基本的な諸論拠のこうした点検にあたって、
・批判哲学がヒュームの懐疑論と論争するときに、
・また、批判哲学自身の体系の諸成果を基礎づけるために、
批判哲学の助けとなるようなことを、見落としはしなかったという思いがある。
 批判哲学のもっとも基本的な諸論拠の正当性にたいする私の疑いは、なにも『純粋理性への批判』を欠陥を見出そうとして読んだために生じたのではない。むしろ『純粋理性への批判』を知ってからというもの、この哲学の導きや教示によって、物自体についての知識の可能・不可能性について、ついには納得できるのではないか、また私たちのもっている知見の現実性の真の限界について、教えてくれるのではないかという大きな希望を、ずっと抱いてきたのである。
 しかしながら、この希望の実現を期待し、そして『純粋理性への批判』によって与えられた体系が、まったき明白さにおいて完璧に証明されることを、心に思い描いたときに、この証明に対するこれまで述べてきたような疑念が、湧きおこったのである。そして理性批判のあげた成果の諸前提を、検討してみればみるほど、私の疑念の根拠も、いよいよ明瞭かつ重大なものになっていった。批判哲学の支持者たちが、これらの疑念を反駁し、解消されんことを!
 だが今にいたるまで、彼らのうちのだれ一人として、彼らの著作においてこうした疑念に注意をはらった人はいない。けれども批判哲学を擁護するときには、ヒュームの主張したことにとりわけ注意をはらうならば、理性批判のたしかにすばらしい不朽の仕事に対し、本当の功績になると私は思う。というのも、今のような理性批判の状況では、「理性批判は資格も無いのに、ヒュームの懐疑論への勝利を誇っている」という批判に、根拠があることになってしまうからである。
 この勝利が、理性批判によって勝ち取られたものではまだないとすれば、理性批判はみずからの永続的な妥当性を、望むことはできないであろう。そして遅かれ早かれ、理性批判は懐疑論によって名声を喪失させられよう。ちょうど理性批判自身が、多くの古き独断論的体系を震かんさせたように――これらの創始者たちは、彼らのの体系が永続すると信じていたが――、理性批判は懐疑論によって、根底から震かんさせられるであろう。
 いずれにしてもヒュームの、因果関係の概念や法則を使用することへの攻撃は、まことに深刻なものであった。この攻撃は、近代哲学に対して、その状況に応じて常になされえたのである。ロックやライプニッツの時代以来、全哲学は表象の源泉についての研究によって基礎づけられてきたが、このヒュームの攻撃によって、哲学を体系化するための素材が、私たちからはまったく奪われたことになる。したがって、
1] この損失を完全に補うことなくしては、
2] そしてまた、
  ・普遍的に妥当し争う余地のない命題から、「因果関係の原理や概念は、表象の発生にさいしても妥当する [=物自体が心に働きかけて(原因)、表象が生じる(結果)という因果関係が成立する]」ということを証明するか、
  ・ [因果律とは] 別の原理から、表象と表象の外部のものとの関連を説明するということ
なくしては 、
a] 認識の発生の仕方について、
b] 認識の構成要素の実在性について、
c] そして、表象の外部に存在する、あるいは存在しないとされる何かあるものについて、
なにかを言ったり決定したりしようと考えてはならない。またそのようなことをすることによって、なんらかの哲学を――哲学とは、恣意的な意見の集まり以上のものなのだから――完成しようとも、考えてはならないのである。
[続く]
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