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ヘーゲルの訳
『精神の現象学』の「序文Vorrede(v. 2.0.3.)

Phänomenologie des Geistes
Vorrede


  目 次

 はじめに
I. 『精神の現象学』のテキストについて
II. 凡例
III. 翻 訳


III. 翻 訳

<11>    
序 文Vorrede

  書物の序文で、慣習にしたがって前もって述べられる説明は――つまり、著者がその書物において立てた目的や、著作の動機についての説明、また書物が、同じ対象を扱っている同時代やそれ以前のものに対して、持つと思われる関係についての説明は――、哲学の書物の場合には余計であるのみならず、当の事がらの性質からして不適切であり、目的にも反するように思われる。というのは、序文で哲学について語るのにふさわしく思われている事がらやその仕方は――たとえば傾向、観点、大まかな内容、結果などについて、これらのそれまでの経緯の報告とか、真理についてあちらこちらで言われている主張や断言を結合したものとかは――、哲学的真理を叙述する仕方としては、妥当ではありえないからである。
 また、哲学が存在するのは、個別的なものを含んでいるとはいえ本質的に普遍性の領域においてだから、哲学にあっては他の学問以上に、次のように見られてしまう:「事がら自体は、目的ないし最後の結果のうちで、しかもその完全な本質において表現されている。これに対して、それに至るまでの遂行は、要するに非本質的である」と。これに対して、たとえば「解剖学とは、生命のない存在として見た体の各部についての、知識である」という一般的な観念では、まだ事がら自体は、つまり解剖学の内容は分かってはいず、それ以外に個別的なものにもたずさわらなければならないと、人々は確信している。
 さらに、目的やこれに類する一般的な事がらについての、著者による誌上での話(*1)は、学問という名には値しない知識の集積なのだから、概念のないこれまでの経緯を述べるような仕方と――<12> 解剖学の神経や筋肉などといった内容自体も、こうした仕方で述べられるのだが――違わないことが多いのである。それに対して哲学においては、このようなやり方がなされたところで、真理を把握できないことがこのやり方自体によって示されるという、不適切(*2)なことになってしまうだろう。

 また、或る哲学の仕事が、同じ対象についての別人の研究に対して持つと思われる関係を規定することによっても、哲学とは異質の関心がもたらされることになってしまう。真理の認識において肝心なことが、覆い隠されるのである。
 そして、ある考えが、真理と誤りの対立を固定化させればさせるほど、こうした考えはまた、既存の哲学体系に対して、同意もしくは反対をしようと予期しているのがふつうである。さらにこうした考えは、或る哲学体系が説明されると、そこにたんに同意か反対の一方をしか、ふつうは見ないのである。こうした考えは、哲学の体系間の相違を、真理が発展し前進することとしては把握しないで、相違のうちにたんに矛盾しか見ない。
 植物のつぼみは、花が開花したときには無くなる。花によってつぼみは否定されると、言うこともできよう。同様に花は、果実によって植物の偽りの存在であることが明らかにされ、果実が植物の真理として、花にとって代わる。つぼみ・花・果実という形式は、異なっているのみならず、お互いを相いれないものとして排除もする。しかし同時に、これらの形式の流動的な性質は、これらの形式を、有機的統一の諸契機にしている。この統一にあっては、これらは対立しないばかりでなく、1 つの形式は他の形式と同じく必然的であり、これらの等しい必然性が、はじめて全体の生命を形成するのである。
 しかし、或る哲学体系との矛盾そのものは、このようには把握されにくいのがふつうであるし、また、矛盾を理解しようとする意識も、矛盾をその一面性から解放することが、つまり矛盾をこだわりなく受けとることが、概してできない。そして、争い、たがいに反するように見える外見のうちに、相互に必然契機を認識することもできないのである。

 ともすればあのような説明を欲することや、<13>その説明で満足することが、なにか本質的なことを行っているように見なされる。つまり、哲学書の内実を表すことができる箇所としては、書物の目的や結果が書いてあるところをおいて、他にどこがあるというのか? そして、目的と結果を明確に認識できるものとしては、同時代に同じ分野で生みだされた他のものとの相違をおいて、何があるというのか?――というわけである。しかし、そのような行いを、認識の始まり以上のものとして、実際の認識として見なそうというのであれば、それは課題そのものを回避しているのである。また、課題に対して真剣に尽力しているように見せかけなから、実はしていないのであって、うそ偽りと考えられるべきである。
 というのは、課題はその目的においてではなく、それの遂行においてはたされるのである。また、結果現実的な全体ではなく、結果にいたる生成と合わせてそうなのである。目的そのものは、活動的ではない普遍的なものである。これは、志向性というものが、現実性のまだないたんなる衝動であるのと同じである。そしてたんに結果だけでは、志向性のなくなった屍(しかばね)である。
 同様に、相違というのは、むしろ事がらのもつ境界である。相違は、事がらが終わるところにある。すなわち、相違とはその事がらではないところのものなのである。
 だから、目的あるいは結果、また或るものと他のものの相違や批評といったことに尽力するのは、見かけよりはたやすい仕事である。というのも、そういった仕事は課題に取りくむかわりに、何しろ課題をとび越えているのだから。またそのようなときに働く知は、課題の内部にとどまって内部で自らを忘れるかわりに、その課題とはともかく別のものをつかもうとする。そして、課題のもとでそれに従事するというよりは、むしろ自分にとらわれているのである。
 もっともたやすいのは、実質や内容をもったものを批評することである。より困難なのは、それを把握することであるが、もっとも困難なことは、批評と把握を統一して、それを叙述することなのである。

 教養の始まりや、実質的生活の直接性から脱することの始まりは、つねに、<14>
・普遍的な原理・観点についての知識を獲得し、
・そして事がらについての一般的思考に、はじめて到達し、
・またこうした知識や考察に対しては、根拠をあげて支持ないし否定することをゆるがせにはせず、
・具体的なあまたの内容を、画定性にもとづいて把握し、 
・整った報告や真剣な判断をすることなどが、
できることであるのに違いなかろう。
 そしてこの教養の始まりは、やがて充実した生のもつ真剣さに席をゆずるのであり、この真剣さは事がら自体の経験へと通じている。さらにそこに、概念の真剣さが事がらの深みに達するということも加われば、上記のような知識や判断は(*3)、著者による誌上での話において(*4)、適切な所を保持しよう。

 真理がそのうちで存在するところの真実な形態は、学問的体系をおいてはありえない。哲学が学問的形式へと近づくために――つまり、哲学から知への愛という名称を取りさることができ、そして哲学は現実的な知であるという目標のために――、私も力を尽くすこと、それが私がなそうとしていることである。
 知は学問であるということの内的な必然性は、知の性質のうちにあるのだが、このことについての満足な説明は、ただ哲学自体を叙述することである。ところで外的な必然性は、人物および個人的動機といった偶然性を度外視して、一般的な仕方で把握されるときには、内的な必然性と同じである。つまり、外的必然性は形象のうちで存在するが、その形象は、内的必然性のもつ諸契機の存在が、時間のうちで表されたものである。
 したがって、<[外的な現実においては、] 哲学が学問に高まる時になっている>ということの明示が、<哲学を学問に高めることを目的にしている試みは、正当である>ということの、唯一本当の証明であろう。というのは、この正当性の証明 [すなわち前述の明示] は、学問に高めるという目的が必然的であることを明らかにするだろうし、また同時に、この目的を遂行するだろうからである。

 真理の真実な姿をこうした学問性におくことは、<15>あるいは同じことだが、真理は概念においてのみ現存する領域をもつと主張することは、時代の確信となって蔓延(まんえん)し尊大になっている考えや、またそれから帰結する考えと、対立するように見える。これは承知している。それゆえこの対立について私見を表明することは、無駄ではないであろう。たとえこの表明が、それが反対する当の相手と同様、ここでは断言にしかなりえないとしても。
 すなわち真理が、あるいは直観、あるいは絶対なものについての直接知、あるいは宗教、存在――それも神の愛の中心においての存在ではなく、この中心そのものの存在――などと呼ばれているもののうちにのみ存在するのであれば、あるいはむしろそのように呼ばれているものとしてのみ存在するのであれば、これはまた、概念の形式とはむしろ反対のものが、哲学の叙述のためには望まれていることになる。なぜなら、絶対なものは、概念的に捉えられるのではなく、感じられ、直観されるというのだから。そしてまた、絶対なものの概念ではなく、絶対なものへの感情と直観が重きをなして、語られるというのだからである。

 こうした概念形式とは反対のものへの欲求が現われたことを、一般的な関連から把握すると、また自己意識である精神現在立脚している段階に目を向けると、この精神は、思考の領域においてかつて営んでいた実質的な生を、越え出ているのである。つまり、精神がもっていた信仰の直接性を越えており、また精神が確信していたこと――すなわち、本質およびその内的・外的な普遍的現れと、自分が融和していることへの確信――に対する満足や安心を、越えている。
 そして精神はこれらを越え出て、他の極端である、自分自身の内への実質なき反射をするに至ったのであるが、それだけではなくこれをも超えたのである。すなわち、精神にとって、その本質的な生が失われただけではない。精神はこの損失や、精神の内容が有限になっていることも、自覚しているのである。この残りかすのようなものからは顔をそむけつつも、ひどい状況であることは認めてののしりながら、精神が哲学に求めているのは、精神が今どうあるかというではなく、哲学によって以前の存在の実質性と<16>堅実さをともかく回復することである。
 だが、このような要望に対して哲学は、閉ざされた実体を開示して自己意識にまで高めるのではなく、また混沌とした意識を思考の秩序に、概念の単純性につれ戻すのではなく、むしろ思考が分離したものをごった混ぜにし、概念による区別を抑止して、本質に対する感情を作りだし、洞察ではなく感激を与えるというのである。美、神聖、永遠、宗教、愛が、食いつきがよくなるために欲しがられている餌(えさ)である。概念ではなくて恍惚(こうこつ)が、冷静に前進する事態の必然性ではなくて沸きたつ熱狂が、実体の豊かさのあり方であり、継続的な進展だというのである。

 こうした欲求(*5)に応じて, 懸命な、ほとんど躍起となっていらだっているような努力が、人々を感覚への没入から、またありふれた個別的なものへの没入から、脱出させようとしている。そして、人々の目を星空へと上げさせようとしている。あたかも、人々は神々しいものをすっかり忘れ去って、虫のように土と水で満足しようとしているのだ、とばかりに。
 かつて人々は、天空をたいへん豊かな思考と形象で、装っていたのだった。存在するものすべてが、光の糸(*6)によって天空と結びつけられていたのであり、存在するものの意味は、この光の糸にあったのである。人々の視線は、此岸に現前するものに留まりはせず、光の糸をたどって此岸を越え、神々しい本質へと、こう言ってよければ彼岸で現前するものへと、昇っていったのである。そこで強制によって、精神的まなざしを地上のものへと向けさせねばならず、それらのもとに引き止ねばならなかった。
 そして、ただ天上のものだけがもっていたあの明晰(めいせき)さを、あいまいで混乱していた、此岸のものの感覚にもたらすには、長い時間を必要としたのである。また、現前しているものそのものへの注目――これは「経験」と名づけられたが――に関心をおこさせ、有効に働かせるためにも、長い時間が必要であった。<17>
 しかし今や、逆の事が必要なようにみえる。人々の感覚が、あまりにも深く地上のものに根ざしているので、この感覚をそれをこえて上に向けるには、地上に向けたのと同じ強制力を要するようである。精神の窮状たるや、砂漠をさすらう人がわずか一飲みの水を切望するように、精神は生気を得んがために、およそ神々しいものに対する感情を、ただわずかばかり切望するごとくである。精神が満足するものをもってして、精神の損失の大きさを推(お)し測ることができよう。 

 こうした受けとるときの寡欲(かよく)さ、あるいは与えるときの物惜しみは、学問にはふさわしくない。たんに感激を求める人や、自分の存在と思考の現実的多様性を覆(おお)い隠したい人、こうした漠然(ばくぜん)とした神々しさを漠然と享受したい人は、そうした感激や享受を見いだすところでは、用心するがよい。こういった人は、独り言なのにあるものを熱狂してしゃべるための手だてを、またあるものでもって威張るための手だてを、たやすく見つけるだろうからである。しかし哲学は、感激的であろうとすることには、注意をせねばならないのである。

 ましてや、学問を捨てさるような寡欲な人が、上記のような熱狂や混濁(こんだく)が学問よりなにか高尚なものであるなどと、言いはってはいけないのである。そのように預言者的に話す人は、物ごとのまさに核心や深みにとどまっていると思っており、画定していること(ホロス[=境界])(*7)をさげすむような目で見る。そして、概念や必然性からは、たんに有限なものにとどまっている反省からと同じように、意図的に遠ざかるのである。
 しかし、空虚な広さがあるように、空虚な深さもある。また、有限な多様性へと拡散していくものの、それらをまとめる力のない実体の延長があるように、広がりのない純粋な力として働くような、内容のない強度もあるが、<18>これは浅薄さと同じである。精神の力というのは、ただこの力の外化と同じだけ大きいのであり、精神の深さは、精神がその広袤(こうぼう)において展開し、その内で消えてしまうことをあえてするのに応じて、深いのである。
 そしてまた、あの実体についての概念なき知が、「我意(がい)は本質のうちで滅しており、真実かつ敬虔(けいけん)に哲学している」などと称するときには、この知は神に身をささげているのではなく、基準や規定を軽蔑することによって、むしろあるときは自分自身のうちで内容の偶然性を、またあるときは内容のうちで自分の恣意(しい)性を、得ているだけであり、こうした事を隠しているのである。
 彼らは、抑制のない実体の沸とうに身をまかせることによって、自己意識が覆われ、知力を放棄してしまったせいで、彼らは神によって眠っているあいだに知恵をさずけられるという、神に愛される人になったものと思っている。実際のところは、彼らが眠っている間に受胎して、生みだすものも、それゆえにまた夢なのである。 

 ところで、私たちの時代が誕生の時代であり、新しい時期への移行のときであるのは、見やすいところである。精神は、自分の存在や観念であったこれまでの世界とは関係を絶って、それを過去のものにしているのであり、自分の変革にたずさわっている。
 むろん、精神は休止することはけっしてなく、つねに前進してやまない。しかし、子供の場合においては、胎内で長く静かに育った後、最初の呼吸でそれまでのしだいに大きくなるだけの過程とは決別して――質的飛躍である――、かくして誕生する。これと同じように生じつつある精神は、静かにゆっくりと新しい形態に向かって成熟し、それまでの精神世界の建造物を、つぎつぎと部分ごとに解消していくが、世界の動揺はたんに個々の兆候によって暗示されるだけである。既存のもののうちで広まっている軽薄さや退屈、未知なものへのおぼろな予感などは、なにか別のもが接近していることの前兆である。
 このようにだんだんと破砕はされても、変わりはしなかった全体の外観も、しかし、<19>新しい世界の形象が、稲妻の閃光のようにいっきょに現れることによって、とって代わられるのである。

 しかしながら、この新しい世界は新生児と同様、完全な現実性を持っているわけではない。このことは、まったくもって見過ごされてはならない。はじめて登場したものは、まだ直接的なままであって、それの概念なのである。土台が置かれただけでは建物はでき上がっていないように、全体についての概念に到達しても、それは全体そのものではない。
 樫(かし)の木が幹を力強く立て、枝を広げ、葉をしげらせているのを見たいときに、樫の木のかわりに樫の実のドングリを示されたところで、満足できるものではない。精神世界の王冠である学問も、その始まりにあっては完成していない。新しい精神の始まりは、多様な教養形式の広範囲にわたる変革の所産であり、曲折の多い道程をへての、また同じく多くの努力・尽力の報酬なのである。
 この始まりは、継起や拡張から自分のうちに戻ってきた全体であって、全体の概念――生成した単純な概念――である。しかし、この単純な全体の現実性は、次の点にある:前述(*8)の諸契機となった諸形象が、また始めから、とはいえ新しい領域のうちで生成した意味において、発展して形象を与えられるのである。

 一方で、新しい世界がはじめて現象したときには、それはまだようやく、単純さのうちにおおい隠されている全体である、あるいは全体の一般的な基礎である。これに対して、意識にとってはそれ以前の豊かな存在物が、記憶にまだなまなましく残っている。意識は新しく現象してきた形態に、内容の広がりと個別化が欠けているのを、残念に思っている。より残念に思えるのは、形式の形成がないことである。これがあってこそ、さまざまな区別が確実に画定され、これらの区別は相互の固定した関係へと秩序づけられるのである。
 この形式の形成がなければ、学問は一般的な分かりやすさを欠くし、<20>少数の個人の秘伝的所有物であるかのようになってしまう。「秘伝的所有物」と言ったのは、学問はまだようやく概念の状態だからであり、すなわち、ようやくのこと学問に内在するものが存在するからである。「少数の個人」と言ったのは、学問が現われても広がりがないことによって、学問が個々人のものになっているからである。
 完全に画定されているものがはじめて、また公共的でもあり、把握され学ばれて、すべての人の所有物となりえる。学問の悟性的な形式が、すべての人に提供されているところの、またすべての人のために平らにならされているところの、学問へといたる道なのである。そして、悟性によって理性的な知に到達しようとすることは、学問に近づこうとする意識がもつ正当な欲求である。というのは、悟性は思考であり、一般に純粋な自我だからである。そして、悟性的なものはすでに周知のことがらであって、また学問と非学問的な意識とに共通なものである。この共通なものによって、非学問的意識は、学問に直接参入できるのである。

 始まったばかりの学問は、当然細部は完成していないし、形式も完全ではないのだが、そのために非難にさらされている。しかしながら、この非難は学問の本質にかかわることだというのであれば、それは正しくないだろう。また、前述の形式を形成することへの欲求を、承認しようとしないのも許されることではない。こうした対立は、たいへん重大な難問となっているようだが、学問的教養のある人たちも、現在この難問に対して尽力しているものの、まだしかるべき合意には達していない。
 一方の側は、素材の豊富さと分かりやすさを誇り、他方の側は少なくともこれらを軽蔑して、直接的な理性や神性を誇っている。たとえ前者が――真理の力のみによってであれ、あるいは後者の激越さもあずかってであれ――沈黙させられたにしても、また前者が問題の根本においては、打ち負かされたと感じているにしても、上述の欲求に関しては満足していないのである。というのも、この欲求は正当でありながら、満たされてはいないからである。
 一方の側の沈黙については、たんにその半ばが他方の側の勝利によるのであって、あとの半ばは一方の側の退屈と興味の喪失による。こうした退屈や興味の喪失は、たえず期待がかき立てられたものの、結局は望みが実現しなかったことから、よく起きるのである。

 <21> 別の人たちは(*9)、たしかに広範囲な内容を、時にはじゅうぶん容易に得ることがある。彼らは自分たちの地盤に多くの素材を、すなわちすでに知られているものや整理されたものを、引き入れる。そして、とりわけ奇妙なものや珍しいものを扱うことによって、ますます彼らはその分野ではよく知られている他のものについても、通暁(つうぎょう)しているように見えるのである。また同時に、まだ秩序立てられていないものにも、習熟しているように見えるのである。かくして彼らはすべてのものを、絶対的な理念に従わせるように見えるのであり、このため絶対的理念は、すべてのもののうちで認識されているかのように、展開された学問になっているかのように見えるのである。
 しかし詳しく観察すると、この展開は、同じ一つのものが自らを多様に形成することによって、完成したというのではない。この展開では、一つの同じものが、形成されることなく繰り返されている。この同じものが、たんにざまざまな素材に外から適用されて、多様性のたいくつな見せかけを得ているのである。それ自体としてはたしかに真実な理念も、その発展が同じ定式の繰り返しにほかならないのであれば、実際のところつねに出発点で止(とど)まっているにすぎない。
 存在するものを知ろうとしている主観によってもたらされたところの、運動を欠いた同じ形式や、こうした静止している領域に外からもってこられた素材などは、内容についての恣意的な思いつきと同様、求められているものの実現ではない。この実現とはすなわち、自分のうちから生じる内容の豊かさや、諸形態が自分自信を画定することによってできるところの区別である。たんなる素材の区別に終わってしまうようなものは――それも、この区別があらかじめあって、知られていることによって――、むしろ画一的な形式主義なのである。

 この形式主義は、画一的な単調さと抽象的な一般性を、絶対なものだと主張する。そしてこうしたものののうちで満足しないのは、絶対的な立脚点を自分のものにして保持する能力が、欠けているせいだと断言するのである。
 <22> かつては、ある考えを反ばくするためには、別様にも考えられるという空虚な可能性があれば十分であった。また、それと同じたんなる可能性や一般的な考えが、現実的な認識がもっている積極的な価値すべてを、もっていたのである。当今も同じく、非現実性というまさにこの形式においてある一般的な観念に、すべての価値が帰せられているのを私たちは目にする。また、区別をもったものや画定されたものの解消が、あるいはむしろそれらを空虚な深淵へ投げすてることが――さらに説明することもなく、またそれら自体に即して、それらを投げすてることを正当化もせずに――、思弁的な考察法として通用しているのを、目にするのである。
 このような状況では、或る存在物が、絶対なもののうちではどのようにあるのかを考察すると、次のように言うことになる:「いま確かにそれを、<或るもの>として語った。しかしながら絶対なもののうちでは、つまり A = A のうちでは、そのようなものはまったく存在しない。そこでは、すべてのものが一つである」。
 絶対なもののうちではすべては同じだという、こういった知を、区別をもち充実した、あるいは充実を欲し求める認識に対して持ちだすことは、認識における空虚な浅はかさである。また、こういう知が、絶対なものを夜などと称することも――夜には、よく言われるように、すべての牛が黒いのだが(*10)――浅はかである。近代の哲学が告発し、謗(そし)った形式主義が、哲学自体のうちでふたたび生じたのである。この形式主義が満足できるものでないことは、知られているし、また感じられてもいるにせよ、絶対的な現実性の認識が、自らの性質をまったく明確に理解するまでは、学問から消え去りはしないであろう。
 ところで、考えを詳述しようと(*52)試みる前に大まかに示すことは、詳述の理解を容易にするものであるから、私が述べようとすることの概略をここで提示しておくのも、無だではあるまい。同時にこの機会に、哲学的認識の妨げとなっているよく使われる諸形式を、取り除いておきたい。

 私の見るところでは――もっともこの見解は、体系の叙述そのものによって、またそれのみによって、正当化されればならないのであるが――、<23> すべては次のことにかかっている:真理をたんに実体としてではなく、主体としても把捉し、表現することである。同時に注意すべきは、実体というのは普遍的なものを、すなわちそのものの直接性を含んでいるのと同様に、存在すなわち知に対する直接性をも、含んでいることである。
 
[このことに関連して言えば、] 一方では、神を一つの実体として把握しようとすることが、同時代の人々を憤慨させたが、その理由は、「そうなれば自己意識が消滅してしまい、維持されない」と当時の人々が直感したことであった。また他方ではその反対があって、これは思考を思考として固持し、また普遍性を普遍性として、同じ単純性として、すなわち区別のない、運動を欠いた実体性として固持する。3 番目には、思考が自分と実体の存在を統一し、直接性すなわち直観を思考として把握したとしても、この知的直観がふたたび惰性的な単純性に陥(おちい)りはしないか、そして現実性そのものを非現実的なしかたで述べはしないかということが、問題である。

 さらに、活動的な実体が、真実には主体であるような存在であるのは、あるいは同じことだが現実的な存在であるのは、この実体が自分自身を措定する運動である限りにおいて、すなわち自らに対して他のものになったものを、自分自身と媒介する限りにおいてなのである。実体は主体として、純粋で単純な否定性であり、まさにこの否定性のために単純なものの分裂である。すなわち、2 つのものが対置する二重化であるが、この二重化はまた、両者の互に無関係な相違や両者の対置の否定である。そして、この自らを再建する同一性だけが、すなわち他のもののうちでの、自分自身の内への反射だけが――もともとの統一性自体、すなわち直接的な統一性自体ではなくて――、真理なのである。真理とは、自分自身の生成であり、円環である。すなわち、終結を目的として前提にし、また終結を発端(ほったん)にもち、ただ運動の遂行と終結によってのみ現実的であるような、円環なのである。

 <24> そこで、神の生や神の行う認識は、神の自分自身との愛の戯(たわむ)れとして表現されることもあろう。しかしこうした考えは、そこに否定的なものである真剣さや苦悩、忍耐、労苦が欠けているならば、ただ感動をよぶものに、また退屈にさえ堕(だ)してしまう。神の生はそれ自体としては(*11)、なるほど濁りなき同一性であり、自分自身との統一性である。この同一性・統一性にとっては、他のものになっていることや、疎外とその克服などは、重大事ではない。しかし、この即自(*12)
は抽象的な一般性であって、そこではそれ自身に対して(*13)存在するという性質や、それとともに一般に形式の自己運動が、見落とされている。
 形式が本質に等しいものとして述べられるときでも、まさに等しいことから、「即自すなわち本質を認識すればそれで十分であって、形式は省いてよい」と思うのは、誤解である。また、「絶対的な原理あるいは絶対的な直観は、本質が詳述されることや形式の展開を不要にする」、と思うのも誤解である。本質にとっては、形式が自らと同様に本質的であるというまさにそのことによって、本質はたんに本質として、すなわち直接的な実体として、あるいは神が行う純粋な自己直観として、把握されるべきではないし、示されるべきでもないのである。本質は同様に形式としても、そしてきわめて豊かに展開された形式においても、把握されて示されるべきである。このことによって本質は、はじめて現実として把握され、示されるのである。

 真理とは、全体である。そして全体とは、展開によって完成する本質にほかならない。絶対なものについては、「絶対なものは、本質的に結果である」と、「絶対なものが本来あるべくあるのは、ようやく最後になってである」と、言わなければならない。そして、現実であり、主体であり、あるいは自分自身への生成であるという絶対なものの性質は、まさしくここに存するのである。
 「絶対なものは、本質的に結果として捉えられねばならない」ということは、矛盾のように見えても(*14)、すこし考察すればこの見かけの矛盾は正される。発端、原理あるいは絶対なものは、最初に直接的に述べられたありようでは、たんに一般的なものにすぎない。「すべての動物」と言ったとしても、この言葉は動物学としては通用しない。これと同様に、「神、絶対なもの、永遠等々」の言葉が、これらに含まれているものを言い表さないのは、何ら奇妙なことではない。<25> そのような言葉は、実際はたんに直接的なものとしての直観を、表しているのである。
 そのような言葉以上のもの、つまりたんに 1 つの命題への移行といったことも、他のものになることを含んでおり――この他のものは、取りもどされねばならないが――、媒介である。しかし、この媒介は嫌悪されている。というのも彼らによれば、<媒介は、絶対なものではないし、また絶対なもののうちにはまったく存在しないのに、媒介が重視されることによって、絶対的な認識が放棄される>ようなのである。 

 しかし、実はこの嫌悪は、媒介や絶対的認識そのものの性質を、知らないことに由来する。というのも、媒介とは運動している自分との同等性に他ならないからである。すなわち、媒介は自分自身の内への反射であり、対自的に存在する自我の契機であって、純粋な否定性である。すなわち、媒介をまったく抽象化していえば、単純な生成である。自我すなわち生成一般であるこの媒介は、その単純性のためにまさに生成する直接性であり、そして直接的なものそのものである。 
 したがって、反射を真理から除外し、絶対なもののもつ積極的な契機として把握しないとすれば、それは理性を誤認することになる。反射こそが真理を結果にするのであるが、また反射が結果である真理と、真理の生成との対立も、同じく解消するのである。というのは、この生成もまた同じく単純であり、したがって真理の形式と――結果においては、単純に現れるという形式と――異なりはしないからである。真理とはむしろ、単純性へ戻っていることなのである。
 胎児はなるほど即自的(*15)には人間だとしても、対自的にそうなのではない。胎児が対自的な人間になるのは、ただ形成された理性としてである。すなわち、即自的にそうであるものになった理性としてである。このようになって初めて、理性は現実性をもつ。そしてこの結果は、単純な直接態でさえある。というのは、自分の内で安らっており、また対立はかたわらに打っちゃっておくことはせずに、<26> 対立とは融和しているのが、自己意識を有する自由だからである(*16)

 今述べたことは、理性は合目的な行いである、とも言い表せる。誤解した思考の上位に誤認した自然を置き、次(つ)いで外的な合目的性を締め出したことが、そもそも目的という形式を不評なものとした。しかしながら、アリストテレスも自然を合目的な行いとして規定したように、目的というのは直接的なもの、静止しているものであって、それ自体は他のものを動かしながら、他からは動かされないものである。だからそれは、主体である。動かすという主体の力は、抽象的にみれば、対自的に存在すること、すなわち否定性そのものである。
 結果が発端と同じであるのは、発端目的だからにほかならない。すなわち、現実がその概念と同じであるのは、目的としての直接的なものが、自己(*17)を、すなわち現実性そのものを、自分のうちに持っているからにほかならない。遂行された目的、すなわち現存する現実性は、運動であり、展開された生成である。そして、この動態こそが、自己なのである。
 この自己と、発端のもつ前述の直接性や単純性が等しいのは、以下の理由による:自己は、自分の内へと帰ってきたところの結果であるが、自分の内へ帰ってきたものとは、まさに自己のことであり、そしてこの自己は、自分に関係しているところの同等性であり単純性だからである。

 絶対なものを主体にして表す必要から、神は永遠なものであるとか、道徳的世界の大法である、あるいは愛である、等々の命題が使われた。これらの命題においては、真なるもの [神] はたんにそのまま主語として措定されているだけであり、自分自身の内へと反射する運動としては、表現されていない。この種の命題は、「神」という言葉ではじまる。この言葉は、それだけでは意味のない音声であって、たんなる名前である。述語がはじめて、この音声や名前がが何であるかを言い、これを充実させるのであり、これの意味である。<27> 空虚な発端は、述語という終結においてのみ、現実的な知なのである。
 このかぎりでは、どうして「永遠なもの」や「道徳的世界の大法」などについてだけ語られないのか、あるいは古人が行ったように、「存在」や「一であるもの」などの純粋概念についてだけ語られないのか、理解できない。つまり、意味のない音声を付け加えるということをしないで、主語の意味についてだけ語られないのか、理解できないのである。
 とはいえ、この言葉によってまさしく示されていることは、「或る存在ないし本質あるいは普遍的なもの一般ではなく、自分自身の内へと反射した或るものが、或る主体が措定されている」ということである。ところが、このことはまだ予想されているだけなのである。
 主語は固定された点だと見なされており、この点を支えとして、いくつかの述語が仮留めされている(*18)。こうされるのは運動をとおしてであるが、この運動は主語について知っている者に属しているのであって、前述の点自体に属するとは見なされていない。しかし、[この点の] 運動によってのみ、内容は主体として述べられたことであろう。
 だが、運動があのような性質のものであるからには、運動は前記の固定された点に属すことはできない。また、固定された点という前提から、運動は別様ではありえず、運動はたんに外的なものでしかありえない。そこで、「絶対なものは主体である」という前記の予想は、絶対なものの概念の現実性でないばかりでなく、この現実性を不可能なものにしてもいるのである。というのは、あの予想はこの概念を静止した点として措定しているが、しかしこの概念の現実性は自己運動だからである。

 上述したことから生じてくるさまざまな結果から、次のことが取りだせる:「知は学問としてのみ、すなわち体系としてのみ現実的であり、また叙述されることができる」。さらに、「哲学のいわゆる原則とか原理は、真であっても、たんに原則や原理としてあるかぎりは、それだけで偽でもある」。
 だから、そうした原則・原理を反ばくするのは容易である。反ばくするには、その欠陥を挙げればよい。それが欠陥をもつのは、たんに普遍的であるため、すなわち原理、発端であるためである。反ばくが根本的であるときには、反ばくは前述の原理自体から取られ、展開されている――対立する断言や思いつきによって、外部から反ばくされるのではない。
 したがって、反ばくとは本来は原理の発展であろうし、<28> またそれゆえ原理の欠点の補完であろう。だが、こうであるのは反ばくが、自分の否定的な行いだけに注意をはらって、反ばくの進行とその結果がもたらす肯定的な側面は自覚しない、などのように自分を誤解することが、なければである。
 発端の本来の肯定的な遂行は、同時にまた、逆に発端に対する否定的な働きでもある。すなわち、発端が最初は直接的ないしは目的であるという、発端の形式の一面に対する否定的な働きである。そこで発端の肯定的遂行は、体系の基礎を形成しているものへの反ばくとも考えられる。しかしより正確には、この遂行は、「体系の基礎ないし原理は、実は体系のたんなる発端である」ことを示していると、見られるべきなのである。

 「真理は、ただ体系としてのみ現実的である」こと、すなわち「実体は本質的に主体である」ことは、絶対なものを精神として述べることのうちに、表現されている。この「精神」は、たいへん崇高な概念であって、近代とその宗教に属している。 
 精神のみが、現実的なものである。精神は、本質であり、即自的な存在である。また、或る状態にあるものであり、画定されたものであり、また、他のものとしてあるものであって、対自的な存在である。そしてまた、この画定性において、すなわち自分の外にあって、自分自身の内にとどまるものである。つまり、即自的かつ対自的である。
 しかし、精神が即自かつ対自的存在であるのは、初めには私たちに対してであって、すなわち即自的にそうなのであって、それは精神的実体である。しかし精神は、自分自身に対しても、即自かつ対自的存在でなければならないし、精神についての知、そして精神としての自分の知でなければならない。すなわち、精神は、自分にとって対象としてあらねばならない――が、また同じく、端的に [外的な対象としては] 廃棄されて、自分の内へと反射した対象としてである。
 この対象の精神的内容が、この対象自体によって生み出されているかぎりでは、対象は対自的であるにしても、たんに私たちにとってである。けれども、対象がまた対象自身にとっても対自的である場合には、この自己産出、すなわち 純粋な概念は、この対象に対して同時に対象的な領域であり、この領域で対象は存在する。こうして対象は、<29> 自分の存在のうちで、自分自身に対して、自分の内へと反射した対象なのである。
 このように発展した、自分を精神として知るところの精神が、学問である。学問とは、精神の現実態であり、また、精神が自分固有の領域において、自分に対して建てる王国である。

 絶対的に他のものにおいての純粋な自己認識、このエーテル(*19)自体が、学問の土台であり地盤である、すなわち知一般である。哲学の始まりにおいては、意識がこの領域に存在していることが前提とされ、また要求される。しかし、この領域がまさに完成し、透明性をえるのは、この領域の生成運動をとおしてでしかない。この領域は、普遍的なものとしての純粋な精神性であるが、この普遍性は、単純な直接態という在り方をしている。この単純態は、そうしたものとして存在するときには、地盤であり、思考であるが、これは精神のうちにのみ在る。 
 この領域、精神のこの直接態は、精神における実質一般であるから、変容した本質性であり、反射であるが、この反射は単純でさえあって、自分に対する直接態そのものなのである。すなわち、 自分自身のうちへの反射であるような存在である。
 学問の側から自己意識に要求することは、意識が学問とともに、また学問のうちで生きることができるために、また生きていくために、自己意識が自分を高めてエーテルのうちにまで達していることである。
 逆に個人の方は、すくなくとも学問が彼に、エーテル的観点へといたる梯子(はしご)を提供し、この観点を彼に対して彼自身のうちで明示するようにと、学問に求める権利を持っている。個人のこの権利は、個人の絶対的な自立性にもとづいている。個人はこの自立性を、個人のもつ知のいかなる形態においても、所有できるのである。というのは、<30> すべての形態において――学問によって、この形態が承認されていようといまいと、また [知の] 内容がどうであれ――、個人というものは絶対的な形式だからである。すなわち、個人は自分自身についての直接的な確信をもっているからであり、したがって、こう表現した方がよければ、無条件な存在だからである。
 意識のもつ観点では、対象の事物については自分自身と対置させ、自分自身については事物と対置させて知るのであるが、このような観点は学問からは学問とは別物だと見なされる。つまり、意識が自分は正常であると思っていても、学問からはむしろ精神の喪失だと、見なされるのであ。これに対し、学問の領域は、意識にとっては彼岸の遠くにあり、そこでは意識は、もはや自分自身が意のままにならない。
 意識と学問、この両者のどちらも、他の側にとっては真理の転倒である。自然な意識が、自分をそのまま学問にゆだねることは、魔がさしたのか、いちど逆立ちして歩こうとするようなものである。この慣れていない姿勢を受け入れさせ、その姿勢で歩かせるような強要は、受け入れ準備ができていない無用に思われる強制力を、無理じいされて、自分に加えることである。
 学問そのものはどうであれ、直接的な自己意識との関係においては、学問はこの自己意識に対して転倒したものとして現れる。つまり、この自己意識は自分自身の確信にもとづいて、自分が現実だと考えるものの原理をもっているので、この自己意識自体は学問の外部にそれだけであることになり、学問は非現実的な形式を有している。
 したがって、学問は自己意識の領域を、自分と一体化しなければならない。あるいはむしろ、学問は自己意識が学問自体にに属していることを、またどのように属しているかを、示さなければならない。このような現実性を欠いていては、学問の内容はたんに即自態であって、目的――すなわち、まだなお内的なものであり、<31> 精神としてあるのではなく、たんにようやく精神的な実質であるような目的――なのである。この即自態は、外に現れねばならず、対自的とならねばならない。このことは、即自態が自己意識を、自分と一体のものとして措定しなければならない、ということにほかならない。

 この学問そのものの生成、すなわちの生成を、この精神の現象学は叙述する。最初にあるような知、つまり直接的な精神は、精神なきものであって、感覚的な意識である。本来の知になるためには、つまり学問の領域を――この領域は、学問の純粋な概念自体なのだが――生みだすためには、この最初の知は、苦労して長い道程をへなければならないのである。
 生成のうちで現われる内容や諸形態において、提示されるこの生成は、非学問的な意識を学問へと手引きするということで、すぐに人が思い浮かべるようなものとはならないであろう。またこの生成は、[いわゆる] 学問の基礎づけともいささか異なっている――いずれにしろ、突然(*20)絶対的な知から始めるような熱狂、また他の観点については、気にとめはしないと宣言することでお終いにしてしまうような熱狂とは、異なっている。

 まだ未形成な観点から知へと個人を導くという課題は、[本書においては] 一般的な意味において把握されるべきであったし、また一般的な意味での個人が、自覚した精神が、その形成において考察されねばならなかった。[個人と、一般的な個人の] 両者の関係についていえば、一般的な個人においては、すべての契機が、<32> 具体的な形式と固有の形象をとって現れる。個々の個人の方は、不完全な精神であり、具象的な姿であって、これの全存在において 1 つの画定性が支配的であり、他のいろいろな規定性はあいまいなままである。
 より高い段階にある精神においては、低次の具象的な存在物は、目だたない契機になり下がっている。以前には問題そのものとなっていたものが、今やその痕跡を残すのみである。かつて問題であったものの形状は、覆(おお)われてしまい、たんなる陰影にとどまっている。このような過去を、より高次の精神を実質にもつ個人は通っていくのである。それはちょうど、高度な学問にたずさわる人が、とっくに獲得している予備知識を、その内容を思い出すために、見直すようなものである。彼は予備知識を思いだすにしても、そこに彼の関心があるわけではなく、またこだわりもない。
 個々人は、普遍的な精神が形成されている諸段階を、内容面からも通っていかねばならない。だがそれらを、精神によってすでに脱ぎすてられた諸形式として、切り開かれてならされた道程の諸段階として、通過するのである。
 そこで知識に関していえば、私たちは、かつて熟達した精神をもった人たちをわずらわせたものが、少年たちの知識や練習に、いや遊びにさえなっているのを見るのである。そして、教育の進展のうちに、私たちは世界の教養形成の歴史が、いわば影絵によって模写されているのを、認めることであろう。
 こうした過去の存在物は、すでに普遍的な精神によって獲得されて、その所有物になっている。この普遍的精神は、個人の実質を構成し、そして個人に対しては外的に現れながら、個人の非有機的な自然を<33>構成しているのである。
 これについては、個人の側からみれば教養の形成とは、存在しているものを個人が獲得することに、個人の非有機的な自然を自分のなかへ取りいれて、対自的に手にいれるこにあるといえる。しかしこれは、実体としての普遍的精神の側からすれば、まさに実体が自己意識を獲得し、実体の生成および実体の自分のうちへの反射を、生じさせることに他ならないのである。 

 学問は、この形成する運動をその必然性において、詳述する。また、すでに精神の契機や所有物になったものを、その形象とともに叙述する。その目的は、精神が知であるものを洞察することである。 
 性急に、有効な手段もないのに目的を達しようとしても、それは不可能である。一つには、長い道のりに耐えねばならない。すべての契機が、必然的だからである。また一つには、各契機のもとで、とどまらねばならない。というのは、各契機はさらに、個々の全体的形態でもあるからである。そして各契機の画定性が、全体的なものとして、あるいは具象的なものとして、つまり具象的な規定性という固有性における全体として、考察されるときにのみ、各契機は完全に考察されるからである。
 個人の実質は、そしてまた世界精神は、これらの形式を忍耐をもって長い時間の経過のうちに閲歴し、<34>世界史という途方もない仕事を――この仕事において世界精神は、各時代ごとにその時代に可能な全内容を、形づくってきたのだが――引き受けたのである。また、精神はそれより少ない仕事によっては、自分についての意識を獲得はできなかったのである。これらの理由から、事がらに即していえば、たしかに個人はより少ない仕事では、彼のうちの実質を把握することはできない。
 しかし同時に、個人の苦労は減少している。というのも、こうしたことは即自的には、成しとげられているからである。その内容の現実性は、もはや可能性にまで滅せられており、内容の直接性は克服されている。[また、登場する] 形象は、すでに簡約化されており、単純な思考規定にまでなっている。
 すでに思考されたものなのだから内容は、 [個人的] 実質(実体)(*21)所有物である。もはや、存在物を即自的存在の形式 [=思考されたもの] に、変えねばならないのではない。なおもたんに元々の即自存在であるものや、存在物のうちに埋没している即自存在ではなく、むしろすでに記憶された即自存在が、対自存在の形式へと変えられなければならないだけである。この仕方を、詳しく述べよう。 

 ここで私たちがこの運動を始めるときに、立脚している観点から見て、全般的にしなくてすむのは、存在物を廃棄することである。しかし、まだ残っており、より高度なものへの改変が必要なのは、表象と、既知の諸形式である。実体のうちへと戻ってきた存在物は、存在物の廃棄という最初の否定によっては、まだようやく自己の領域へ直接的に移されただけである。
 したがって、自己の獲得したこの所有物は、そのままに現存しているものと同じように、<35>概念的に把握されてはいない直接性や、動きはせずに他のものには無関係であるといった性質を、なお持っている。この現存するものが、たんに [現存から] 表象へと移行しただけなのである。
 また同時に、この移行したものは、既知のものになっている。つまり、現存する精神にとっては、それはもう成しとげてしまったものなのである。したがってそこには、もうこの精神の活動や関心はない。存在物とは関係のなくなった活動が、たんにある個別的で、自分を把握しない精神の運動でさえあるとしても、知はそれに反して、この精神が成しとげたことによって実現した表象に、この既知のものに、向けられている。知は普遍的な自己の行いであり、思考がもつ関心なのである。 

 およそ既知のものは、既知であるということをもってして、認識されているとはいえないのである。認識するにあたって、或るものを既知のものとして前提し、それをそのまま承認してしまうのは、よくある自己欺瞞であり、また他人をも欺くことである。
 そのような知は、あれこれしゃべり立てても、何がどうなっているのかも分からないままに、進展はしない。主観・客観等々、神・自然・悟性・感性等々は、既知のものとして、そのまま通用するものとして、調べられることもなく基礎に置かれている。そしてこれらが、固定した出発点ならびに帰還点を形成している。[知の] 運動は、不動のままのこれらの間を、またこれらの表面をあちらこちらへと進んでいく。
 だから [述べられていることの] 把握と検査も、
・これらについて言われていることを、各人が自分のもつ表象のうちにも見出すかどうかに、
・また、言われていることが、自分にそのように思えるかどうか、自分にとって既知であるかどうかに、
かかっているのである。

 従来行われてきたところでも、表象を分析することは、すでに既知の表象がもつ形式を廃棄することであった。表象を根源的な諸要素へと分解することは、表象のもつ諸契機へと戻っていくことであるが、これらの諸契機は、既存の表象が有する形式をすくなくとももってはいない。これら諸契機は、自己の直接的な所有物(*22)を形成しているのである。
 なるほどこの分析は、思考の諸産物にしか至ってはおらず、それら自体はすでに知られていて、固定し静止した諸規定である。しかし、本質的な契機は、この分かたれたもの、非現実的なもの自体なのである。というのは、<36>具象的なものが分かたれて、非現実的なものになることによってのみ、具象的なものは運動するものだからである。分離させる活動は、悟性の力であり仕事であって、驚嘆すべき、非常に偉大な威力が、あるいはむしろ絶対的な威力がする仕事である。 
 自らのうちに閉じこもって静止し、自身のもつ諸契機を保持しているような実体としての円環は、直接的であってそれゆえ驚嘆すべき事態などではない。しかし、まわりのものから分離した偶有的なものそれ自体が、また、他のものと結合して、他との連関のうちにおいてのみ現実的なものが、独自の存在や自分の自由をえるようになることは、否定の巨大な威力である。それは、思考や純粋な自我のエネルギーなのである。
 前述の非現実的なものを、「死」と呼ぶとすれば、死とはたいへん恐ろしいものである。また、死んだものを保持しておくことは、たいへんな力を必要とする。力をもっていない美は、悟性を嫌悪する。悟性は美にはできないことを、美に要求するからである。死に対してしりごみし、荒廃から清く身を守る生ではなく、死に耐えて、死のうちで維持される生こそが、精神の生である。
 精神がその真理を獲得するのは、精神がその絶対的な分裂のうちで、なお自分自身を見いだすことによってだけである。精神がこうした力であるのは、肯定的なものとしてではない。つまり、人が何かある物について、「これは大したことではない」とか「誤りである」とか言ってそれをおしまいにして、別のものへと移っていくような、否定的なものから目をそらしてしまう肯定的なものとしてではないのである。精神がこうした力であるのはただ、否定的なものを直視して、そのもとに留まることによってである。
 この留まるということが、否定的なものを存在へと変える魔法の力なのである。この力は、前に主体と呼ばれたものと同じものである。主体はその領域において、画定したものに存在を与えることで、抽象的な、すなわちただ一般的に有るような直接性を解消し、そのことによって真の実体である。つまり、存在すなわち直接性であるが、この直接性は媒介を自分の外部に持つのではなく、媒介自体なのである。

 表象されたものが、純粋な自己意識の所有物になるということ、普遍性一般へのこのような上昇は、たんに一面的なものであって、まだ教養の形成は完成されていない。古代の学習の仕方は、<37>近代の学習とは異なって、自然な意識を本格的に陶冶(とうや)することであった。自然な意識は、その存在の各部面において自分の力を個々に試(ため)しながら、また見いだされるすべてのものを哲学的に思索しながら、実際的に完全な普遍性へと成長したのである。
 これに対して、近代においては抽象的な形式は、個人に対し準備されている。抽象的形式を把握し、自分のものにしようとする [個人の] 努力は、具体的なものや存在物の多様性から普遍的なものを帰結させることであるよりも、むしろ内的なものを [現実の] 媒介をへないで出現させ、普遍的なものを手短に生み出すことである。したがってなすべき仕事は、個人を直接的で感覚的なあり方から純化したり、個人を思考され・思考する実体にすることではなく、むしろ、対立するもののうちにおいて、固定し画定している思考の産物を解消することによって、普遍的なものを現実化し、精気を与えることなのである。
 しかし、固定した思考の産物を流動化することは、感覚的な存在物をそうするよりも、はるかにむずかしい。その理由は、さきほど述べたとおりである。つまり、固定した思考の産物がもつ諸規定は、それらの存在の実体として、またそれらの存在の領域として、自我を――すなわち、否定がもつ力を、つまり純粋な現実性を――、もっているからである。これに対し、感覚的な諸規定は、たんに無力で抽象的な直接性を、すなわち存在それ自体をもつだけである。
 思考の産物が流動的になるのは、純粋な思考が、この内的な直接性が、自身を契機として認識することによってである。すなわち、純粋な思考がもつ自分自身への純粋な確信が、捨象されることによってである。もっとも、純粋な確信が、自身を捨てさるとか問題にしないというのではなく、確信が行う自己措定の固定性を放棄することによってである。つまり、純粋に具体的なもの――これは、区別をもった内容に対置している自我自体であるが――のもつ固定性や、また内容のいろいろな区別――これらは、純粋な思考の領域のうちで措定されて、自我のあの無条件性(*23)に関与しているのだが――の固定性が、放棄されることによって、思考の産物が流動的になるのである。 
 この運動によって、純粋な思考の産物は概念となり、そしてはじめて、実際にあるところのものである。すなわち自己運動、円環であり、また、純粋な思考の産物の実質であるもの、すなわち精神的な本質態である。

 純粋な本質態のこの運動が、およそ学問というものの性質を形成する。<38>運動を運動がふくむ内容の連関として見ると、運動は内容が必然的であって、有機的な全体へと伸展していくことを示している。知の概念へと到る道程は、この運動によって同じく必然的にして完全な生成になるであろう。
 そこで準備のためのこの書物では、偶然まかせに哲学するようなことはしない。不完全な意識がもつあれやこれやの対象・関係・思考と、成り行きで結びつくことはしないのである。つまり、ある特定の考えから推考・推理・推論して、真理を基礎づけようとするようなことはやめる。この書物がとる道程は、概念の運動によって、意識の世界すべてをその必然性のうちに包括するのである。

 さらに、そのような叙述は、学問の第 1 部をなす。というのも、最初には精神の存在は、直接的なもの、すなわち発端にほかならないからである。そして発端では、まだ精神は自分の内へと帰還してはいない。したがって、学問のこの部分は、直接的な存在の領域という画定性によって、他の部分から区別されるのである。 
 さて、この区別を述べたからには、こういう場合現れてくるのを常とするいくつかの固定した考えを、検討することになる。

 精神が直接存在しているものが意識であるが、この意識は、2 つの契機をもっている。知と、これに対して否定的な対象性である。精神はこの意識の領域において展開し、精神の諸契機をくり広げるので、これらの契機では、知と対象とが対置している。そして、これら諸契機はすべて意識の形態として登場する。 
 このような道程である学問は、意識が行う経験の学問である。実体が考察されるが、それは実体とその運動が、意識の対象としてあるようにである。意識は、自分の経験のうちにあるものしか知らないし、また把握もしない。つまりは、その経験のうちにあるものは、精神的実体だけなのであり、しかもそれは、実体の有する自己にとって対象としてあるのである。
 精神は対象となるのだが、それは精神というものが、自分に対して他のものに、すなわち精神の有する自己にとって対象になり、またこの他のものを廃棄するという運動だからである。<39>そして、直接的なもの、未経験なものが、すなわち抽象的なものが(それが感覚的な存在であれ、たんに考えられた単純なものであれ)自らを疎外し、そのあと疎外から自分に戻ってきて、このことにより初めてこの抽象的なものが、現実的かつ真実に表されており、意識の所有物にもなっているような運動、まさにこの運動が経験と呼ばれるのである。

 意識のうちで、自我とその対象である実体とのあいだに生じる不同は、実体のもつ区別であり、否定一般である。この否定は、自我とその対象である実体両者のもつ欠陥であると見なすこともできようが、むしろ両者の魂であり、両者を動かすものなのである。それゆえ古人も、空虚を動かすものとして把握したのであった。だが、古人は動かすものを否定として理解したにせよ、否定をまだ自己としては理解していなかった。
 さて、この否定は、まず自我と対象との不同として現れるが、否定はまた、実体の自分自身への不同でもある。実体の外部でおきるように見えるるもの、実体に向けられた活動であるように見えるものは、実体自体の行いであって、実体が本質的に主体であることが現れているのである。実体がこのことを完全に現したことによって、精神の現実存在は、精神の本質と等しくなったのである。また、精神はあるがままに自らの対象であり、直接性の抽象的な領域や、知と真理が分離しているような抽象的領域は、克服されている。存在は、完全に媒介されている。
 実体のもつ内容が、自我の直接の所有物でもあり、自分のものであって、つまりは概念なのである。ここをもって、精神の現象学は終了する。
 この現象学において、精神が自分にもたらすのは、知の領域である。そしてこの領域で、これからは精神の諸契機が単純性の形式で展開するのだが、この形式は自分が対象としているものが、自分自身であることを知っている。これら諸契機は、もはや存在と知の対置へと分裂することはなく、知の単純性のうちにとどまり、真理の形式においてある真理である。そして、諸契機の相違は、たんに内容の相違なのである。
 諸契機の運動は、この領域のうちで全体へと組織されるが、この運動が論理学、すなわち思弁哲学である。

 さて、精神の経験である上記の体系は、<40>ただ精神の現象を含むだけであるから、そのような体系から、真理の形態においてある真理の学問へとすすむ精神の進行は、たんに否定的なものであるように見える。そこで人々は、否定的なものは誤っているものとして、そのようなものには煩わされないでいたいと、望むかもしれない。また、単刀直入に真理へと導くよう求めるかもしれない。何のために、誤りなんかとかかわるのだ?――というわけである。
 以前に話題にした(*24)<すぐさま学問を、始めるべきであろう>という問題に、ここでは、<誤りとしての否定一般は、どのような性質のものであるか>という面から、答えることができる。この誤りについての [通俗的] 表象は、真理に参入するのにとくに妨げとなる。これについて述べることは、数学的認識について語ることになろう。非哲学的な知は、数学的認識を理想だと見なしており、この理想に哲学は努力して到達すべきだが、これまではその努力もむなしかったというのである。

 「真実および誤りは、特定の考えに属するのであって、これらの考えには、固有な動きのない本質がある」と、思われている。そして、これらの本質の各々は、片やあちらで、片やこちらで互いに共通性もなく孤立し、固定しているわけである。こうした見解に対して主張されねばならないのは、「真実とは鋳造された硬貨のように、出きあがったものが与えられて、しまい込んでおけるようなものではない」ということである、。
 とはいえ、悪いものの方はどんなに少なかろうが、誤っているものは存在する。実のところ、悪や誤りは、悪魔のようにひどくはない。というのは、悪魔においては悪や誤りが、さらに一個の主体にまでなっているからである。
 誤りや悪というものは、一般的なものにすぎないのだが、互いに対して固有な本質性を持っている。誤りとは(ここでは、誤りについてだけ扱う)、
実体に対して別のものであり、実体の否定であろう。実体は、知の内容として、真実である。しかしながら、実体はそれ自体が本質的に、否定なのである。つまり実体は、内容の区別や規定性として、あるいはまた単純な区別として、すなわち自己と知一般として、否定である。
 誤って知ることは、たしかにありえる。或るものが誤って知られるということは、知がその [対象としている] 実体と、不同だということである。しかしながら、まさにこの不同性は、区別化一般なのであり、区別化は本質的な契機である。この区別から、同等性が生じようし、<41>この生じた同等性が真実である。しかしこレが真実であるのは、あたかも不同性が捨てられたゆえではない。つまり、鉱滓(こうさい)が、純粋な金属から取りのぞかれているようなことではないし、また用いられた道具が、完成した容器のまわりから片付けられるようなことでさえもないのである。不同性はまさしく真実そのもののうちに、否定として、自己として、なお直接に存在する。
 しかしながら、このことから誤りは真実の一契機を成しているとか、さらには構成要素であるなどと言うことはできない。「いかなる誤ったものにも、なにかの真実がある」――こうした表現にあっては、真実なものと誤っているものの両者が妥当しているが、それはあたかも、たんに外面的にそのままくっついている水と油のようである。完全に互いに別の存在であるという契機を示すという意義をもつため、「真実なもの」と「誤っているもの」 という表現は、互いに別の存在が廃棄されているところでは、もはや使われてはならない。
 主観と客観の統一とか、有限と無限の統一、存在と思考の統一などといった表現には、不適当なところがあるように――つまり、客観や主観などは、前記の統一の外においてある客観と主観を意味しているのであり、したがって、両者の統一の内では、両者が表現しているものとしては、 考えられていない――、誤りは、もはや誤りとしては真実の契機ではない。

 知においての、また哲学研究においての、考え方としての独断論というのは、「真実は、固定している結果とか直接に知られているものとかを、述べた命題の内に存する」という説に他ならない。シーザーはいつ生まれたのかとか、1 スタディオンは何トワーズなのか、などといった問いに対しては、はっきりとした答えを与えることができるはずである(*25)。同じように、「直角三角形の斜辺の長さの 2 乗は、他の 2 辺の長さをそれぞれ 2 乗したものの和に等しい」ということは、たしかに真実である。しかし、このようないわゆる真実がもつ性質は、哲学的真実の性質とは違うのである。

 歴史的な真実に関して簡単に述べると、つまりこの真実のもつ純粋な史実面だけを考えると、この真実は個別的な存在物に、また偶然や恣意の面から見た内容に、内容のもつ必然的ではない諸規定に、<42>かかわっているということが、容易に認められる。
 しかし、例にあげたようなありのままの真実であっても、自己意識の運動なしには存在しない。そうした真実の 1 つを知るためには、多くの事を比較しなければならないし、また書物で調べねばならない。あるいはいかなる仕方にせよ、多くの事が探求されねばならない。直接的な直観においてさえも、直観がもたらす知識というものは、その根拠があってはじめて、本当に価値を持つものと見なされる――本来的には、ありのままの結果が問題であるとされてはいても。

 数学(*51)の真理について言えば、ユークリッド幾何学の諸定理を暗記してはいても、それらの証明を知らない人は、つまり―― [慣用表現とは] 逆に言ってよければ(*26)――諸定理を内的には知っていない人は、幾何学者とは見なされがたいであろう。同様に、多くの直角三角形を測定して、辺相互間には周知の関係(*27)があるという知識を得ても、この知識は不十分だと見なされるであろう。
 しかしながら、数学的な認識にあってもまだなお、証明の本質が、「証明の結果自体の契機である」という意義や性質を、持ってはいない。むしろ証明は、その結果においては過ぎ去っており、消失している。証明の結果としての定理は、真実なものとして洞察されたものではある。しかし、この付加的な事態は(*28)、定理の内容とかかわりはせず、たんに [証明を行った] 主観への関係にかかわるだけである。つまり、数学的証明の運動は、対象としているものに属しているのではなく、当のものには外的な行いである。
 こうして、直角三角形のもつ性質は、この三角形の 3 辺の関係を表している定理を証明するのに必要な作図が示すようには、みずからは分解しない。証明の結果を産出することのすべては、[主観が行う] 認識の進展であり手段なのである。
 哲学の認識においても、存在物としての存在物の生成は、本質の生成とは、すなわち事がらの内的な性質の生成とは、異なっている。しかし、哲学的認識はまず第 1 に、両方を含む。これに対して、数学的認識はたんに存在物の――すなわち、事がらがもっている性質の存在の――生成を、認識そのもの(*29)の内で叙述するだけである。
 第 2 に、哲学的認識はこれら 2 つの個々の運動を<43>、統一もする。内的な発生、すなわち実体が生成することは、外部への、すなわち存在物への、対他存在への、移行と不可分である。そして逆に、存在物の生成は、自らを本質の内へ取りもどすことである。そこでこの運動は、全体のもつ 2 重の過程であり、また全体が生成することである。つまり、内的な発生と外部への移行の各々は、同時に他方を措定し、それゆえに各々は、両者をともに自らの 2 つの見え方として持っている。両者は一緒になって全体を作るのであるが、それは各々が自ら自身を解消し、全体の契機になることによってなのである。

 数学的認識にあっては理解することは、当の事がらに対して外的な行いである。そこで、実際の当の事がらが、認識をとおして変えられてしまうということが生じる。したがって、手段・作図・証明などは、たしかに真実な諸命題を含んではいるが、しかしまた同じく、内容は偽りであるとも言わねばならない。
 上記の例でいえば、直角三角形は分解されて、分解された諸部分は、作図によってこの三角形に接して作られる別の諸図形に、属させられる。証明の最後になってはじめて、本来問題である直角三角形が復元されるのであるが、この三角形は証明の進行時には見失われていたのであり、諸断片として――つまり、それぞれ 1 つの全体をなしている別の諸図形に、属する諸断片として――現れていたのである。
 したがってここでも、内容のもつ否定性が生じているのが見られるが、この否定性は、概念の運動においての固定的な考えの消滅と同様、内容の誤りと呼ばれるべきかもしれない。

 しかしながら、こうした数学的認識の固有の欠陥は、この認識そのものに、またこの認識の素材一般にも関係している。

 認識の方についていえば、まず第一に、作図の必然性が見通せない。この作図は、[三平方の] 定理の概念から生じるのではなく、命じられるのである。そして無数に引ける線のうちで、まさにその線を引くようにという指示に、ひたすら従わなくてはならない。そのさいには、こうすることが証明の遂行という目的にかなっているのだと、信頼するほかはないのである。<44>後になってから、やはり合目的性は現れるのだが、この合目的性もまた、証明においてはようやく後になって現れるものだから、外的な合目的性である。
 同様に、証明がたどる道程はどこかで始まるが、この始まりと、やがて生じるであろう証明結果とがどのような関係にあるのかは、まだ分からないのである。証明の進行にしたがって、しかじかの規定や関係が取りあげられるが、他のものは放っておかれる。そして、それがどういう必然性によるのかは、直接には分からない。外的な目的が、この [証明の] 運動を支配しているのである。

 こうした欠陥のある認識がもつ明証性なるものを、数学は誇り、哲学に対して自慢さえする。しかしこの明証性は、たんに数学の目的の貧弱さと、素材の不十分さによるのである。したがってこのような明証性を、哲学は軽蔑せずにはおれないのである。
 数学の目的ないし概念は、である。量は、まさしく非本質的で没概念な関係である。したがって知の運動は、うわつらを進行するのであり、当の事がらそのものには触れず、また本質や概念にも触れず、それゆえ把握はしない。素材は――この素材についてのさまざまな面白い真理を、数学は与えるというわけだが――空間同一性である。
 空間とは、空虚で死せる領域として、その内へ概念の諸区別が書きこまれるような存在物である。この空間の中では、諸区別もまた動きがなく、生命を失っている。現実は、数学において考察されるような空間ではない。数学が扱うような非現実には、具体的・感覚的な直観や哲学は、関わらないのである。
 そのような非現実的領域にあっては、やはり非現実的真理があることになる。すなわち、固定した、死せる諸定理である。これらの定理のどれであれ、そこで終了していいのである。その後にくる定理は、それはそれとしてまた新たにはじまる。前者の打ち切られた定理自体が、後にくる定理へと続いて行くことはなく、また、このような仕方での必然的な関連が、問題自体の性質から生じるということもない。
 そして、前述の量の原理と空間の領域のために、数学的知は――ここに数学的明証性は形式的であるということが、存するのであるが――同等性にそって進行する。<45>というのも死せるものは、それ自体が動きはしないのだから、本質の区別や本質的な対置へと、すなわち不同性へと進むことはなく、よって対置するもののどうしが相互に移行しあうこともなく、質的、内在的対置へと、自己運動へと進むこともないからである。また、数学がもっぱら考察するのは、量すなわち非本質的な区別だからである。
 空間を [線や面などの] 諸次元へと分割し、次元間の結合や、次元内部での結合を規定するのは概念であるが、数学はこのようなことを捨象する。数学はたとえば、線と面との関係を考察などはしないのである。また、数学において円の直径と円周とが比べられるとき、比較不可能性(*30)におちいってしまう。つまりこれは概念的関係であり(*31)、無限なものであって(*32)、数学的な規定ではとらえられないのである。

 内在的ないわゆる純粋数学は、時間そのものを [空間に続く] 考察の第 2 の素材として、空間に対置することさえしない。なるほど応用数学は、運動そしてさらに他の現実的な事物を扱うように、時間を扱いはする。しかしながら応用数学は、総合的命題(*33)、すなわち事物間の諸関係についての法則を――これらの諸関係は、事物の概念によって規定されているのだが――、経験から摂取する。そして、たんにこれら前提 [となっている事物間の諸関係] に、数学の公式が適用されるのである。
 応用数学によってしばしば与えられるところの、そうした法則のいわゆる証明なるものが――たとえば梃子(てこ)における均衡についての、また落下運動での空間と時間の関係についての法則に関する証明、等々――、証明だと言明され、そう受け取られていること自体が、認識にとって証明を行うことの必要性がいかに大きいかということの、まさに証明なのである。というのも証明を持たない認識は、空虚な見せかけの証明さえも尊重し、この見せかけで満足するからである。こうした誤った飾り立てから数学を清めたり、数学の限界を示して数学とは別の知の必然性を示したりするためには、あれらの証明を批判することが、重要であり、また啓発的でもあろう。
 時間について言えば、「時間は空間と対をなすものとして、純粋数学において空間とは別の部分の素材を構成している」と、一般に考えられているかもしれないが<46>、時間とは現存する概念自体なのである。量(すなわち、概念なき区別)の原則や、同等性(すなわち、抽象的で活動的ではない統一性)の原則では、生のもつあのまったくの動揺や絶対的な区別化を、扱うことはできない。
 したがって、動揺や区別化という否定性は、たんに麻痺させられたものとして、すなわち同一性として、認識の第 2 の素材となる。この認識は外からの行いであって、自ら運動するものを素材へと引き下げ、そしてこの素材において、他のものとは関わらない外的で活動的ではない内容を、持つのである。

 これに対して哲学は、非本質的な規定性は考察せず、本質的である限りでの規定性を考察する。抽象的なものや、非現実的なものは、哲学の領域や内容ではない。現実的なもの、自分自身を措定するもの、そして自分のうちで生きるもの、また自らの概念のうちに存在するものが、哲学の領域であり内容である。
 自分のもつ諸契機を自らに対して生みだし、それらを通過することは、過程であって、この運動全体が、肯定的なものとそれの真理を形成する。したがって真理は、自らのうちに否定も――つまり、捨てられるべきだと見なせるときには、「誤り」と呼ばれるようなものも――、同じく包含しているのである。
 消え去っていくものは、むしろ本質とさえ考えられるべきである。消え去るものは、固定したもの――つまり、真理から切り離されて、真理のどこか分からない外部に、捨てておかれるような固定したもの――の規定性において、考えられるべきではない。これはちょうど、その反対の側の真理も、静止した死せる肯定と、考えてはならないのと同じである。
 現象というのは、発生と消滅であるが、これら自体は発生も消滅もせずにそれ自体としてあって、真理の生命の現実性と運動を、形成している。そこで真理とは、参加者のすべてが酔っているバッカス祭りの興奮である。各人は分離しながら、また同じくそのまま [集団の興奮の中に] 溶けこんでいるのであるから、この興奮も同じく透明で単純な静止である。
 こうした運動による審判においては、画定された思想のような個々の精神形態は、たしかに存続はしない。しかし、これらの精神形態は、否定され消え行くのと同様に、また肯定的で必然的な諸契機でもある。この運動の全体が静止したものとして<47>把握される場合には、この全体は、運動のうちで区別され、個別的な存在をえている。そして、この存在は記憶され、保存されるのであり、また自分についての知であるが、同様にこの知はそのまま存在なのである。

 この運動の仕方
Methode)について、つまり学問の方法Methode)について、あらかじめ若干のことを述べておく必要があろう。とはいえ、この方法の概念は、すでに述べたことのうちにある。また方法の本来の叙述は論理学に属する、あるいはむしろ論理学そのものである。というのも方法とは、全体の構成が純粋な本質性において提示されたものに、ほかならないからである 。
 この方法に関連するこれまで通用してきたものについてだが、哲学的方法に関する考えの体系もまた、過ぎ去った過去の教養に属すると思わざるをえない。もしもこのようにう言ことが、あるいは大言壮語に、あるいは革命的に聞こえるようでああれば――私にはそうした意図はないのだが――、次のことを考慮していただきたい:論証、分類、公理、一連の定理、それら定理の証明、公準、そしてそれらからの演繹や推論などの、数学から借りてきた豪華な学問的装いは、すでに世評そのものにおいて、すくなくとも時代遅れになっているのである。
 この学問的装いは役に立たないことが、はっきりとは分かってはいなくても、それはもはや全く、あるいはほとんど使用されてはいない。たとえこの学問的装いそのものは、否認はされていなくても、愛されていないのである。私たちは、優れているものは使用されもし、好まれもすると、予断せざるをえないのである。
 そして、命題を立ててその根拠を述べ、この命題とは対立する命題をまた根拠にもとづいて反ばくするという [数学的な] やり方は、真理が現われえるような形式ではない――このことを理解することは、それほど難しくはない。真理とは、真理の自らにおける運動なのである。前記の [数学的] 方法は、[学問の] 素材に対して外部からの認識である。
 そういうわけで、前記の方法は、数学に特有なものであって、数学に――既述のように数学は、量どうしの無概念な関係を原理とし、死せる空間と、同じく死せる同一性を素材にしている――ゆだねられねばならない。
 また前記の方法はより自由なやり方で、<48>すなわちより多くの恣意や偶然と混じりあって、
・日常生活のうちに、
・また著者による誌上での話のうちに、つまり認識のためというより好奇心を満たすためにされるところの、これまでの経緯の教示――だいたいにおいて、序文もまたそうしたものだが――のうちに、
残るのであろう。
 日常生活においては、意識の内容は、知識や認識、具体的な感覚、考えや原則などである。すなわち、現存している存在として、あるいは固定され静止している存在や本質として、通用しているもの一般が、意識の内容である。意識は、あるときはそれらの内容に沿って進み、またあるときは内容に対する自由な恣意によって、内容どうしの関連を中断する。そして、意識は内容を外部から規定し、処理する者として振るまう。意識はこれらの内容を、なにか確かなものへと――たとえそれが、たんなる瞬間的な感覚であろうと――、還元するのだが、よく知っている休息場所に到着すれば、確信は満たされるのである。 

 しかし概念の必然性が、著者による誌上での理屈をこねた話がたどる気ままな進行や、また衒学の気どった歩みを追放するときには、すでに注意したように、概念をしかるべき方法をもたない預言者的な口舌の予感や熱狂、恣意などによって、取って代わらせるべきではない。こうした口舌は、たんに学問的な虚飾だけではなく、学問一般を軽蔑するのである。

 また、はじめカントによって本能的に再発見されたものの、まだ死せるもので概念的には把握されていなかった三重性の原理
Triplizität)は、絶対的な意義にまで高められ、それによって同時に、真の形式がその真の内容において提示され、学問の概念が現われたのであった。こうした後で、この三重性の形式が、生命のない図式に、またまったく影絵のようなものに貶められたり、そしてまた学問的な組織が一覧表にまで貶められたりして、使われているのを私たちは目にする。こうした使用を、なにか学問的なことだと見なしてはいけないのである。
 こうした形式主義については、すでに一般的には言っておいたが、ここでより詳しくこの形式主義のやり方を述べてみたい。この形式主義は或る物について、図式のうちの1つの規定性をそれの述語として言えば、この物の性質や生命を把握し
<49>言い表したと考えている。これらの規定性には、「主観性」や「客観性」、あるいは「磁気」「電気」とか、「収縮」ないし「膨張」、「東」「西」等々があるが、規定性は無限に増殖していく。というのはこのやり方で、各々の規定あるいは物は、他の物において再び図式の形式ないし契機として、利用できるからである。そしてまた、各々は感謝しながら、他の物に対して同じく役に立つことができるからである――相互性の循環であって、そのため事がらそのものは、一方も他方も経験されないのである。
 こうした場合、あるときはふつうの直観から、感覚的な規定が取られてくる。むろんこうした規定は、それが [ふつうに] 言い表していることとは、なにか別のことを意味するらしいが。またあるときは、それ自体で意味を持つものが、つまり「主観、客観、実体、原因、普遍」などといった思考の純粋な規定が、ちょうど日常生活においての「強まり、弱まり、膨張、収縮」などと同じように、吟味されることなく無批判的に使われる。そのため、前記の形而上学は、こうした感覚的な表象と同じく、非学問的である。

 内的な生命や、この存在している生命の自己運動のかわりに、今や直観のもつ単純な画定性が、つまりここでは感覚的な知のもつ規定性が、類比(アナロジー)によって表面的に語られる。そしてこうした定式の外面的で空虚な適用が、構成
Konstruktion)と呼ばれるのである。
 こうした形式主義は、どれも同じことなのである。15分間で、「病気には、非活性と活性、そして間接的非活性のものがあり、それに応じた治療法がそれぞれある」という理論を覚えられないとすれば、そしてこの短時間のうちに――ついすこし前には、それで十分だったのだが――、実地の医者から学理的医者に変身できないとすれば、それは愚か者にちがいなかろう。
 自然哲学の形式主義が、たとえば「悟性は電気である」とか、<50>「動物は窒素である、あるいは南ないし北に等しくもある、あるいはそれらを表している」とか、このようにざっくばらんに教えるときには、あるいはまたもう少し多くの用語を混ぜ合わせて教えるときにも、 
・このような遠く離れているように見えるもの [悟性と電気、動物と窒素・南・北など ] を一緒に把握する力に関しては、
・また、静止している感覚的なものにこのような結合を受け入れさせたり、そのことによって感覚的なものに概念的な装いを与えたりする強制力に関しても、
概念自体を述べたり、感覚的な表象の意味を述べたりするという主要なことが、省かれてしまう恐れがある(*34)
 未熟な人は、このような事について驚き感嘆するかもしれないし、そうした場合には深遠な天才性を崇拝するかもしれない。また未熟な人は、抽象的な概念を直観的なものによって置きかえて、好ましくさせるような規定性の明快さに、興じるかもしれないし、そのような素晴らしい行いと自分の魂との親和性を予感して、自分自身の幸運を感謝したかもしれない。
 そのような知恵をえるコツは、すぐに学びとれるし、コツを働かせるのも容易である。そのコツが分かっているのに繰り返されると、種の割れた手品を繰り返されるようなもので、耐えがたいであろう。この単調な形式主義の道具を扱うのは、難しいことではない。ちょうどぬる色として、たとえば赤と緑の 2 つだけがある、画家のパレットのようなものである。歴史画が必要なときには赤でぬり、風景画のときには緑でぬるためである。ただしその際、天空や地表そして地下にあるものすべてを、このような絵具でもってぬる快適さがまさるのか、あるいは万能な色の卓越性へのうぬぼれが、まさるのかを決めることは、難しいであろう。一方が他方を、互いに支え合っているのである。
 あらゆる天上のものにも地上のものにも、自然的な形象にも精神的な形象にも、一般的図式から二、三の規定性を貼り付けて、それによってすべてのものを整頓するこの方法がもたらすものはといえば、宇宙の機構についての明快な報告にほかならない。すなわち一覧表なのであるが、これは、いろいろラベルを貼られた骨格とか、<51>付票を貼られ、ふたをされて並んでいる香料店の容器とかに、似ている。この一覧表は、ラベルや付票の貼られた骨格とか容器と同じく、明瞭ではある。しかし、骨格からは血肉が取りさられ、容器の内にもまさしく生命のないものが蔵されているように、一覧表もまた事柄の生きた本質を除きさり、隠ぺいしているのである。
 またこうしたやり方が、単色の絶対画法へと完成していくことは、すでに述べておいた。このやり方は、図式の含む区別を恥じながら、これらの区別は反省に属するものだとして、空虚である絶対なもののうちに沈めてしまい、純粋な同一性すなわち形式のない白色を、生みだそうとしているのである。前述の図式および図式のもつ生命のない諸規定、これらの単調さと今回の絶対的同一性も、またその一方から他方への移行も、いずれも同じく死せる悟性 [のなすこと] であり、また外部からの認識である。

 優れたものであっても、生気や精気を奪われてしまい、皮まではがされて、その皮を生気のない知とそれのもつ虚栄心が、身にまとっているのを見るという運命を免れない。だがそれだけではなく、この運命そのものの中でもなお、優れたものが及ぼす強制力が――精神に対してではなくても、心情に及ぼす力が――、認識されえるのである。そして、形式のもつ普遍性や画定性が形成されることも、認識されえるのである。優れたものが完成するのは、この形式においてであり、またこの形式だけが、この普遍性を皮相に用いることも可能にするのであるが。

  学問は、ただ概念がもつ固有の生命によって、構成されることができる。学問においては、図式からとられて存在物に外から貼り付けられる画定性も、充実した内容がもつ自ら動く魂なのである。存在するものが運動するということは、一方では自分とは別のものとなり、そして自分の内在的な内容になることである。他方では、存在するものは自分の展開を、つまり自分のこの存在を、自分のうちへと取りもどす。すなわち、自分自身を 1 つの契機とし、自分を画定性へと単純化するのである。
 前記の一方の運動にあっては、否定性は区別化であって、存在物の措定である。他方の自分のうちへと戻って行くことにあっては、否定性は画定された単純態の生成である。<52>このようにして、内容はその画定性を他のものから受け取ったり、縫い付けられたりはしないことを示すのである。そして内容は、その画定性を自分自身に与え、また自分のうちから出て全体の契機となり、全体の中のある位置へと移るのでる。
 一覧表にもとづく悟性は、内容のもつ必然性や概念を――すなわち、悟性が整理しようとする事がらがもつところの、具体的なもの・現実性・生きた運動を、形成するものを――、自分のものとする。いやむしろ、自分のものにするのではなく、こうしたものを知らないのである。というのも、もしこの悟性がこうしたものへの洞察をもっているとすれば、それをおそらく示すだろうからである。悟性は、この洞察の必要性をさえ知らない。さもなくば、図式化することを悟性はやめるだろう、あるいは少なくとも、図式化を内容目次以上に誇りに思いはしないであろう。悟性はたんなる内容目次を与えるだけであり、内容自体を提供はしないのである。
 画定性は――たとえば磁気のような画定性でさえ――、それ自体は具体的ないし現実的なものであっても、死せるものになり下がっている。というのは、こうした画定性は他の存在物について賓述(ひんじゅつ)するだけで、この存在物の内在的な生命としては、認識されていないからである。すなわちこの画定性が、存在物のうちで、画定性に固有で独自な自己産出や表現を持っているようには、認識されていない。こうした肝心なことを付け加えることを、形式的悟性は、人まかせにするのである。問題の内在的な内容へと入って行くかわりに、形式的悟性はつねに全体を見渡し、個々の存在物の上方にとどまって、これらについて語る。すなわち、これらをまったく見てはいない。
 しかし、学問的な認識に必要なのは、むしろ対象の生命にまかせることであり、あるいは同じことであるが、対象の内的な必然性を前にしてそれを言い表すことである。学問的認識はそのように対象に沈潜して、前記の全体を見渡すことなどは、忘れてしまう。見渡すことは、知が対象の内容からそとに出て、たんに自分自身の内へと反射することなのである。
 ところが学問的認識は、題材の内に没頭し、題材の運動のなかで進行しつつ、自分自身の内へと戻ってくる。だがそうなるのは、題材を満たしているもの、すなわち内容が自身を自分の内に取りもどし、画定性へと単純化され、自分自身を一つの存在物という一面へ引き下げて、内容がもつ<53>より高い真理へと、移行してからのことである。
 このことにより、自分を見渡す単純な全体自体が、豊かさの中から――この中では、全体の [自分の内への] 反射は失われているように見えたのだが――、現れてくるのである。

 これまで述べてきたように、およそ実体がそれ自身において主体であることにより、すべての内容は、内容自体の自分の内への反射である。
 存立すること、つまり存在物の実体は、自分自身との同一性である。というのは、存在物が自己と同一でなければ、それは存在物の解消だからである。しかし、自己同一性とは純粋な抽象である。そしてこの純粋な抽象とは、思考なのである。たとえば、私が「質」と言えば、私は単純な画定性を言っているのである。この質によって、存在物は他のものから区別される、すなわち、それは或る存在物である。そして、この或るものはそれ自体で存在する、すなわち、自分との単純性によって存立する。だがこのことによって、この或るものは本質的に思考されたものなのである。
 ここにおいては、存在は思考だということが把握されている。またここには、ふつう没概念的に思考と存在の同一性について語るときに、欠けているのを常とする洞察がある。
 さて、存在物の存立とは、自己同一性すなわち純粋な抽象であるが、このことによって存在物は、自分自身を捨象するのである。つまり、存在物自体が自分との不同性であり、自分の解消である――だがそれは、自分固有の内面性であり、自分の内へ取りもどすことである――つまり生成なのである 。
 存在物のこうした性質のために、また存在物が知に対してこうした性質をもつかぎり、知は[対象の]内容を自分とは疎遠なものとして取り扱うような活動ではない。また、内容から外に出て、自分の内へと反射するような活動でもない。学問とは、断言する独断論のかわりに確言で保証する独断論として、すなわち自分を確信する独断論として登場してきたような観念論ではないのである。内容がその固有の内面性へと戻って行くのを、知が見ることによって、知の活動は自分の内へ戻っている――というのは知の活動は、他のものにあっての純粋な自己同一性だからである――のと同時に、むしろ内容のうちにもまた沈潜している。というのは知の活動は、内容の内在的な自己だからである。
 だから、知の活動は策略であって、知は活動してはいないように見えながらも、眺めている。つまり、画定性とその具体的な活動が、まさにこの活動が自己維持と<54>自分だけの利益を追求していると思っているときに、いかにその反対物であって、自分自身を解消し全体の契機にする行為であるかを、眺めているのである。

 さきには、悟性の意義を実体のもつ自己意識の面から述べたが(*35)、今言ったことからは悟性の意義が、存在としての実体の規定性の面から、明らかになる。存在物は質であり、自分自身に等しい画定性すなわち画定された単純性、画定された思考である。これが、存在物の悟性である。このことによって、アナクサゴラスは初めて本質を、ヌース(理性)として認識した。彼より後の人たちは、存在物の性質をより明確に、エイドス(形相)すなわちイデアとして把握した。すなわち、画定された普遍性(しゅ)である。
 「種」という表現は、現今流行している「理念(die Ideen)」や「美」「聖」「永遠」などに対して、あるいは平凡すぎて取るにたらないように見えるかもしれない。しかしながら実は、「理念」は「種」より以上のものも、以下のものも表現してはいない。けれども現今では、概念を明確に示している表現が軽蔑されているのを、私たちはよく目にする。そして、ただたんに外国語からきているためだとはしても、概念を曖昧模糊にして、より感動的に響くような表現が、好まれるのもよく目にするところである。
 存在が種として画定されるというまさにそのことで、存在は単純な思考である。ヌースが、単純性が実体である。実体の単純性のゆえに、すなわち自己との相当性のゆえに、実体は固定し持続的なものに見える。しかし、この自己との相当性は、また同じく否定性でもある。そのため、前記の固定的な存在は、解消へと移行する。
 画定性がそのように移行するのは、始めにはたんに、画定性が他のものに関係するためだからだと思われる。また、画定性の運動も、画定性へ外から強制力が加えられたからだと思える。しかしながら、画定性がそれ自身において他の存在そのものを持つこと、また自分で運動をするということ、こうしたことはまさに、前述の思考の単純性自体に含まれている。というのも、この単純性は自分自身を動かして自分を区別する思考であり、また自分固有の内面性であり、純粋な概念だからである。そこで、悟性的であることは生成することであって、この生成として悟性的であることは、理性的であることなのである。

 存在するものの性質、すなわちその存在においてそれの概念<55>であるという性質、この点に論理的な必然性が、一般的に存するのである。この論理的必然性だけが、理性であり、有機的な全体のリズムである。また、内容は概念であり本質であるが、同様に論理的必然性とは内容をることである。すなわち、論理的必然性だけが、思弁なのである。
 具体的な形態は自分自身を動かして、単純な画定性になる。それによって、具体的形態は論理的な形式へと高まり、その本質において存在することになる。この形態の具体的な存在とは、ただこの運動なのであり、そのまま論理的な存在である。
 したがって、具体的内容に形式主義を外部から押しつけることは、不要である。具体的内容は、それ自体において形式主義への移行ではあるが、この形式主義は外的な形式主義ではなくなっている。というのは、このような形式は、具体的な内容自体が固有な生成をしたものだからである。

 一方では内容から離れず、他方では自身によって自分のリズムを決めるという、学問的方法のこの性質は、指摘したように、本来は思弁哲学において述べられることである。ここで言ったことは、[学問的方法の] あらましを示してはいるが、先取りした断言以上のものではない。
 この断言が真実であるとは、ここでの一部談話的な説明からは、まだ言えないのである。それゆえ断言の真実性は、この断言にに反対して「そうではなくて、こうなのだ」と断言されたところで、否定もされないのである。また、よく知られ決まりきった真理として平凡な考えが、思いおこされて詳細に語られたところで、あるいは内奥の神的直観によって、なにか新しいものが持ちだされ、こうなのだと断言されたところで、同様である。
 上記のような受け取り方は、何か知られていないものに反対して、知がふつう最初におこす反応である。これは、自由や自分の見解を守るためであるし、また、今初めて出会ったものが持っているなじみのない威信に対して、自分の威信を守るためである。そしてまた、何かを学んだということがもつ体裁の悪いあり様を、避けるためでもある。
 同様に、未知のものに喝采をして受容する場合にも、他の分野ではあるが過激な革命的演説や行動のうちには、同種の反応があったのである。 

 <56>そこで、学問研究にさいして大切なのは、概念的に捉える努力を引きうけることである。この努力においては、概念そのものへの注意深さが――たとえば即自的存在対自的存在自己自身との相等性などの、単純な諸規定への注意深さが――、必要である。というのも、もしもこれらの諸規定の概念が魂よりも高度なものを示してはいなかったならば、これら諸規定は、魂と呼ぶことができる(*36)純粋な自己運動だからである。
 もろもろの表象にそって進行する慣習 [的な思考法] にとっては、概念によって表象を中断されるのは、厄介なことである。また、概念による中断は、非現実的な考えであれこれと理屈をこねる形式的な思考にとっても、同じように厄介である。表象にそって進行する慣習は、質料的な思考(
materielles Denken)と呼べるし、素材のなかにたんに沈みこんでいるような、偶然的な意識である。したがってこの意識にとっては、同時にまた、質料からj純粋に自身の自己を引き上げて自足しているることは、困難なのである。
 他方の理屈をこねる方は、内容からは自由であり、内容についてはうぬぼれを持つ。これに対しては、以下のような努力が求められる:
・上記の自由を放棄し、
・内容を恣意的に動かす原理であろうとせずに、この [動かす] 自由を内容の中へと沈め、
・内容が内容自体の性質によって、つまり内容のもつ自己によって、みずから動くようにさせ、
・そしてこの運動を、観察することである。
 概念の内在的なリズムに自分勝手に侵入することをやめること、恣意やさらにまた獲得した知識でもってこのリズムに干渉しないこと、こうした自制はそれ自体が、概念に対して注意深くあることの一要件である。

 理屈をこねるやり方においては、2 つの側面に留意しなければならない。この両側面で、理屈をこねるやり方は、概念的に捉える思考と対立する。
 一つには、理屈をこねるやり方は、把捉した内容にたいして否定的な態度をとるときに、それを反ばくして無に帰してしまう。「そうは、なっていない」という知見は、もっぱら否定的である。この否定は最終的なものであって、これ自体が、自分を越えて新しい内容へと向かうことはない。ふたたび内容をもつためには、なにか他のものがどこからか、持ってこられなければならない。こうした事態は、空虚な自我内への反射であり、この自我のもつ知のうぬぼれである。
 そしてこのうぬぼれは、たんにその内容がうぬぼれたものであるのみならず、<57>その知見自体もまたそうであることを表している。なぜならその知見は、肯定的なものを自分のうちに見いださないような、否定だからである。前述の反射が、自分のもつ否定性自体を内容として獲得しないのだから、その知見は事がらのうちにあるのでは決してなく、つねに事がらの外にでてしまっている。それだからこの知見は、空虚な主張によって、内容豊かな知見よりもつねに進んでいると、錯覚するのである。
 これに対し、さきほど示したように、概念的に捉える思考においては、否定は内容自体に属しており、内容の内在的な運動や規定として、またこれらの全体として、肯定的なものである。結果として考えられたときには、否定は内在的な運動に由来するのであり、画定された否定であり、そのため肯定的な内容でもある。

 だが、そのような [理屈をこねる] 思考がある内容を――それが表象であれ、あるいは考えられたことであれ、あるいはまた両者の混合したものであれ――有するということに関しては、この思考は [前述の否定的な場合とは] 別の側面を持つ。そしてこの側面は、理屈をこねる思考が概念的に捉えることを、困難にしているのである。この側面の注目すべき性質は、理念の上述した本質自体に、密接に関連している。あるいはむしろ、この注目すべき性質は、思考による把捉の運動としての理念が、どのように現象するかということを、示しているのである。
 つまり、理屈をこねる思考がする否定的なやり方では、さきほど語ったように、この思考自体が自己であり、この自己のうちへと内容は戻っていくのであるが、これに対して、この思考がする肯定的な認識では、自己は表象された主語であって、この主語に内容が遇有的な性質や述語として関係する。この主語が基盤をつくり、そこに内容が結合され、またその上であちらこちらへの運動がなされるのである。
 概念的に捉える思考のばあいには、これとは事情が異なる。概念が対象に固有な自己であり、この自己は生成として表れる。このことによって、この自己は、運動せずに偶有的な性質をになう静止した主語ではなく、運動して自分の諸規定を自らのうちへと取りもどす概念である。
 この運動のなかで、あの静止した主語自体は滅ぶ。静止した主語は、区別や内容のうちへと入っていき、むしろ画定性を形成するのである。すなわち、内容の行う運動に向きあったままでいるのではなく、むしろこの運動のような区別をもつ内容を形成する。したがって、理屈をこねること が、静止した主語においてもっていた固定された地盤は揺らぐ。<58>そしてこの運動そのものだけが、対象となるのである。
 対象の内容を満たしている主語は、内容を超えて出ていくことをやめるのであり、なおも別の述語や偶有的性質をもつことはできない。逆にこのことによって、ばらばらな内容は自己のもとに結合している。内容は、その主語からはなれていろいろな主語に帰属するような、普遍的なものではないのである。そこで内容となっているのは、じっさいもはや主語につく述語ではなく、[主語の] 実質なのであり、[主語として] 問題になっていることの本質や概念である。
 [このような概念的に捉える思考に対して、] 表象による思考(*37)の性質は、
・偶有的な諸性質あるいは諸述語を手がかりにして進行し、
・それらの性質や述語はそうしたもの以上ではないので、当然ながらそれらを越え出る、
というものではあるが、表象による思考は、文中で述語の形式をとっているものが、実質そのものであるため、進行を阻止される。反動を受けるといってもよい。表象による思考は、基盤として横たわり続けているかのような主語からはじめつつも、述語がむしろ実質であることによって、この主語が述語へ移行しており、そのため主語が解消しているのを見いだす。そこで、述語であるように見えるものが、自立した相当な質量となっているので、[表象による] 思考は自由にさまよい歩くことはできず、この [質量がもつ] 重力のために引き止められている。
 つまり(*38)、ふつう最初は主語が固定された対象的な自己として、土台に置かれている。この主語から、多様な諸規定にむけての、すなわち多様な諸述語にむけての必然的な運動が進んでいく。そしてここで、この主語の代わりを、知るという活動をする自我自身がつとめることになる。[いまや] この知る自我が、諸術語を結びつけるのであり、またそれらを維持する主語 [の役をするの] である。
 しかし、土台に置かれていた最初の主語が、[述語の] 諸規定そのものへと入ってそれらの魂となっているので、第 2 の主語つまり知る主語は、もう最初の主語とは関係するのをやめ、それを越えて自分のうちへ戻りたいのではあるが、なお最初の主語を述語のなかに見いだす。[このとき] 知る主語は、述語の運動のうちでの行為者でいる――つまり、最初の主語にあれやこれやの述語を添えられるるかどうか、理屈をならべるという――ことができるよりも、<59>むしろ内容の自己とかかわらねばならないのである。そして、自分だけでいるのではなく、内容の自己とともにあらねばならない。

 これまで述べてきたことは、形式的には次のように言い表せる:「判断すなわち命題一般の性質、つまり、自分のなかに主語と述語の区別をもっているという性質は、思弁的な命題によって(*39)破壊される。そして、これら判断・命題 一般から生成する同一性命題(*40)は、主語と述語の関係への反動を含んでいる」。
 命題一般がもつ [主語-述語の] 形式と、この形式を破壊する概念の統一性との衝突は、リズムのうちで起きる拍(はく。
Metrum)と強勢(Akzent)との衝突に似ている(*41)。リズムはこの両者の、変動する中間点と合一から生じる。そのように哲学の命題においても、主語と述語との同一性は、命題という形式が表している両者の区別を無に帰すことはないのであって、むしろ両者の統一が、調和として生じてくるのである。
 命題のもつ形式は、画定された意味の現われである。つまり、命題を満たしているものを区別する強勢である。そして、述語が実質を表し、主語自体は普遍的なものに属するということが統一であって、この中で強勢は消えていく。

 述べてきたことを例をつかって説明すると、「神は存在である」という命題では、述語は「存在」である。この述語は実質的な意味をもっており、この意味のうちで主語は溶解する。[したがって] 「存在」は、ここでは述語ではなく、[主語の有する] 本質(*42)でなければならない(*43)。このことによって「神」は、命題のなかでの位置によってそうであったところのもの、すなわち固定された主語であることを、やめるように見えるのである(*44)
 思考としては、主語から述語への移行で前進するのではなく、主語がなくなるものだからむしろ阻止されたように感じるのであり(*45)、また、主語を失ったがために、主語への追想に押しもどされたように感じるのである。すなわち、述語自体が主語として、「存在」として、また主語のもつ性質を尽くしているところの本質(*46)として言い表されているので、思考は主語をじかに、やはり述語のうちに見いだす。そして、今や思考は述語において、考えこんで(*47)理屈をこねるような自由な立場を保持するのではなく、内容に没頭している。あるいは少なくとも、内容に没頭していたいという欲求を、持っているのである。
 また、<60>「現実的なものは、普遍的なものである」と言われるときも、主語としての現実的なものは、述語のうちで消失する。普遍的なものは、述語の意味をもっている――したがってこの命題は、<現実的なものは、普遍的である>ことを言表している――だけではなく、また、普遍的なものは現実の本質をも、表さずにはおかないのである。
 したがって思考は、主語においてもっていたところの、対象に関する固定的な地盤をなくし、そのため思考は述語において主語へと引きもどされ、述語において自分のうちにではなく、内容上の主語のうちへと戻っていく。 

 哲学の著作は理解できないとの苦情の多くは、上記のような慣れてはいない阻止に――その他の点では、個人に哲学の著作を理解できる教養が、あればだが――起因するのである。哲学の著作に対しては、「理解するためには、いくつかの箇所をまず繰り返し読まなければならない」というお決まりの非難が、しばしばなされるが、その原因は今言ったことのうちにある。この非難には、なにか不穏当で最終的なものが含まれているようで、非難に根拠でもあれば、もう反論は許されないのである。
 [しかし] それにどのような事情があるのかは、上述したことから明らかである。哲学の命題も命題であるから、主語と述語の通常の関係についての考えや、知の通例のやり方についての考えをよび起こす。知のこうしたやり方や考えを、命題の哲学的内容は、破壊するのである。前記の「考え」は、自分が考えたのとは別のことが [哲学の命題では] 言われていた、ということを経験するのであり、知は前記の考えの修正によって命題へと帰り、それを別様に理解せざるをえないのである。

 思弁的な仕方と理屈をこねる仕方との混交が、避けねばならないはずの困難を形成する。つまり、主語について言われたことは、思弁的な仕方では主語の概念であるという意味をもつが、理屈をこねる仕方では、たんに述語すなわち遇有性の意味をもつにすぎないのである。一方の仕方は他方を妨げるのだから、哲学の陳述は、命題部分間の通常の関係のあり方をきびしく排除してはじめて、完成されたものとなろう。

 <61>実際に思弁的ではない思考も、有効な権利を持ってはいるのだが、思弁的な命題の仕方においては、その権利は無視される。命題の形式が破棄されることが、直接的な仕方で――つまり、たんに命題の内容によって――起きなければならないだけではない。この [命題の形式が破棄されるという] 対立的運動は、また言い表されねばならないのである。すなわちこの対立的運動が、上記の内的な阻止でなければならないだけでなく、この概念が自分の内へと帰っていくことが、叙述されねばならない。
 この運動は、ふつうは証明が遂行するような事柄が、形成する運動であるが、[じつは] 命題そのものの弁証法的な運動なのである。この弁証法的運動だけが、現実的な思弁であって、この運動を述べることだけが、思弁的な叙述である。命題としての思弁は、ただ内的な阻止であって、本質が実際におこなう自らの内への帰還ではない。だから、しばしば私たちの気づくことであるが、哲学の陳述によって本質を内的に直観するよう指示はされても、この指示においては私たちが求めているところの命題の弁証法的運動の叙述が、省かれているのである。
 命題というものは、真理であるものを言い表さなければならないが、それは本質的に主体である。主体としての真理は、ただ弁証法的な運動であって、自分を産出し、前進しながら自分の内へと戻っていく進行である。ふつうの認識においては、証明が、この言い表わされた内面性の側面を形成する。だが、弁証法が証明からは遠ざけられてからは、哲学的証明の概念は、実際のところ失われてしまったのである。

 この事に関しては、弁証法的な運動もその部分や要素として、同じく諸命題を持っていることを指摘できる。したがって前記の困難は、つねに立ちもどってきて、事がら自体のもつ困難さであるように思える。これと似たこととして、ふつう行われている証明において、証明の用いる根拠そのものがまたその根拠を必要とし、そしてこの根拠もまた――と、無限にいたることがあげられる。しかし、こうした<根拠づける>とか<前提にする>という形式は、前記の証明に属しているのであって、この証明と弁証法的運動とは異なっている。したがって、こうした形式は外的な認識に属しているのである。
 弁証法的運動そのものについて言えば、この運動の領域は純粋な概念である。<62>そこで、この運動がもつ内容は、それ自体まったくの主体である。よって、根底に横たわる主語(*48)としてあるような内容、またその意味が述語として帰属するような内容は、現れてはこない。命題は直接的には、たんに空虚な形式なのである。
 感覚的に直観ないし表象された自己をのぞけば、純粋な主体を、つまり概念なき一者を表示するものは、とりわけ名前としての名前である。この理由から、たとえば<神>という名前を使うのを避けることは、有益である。なぜならこの語は、直接には概念ではなく、固定し静止した根底に横たわる主語であるところの、本来の名前だからである。
 これに対して、たとえば「存在」とか「一者」「個別性」「主体」などは、それ自体がそのまま概念をも示している。前記の主語<神>についていろいろな真理が言われるにせよ、この主語は静止した主語として存在するのであるから、その真理の内容には、内在的な概念が欠けている。そして、それらの真理はこうした事情によって、たんに感動をもたらすような形式にたやすく納まってしまう。
 そこでこうした面から見ると、思弁的な述語を概念や本質としてではなく、命題の形式から理解するという習慣がもたらす障害は、哲学の陳述仕方そのものによっても、大きくもなれば小さくもなりえるのである。[哲学の] 叙述は、思弁のもつ性質を忠実に洞察して、弁証法的な形式を保持しなければならず、概念や概念的に把握されたもの以外のものを、取り入れてはならない。

 哲学的研究にとっては、理屈をこねるやり方と同様に、既成の諸真理への理屈抜きのうぬぼれも、妨げとなる。これらの真理の保持者は、これら真理にふたたび立ち返る必要はないと思っているのであり、むしろそれらを基礎に置いて、立言できると信じている。また、それら真理にもとづいて裁き,判決できるとも信じている。
 こうした面については、ふたたび哲学において真剣に仕事をすることが、とりわけ必要である。すべての学問や芸術、技能、工芸について、<63>それらの能力を獲得するためには、練習と習得にいろいろ努力が必要であるということは、一般に認められている。これに対し哲学については、目下のところ先入観が支配しているようなのである。つまり、誰もが目と指をもっているにせよ、材料の皮と道具を得たからといって靴を作れるわけではないが、しかし、誰もがそのまま哲学したり、哲学を評価したりすることは心得ているというのである。なぜなら、誰もがそうするための基準を、自然な理性においてもっているのだからである。だがそれでは、 誰もが靴を作るための基準を、自分の足において同様にもっていることは、ないかのようである。
 まさに知識や研究が欠如していることこそが、哲学を持つことだとされているようであり、知識と研究の始まるところ、哲学は終わるかのようである。哲学はしばしば形式的で、内容のない知だと見なされている。そして、「なんらかの知識や学問において、内容からみて真理であるものが真理という名を獲得できるのは、それがただ哲学によって生みだされたことによる」という洞察が、はなはだしく欠けている。また、「哲学以外の諸学問は、哲学のないままに理屈をいってどれほど多く試みようとも、哲学なくしては生命や精神、真理を自らのうちにもつことはできない」という洞察も、欠けているのである。

 本来の哲学に関して言えば――神の直接の啓示とか、他の知や本来の哲学とは関わったりはせず、またそれらと共に形づくられもしなかった良識とかが、形成のための長い道のりや、精神が知へと至るための豊かでもあれば深遠でもある運動の、そのまま完全な同等物のような観を、また代用品のような観を(これは、たとえばチコリーがコーヒーの代用品として称賛されているようなものである)、呈していることを私たちは目にするのである。
 無知そのものや、思考を抽象的な一文に、ましてや文相互の関連のうちに定着することなどできもしない、野暮でわけの分からない粗雑さそのもの  が、ある時はそれは思考の自由と寛容さであると、またある時は天才性であると断言しているのを見るのは、面白いものではない。周知のようにこの天才性なるものは、現在の哲学におけると同様、かつては詩においても蔓延(まんえん)していた。この天才性の行う創作が、<64>なにか意味をもっていたときには、詩にかえて平凡な散文が生み出されたのであった。あるいは、この散文を超え出て行ったときには、狂ったたわ言となったのである。
 そして現在では、「自然に哲学すること」が自らを概念などと関わるには善良すぎると考えて、この概念の欠如から、自らを直観的で詩的な思考だと見ている。この哲学は、思考によって混乱させられた想像力がなす勝手な連想を、広めているのである――つまり、魚でもなければ肉でもない、詩でもなければ哲学でもないしろ物を。

 他方では自然に哲学することは、良識といういくらかは安らかな河床を流れ行きながら、平凡な真理を雄弁に披露(ひろう)する。そうした平凡な真理はあまり価値がないとの非難が、自然に哲学することに対してなされると、この哲学は「それらを感受する感覚とそれらの実現は、我が心のうちにある。また、他の人々にとってもそうであるに違いない」と、断言するのである。その時にはこの哲学は、とりわけ心の潔白さや良心の純粋さ等々をそえて、究極的なことを言ったつもりになっており、これに対しては異議もなければ、さらに何か必要なこともないと考えられている。
 しかしながら重要なことは、最善のものが内部に留まりはせずに、この内奥の深みから明るみへと出されることである。だが、この種の究極的真理を述べるという苦労は、とっくに省けている。というのは、そのような真理はとっくに、たとえば教理問答集や民衆の格言のなかに、見出せるからである。
 そのような真理を漠然とあるいは不正確に理解することは、たやすいことである。またしばしば、そのような真理を持っている人に対して、それとはまったく反対の真理が彼の意識自体のうちにあることを、指摘するのもたやすい。
 [その時には] 自分の内で起きている混乱から逃れようとして、このような意識 [を持つ人] は新しい混乱に陥るであろうし、おそらく感情を爆発させて叫ぶだろう:「私には、間ちがいなくそうなのだから。それとは反対の真理などは、詭弁である」 と。この「詭弁」という言葉は、教  養ある理性に対して常識が使う決まり文句である。ちょうど哲学に無知な人が、哲学については「夢想」という言葉をあてて、しっかりと覚えたようなものである。
 常識 [にとらわれた人] は、感情という心のうちのご神託を盾にとって、自分と一致しない人に対しては関係を持とうとしない。この常識 [にとらわれた人] は、「[自分と] 同じものを、自らのうちに見いだして感じない人には、もう語るべきことはない」と、表明せずにはおれないのである。<65>
 別の言葉で言えば、そのような人は人間性の根本を踏みにじっている。というのも、人間性の特徴は、他の人々との合意をめざすことであり、人間性は、実現された意識の共同性の内部においてのみ、存在するからである。人間性に反するとは、動物的とは、感情の内に留まりつづけて、感情によってしか他人とコミュニケーションをとれないことである。

 学問への王道を問われて、良識を信じることだと答えたり、さらには時代やその哲学と歩調を合わせるために、哲学的著作の書評や、それに加えてたとえば著作の序文や最初の数節も読むことだと答えるのは、もっとも安易ではある。というのは、序文や最初の数節は、著作の中心になっている一般的諸原理を与えてくれるし、書評は、問題のこれまでの経緯のかんたんな記述のほかに、批評も与えてくれるからである。しかも、批評というのは批評であるだけに、批評されるものを凌いでいるというわけである。
 こうしたことは、[いわば] 普段着を着て歩くような、ふつうの道である。ところが、永遠・神聖・無限などへの高揚した感情は、紫衣に身をつつんで道を闊歩(かっぽ)する。このような道はむしろそれ自体がすでに、中心における直接的存在、深遠で独創的な考えや高遠な思考のひらめきをうむ天才性だというわけである。しかしながら、そうした深遠さが、まだ本質の源を明らかにしてはいないように、こうした高遠な打ち上げ花火も、まだ天上界ではない。真実の思考や学問的洞察は、概念を働かせることによってのみ獲得できるのである。
 概念だけが知の普遍性を生み出すことができるのだが、この知の普遍性は、常識によくある不明確さや不十分さとはちがって、完全で形成された認識である。またこの普遍性は、天才の怠惰と自惚れによって堕落しがちな理性がもたらすところのとっぴな普遍性でもなく、真理固有の形式へと成長した真理なのである。この真理は、あらゆる自覚した理性が持ちえるものである。

 私は学問の存立を、概念の自己運動のうちにおくのだが、このことは、<66>真理の性質やあり方についての当世の考えに関して、すでに述べた面や他にも現れている面などとは、異なっている、いやまったく反しているのである。こう考えると、学問の体系を概念の自己運動の規定性において叙述しようとする [私の] 試みは、世間から好意的には受けとってくれないように思える。
 けれども、次のようにも考えられるのである:ときにはたとえば、プラトン哲学のすばらしさが、学問的には価値のない彼の神話的な著述にあるとされるにしても、しかし熱狂的な時代とさえ呼ばれる時期にも、アリストテレス哲学がその思弁的な深さゆえに尊重されたし、プラトンの『パルメニデス』が、このおそらくは古代における弁証法の最高傑作が、神的な生の真の開示であり、また積極的な表現であると、見なされもしたのである。その上、恍惚が生み出した多くの混濁にもかかわらず、この誤解された恍惚は実のところ、純粋な概念にほかならないとされた。
 さらに考えられることは、私たちの時代のすぐれた哲学は、自らの価値そのものを学問性に置いているのだが、他の人々がこのことを別様に解したとしても、実際のところこれらの哲学は、ただ学問性によって通用するのである。そこで、学問を概念のもとに返すことを求め、学問をそれ本来の領域である概念のうちで叙述しようとするこの試みが、事がらの内的真理によって、世に受け入れられることを望むこともできよう。
 私たちが確信すべきは、真理はその時が来れば浸透していくという性質を、持っていることであり、真理が現われるのは適切な時が来たときだけであって、それゆえ現れるのが早すぎはしないし、また未熟な公衆にも出会わないことである。そしてまた、真理が公衆に出会うことのもたらす効果が、個人には必要なことである。それは、いまだ個人ひとりのもつ問題を現れた真理によって検証するためだし、まだようやく個別性に属する確信を、普遍的なものとして経験するためでもある。
 だがその際には公衆と、公衆の代表者や代弁者のような態度をとる人たちとを、多くの場合に区別しなければならない。公衆は多くの点でこれらの人たちとは、ふるまい方が違うし、対立さえしている。公衆はある哲学の著作を気にいらなくても、むしろ思いやりからそれを<67>自分の責任にするようなとき、あの代表・代弁者たちは反対に、自分たちの能力には自信をもって全責任を著作家に押し付けるのである。公衆への著作の影響は、代表・代弁者という「死者たちが、彼らのうちの死者を葬る」(*49)ときよりも静穏である。
 今では大方の理解が概して進んでおり、その知識欲は活発で、判断は、「汝を運び出す者の足は、すでに戸口に立っている」(*50)ほどに、す早くなされる。だがしばしば、ゆっくりと表れてくる影響を、こうしたことから区別することができる。この影響は、堂々たる断言によって強要された注目や、侮辱的な非難を正し、また一部の著作にはいささか時がたったあとで、ようやく [その著作の] 同時代人を与える。しかし他の著作には、時がたってしまえば後世はな いのである。

 ところで、精神の普遍性がたいへん強まって、当然個別性はそれだけ重要ではなくなっていたり、また精神の普遍性、がその全範囲にわたって形成した富を固持し、それを欲したりする時代においては、精神のすべての仕事のうちで個人の活動に属するものは、少ないのかもしれない。だから個人は、すでに学問の性質からしてもそうであるように、それだけいっそう自分のことは忘れ、そしてまた自分に可能であるものとなり、可能なことを行わなければならない。
 そして、個人自身がいっそう少なくしか自分には期待できず、また自分のためにはいっそう少なくしか欲することができないように、個人に対する要求もまた、より少なくあるべきである。

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 訳 注

(*1) 原文は、eine Konversation

(*2) 原文は、Ungleichheit

(*3) 「上記のような知識(eine solche Kenntnis)」とは、「普遍的な原理・観点についての知識(Kenntnisse)」をさし、「判断Beurteilung)」とは「真剣な判断(ernsthaftes Urteil)」をさします。

(*4) 原文は in der Konversation. 定冠詞の der になっているのは、以前にも「著者による誌上での話」は登場したからです。

(*5) この「欲求(Forderung)」とは、前前段落の「概念的形式とはむしろ反対のものが、哲学の叙述のために望まれている(gefordert)」という文中において登場し、前段落冒頭の「こうした [現代の] 欲求」へと引きつがれた「欲求」です。しかし、具体的には、直前に出てている「恍惚」や「熱狂」への欲求を意味するのでしょう。

(*6) 原文は、Lichtfaden

(*7) 原文は den Horos

(*8) 「前述」というのは、これらの形式の流動的な性質は、これらの形式を、有機的統一の諸契機にしている」の部分です。

(*9) 「別の人たち」は、
・1807年のオリジナル版と(http://www.deutschestextarchiv.de/book/view/hegel_phaenomenologie_1807/?hl=In&p=32)、
・『アカデミー版 ヘーゲル全集』と
・それに基づいたマイナー社の「哲学文庫」版では
die Andern
ですが、
・ズーアカンプ版では
die anderen です。この形容詞 anderen が小文字で始まっているのは、その後の名詞が省略されているからではなく、「小文字で始まる名詞化形容詞」だからでしょう。つまり、「単に人または物の本来具有しない偶然に置かれた位置、順序、部類などを表したり・・・するに過ぎない形容詞がある。こういう形容詞が名詞化されるときには、普通の名詞化形容詞と異なって、頭字を大書しない。」(橋本文夫著『詳解ドイツ大文法』、58ページ)
 したがって、die Anderndie anderen も「別の人たち」という意味です。

 しかし、ズーアカンプ版ではこの die anderen に注がついており、「A: >>die ersten<<」となっています。この「A」は「最初の版」を表します(S. 598)。しかし、最初の版すなわち1807年のオリジナル版では、上記のように die Andern となっているのですから、die ersten は誤りでしょう。

 ここでの「別の人たち」は、シェリング派を指すものと、思われます。といいますのは、この後でヘーゲルは die Andern を「単調な形式主義(ein einfärbiger Formalismus)」といって批判しているからです(『アカデミー版ヘーゲル全集』, Bd. 9, S. 17. ズーアカンプ社『ヘーゲル著作集』, Bd. 3, S. 21)。この語は、ヘーゲルからシェリングへの手紙(1807 年 5 月 1 日付)中の、「不毛な形式主義(einem kahlen Formalismus)」と同じ意味でしょう。引用しますと(ここはヘーゲルも婉曲に注意深く書いていますので、直訳にします):
 [『精神の現象学』の] 「序文」については、君 [シェリング] は次のようには思わないだろう:とくに君の諸形式の平板さ(Plattheit)――この平板さは、多くの馬鹿げたことをもたらし、また君の学問を不毛な形式主義へともたらしているのだが――に対し、ぼくがあまりにも好意的だったとは」。(Briefe von und an Hegel, hrsg. von J. Hoffmeister, Velix Meiner, Bd. 1, S. 162)

(*10) この「すべての牛が黒い夜」という言葉は、ヘーゲルがシェリングの絶対なものに対して放った非難として有名ではありますが、いろいろ誤解があるようです。マイナー社(Meiner)の哲学文庫版の編集者注(Anmerkungen, S. 561f.)が、この間の事情を紹介してくれていますので、それにそって見ていきます。なお、「 」内は編集者からの引用で、< >内はシェリングからの引用、[ ] 内は筆者の挿入です:
・「シェリングとはすでに仲たがいしていた F. シュレーゲル [弟の方] に、H. シュテフェンス [Henrik Steffens 。英和辞典『リーダーズ・プラス』によれば、「ノルウェー生まれのドイツの哲学者・ロマン派詩人 1773-1845年] は、イエナで知り合った」。シュテフェンスは、「F. シュレーゲルがシェリングの絶対的同一性の哲学について、ふつうヘーゲルに帰せられる着想を、当時すでに、冗談めかしてさかんに言っていたと、述べている」。
 ただし牛ではなくて、F. シュレーゲルが言ったのは、「闇の中では、すべての猫は灰色 [grau, うす暗い] である」だったそうです。

・「上記のシェリングに対する批判が、おそらく彼をして絶対なものをさらに詳しく説明させるきっかけと、なったのであろう」。そこでシェリングは 1802年に、以下のように書きます:
 <というのも大多数の人は、絶対なものの本質のうちに、夜しか見ないからである。そして彼らは、この夜のうちには何ものも認識できない。彼らの前ではあの本質は、差異のたんなる否定へと退縮しており、彼らにとってはまったく否定的な本質である。これをもって大多数の人は賢くも、彼らの哲学の終結とするのである。>(『哲学体系のさらなる叙述 第2部』 1802年。『ズーアカンプ(ズールカンプとも)版選集』、第2巻、147ページ。また、『オリジナル版(SW 版)全集』、第1部、第4巻、403ページ。Googleなどでは、"Denn die meisten sehen in dem Wesen" で検索。)

 すなわち、シェリングは大多数の人の見る「夜」を、「差異のたんなる否定」だとして批判しているのです。そして彼は、上記の『哲学体系のさらなる叙述 第2部』において、<絶対なもののあの夜が、どのように認識にとっての昼に変わるのかを、ここでより明確に示しておきたい>と書きます。

・そして、彼はいろいろ説明したあと、<この永遠で、絶対なもの自体に等しい形式が、昼であり、昼において私たちはあの夜を、そしてまた夜の中に隠れている驚異を把握するのである>と、記します。

 したがって、ヘーゲルがシェリングの絶対なものを「夜」だと非難したことについて言えることは、
(1) この着想の功績(?)は、F. シュレーゲルに帰すべきですが、
(2) H. シュテフェンスが、「ふつうヘーゲルに帰せられる着想を・・・」と書いた当時には(それが何年かは分かりませんが、この文章を含む『私が体験したこと』の出版は、1841年です)、ヘーゲルの着想として知られていたようです。
(3) しかし、シェリング哲学への非難としては失当であり、彼は「夜」ではなく「昼」を主張していました。

(*11) 「それ自体としては」の原語はan sich。 「それ自体は」「本来的には」「それ自体に即しては」などといった意味です。 

(*12) 原文は、Ansichan sich がここでは、とくにヘーゲル的述語として使われているので、伝統的な訳語である「即自」を用いました。

(*13) 原文は für sich で、これがヘーゲル的述語として使われている場合には、「対自(的)」と訳します。

(*14) 絶対なものとは、語義からすれば、自己完結してそれだけで無条件に存するものの謂(いい)です。しかし、絶対なものが何らかの結果だとすれば、当然それを生みだす過程が必要になり、語義に反します。このことをヘーゲルは、widersprechend (矛盾するように)およびこの後での Widerspruch (矛盾)と、形容したのでしょう。

(*15) 「即自的」と次の「対自的」については、「哲学用語の解説」を参照してください。

(*16) 「自己意識を有する自由」」というのは、「形成された理性」すなわち「対自的な人間」のことです。<対自的な人間すなわちあるべき人間は、自己意識を持ち自由である>というヘーゲルの考えは、フィヒテやシェリングとも共通です。
 また、「自分の内で安ら」っているという事態は、自分の外にはいず、他のものではないということですから、自分自身であるという「単純な直接態」を表します。
 そして、 対立と融和している」ことが「形成された」ものであることを表しています。

(*17) 「自己」の原語は Selbst です。

(*18) 原文は、geheftet sind です。heften はふつう、「くっつける。留める。固定する」といった意味です。しかし、「仮縫いする。(製本で)仮とじする」の意味もあります。つまり、<一応は留めておくけれども、必要に応じてまた、ほどけるようにもなっている>という意味です。ヘーゲルが verbinden (結合する)のような一般的な語を使わず、ここだけ heften を使っているということは、「仮留めする」の訳語の方がいいと思います。
 といいますのは、ここでは主語から述語が必然的に生じるというのではなく、「主語について知る者」が自分の判断で、述語を主語に留めています。そこでたとえば、「神」という主語に留めた述語である「永遠なものである」は、また「主語について知る者」がほどいて、別の述語「愛である」に替えることができるという、事態になっているわけです。

(*19) 「エーテル」は、もとの古代ギリシア語では、地上界を離れた上空の(今となっては想像上の)大気を意味していました。そこから比ゆ的に、「清浄な領域をみたしているもの」の意味が派生しました。ヘーゲルもこの意味で使っており、「俗塵をはなれた学問世界」といったところでしょう。

(*20) 「突然」の原文は、wie aus der Pistole です。

(*21) 「実質(実体)」の原文は、Substanz です。ここでの元の意味は、「(個人的)実質」ですが、それは同時に個人に内在する「実体」でもあります。この後、「実体(Substanz)のうちへと戻ってきた・・・」とあるように、 Substanz が実体の意味で使われていますので、ここでの Substanz にも実体の意味を含ませて、「実質(実体)」と訳出しました。

(*22) 「自己の直接的な所有物」とは、この直後の文に出てくる「思考されたもの」のことです。

(*23) 「あの無条件性(jener Unbedingtheit)」とは、直前の「純粋(reinen)」であることを、指すと思われます。

(*24) 「以前に話題にした」というのは、
 「またこの生成は、[いわゆる] 学問の基礎づけともいささか異なっている――いずれにしろ、突然絶対的な知から始めるような熱狂、また他の観点については、気にとめはしないと宣言することでお終いにしてしまうような熱狂とは、異なっている。」
という箇所を、指しているものと思われます。

(*25) スタディオンは、古代ギリシアの距離の単位で 約 200m です(なお詳しくは Stadium の項目を参照)。トワーズは、昔のフランスの長さの単位で 1.949m。(小学館『独和大辞典 第 2 版』。なお、相良守峯『大独和辞典』では「1949」となっており、小数点がなく、誤植です。)

(*26) 「逆に言ってよければ」というのは、ヘーゲルのダジャレで、訳出はできないのですが、一応説明しますと――
 (i) ドイツ語の慣用句に、
 etwas in- und auswendig kennen 「或事に通暁(つうぎょう)している」(相良守峯『大独和辞典』の inwendig の項目 II)
があります。そこから、
 Inwendig weiß er, aber auswendig nicht. 「彼はそれを本当には知らない」(小学館『独和大辞典 第 2 版』の inwendig の項目の II)
などと表現されます。
 この慣用表現は、<先に来ている inwendig ではまだダメで、後の auswendig でもないと知ったことにはならない>、との意味です。

 (ii) ところがヘーゲルは、この慣用表現とは「逆に」、auswendig ではダメで、
inwendig でなければならないと主張したわけです。そこで、「逆に言ってよければ」と断ったのです。

(*27) 既述の「「斜辺の長さの 2 乗は、他の 2 辺の長さをそれぞれ 2 乗したものの和に等しい」という関係。

(*28) 「この付加的な事態」というのは、直前に書かれている「(定理が)真実なものとして洞察され」るようになったという事態です。

(*29) 認識そのもの(Erkennen als solchem)」というのは、既述の箇所――
 すなわち、「数学的証明の運動は、対象としているものに属しているのではなく、当のものには外的な行いである。・・・証明の結果を産出することのすべては、[主観が行う] 認識の進展であり手段なのである。」――
で言われていた、「当のものには外的な行い」である「[主観が行う] 認識」のことです。

(*30) 「比較不可能性(Ikommensurabilität)」とは、2 つのものを同じ基準では測定できないことを意味します。

(*31) 円の直径と円周とが「概念的関にある」とは、たとえば、
 <或る一点Aから等距離にあるすべての点が作る図形の長さと、Aからこれらの点の 1 つまでの距離を表す長さの 2 倍との関係>
といったことでしょう。

(*32) 「無限なもの」とは、円周率πの 3.1415 . . . を指します(これは、無理数の無限小数です)。

(*33) 総合的命題」というのは、総合的判断(カント)を表す命題のことです。総合的判断については:
 「・・・分析的/総合的の区別をはじめて明確に行ったのはカントである。カントによれば・・・総合的判断は、主語概念のうちに述語概念が含まれておらず、主語概念の分析だけでは [判断の] 真偽が知られ」ず、「事実との照合を必要とする」。「だからこそ真と知られたときにはわれわれの認識を拡張してくれるものである」。(岩波『哲学・思想事典』の「分析的/総合的」の項目)

(*34) 原文は、
 so mag . . . die Hauptsache aber . . . erspart, . . .
 この主文の主語は die Haputsache(主要なこと)ですが、過去分詞 erspart ersparen は「~を省く。~を免れさせる」という意味の他動詞)の後に、受動の助動詞である sein が、省かれていると思われます。
 つまり、話法の助動詞は、「文の関連から意味が明らか」な場合には、「不定詞を省略」して、動詞として用いられますが(桜井和市『改訂 ドイツ広文典』、287ぺージ)、この文では受動の不定詞 erspart sein sein 部分が省略されたのでしょう。
 
 なお、受動の助動詞に werden ではなく sein を想定するのは、定動詞が mag になっているためです。すなわち、「mögen など話法の助動詞に伴う受動の不定詞はしばしば過去分詞に sein を結ぶ」とあります(桜井和市『改訂 ドイツ広文典』、271ぺージ)。
 したがって、この sein は状態受動を表すものではありません。

(*35) 述べられている箇所は、「分離させる活動は、悟性の力であり仕事であって、驚嘆すべき・・・表象されたものが、純粋な自己意識の所有物になるということ」です。

(*36) ヘーゲルにとって「即自存在」、「対自存在」といった概念は、「実体=主体」という彼の哲学そのものであり、これは魂(Seele)より高度な精神(Geist)の諸契機を表します。

(*37) この「表象による思考(das vorstellende Denken)」とは、以前に言及された「もろもろの表象にそって進行する慣習(der Gewohnheit, an Vorstellungen fortzulaufen)」(135ページ、下 11 行: M. 41./ S. 56.)のことです。

(*38) 原文の「--」を、「つまり」の意味にとっています。

(*39) 「思弁的な命題によって(durch den spekulativen Satz)」というのは、思弁的な観点からは」という意味だと思われます。

(*40) 「同一性命題der identische Satz)」とは、主語と述語が同一の内容であることが表れている命題に対する、ヘーゲルの用語です。

(*41) リズム(Rhythmus)は、連続する同一の拍(Metrum)と、それらの中での区別を示す強勢(Akzent)とからできていることを、ヘーゲルは言いたいのでしょう。

(*42) つまり、「実質的な意味」をもつものの内で主語が溶解したために、この「実質的な意味」をもつ「存在」の語が、主語の本質となったのです。

(*43) この箇所は訳しづらく、また版によってすこし相違がありますので、以下の (i) ~ (viii) で説明します。まず、拙訳を示し、その下に 1807 年のオリジナル版を記しています:
 (なお、M はアカデミー版にもとづいたマイナー社の哲学文庫版、S はズーアカンプ版を表します。)

・「例をつかって述べてきたことを説明すると」
  
Um das gesagte durch Beyspiele zu erläutern,
 (i) この
um zu 不定詞句は、「断り書きの um zu + 不定形」です(橋本文夫著『詳解ドイツ大文法』、352ページ)。

・「『神は存在である』という命題において、述語は『存在』である。」
 
so ist in dem Satz; Gott ist das Seyn, das Prädicat das Seyn,
 (ii) 文頭の
so は、「無意味な重語的用法;文章の先頭に立つ文章成分 [= Um das gesagte durch Beyspiele zu erläutern] の直後に [置かれる]」(相良守峯『大独和辞典』の so の項目、II, 2)というもので、意味はなく、語調を整えるためのものでしょう。

 (iii) Satz の直後のセミコロン(
;)は、S はコロンになっています。現代表記では、コロンなのでしょう。(M はセミコロン。)

 (iv)
Gott が無冠詞なのは、「一神教であるキリスト教」の神ですから、「固有名詞なみに」扱われているためです(小学館『独和大辞典 第 2 版』の Gott の項目)。その動詞 ist の補語である Seyn は、抽象名詞ですから、定冠詞 das が付いています。

 (v) 文頭 so ist
ist の補語は das Seyn ですが、定冠詞 das はイタリック体になっています(M では隔字体)。これは、命題(Gott ist das Seyn)中の das Seyn という語を受けていることを、表しているのでしょう。

「『存在』は、ここでは述語ではなく、[主語の] 本質でなければならない。

  Seyn soll hier nicht Prädicat, sondern das Wesen seyn;
 (vi) 「存在」は、むろん通常の見方では――すなわち「判断あるいは命題一般」として見れば――述語です。このことは、前記の「述語は『存在』である」と、言われているとおりです。しかし、「ここでは」とあるように、この個所ではヘーゲルの見解――すなわち「思弁的な命題」においてのあり方――が語られています。
 ヘーゲルによれば、「[形式的思考では] 自己は、表象された主語として立てられたものであり、これに対して内容は遇有性や述語として関係する。・・・[しかし、] 概念把握的思考 [=思弁的な命題] においては事情が異なる」のです(137 ページ、上 15 - 19 行/ A. 42./ S. 57.)。
 つまり概念把握的思考では、「内容」を表している述語は、「遇有性や述語として」は存在しません。したがって、述語である「存在」はヘーゲルの見地からすれば、「述語ではな」いのです。

(*44) 「見える(scheint)」と、やや婉曲な書き方になっていますが、「やめている」と言うのがヘーゲルの考えです。

(*45) 「感じる」の動詞は、ズーアカンプ版と 1807 年オリジナル版、そしてアカデミー版(GW)では、現在形の fühlt ですが、アカデミー版にもとづいたマイナー社の哲学文庫版では 接続法 II 式あるいは過去形の fühlte になっています。私見では、現在形の fühlt が正しいと思い、そのように訳しています。
 といいますのは、この動詞を含む文の直後の文は、oder es [= das Denken] findet . . . となっているからです。接続詞 oder (すなわち。言いかえれば)で連結されているところの、主語を同じくする 2 つの文が、異なる時称であったり、直説法と接続法とに分かれていたりするとは、ふつう考えられません。そこで、後の文が findet の現在形であれば、前の文も fühlt の現在形だろうと思います。

(*46) この「本質das Wesen)」Wesen がイタリック体(テキストによっては隔字体)なのは、強調でしょう。その意味は、後の関係代名詞 welches 以下で述べられます。すなわち、「主語のもつ性質を尽くしているところの本質」です。

(*47) 原文は in sich gegangen で、in sich gehen は「考えこむ」という意味の熟語です。

(*48) ・・・まったくの主体である。よって、根底に横たわる主語・・・」とありますが、ここの「主体」も「主語」も原文は同じ Subjekt です。このように、命題においての主語を論じた箇所では、同じ Subjekt が 2 つの意味で使われているため、判読しにくい文になっています。読者が文脈によって、意味を振り分けるほかありません。
 ちなみにシェリングは、『超越論的観念論の体系』(1800年)において、「主観」は das Subjektive、「主語」は das Subjekt と書き分けています。(例えば、Meiner 社の Philosophische Bibliothek 版において S. 31. 1800年のオリジナル版では S. 38f.

(*49) 『新約聖書』の「マタイ伝」、第8章の22から。

(*50) 『新約聖書』の「使徒行伝」、第5章の9から。

(*51) ここで、数学すなわちユークリッド幾何学が取り上げられているのは、
・当時「学問」の代表が、この幾何学であったこともありますが、
・シェリングが『超越論的観念論の体系』(1800年)で、哲学と幾何学の親近性を以下のように指摘したのに対し、ヘーゲルは逆に相違点を明らかにしたかったのでしょう。
 「[超越論的観念論などの] 経験的ではないすべての学問は、その学問の第一原理によって、あらゆる経験論をまえもって排除しておかねばならない。つまり、これらの学問の対象をすでに存在するものとして、あらかじめ前提にしてはならず、対象は産出しなければならないのである。たとえば幾何学はこうしたものであり、幾何学は定理ではなくいくつかの公準(Postulate. 哲学の「要請」に相当)を出発点とする。幾何学のうちではもっとも根源的な構成(Konstruktion)が公準にされて、初学者自身に幾何学を産出することがゆだねられることによって、初学者はすぐ初めから自分で構成するよう指導されるのである――このことはまた、超越論的哲学においても同様である。」(『超越論的観念論の体系』、1800年のオリジナル版では S. 53.)

(*52) 原語は Ausführung。この語には、「詳述」と「遂行」の 2 つの意味があります。これまでは「遂行」と訳してきましたが、文脈によって適宜「詳述」にします。
 なお、この 2 つは同一の事態です。ヘーゲル哲学においては、概念の運動を詳述することが、この運動が遂行されることにほかならないからです。


  はじめに

 以下に訳出しましたのは、第 2 版(1831 年夏から同年 11 月死去まで、改訂がなされた版)の『精神の現象学』の「序文」(Vorrede, 序論とも訳されます)です。

 なお、拙訳が大家の訳と異なっている箇所については、こちらで説明しています。
 また、『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」の拙訳は、こちらです


I. 『精神の現象学』のテキストについて

 『精神の現象学』原文テキストとしては、次の2つが入手しやすく、読みやすいです。
(1) マイナー社(Meiner)の哲学文庫版(Philosophische Bibliothek, BAND 414)
 ・アカデミー版のヘーゲル全集(Gesammelte Werke)、第 9 巻 に基づいており、テキスト・クリティークの面で安心です。
 ・1807 年の初版を採用しています。1831 年に改訂された箇所は、脚注に採録されています。
 ・単語のつづりや句読法は、現代表記と異なる場合があり、初心者はまごつくかもしれません。
 ・『精神の現象学』成立の事情に関する編集者の序文や、テキストに対する注も豊富です。『精神の現象学』を研究するというのであれば、必要な版です。
 ・しかし、人命索引はあっても、事行索引がないのが困るところです。

(2) ズーアカンプ社(Suhrkamp)社のヘーゲル著作集、第3巻(Georg Wilhelm Friedrich Hegel Werke 3
 ・1831年に改訂された版を、採用しています。(ただし、同年にヘーゲル死去のため、改訂部分は前半のみ。)
 ・初版で改訂された部分は、脚注で採録されています。
 ・事行索引を利用するには、著作集の別巻を別途購入する必要がありますが、買っておきたいところです。
 ・現代表記(ただし、新正書法以前)になっているので、まごつかなくて済みます。



II. 凡 例

 ・ [  ] 内の挿入は、訳者によるものです。

 ・ < > 内の数字は、ズーアカンプ社の『ヘーゲル著作集(G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Bänden)』 第3巻でのページ数です。
  例: <11> は、ここからズーアカンプ社版の 11 ページが始まることを意味します。
 (ただし、ドイツ語と日本語では語順が大きく違うため、厳密には対応していません。)

 ・原文での段落分けを訳でも踏襲すると、とくにモニター画面では大変読みづらくなります。そこで、原文では文章が続いている箇所でも、訳では改行して段落分けをしています。(しかし、一行の空白は設けていません。)
 したがって、訳でのそのような段落分けは、訳者の解釈(その箇所で意味が区切れるという)を伴っています。

 ・原文で、改行して段落分けをしている箇所は、訳でも段落分けをし、段落間には一行空白を設けています。

 ・ズーアカンプ社版ではイタリック体に、マイナー社版では隔字体になっている語句は、拙訳では太字にしています。


(工事開始: 2014-12-8)
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