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ザーロモン・マイモンK(Salomon Maimon)の著作の全訳
「超越論的哲学についての試論」(訳注1)(1790年) v. 1.3.1
副題は
「記号による認識についての補遺論文、
および注記をつけて」

Versuch über die Transzendentalphilosophie

mit einem Anhang über die symbolische Erkenntnis
und Anmerkungen


[その下に、ウェルギリウスの次のラテン語の詩句が、引用されています。]
「右側にはスキュラ [女の海獣] が座し、
左側には恐ろしきカリュブディス [渦潮の女怪] が…」



     拙稿の目次

はじめに
テキストについて
オンライン・テキストについて
凡例
『超越論的哲学についての試論』訳
この『試論』のマイモン自身による「注記と説明」


   ● はじめに

・「超越論的(先験的)哲学」というのは、対象とする物にアプリオリ(先天的)にかかわる哲学、――つまり、経験によっては規定されていない、経験以前の条件によってのみ規定された対象にかかわる哲学――、という意味です(オリジナル版、3ページ)。そしてもともとは、カントが『純粋理性批判』のいわば完成版として考えた哲学です(『純粋理性批判』B版、27-28 ページ)。
 1790年に出版されたこの『超越論的哲学についての試論』は、カント哲学を読み替えるという体裁のもとに、マイモン独自の哲学観を表明するものとなっています。そしてこれに触発されて、カント哲学徒だったフィヒテは、「自我の自己措定」への途につくことになります。
 その意味で、批判哲学とドイツ観念論をつなぐこの書は、両哲学に関心をもつすべての人にとっての必須文献となっています。しかし今まで翻訳がなかったためもあり、理解が行き届かなかった憾みがありました。

・なお著者マイモンはポーランド人で、ドイツ語で書いているため、原文自体は朴訥なものに、ときには舌足らずになっています。著者自らが認めるとおりです。しかし、その味を出しながら、内容を分かりやすく訳出することは、私の力の及ぶところではありません。分かりやすさに、重点を置かざるをえませんでした。


   ● テキストについて
◆ テキストとしては:
 
Felix Meiner 出版社の哲学文庫のもの (Philosophische Bibliothek Band 552) が、入手しやすく、解説や注解も豊富です。
 同書は、1790年のオリジナル版に基づいています。
 オリジナル版での「明らかな誤植は、注記することなく訂正」されていますが、しかし、「句読法における誤りや、文法的間違い(例えば、名詞の性や語形変化など)は、訂正しなかった」とあります(同書、XLIX ページ)。これは勘ぐれば、訂正するためにはテキストの意味を確定せねばならず、その読解に自信がなかったため、ないしは読解をめぐる論争を避けたためかもしれません。
 また、下記のような不備があります。
1) 同書18ページ(オリジナル版では22ページ)、14行目の betrachte betrachtet の誤植と思われますが、これは同書特有のものと思われます。M. Frank 氏が掲載した旧版テキストでは、betrachtet とあります。

2) 同書 255 ページでの Ehrensperger 氏による「注 17」では、氏はニュートンの「作用・反作用」の法則を引用しています。しかし、「注 17」の個所でマイモンが述べているのは、「いかなる作用も、それとは反対の作用なくしては、おのずと打ち消されることはない」ということですから、これは慣性の法則に関係することです。

ページ数について
 オリジナル版でのページ数は、同書の上部側に筆記体で記されています(この点については、同書、L [ローマ数字の 50] ページを参照)。
 哲学文庫本としてのページ数は、通常通り同書の上部側に記されています。

注について
 同書での注には、
1) 著者マイモンの脚注
2) マイモンの「注記と説明(Anmerkungen und Erläuterungen)」、
3) 哲学文庫版の刊行者である F. Ehrensperger 氏の「刊行者の注記(Anmerkungen des Herausgebers)
の3種があります。

 1) の脚注の個所は、テキスト内に通し番号で打たれ、その説明は同じページの下側にあります。
 2) のマイモンの「注記と解説」の個所は、左右見開きページ中央の余白である「のどあき」部分に――つまり、、テキスト内側(左ページは右側、右ページは左側)に――星印 * で示されています。その説明は、オリジナル版では 333-432 ページに、哲学文庫版では 182-230 ページにあります。
 3) の「刊行者の注記」の個所は、前記「のどあき」部分に通し番号で打たれています。その説明は、哲学文庫版の 253-277 ページにあります。(この点については同書、L ページを参照)
 (なお、訳者が付けた注は、(訳注)として表示しました)。

 マイモンによる 1) と 2) の注は訳出しましたが、3) の「刊行者の注記」は訳出していません。

購入先
 日本アマゾンの「洋書」で、おそらく入手可能です。


   ● オンライン・テキストについて
 M. Frank 氏が、旧版のテキストを掲載しています。


   ● 凡 例

Differential の訳語「微差態」について
 マイモン独自の概念である Differential は、字義通りには「微分」の意味であり、また数学の微分からとられた用語であることは確かです。しかし文脈上からは、「差分」の意味となります。微分というのは:
 関数 y = f (x) において、x が ⊿x 増加するとき、yは ⊿y 増加するものとします。⊿x がたいへん小さいとき(高校数学では「無限に0に近づくとき」と教えますが、この「極限」の概念は、19世紀になってはじめて登場します。また、マイモンの表記法や考え方は、ニュートンではなく私たちが数学で習うライプニッツ流の微分です)、⊿y/⊿x (/ の記号は割り算を表します)の値が微分です。つまり、マイモン流にいえば、⊿x と ⊿y の関係が微分です。というのも、⊿y/⊿x = ⊿y : ⊿x であり、この右辺は ⊿x と ⊿y の関係を表していますから。
 しかし、マイモンは、⊿x や ⊿y 自体(すなわち差分)を Differential と呼んでいますので、「差分」と訳さないと、文意が取れないことになります。とはいえ、数学用語の差分をそのまま採用したのでは、意味が通じにくいことや、マイモンは数学の差分を比ゆ的に用いていることから、「微差態」を採用しました。これは廣松渉氏が Differential を訳すのに用いた(『講座ドイツ観念論』第3巻「カントを承けてフィヒテへ」、弘文堂、1990年、7 ページ)造語ですが、よく意味するところを表していると思います。

・カント哲学の用語の訳は、岩波文庫『純粋理性批判』(篠田英雄訳、1999年)の訳語にほぼ合わせました。
・ [ ] 内の挿入は、訳者によるものです。
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              超越論的哲学についての試論

目 次
献辞
序論
第1章 質料、認識の形式、感性の形式、悟性の形式、時間と空間
第2章 感性、構想力、悟性、アプリオリな純粋悟性概念、すなわちカテゴリー、[先験的] 図式、権利問題(quid juris)への返答、事実問題(quid facti)への返答、これらの返答への疑い
第3章 悟性理念、理性理念、等々
第4章 主語と述語。規定されるものと規定
第5章 物、「可能な」、「必然的な」、根拠、結果、等々
第6章 同一性(Einerleiheit)、差異、対置、実在性、否定、論理学的と超越論的
第7章 大きさ
第8章 変化、変移 [=現象の継起]、等々
第9章 真理、主観的な、客観的な、論理学的な、形而上学的な
第10章 自我について。唯物論、観念論、二元論、等々
本書全体の概観
私の存在論
記号的認識(symbolische Erkenntnis)と哲学の言語について
この著書で、簡略に書いたいくつかの個所の注釈と説明
付録:『以前の著作に対する、マイモン氏の答え』


   献 

     ポーランド国王、リトアニア大公、ならびに諸公に奉る

 陛下、

 古来この方、人は理性によって統御されることを承認してきましたし、またすすんで理性に服してもきました。けれども人は、理性にたんに司法の力を認めたのであって、立法の力までも認めたのではありません。
 意志がつねに最上位の立法者でした;理性はたんに事物相互の関係を、意志との関連で規定せねばならなかったのです。近代になってから人は、
・自由な意志は、理性自身に他ならないこと、
・したがって理性は、手段の究極目的への関係を規定するのみならず、究極目的そのものをも規定せねばならないことを、
洞察するに至ったのです。
 道徳、政治そして趣味などについても、これらが何らかの役に立つには、これらのもつ原理が、理性の刻印を伴っていなければならないのです。したがって、理性の諸法則をこれらの対象に適用する前に、まず理性の諸法則自体を探求することが――すなわち、理性の特質、理性を使用するにあたっての諸条件、理性の限界などについて探求することが、重要な仕事になります。
 この仕事は、たんに知識欲の満足を究極目的とするような、個人的な思索などではありません。したがって、延期されたり、ほかのより重要な仕事によって、後回しにされたりするようなものではないのです。この仕事は、他のすべてに先行せねばなりません。といいますのも、この仕事がなされていなければ、人の生活における理性的なものには、取りかかれないからです。
 こうした仕事が、私がこの著作で行いました探求であり、恐れ多くもこの度陛下に捧げんとするものです。

 やんごとなき地位にある人の心の品位は、その高位が求めるところの勤めによって知られるといいますよりも――なるほどその勤めを果たしておられる様子については、一国すべてが、いえ世界の半ばさえも証言いたすでしょうが――、より確かには、高位の人がその余暇をどのように過ごすのかによって知られるということ――、もしこのことが正しいといたしますと、あらゆる仕事のうちでもっとも困難にして名誉ある仕事からの――すなわち、民を幸せにするという仕事からの――疲れを癒すために、ミューズ [学問・芸術の女神] の腕の中や翰林(かんりん)において休らう君主こそは、そしてこのような休養や閑暇のうちにおいても、なお偉大であるような君主こそは、もっとも称えられてしかるべきでしょう!
 
[以下、このような調子で君主への謝辞と、マイモンの愛国の情の吐露が続くのですが、省略します]。

恐惶謹言

1789年12月、ベルリンにて
臣 ザロモン・マイモン


       カントに捧ぐ

かくも深き闇より、はじめて輝ける光を立ち昇らせえた
汝、生における富をも照らしたもう。
我は汝の後を追う、おおドイツの栄えある人よ!
汝の足跡のうちに、わが足元を踏みしめながら。
こは争わんがためにではなく、愛よりして、
汝を範として努めんがために。
そもツバメの白鳥に、何をもってか争わんとする、
またヤギの弱き四肢は、駿馬と競うべきや?
汝、我らの父にして諸物の考案者、
我らに訓戒を与えたもう。
高名の人よ、我らは汝の書物より、花咲ける牧地に
ミツバチの食するがごとく、黄金の言葉すべてを、
永遠の生に似つかわしき黄金を、ただ嚥下するのみ。

[この献辞は、ルクレチウスの詩『物の本性について De rerum natura』第3巻 1~14行の、ラテン語原文での引用です。
 ただ、文中の「Graiae ギリシアの」を、マイモンは「G . . . ae」と記すことによって、「Germaniae ドイツの」と、読ませるようにしています。そこで、「ギリシアの栄えある人」が「ドイツの栄えある人」となり、カントを意味することになります。
 拙訳は、英訳を参照しながら、ドイツ語訳から重訳しました。英訳は、“O thou who first” で検索すれば、各種見つかります。
 なお原文は:


           AD KANTIUM

E tenebris tantis tam clarum extollere lumen
Qui primus potuisti, illustrans commoda vitae,
Te sequor, o G . . . ae gentis decus, inque Tuis nunc
Fixa pedum pono pressis vestigia signis:
Non ita certandi cupidus, quam propter amorem
Quod Te imitari aveo; quid enim contendat hirundo
Cycnis? aut quidnam tremulis facere artubus hoedi
Consimile in cursu possint, ac fortis equi vis?
Tu Pater et rerum Inventor! Tu patria nobis
Suppeditas praecepta, Tuisque ex, Inclute, chartis,
Floriferis ut apes in saltibus omnia limant,
Omnia nos itidem depascimur aurea dicta,
Aurea, perpetua simper dignissima vita.
]


   序 論

[この序論の後半には、一筋縄ではいかないマイモンの哲学的立場を表すものとして、よく引用される一文があります:
「どれほど私がカント主義者であるのか、あるいは反カント主義者なのか、それとも同時に両方、ないしはどちらでもないのか、などといったことについては、思慮ある読者のご判断にゆだねたい」。
 また、最後は哲学者らしいユーモアでもって、締めくくっています。
 しかしこの序論の「とくに以下の注釈を提示」までは、おおむね『純粋理性批判』を祖述しているだけですから、カント哲学に親しんでいる人は、飛ばすことも可能です。むろん、マイモンとの間合いをはかるために、読まれるのもいいでしょう]。


 もしも、
・存在しているものはそれぞれ、その存在をできるだけ永らえようと努めるのであれば、
・思考する存在者の存在は、思考に存する(デカルトの等式「我思う、ゆえに我あり」によれば)、ということが正しいとすれば、
ここからは次のことが当然生じてくる:「思考する存在者は、できるだけ思考するべく努めなければならない」。
 人のもつすべての欲求は、それが人のものであるかぎり、思考というただ一つの欲求に帰するのであるが、このことを証明するのは困難ではない。しかしこの証明は、他の機会にゆずろう。思考を軽蔑するものですら、ただ自らを注意深く見つめるならば、この真理を認めるにちがいない。人が行うことのすべては、そのようなものとして、まさに多かれ少なかれ思考なのである。

 けれども私たち思考する存在者は、制約を受けているので、この思考の欲求も、客観的にではなくとも主観的に、制限がある。したがってここには、人が越えることのできない「極限」があるのである(外部の障害はすべて考慮外としても)。しかし全力を出さなければ、この「極限」には達せず、それから手前の位置にいることにもなりかねない。それゆえ、思考する存在者の努力とは、ただたんに思考するのみならず、思考においてこの「極限」に達することである。そこで私たちは学問については、人間生活においての間接的な効用のほかに、直接的な効用をも認めないわけにはいかない。というのは、学問はこの思考能力にたずさわっているからである。

 さて、アプリオリな諸原理に基づくような、本来の学問は、ただ2つしかない。すなわち、数学哲学である。その他の人間の認識対象においては、この2つが含まれている程度に応じて、学問的といえるのである。
 数学は作図 Konstruktion によって、その諸対象をまったくアプリオリに規定するオリジナル版 2 ページの注)。したがって数学では、思考能力は思考の形式Form)と質料Materie(訳注2)を2つとも、自ら自身のうちから引きだす。
 哲学においては事情は異なる。哲学では、悟性は自らの行う思考の形式のみを、自身のうちから引きだす。この形式が適用されるべき諸対象は、他のどこかから悟性に与えられなくてはならないのである。

 そこで次のことが問題となる:アプリオリな純粋認識としての哲学は、いかにして可能であるか? (オリジナル版 3 ページの注)偉大なカントは、『純粋理性批判』でこの問題を提起したのである。そして自ら答えていわく、「哲学がなにか意味をもつためには、哲学は超越論的でなければならない」。すなわち哲学は、対象一般にアプリオリにかかわることができなければならないのである。そのような哲学が、超越論的哲学である。
 したがってこの哲学は、アプリオリな条件によって規定される諸対象にかかわる学問であって、アポステリオリな条件によって、つまり経験のもつ個々の条件によって、規定される諸対象にはかかわらない。このことによって超越論的哲学は、無規定な対象一般にかかわる論理学とは区別されるし、また、経験によって規定される諸対象にかかわる自然学とも、区別される。
 このことを例によって説明しよう:
・「AはAである」という命題、すなわち「事物は自らと等しい」という命題は、論理学に属する。というのも、このAは事物一般を意味するのであり、その場合事物は規定可能だとはいえ、まだアプリオリにもアポステリオリにも、条件によって規定されてはいない。したがってこの命題は、何ら区別なくすべての事物について、妥当するのである。
・それに対して、「雪は白い」という命題は、自然学に属する。なぜなら、主語(雪)も述語(白い)も、経験的な対象だからである。
・これらに対して、「変化するすべてのもの(偶有性)は、時間的に持続するもの(実体)に、必然的に結合している」という命題は、論理学には属していない。なぜなら主語も述語も、規定されていない対象では、すなわち対象一般ではないからである。この命題の主語は、時間的に持続するものという規定を受けており、また述語も、変化するものという規定をうけている。[このマイモンの説明では、主語と述語が逆になっています]。
 しかしこの命題は、自然学にも属さない。というのもこの命題の対象は、規定されてはいるが、それはアプリオリな規定(すなわち、アプリオリな規定である時間)によるものだからである。したがってこの命題は、超越論的哲学に属する。
 論理学の命題は、分析的な命題である(その原理は矛盾律である)。自然学の命題は、アポステリオリな総合命題である(主語が述語と命題のうちて結合されるのは、主語 [が表しているもの] と述語 [が表しているもの] が、時間と空間のうちで結合していると、人が知覚することによってである)。自然学の命題(たんなる知覚段階での命題としての、つまり、この命題が悟性概念によって経験的命題となる以前の命題としての)の原理は、観念連合 [Assoziation der Ideen 連想、観念どうしの結合] である。
 これらに対し、超越論的哲学の命題は、なるほど総合的な命題ではあるが、その原理は経験(知覚)ではなく、むしろ逆である。超越論的哲学の諸命題は、諸原理なのである、すなわち経験にとって必然的な諸条件なのである。これらの条件によって、知覚のうちでただ存在しているものが、存在せねばならぬものとなっている。

 こうした諸原理は、次のように考えられよう:
1] まず私たちは次のことを、疑うことなく前提にしている:私たちは多くの経験的な命題をもっているが、それらの命題のなかには、経験によって与えられる主語と述語間の結合が、偶然的ではなく、必然的なものがたくさんある。例えば、「火は物体を暖める」「磁石は鉄を引きつける」等々。
 そこで私たちはこれらの個々のな命題から、普遍的な命題をつくる:「A [例えば、火] が措定されているときには、他のB [暖められた物体] も必然的に措定されていなければならない」。
 そして私たちは、この普遍的な命題を帰納法によって導出したと信じたいのである。というのも、この命題は完全な帰納によって、確証されると思っているからである。しかし、私たちの帰納が完全になることはありえないので、このような仕方で導出された命題は、この帰納が十分である範囲内でしか、用いることはできない。
2] しかしながら詳しく見ると、超越論的に普遍的な命題においては、事態はまったく異なっている。つまりこのような命題は、すでにそれ自体としてアプリオリに、個々のな経験に先立って、普遍的なのである。というのは、このような命題なくしては、経験(客観に関係するところの主観的知覚)が成立しないからである。こうしたことはこの論文そのものによって、示されるはずである。
 したがって超越論的に普遍的な命題は、経験から導出されるのではなく、この命題が経験の条件であることによって、逆に経験の方がこの命題から導出されるのである。

 またこうも言えよう:私たちが超越論的に普遍的な命題を述べる個々の場合において、この命題は知覚であるのみならず、つまり主語と述語との主観的な結合であるのみならず、経験でもある、すなわち客観的な結合でもある。
 それにもかかわらず、超越論的に普遍的な命題は、たんなる特殊的命題でありえる。すなわちこの命題は、すでに経験されたことについては妥当しても、将来の経験についてはアプリオリに妥当しないかもしれないのである。例えば、「ある線分(訳注11)は、2 点を結ぶ最短の線である」という命題は、客観的ではあるが、ある線分については妥当しても、将来作図されるすべての対象 [線分] について、普遍的には妥当しない。なぜならこの命題は、作図一般の諸条件に基づいているのではなく、ただこの場合の特殊な作図の条件に、基づいているためである。
 では、「ある物が経験において与えられるときには、ある別の物も必然的に与えられるはずである」という命題も、ある個々のな経験においては妥当しても、経験一般には妥当しえないのだろうか? 答えは次のようになろう:この「ある物が経験において与えられるときには」という前提はよろしくない。なぜならこの命題は、以下のように述べられねばならないからである――「経験のいくつかの対象については、その1つが措定されると、別の対象もまた必然的に措定されるはずである」。
 つまり、これらのいくつかの対象が規定されるような諸条件が、知覚において与えられなければならない。そしてまた、これらのいくつかの対象が、この命題が関係してはいない対象すべてから区別されるような諸条件が、知覚において与えられなければならないのである。
 個々の経験は(例えば、火は物体を暖めるなど)、その経験と命題のうちで表現されている諸規定との比較から、そしてまた判定から――すなわち、その経験とこれら諸規定が同一であるという、判定から――、生じなければならない。(というのも、前記のいくつかの対象が、命題そのものにおいて規定されていなければ、私たちには基準のもちようが――すなわち、ある個別的な場合が、この命題が述べているところのいくつかの対象に属しているかどうかを、認識しえるための基準のもちようが――ないのである。したがって、この命題を用いることもできないことになろう)。
 さて悟性(諸規則の能力としての [『純粋理性批判』A版、126ページ参照])は、同時に直観の能力だというのではない。したがって、命題すなわち規則 [例えば前記の「経験のいくつかの対象については、その1つが措定されると、別の対象もまた必然的に措定されるはずである」] は、知覚の個々の諸規定にはかかわることができないが、知覚一般にかかわることはできる。そこで私たちは、知覚のうちにアプリオリに普遍的なものをさがさねばならない。(というのも、この普遍的なもの自体がアポステリオリな規定だとすれば、難点はこの普遍的なものをさがしても、除かれないだろうからである)。
 このアプリオリに普遍的なものを、私たちは時間において見出すのである。時間は、すべての知覚の普遍的な形式あるいは条件であり、したがって、すべての知覚にかならず伴っている。そこで前記の命題は、以下のように表せよう:「先行するものは後続するものを、時間のうちで規定する」。この命題は、アプリオリに普遍的なものに、すなわち時間にかかわっている。
 こうしたことから分かることは、超越論的哲学の諸命題は、
1) 規定された諸対象に(論理学のように対象一般ではなくて)、すなわち直観にかかわり、
2) アプリオリに規定される対象にかかわる(自然学の対象とはちがって)、
ということである。というのも超越論的哲学の命題は、もしそれが普遍的でないとすれば、命題たりえないからである。

 超越論的哲学の完全な理念は([超越論的哲学という] 学問そのもののすべてではないにせよ)、偉大なカントの不朽の著作『純粋理性批判』によって、私たちに与えられた。私がこの『試論』で行おうとしていることは、この学問 [=超越論的哲学] のもついくつかのもっとも重要な真理を、述べることである。たしかに私はこの令名高く、鋭敏な哲学者に従っている。だが(偏見をもたない読者は気づかれるであろうが)、彼の文章を書き写すようなことはしない。私の力の及ぶ限り、彼の解説に努め、そしてときには、彼についての注釈も加えたい。オリジナル版 9 ページの注
 思慮深い読者に検討していただくべく、とくに以下の注釈を提示したい:
1) アプリオリな認識そのものと、アプリオリな純粋認識の違い。また、後者についてなお残る問題点。
2) 総合命題の起源を、私たちの認識の不完全さに求めようという私見。
3) 「事実問題(quid facti)」をめぐる疑念――ヒュームの異議は、解決していないように見えるのだが。
4) 「権利問題(quid juris)」への回答についての私の示唆。そして形而上学一般の可能性――すなわち、直観をその要素(悟性理念 [悟性の有する理念] と私は呼んでいる)へと還元することによって可能となるところの――の説明。
 これら以外の注釈については、読者自らが読み進められるうちに、見出すであろう。ところで、いかほどに私がカント主義者であるのか、あるいは反カント主義者なのか、それとも同時に両方、ないしはどちらでもないのか、などといったことについては、思慮深い読者のご判断にゆだねたい。私はこれらの体系 [=カント哲学や、それと対立する諸哲学] の問題点を、できる限り避けようと努めてきたのである(このことは、表紙の題辞 [右側にはスキュラ [女の海獣] が座し、左側には恐ろしきカリュブディス [渦潮の女怪] が…] で示そうとした)。これがどれほど成功したかの判断も、また他の人にまかせよう。

 私の文体や書き方については、私自身大変まずいものと思っている(というのも、私はネイティブなドイツ人ではないし、論文を書く練習もしたことがないのである)。この著作の原稿を、読んでもらうために渡した学識ある人たちが、私の書き方のまずさにもかかわらず、理解しえる著作だと保証してくれなかったならば、この本を出版しようなどとは、私も思わなかったであろう。また事柄自体よりも、文体に重きを置くような読者に対して、私は書くのではない。
 ところで、この著作はたんなる「試論」であって、将来全面的に書き直そうと思っている。この著作を批評する人が、文体や構成以外に、事柄自体に関して異論があるのならば、私は自己弁護をするか、あるいは自分の誤りをすすんで認めるであろう。私の大目的は、ただ真理の認識を発展させるということなのである。私について事情を知る人なら、私がそれ以外のものを求めることなどできないということは、お分かりになると思う。
 したがって、私の文体に対する非難は、適切でないのみならず――なぜならその弱点は、私自身認めているのだから――、まったく無用である。というのはその非難に対する私の弁解は、おそらくまたもやそのような文体で書かれるだろうからである。すると、「無限進行」になってしまうのである。
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   第1章

  質料、認識の形式、感性の形式、悟性の形式、時間と空間

[マイモンは、「感性的な表象が意識化するには、表象間にすでに一様性と相違がなくてはならない」と、考えます。一様性と相違性は概念ですから、感性的な表象(直観)はすでに概念を前提にします。ここから彼独自の哲学へ――
 また、直感における場合と、概念における場合とでは、空間・時間のあり方が異なるという彼の主張は、卓見だと思います。
 後半ではいよいよ、あの有名な
「微差態」Differential が登場します。]

 制限された認識能力 [ふつうの感性や悟性の認識能力] は、2つのものを必要とする:
1) 質料Materie)、すなわち所与 Gegebenes;すなわち、認識対象における認識されるべきもの
2) 形式Form)、すなわち所与がそれとして認識されるべき、ある何か。
 質料とは、対象における特殊なもの das Besondre であって、この特殊なものによって対象は認識されるし、また他のすべてのものから区別される。それに対し、形式は(こうした種類の対象にかかわる認識能力のうちに、この形式が基づくかぎり)普遍的なものである。この普遍的なものは、ある部類の対象に属しえる――したがって感性の形式は、感性的な対象にかかわる認識能力のあり方 Art である;悟性の形式は、対象一般への、(同じことであるが、)悟性の対象への悟性の働き方である。オリジナル版 12 ページの注

 例えば、赤色が認識能力に対して、与えられるとしよう。(ここで「与えられる」というのは、認識能力はこの赤色を、自らが定めたし方で自分のうちから生み出すというようなことは、できないからである。認識能力は「与えられる」ものについては、ただ受動的に受けとるだけである)。オリジナル版 13 ページの注
 したがって、この赤色は、知覚される対象がもつ質料である。さて、この赤色や他の感性的な対象を、私たちは次のように知覚する:すなわちこのような多様な対象を、時間と空間のうちで、秩序づけるのである。この時間と空間は、形式である。というのは、多様なものを秩序づけるというこの仕方は、個別的な対象としての赤色のうちにではなく、私たちの認識能力のうちに基づいているからである。すなわち、すべての感性的な対象に、同じようにかかわる認識能力に、基づいているのである。
 そこで、私たちはアプリオリに確信するのだが、すでに時間と空間の形式において知覚した感性的対象ばかりでなく、これから知覚するすべての対象も、やはりこれらの形式をもたざるをえないのである。

 こうしたことから、次のことも分かる:時間と空間の形式は、対象の知覚をまってはじめて私たちのうちに生じるのではない(なぜなら、もしそうだとすれば、これらの形式は個々の対象のうちに基づいていることになり、普遍的な形式ではないだろうからである);そうではなくて、これらの形式は、すでにあらかじめ(知覚を成りたたせる普遍的な条件として)私たちのうちに存在しているのである。
 だから知覚とは、個々の対象においてこれらの普遍的形式を、認識することなのである。そして悟性の形式についても同様なことが言えるのだが、これは後ほど示すことになろう。

 この章では、感性の形式そのものを扱うことにしたい。次の第 2 章ではこれらの形式を
・悟性の形式と結びつけて、
・また感性の形式の根底にある、感性の質料そのものとの関連において、
考察することにしよう。そこでまず、感性の形式である時間と空間が問題となる。

      空間と時間

 空間と時間は、経験から抽象された概念なのではない。というのもそれらは、経験的な概念を構成する成分などではないからである:つまり、それらは多様なものではなく、それぞれ統一性であって、これによって多様な経験的諸概念が、統合されるのである。
 例えば金(きん)においては、延長・不可入性・黄色などといった多様なものが存在している。これらについての経験的概念が、金である。これら多様なものが、一つの概念 [金] において統合されているのは、ただこれらが場所と時間において、一緒に存在するからである。したがって時間と空間は、[金を] 構成する成分そのものではなく、たんに諸成分を結合するものにすぎないのである。
 不可入性・黄色などは、結合を離れてそれ自体を考察すれば、経験から抽象された概念である。この結合を可能にしている時間と空間は、そうではない。また時間と空間は、経験的概念そのもの(すなわち、経験的多様のうちでの統一性)でもない。というのは、時間と空間はそれ自体としては、多様なものを、異なる諸部分から形成されているものを、その内に含んではいないからである。オリジナル版 15 ページの注)時間と空間の諸部分は、時間と空間以前に可能なのではなく、この2つの内で可能なのである。性質ではなくただ分量の面から、時間と空間の数多性というものは考えられえる。

[ここより、マイモン独自の考えが展開されます。]
 それでは空間と時間は、何であるのか? カント氏は、これらは私たちの感性の形式である、と主張した。この点は、私はカントとまったく同意見である。ただ私が付け加えたいのは、これらの感性の特殊な形式 [=全体に共通する形式ではなく、個々の形式] は、思考の普遍的な形式のうちにその根拠をもつ、ということである。というのは、思考(すなわち意識)一般の条件 [つまり、思考が成立するための条件] は、多様なもののうちでの統一性だからである。そこで、AとBがまったく一様であれば、そこには多様なものが欠けている。したがって比較というものが存在しないので、意識も存在しない(一様であるという意識も)。
 しかし、AとBがまったく異なっていれば、そこには統一性が欠けているので、またしても比較が存在せず、したがって意識も存在しない。相違するという意識すら、存在しないのである。というのも相違性というのは、「主観的」に考察すれば、統一性ではある、すなわち、対象相互の関係ではある。しかし「客観的」には、一様性の欠如である。したがって相違性は、客観的な妥当性 Gültigkeit をもちえないのである。オリジナル版 16 ページの注
 したがって、空間と時間という特殊な形式によって、感性の多様な諸対象の統一が可能となる。またそのことによって、感性の対象そのものも、私たちの意識の対象として可能なのである。
 
 さらに私が言いたいのは、時間と空間という形式の各々は、それ自体としては十分ではなく、このためには [すなわち、前述の統一性を可能にするためには] 両者が必要である、ということである。だが、一方の措定が、必然的に他方の措定を必然的にするのではない。むしろ逆であって、すなわち一方を措定することは、必然的に他方をまったく同じ対象において、除去することなのである。
 それゆえ一方の措定は、他方の措定一般を必然的にする。さもなければ、他方の除去(たんなる否定としての)という表象が、可能ではないからである。このことについては、より詳しく説明しよう。
 空間とは、諸対象が互いの外に存在することである(同じ einerlei 場所にあるということは、空間の規定ではなく、むしろ空間の除去である)。時間とは、対象間の先行と後続である(同時に存在することは、時間の規定ではなく、時間の除去である)。オリジナル版 17 ページの注
 したがって、諸物を空間のうちに、つまり互いの外に表象するためには、それらを同時に、つまり同じ時点において、表象しなければならない(なぜなら、互いの外に存在するという関係は、分割できない統一性だからである)。諸物を時間の順に表象するためには、それらを同じ場所において、表象しなければならない(さもなくば、それらの物をまさに同一の時点で、表象せねばならなくなるからである)。
 さて運動とは、同一の対象における、空間と時間の統合であると、考えられるかもしれない。なぜなら運動は、時間順においての場所の変化だからである。しかし詳しくみてみると、そうではないことが分かる。すなわち空間と時間は、同じ対象において統合されてはいないのである。
[このことを以下説明しよう。] 互いの外に存在する a と b という2つの物が、あるとしよう。さらに c という第3の物を仮定する。この c は、a から b へと動くことにする。するとここでは、a と b は同時に(時間の順序なく)、空間において(互いの外に)表象される。しかし c は、すなわち c の異なる2つの関係(c-a, [あるいは] c-b)は、ただ時間の順序において表象されるだけであり、空間においては表象されない。なぜなら関係というものは(概念としての)、ただ時間の順序においてのみ考えられることができ、「互いの外に」は考えられないからである。

 空間と時間は、直観であると同様に概念でもある。そしてこの直観は概念を前提とする。オリジナル版 18 ページの注1)ある特定の物どうしが相違していることの感性的な表象は、それらが互いの外に存在することである。諸物が相違することの表象とは、互いの外に存在するということ、すなわち空間である。したがってこの空間は、(多様なものにおいての統一性として)、概念である。オリジナル版 18 ページの注2
 ある感性的な対象が、同時にいろいろな感性的対象に関係しているということの表象が、直観としての空間である。もし一様な直観しかないとすれば、私たちは空間の概念をもたないであろう。それゆえまた空間の直観ももたないであろう(なぜなら空間の直観は、空間の概念を前提とするからである)。これに対し、まったく異なっている諸直観があるとすれば、私たちはたんなる空間という概念はもつであろうが、空間の直観はもたないであろう。また時間についても、同様のことがいえる。
 したがって直観としての空間は(同じく時間も)、想像物 ens imaginarium [カントの用語:「純粋空間と純粋時間は、直観するための形式としては、なるほど何物かであるが、しかしそれ自体は直観される対象なのではない(ens imaginarium)。」『純粋理性批判』B版、347ページ] なのである。というのは、空間が生じてくるのは、ただ他物との関係においてのみ存在するもの [感性的な対象どうしの関係] を、構想力が絶対的なものとして表象してしまうからである。このような仕方で、絶対的位置や絶対的運動なども存在するのである。
 その上構想力は、これら自らの創作物を、さまざまな仕方で規定する。そこから数学の対象が生じてくる(絶対的な考え方 Betrachtungsart と相対的な考え方の区別は、たんに主観的なものであって、対象そのものを変えはしない)。オリジナル版 19 ページの注1)これらの創作物がもつ原理の妥当性は、ただ原理によって創作物を、生みだせるかどうかにかかっている。
 例えば3本の線分があって、そのうちの [いかなる] 2本の長さの和も、残りの1本より長ければ [原理の例]、この3本によって三角形を作ることができる [創作物を生みだせる例]。2本の線分からは、いかなる図形も作ることはできない、等など。その上、構想力(対象をアプリオリに規定する創作能力としての)は、ここでは悟性に奉仕する。オリジナル版 19 ページの注2)悟性が、2点間に線を引くときに、「この線は [2点間を結ぶ] 最短のものでなければならない」という規則を指示すると、構想力はこの要求を満たすように、線分を引くのである。
 この創作能力は、本来のいわゆる構想力と悟性のいわば媒介物である。悟性の方はといえば、活動そのものである。悟性は諸対象を(これらが、いかなる根拠から与えられているにせよ)受け取るだけでなく、これらの対象を秩序づけたり、相互に結合したりするのである。そしてここでの悟性のやり方は、たんに恣意的なのではなく、まずは客観的な根拠に注意し、次いで自らの活動性の増大にも留意するのである。つまり悟性にあっては、客観的な根拠(すなわち、規定されるもの [が規定されること] の根拠、そしてその規定の根拠Grund des Bestimmbaren und der Bestimmung)をもつような総合のみが、したがって結果 Folgen を必ずともなう総合のみが、目的 Objekt としては妥当なのである。そうでない総合は、妥当ではない。
 これに対し構想力の総合が活動的なのは、構想力が諸対象を、たんに一どきに auf einmalというのではなく、相互に秩序づけたり結合したりする限りにおいてである。けれども、構想力がこうしたことをある決まった仕方で(連想 Assoziation の法則にしたがって)遂行するという点では、構想力は受動的である。ところが創作能力の行う総合は、まったく自発的であって、しかも規則 [例えば前述の「2 点間を結ぶ最短のものでなければならない」] を理解してはいなくても、規則にそって行いえるのである。

 このことについては、詳しく説明しよう。
 一般的に総合というのは、多様なものにおいての統一性である。この統一性ならびに多様なものは、
1] 必然的であるか(すなわち悟性に対して与えられているのであって、悟性によって生みだされたものではない);
2] あるいは、悟性自身の恣意によって――なにか客観的な法則に従ってというのではなく――、生みだされるか、ないしは自発的に、つまり悟性自身によってある客観的な根拠から生みだされるかである。
 所与(感覚における「実在物 reale」)は、[前記の] 最初の種類の統一である。直観としての時間と空間は、ある外延量 Quanta として存在するかぎり、2番目の種類に属する。[つまり、] 私たちはある特定の(制限された)空間を、一つの単位 Einheit [=単一性] として任意に想定することができる。そこから(そのような単位を連続的に相互に総合 [=結合] していくことによって)、任意の(この想定された単位に関して、そしてまた、この総合の常に可能な続行の点で)数多性 Vielheit [前述の、ある外延量] が生じるのである。オリジナル版 21 ページの注
 例えば、三角形は悟性によって(規定されるもの [が規定されること] の法則、またその規定の法則にしたがって nach dem Gesetze des Bestimmbaren und der Bestimmung)生みだされた統一性である。直角-鈍角-鋭角三角形は、悟性によって(規定することの法則にしたがって nach dem Gesetze des Bestimmens)考えられた数多性である。
 時間と空間は、概念としては(互いの外に存在するという概念、また順序という概念としては)、多様なものにおいての必然的な統一性を、すなわち、時間や空間の微差態 Differentiale としての必然的な統一性 Einheit [=単一性] を、含んでいる。[微差態については後の章で論じられる]。というのは、先行するものと後続するもの相互の関係の総合は、悟性から分離しては決して考えられないからである。なぜなら、もし分離したとすると、時間の本質が完全に破壊されてしまうからである。
 これに対して、単位 [=単一性] としてのある特定の時間(持続 Dauer)を、想定してみる。そして、同じような単位を連続的に相互に総合 [=結合] していくことによって、より長い時間を生みだすことを、想定する。そうすると、この場合の総合は、まったく任意のものとなる。同様なことは、空間についても言える。
 ここから、概念として考えられた時間・空間と、直観として考えられたそれらとの違いが明らかになる。概念として考えられた前の場合では、時間と空間は互いに排除しあう。このことは以前に述べたとおりである。
 直観として考えられた後の場合には、それとはまったく逆である。つまり時間と空間は互いを前提とするのである。というのも、両者は外延量 [広がりのある量。同一種類の小さい量を加え合わせて、大きな量をつくり出すことができる量のこと。(広辞苑)] なので――すなわち時間と空間においては、諸部分の表象によって全体の表象がはじめて可能となっているが、両者はそのような外延量なので――、ある特定の空間を私たちが表象するためには、別の特定の空間を、つまり単位としての空間を、つねに想定しなければならないからである。後者の [単位としての] 空間の連続的な総合によって、前者の任意の空間を生み出すためにはである。この連続的な総合は、時間の表象を前提とするのである。
 さらにまた、特定の時間を考えようとすれば、このことが可能となるのは、ただある特定の空間があることによって、つまり時計の針の動きなどによってである。純粋算数は数を対象とするが、その数の形式は、概念としての純粋時間である。これに対し純粋幾何学は、純粋空間を概念としてではなく、直観として対象とする。微分計算では概念としての空間は、すべての外延量を捨象されるが、しかしさまざまな性質 Qualität によって、すなわち、さまざまな空間の直観によって規定されて、考察される。

 私としては、次のように主張することができると思う:
「空間と時間の表象は、純粋悟性概念すなわち「カテゴリー」と、同程度の実在性をもっている。したがって、カテゴリーについて言えることは、時間と空間についても言える」。
 例えば、「原因」のカテゴリーを考えてみよう。まずこのカテゴリーにあっては、仮言的判断の形式が成立している:「あるもの a が措定されると、他のもの b が必然的に措定される」。このことから、 a と b はこの関係だけによって、相互に規定されていることが分かる。しかし a 自体や b 自体が何であるかは、まだ分からない。だが [さらに]、私が a を(b への関係以外の別のものによって)特定 [規定] すれば、それによって b も特定 [規定] される。特定の対象に適用されたこのような論理的形式が、カテゴリーである。
 時間は1つの形式である、すなわち、諸対象を相互に関係づける1つの仕方である。時間のうちには異なる2つの点が(先行する点と後続する点)が、想定されねばならない。そしてこの2つの点は、この 2 点をそれぞれ占める対象によって、また [前述のカテゴリーの場合と同様] 特定 [規定] されねばならないのである。
 したがって純粋時間(つまり、先行と後続はあっても、これらの各々を特定するような時点はもたない)は、思考上の論理形式と比較できよう(両者ともに、物相互の関係である)。対象によって特定 [規定] された時点は、カテゴリーそのもの(原因と結果)と比較できよう。そして、時間規定をもたないカテゴリーが無意味で、したがって適用することもできないように、実体と付随性のカテゴリーをもたない時間規定は、無意味である。オリジナル版 24 ページの注)またこのカテゴリーも、特定の対象をもたなければ無意味なのである。こうしたことは、空間についても言える。

 このように理解するのでないならば、なぜ時間と空間が直観であるのかが、私には分からない。ある直観が統一性として考えられるのは、ただ、空間と時間のうちで異なっている直観の諸部分が、概念からすれば同じであるためである。したがって、時間と空間自体を直観として規定するためには、別の時間と空間を想定しなければならないだろう。
 互いの外にある 2 点 a と b を、措定したとしても、この各点はまだ空間ではなく、たんなる相互関係である。したがってここには、空間の多様なものにおいての統一性はなく、空間の絶対的統一性があるのであって、つまり、直観はまだない。
[ここから、以下の第1章の終わりまでは、残念ながら文意がよくわかりませんでした]。
 しかし次のように言う人もいよう:「だが点 b の外部に点 c を想定すれば、なるほど直観はないにせよ、直感の要素はありえる。だから空間の直観は、a と b が、そしてまた b と c が、互いの外に存在することから生じるのではないか?」
 しかしその人が、「それらの点は互いの外にある」と、それらの点の関係・状態について言うとき、これはただ、“それらの点は互いに異なっている”ことを意味するにすぎないのである(というのは、概念は、時間と空間において、他の概念の外にあることはできないのだから)。このことをその人は考慮していないのである。ところでこの2つの関係 [a と b、b と c の関係] は、関係そのものとしては、すなわち対象 [a, b, c] を捨象してしまえば、互に異なりはしない。したがって、2つの関係を合計してみても、空間の直観は生じないのである。
 時間についても同様である。時間は先行と後続によって考えられる(同時存在は時間規定ではなく、その排除にすぎない)。先行する時点と後続する時点は、まだ時間とはいえない。両点の相互の関係そのものは、時間を表している vorstellt [voraussetzt(前提にしている)の誤り?]。この種のもので異なる関係は、まったく考えることができない。したがって時間もまた、直観ではない。
 (概念的には同じで、時間的には異なる所与を、一つの表象に統合すること)。このことは、時間のうちの各所与の知覚 Perzeption そのものの外に、なお先行する所与の再生 Reproduktion を現在ある知覚 Wahrnehmung のそばに(連想の法則による、それらの同一性によって)、必要とする。[「規則に従っての [表象の] 再生の、主観的で経験的な根拠は、表象の連想と名付けられている。」『純粋理性批判』A版、121ページ]
 したがって、いくつかの異なる時間的統一性を、一つの直観において統合しえるためには、現在の時間的統一性のかたわらで、先行する時間的統一性を再生せねばならないだろう。しかし、これは不可能である。だから空間と時間は、ただ経験的な直観なのであって(経験的直観の述語として)、純粋直観などではないのである。


   第2

  感性、構想力、悟性、アプリオリな純粋悟性概念、すなわちカテゴリー、[先験的] 図式、権利問題への回答、事実問題への回答、これらの回答への疑い

 すべての感性的な表象は、それら自体として考察されるときには質としてあり、それらからすべての外延量や内包量は捨象されなければならない。(脚注1)

 例えば赤色の表象は、いかなる有限な延長もないものとして、考えられねばならない。だが数学的な点ではなく物理的な点として、すなわち延長の微差態としてである。さらにこの赤色の表象は、いかなる有限な質的度合Grad der Qualitätもないものとして、だが有限な度合がもつ微差態として、考えられねばならない。
 この有限な延長ないし有限な度合は、感性的な表象が意識にもたらされるためには必要である。またこうした延長ないし度合は、たがいに異なる表象においては、それぞれの微差態の相違にしたがって、たがいに異なっている。したがって、たんに微差態として考察される感性的な表象それ自体は、まだ意識を与えるものではない。(脚注2)

 意識は、思考能力の活動によって生じる。だが、個々の感性的な表象の受容にさいしては、この能力はたんに受動的にふるまう。私が「私は何かを意識している」と言うとき、私はこの「何か」でもって、意識の外にあるものを意味しているのではない。さもなければ、自己矛盾になってしまう。そうではなくて、特定の種類 Art [あり方] の意識を、すなわち、特定の種類の行為そのものを、理解しているのである。
 原初的な primitiv 意識について用いられる「表象」という用語は、このような場面では、誤解を招いてしまうオリジナル版 30 ページの注)。というのも実際は、この原初的な意識は表象では――すなわち、現前しないものを、ただ現前させるものでは――ないからである。むしろ表現 Darstellung なのである。つまり、以前には存在しなかったものを、存在するものとして表すことなのである。
 意識がようやく生じるのは、構想力がいくつかの同じ種類の(einartig)感性的表象を統合して、それらの表象を構想力の形式(時間と空間それぞれにおいての順序)にしたがって秩序づけ、そこから個々の直観を形成するときである。したがって、[感性的表象は] 同じ種類のものでなければならない。もしそうでなければ、唯一の意識のうちでの結合というものが、起きえないからである。
 表象 [の数については] は、もともと(私たちの意識に関してではないにせよ)いくつかはあるのである。なぜならば、私たちはこれらの表象において時間順を知覚しないにしても、これらの表象を時間順で考えざるをえないからである [つまり、時間順で表象を一つ一つ考えていくときには、表象はいくつかあることになる]。というのも、時間自体は無限に分割可能だから [時間順で考えられるの] である。

 例えば加速している運動では、先行する速度は消失するのではなく、後続する速度にたえず付け加わる。そこから、たえず増加する速度が生じるのである。そこで最初の感性的表象も、消失するのではなく、意識が生じるのに必要な度合に達するまで、後続するものへとたえず付け加わるのである。こうしたことが起きるのは、これら感性的な表象どうしの比較によって、そしてそれらが同一性の認知によってではない(つまり、私たちはこうしたときには、比較を意識しはしないのである。だが、ぼんやりとは比較していなければならない。なぜなら比較は、多様なものにおける統一が、すなわち総合一般が、成立する条件だからである。この総合一般によって、はじめて直観も可能となるのである)。
 だから上述のことは、この後ですでにさまざまな対象の意識に達した悟性が、比較や同一種の認知によってするやり方とはことなる。(というのも、構想力は比較をしないからである)。上述のことは、ただ、「いかなる作用も、それとは反対の作用なくして、おのずと打ち消されることはない」という、ニュートンの普遍的な自然法則にしたがって起きるのである。

 ついには悟性が登場する。悟性の仕事は、すでに与えられているさまざまな感性的対象(直観)を、アプリオリな純粋概念によって相互に関係づけること、すなわちこれらの諸対象を、純粋悟性概念によって、悟性の実際の対象にすることである。こうしたことについては、後ほど示されよう。これらの純粋悟性概念は、案出者アリストテレスによって、カテゴリーと名づけられた。
 したがって、感性は微差態を、ある特定の意識に引き渡す。構想力は、これらの微差態から、直観の有限な(特定の)対象を生みだす。悟性は、自分の対象であるこれら異なる微差態の間の関係から、これら微差態より生じる感性的な諸対象の間の関係を、生みだすのである。
 
 対象となっている微差態が、いわゆる「本体(Noumena)」[仮想的存在とも。物自体と同じ。] である。微差態から生じる対象そのものは、「現象」である。対象としての各微差態自体は、直観のうちでは 0 である。[つまり、微差態] dx = 0, [微差態] dy = 0, 等々。しかし、これら微差態間の関係は 0 ではなく、微差態から生じる直観のうちで、規定されて示されえるのである。
[dy/dx ≠ 0 のようなことを、マイモンは念頭においているようです。ところで、y = f (x) のとき、⊿x は x の増分を表し、それがたいへん小さいいときには、dx と表します。y の増分は ⊿y で、たいへん小さいいときには dy です。⊿y / ⊿x (すなわち、⊿y : ⊿x)は、 f (x) の微分を表します]。

 これらの本体は理性理念であって、これら理性理念は、客観的対象(Objekte)の成立を悟性の諸規則にしたがって説明するための、原理として役立つ。例えば私が、「緑は赤とは異なっている」というとき、相違性という純粋悟性概念は、感性的な2つの質の関係としてではなく(なぜなら、そうした関係としてであれば、カントの言う権利問題が生じるからである)、カントの理論によるのであれば、アプリオリな形式としての2つの空間の関係として、あるいは私の理論では、アプリオリな理性理念である2つの微差態の関係として、考察されるのである。
 悟性は客観的対象(Objekt)を(判断の諸形式以外の対象を――これら諸形式は、客観的対象とは言えないが)、ただ継続的に(fließend)しか考えられない。なぜなら、悟性の仕事は思考に他ならないのだから、すなわち多様なもののうちに単一性を生みだすことなのだから、悟性が対象をもちえるのは、ただ悟性が対象の成立の規則ないしは仕方を告げる(angeben)ことによってだからである。というのも、ただこのことによってのみ、対象における多様なものは規則の単一性へともたらされるのである [unter der Einheit の der は、die と解釈しました]。したがって悟性は、すでに生じたものとしてはいかなる対象も考えられないのであって、ただ生じつつあるものとして、すなわち継続的に(fließend)しか考えることができない。
 ある対象の成立の個別的な規則が、すなわちその対象の微差態の種類が、その対象を個別的なものにする。そして異なる対象間の関係は、それらの対象の成立規則の関係から、すなわちそれら対象の微差態どうしの関係から、生じるのである。
 この点については、詳しく述べよう。客観的な対象は、2つのものを必要とする。第1に、アプリオリないしはアポステリオリに与えられている直観。第2には、悟性によって考えられた規則であり、この規則によって直観のなかの多様なものの関係が、規定されるのである。この規則は悟性によって、継続的にではなく、一挙に考えられる。これに対し、(直観がアポステリオリな場合には)直観そのものが、あるいは(直観がアプリオリな場合には)直観のうちの規則の個別的な規定が、客観的な対象を、まさしく継続的に考えられるようにするのである。
 例えば、悟性がある規定された三角形を――個々の三角形ではないにせよ――考えるのは、三角形の2辺間の長さの比率(2辺の位置は与えられる。したがってこの位置は不変である)を考えることによってである。これによって、第3の辺の位置と長さも規定されることになる。この規則 [2辺間の比率] は、悟性によって一挙に考えられるのである。
 けれどもこの規則は、辺のたんに一般的な(任意に想定された単位による)比率しか含まないので、辺の長さ(ある規定された単位による)は、まだ規定されないままである。しかしこの三角形を作図するときには、これらの長さは規定されてでしか、描かれえない。ここには、上述の規則 [2辺間の比率] には含まれていなかった規定 [辺の長さ] がある。この規定は、直観に必然的に付随している。この規定は、規則すなわち2辺間の比率はまったく同じままでも、異なった作図においては異なるものとなりえるのである。
 したがってこの三角形は、作図されるすべての場合において、すでに生じたものとして悟性によって考えられてはならず、生じつつあるものとして、すなわち継続的な(fließend)ものとして考えられねばならないオリジナル版 34 ページの注)。これに対し、直観の能力は(この能力は、規則にそいはするが、規則を理解してはいない)規則や、多様なものにおいての単一性を表すことはできないが、、多様なもの自体を表すことはできる。そこで直観の能力は、その対象を生じつつあるものとしてではなく、すでに生じたものとしてもつのである。
 その上、前記の比率 [関係] が特定の数比 [例えば、2 : 3] ではなく、一般的な比率(allgemeines Verhältnis)すなわち関数だったりすれば [例えば、x : f (x)]、対象どうしの関係やそこから導出される帰結は、対象の微差態に関するもの以外においては、精確に正しいものではない。例えば、すべての曲線について、「接線影(Subtangente) : y = dx : dy, したがって、接線影 = y dx / dy」と、主張したとする [これは「a:b=c:d ならば、a=bc/d」によります]。だがこのことは、いかなる作図においても、精確には正しくない。なぜなら、⊿x:⊿y を dx:dy にしないところでは [⊿x は x のたんなる増分、dx は限りなく 0 に近い x の増分を表すようです]、 つまり、直観においてはだた考えられる [感性によって知覚されるのではなく] だけの比を、直観の要素 [微差態] に関係させないところでは、実際には接線影ではなくて、別の線が前記の比によって示されているはずであり、接線影の方は示すことができないからである。
 悟性がある線を考えようとすれば、悟性は思考においてその線を引くしかない。だが人が直感においてある線を表そうとすれば、その線をすでに引かれたものとして、表象するしかないのであるオリジナル版 35 ページの注)。ある線を直観するためには、ただ覚知(Apprehension)の意識(互いの外部に存在する諸部分の統合)が必要なだけである。これに対して、ある線を概念的に理解する(begreifen)ためには、事態の説明が、すなわち線の成立仕方の説明が、必要なのである。
 直感においては、線がその線内を動く点の運動に先行する。概念においては、これとはまさに逆である。つまり線の概念のためには、すなわち線の成立仕方の説明のためには、点の運動の方が、線の概念よりも先行するのである。
 
 したがって、感性は結合というものをまったくもたない。構想力は、時間と空間においての同時存在と順序という規定によって、これらの規定に関して対象を規定しないにせよ、一つの結合をもっている。すなわち、構想力の形式は、次のように事物一般を互いに関係づけるのである:ある物は先行するものとして、他のものは後続するものとして、時間と空間のうちに表されるようにである。ただしその際、どれが先行するもので、どれが後続するものかは規定しない。だから、私たちが経験(知覚)において、これらの規定(先行するものと後続するもの)に関して、事物が規定されているのを見いだすとすれば、これはたんに偶然的なことである。
 私の説明ではオリジナル版 36 ページの注)、純粋概念とは(すなわち、いかなる直観も、アプリオリな直観にせよ、含んでいない概念)、関係概念(Verhältnis-Begriffe)以外のものではありえない。なぜなら概念とは、多様性においての統一にほかならないからである。そして、多様なものを統一として考えることができるのは、ただ多様なものを構成している諸要素が、相互的ないしは少なくとも一方的に、同時に考えられるときである。
 前者の「相互的」に考えられる」場合には、そこから関係概念が、すなわちたんに形式の面だけではなく、質料の面からも悟性によって考えられるような関係概念が、生じてくる。あるいは、この始めの場合には、質料と形式が同じように、したがって悟性の唯一の活動(Actus)によって、生み出される。例えば、原因の概念と、この概念の結果への関係は――この結果への関係によって、原因の概念は規定されているのだが――、同じ(einerlei)である。そこで、「原因は結果をもたなくてはならない」という命題は、同語反復(identisch)というだけに止まらず――つまり、すでに [原因の] 定義のうちに含まれているだけでなく――、定義そのものなのである。原因とは、「それが措定されると、ある他のものが措定されずにはおかない」ところのものなのである。
 これに対し、絶対的な概念は、統一においてただ「一方的に」考えられる。というのはこの概念は、直観において考えられる関係だからである。したがって、直観はこの関係がなくても考えられるが、逆にこの関係のほうは、直観なくしては考えられない。第3章を参照。

 それに対し悟性は、アプリオリな諸形式による、[すなわち] 付属性(Inhärenz)や依存性(Dependenz)などによる、結合をもっている。しかしこれらのアプリオリな諸形式は、直観ではないので、したがって知覚することはできないので、またその上、これら諸形式の可能性も把握できるものではない(unbegreiflich)ので、これらがその意味をもつのは、ただある普遍的な規則によって、すなわち、これらが関係しているところの直観の形式(時間)においての普遍的な規則によってであるオリジナル版 38 ページの注)。
 そこで例えば私が、「a は原因で、b は結果である」というとき、それが意味するのは、「私は2つの対象を、判断の特定の形式(依存性)によって、相互に関係づける」ということである。さらに私が指摘したいのは、このとき2つの対象一般が問題なのではなく、特定の対象の ab だということである。そして、直観の形式における普遍的な規則によって、つまり、必然的に a は先行し、b は後続せざるをえないという規則によって、両者の相互関係は、依存性という共通の概念において、規定されている。すなわち、a は原因であり、b は結果である。
 こうしたことは、すべての任意に想定された概念についても同様である。これらの概念によっては、名辞的本質(Essentia nominalis)は規定されるが、実在的本質(Essentia realis)は、直観において示されるまでは、疑わしいままで残ってしまうのである。
 例えば、悟性が次のような規則にしたがって、円の任意に想定された概念を考えるとする:1本の線によって画された図形であり、その内部のある点 [つまり円の中心] からこの線 [円周] へと引かれる線分は、すべて長さが等しい。これは、円の名辞的本質である。しかし、こうした条件が可能かどうかは、直観において、線分の一端を固定しながらその線分を回して描くまでは、疑わしいままである。そのように描かれたときに、円は実在的本質をえることになる。
 このことは、次のような場合にも言える:あるものが措定されたときには、他のものも措定されざるをえないような、あるものを(仮言的判断の形式 [A ならば、B である] によって)考える場合である。このような考え方は、ただ任意なものである。前記のあるものが存在する可能性は、概念だけからは知りえない。そこで悟性が見出すのが、(これは悟性自身が、経験命題(Erfahrungssätze)のためにそこへと持ち込んだたものなのだが)(オリジナル版 39 ページの注)それが措定されれば別の直観 b も措定されずにはいないような、所与である直観 aである。こうしてこの概念 [=仮言的判断の形式] は、その実在性を得る。
 より明確に説明しよう。仮言的判断の形式は、述語が主語に依存するという、ただの概念である。主語はそれ自体としてあるのであって、主語は述語に関して規定はされていない。しかし述語は、それ自体としては規定されていないにせよ、主語に関して、また主語によって規定されている。原因の概念は、それ自体としては規定されていず、したがって任意に措定されることができる。これに対して結果の概念は、それ自体としては規定されていないにせよ、想定されている原因に関しては、またこの原因によって、規定されているのである。
 すなわち言い換えれば:「可能な対象は区別なくすべて、何かの原因でありえる(オリジナル版 40 ページの注)。このことは元々そうであるのみならず、結果が任意に規定されているときに、この規定されている結果に関しても同様である」。しかしながら、原因がすでに任意に想定されているときは、すべての物ではなく、ただある特定の物だけが、結果となりえる(脚注3)

 したがって依存性は、何らかの特定の対象への関係を持っていなくても、(論理学における仮言的判断の形式として)把握できるのである。しかし原因と結果は、特定の対象への関係なくしては、把握できない。つまり仮言的判断という悟性の規則は、ただ特定化されえる対象に関係するのであって、特定化された対象にではない。しかし仮言的判断の客観的実在性は、特定の直観の対象への適用によってのみ、示すことができるのである。
 さて、原因による結果というこのような規定は、「質料的に(materialiter)」(例えば、ある赤い物が緑の物の原因である、などのように)考えられるものではない。というのは、そのように考えると、権利問題が発生するからである。すなわち、「原因や結果のようなアプリオリな悟性概念が、アポステリオリなものの規定性を告げえる」という事態は、いかにして把握できるのか」、という問題である。
 原因と結果という規定は、「形式的に(formaliter)」考えられねばならないのである。すなわち、[両者に] 共通な形式(時間)と、時間のうちでの両者の個々の規定(一方は先行する、他方は後続するという)を考慮して、考えられねばならない。というのも、原因や結果という概念はアプリオリなものの規定性であり、またこのアプリオリなものをとおして対象そのものの規定性だからである(なぜならこれらの対象は、アプリオリなものなしでは考えられないからである)。

 したがって経験ならびに前述の諸概念は、まったく異なる [2] 種類の相互関係を持っている。すなわち経験は、これらの概念がもともと可能だということを、たんに示すに過ぎず、これらの概念をはじめて可能にするのではない。しかしこれらの概念の方は、経験がもともと可能だということを示すばかりではなく、経験を可能たらしめるのである。
 数学の概念 [円、三角形など] の作図についても、同様なことが言える(脚注4)

 例えば円の作図(線分の一端を中心とする、この線分の運動による)が、円の概念をはじめて可能にするのではない。円の作図はただ、円の概念が可能であることを示すにすぎない。線分が2点間の最短の線だということを、経験(直観)は示すのであって、経験が線分を2点間の最短線にするのではない。
 円が可能だということは(ここでいう円とは、次のような図形である:その図形の中の1点から、図形の境界へ引くことのできるすべての線分の長さが、互いに等しい図形)、分析的に証明することができる。すなわち、ある直観が与えられると([つまり] 一方の端を中心として動く線分である)、私たちはこの直観を任意に想定された概念と比較する。そして、両者が等しいことを見出す。なぜなら、一端を中心として動く線分は、どの位置においても自らと等しいのであり、したがってこの線分は、どの位置でも円の概念(円であることの諸条件)と、等しいからである。

 この同一性を、経験は与えはしない。経験が与えるのは、ただ絶対に表象されるものであり、この表象されるものによって、それ自体としては把握されえないものが(脚注5)(諸形式とカテゴリー)、把握されるのである。

 直観における質料的なものは、直接に対象に関係しているが、この質料的なものが、直観における形式的なものを把握させるのである。この形式的なものとは、あらゆる可能な関係のもとでの直観形式、ならびに純粋悟性概念あるいは、対象とは直接には関係せずに、ただカテゴリーをとおしてだけ関係するところの、思考の諸形式である。そこで当然、次のように主張できる:「すべての悟性概念は、人間に生得的である。なるほど悟性概念が(意識に)現れるのは、ただ経験をきっかけとしてではあるが」。
 判断についても、まったく同様である。その上、判断の本質(Natur)や可能性は、経験からは把握できないのである。したがって判断はそれ自体として、あらゆる経験に先立って可能でなければならない。3本の線分のうち、任意の2本の線分の長さの和が残りの1本より長ければ、その3本から三角形を形成することができる。このことは直観から分かるが、しかし直観がこの事態をはじめて可能にするのではない。この事態そのものが、[直観以前に] すでに可能なのである、等々。
 例えば私たちが、「赤は緑とは異なる」と判断するとき、直観においてまず赤を、次いで緑を表象する。その後、両者を互いに比較し、そこから前記の判断が生じる。しかし私たちはいかにして、この比較を把握可能なものとすべきなのか? この比較は、赤を表象しているときに、また緑を表象しているときに、起きはしないのである。
 「構想力が、緑を表象しているときに赤の表象を再現してくれるのだ」と助言されても、役には立たない。2つの表象は、一緒に1つの表象へと合流できはしない[のだから]。仮に合流できたとしても、まさにそのことによって両者の比較は行われはしない。
 この問題は、選言的判断の場合により明らかとなる。例えば、「三角形は、直角三角形か斜角 [鋭角ないしは鈍角] 三角形かである」。この判断が、直観によってはじめて可能にならねばならぬとすれば、私たちはまず始めに直角三角形を、次いで斜角三角形を直観の内へともたらさねばならない。

 しかしこの判断はどのようにして把握できるのか? というのも、この判断の2つの述語 [直角三角形である、および、斜角三角形である] は互いに両立しないが、しかしまさに主語において、同時に可能だと考えられねばならないのである。したがって経験によっては、前述の概念や判断の可能性は、把握できない。
これらの概念や判断は、すでに悟性のうちにアプリオリに、経験や経験の諸法則には従属することなく、あらねばならないのである。ここで私たちは、思考の秘密に満ちた性質を目にする。すなわち悟性は、思考について悟性が意識する前に、すでにすべての可能な概念や判断を、自らのうちに持っていなければならない。
自らの内に持っているものには(前述したものの外に)、思考形式の規定概念も含めての思考形式(カテゴリー)および思考形式のアプリオリな諸原理(これらの原理は、ある種の人たちが信じたがっているような、たんなる人間の素質ではない。感覚的な表象とは違ってこれらの原理は、最初はぼんやりと、やがて明瞭に知覚されるといったものではないのである。というのは素質や能力等々は、程度は弱くとも現実化する。しかし前記の諸概念や判断は、分割できない統一態なのである [から、程度くても現実化するという事態は生じない])があるのみならず、概念や判断一般すべてがそうである。
なぜならば既述したように、直観はたんに概念や判断が適用される資料を提供するのであり、そのことによってこれらの概念や判断を、意識へと――この意識なくしては、私たちは前記の概念や判断を、使用することはできない――もたらすのである。だから直観は、これら概念や直観の実在性に寄与するというのではない。
したがって以下でも、状況は同じである。[すなわち] 原因と結果の概念は、「ある規定された A が任意に措定されていれば、(A によって)必然的に規定された別の B が措定されざるをえない」という条件を含んでいる。が、この限りでは原因と結果の両概念は、たんに蓋然的である。しかしここで、例えば「熱は空気を膨張させる」(この判断は、たんに「熱が先行し、空気の膨張が後続する」ということを、言おうとするのではない。つまりたんなる知覚ではない。「熱が先行するときには、必ず空気の膨張がそれに後続する」ということを、言っているのである)等々という経験的判断を得たとする。すると私たちは、任意に想定された [原因・結果の] 概念と等しいものを見出すのである。すなわち熱が、規定されたものとして実然的に [assertorisch, カントの判断の様態(蓋然的判断、実然的判断、必然的判断)を参照。『純粋理性批判』B版、95ページ] (任意に)与えられているのである。ここから空気の膨張が、熱によって必然的に規定されたものとして、帰結せざるをえない。そこではじめて私たちは、任意に想定された原因と結果の概念が、可能であることを知るのである。
したがって、経験がはじめてこれらの概念を可能にするのではなく、私たちは経験によって、ただこれらの概念の可能性を認識するにすぎない。それに対しこれらの概念は、はじめて経験的判断を可能にする。なぜなら経験的判断は、これらの概念なくしては考えられないからである。
まさにこのような相互関係が、すべての普遍概念とそれに含まれる特殊概念との間にはある。図形(制限された空間)は、それ自体として可能である。このことを知るためには、私は1つの特殊な図形を、例えば円あるいは三角形を、作図しなければならない。これら [私が作図する] 特殊な図形は、図形一般の普遍的概念によってのみ可能である。なぜならこれらの特殊な図形は、普遍的概念なくしては考えられないからである。しかしこの逆ではない。なぜなら図形は、これらの特殊な規定がなくても、可能だからである。
 カテゴリーなどのような重要な諸概念とそれらの正当な使用については、いくら説明しても詳細過ぎるということはない。私は力が及ぶ限りで、それらを解説しようと努めてきたのではあるが、今少し続けてみよう。

 考がかかわる客観的対象(Objekt)は、概念である、つまり、普遍的な諸規則と諸条件にしたがって悟性が作るところの、対象(Gegenstand)についての概念である。したがって、2つのものが必要である:
1) 思考の質料、すなわち何らかの所与(直観)。この所与によって、前記の諸規則と諸条件は、思考のある特定の客観的対象に適用される(というのは、これらの諸規則と諸条件は、まさに普遍的であるために、客観的対象を規定(bestimmen, 特定)できないからである)。
2) 思考の形式、すなわちこれら普遍的な諸規則と諸条件そのもの。これらがなくては、所与はむろん客観的対象(直観の)ではあっても、思考の客観的対象ではありえない。というのは、思考は判断だからである、すなわち、普遍的なものを個別的なものにおいて見いだしたり、個別的なものを普遍的なもののうちに包摂したりするところの判断だからである。
 さて、概念は直観と同時に生じることができるし、直観に先行することもできる。先行する場合は、概念はたんに記号のようなものであり、概念が表す客観的実在はたんに蓋然的(problematisch)である。そこで概念については、権利問題が存在することになる。すなわち、「これらの記号的概念を直観的なものとなし、それによって客観的実在性を得させることは可能か否か?」
 このことを、例を用いて説明しよう。直線の概念は、2つのものを必要とする。まず、質料すなわち直観(線、方向)。次に、形式すなわち悟性の規則で、これにしたがって直観は考えられるのである(方向の同一性、真っ直ぐであること)。今の場合、概念は直観と同時に生じる。というのは、この線を引くときには、はじめから前記の規則に従っているからである。総合的表現(線の真っ直ぐ)の実在性すなわち記号が表すものの実在性は、総合的概念自体の実在性(質料と形式の間での可能なかぎりの結合 [möglichste Verbindung])にもとづいている。こうしたことが可能なのは、直観ならびに規則自体がアプリオリであればこそである。それは、アプリオリに構成される数学的諸概念、すなわち純粋直観のうちに表される数学的諸概念の場合である。この場合、アプリオリな規則にそって、アプリオリな直観を生じさせることができる。
 しかし、もし直観がアポステリオリであって、私がこの [直観の] 質料に形式を与えて、それを思考の客観的対象にしようとするならば、それは明らかに不当なやり方である。というのも、アポステリオリな直観は、 [認識主観の] 私自身からアプリオリに由来したのではなく、私以外のどこかからアポステリオリにもたらされたのだから、私はこのアポステリオリな直観にたいして、その成立規則を定めることはできないからである。
 さて、記号の表す総合的対象が、直観の総合的対象に先行する場合もある。例えば、悟性が円を概念化するのは、次のような規則ないしは条件を定めることによってである:「円とは以下の図形である。すなわち、その図形内のある一点(中心点)から、図形の境界(周)まで引けるすべての線分の長さが、等しい図形である」。
 この円の規則は、ただ名称の説明であって、つまり私たちは円の規則ないし条件の意味を知るだ  けあって、事態の説明ではないから、こうした規則ないし条件が実現されえるかどうかは分らない。もし実現されえないときには、言葉によって表現されたこの円の概念は、客観的実在性をもたないことになる。この総合的概念は、たんに言葉のうえで存在するだけであって、事態としては見いだされないであろう。そこで私たちは、この概念を未定とし、その客観的実在性をたんに蓋然的と見なす。そして直観でもって、この客観的実在性を満たすことができるかどうかをみるのである。
 幸いなことに、円の概念をアプリオリに(線分の一端を中心とする、その線分の運動によって)直観にもたらす方法は、ユークリッドが(脚注6)実際に案出している。それによって円の概念は、客観的実在性をえている。
 さて、判断一般の形式であるような概念や規則が存在する。例えば、原因の概念である。この概念は、特定の対象に関する仮言的判断(訳注3)の形式をとる。この概念の意味は次のとおり:「もし特定の a が、実全的に(訳注4)措定されると、別の b も必然的に措定される」。そこで問題となるのは、権利問題である。つまり、この概念の客観的な使用は、正当か否か? もし正当ならば、この使用の合法性の種類は、いかなるものなのか? というのは、この概念の使用が、アポステリオリに与えられる直観の対象に関係するときには、この使用は、アポステリオリに与えられる直観の質料に関しては、たしかに正当ではないからである(訳注5)
 では、私たちはいかにしてこの使用を、正当なものにすることができるのか? その答えは、つまり演繹は(訳注6)こうである:私たちがこれらの概念を、直観の質料に直接適用するのではなく、アプリオリな直観の形式(時間)のみに適用し、この形式を介して直観自体に適用することによってである。
 私が、「a は b の原因である」、あるいは「a が措定されると、必然的に b も措定される」というとき、a と b はそれらの質料ないしは内容によってではなく、形式の特定な規定(時間的先後)によって、規定されるのである。つまり a が a であって b でないのは、a が b のもたない質料的規定をもつためではなく(というのも、b がアポステリオリなものであるかぎり、b はアプリオリな規則には包摂されえないのだから)、a が b のもたない形式的規定(先行)をもつためである。
 同じことは、b にもいえる。b は質料的規定によってではなく、a と b に共通な形式(時間)における形式的規定(後続)によって、a とは異なるところのある規定された対象になる。したがってここでは、先行するものと後続するものとの関係は、仮言的判断における前件と後件との関係と同じである(訳注7)。このような手続きによって(訳注8)、悟性は対象一般のみならず、特定の対象を認識することができるのである。
 もし対象を規定するアプリオリな概念がなければ、特定の対象自体を直観することはできはしても、その対象を考えることはできない。すなわち、それはたんなる直観の対象とはなっても、悟性の対象とはならないのである。逆に直観がなければ、対象を一般的には考えられようが、特定の対象についての概念をもたないことになる。
 つまり、ある対象を次のように考えることはできる:「この対象は、それが措定されるときには、別のものも同時に措定されるような対象である。この別のものとは、前述の対象が措定されるときには、それもまたかならず措定されるものである」。しかしこれでは、対象を認識することはできない。つまり、ある特定のものがこの普遍的概念 [すなわち、前記「この対象は・・・ものである」の部分] を含んでいるかどうかを、言うことはできないのである。
 最初のアプリオリな概念がない場合には、私たちは悟性をもたない。次の直観がない場合には、私たちは判断能力をもたない。そして、私たちがこれら2つをもつものの、直観のアプリオリな形式をもたなければ、判断の構成要素(特定の具体的対象において見いだすべき普遍的概念と、普遍的概念を適用することのできる特定の対象)はもっているものの、判断を正当な仕方で行う手段を手にしていないことになる。なぜなら、普遍的概念すなわちアプリオリな規則と、直観のアポステリオリな特定対象とは、まったく種類を異にするからである。
 さて、この演繹によって、すべての困難はいっきょに取り除かれた。が、次のような問いが生じるのではないか:何が判断力(訳注9)をして、
・[a の後には必ず b が続くという] 規則的順序と、[原因の概念という] 悟性の規則自体とが一致するように(よって、a が先行し、b が後続するときには、そしてこの逆ではないとき、判断力は a と b の間に原因と結果の関係を考える)、
・そしてまた、この順序の各々の特定項と悟性規則の各々の特定」項とが(先行するものと原因とが、後続するものと結果とが)一致するように、
考えさすのだろうか? 
 これについては、以下のように答えられよう:確かに私たちには、この一致の理由が分かりはしないのだが、しかしそのために、「事実(facto)」そのものに対する確信が減じるものではない、と。
 このことについての例を、すこし示そう:例えば、「線分は、2点間の最短の線である」という判断においては、悟性はある線を形成するために、自らに2つの規則(真っすぐであること、最短であること)を課する。そのとき、この両規則間には、明瞭に認識される融合(Übereinstimmung)が、存在する。何ゆえこの2つの規則が、一つの主観においてともに存在するに違いないのかを、私たちは理解することはできないにしても、両者が融合する可能性(両者ともアプリオリであるかぎり)を私たちが理解しているかぎり、それで十分なのである。
 そこで、今の場合も同じケースといえよう――私たちは、演繹による権利問題への回答によって、前記の融合を分析的に説明しようとは望まなかったのであり、ただ [2点間の最短は線分であるという] 事実が、直観によって総合的に確かなのであるから、融合の可能性の証明を望んだのである。すなわち、[2点間の最短は線分であるという] 認識を、純粋認識ではなく、ただアプリオリな認識にしようとしたのである。後の「本書全体の概観」[オリジナル版では S. 167-239] を参照(訳注10)

 [アプリオリな認識と純粋な認識、] これら2つの認識の仕方の違いについて、さらに詳しくのべよう。アプリオリな認識とは、普遍的認識であって、すべての個別的認識(訳注12)の形式ないし [個別的直観が成立するための] 条件であり、したがって、これら個別的認識に先行しなければならない。が、個別的認識の条件自体は、個別的認識ではない。
 直観が、すべての個別的直観の形式ないし条件のとき、その直観はアプリオリである。アプリオリな直観は、個別的直観ではなく、またもや個別的直観の条件なのである。例えば、時間と空間である。すべての直観の意識というものは、時間の意識と空間の意識を前提にしている。この時間・空間の意識は、個別的直観を前提とするのではなく、直観一般を前提とする。
 概念がアプリオリであるのは、概念がすべての対象一般を思考するときの条件であって、またいかなる個別的対象も、概念の条件 [概念と対応する対象] ではないときである。例えば、同一性、差異性、対立(Gegensetzung)であるが、a は a と同一である、a は非a と対立しているということである。ここでは、a ということで特定の対象が考えられているのではなく、たんに特定化されえる対象が考えられている。すなわち、同一性や対立を意識するためには、特定の対象ではなく、対象一般が、つまりは特定の対象 [をあらしめるところ] の条件が、特定ということを捨象して考えられた対象が、必要なのである。
 「純粋」とは、もっぱら悟性の(感性ではなく)所産をいう。純粋なものはすべてアプリオリなものでもあるが、この逆ではない。数学的概念はすべてアプリオリであるが、純粋ではない(注14)。私は、円を実際に見なくても(いつ円を見るかということは、私には分からない)、[認識主観としての] 私自身から、円の [存在の] 可能性を認識する。したがって、円はアプリオリな概念である。しかし、円には直観が(この直観は、私がある規則にしたがって、私自身から作りだしたものではない。この直観は、たとえアプリオリであろうとも私のどこか外部から、私に与えられたものである)、基礎になっていなければならないので、円の概念は純粋ではない。
 すべての関係概念は、例えば同一性、差異性、実体、原因等々は、アプリオリであって同時に純粋である。というのもこれらの概念は、なんら与えられた表象そのものではないのであり、それら表象間の考えられた関係に他ならないからである。
 こうしたことは、命題についてもいえる。諸概念から矛盾率にもとづいて必然的に帰結するような命題は(これらの諸概念が純粋かどうかに、注意を払わずとも)、アプリオリである。
命題が純粋なのは、純粋概念から帰結する命題だけである。数学の命題はすべてアプリオリであるが、純粋ではない。これに対し、「すべての結果は原因をもつ」という命題は、アプリオリであって同時に純粋である。なぜならこの命題は、アプリオリな純粋概念(すなわち「原因」。というのも、「原因」は「結果」なくしては考えられないからである。逆もまたしかり。)から必然的に帰結するからである。
 したがって、時間と空間の表象は、アプリオリではあっても(個別的な感性的表象すべてに先行するゆえ)、純粋ではない(なぜなら時間と空間の表象自体、感性的表象に由来するから)。これら2つの表象は、多様な感性を結合して統一するものではなく、これら自体が多様なものであって、単位(Einheit)によって結合されており、また同時にこれら以外の直観すべての形式である。

 この第2章を終えるにあたって、アプリオリな総合命題の可能性について、いささか付け加えておこう。ある客観的対象の、ないしはある総合の、可能性一般についての説明は、2つの意味をもちえる。1つは、規則ないし条件の、意味の説明である。つまり、たんに記号的な [シンボリックな] 概念を、直観的にすることが要求されている。2つめは、意味がすでに知られている概念の、起源に関する(genetisch)説明である。
 [前記の] 可能性についての1つめの説明し方では、例えば色の概念は、生まれつき盲目の人に対しては用をなさないであろう。なぜなら、このような人にはこの [色の] 直観の成立のし方(Entstehungsart)だけでなく、この [「色」という] 記号の意味も説明できないからである。なるほど目が見える人に対しては、「色」の概念は意味を持つし、質料的に直観されるものにすることもできる。が、しかし、この概念の可能性は、蓋然(がいぜん)的である。なぜなら、この可能性の成立のし方は、説明されえないからである。第5章を参照。
 2の平方根というものは、意味を持っている(自ら自身との積が、2になるような数である)。したがって2の平方根は、形式的には可能である。だが、質料的には可能でない。なぜなら、それに見あう客観的対象(特定の数)が、与えられえないからである。今の場合、客観的対象を作りだすための規則や条件は理解できるのだが、この対象そのものは(質料に欠けるため)可能ではないのである(訳注13)
 -a の平方根は、形式的にも不可能である(訳注14)。なぜなら、この数を作りだすための規則自体が、理解されえないからである(この規則が矛盾を含んでいることによって)。
 数学(訳注15)の諸原理の可能性は、もっぱら前述の最初の種類のものであって――つまり、それらの諸原理には直観的な意味を付与することはできる――、2つめの種類ではない。というのも、私が「線分は2点間の最短の線である」という命題を、なるほど理解はしていたとしても(線分を作図することによって)、私にはいかにしてこの命題に到達したのか、分からないからである。

(続く)
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 マイモン自身による脚注(各ページの下部にあったものを、訳者がまとめてここに記載しました):
脚注1) 無限性についての数学的な諸概念を [微分と積分をさすものと思われます]、哲学に導入することに対して、何か正当な反論がありえるとは、私には思われないのである。[とはいえ] これら数学的諸概念自体が、まだなお多くの問題をかかえていることもあって、よく分からない事を、なおのこと分からないものでもって説明しようとしているように、私は見えるかもしれない。
 しかし、私はあえて次のように主張したい:「これらの数学的概念は、実際は哲学に属するものであって、これらは哲学から数学に転用されたのである。偉大なライプニッツは、彼の単子論の体系によって、微分計算の着想へと至ったのである」。
 また、大きさ Größe(量 Quantität)としては考察されていない [= 0] 大きさをもつもの etwas Großes(Quantum 定量)[=無限小] の方が、量を捨象した質よりも、はるかに奇妙ではある。けれども無限なものの概念は、数学においても哲学においてもたんなる理念なのであって、客観的対象を表すのではなく、客観的対象の成立の仕方を表すのである。すなわち、無限なものの概念は、限界概念であって、人はそれに絶えず近づくことはできるが、しかし決して到達することはできない。この概念は、直観の意識が無限に不断に後退することによって、つまり減少することによって生じるのである。

(脚注2) 感性的な表象それ自体は、その微差態と同様に、絶対的な単位 Einheit とか、たんなる任意の単位などではない。ある特定の単位なのである。この単位を連続的に自らに追加することによって、任意の有限な大きさが生じる。
 だが異なる対象のもつそれぞれの単位は、異なるものとして理解されねばならない。そうでなければ、すべての物が、同じ一つの物となってしまうのである。その場合には、諸対象の相違はといえば、それぞれの量的違いだけになってしまうが、そのようなことは誰も認めはしないであろう。
 相異なる単位が(これらは、恣意的には想定されない)、存在しえるということは、数学から見てとれる。公約数をもたない量は、微差態も同様だが、相異なる単位を必然的に前提にするからである。

(脚注3) このことをアナロジーでもって説明するために、まったく同じ y が x にいくつかの値をあたえるような曲線を、考えてみよう(つまり、曲線がその準線(Direktrize)上のいくつかの点で、切断される場合である)。[原文は: wenn die krumme Linie in mehrere Punkte von ihrer Direktrize durchschnitten wird. つまり簡単に言えば、グラフ上に x 軸と平行なある直線(例えば y = 3)を引いたとき、曲線(例えば y = xの2乗)との交点が複数個できる場合、だと思われます。] そして仮言的判断一般の形式を、この曲線の式と比べてみよう。この式では yx の関数であり [つまり、x の値が決まれば、y の値は1つに決まる関係です]、y は特定の値をとる。今の場合、y原因を、x 結果を表している。x も y もそれ自体は規定されていない、つまり変数である。しかし x が規定されると、これによって y も規定される。だがその逆にはならない [つまり、交点が複数個なので、x の値も複数個であって、特定の値とはならない]。
 したがって x の方は、準線の [特定値には] 規定されていない部分として、それ自体規定されてはいないし、また y によっても規定されていない。これに対して、y の方はそれ自体としては、[特定値に] 規定されていない縦軸として、たしかに規定されてはいないが、x によって(すなわち x が規定されるときには)規定される。

(脚注4) ここで作図というのは、経験的な作図であって、この経験的作図は、[例えば] 円を描くという要請(Postulat)によって、すなわち実践的な系(Corollarium)によって、定義に従いながら遂行される。これに対し、構想力においての純粋な作図は、[例えば円の] 図が可能であることを示すのみならず、この図をはじめて可能ならしめるのである。

脚注5) すなわち、関係概念(Verhältnis-Begriff)。

脚注6) 時間と空間が、感性のアプリオリな形式であるときに、運動が、すなわち空間の内での関係の変化が、感性のアプリオリな形式ではないことに、私は理解できない。
 それに、私の信じるところでは、空間の表象は、運動の表象によってのみ可能である、あるいはむしろ、運動の表象と同時にあることでのみ可能である。線は、点の運動によってしか考えられないのである。

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 訳者による注
訳注1) 表題 Versuch über die Transzendentalphilosophie の über が「超える(超克する)」ではなく、「ついて」であることは、ここを参照してください。

訳注2) 原語は Materie です。本書の Materie をすべて「質料」と訳出したのは、
・訳語に一貫性をもたせるためと、
・比較的にポピュラーな岩波文庫版『純粋理性批判』での訳がそうであるためです。
が、マイモンのこの著作では Materie は「素材、材料」という意味が強くなっています。そのような意味合いも汲みながら訳すとすれば、「質料的素材」になります。

訳注3) 原語は、hypothetische Urteile. 「AがBならば、CはDである」という判断です。カント『純粋理性批判』の判断の種類を参照(岩波文庫上巻143ページ。B版では S. 95)。

訳注4assertorisch.「確然的」「正然的」とも訳されます。意味は、「現実に存在している」ということです。やはり、カント『純粋理性批判』の判断の種類を参照してください(岩波文庫上巻143ページ。B版では S. 95)。

訳注5) この1文の訳は、不確かです。原文は:
 denn da derselbe sich auf a posteriori gegebene Objekt der Anschauung bezieht, so ist er gewiss in Ansehung der Materie der Anschauung, welche a posteriori gegeben wird, unrechtmäßig.

 (1) 定動詞 bezieht が後置しているので、その前方の da は接続詞になります。
 (2) da の意味は、その前の denn が理由を表す接続詞だと思われますので、理由を除外すれば、「~の時」です。
 (3) しかし、小学館『独和大辞典』(第2版)では、時の副文を導く da は、過去時称ないし完了時称の文で使用されるとあります。また、相良守峯『大独和辞典』での例文をみても、過去時称の文しか記載していません。
 (4) そこで、テキストの現在時称 bezieht とは合致しないことになります。とはいえ、これ以外の解釈も思い浮かびませんので、あえて拙訳のようにしました。

訳注6) 言語は Deduktion で、カントの法学からの援用をふまえています。拙サイト掲載の quid juris を参照してください。

訳注7) 仮言的判断「AがBならば、CはDである」で、前半の「AがBならば」を前件、後半の「CはDである」を後件といいます。

訳注8) 原語は Verfahren. 「仕方、やり方」という意味ですが、マイモンもカントにならって法律用語として使っていると思われるので、「手続き」と訳出しました。

訳注9) 原語は Beurteilungsvermögen で、カントの「判断力(Urteilskraft)」と同じだと思われます。カントによれば、「判断力の働きによって対象は、概念のもとへ包摂される」(『純粋理性批判』、B版304ページ。岩波文庫では、上巻328ページ)。
なお、マイモンのこのあたりの説明は、カントに則っています。少し長くなりますが、カントから引用しておきます:

「思考は、与えられた直観をある対象に帰する行為である。このような直観がなければ、[認識の] 対象はもっぱら超越論的なものとなり、悟性のもつ概念は、超越論的にしか使用されない。すなわち、多様性一般の悟性的統一である。
「さて、純粋カテゴリーのうちでは、私たちに可能な唯一の直観であるところの感性的直観がもつすべての条件は、捨象されている。したがって純粋カテゴリーによっては、いかなる対象も規定されない。たんに対象一般についての思考が、いろいろな様態にしたがって表明されるだけである。
 「さて、概念の使用には、判断力の働きも必要である。この働きによって、対象は概念のもとに包摂されるのである。したがって、何かが直観のうちに与えられることが可能である [=対象が存在している] という、少なくとも形式的条件が、必要なのである。判断力のこの条件(図式(Schema))を欠くと、すべての包摂がなくなってしまう。というのも、概念のもとに包摂されるものが、何もないからである。
 「したがって、カテゴリーのもっぱら超越論的な使用は、実は [何かを認識するための] 使用ではないし、また特定の対象を、そしてまたたんに、形式上は、特定されえる対象をもっていないのである。・・・」(『純粋理性批判』、B版304ページ。岩波文庫では、上巻328ページ)

訳注10) Meiner 社の哲学文庫版の刊行者である F. Ehrensperger 氏の「刊行者の注記」の 24 によれば、同版の 95-97ページに該当します。後日、翻訳の予定です。

訳注11) 俗に、「直線は、2 点を結ぶ最短の線である」と言われます。しかし、すくなくとも義務教育までの内容については、正確な表現を用いることが文筆者の義務です。そこで、現在の日本の中学校数学の教科書では、直線は無限に延長しているもので、線分とは明確に区別されていますので、「線分」と訳出しました。なお、原語は eine gerade Linie です。

訳注12)「個別的(besonder)」は、従来は「特殊的」と訳されることも多かったようです。しかし、哲学・論理学の翻訳語としての「特殊」は、あまりにも本来の日本語の「特殊」とは意味が懸隔しており、据わりの悪いジャーゴンとなっています。そこで拙訳では「特定の」ないし「個別的」を文脈に応じて用いました。

訳注13) マイモンは18世紀末の通念にしたがって、有理数のみを実在的な数と考えています。
訳注14) マイモンは、a を正の数だと想定しています。
訳注15) マイモンの念頭にある数学は、古典的数学(私たちの中学・高校数学)です。


[続く]
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