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 理性批判 [カント哲学] の越権に対する懐疑論の弁護 [1]

   
ヒュームの懐疑論の簡単な叙述

 [ここでは、ヒュームの懐疑論が紹介されます。本文にとりかかる前に、彼の懐疑論の要点をまとめた原注12の d の個所を、まず読むことをお勧めします。
また、ヒュームの思想に詳しい方は、この節を飛ばすのも可です。]


 ヒュームによると:
1] 私たちのうちに表象が生じるのは、存在している対象が、私たちの心に直接あるいは間接的に作用することによってだとすれば、
2] あるいは表象が、私たちの外部の原物 Originalien のいわば心への刻印だとすれば、
3] そしてこの点に、表象の実在性 Realität が基づくというのであれば、
・「原因」「結果」「力」「能力」といった概念や、
・それらに関連する「活動」「受動」「効果」「結合」「必然性」といった概念も [すべてみな表象であるから]、現実的であるためには、表象の外部に存在する対象が、私たちに与える印象から、直接ないし間接的に発生したものでなければならない。

 ただ因果関係の概念の諸特性を展開させることによってのみ、
・因果関係の概念が、諸対象が私たちの内的あるいは外的感覚に与えた印象から、実際に由来するのかどうか、
・因果関係の概念は、表象の外部に存在する対象がもつ何かあるものに、現実に対応していて、実在性をもつのかどうか、
ということを、私たちは決定することができるのである。

 原因と結果の関係にある事物は、因果的結合の概念によって、必ず以下の3つの関係において存在していなければならない。
1) それらの事物は互いに隣接し、接触していなければならない。
2) 原因はつねに結果より、時間において先行しなければならない。というのは、原因は結果が現実になることの条件だからである。
3) 原因は結果と、必然的に結合されていなくてはならない。
 3番目の関係が、最も重要で不可欠である。つまり、2つの事物が互いに隣接し、一方が他方より先に存在していたとしても、両者はまだ原因と結果ではない。原因と結果に両者がなるのは、一方が他方を規定することによって、そして他方は一方によって規定されていることによって、あるいは他方の諸性質が、一方に依存していることによってなのである。

 原因結果の概念に属する1番目と2番目の関係について言うと、私たちの経験によればこの2つの関係は、原因とその結果と見なされるたいへん多くの対象において、存在している。例えば、衝突することによって他の物体を動かす物体は、他の物体に接触するのみならず、他の物体の運動よりそれ自体の運動の方が先行している。

 しかし、「原因と結果の本質に属する3番目の [必然的に結合しているという] 関係もまた、経験されるなにかの対象において存在している」ということや、「この3番目の関係は、私たちの外部に存在していて、それを私たちが感覚することによって、私たちの表象のうちへ移行する」ということは、証明するのがまったく不可能である。
 すなわち、原因とされているどの対象においても、その結果を規定したり、結果を必然的に生み出したりするものを、私たちは見出すことができないのである。例えば、ビリヤードの球が他の球に当たると、確かに私たちは、一方の球の運動に、他方の球の運動が続いて起こることを知覚する。これが今の場合に、経験が教えることのすべてでなのある。それに対し、結果を原因と結びつけるものを、すなわち当てられた球の運動を、当たる球の運動に必然的に結合するものを、発見することは不可能である。
 同様に私たちは、意志とその発現 [例えば、行動や表情など] との間に、「必然的」な結合を見つけ出すことは、将来ともできないだろう。すなわち、意志の発現にさいして、私たちのうちに実際に存在するものに注意を向けるならば、ある表象の後には、別の表象や物体の運動が存在するということしか、知覚しないのである。表象と表象、ならびに表象と物体の運動を、まとめるような vereinigen 絆を知ることは、私たちにはまったくできない。
 また、意志がいわゆるその結果とどのように関連しているかを、感じることは決してない。私たちはただ、意志の傾動 Neigung の表象に続いて、何か別のものが起きるのを、見るだけである。したがって、外部感覚の経験も、内部感覚の経験も、[原因と結果の] 必然的結びつきに相応するような何ものかを、含んではいない。この必然的結びつきが、原因と結果の本質に属しているのであり、原因と結果の関係を形成するのではあるが。

そしてまた[因果関係というものがあるとすれば]、私たちが
・ある対象のもつ力や、
・ある対象をして特定の結果の原因たらしめているものを、
知っているというきには、その対象を考察することによって、何がその対象から結果として生じるかを、すぐさま述べることができ、またそれを規定できなくてはならないであろう。というのも、ある性状 [上記の「力」と「原因たらしめているもの」を指す] についての知識は、その性状に属しているものすべての知識を、またその性状の本質的な構成要素をなすものすべての知識も、含んでいるからである。
 しかし、対象を初めて見たときや、また対象の諸性状を初めて知ったときには、その対象がどのような結果を伴うかは、認識できない。経験の集積や諸事実が、はじめてその対象からどのような変化や帰結が生じるかを、私たちに教ええるのである。

 最後に、因果的結合の本質に属する必然性という特性は、対象間の結合に関する多くの似たようなな経験からは生じないし、また導出もされない。経験が教えるのは、ただあるものがそこに存在するということ、そして、そのような事はしばしば起きるということ、またある状況下ではひんぱんに生じるということだけである。そのような事が、常に、必然的に生じざるをえないということは、経験は決して教えることができないのである。
 もちろん、特定の出来事とそれが起きる状況の関連に関する、いくつかの互いに一致する経験から、「将来も、この出来事とこの状況は、再び結びついて現れるだろう」と、私たちは推測するし、また [その状況と] 似たような原因からは、[その出来事と] 似たような結果を期待する。この推測は、日常生活の事柄や行為においては、役だつであろう。しかしながら、だからと言ってこの推測が、誤りでないということではない。また、この推測において現れる結論は、推測の前提にあるものよりも多くを含んでいる。というのは、「自然は変化するかもしれず、過去は未来の指標とはなりえない」との疑念があるときには、幾度も存在したということから、将来も常に存在するということは、推測されないのだから。
 上記の疑念は分かりやすいだけでなく、大変理にもかなっている。なぜなら、
・ある事物が幾度か存在し、互いに結びついているということは、それらが常に存在し、結合しているということを証明しないし、
・経験から言っても、事物の性質 Natur はしばしば変化するし、
・一度あるいは数度にわたって特定の諸対象におきた変化が、常にまた継続的に、それら諸対象すべてにおきるわけではないからである。
 そこで、因果関係の概念の本質に属するところの、[原因-結果] 結合の必然性もまた、[結合しているという想念に] 一致する経験が多ければ、成立するというわけではない。一致する経験がいかに多くとも、原因-結果の結合の必然性は、そこには存在しない。だから、私たちのうちにこの必然性の表象を、生じさせることもできないのである。

 したがって、「原因」「結果」「力」「能力」「活動とその結果」という概念は、私たちの心に作用する対象の、内部のなにかへ関係するということはない。そしてこれらの諸概念は、内的な経験であれ外的な経験であれ、経験から写しとられる abkopiert こともない。そこでこうした諸概念に、表象の外部に存在するような実在性が、帰属することはないのである。そして、表象の実在性は、「表象が、経験のうちに存在するものから発生する」ということに基づくのであるから、「原因」「結果」という概念に、実在性を与えることは慎まねばならない。というのは、これらの概念の本質的な部分が、いかなる経験においても現れないようなものを含むからである。

 私たちの外部の対象に、「原因」「結果」「能力」「活動」などの概念を適用できると、私たちが考えるのはどのような場合であろうか――このことに注意するならば、これらの概念の真の起源は、容易に見出せるであろう。
 特定の出来事が前後して起きることをいくつか経験したからといって、一つの出来事の存在から他の出来事の出現を、推測することはできない。ある変化が一度、あるいは数度にわたって、他の変化の後にあったからといって、常にこのある変化が、他の変化に続くことを期待するとすれば、それは許しがたい性急さであろう。
 しかし、[2つの] 出来事が今まで常に、そしてしばしば結びついて vereinigt 現れているときには、一方の出来事から他方の出来事を予測することを、私たちはちゅうちょしない。そしてまた、この他方は一方に依存していると、ちゅうちょ無く説明する。したがって、もともと「原因性 Verursachung」とか「依存」という概念は、多くの同じような、特定の出来事の結びつきの諸例から、発生したのである。つまり私たちの心は、[以前と] 似たような出来事が前後して起きることを、しばしば知覚することによって、ある出来事の存在の後には、以前にそれとふつう結びついていた出来事が存在するようになることを、期待するのに慣れているのである。そして、特定の変化が前後して起きるということが、たびたび存在することにより、しだいに私たちの空想力は、そのような出来事の一方が一たび知覚されるや、以前にその出来事と結びついていた他方の出来事を、すぐに想像するのである。そしてこのことによって心のうちに、特定の2つの表象は必然的に結合しているとの、確信がもたらされる。これら2つの表象は決して分離することはなく、一方の表象には必ず他方の表象が結びついている、という具合にである。

 したがって、原因と結果の本質に属している必然的な結びつきなるものが、私たちが原因や結果と見なす諸対象のうちに、存在しているのでは決してない。私たちがしばしば直接に、相前後して知覚した2つの対象の表象が、たんに順に起きるということのうちに存するのである。そしてこの必然的な結びつきは、私たちの空想力がその活動の順にしたがって、しだいに獲得してきた諸規定の産物にすぎない。
 「原因」「結果」「力」「能力」「活動」「受動」「原因性」「依存」といった概念は――経験に応用すると、有用ではあっても――、表象の外部に存在している対象に、その性状として帰属するような、あるいはしえるようなものではないのである。外部の対象に「力」や「能力」を付与する人や、また外部の対象は、因果関係によって [相互に] 結ばれていると信じている人は、特定の諸経験の似たような結合から表象が獲得した特徴を、表象とはまったく異なる対象に転移しているのである。[すなわち]そのような人は、繰り返される似たような諸経験をとおして、私たちの心が、一方の表象から他方の表象へ移行することにおいて、心が獲得した規定を、表象されている対象 [自体] がもっている規定と、見なしているのである。

 さて、因果律と、「客観的な自然法則が存在する」との確信のみが、私たちをして表象外の知識などを求めさせるのである。また、「物自体は、因果関係によって相互に結ばれている」などという真理 [シュルツェの皮肉] が、私たちをして、表象と表象外部の事物との関連を、説明させようとするのだし、認識の実在性を証明させようともする。ところがこれまで証明してきたように、因果律はたんに、習慣からの観念の結合による主観的な法則なのだから、私たちはすべての表象の実在性や、これら表象が客観的真理であることを認識したいというすべての要求を、廃棄しなければならない。また、客観的な自然自体の合法則性を、認識したいという要求も、すべて廃棄しなければならない。独断論者たちによって、こうした認識について言われてきたことは、まったく根拠はないのである。(原注12)

(原注12)
 ヒュームは、因果律の客観的な実在性に対して、また因果律を表象の外部の事物に適用することに対して、疑問を呈した。しかしその呈し方によって、彼自身が次のような考えをひき起こすきっかけを与えてしまった:「こうした疑問と、ヒュームの懐疑論のすべては、経験論の根本命題に――この根本命題によれば、人間の持つすべての認識は、ただたんに感覚から由来する、というのだが――基づいている」。
 ここから、ヒュームの反対者のうちでもっとも明敏な人たちですら、次のいずれかを証明したと思ったときには、ヒュームを完全に論破したと錯覚したのである。すなわち、
・必然的結合の概念、すなわち、原因および結果概念の本質的な構成要素を形成している概念が、ある種の経験においては現れるということか、
・あるいは、原因と結果という概念は、内感および外感の感覚以外のものから由来し、そして導出されるにちがいないということかである。
 しかし容易に分かることだが、このようなヒューム論駁のしかたでは、なにも証明されえないし、また――「すべての認識は、対象が心に与える印象に由来する」という命題を、彼の懐疑論の最高の原理と見なすとき――彼の懐疑論の真の根拠を見誤るのである。
 a)「すべての認識は、対象が私たちの心に与える印象や作用に、直接あるいは間接に由来する」という命題を、ヒュームが、異論の余地のない原理として想定したり、この命題に彼の懐疑論を基づかせていたとすれば、彼はひどい矛盾を犯していたことであろう。というのもこの命題が真理であるということは:
・自然の客観的な法則としての因果律や、物自体が、真理であることを前提としており、
・また客観的、現実的に、原因が存在するということを、確実なこととして前提にしているからである。
 したがってヒュームが、経験論的論拠を真の原理として、彼の懐疑論の基礎に置いていたのであれば、ヒュームは、「認識のある部分は、実在的根拠(Real-Grund)を持つ」ということから、
・どこにも実在根拠は存在しないということか、あるいは、
・私たちは、実在根拠の存在については何も知ることはできないということを、
証明してしまったことになる。ヒュームの著作によって彼の明敏さをいささかでも知る人が、ヒュームがこのように矛盾した証明や推論をしたなどと考えることは、私には想像もできないことである。
 b) ヒュームは、因果律の客観的な実在性の確実性を、すべて疑ったことによって、彼はまた必然的に同時に、次の命題も真実なものとは認めずに疑ったはずである:「人間が行う認識のある部分は、原因や実在的な根拠をもっており、存在している対象が私たちの心に与える印象から、生じている」。
 それなのに、ヒュームの [因果律の客観的実在への] 疑いから必然的に生じるこの結果を、彼は実のところ理解できず、気づかなかったとでもいうのだろうか? むしろ彼は疑いはしても、「私たちがもつ表象は、表象の外部にある物の作用によって生みだされる」ということを、彼は確実なこととして、受け入れたとでもいうのだろうか?
 c) それではヒュームはどうして、彼が因果律の客観的な実在性を疑うときに、「すべての認識は、存在している対象が、私たちの心におよぼす印象から由来する」という命題を、前面によく押しだすようになったのであろうか? この理由は、英国のヒュームの同時代の哲学者たちが、哲学において確実だと考えていた事を知れば、すぐに分かるのである。
 つまりロックは、人間悟性についての彼の不朽の著作によって、ひろくヒュームの同時代のイギリス人たちに、次の命題は確実に真理であり、争う余地なく確かであると、思い込ませたのである:「すべての認識は、感覚的な印象から直接ないし間接的に由来する。そして認識の実在性は、認識が客観的に表象の外部に存在するものによって、ひき起こされることに基づく」。
 したがってヒュームは、同胞に受け入れてもらいたければ、また自分の著作を彼らに読んでもらいたければ、ロックの哲学のもっとも重要な結論に、反論や論難するわけにはまったくいかなかったのである。そこでヒュームは、賢い人誰もがそのような状況下ではすることをした。彼は「人間性にそって」(訳注2)議論したのである。彼の時代の哲学においてもっとも確実とされ、またもっとも普遍的に妥当した諸命題に、「因果律には、客観的な実在性は付与できないであろう」という証明を、彼は結合しようとしたのである。
 すなわち彼が、「原因と結果の概念のうちには、この概念の本質に属する構成要素だとされながら、外的および内的経験のいずれからも、決して由来することのできないものがいくつか存在する」ということを明らかにしたことによって、因果的結合の原理が持っていた客観的価値への人々の確信も、消えていったに違いない;それらの人々は、ロックの体系にしたがって認識の実在性を、認識は外部の対象に起因とするということから、また経験から、導出していたのであるから。
 つまりヒュームは、同時代の独断論に反論するときには――彼が独断論に反論するときには、しばしばそうしたのだが――、[相手の論理に] 適応してそれを利用した。そして、同時代の独断論それ自身の原理によってさえも、因果関係の諸原理と諸概念には、表象の外部に存する実在性を付与できないことを、彼は証明しようとしたのである。
 d) ヒュームは彼の著作で、彼の懐疑論に特有な最高の諸原理を、一度ならず明確かつ完全に述べている。これらの原理は、以下の諸命題で表される:
1) すべての認識は、表象から成りたつ。私たちによって認識されるものは、表象されていなければならない。
2) 現実的な真の認識はどのようなものでも、認識の外部の事物と連関していなければならない。この連関がなければ、その認識には実在性がないことになる。
3) 私たちをして、表象を超えさせ、表象とは違う対象やそれ自体としての対象について認識させるような原理は、存在しない。
4) 独断論者はみな因果律を用いることで、表象の性質を認識することによって、表象外の事物の性質と存在を認識したかったのである。しかし、私たちにとっては因果律といえども、まずはたんに主観的なものであって、表象に属し、また表象相互の結合に属するものなのである。そして因果律の客観的な妥当性を明らかにするには、因果律とは別の原理が必要なのであるが、こうした原理は今までの哲学においてまだ立てられていないし、矛盾律のうちにもまったく含まれてはいない。
 e) したがってヒュームに抗して、感覚や経験以外の源泉から、因果関係の諸概念と諸原理を人々が導出するときには、どの程度のものが証明されるかは、おのずと明らかであろう [何も証明されない]。というのも、「これらの因果関係の諸概念や諸原理は、先天的(アプリオリ)に悟性のうちに存在する」ということが説明されたとしても、この説明によっては、もともとヒュームが立証されておいてほしたかったことのすべては――すなわち、人間の思考法の外部での、そしてまた物自体についての、因果関係の諸概念や諸原理の妥当性が――、いまだ証明されているわけではないからである。
 しかし、この妥当性は証明されていなければならないのである――もし私たち が哲学の探求において、表象の基礎をなしており、表象の外部に存在するといわれるものを、問題にしたいというのであれば。しかしこの点については、後ほどより詳しく検討せねばなるまい。
 その上、結合の必然性が実際に現れたり知覚されたりしているような経験が提示されたとしても、ヒュームが完全に反駁されたとは言えない。というのも、なるほどこれらの経験は、「ある感覚が、因果関係の諸概念について私たちがもっている表象の源泉である」ことや、「これらの概念はかなり多くの場合において、私たちの外部に存在するものに関係している」ことを、証明するかもしれない。けれども、このような経験からは、「感覚世界のすべての対象が、因果律に従って変化している」ということは、まだ明らかにされていない。ましてや、「因果律が、全宇宙のすべての対象に対して妥当性をもつ」ことが、明らかにされているのでもない。
 したがって、ヒュームの要求をかなえたいのであれば、「因果律は、物自体すべての法則である」ことを、異論の余地なく証明するか、因果律とは別の、異論の余地のない原理を――私たちに、表象と表象外の物との連関について教えるような原理を――提示しなければならないのである。
(原注12終了) 
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   『純粋理性への批判』によれば、必然的な総合的判断の源泉や価値は、何であるのか?

 [ここでは、カント哲学の認識論が、紹介されます。『純粋理性への批判』の出版から十年、若き俊才がとりわけカント哲学の枢軸をなす先天的総合的判断を、どのように紹介するのか興味あるところです。けれど結果としては、今日の哲学史入門で普通に叙述されるところと、変わりありません。
 カント哲学に一応の理解がある人は、この節を省略されるのも可です。]


 『純粋理性への批判』の最終目的は、人間の認識能力のそれぞれ異なる分野がもつ能力と限界を、規定することである。異なる分野というのは、感性・悟性・理性の3分野である。
 『純粋理性への批判』によれば、この目的が達せられるのはただ、異なる種類の認識のそれぞれの源泉が、探求されることによってである。そしてこの探求の完成によって、私たちは初めて次のことを完全に知るのである:
・私たちはどの程度知ることができるのか、あるいはできないのか、
・認識能力が生み出すものの価値は、どのようなものか、
・とりわけ理性は、経験に依存せずに自らだけによって、何を認識できるのか。

 人が経験による知識を持っているということは、否定できない事実である。
 だが私たちの持つ経験による知識は、知覚の [たんなる] 集積を形成するのではない。この経験による知識は、直観と判断からなっているのである。あるいはこの経験による知識は、相互に結合されている知覚からなっている。そしてこの結合は、必然的に規定されており、法則にかない、不変的である。
 さて、私たちの現実的な知識は、判断からできているが、その判断は大きく2つに分かれる:分析的判断と、総合的判断である。分析的判断というのは、その判断の述語が、明白にあるいは隠れたかたちで、すでに主語に含まれているような判断である [例えば、「三角形は3つの角をもつ」]。これに対し、総合的判断は、述語と主語は結合されているにせよ、述語が [内容(内包)的に] 主語の外部にある判断である [例えば、「ソクラテスは哲学者であった」]。分析的判断は、[主語を] 説明するのであり、総合的判断は、私たちが主語について持っている知識を拡大するのである。

 また総合的判断においても、大きな違いが表れる。多くの総合的判断では、主語と述語の結合は偶然的である。これに対し、それ以外の総合的判断では、この結合は必然的で、普遍的に妥当するのである。
 偶然的 [結合の] 総合的判断の源泉は、疑いもなく経験と感覚である。このような判断の真・偽は、経験と感覚において検査されねばならない。
 必然的な [結合の] 総合的判断 [=先天的総合的判断。例えば、「5+7は12である。」、「作用と反作用の大きさは、等しい。」] は、必然性を含んでいるので、経験から導出することができない。というのは、いかに多くの経験であっても、それらが一致したからといって、「あるものが、必然的・普遍的に、私たちがそれを知覚するとおりに、常に存在する」ということは、推論できないからである。
 経験に根拠を持つような判断は、たやすく変更されるし、廃棄される。しかしこのようなことは、必然的な総合的判断においては起きえない。したがって、必然的な総合的判断の根拠は、経験のうちや私たちの外部に存することはありえない。だからこの根拠は私たち自身のうちに、つまり、私たちの心の根本的規定のうちに、含まれていなければならない。よって、必然的で普遍的に妥当する総合的判断は、先天的な a priori [=経験に先だって成立している] 判断である。この判断は、いかなる経験にも依存しないで、私たちのうちに存在する。必然性と厳密な普遍妥当性が――この両者は、分かちがたく相互に不可欠 zu einander gehören だが――、ある認識のうちに現れたときには、それはこの認識が先天的に私たちのうちに存在することの、間違いのない印(しるし)なのである。

 必然的な総合的判断は、経験的対象についての知識の一部をなすだけでなく、この判断に属する諸表象とともに、経験的対象の認識において、適用されなければならない。
 さて、表象とその対象が一致して、互いに必然的に関係できる場合は、ただ2つある。対象だけが表象を可能にする場合と、表象だけが対象を可能にする場合である。前者の場合であれば、両者の関係はたんに経験的である。この場合、表象 [の存在] は先天的には可能でない。[なぜなら、その対象が存在していなければ、表象もありえないからである。]
 後者の、表象が対象を可能にする場合には、
・表象は、その対象を存在 Dasein の面からは生み出しえないので、表象は、対象の認識の面において、規定するものでなければならない。
・つまり、表象は条件を――すなわち対象の認識がはじめて可能になるような条件を――、形成しなければならない。
 したがって、必然的な総合的判断は [後者の場合であるから] 、経験に現れる対象を認識するときの先天的な条件なのである。この判断は、経験に現れる対象の現実的認識の形式を含んでおり、この形式は、私たちの心によって規定されている。必然的な総合的判断は、直接現実の対象に関係するのではなく、感覚 [例えば、視覚] によって与えられた、認識のための素材 [例えば、リンゴの視覚像] を介して、現実の対象に関係する。だから必然的な総合的判断が、妥当性をもつにしても、ただ認識の仕方に対してのみである。
 
 さて私たちの心は、現実の対象を認識しえるためには、そのつど必然的な総合的判断を用いないといけないのだから、普遍的で必然的な自然法則もまた、経験からもたらされたものではない。むしろ経験自体が、私たちのうちに存するところの、経験を可能にさせる諸法則によって、前もって規定されるのである。そこで自然の最上位の立法は、
・ただ私たちの認識能力のうちに、
・そしてまた、すべての経験に先だって先天的に規定されているところの、感性と悟性の活動の仕方のうちに、
存する。この感性と悟性の活動の仕方が、さまざまな種類の経験に対し、その形式を定めるのであり、また自然の中へ法則性を導入するのである。

原注
 カント自身が『純粋理性への批判』と『プロレゴメナ』で提示したところの、批判哲学 [=カント哲学] の全体系を支える支柱は、次のような諸命題によって表される:
A) 人は認識を持つ。

B) この認識の一部は、変化し、また偶然的である。これに対し他の部分は、必然性・普遍性・決定的な確実性を持っている。
 この他の部分に属するのは:
 a) 空間と時間の表象、および空間と時間の性質に関係する判断。
 b) カテゴリー [=純粋悟性概念] と、それに関係している総合的で必然的な諸命題。
 c) 無条件な統一の理念と、それに関係している総合的で必然的な次の命題:「条件付けられたものが与えられて、存在しているときには、順に下位へと従属化して位置するところの、条件づけられたものすべての一系列も――したがってこの系列は無条件的であるが――、与えられて存在する」。

C) 人間の認識のすべての部分は、実在的な根拠を持たねばならない。しかし、必然性や厳密な(他と比較してのではない)普遍性を含む、認識の構成要素が、感覚から、そしてまた外部の対象が心へ作用することから、由来するということはありえないし、考えられもしない。
 したがって、必然性や普遍性を含むような認識の構成要素は、私たち自身から、すなわち私たちがもつ表象能力の活動の仕方から、由来しなければならない。したがって、感性・悟性・理性は、自ら自身から表象や判断を生み出す能力なのである。

D) 先天的な諸表象 [=空間・時間、カテゴリー、理念] は、ただ対象の先天的な認識の条件を形成することによって、そしてこの先天的な認識を規定することによってのみ、対象に関係できる。というのも、純粋な諸表象 [=先天的な表象] が対象へ関係することについては、他の仕方はまったく考えられないからである。
 存在する対象についての私たちの認識すべては、経験的であって、直観を必要とする。したがって純粋な諸表象は、経験的対象への適用においてのみ、妥当性と意味をもつ。いずれにせよ今にいたるまで哲学は、純粋な表象や判断の感覚世界の対象への適用については、それらの使用法を説明し証明しえているが、それ以外の対象への適用については、それをなしえていないのである。
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   [カントの] 理性批判にもとづく、因果関係の諸概念と諸原理の使用の、限界について

 [カントによれば、因果関係そのものは、現象のうちに見出せるものではありません。むろん、物自体が因果関係によって結ばれているかどうかは、私たちの知りえるところではありません。シュルツェも同意するこのようなことが、この章では紹介されます。
 なお、「統覚」「経験」などのカント哲学の概念を確認するには、岩波文庫『純粋理性批判(下)』付録の「II 事項索引」が、大変便利です。
 カントの思想に詳しい方は、この節を飛ばすのも可です。]


(原注)
 [カントが行った] 理性批判の諸原則の吟味にあたって、なぜ理性批判で述べられているところの、因果関係の諸原理の使用規定を、真っ先に問題にするのかは、以下の論述から明らかになるであろう。
(原注終了)

 純粋な悟性概念(カテゴリー)には、「原因」の概念も属している。この概念は、ある特殊な総合を意味している。というのはAによって、またAの後で、まったく異なったBが、必然的に、そしてある規則にしたがって措定されると、Aの存在からBの存在が、推論できるとからである。
 [しかし] 理性によっては、どのようにしてある事物の存在が、それによって必然的に措定されるとされる他の事物の存在に、関係するかということは、私たちにはまったく理解できない。またどのようにして、ある事物の状態から、その外部にあるまったく他の事物の状態を、結論することが相互にできるのかということも、私たちには明らかでない。
 原因として作用できる物自体の、上記のような因果的相互の結びつきについては、私たちは何らの概念も持ちえない。また、原因として作用できるような、現象そのものの性質も、私たちは考えることができない(というのも、原因の概念は、現象のうちに存在しているものを、なにも含んではいないからである。ただ悟性自身が考えねばならぬものを、含んでいるのである)。それにもかかわらず、悟性のうちの、しかも判断一般のうちの表象相互の因果的な結びつきについて、次のような考え Begriff を、私たちは持っている:すなわち、「ある種の判断のうちの表象は、理由 Grund として、ある結果に関係している」。そして私たちは、
・すべての現象を、原因の概念のうちに包摂することの可能性を、
・すなわち原因の概念を、経験というものを可能にする原理として使うことの可能性を、
見てとるのみならず、その必然性をも見て取ってしまうのである。
[これはどういうことかという説明が、以下でなされます。]

 他の純粋な悟性概念 [カテゴリー] と同様に、原因の概念も、対象と経験を離れては、また物自体に関係づけられたのでは、まったく意味をなさない。原因の概念は、諸知覚の総合的統一としての経験の形式そのものに、またそのような経験の可能性に、必然的に属する概念なのである。原因の概念は、現象を経験として読まんがために、現象をいわば判読していくのに buchstabieren 役立つだけである。この概念が私たちに認識を与えるのは、この概念が経験的直観に適用されるときである。この直観がなければ、原因の概念は形式的な観念 ein Gedanke der Form nach にすぎない。
 この概念を、感覚的な直観を越えて、拡張することはむろんできる。しかし私たちには、この拡張は何の助けともならず、この拡張された原因の概念は、空虚な概念である:つまり私たちが、概念によっては判断することができないような対象についての――そのような対象が [存在することが] 可能かどうかはともかく――、空虚な概念なのである。というのは原因の概念が含んでいるところの、統覚 Apperzeption の総合的統一が、適用できるような――したがってこの概念が、対象を規定できるような――直観を、私たちは持っていないからである。ただ私たちの感覚的で経験的な直観のみが、この概念に意味を与えるのである。

 因果律の使用についても、あるいは、「生起するものはすべて、原因を前提とする」という充足理由律についても、事情は同じである。因果律は、それによって経験がはじめて可能になるような原理であり、同時に、先天的に認識されえるような、自然の普遍的法則である。
 つまり因果律の原理は、経験において知覚の存在 Dasein 相互が、特定の仕方で結びついていることに関するものなのである。したがってこの原理は、物自体そのものの相互的結びつきではなく、諸知覚の相互的結びつきでの総合的な統一にかかわる。しかも、知覚の内容に関しての知覚相互の結びつきではなく、
・時間規定に関しての、
・そして、普遍的法則 [=因果律] にしたがっての、時間規定における存在関係に関しての、
知覚相互の結びつきにかかわるのである。
 したがって、この普遍的法則 [=因果律] は、時間一般の中での存在規定 [=「原因」と「結果」] の必然性を含むが(悟性の先天的規則にしたがって)、それは、[知覚Aと知覚Bはどちらが先かといったような] 相対的な時間の経験的な規定が、客観的に妥当するときであり、したがって、経験が存在するときである。
 原因と結果の関係概念は、「力」「能力」「行為」「受動」などの純粋概念をも含んでいる。しかしこれらの純粋概念は、「原因」と「結果」の概念や、この2つの概念に関係する諸原理以上のものを、意味することはない。これらの純粋概念は、ただの思考形式にすぎない。まさにこのことによって、これらの純粋概念は、ただ経験の対象においてのみ使用できるのである。

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訳注2) この訳は不確かです。原文は: κατ' ανθρωπον
[続く]
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