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ヘーゲルの訳
『精神の現象学』の「序文Vorrede鋭意工事中! (v. 0.0.4.4.)

Phänomenologie des Geistes
Vorrede


  目 次

 はじめに
I. 『精神の現象学』のテキストについて
II. 凡例
III. 翻 訳


III. 翻 訳

<11>    
序 文Vorrede

  書物の序文においては、書物の前置きとしての説明が――つまり、著者がその書物においてはたそうとした目的や [著作の] 動機について、そしてまた、その書物以前および同時代の同じ対象を扱っているものにたいして、その書物がもつと思われる関係についての説明が――慣習にしたがって述べられるが、、そのような説明は哲学の書物の場合には、余計であるのみならず、事がら(
Sache(*8)の性質からして不適切であり、目的にも反するように思われる。というのは、序文において哲学について語るのにふさわしいと考えられているようなことや仕方は――たとえば傾向や観点、内容の大体のところや諸成果、こうしたもののそれまでの経緯の報告、真理についてのあれこれの主張や断言を結合することなど――、哲学の真理を叙述すべきやり方としては妥当しないからである。
 また、哲学が存するのは、個別的なものを含んでいるとはいえ本質的に普遍性の領域においてであるから、哲学にあっては他の学問以上に、次のように見られてしまう:「目的あるいは最終的な成果のうちで、事がら自体は、しかもその完全な本質において、示されている。これに対して、目的へといたる遂行過程は、本来的には非本質的なものである」、と。それに対したとえば、「解剖学とは、生命のない存在としてみられた体の各部についての、知識といったものである」という一般的な観念では、まだ事がら自体は、つまり解剖学の内容は分かってはいず、それ以外にも個別的なものに携(たずさ)わらなければいけないものと、人々は確信している。
 さらに、著者による、目的やこれに類する一般的なことがらについての誌上での説明Konversation)は――上記のような、学問という名には値しない個別的な知識の集積なのだから――、これまでの経緯に関する、概念に欠けた述べられ方――<12> 神経や筋肉などといった内容そのものも、このように述べられるのであるが――と違わないことが多いのである。それに対して哲学においては、このようなやり方がなされても、それでは真理を把握できないことが、このやり方自体によって示されるという不都合な(
Ungleichheit)結果となろう。

  そしてまた、ある哲学的営為が同じ対象についての他人の研究に対して、持っていると思われる関係を規定することによっても、[哲学とは] 異質の関心がもたらされることになってしまうし、真理の認識において肝心なことが、覆い隠されるのである。
 また、真理と誤りは対立するという考えが固定化すればするほど、こうした考え方は、[哲学的営為に対して] 既存の哲学体系への同意もしくは否認も、より期待するようになる。そして既存の哲学体系について説明されると、こうした考え方は、[そこに] たんに同意か否認の一方をしか見ようとしなくなるのである。
 こうした考え方は、哲学体系間の相違を真理が前進し発展することとしては捉(とら)えないで、たんに相違のうちに [一方の哲学の他方への] 否認しか見ない。植物のつぼみは、花が開花したときには無くなる。花によってつぼみは否定されると、言えよう。同様に、花は果実によってまやかしの存在であることが明らかにされ、果実が植物の真理として花にとって代わる。つぼみ・花・果実という形態は、異なっているのみならず、お互いを相いれないものとしても排除する。しかし同時に、これらの形態の流動的な性質は、これらの形態を、有機的統一の諸契機にしている。この統一にあってはこれらは対立しないばかりでなく、1 つのものは他のものと同じく必然的なものであり、この等しい必然性がはじめて全体の生命を形成するのである。
 しかし一方では、ある哲学体系を否認する方は、このようには考えないのがふつうでる。また他方では、[否認を] 受けとめる側の意識 [=否認された人] も、否認をその一面性から解放することが、つまり否認を自由に受けいれることが概してできないし、お互いに争い対立しあっているように見える外見のうちに、相互に必然的な諸契機を認識することもできない。

 既存の哲学体系についての説明を欲することや、<13>この説明で満足することが、ともすればなにか本質的なことを行っているように見なされる。哲学の書物の内容を表しえる箇所としては、書物の目的や結果を書いているところをおいて、他にどこがあるというのか? そして、目的と結果を明確に認識できるものとしては、同時代に同じ分野で生みだされた他のものとの相違をおいて、何があるというのか?――というわけである。しかし、そのような他の哲学との相違の説明などを、認識の始まり以上のものとして、実際の認識として通そうというのであれば、それは課題(Sache(*8)そのものを回避して、課題に対して真剣に尽力しているように見せかけなから実はしていないという、うそ偽りと考えられるべきである。
 というのは、課題はその目的においては尽くされておらず、その遂行においてそうなるのであり、また結果というものも現実的な全体ではなく、結果にいたる生成と合わせてそうなのである。結果そのものは、活動的ではない普遍である。これは、[結果への] 志向(
Tendenz)が、現実性のまだないたんなる衝動(Treiben)であるのと同じである。そしてたんに結果だけでは、[それへの] 志向がなくなった屍(しかばね)なのである。
 同様に、相違というものはむしろ事がらのもつ境界である。相違は、事がらが終わるところにある。すなわち、相違とはその事がらではないところのものなのである。
 だから目的とか結果とか、またあるものと他のものとの相違やそれぞれの評価といったことで尽力するのは、見かけよりはたやすい仕事である。というのも、そういった仕事は [課題である] 事がらに取りくむかわりに、事がらをとび越えているのだから。またそういった [仕事ではたらく] 知は、事がらの内(うち)にとどまって、その内で自らを忘れるかわりに、その事がらとはいつも別のものをつかもうとする。そして、事がらのもとでそれに従事するというよりは、むしろ自分にとらわれているのである。
 もっともたやすいのは、実質や内容をもったものを評価することである。より困難なのは、それを把握することであるが、もっとも困難なことは、評価と把握を統一して、それを叙述することなのである。

 教養の始まりや、実質的な生活の直接性から脱することの始まりは、なにはともあれ、<14>
・普遍的な原理・観点についての知識を獲得し、
・そして事がらについての一般的思考にまで、ようやくのこと到達し、
・またこうした知識や考察に対しては、根拠を上げて支持ないし否定することをゆるがせにはせず、
・具体的で豊かな充実 [=充実した内容・事がら] を、規定にしたがって把捉(はそく)し、
・整った報告や真剣な評価をすることが、
できることだったに違いなかろう。
 しかしこの教養の始まりは、まず充足した生のもつ真剣さに席をゆずるのであり、この生の真剣さは事がら自体の経験へと通じている。そしてそこに、概念の真剣さが事がらの深みに達するということも加われば、[原文のこの段落での] 上記のような知識や評価は、著者による読者への誌上での説明(
Konversation)において、適切な所をえよう。

 真理がそのうちで存在するところのな形態は、真理の学問的な体系以外ではありえない。私も、哲学が学問的形式へと近づくために――つまり、哲学がへのという名前から脱することができ、現実的な知であるという目標のために――力を尽くそうと、決心している。
 知は学問であるということの内的な必然性は、知の性質のうちにある。このことについての十分な説明は、哲学自体の叙述にほかならない。そして、外的な必然性は――人や個人的動機のもつ偶然性を度外視して――、それが一般的な仕方で把握されるときには、内的な必然性と同じである。つまり、時代がその諸契機を現実の存在として提示するという形をとった、内的な必然性なのである。
 そこで、哲学を学問へと高める時になっているということを明示することが、学問に高めることを目的とする試みは正当だという、唯一本当の証明となろう。この正当性の証明は、哲学を学問へと高めるという目的の必然性を裏づけるだろうし、同時にまたこの目的を遂行することにもなるだろうからである。

 真理の真実な形態はこうした学問性にあるとすることは、<15>あるいは同じことだが、真理は概念においてのみ現実に存在する場を持つと主張することは、現代の確信となって蔓延(まんえん)し尊大になっている考えや、それから帰結する考えと、矛盾するように見える。これは承知している。それゆえこの矛盾について説明することは、無駄ではないであろう。たとえここではこの説明が、それが反対する当の相手と同様、断言でしかありえないとしても。
 つまり、真理が、直観だとか絶対的なものについての直接知だとか、宗教、存在――神の愛の中心における存在ではなく、この中心自体の存在――などと呼ばれているもののうちにのみ、あるいはむしろそのように呼ばれているものとしてのみ存在するというのであれば、このことからは同時に、概念的形式とはむしろ反対のものが、哲学の叙述のために求められることになるのである。[なぜなら] 絶対的なものは、概念的に捉えられるのではなく、感じられ、直観されるというのであり、絶対的なものの概念ではなく、それへの感情と直観が代表して [絶対的なものについて] 話すというのであり、[したがって] 感情と直観が語られるというのである [から]。

 こうした [現代の] 欲求(*9)の出現をその一般的な関連から考えてみるならば、また自己意識的精神現在立っている段階に注意を向けると、この精神は、思考の領域においてかつて営んでいた実質的な生を乗り越えている。つまり、精神は信仰の直接性を越えており、また、意識が持っていた確信への――すなわち意識と、本質や本質の普遍的(内的・外的)な現前とが、融和していることの確信への――満足や安心を越えている。
 精神はこれらを越えて他の極端へと――すなわち、精神の自分自身の内への実質を欠いた反射へと――至っただけではなく、これをも超えている。[すなわち] 精神にとっては、その本質的な生が失われただけではない。精神はこの損失や、精神の内容が有限になっていることも、自覚しているのである。この残りかすのような状態から身をそむけ、情けないことになっているのを認めながら、精神が哲学に求めているのは、精神が今どうあるかといことのではなく、哲学によって以前の実質性と<16>存在の堅実さをともかく回復することなのである。
 そこでこのような要望(
Bedürfnis)に対して、[前述の、今の時代に確信となっている考えによれば] 哲学は、実体を開示して自己意識にまで高めるのではなく、また、混沌とした意識を思考の秩序に、概念の単純性につれ戻すのではなく、むしろ思考が分離したものをごった混ぜにし、概念による区別を抑止して、本質に対する感情を作りだし、洞察ではなく感激を与えようとしているのである。美的なもの、神聖なもの、永遠なもの、宗教、愛が、食いつきをよくするために求められる餌(えさ)である。概念ではなくて恍惚(こうこつ)が、冷静に前進する事態の必然性ではなくて沸きたつ熱狂が、豊かな実体の振る舞い方であり、この実体の継続的な進展だというのである。

 こうした [現代の] 欲求(*10)に応じて, 懸命で、ほとんど夢中ともいらだっているとも見える努力が、人々を感覚的でありふれた個別的なものへの没入から、引きだそうとしている。そして、人々の目を星空へと上げさせようとしている。人々は神々しいものをすっかり忘れ去り、虫のように土(
Staub)と水で満足しようとしているのだとばかりに。
 かつて人々は、天空にたいへん豊かな思考や形象を、付与していたのだった。存在するものすべてが、光の糸
Lichtfaden)によって天空と結びつけられていたのであり、存在するものの意味は、この光の糸にあったのである。[人々の] 視線は此岸で現前するものに留まりはせず、光の糸をたどって此岸を越え、神々しい本質へと、こう言ってよければ彼岸に現前するものへと昇っていったのである。[そこで] 強制によって、精神的まなざしを地上のものへと向けさせねばならず、それらのもとに引き止めねばならなかった。
 そして、ただ天上のものだけがもっていたあの明澄(めいちょう)さを、あいまいで混乱していた、此岸のものへの感覚のうちにもたらすには、長い時間を必要としたのである。また、現前しているものそのものへの注目――これは「経験」と名づけられたが――に関心をおこさせ、有効に働かせるためにも、長い時間が必要であった。<17>
 今や、逆の事が必要なようにみえる。人々の感覚が、あまりにも深く地上のものに根ざしているので、この感覚をそれをこえて上に向けるには、[地上に向けたのと] 同じような強い力を要するようである。砂漠をさすらう人が、ただ一飲みの水を切望するように、精神は哀れにも生気を得んがために、およそ神々しいものに対する感情を、わずかばかり切望しているようにみえる。精神が満足しているものをもってして、精神の損失の大きさを推(お)し測ることができよう。

 こうした受けとるときの寡欲さ、あるいは与えるときの物惜しみは、学問にはふさわしくない。たんに感激を求める人や、地上での現実の自分の存在や思考の多様性を覆(おお)い隠したい人、こうした [感激のような] 漠然(ばくぜん)とした神々しさを漠然と享受したい人は、そうした [感激や神々しさといった] ものを見いだすところでは、用心するがよい。そうした人は、自分に向かってさえも何かを熱狂してしゃべり、それでもって傲慢(ごうまん)になるための手段を、たやすく見つけるであろう。しかし哲学は、感激的であろうとすることには、注意をせねばならないのである。

  ましてや学問を捨てさるこうした自己満足(
Genügsamkeit)から、上記の熱狂や混濁(こんだく)が学問よりなにか高尚であるなどと、言いはってはいけないのである。そのように預言者的に話す人は、[物事の] まさしく核心や深みにとどまろうとし、規定性(ホロス [=定義])をさげすむような目で見る。また、概念や必然性は、たんに有限的なものにとどまっている反省だとして、それらから意図的に遠ざかるのである。
 しかし、空虚な広さがあるように、空虚な深さもある。また、有限な多様性へとそれらをまとめる力もなくて拡散していくような、実体の広がりがあるように、広がりのない純粋な力として働くような、内容のない強度もあるが、<18>これは浅薄さと同じである。
 精神の力は、その力の外化と同じだけ大きいのであり、精神の深さは、精神がその広袤(こうぼう)において展開し、その内に消えてしまうことをあえてするのにつれて、深いのである。そしてまた、あの概念の欠けた実体についての知が、「我意(がい)は [実体の] 本質のうちで滅(めっ)した、そして真実かつ敬虔(けいけん)に哲学している」などと称したとしても、この知は神に身をささげているのではなく、基準や規定を軽蔑することによって、むしろあるときは自分自身のうちで内容の偶然性の、またあるときは内容のうちで自分の恣意(しい)の、なすがままにしているだけであり、こうした事情を自分にも隠しているのである。
 彼らは、実体の抑制のない高揚に身を任せることで、自己意識が覆われ、知力を放棄してしまい、神によって眠っているあいだに知恵をさずけられるという、神に慈(いつく)しまれる人になったものと思っている。だから実際のところ、彼らが眠っている間に受胎し、生みだすものも、また夢である。

 ところで、私たちの時代が誕生の時代であり、新しい時期への移行のときであるのは、見やすいところである。精神は、その現存や観念であったこれまでの世界とは関係を絶ったのであり、それを過去のものにしようとしており、自己変革を行っているところである。
 むろん、精神は休止することはけっしてなく、つねに前進してやまない。しかし、赤子が長く静かな [胎内での] 養育の後、最初の呼吸でもってそれまでのたんにしだいに大きくなる過程とは決別し――質的飛躍である――、かくして赤子が誕生するように、生じつつある精神は、静かにゆっくりと新しい形態に向かって成熟する。精神は、それまでの精神の世界の建造物を、部分ごとにつぎつぎと解消していく。世界の動揺は、[しかし] たんに個々の兆候によって暗示されるだけである。既存のもののうちで広まっている軽薄さや退屈、未知なものへのおぼろな予感などは、なにか別のもが接近していることの前兆なのである。
 このようにだんだんと破砕はされても、全体の外観は変わらなかったが、しかしこれも、<19>新しい世界の形象が、稲妻の閃光によっていっきょに現れることによって、とって代わられる。

 しかしながら、完全な現実性を、この新しい世界は新生児と同様、持ってはいない。そしてこのことは、まったくもって見過ごされてはならないのである。はじめて登場したときは、まだ直接的なままであって、[登場したものの] 概念である。土台が置かれただけでは建物はでき上がっていないように、到達された全体の概念は、全体そのものではない。樫(かし)の木が幹を力強く立て、枝を広げ、葉をしげらせているのを見たいときに、樫の木のかわりに樫の実のドングリを示されたところで、満足できるものではない。
 精神の世界の王冠である学問も、その始まりにあっては完成していない。新しい精神の始まりは、多様な教養形態の広範囲にわたる変革の所産であり、曲折の多い道程をへての、また同じように多くの努力・尽力による、報酬である。この始まりは、[諸契機の] 継起から、そして自分の拡張から自分のうちに戻ってきた全体であり、[すなわち] 全体の概念――生成したところの単純な概念――なのである。しかし、この単純な全体の現実性は、次の点にある:前述の諸契機となっ [て解消し] た諸形態が、また始めから、とはいえその新しい領域において、生成した意味において発展し、[以前とは別の] 形態をもたらすことである。

 一方では、新しい世界がはじめて現象したときは、まだようやく、単純さのうちでおおい隠された全体である、あるいは全体の一般的な基礎である。これに対し、意識にとってはそれ以前の豊かな存在物が、まだ記憶になまなましい。意識は、新しく現象してきた形態に内容の広がりと特殊化が欠けているのを、残念に思っている。より残念に思えるのは、形式の形成がないことである。これがあってこそ、さまざまな区別が確実に規定され、これらの区別は相互の確定した関係へと秩序づけられるのである。
 この形式の形成がなければ、学問は一般的な分かりやすさを欠くし、<20>若干の個人の秘伝的所有物であるようなおもむきになってしまう。「秘伝的所有物」と言ったのは、学問はまだようやく概念の状態だからであり、すなわち学問に内在するものが存在しているからである。「若干の個人」と言ったのは、学問が現われても広がりがないことによって、学問が個別的なものとなっているからである。
 完全に規定されてはじめて、それはまた公共的なものであり、把握でき、学ばれてすべての人の所有物となりえるのである。学問の悟性的な形式が、すべての人に提供され、すべての人のために平らにならされた、学問へといたる道である。そして、悟性によって理性的な知に到達しようとすることは、学問に近づこうとする意識がもつ正当な欲求である。というのは、悟性は思考であり、純粋な自我というものだからである。そして、悟性的なものはすでに周知のことがらであって、また学問と非学問的な意識とに共通なものであって、これによって非学問的意識は、学問に直接参入できるのである。

 始まったばかりの学問は、当然細部は完成していないし、形式も完全にはなっていないのだが、そのために非難にさらされている。しかし、そうした非難でこの学問の本質を衝(つ)こうというのであれば、その非難は正しくないだろうし、また、前述の形式を形成することへの欲求を、承認しようとしないのも不当である。[一方の側には細部や形式の完成を求める人たちがおり、他方の側にはそのようなことは不要だとする人たちがいるという] この対立は、もっとも重大な難問となっているようだが、学問的教養 [社会] は、この難問に現在労を尽くしながらも、まだなおしかるべき合意に達してはいない。
 一方の側は、素材の豊富さと分かりやすさを誇り、他方の側は少なくともこれらを軽蔑し、直接的な理性や神性を誇る。たとえ前者が――真理の力のみによってであれ、あるいは後者の激越さもあずかってであれ――沈黙させられているにしても、また前者が問題の根本においては、打ち負かされたと感じているにしても、上述の欲求に関しては満足していないのである。というのも、この欲求は正当でありながら、満たされてはいないからである。
 一方の側の沈黙は、たんにその半ばが他方の側の勝利によるのであり、あとの半ばは退屈と、興味の喪失による。こうした退屈や興味の喪失は、たえず期待が掻き立てられたものの、結局約束が実現されなかったことから、よく起きるのである。

 <21> 内容に関しては、別の人たちは(*15)たしかにときおり、広範囲にわたって容易に得ることがある。彼らは自分の地盤に多くの素材を、すなわちすでに知られているものや整理されたものを、引き入れる。そして、とりわけ奇妙なものや珍しいものを扱うことによって、ますます彼らはその他の、その分野ではよく知られているものについては、通暁(つうぎょう)しているように、また同時になお秩序立てられてはいないものにも、習熟しているように見えるのである。かくして彼らはすべてのものを、絶対的な理念に従わせるように見えるのであり、このため絶対的理念は、すべてのもののうちで認識されているかのように、展開された学問になっているかのように見えるのである。
 しかし詳しくこの展開を見てみると、同じ一つのものが自らをさまざまに形成することによって完成したというのではなく、同じ一つのものが形成されることなく、[ただ] 繰り返されている。この同じものが、たんにざまざまな素材に外から適用されて、つまらぬ外観の多様性を得ているのである。それ自体としてはたしかに真実な理念も、その発展が同じ定式の繰り返しにほかならないのであれば、実際のところつねに出発点で止(とど)まっているにすぎない。
 存在しているものをとり囲んでいるところの、知る主観のもつ運動を欠いた形式や、このような静止した領域に外からもってきて突っこまれた素材などは、内容についての恣意的な思いつきと同様、欲求されているものを、すなわち、自らより生じる豊かさや、自分自信を規定する諸形態の区別を、かなえはしない。たんなる素材の区別に終わってしまう――しかも、素材の区別がすでに準備されて、知られていることによって――ようなものは、むしろ画一的な形式主義なのである。

 この形式主義は、画一的な単調さと抽象的な普遍性を、絶対者(
das Absolute, 絶対的なもの)だと主張する。そしてこうした単調さと抽象的普遍性のうちで満足しないのは、絶対的な立脚点を自分のものにして保持する能力が、欠けているせいだと言明するのである。<22> かつてある考えを反ばくするためには、別様にも考えられるという空虚な可能性があれば十分であったし、またそれと同じようなたんなる可能性や漠然とした考えが、現実的な認識のもつ積極的なすべての価値さえも持っていた。当今も同じく、たんなる可能性という非現実的な形式における漠然とした観念に、すべての価値が帰せられているのを、私たちは目にする。また、区別や規定の解消が、あるいはむしろそれらを空虚な深淵へ投げすてることが――別に説明もなく、そうすることが正当化されてもいないのに投げすてることが――、思弁的な考察法として通用しているのを、目にするのである。
 このような状況においては、或る存在するものが、絶対的なもののうちではいかにあるのかを考察することは、結局次のように言うことである:「いま確かにそれを、<或るもの>として語った。しかしながら絶対的なもののうちでは、つまり A = A のうちでは、そのようなものはまったく存在しない。そこでは、すべてのものが一つである」。
 絶対的なもののうちではすべては同じという、この 1 つの知を、区別し充実した――あるいは充実を求め欲する――認識に対立させることは、すなわちこの知がいう絶対的なものを、よく言われるように「すべての牛が黒い夜」と称することは、認識における浅はかな空虚さである。近代の哲学が文句をいい、謗(そし)った形式主義が、哲学自体のうちでふたたび生じたのであるが、この形式主義は不満足なものであることが、知られており、感じられてはいるにしても、絶対的な現実についての認識が、自らの性質を完全に理解するまでは、学問から消え去りはしないであろう。
 ところで、詳しく述べるまえに大まかな考えを示すことは、理解を容易にするのであるから、私が述べようとすることの概略をここで提示しておくのも、無駄ではあるまい。同時にこの機会に、哲学的認識の妨げとなっているところの、よく使われる諸形式を除去しておきたい。

 私の見るところでは――もっともこの見解は、[哲学] 体系の叙述そのものによって、またそれのみによって、正当化されればならないのであるが――、<23> すべては次のことにかかっている:真理をたんに実体としてではなく、主体としても把捉し、表現することである。同時に注意すべきは、実体というものは普遍的なものを、すなわちそのものの直接性を含んでいると同様、存在すなわち知に対している直接性をも、含んでいることである。
 
まず(*16)、神を一つの実体として把握しようとするすることが、同時代の人々を憤慨させたが、その理由は、そうなれば自己意識が消滅してしまい、維持されないと当時の人々が直感したことであった。またその反対もあり、これは思考を思考として固持する。普遍性としての普遍性、同じ単純性すなわち区別のない、運動を欠いた実体性である。3 番目に、思考が自分と実体の存在を統一し、直接性すなわち直観を思考として把握するにしても、なお問題なのは、この知的直観がふたたび惰性的な単純性に陥(おちい)りはしないか、そして現実性そのものを非現実的なしかたで述べはしないかということである。

 さらに、活動的な実体はじつは主体であるような存在である、あるいは同じことだが現実的存在である。だがこのようであるのは、この実体が自分自身を措定する運動である限りで、すなわち自らに対して他のものになるという、自分自身との媒介である限りにおいてであるが。この実体は主体として、純粋で単純な否定性であり、まさにこの否定性のために単純なものの分裂である。すなわち、対置する二重化であるが、この二重化はふたたびその [二重化した両者の] 関わりあわぬ相違や、[相違する両者の] 対立の否定である。そして、この自らを再建する同一性だけが、すなわち他のもののうちでの、自分自身の内への反射だけが――もともとの統一性自体、すなわち直接的な統一性自体ではなく――、真理なのである。真理は、自分自身の生成であり、円環である。この円環は、終結を目的として前提にし、また終結を発端(ほったん)にもっており、ただ [目的を目ざしての] 遂行と [その結果としての] 終結によってのみ現実的である。

 <24> そこで、神の生や神の行う認識は、神の自分自身との愛の戯(たわむ)れとして表現されることもあろう。しかしそこに、否定的なものである真剣さや苦悩、忍耐、労苦が欠けているならば、そうした考えは [たんに] 感激的なものに、そして退屈なものにさえなってしまう。神の生はそれ自体としては
an sich, 即自的(*19))、なるほど濁りなき同一性であり、自分自身との統一性である。これらにとっては、他のものになっていることや疎外、またこの疎外の克服などは、重大事ではない。しかし、この即自Ansich, それ自体)は抽象的な一般性であって、そこではそれ自身に対してfür sich, 対自的に(*20)存在するという性質や、それに伴って形式の自己運動が一般に見落とされている。
 形式が本質に等しいものとして述べられるとき、まさに等しいがゆえに即自を、すなわち本質を認識すればでそれで十分であって、形式は省いてよいと思うのは誤解である。また、絶対的な原理あるいは絶対的な直観は、本質が遂行されることや形式の展開を不要にする、と思うのも誤解である。本質にとっては、形式が自らと同様に本質的であるというまさにそのことによって、本質はたんに本質として、すなわち直接的な実体として、あるいは神的なものが行う純粋な自己直観として把握され、示されるべきではない。同様に形式としても、そして展開されたきわめて豊かな形式においても把握され、示されるべきである。このことによって本質は、はじめて現実的なものとして把握され、示されるのである。

 真理とは、全体である。そして全体とは、その展開によって完成する本質にほかならない。絶対的なものについては、「絶対的なものは、本質的に結果である」と、「絶対的なものが本来あるべくあるのは、ようやく最後になってである」と、言わなければならない。そして、現実的なものであり、主体であり、あるいは自分自身への生成であるという絶対的なものの性質は、まさしくここに存するのである。
 「本質的に絶対的なものは、結果として捉えられねばならない」ということは、[自己] 矛盾のように見えても(*17)、いささか考慮すればこの矛盾の見かけは正される。発端、原理あるいは絶対的なものは、最初に直接的に述べられたありようにおいては、たんに一般的なものである。「動物すべて」と私が言っても、この言葉は動物学としては何ら通用しないのであるが、これとまったく同様に、「神的なもの、絶対的なもの、永遠なもの等々」の言葉が、これらに含まれているものを言い表さないのは、何ら奇妙なことではない。<25> そして実のところ、たんなるそのような言葉は、直接的なものとしての直観を表しているのである。
 そのような言葉以上のもの、すなわちたんに 1 つの命題への移行でさえも、他のものになること――これは [やがてまた] 打ち消されざるをえないのだが――を含んでおり、媒介なのである。しかし、この媒介は嫌悪されている。というのも、<媒介はなんら絶対的なものではないし、また絶対的なもののうちに存在するのでもない>のに、たんなるこうした事以上のものを媒介に意味させることで、絶対的な認識が放棄されるらしいのである。

 しかし、実はこの嫌悪は、媒介や絶対的認識自体の性質を、知らないことに由来する。というのも、媒介とは運動するところの、自分との相等性に他ならないからである。すなわち、媒介は自分自身の内への反射であり、対自的に存在する自我の契機であって、純粋な否定性すなわち――媒介を純粋に抽象的にみれば――単純な生成である。自我すなわち生成一般 [という]、こうした媒介は、単純であるがために生成する直接性であり、そして直接的なものそのものなのである。
 したがって、反射を真理から除外して、絶対的なもののもつ積極的な契機として把握しないとすれば、それは理性を誤認することになる。理性こそが、真理を結果にするのであるが、[結果と] 真理の生成とのこの対立も、理性は同じく解消するのである。というのは、この生成もまた同じく単純であり、したがって真理の形式と――結果においては、単純に現れるという形式と――異なりはしないからである。生成とはむしろ、単純性へ帰還していることである。
 胎児はなるほど即自的には人間だとしても、対自的にそうなのではない。胎児が対自的な人間になるのは、ただ形成された理性として――すなわち、理性が即自的にそうであるものに、すでになった理性として――である。このようになって初めて、理性は現実性をもつ。そしてこの [現実的理性という] 結果は、単純な直接態でさえある。というのも、この結果は、自己意識を有する自由だからである(*18)。この自由は、自らの内で静止しているが、対立するものを取り除いて捨てておくようなことはせずに、<26> 対立するものと融和しているのである。

 今述べたことは、理性は合目的な行いである、とも言い表せる。間違って信じこまれた自然を、誤解された思考の上にもってきたこと、何よりも外的な合目的性を締め出したことは、目的という形式一般を不評なものにした。しかしながら、アリストテレスも自然を合目的な行いとして規定したように、目的というのは直接的なものであり、静止したものであり、[他を] 動かすものでさえありながら [他からは] 動かされないものである。だからそれは、主体である。動かすという主体の力は、抽象的にみれば、対自的に存在すること、すなわちまったくの否定性である。
 結果が発端であるものと同じなのは、発端目的だからにほかならない。あるいは、現実的なものがその概念と同じであるのは、目的としての直接的なものが、自己(Selbst)すなわち純粋な現実性を、自身のうちに持っているからにほかならない。遂行された目的、すなわち現存する現実性は、運動であり、くり広げられた生成である。そして、この動揺(Unruhe, 定まらないこと)こそが、自己なのである。この自己と、発端のもつ前述の直接性や単純性が等しいのは、以下の理由による:
・自己は結果であり、[すなわち] 自分の内へ帰ってきたものであるが、
・自分の内へ帰ってきたものとは、まさに自己のことであり、
・そこで自己とは、自分に関係しているところの同等性および単純性だからである。

 絶対的なものを主体にして表す必要から、神は永遠なものであるとか、道徳的な世界の大法である、あるいは愛である、等々の命題が使われた。これらの命題においては、真なるものはたんにそのまま主語として措定されているだけであり、自分自身の内へと反射する運動としては、表現されていない。この種の命題は、「神」という言葉ではじまる。この言葉は、それだけでは意味のない音声であり、たんなる名前である。述語がはじめて、神が何であるかを言い、その内容の充実であり意味なのである。<27> 空虚な発端は、述語という終結においてのみ、現実的な知である。
 この点については、どうして、
・「永遠なもの」や「道徳的な世界の大法」などについてだけ語られないのか、
・あるいは古人におけるように、「存在」や「一であるもの」などの純粋概念についてだけ語られないのか、
・つまり、意味のない音声 [神] を付け加えるということをしないで、意味のあるものについてだけ語られないのか、
[私には] 理解できない。
 しかしながら、この言葉 [神] によって、まさに示されているのは、<或る存在とか本質、また普遍的なもの一般ではなく、自分自身の内へと反射した或るものが、或る主体が措定されている>ということである。ところが同時にまた、このことは [「神は・・・」という命題においては] 予想されているだけなのである。[つまり、] 主語は固定された点として想定されており、この点を支えとして、いくつかの述語が仮留めされている(*21)。[このように諸述語が留められるのは、述語が次々に替わっていく] 運動をとおしてであるが、この運動は主語について知る者に属しており、また前述の点 [=主語] 自体に属すると見なされてもいない。けれども、[点自体に属する] 運動によってのみ、主語としての内容は、述べられたことであろう。
 [しかしながら、] 運動がそうした [主語について知る者に属す] 性質のものであるからには、この運動は主語のもつ内容に属すことはできない。そして、[主語が固定された] 点になっているという前提にしたがえば、運動は別様でもありえず、運動はたんに外的なものでしかありえない。そこで、<絶対的なものは主体である>という前記の予想は、絶対的なものの概念の現実性を示さないばかりでなく、この現実性を不可能なものにもしているのである。というのは、あの予想は前記の概念を静止した点として措定しているが、概念の現実性は自己運動だからである。

 上述したことから生まれてくる諸結果のうちで、顕著なものとして、<知は学問としてのみ、すなわち体系としてのみ現実的であって、叙述されえる>ということがある。さらに、<哲学のいわゆる原則とか原理は、たとえ真であっても、たんに原則や原理としてあるかぎりは、それだけで偽でもある>。
 そのため、そうした原則・原理を反ばくするのは容易である。反ばくするには、その欠点を挙げればよい。それが欠点をもつのは、たんに一般的であるため、すなわち原理、発端であるためである。反ばくが根本的であるときには、反ばくは原理自体から取られて、展開している――その原理とは対立する断言や思いつきによって、外部から、反ばくが遂行されるのではない。したがって反ばくとは本来、原理の発展であろうし、<28> それゆえ原理の欠点を補完することであろう。しかしこのように言えるのは、反ばくが自分の否定的な行いだけに注意をはらったり、自分の進行とその結果を肯定的な側面においては意識しなかったりして、自分を誤認するということが、なければである。
 発端がたどる本来の肯定的な遂行過程は、同時にまた、逆に発端に対する否定的な働きでもある。すなわち、最初は直接的であるという、ないしは目的であるという、発端の一面的形式に対する否定的な働きである。そこで発端からの遂行過程は、体系の基礎を形成しているものへの反ばくとも考えられる。しかしより正確には、この進行過程は、「体系の基礎ないし原理は、実は体系のたんに発端である」ことを示していると、見られるべきである。

 「真理は、ただ体系としてのみ現実的である」こと、あるいは「実体は本質的に主体である」ことは、絶対的なものを精神として述べることのうちに、表明されている。この「精神」は、たいへん崇高な概念であって、近代とその宗教に属している。
 精神的なもののみが、現実的なものなのである。精神的なものは、本質であり、即自的な存在である。また、或る状態にあるもの(das sich Verhaltende)であり、規定されたものであり、また、別のものとして在るものであり、対自的な存在である。そしてまた、この規定性において、すなわち自分の外にあって、自分自身の内にとどまるものである。つまり、即自的かつ対自的である。
 しかし、精神的なものがこの即自かつ対自的存在であるのは、はじめには私たちに対してであり、つまり即自的にである。精神的なものは、精神的な実体 [のまま] なのである。しかしそれは、自分自身に対しても、即自かつ対自的存在でなければならないし、精神的なものについての知、そして精神としての自分の知でなければならない。すなわち、精神的なものは、自分にとって対象としてあらねばならない――が、また同じく、端的に、[外的な対象としては] 廃棄され、自分のうちへと反射した対象としてである。
 この対象の精神的な内容が、この対象自体によって生み出されているかぎりでは、対象は私たちにとっては対自的である。けれども、対象がまた自分自身にとっても対自的である場合には、この自己産出、[すなわち] 純粋な概念は、この対象にとって同時に対象的な領域(Element)であり、この領域で対象は現存する。このようにして対象は、<29> 自分の現存のうちで、自分自身にとって、自分のうちへと反射した対象なのである。
 このように発展した、自分を精神として知るところの精神が、学問である。学問とは、精神の現実態であり、また、精神が自分固有の領域において、自分に対して建てる王国である。

 絶対的に他のものにおいての純粋な自己認識、このエーテル(*22)自体が、学問の土台であり地盤である、すなわち知一般である。哲学の始まりにおいては、意識がこの領域に存在していることが前提とされ、また要求される。しかし、この領域がまさに完成し、透明性をえるのは、この領域の生成運動をとおしてでしかない。この領域は、普遍的なものとしての純粋な精神性であるが、この普遍性は、単純な直接態という在り方をしている。この単純態は、そうしたものとして存在するときには、地盤であり、思考であるが、これは精神のうちにのみ在る。
 この領域、精神のこの直接態は、精神における実体的なもの一般であるから、神々しくなった本質であり、反射であるが、この反射は単純でさえあって、自分に対する直接態そのものなのである。[つまり、] 自分のうちへの反射であるような、存在である。
 学問の側から自己意識に要求することは、意識が学問とともに、また学問のうちで生きることができ、また生きていくために、自己意識がエーテルのうちへと自分を高めていることである。
 逆に個々人の方は、このエーテルでの立脚点へといたる梯子(はしご)を、学問がすくなくとも提供し、個人自身のうちにあるこの立脚点を明示するようにと、学問に求める権利を持っている。個人のこの権利は、個人の絶対的な自立性にもとづいている。個人はこの自立性を、個人のもつ知のいかなる形態においても、所有できるのである。というのは、<30> すべての形態において――学問によって、この形態が承認されていようといまいと、また [知の] 内容がどうであれ――、個人というものは絶対的な形式だからである。すなわち、個人は自分自身についての直接的な確信をもっているからであり、したがって、こう表現した方がよければ、無条件な存在だからである。
 対象である事物について知るとき、それを自ら自身と対置させ、自ら自身について知るときには、自らを事物と対置させるという、意識の立脚点は、学問には自分とは別物だと――つまり、意識が自分は正常であると考えていても、それはむしろ精神の喪失だと――思われる。これに対し、学問の領域は、意識にとっては彼岸の遠くにあり、そこでは意識は、もはや自分自身が意のままにならない。
 意識と学問、この両者のどちらも、他の側にとっては真理の転倒である。自然な意識が、自分をそのまま学問にゆだねることは、魔がさしてか、いちど逆立ちして歩こうとするようなものである。この慣れていない姿勢を受け入れさせ、その姿勢で歩かせるようとするような強制は、受け入れ準備ができてもいないし、不必要にも思われる暴力を、要求されて、自分に加えることである。
 学問そのものはどうであれ、直接的な自己意識との関係においては、学問はこの自己意識に対して転倒したものとして現れる。つまり、この自己意識は自分自身の確信にもとづいて、自分が現実だと考えるものの原理をもっているので、この自己意識自体は学問の外部にあることによって、学問は非現実的形式を有するのである。
 したがって、学問は自己意識の領域を、自分と一体化しなければならない。あるいはむしろ、学問は自己意識が学問自体にに属していることを、またどのように属しているかを、示さなければならない。このような現実性を欠いていては、学問の内容はたんに即自態であって、目的――すなわち、まだなお内的なものであり、<31> 精神としてあるのではなく、たんにようやく精神的な実質であるような目的――なのである。この即自態は、外に現れねばならず、対自的とならねばならない。このことは、即自態が自己意識を、自分と一体のものとして措定しなければならない、ということにほかならない。

 この学問一般の生成、すなわちの生成を、この精神の現象学は叙述する。最初にあるような知、つまり直接的な精神は、精神のないものであって、感覚的な意識である。本来の知になるためには、つまり、学問の純粋な概念そのものであるところの、学問の領域を生みだすためには、最初の知は、苦労して長い道程をへなければならない。
 生成のうちで現われる内容や諸形態において、提示されるところのこの生成は、非学問的な意識を学問へと手引きするということで、すぐに人が思い浮かべるようなものとはならないであろう。またこの生成は、[いわゆる] 学問の基礎づけともいささか異なっている――いずれにしろ、突然(*23)絶対的な知から始めるような熱狂、また他の観点については、気にとめはしないと宣言することでお終いにしてしまうような熱狂とは、異なっている。

 個人を未形成な立脚点から知へと導くという課題は、[本書では] 一般的な意味において把握される必要があった。また、一般的な [意味での] 個人が、自覚した精神が、その形成において考察されねばならなかった。[未形成の個人と、一般的な個人の] 両者の関係についていえば、一般的な個人においては、すべての契機が、<32> 具体的な形式と固有の形態をとって現れる。個々の個人の方は、不完全な精神であり、具象的な姿であって、この存在にあっては 1 つの規定性が支配的であり、他のいろいろな規定性はあいまいなままである。
 より高い段階にある精神においては、低次の具象的な存在は、目だたない契機になり下がっている。以前には問題そのものとなっていたものが、今やその痕跡を残すのみである。かつて問題であったものの形状は、覆(おお)われてしまい、たんに陰影にとどまっている。このような過去を、より高次の精神を実質にもつ個人は通っていく。それはちょうど、より高度の学問にたずさわる人が、とっくに獲得している準備のための知識を、その内容を思い出すために、見直すようなものである。彼はその準備のための知識を思いだすにしても、それには関心もなければこだわりもしない。
 個々人は、普遍的な精神のもつ形成の諸段階を、それらの内容面からも、通っていかねばならない。が、しかし、精神によってすでに脱ぎすてられた諸形式として、切り開かれてならされた道程の諸段階として、通過するのである。
 そこで知識に関していえば、私たちは、かつて熟達した精神をもった人たちをわずらわせたものが、少年たちの知識や練習に、いや遊びにさえなっているのを見るのである。そして、教育の進展のうちに、私たちは世界の教養形成の歴史が、いわば影絵のうちに模写されているのを、認めるであろう。。
 こうした過去の存在は、すでに普遍的な精神によって獲得されて、その所有物になっている。この普遍的精神は、個人の実質を構成し [てはいるものの、対自的にはまだなっていないため]、彼に対しては外的に現れるところの、彼の非有機的な自然を<33>構成しているのである。
 これについては、教養の形成は個人の側からみれば、存在しているものを彼が獲得することに、彼の非有機的な自然を自分のなかへ取りいれて、対自的に手にいれることにある。しかしこのことは、[実質である] 実体としての普遍的精神の側からすれば、まさに実体が自己意識を獲得し、実体の生成および実体の自分のうちへの反射を、生じさせるということに他ならない。

 学問は、この形成する運動をその必然性において詳述し、また、すでに精神の契機や所有物にまでなったものの形成過程も、詳述する。その目的は、精神が知であるものを洞察することである。性急に、有効な手段もないのに目的を達しようとしても、それは不可能である。一つには、長い道のりに耐えねばならない。すべての契機が、必然的だからである。また一つには、各契機のもとで、とどまらねばならない。というのは各契機は、個々の全体的形態でもあるからである。また、各契機の規定性が全体的なものとして、あるいは具象的なものとして考察されるときにのみ、すなわち、各契機に固有な規定性のうちで、この全体的なものが考察されるときにのみ、各契機は完全に考察されるからである。
 個人のもつ実質は、そしてまた世界精神は、忍耐をもって長い時の経過のうちにこれらの形式を閲歴し、<34>世界史という――この世界史において世界精神は、内容に適したそれぞれの形式のうちで、その全内容を形づくったのであるが――途方もない仕事を引き受けた。
 また、精神はそれより少ない仕事によっては、自分についての意識を獲得はできなかったのである。これらの理由から、事がらに即していえば、たしかに個人はより少ない仕事では、彼のうちの実質を把握することはできない。しかし同時に、個人がなすべき苦労は減っている。というのも、この仕事そのものは終わっているからである。その内容は、もはや現実性を滅して可能性になっているし、また直接性は克服されている。[また、登場する] 形態は、すでに簡約されており、思考の産物の単純な規定にまでなっているのである。
 すでに思考されたものであるからには、内容は個人の実質の所有物なのである。もはや、現存するものを即自的存在 [=思考されたもの] の形式に、変えねばならないのではない。もはやたんにもともとの、現存するもののうちに埋没した即自ではなく、むしろすでに記憶されている即自を、ただ対自存在の形式へと変えればいいだけなのである。この仕方を、詳しく述べよう。

 こうした運動をここで私たちが始めるときに立脚している観点からすれば、全般的にしなくてすむのは、現存するものを解消することである。しかし、まだ残っており、より高度なものへの改変が必要なのは、表象と、諸形式についての知見である。実質のうちへと戻ってきた現存は、現存するものの解消という最初の否定によっては、まだようやく自己という領域へ移されただけである。
 したがって、この獲得された自己の所有物は、現存するもの自体と同じように、<35>概念的に把握されてはいない直接性・動きのない無関係さといった性質を、なお持っている。この現存するものが、たんに [現存から] 表象へと移行しただけなのである。
 また同時に、この移行したものは、既知のものとなっている。つまり、現存する精神にとっては、それはもう成しとげられたものである。したがってそのうちでは、もうこの精神の活動も、関心もないのである。現存するものを成しとげてしまった活動が、たんにある個別的で、自分を把握しない精神の運動でさえあるとしても、知はそれに反して、この精神が成しとげたことによって実現した表象に、この既知のものに、向けられている。知は普遍的な自己の行いであり、思考の関心事である。

 およそ既知のものは、既知であるということをもってして、認識されているとはいえないのである。認識するにあたって、或るものを既知のものとして前提し、それをそのまま承認してしまうのは、よくある自己欺瞞であり、また他人をも欺くことである。
 そのような知は、あれこれしゃべり立てても、何がどうなっているのかも分からないままに、進展はしない。主観・客観等々、神・自然・悟性・感性等々は、既知のものとして、そのまま通用するものとして、調べられることもなく基礎に置かれている。そしてこれらが、固定した出発点ならびに帰還点を形成している。[知の] 運動は、不動のままのこれらの間を、またこれらの表面をあちらこちらへと進んでいく。
 そこで、[述べられていることの] 把捉と検査も、
・各人がこれらによって言われていることを、自分のもつ表象のうちにも見出すかどうかに、
・言われていることが、自分にそのように見えるかどうか、自分にとって既知であるかどうかに、
かかっているのである。

 従来行われてきたところでも、表象を分析することは、まさしく既知の表象がもつ形式を廃棄することではあった。[だが、] 表象を根源的な諸要素へと分解することは、表象のもつ諸契機へと戻っていくことである。そしてこれら諸契機は、すくなくとも眼前の表象という形式をもってはいず、自己の直接的な所有物(*24)を形成している。
 こうした分析はなるほど、思考の産物に――すでに知られており、固定し静止した諸規定でさえあるところの思考の産物に――、たんに至ってはいる。しかし、本質的な契機は、この区分されたもの、非現実的なものそれ自体である。というのは、<36>具象的なものが区分されて、非現実的なものになるということによってのみ、具象的なものは運動するものだからである。区分するという活動は、悟性の力であり仕事であって、驚嘆すべき、偉大な、あるいはむしろ絶対的な威力がする仕事なのである。
 自らのうちに閉じこもって静止し、自身のもつ諸契機を実体として保有しているような円環は、直接的でそれゆえ驚くべき事態などではない。しかし、偶有的なものそれ自体がまわりのものから分離して、自分の現実存在や独自の自由をえるということは、否定的なものがもつ巨大な威力である。また、他のものと結合し、それとの連関のうちにおいてのみ現実的なものが、同じように現実存在や自由をえることも、否定的なものの巨大な威力である。それは、思考や純粋な自我のエネルギーである。
 前述の非現実的なものを、「死」と呼ぶとすれば、死とはたいへん恐ろしいものである。また、死を保持しておくことは、たいへんな力を必要とする。力をもっていない美は、悟性を嫌悪する。悟性は美にはできないことを、美に要求するからである。死に対してしりごみし、荒廃から清く身を守る生ではなく、死に耐えて、死のうちで維持される生こそが、精神の生である。
 精神がその真理を獲得するのは、精神がその絶対的な分裂のうちで、なお自分自身を見いだすことによってだけである。精神がこうした威力であるのは、肯定的なものとしてではない。つまり、人が何かある物について「これはつまらないものである」とか「誤りである」とか言って、それをおしまいにして、別のものへ移っていくといったような、否定的なものから目をそらす肯定的なものとしてではないのである。精神がそうした威力であるのはただ、否定的なものを直視して、そのもとに留まることによってである。
 この留まるということが、否定的なものを存在へと変える魔法の力なのである。この力は、前に主体と呼ばれたものと同じものである。そしてこの力は、自分の領域において規定性に現実の存在を与えることによって、抽象的な、すなわちただ一般に存在しているような直接性を解消し、そのことによって真の実体、存在なのである。すなわち、媒介の外部にあるのではなく、媒介自体であるような直接性なのである。

 表象されたものが、純粋な自己意識の所有物になるということ、普遍性一般へのこのような上昇は、たんに一面的なものであって、まだ教養の形成は完成されていない。古代の学習の仕方は、<37>近代の仕方とは異なって、自然な意識を;本当に完全に陶冶(とうや)することであった。自然な意識は、その現実の各部面において自分の力を個々に試(ため)しながら、また見いだされるすべてのものを哲学的に思索しながら、まったくもって実証された普遍性へと成長したのである。
 これに対して、近代においては抽象的な形式は、個人に対し準備されている。抽象的形式を把握し、自分のものにしようとする [個人の] 努力は、具体的なものや現実存在の多様性から普遍的なものを帰結させることであるよりも、むしろ内的なものを [現実の] 媒介をへないで出現させ、普遍的なものを手短に生み出すことである。したがってなすべき仕事は、個人を直接的で感覚的なあり方から浄化したり、個人を思考され・思考する実質的なものにすることではなく、むしろ、対立するもののうちにおいて、固定し確定している思考の産物を解消することによって、普遍的なものを現実化し、精気を与えることなのである。
 しかし、固定した思考の産物を流動化することは、感覚的な現実のものをそうすることよりも、はるかにむずかしい。その理由は、さきほど述べたとおりである。つまり、固定した思考の産物がもつ諸規定は、それらの実質として、そしてまたそれらが現実化された領域として、「自我」を、否定的なものが有する力を、ないしは純粋な現実性をもっているのである。これに対し、感覚的な諸規定は、たんに無力で抽象的な直接性を、すなわち存在としての存在をもつだけである。
 思考の産物が流動的になるのは、純粋な思考、この内的な直接性が、自身を契機として認識することによってである。すなわち、純粋な思考の自分自身への純粋な確信を捨象することによってである――もっとも、純粋な確信が、自身を捨てさるとか問題にしないのではなく、確信が行う自己措定の固定性を放棄するのである。つまり、純粋に具体的なもの――これは、いろいろな区別のある内容に対しているところの自我自体であるが――、これのもつ固定性や、同様に内容のいろいろな区別――これらは、純粋な思考の領域のうちで措定されて、自我のあの無条件性に関与しているのだが――の固定性も放棄することによって、思考されたものが流動的になるのである。
 この運動によって、純粋な思考の産物は概念となり、そしてはじめて実際にあるところのものである、すなわち自己運動、円環である。そして、この思考の産物の実質であるところのもの、精神的な本質態である。

 純粋な本質態のこの運動が、学問というものの性質を形成する。<38>この運動は、その内容の連関の面から考えれば、内容が必然的であることを示し、また有機的な全体へと内容が展開していくことである。知の概念へと到達する道程は、この運動によって同じく必然的にして完全な生成になるであろう。
 そこで準備のためのこの書は、偶然まかせの哲学であることをやめる。不完全な意識のもつあれやこれやの対象・関係・思考と、成り行きで結びつくようなことはないのである。つまり、ある特定の考えから推考・推理・推論して、真理を基礎づけようとしたりするようなことをやめる。この道程は、概念の運動によって、意識の世界すべてをその必然性のうちに包括するのである。

 さらに、そのような叙述は、学問の最初の部分(*25)をなす。というのも、最初には精神の現実存在は、直接的なものすなわち発端に他ならないからである。そして発端では、まだ精神は自分のうちへと帰還してはいない。したがって、直接的な現実存在の領域という規定性によって、学問のこの部分は他の部分から区別されるのである。
 この区別を言明することは、そういう場合現れてくるのを常とするいくつかの固定した考えを、検討することにつながっていく。

 精神の直接的現存である意識は、2 つの契機をもっている。知と、それに対して否定的な対象性である。このような領域において、精神は展開し、精神の諸契機がくり広げられることによって、各契機には知と対象の対置が付随する。そして、諸契機はすべて意識の形態として登場することになる。
 このような道程である学問は、。意識が行う経験の学問である。実体が考察されるが、それは実体とその運動が、意識の対象としてあるようにである。意識は、自分の経験のうちにあるものしか知らないし、また把握もしない。というのは、その経験のうちにあるものは、ただ精神的な実体だけであり、しかもそれは、この実体の自己の対象としての、精神的実体だからである。
 精神は対象となるのだが、それは精神が、自分にとって他のものに、すなわち精神の自己の対象になり、またこの他のもの止揚するという運動だからである。また <39>、[前記の「経験の学問」のように] 経験と呼ばれるのは、まさに運動によってである――つまり、直接的なもの、未経験なもの、すなわち抽象的なものが(それが感覚的な存在であれ、たんに考えられた単純なものであれ)、自らを疎外し、そのあと疎外から自分に戻ってきて、このことにより初めてそれが現実的かつ真に叙述されているような、また意識の所有物にもなっているような、このような運動によってなのである。

 意識のうちで、自我とその対象である実体とのあいだに生じる不等性は、実体のもつ区別であり、否定的的なもの一般である。この否定的なものは、自我とその対象である実体両者のもつ欠陥であると見なすこともできようが、むしろ両者の魂であり、両者を動かすものなのである。それゆえ古人も、空虚を動かすものとして把握したのであった。だが、古人は動かすものを否定的なものとして理解したせよ、否定的なものをまだ自己としては理解していなかった。
 さて、この否定的なものは、まずは自我と対象との不等性として現れるが、否定的なものはまた、実体の自分自身への不等性でもある。実体の外部でおきるように見えるるもの、実体に向けられた活動であるように見えるものは、実体自体の行いであって、実体が本質的に主体であることが現れているのである。実体がこのことを完全に現したことによって、精神の現実存在は、精神の本質と等しくなったのである。また、精神はあるがままに自らの対象であり、直接性の抽象的領域や、知と真理が分離している抽象的領域は、克服されている。
 [このとき] 存在は、完全に媒介されている。存在は実体のもつ内容であるが、同様に自我の直接の所有物でもあり、自分の物であって、つまりは概念である。ここをもって、精神の現象学は終了する。
 この現象学において、精神が自分のために用意するのは、知の領域である。そしてこの領域で、精神の諸契機が単純な形式のうちで展開するのだが、この形式は自分が対象としているものが、自分自身であることを知っている。これら諸契機は、もはや存在と知の対置へと分裂することはなく、知の単純性のうちにとどまり、真理の形式における真理である。そして、諸契機の相違は、たんに内容の相違なのである。
 諸契機の運動は、この領域においては全体へと組織されるが、この運動が論理学、すなわち思弁哲学である。

 さて、精神の経験である上記の体系は、<40>ただ精神の現象を包含するのであるから、そのような体系から、真理の形態における真理の学問へとすすむ精神の進行は、たんに否定的なものであるように見える。そこで人は、否定的なものは誤っているものとして、そのようなものには煩わされないでいたいと、望むかもしれない。また、単刀直入に真理へと導くよう求めるかもしれない。何のために、誤りなんかとかかわるのだ?――というわけである。
 以前に言及した、<すぐさま学問が、始められなければならぬ>という問題に関して、ここでは、<誤りとしての否定的なもの一般とは、どのような性質のものであるか>という面から、答えなければならない。とりわけこの誤りについての [通俗的] 表象は、真理に参入するのに妨げとなる。これについて述べることは、数学的認識について語ることにもなろう。非哲学的な知は数学的認識を、哲学が努力して到達すべき理想だと見なしているのだが、これまではその努力もむなしかったというのである。

 「真理および誤りは、ある特定の考えられたものに属するのであって、これら考えられたものは、動きのない固有な存在である」と、思われている。そして、それら考えられたものの各々は、片やこちらで、片やあちらでたがいの関係もなく孤立し、固定しているわけである。こうした見解に対しては、「真理とは鋳造された硬貨のように、出きあがったものが与えられて、それを懐中へと入れておけるようなものではない」ということが、主張されねばならない。だがやはり、或る何か悪いものはないとしても、何かの誤りはある
 実際、悪や誤りは、悪魔のようにひどくはない。というのは、悪魔においては悪や誤りが、一個の主体にまでなっているからである。誤りや悪そのものは、一般的なものであるにすぎないのだが、たがいに固有の本質性というものは持っている。誤りというのは(ここでは、誤りについてだけ扱う)、知の内容として真理であるところの実体に対して、別のもの・否定的なものであろう。ところが、実体が本質的にも、否定的なものなのである。つまり実体は、あるいは内容の区別や規定性として、あるいは単純な区別として、すなわち自己と知一般との区別として、否定的なものなのである。
 誤った知識をもつということは、ありえる。或るものを誤って知るということは、知がその [対象としている] 実体と、不同だということである。しかしながら、まさにこの不同性は、区別化一般なのであり、この区別化は本質的な契機である。この区別から、じつに同等性が生じるのであり、<41>この生じた同等性が真理である。しかしこの真理は、不等性が捨てられた後に、残ったようなものではない。つまり、あたかも鉱滓(こうさい)が、純粋な金属から取りのぞかれるようなことではないし、また用いられた道具が、完成した容器のまわりから片付けられるようなことでさえないのである。不等性はまさしく真理自体のうちで、否定的なものとして、自己として、なお直接に存在する。
 しかしながら、このことから誤りは真理の一契機を成しているとか、あまつさえ構成要素であるなどと言うことはできない。「いかなる誤りにおいても、いくらかの真理がある」――こうした表現にあっては、両者がともに通用している。ちょうど、混じりあうことなく、外面的にくっついている水と油のように。「真理」と「誤り」という表現は、完全に [たがいに] 他の存在であるという契機を表すが、こうした意味ゆえに「真理」と「誤り」 2 つの表現は、各々(おのおの)の他の存在が止揚されているところでは、もはや使われてはならない。
 主観と客観の統一とか、有限と無限の統一、存在と思考の統一などといった表現には、不適当なところがあるように――つまり、客観と主観などの表現は、前記の統一の外においての客観と主観を意味しているのであり、したがって、両者の統一の内では、両者は、主観と客観という表現が表すものとは別のものとして、[実は] 考えられているのである――、誤りは、もはや誤りとしては真理の契機ではない。

 知において、また哲学研究において、考え方としての独断論というのは、「真理は、固定している結果とか、あるいはまた直接に知られていることを述べた命題の内に存する」という考えに他ならない。シーザーはいつ生まれたのかとか、1 スタディオンは何トワーズなのか、などといった問いに対しては、はっきりとした答えを与えることができるはずである(*27)。同じように、「直角三角形の斜辺の長さの 2 乗は、他の 2 辺の長さをそれぞれ 2 乗したものの和に等しい」ということは、たしかに真実である。しかし、このようないわゆる真理がもつ性質は、哲学的な真理の性質とは違うのである。

 歴史的な真理に関して簡単にいえば、この真理のもつ純粋な史実面だけを考えると、この真理は個別的な存在物に、また偶然や恣意の側面から見た内容に、内容のもつ必然的ではない諸規定に、<42>かかわっているということが、容易に認められる。
 しかし、例にあげたようなありのままの真理であっても、自己意識の運動なしには存在しない。そうした真理の 1 つを知るためには、多くの事を比較しなければならないし、また書物で調べねばならない。あるいはいかなる仕方にせよ、多くの事が探求されねばならない。直接的な直観においてさえも、直観がもたらす知識というものは、その根拠があってはじめて、本当に価値を持つものと見なされるのである――本来は、ありのままの結果が問題であるにもかかわらず。

 数学の真理について言えば、ユークリッド幾何学の諸定理を暗記してはいても、それらの証明を知らない人は、つまり―― [慣用表現とは] 逆に言ってよければ(*28)――諸定理を内的には知っていない人は、幾何学者とは見なされがたいであろう。同様に、多くの直角三角形を測定して、辺相互間には周知の関係があるという知識を得ても、この知識は不十分だと見なされるであろう。
 とはいえ数学的な認識にあっても、証明が有する本質的なもの(*29)は、証明の結果そのものの契機をなしているという、このような意味や性質を、まだ持ってはいない。むしろ証明は、その結果においては過ぎ去ってしまっており、消失している。証明の結果としての定理は、真実だと分かったことではある。しかし、この現れてきた事態は、定理の内容とかかわりはせず、たんに [証明を行った] 主観への関係にかかわるだけである。つまり、数学的証明の運動は、対象としているものに属しているのではなく、当のものには外的な行いである。
 こうして、直角三角形のもつ性質は、この三角形の 3 辺の関係を表している定理を証明するのに必要な作図が示すようには、みずから分解はしない。証明の結果を産出することのすべては、[主観が行う] 認識の進展であり手段なのである。
 哲学的な認識においても、現実存在としての現実存在の生成は、本質の生成とは、すなわち当の事がらの内的な性質とは、異なっている。しかし、哲学的認識はまず第 1 に、両方を含む。これに対して、数学的認識はたんに現実存在の生成を――すなわち認識そのもののうちで、当の事がらがもっている性質の、生成する存在を――、叙述するだけである。
 第 2 に、哲学的認識はこれら 2 つの個々の運動を<43>、統一もする。内的な発生、すなわち実体が生成することは、外的なものへの、すなわち現実存在への、対他存在への移行と不可分である。また逆に、現実存在の生成は、また自らを本質の内へと取りもどすことである。この運動は、全体の 2 重の過程であり、また全体が 2 重に生成することである。そこでは、2 つの過程(生成)のうちの一方は同時に他方を措定し、それゆえ各過程は、両者を自らの 2 つの見え方として持ってもいる。各々は一緒になって全体を作るのであるが、それは各々が自らを解消し、全体の契機になることによってなのである。

 数学的認識においては理解することは、当の事がらに対して外的な行いである。そこで、実際の当の事がらが、認識をとおして変えられてしまうということが生じる。したがって、手段・作図・証明は、たしかに真実なる諸命題を含んではいるが、しかしまた同様に、内容は偽りであるとも言わねばならない。たとえば上記の直角三角形は、分解されて、それらの部分は、作図において直角三角形に接して作られる別の諸図形に、属させられる。証明の最後になってはじめて、本来問題であるはずの直角三角形が復元されるのであるが、証明の進行時にはこの直角三角形は見失われていたのであり、それぞれが 1 個の全体をなしている別の諸図形に、属する諸断片として現れていたのである。
 したがってここでは、なるほど内容のもつ否定性が生じているのが見られる。そしてこの否定性は、概念の運動において固定的に考えらている思考の産物が消失することと同様に、内容の誤謬(ごびゅう)と呼ばれるべきかもしれない。

 しかしながら、こうした数学的認識の固有の欠陥は、この認識そのものに、またこの認識の素材一般にも関係する。

 認識の方についていえば、まず第一に、作図の必然性が見通せない。この作図は、[三平方の] 定理の概念から生じるのではなく、命じられるのである。そして、無数に引ける線のうちでまさにその線を引くようにという指示に、ひたすら従わなくてはならない。そのさいには、こうすることが証明の遂行という目的に合っているのだと、信頼するほかはないのである。<44>後になってから、目的に合っていたことが分かりはするが、この合目的性もまた、証明においてはようやく後になって現れるものだから、外的な合目的性である。
 同様に、証明がたどる道程はどこかで始まるが、この始まりと、やがて現れる証明結果とがどのような関係にあるのかは、まだ分からないのである。証明の進行にしたがって、しかじかの規定や関係が取りあげられるが、他のものは放っておかれる。そして、それがどういう必然性によるのかを、直接に見通すことはない
。外的な目的が、この [証明の] 運動を支配しているのである。

 こうした欠陥のある認識がもつ明証性なるものを、数学は誇り、哲学に対して自慢さえもしている。しかしこの明証性は、たんに数学の目的の貧弱さと、素材の不十分さによるのである。したがってこのような明証性を、哲学は軽蔑しなければならない。
 数学の目的ないし概念は、である。量は、まさしく非本質的で没概念な関係である。したがって知の運動は、うわべを進行するのであり、当の事がらそのものには触れず、また本質や概念にも触れず、それゆえ把握することではない。[数学の] 素材は――この素材についての面白いさまざまな真理を、数学は与えるというわけだが――空間同一性である。
 空間とは、概念上の諸区別が書きこまれるような存在物である。この空間は、空虚で死せる領域であり、この中では区別は動きのない、生命のないものである。現実的なものは、数学において考察されるような空間的なものではない。数学があつかうものは、非現実的であって、具体的・感覚的な直観も哲学も、それとは関わらないのである。
 そのような非現実的領域にあっては、またたんに非現実的真理があることになる。すなわち、固定した、死せる諸定理である。これらの定理のどれであれ、そこで打ち切っていいのである。その後にくる定理は、それはそれとしてまた新たにはじまる。前者の打ち切られた定理自体が、後にくる定理へと続いて行くことはなく、また、かくして必然的な関連が、問題の事柄自体から生じるということもない。
 そしてまた、前述の [量の] 原理と [空間の] エレメントのために、数学的知は同等性にそって進行する。そしてここに、数学的明証性は形式的であるということが、存するのである。<45>というのも死せるものは、それ自体が動きはしないのだから、本質の区別や本質的な対置へと、すなわち不等性へと進ことはなく、よって対置するもののどうしが相互に移行しあうことはなく、質的、内在的対置へと、自己運動へと進むこともないからである。また、数学が考察するのは、たんに量すなわち非本質的な区別だからである。
 空間を [線や面などの] 諸次元へと分割し、次元間の結合や、次元内部での結合を規定するのは概念であるが、数学はこのようなことは捨象する。数学はたとえば、線と面との関係を考察などはしないのである。また、数学において円の直径と円周とが比べられるとき、比較不可能性におちいってしまう。つまりこれは概念的関係であり、無限なもの [3.1415 . . .] であって、数学的規定ではとらえられないのである。

 内在的な、いわゆる純粋数学は、また時間としての時間を、考察の [空間に続く] 第 2 の素材としては、空間に対置しない。なるほど応用数学にあっては、時間は運動のように、あるいはまた他の現実的な事物のように扱われる。しかしながら応用数学にあっては、総合的命題(*30)が、すなわち、現実の事物間の諸関係を――これらの関係は、事物の概念によって規定されているのだが――表す諸命題が、経験から摂取される。そして、たんにこれら前提 [である事物間の諸関係] に [数学的] 公式が適用されるのである。
 応用数学によってしばしば与えられるところのいわゆる証明なるものが――たとえば梃子(てこ)における均衡に関する、また落下運動での空間と時間の関係に関する命題などについての証明――、証明として与えられ、そう信じられていることが、まさに認識にとって証明することの必要性が、いかに大きいかということの証明でさえある。というのも証明を持っていないときには、認識は空虚な見せかけの証明でさえ尊重し、この見せかけで満足するからである。こうした誤った飾り立てから数学を清めたり、数学の限界を示して数学とは別の知の必然性を示したりするためには、あれらの証明を批判することが、重要でもあり、また啓発的でもあろう。
 時間について言えば、「時間は空間と対をなすものとして、純粋数学の空間とは別の部分の素材を構成している」と、一般に考えられているかもしれないが<46>、時間とは現存する概念自体である。量(すなわち、概念なき区別)の原理や、同等性(すなわち、抽象的で活動的ではない統一性)の原理では、生のもつあのまったくの動揺や絶対的な区別化を、取り扱うことはできない。
 したがって、動揺や区別化という否定性は、たんに麻痺させられたものとして、すなわち同一性として、純粋数学がおこなう認識の第 2 の素材となる。この認識は、外からの行いであって、自ら運動するものを素材へと引き下げる。そしてこの素材において、他のものとは関わらない、外的で活動的ではない内容を、この認識はもつのである。

 これに対して哲学は、非本質的な規定性は考察せず、本質的である限りでの規定性を考察する。抽象的なものや、非現実的なものは、哲学の領域や内容ではない。現実的なもの、自分自身を措定するもの、そして自分のうちで生きるもの、また、自らの概念のうちに現存するものが、哲学の領域であり内容である。
 自分のもつ諸契機を自らに対して生みだし、それらを通過するというのは過程なのであって、この運動全体が、肯定的なものやこの過程の真理を形成する。したがって真理は、自らのうちに否定的なものも――つまり、捨てられるべきだと見なせるようなときには、「誤り」と呼ばれるようなものも――、また同じく包含しているのである。
 消え去るものは、むしろ本質的なものとさえ考えられるべきである。真理から切り離されて、真理のどこか知れない外部に捨て置かれるような、固定された規定性において、消え去るものは考えられるべきではない。これはちょうど、反対側での真理も、静止した死せる肯定的なものと、考えてはならないのと同じである。
 現象というのは、発生と消滅であるが、これら自体は発生も消滅もせずにそれ自体としてあって、真理の生命の現実性と運動を、形成している。そこで真理とは、参加者のすべてが酔っているバッカス祭りの狂騒である。そこでは各人は、分離した個々人であっても、またそのまま [騒ぎの中に] 溶けこんでいるので、この狂騒はまた透明で単純な静寂でもある。
 こうした運動による審判においては、規定された思想としての個別的な精神形態は、たしかに存続はしない。しかし、これらの精神形態は、否定され消え行くのと同様に、また肯定的で必然的な諸契機でもある。この運動の全体が静止したものとして<47>見られる場合には、この全体は運動のうちで区別されて、個別的な現実存在をえているといえる。そして、この個別的な現実存在は記憶され、保存されるのであり、また自分についての知であるが、同様にこの知はそのまま現実存在なのである。

 この運動の仕方
Methode)について、つまり学問の方法Methode)について、あらかじめ若干のことを述べておく必要があろう。とはいえ、この方法(仕方)の概念は、すでに語ったことのうちにある。また方法の本来の叙述は論理学に属する、あるいはむしろ論理学そのものである。というのも方法とは、全体の構成が純粋な本質性において提示されたものに、ほかならないからである 。
 それにしても、この方法に関連しているこれまで通用してきたものについてだが、哲学的方法に関するいろいろな考えの体系もまた、過去の教養に属すると思わざるをえない。もしこのようにう言ことが、あるいは大言壮語に、あるいは革命的に聞こえるようでああれば――私にはそうした意図はないのだが――、次のことを考慮していただきたい:論証、分類、公理、一連の定理、それら定理の証明、公準、そしてそれらからの演繹や推論などの、数学が貸しだした豪華な学問的装いは、すでに世評そのものにおいて、すくなくとも時代遅れになっているのである。
 この学問的装いは役に立たないことが、はっきりとは分かってはいなくても、それはもはや全く、あるいはほとんど使用されてはいない。たとえこの学問的装いそのものは、否認はされていなくても、愛されていないのである。

   <工事中>

<56> そこで、学問研究にさいして大切なのは、概念的に捉える努力を引きうけることである。この努力においては、概念そのものへの注意深さが、例えば即自的存在対自的存在自己との相等性などといった単純な諸規定への注意深さが、必要である。というのも、これらはまったくの自己運動だからである。もしも、これら諸規定の概念が魂(Seelen)よりも高度なものを示してはいなかったとすれば(*2)、この自己運動は魂と呼ばれてもよかったであろう。
 もろもろの表象にそって進行する慣習 [的な思考法] にとっては、概念によって表象を中断されるのは、厄介なことである。また、概念による中断は、非現実的な考えであれこれと理屈ばかりを言う形式的な思考にとっても、同じように厄介である。表象にそって進行する慣習は、質料的な思考(
materielles Denken)だといえる。素材のなかにたんに沈みこんでいる、偶然的な意識である。したがってこの意識にとっては、さらに質料から自分自身を引き上げて、平常心でいるようなことは困難なのである。
 他方の理屈ばかりをいう方は、内容には拘束されず、内容については虚(きょ)である。これに対しては、
・拘束されずにいることを放棄し、
・内容を恣意的に動かす原理であろうとせずに、この [動かす] 自由を内容の中へと沈め、
・内容が内容自体の性質によって、つまり内容のもつ自己によって、みずから動くようにさせ、
・そして、この運動を観察するよう、
努力することを求めたい。
 概念の内在的なリズムに自分勝手に侵入することをやめること、恣意やほかで得た知識でもってこのリズムに干渉しないこと、こうした自制はそれ自体、概念に対する注意深さへの要件である。

 理屈ばかりいうやり方においては、2 つの側面に留意しなければならない。この両側面で、概念的に捉える思考は、このやり方と対立する。
 一つには、理屈ばかりいうやり方は、把捉した内容にたいして否定的な態度をとるときには、それを反ばくして無に帰せしめてしまうのである。「そうは、なっていない」という知見は、もっぱら否定的である。この否定は最終的なものであって、これ自体が、自分を越えて新しい内容へと向かうことはない。ふたたび内容をもつためには、なにか他のものがどこからか、持ってこられなければならない。こうした事態は、空虚な自我への帰還であり、この自我の知の虚(うつ)ろさである。
 そしてこの虚ろさは、たんにその内容が空虚であることのみならず、<57>その知見自体もまたそうであることを表している。なぜならその知見は、肯定的なものを自分のうちに見いださないような、否定的なものだからである。前述の帰還が、自分のもつ否定性自体を内容として獲得しないのだから、その知見は事がらのうちにあるのでは決してなく、つねに事がらの外にでてしまっている。それだからこの知見は、空虚な主張によって、内容豊かな知見よりもつねに進んでいると、錯覚するのである。
 これに対し、さきほど示したように、概念的に捉える思考においては、否定的なものは内容自体に属しており、内容の内在的な運動や規定として、またこれらの全体として、肯定的なものである。結果として考えられたときには、否定的なものは内在的な運動に由来するのであり、規定された否定的なものであり、そのため肯定的な内容でもある。

 そのような [理屈ばかりをいう] 思考が、だがある内容を――それが表象であれ、あるいは考えられたことであれ、あるいはまた両者の混合したものであれ――有するということに関しては、この思考は [前述の否定的な場合とは] 別の側面を持つ。そしてこの側面は、理屈ばかりをいう思考が概念的に捉えることを、困難にしているのである。この側面の注目すべき性質は、理念の上述した本質自体に、密接に関連している。あるいはむしろ、この注目すべき性質は、思考による把捉の運動としての理念が、どのように現象するかということを、示しているのである。
 つまり、理屈ばかりをいう思考はさきほど語ったように、その否定的なやり方においてはこの思考自体が自己であり、この自己のうちへと内容は戻っていくのであるが、これに対して肯定的な認識においては、自己は表象された主語であって、この主語に内容が遇有的な性質や述語として関係する。この主語が基盤をつくり、そこに内容が結合され、またその上であちらこちらへの運動がなされる。
 概念的に捉える思考のばあいには、これとは事情が異なる。概念が対象固有の自己であり、この自己は対象の生成として表れる。このことによって、動かずに偶有的な性質をになうのは、静止した主語ではない。偶有的な性質をになうのは、動いて自分の諸規定を自らのうちへと取りもどす概念なのである。
 この運動のうちで、あの静止した主語というものは滅ぶ。静止した主語は、区別や内容のうちへと入っていき、むしろ規定性を形成するのである。すなわち、内容の運動に向きあったままでいるのではなく、むしろ内容の運動のような区別ある内容を形成する。したがって、理屈ばかりをいう [思考] が、静止した主語においてもっていた固定された地盤は揺らぐ。<58>そしてこの運動そのものだけが、対象となるのである。対象の内容を満たしている主語は、内容を超えて出ていくことをやめるのであり、なおも別の述語や偶有的性質をもつことはできない。逆にこのことによって、ばらばらな内容が自己のもとに結合されている。内容は、その主語からはなれていろいろな主語に帰属するような、普遍的なものではないのである。そこで内容となっているのは、じっさいもはや主語につく述語ではなく、[主語の] 実質なのであり、[主語として] 問題になっていることの本質や概念である。
 [このような概念的に捉える思考に対して、] 表象による思考(*1)の性質は、
・偶有的な性質あるいは述語にそって進行することであり、
・また、偶有的性質や述語はそれら以上のものではないので、それらを越えて出ることである。[しかし、] 文中で述語の形をとっているものが、実質そのものであることによって、表象による思考は進行を阻止されるのである。反撃(
Gegenstoß)を受けるといってもよい。表象による思考は、基礎としてとどまっているかのような主語からはじめつつも、述語がむしろ実質なので、その主語が述語へ移行しており、そのため主語が解消しているのを見いだす。そこで、述語であるように見えるものが、自立した全体的な質量となっているので、[表象による] 思考は自由にさまよい歩くことはできず、この [質量がもつ] 重力のために引き止められている。
 つまり(*3)、まず主語が固定された対象的な自己として、基礎に置かれている。この主語から、多様な諸規定にむけての、すなわち多様な諸述語にむけての必然的な運動が進んでいく。そしてここで、この主語の代わりを、知る [という活動をする] 自我自身がつとめることになる。[いまや] この知る自我が、諸術語を結びつけるのであり、またそれらを維持する主語 [の役をするの] である。
 しかし、対象的自己として固定されていた最初の主語が、[述語の] 諸規定そのものへと入ってそれらの魂となっているので、第 2 の主語つまり知る主語 [=知る自我] は、最初の主語がなお述語のうちにあるのを見いだす――第 2 の主語は、もう最初の主語とは関係せずに、それを越えて自分のうちへ戻りたいと思っているにもかかわらず。そして [このとき] 第 2 の主語は、述語の動きに関してあれこれの述語を最初の主語に添えるべきかどうかを論じる理屈屋として、振るまうことができることよりも、<59>むしろ内容の自己とかかわらねばならないのである。また、自分だけでいるのではなく、内容の自己とともにあらねばならない。

 これまで述べてきたことは、次のような定式で言い表せる:「判断あるいは命題一般の性質は、つまり、主語と述語の区別を自らのうちにもっているという性質は、思弁的な命題によって(*14)破壊される。そして、これら判断・命題 一般から生成する同一性命題(
der identische Satz)は、主語と述語の区別という状態を押しもどすこと(Gegenstoß)を含んでいる」。
 命題一般がもつ [主語-述語の] 形式と、この形式を破壊するところの、概念がもつ統一性(
Einheit)とのこうした衝突は、リズム(*6)において起きる拍(Metrum)と強勢(Akzent)との衝突に似ている。リズムはこの両者の、変動する中間点と統一(Vereinigung)から、帰結する。そこで哲学的な命題においても、主語と述語との同一性(Identität)は、命題という形式が表している両者の区別を無に帰せしめることはないのであって、むしろ両者の統一Einheit)が、調和として生じてくるのである。
 命題のもつ形式は、規定された意味の現われである。つまり、命題を満たしているもの [=内容] を区別する強勢である。そして、述語が実質を表し、主語自体は普遍的なものに属するということが統一Einheit)であって、この中で強勢は消えていく。

 述べてきたことを例をつかって説明すると、「神は存在である」という命題において、述語は「存在」という語である。この述語は実質的な意味をもっており、この意味のうちで主語は溶解する。そのような<存在>は、ここでは述語ではなく、[主語の] 本質(*4)のはずである(*12)。このことによって「神」は、命題のなかでの位置によってそうであったところのもの、すなわち固定された主語であることを、やめるように見える(*5)
 思考の方は、主語から述語へと移行するのではなく、主語がなくなるものだからむしろ阻止されるように感じるし(*13)、また主語を失ったがために、主語への思いに引きもどされるように感じる。すなわち、述語自体が主語として、[述語である] 「存在」という語として、また主語のもつ性質を尽くしているところの本質(*7)として言い表されているのだから、思考は主語をじかに述語のうちにも見いだすのである。そして今や述語において、思考は、考えて
(in sich gegangen) 理屈ばかりを言うような自由な立場を保持するのではなく、内容に没頭している。あるいは少なくとも、内容に没頭していたいという欲求を、持っているのである。
 また、<60>「現実的なものは、普遍的なものである」と言われるときも、主語としての現実的なものは、述語のうちで消失する。普遍的なものは、述語の意味をもっている――したがってこの命題は、<現実的なもののは、普遍的である>ことを言表している――だけではなく、普遍的なものは、現実的なものの本質を表さずにもおかないのである。
 したがって思考は、主語においてもっていたところの、対象に関する固定的な地盤をなくし、そのため思考は述語において主語へと引きもどされ、述語において自分のうちにではなく、内容上の主語のうちへと戻っていく。

   <工事中>

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 訳 注

(*1) この「表象による思考(
das vorstellende Denken)」とは、以前に言及された「もろもろの表象にそって進行する慣習(der Gewohnheit, an Vorstellungen fortzulaufen)」(135ページ、下 11 行: M. 41./ S. 56.)のことです。

(*2) ヘーゲルにとって「即自存在」、「対自存在」といった概念は、「実体=主体」という彼の哲学そのものであり、これは魂(Seele)より高度な精神(Geist)の諸契機を表します。

(*3) 「つまり(sonst)」以下では、これまで述べられてきた「表象による思考の性質」が、より詳しく説明されています。

(*4) つまり、「実質的な意味」をもつものの内で主語が溶解したために、この「実質的な意味」をもつものが、主語の本質となったのです。

(*5) 「見える(scheint)」と、やや婉曲な書き方になっていますが、「やめている」と言うのがヘーゲルの考えです。

(*6) この「リズム(Rhythmus)」ということで、ヘーゲルが音楽を考えていたのか、あるいは詩なのかは不明です。いずれにしろ Akzent (強勢。アクセント。)は、強く発声ないし演奏される箇所であって、弱い箇所とは区別されます。他方の Metrum (詩では「韻律」と訳され、音楽では「拍節。拍子」)の観点からは、各語や拍節は統一されており、それらの内部に本質的区別はないということでしょう。

(*7) この「本質das Sein)」Sein がイタリック体(テキストによっては隔字体)なのは、すこし前の箇所で、「『存在』はここでは述語なのではなく、本質である」と言われたときの「本質」と、同じであることを示すためでしょう。

(*8) 原文の Sache に、文脈に応じて「事がら」あるいは「課題」の訳語を当てています。

(*9) この「欲求(Forderung)」とは、すこし前の「概念的形式とはむしろ反対のものが、哲学の叙述のために求められる(gefordert)」という文中の、「概念的形式とはむしろ反対のもの」への欲求です。

(*10) この「欲求(Forderung)」とは、前前段落の「概念的形式とはむしろ反対のものが、哲学の叙述のために求められる(gefordert)」という文中において登場し、前段落冒頭の「こうした [現代の] 欲求」へと引きつがれた「欲求」です。しかし、具体的には、直前に出てている「恍惚」や「熱狂」への欲求を意味するのでしょう。

(*12) この箇所は訳しづらく、また版によってすこし相違があるので、拙訳の下に 1807 年のオリジナル版を記しながら、以下の (i) ~ (viii) で説明します:
 (なお、M はアカデミー版にもとづいたマイナー社の哲学文庫版、S はズーアカンプ版を表します。)

述べてきたことを例をつかって説明すると、
  
Um das gesagte durch Beyspiele zu erläutern,
 (i) この
um zu 不定詞句は、「断り書きの um zu + 不定形」です(橋本文夫著『詳解ドイツ大文法』、352ページ)。

「神は存在である」という命題において、述語は「存在」という語である。
 
so ist in dem Satz; Gott ist das Seyn, das Prädicat das Seyn,
 (ii) 文頭の
so は、「無意味な重語的用法;文章の先頭に立つ文章成分 [= Um das gesagte durch Beyspiele zu erläutern] の直後に [置かれる]」(相良守峯『大独和辞典』の so の項目、II, 2)というもので、意味はなく、語調を整えるためのものでしょう。

 (iii) Satz の直後のセミコロン(
;)は、S はコロンになっています。現代表記では、コロンなのでしょう。(M はセミコロン。)

 (iv)
Gott が無冠詞なのは、「一神教であるキリスト教」の神ですから、「固有名詞なみに」扱われているためです(小学館『独和大辞典 第 2 版』の Gott の項目)。その動詞 ist の補語である Seyn は、抽象名詞ですから、定冠詞 das が付いています。

 (v) 文頭 so ist
ist の補語は das Seyn ですが、das はイタリック体になっています(M では隔字体)。これは、命題(Gott ist das Seyn)中の das Seyn という語を受けていることを、表しているのでしょう。しかし、das の後の Seyn がふつうの活字体であるのは、この後で別の文脈において使うためだと思います。

この述語は実質的な意味をもっており、この意味のうちで主語は溶解している。
  
es hat substantielle Bedeutung, in der das Subject zerflieſst.

そのような<存在>は、ここでは述語ではなく、本質のはずである。

  Seyn soll hier nicht Prädicat, sondern das Wesen seyn;
 (vi) 冒頭の Seyn が、S では イタリック体になっています(M ではふつうの活字体)。しかしイタリック体では、前記 (v) での、命題(Gott ist das Seyn)中の語句を受けているイタリック体の das と同じことになり、命題中の Seyn を引きつぐことになってしまいます。この活字体の Sein は、前文で述べられているところの、「実質的な意味をも」つものとしての<存在>(つまり、 das SeynSeyn)なのです。
 なお、この Seyn に定冠詞が付いてないのは、付けますとふつうの抽象名詞になり、存在一般を意味してしまうからでしょう。

 (vii) Seyn soll soll は、当為の「~でなければならない」ではなく、「する定めになっている(~のはずである)」という意味の sollen です。といいますのは、もし当為の意味だとすると、「<存在>は、ここでは述語ではなく、本質・・・である」とはなっていない可能性も、当然あり得るわけですが、そのような可能性を前提にして、ヘーゲルが独自の命題論を展開できるはずはないからです。

 (viii) ヘーゲルは、先には das Prädicat [ist] das Seyn (直訳すれば:「述語は存在である」)と言い、この文では Seyn soll hier nicht Prädicat (直訳すれば:「存在はここでは、述語ではないはずである」)と、一見矛盾したことを言っています。
   (a) そこで、訳による混乱を回避するために、
・先には、das Seyn を「『存在』という語」と訳出し、
・この文では、冒頭の Seyn を「<存在>」と表記しました。

   (b) 一見矛盾したようには見えますが、文意は次のようなものでしょう:
・まず、「『神は存在である』という命題において、述語は『存在』という語である」とありますが、これはふつうの考え方であり、ヘーゲルも異はとなえていません。

・次の「この述語は実質的な意味をもっており、この意味のうちで主語は溶解している」は、彼独自の考えです。ふつうは、主語の概念と述語の概念が結合されているとか、前者が後者に含まれている(たとえば、「ソクラテスは人間である」のような場合)と考えます。それはヘーゲルに言わせれば、「主語に内容が偶有的な性質や述語として関係する。この主語が基盤をつくり、そこに内容が結合され・・・」ということです。
 しかし彼自身は、<A は B である>というとき、「主語 [A] は、区別や内容 [すなわち実質的な意味である述語] のうちへと入っていき、むしろ規定性 [B] を形成する」と、考えたのでした。つまり、述語 B には主語 A が流入しており、A は B になっている、「生成」しているのです。

・そこで、このような B は、ふつうの意味での述語――すなわち、主語とたんに結合されているような――ではもはやありません。「内容となっているのは、じっさいもはや主語につく述語ではなく、実質なのであり、問題となっていることの本質・・・である」。
 こうした意味において、「そのような<存在>は、ここでは [=このような文脈では] 述語ではなく、本質のはずである」と、言えるわけです。

(*13) 「感じる」の動詞は、ズーアカンプ版と 1807 年オリジナル版では、現在形の fühlt ですが、アカデミー版にもとづいたマイナー社の哲学文庫版では 接続法 II 式あるいは過去形の fühlte になっています。私見では、現在形の fühlt が正しいと思い、そのように訳しています。
 といいますのは、この動詞を含む文の直後の文は、oder es [= das Denken] findet . . . となっているからです。接続詞 oder (すなわち。言いかえれば)で連結されているところの、主語を同じくする 2 つの文が、異なる時称であったり、直説法と接続法とに分かれていたりするとは、ふつう考えられません。そこで、後の文が findet の現在形であれば、前の文も fühlt の現在形だろうと思います。

(*14) 「思弁的な命題によって(durch den spekulativen Satz)」というのは、思弁的な観点からは」という意味だと思われます。

(*15) 1807 年のオリジナル版では die Andern で他の版では die anderen のこともあります。シェリング派を指すものと、思われます。といいますのは、この後でヘーゲルは die Andern を「単調な形式主義(ein einfärbiger Formalismus)」といって批判しているからです(『アカデミー版ヘーゲル全集』, Bd. 9, S. 17. ズーアカンプ社『ヘーゲル著作集』, Bd. 3, S. 21)。この語は、ヘーゲルからシェリングへの手紙(1807 年 5 月 1 日付)中の、「不毛な形式主義(einem kahlen Formalismus)」と同じ意味でしょう。引用しますと(ここはヘーゲルも婉曲に注意深く書いていますので、直訳にします):
 [『精神の現象学』の] 「序文」については、君 [シェリング] は次のようには思わないだろう:とくに君の諸形式の平板さ――この平板さは、多くの馬鹿げたことをもたらし、また君の学問を不毛な形式主義へともたらしているのだが――に対し、ぼくがあまりにも好意的だったとは」。(Briefe von und an Hegel, hrsg. von J. Hoffmeister, Velix Meiner, Bd. 1, S. 162)

(*16) 「まず」は teils の、その後の「また」も teils の意訳です。「3 番目に」は、drittens の訳です。
 この段落(当訳)では、前の段落での「真なるものをたんに実体としてではなく、主体としても把捉し、表現すること」が肝心であるという主張をうけて、主体としても把捉し、表現」しない場合が 3 つに分けて、紹介・批判されます。最初の場合は、スピノザの実体の例で紹介され、それに対する当時の人々の反応に仮託して、批判(「自己意識が消滅してしまう」)がなされています。

(*17) 絶対的なものとは、語義からすれば、自己完結してそれだけで無条件に存するものの謂(いい)です。しかし、絶対的なものが何らかの結果だとすれば、当然それを生みだす過程が必要になり、語義に反します。このことをヘーゲルは、widersprechend (矛盾するように)およびこの後での Widerspruch (矛盾)と、形容したのでしょう。

(*18) ここで突然「自己意識を有する自由」が出てきて、文意が分かりにくくなっていますが、およそ次のようなことだと思います。
 (i) 「結果」というのは、「形成された理性」のことです。そのような理性をもつのが、「人間」です。この「人間」は、本質的に自由ですが(これは当時の先進的インテリの共通理解)、同時に形成されたものとして「対自的」となっており、「自己意識」をもちます(逆に「胎児」は対自的ではないので、自己意識をもちません)。
 したがって、「この結果は、自己意識を有する自由」だということになります。

 (ii) 上記の自由は、このすぐ後で述べられているように、「自らの内で静止して」いるという契機をもちます。そこで、これだけをとれば、自分の外へは出ていかず、他のものにはならないのですから、媒介されていない単純な直接態です。したがって、すこし前で述べられているように、「[自己意識を有する自由であるところの] 結果自体は、単純な直接態である」といえます。

(*19) an sich がヘーゲル的述語として使われている場合には、「即自(的)」と訳します。意味は、「それ自体は」「本来的には」「それ自体に即しては」などです。 

(*20) für sich がヘーゲル的述語として使われている場合には、「対自(的)」と訳します。意味は、「それ自身に対しては」、あるいは対象が意識的を有するものの場合には「自覚しして」などです。 

(*21) 原文は、geheftet sind です。heften はふつう、「くっつける。留める。固定する」といった意味です。しかし、「仮縫いする。(製本で)仮とじする」の意味もあります。つまり、<一応は留めておくけれども、必要に応じてまた、ほどけるようにもなっている>という意味です。ヘーゲルが verbinden (結合する)のような一般的な語を使わず、ここだけ heften を使っているということは、「仮留めする」の訳語の方がいいと思います。
 といいますのは、ここでは主語から述語が必然的に生じるというのではなく、「主語について知る者」が自分の判断で、述語を主語に留めています。そこで例えば、「神」という主語に留めた述語「永遠なものである」は、また「主語について知る者」がほどいて、別の述語「愛である」に替えることができるという、事態になっているわけです。

(*22) 「エーテル」は、もとの古代ギリシア語では、地上界を離れた上空の(今となっては想像上の)大気を意味していました。そこから比ゆ的に、「清浄な領域をみたしているもの」の意味が派生しました。ヘーゲルもこの意味で使っており、「俗塵をはなれた学問世界」といったところでしょう。

(*23) 「突然」の原文は、wie aus der Pistole です。

(*24) 「自己の直接的な所有物」とは、この直後の文に出てくる「思考されたもの」のことです。

(*25) 「最初の部分(den ersten Teil)」とは、「第1部」のことです。

(*27) スタディオンは、古代ギリシアの距離の単位で 約 200m です(なお詳しくは Stadium の項目を参照)。トワーズは、昔のフランスの長さの単位で 1.949m。(小学館『独和大辞典 第 2 版』。なお、相良守峯『大独和辞典』では「1949」となっており、小数点がなく、誤植です。)

(*28) 「逆に言ってよければ」というのは、ヘーゲルのダジャレで、訳出はできないのですが、一応説明しますと――
 (i) ドイツ語の慣用句に、
 etwas in- und auswendig kennen 「或事に通暁(つうぎょう)している」(相良守峯『大独和辞典』の inwendig の項目 II)
があります。そこから、
 Inwendig weiß er, aber auswendig nicht. 「彼はそれを本当には知らない」(小学館『独和大辞典 第 2 版』の inwendig の項目の II)
などと表現されます。
 この慣用表現は、<先に来ている inwendig ではまだダメで、後の auswendig でもないと知ったことにはならない>、との意味です。

 (iii) ところがヘーゲルは、この慣用表現とは「逆に」、auswendig ではダメで、
inwendig でなければならないと主張したわけです。そこで、「逆に言ってよければ」と断ったのです。

(*29) 「証明のもつ本質的なものWesentlichkeit)」というのは、証明での論理的・理性的な展開のことでしょう。その展開には証明者の意識が伴いますから、すこし前で言われていたところの論理的・理性的な「自己意識の運動」でもあります。そして、この運動はこの後、「数学的証明の運動」として引き継がれていきます。

(*30) 総合的命題」というのは、総合的判断(カント)を表す命題のことです。総合的判断については:
 「・・・分析的/総合的の区別をはじめて明確に行ったのはカントである。カントによれば・・・総合的判断は、主語概念のうちに述語概念が含まれておらず、主語概念の分析だけでは [判断の] 真偽が知られ」ず、「事実との照合を必要とする」。「だからこそ真と知られたときにはわれわれの認識を拡張してくれるものである」。(岩波『哲学・思想事典』の「分析的/総合的」の項目)

   <工事中>


  はじめに

 以下に訳出しましたのは、第 2 版(1831 年夏から同年 11 月死去まで、改訂がなされた版)の『精神の現象学』の「序文」(Vorrede, 序論とも訳されます)です。

 なお、拙訳が大家の訳と異なっている箇所については、こちらで説明しています。
 また、『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」の拙訳は、こちらです


I. 『精神の現象学』のテキストについて

 『精神の現象学』原文テキストとしては、次の2つが有力です。
(1) マイナー社(Meiner)の哲学文庫版(Philosophische Bibliothek, BAND 414)
 ・アカデミー版のヘーゲル全集(Gesammelte Werke)、第 9 巻 に基づいており、テキスト・クリティークの面で安心です。
 ・1807 年の初版を採用しています。1831 年に改訂された箇所は、脚注に採録されています。
 ・単語のつづりや句読法は、現代表記と異なる場合があり、初心者はまごつくかもしれません。
 ・『精神の現象学』成立の事情に関する編集者の序文や、テキストに対する注も豊富です。『精神の現象学』を研究するというのであれば、必要な版です。
 ・しかし、人命索引はあっても、事行索引がないのが困るところです。

(2) ズーアカンプ社(Suhrkamp)社のヘーゲル著作集、第3巻(Georg Wilhelm Friedrich Hegel Werke 3
 ・1831年に改訂された版を、採用しています。(ただし、同年にヘーゲル死去のため、改訂部分は前半のみ。)
 ・初版で改訂された部分は、脚注で採録されています。
 ・事行索引を利用するには、著作集の別巻を別途購入する必要がありますが、買っておきたいところです。
 ・現代表記(ただし、新正書法以前)になっているので、まごつかなくて済みます。



II. 凡 例

 ・ [  ] 内の挿入は、訳者によるものです。

 ・ < > 内の数字は、ズーアカンプ社の『ヘーゲル著作集(G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Bänden)』 第3巻でのページ数です。
  例: <11> は、ここからズーアカンプ社版の 11 ページが始まることを意味します。
 (ただし、ドイツ語と日本語では語順が大きく違うため、厳密には対応していません。)

 ・原文での段落分けを訳でも踏襲すると、とくにモニター画面では大変読みづらくなります。そこで、原文では文章が続いている箇所でも、訳では改行して段落分けをしています。(しかし、一行の空白は設けていません。)
 したがって、訳でのそのような段落分けは、訳者の解釈(その箇所で意味が区切れるという)を伴っています。

 ・原文で、改行して段落分けをしている箇所は、訳でも段落分けをし、段落間には一行空白を設けています。

 ・ズーアカンプ社版ではイタリック体に、マイナー社版では隔字体になっている語句は、拙訳では太字にしています。


(工事開始: 2014-12-8)
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