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『超越論的哲学についての試論』内の、
マイモン自身による「注記と説明」です
。 v. 1.0.7
    この著作で簡略に述べたいくつかの個所についての
                     注記と説明

                   言葉の乏しさと、事物の新規さのために
[この注記を書く次第である――との意味。ルクレチウスの詩『物の本性について』第1巻 139 行、ラテン語原文からの引用。]



 この著作を書き上げたあとで、読み直してみると、長々しく書きすぎた個所もあれば、簡略化しすぎた個所もあることに気づいた。前者に関しては私の思うに、拙著が扱ったような論題については、少しばかり長々しく論じたところで、またさまざまな観点や関連において提示したところで、内容的に過大だというわけはないであろう。また、こうした欠点は拙著の完全な改訂によって、取り除くことができるであろう。これを(少なくとも今は)なしがたいにしてもである。
 けれども後者の簡略のしすぎに関しては、このために以下の注記を付け足さざるをえない。これによって、簡略すぎた個所を説明し、完全に理解できるものにしたと思う。
 したがって、私は自らの注解者というわけであるから、自分の考えを理解したことを、自負できるというものである。このことは、私の錯覚でなければ、諸般の事情からして(pro statu rerum)、著者の少なからぬ功績とみなすべきであろう。[つまり、当今は理解もせずに、他人の著作を批評する人が多い、との意味だと思われます。]


                   注記と説明

オリジナル版 2 ページの注) 「数学は構成によって、その諸対象をまったくアプリオリに規定する・・・」
 数学の対象は、アプリオリな規則や条件にしたがって規定された、時間と空間である。時間と空間それ自体は、つまり個々の諸規定を捨象したものとしては、なるほど(後述するように)アポステリオリな直観の対象がもつ、アプリオリな形式である。しかし、時間と空間は(それら自体が直観であるかぎり)数学の諸対象の質料(Materie(訳注1)である。したがってこれら諸対象の質料は、アプリオリである。
 諸形式、つまり諸規則ないし諸条件自体は、たしかにアプリオリである。というのは、諸規則や諸条件は与えられるのではなく、ただ考えられることができるのであるから。(戻る)


    論

オリジナル版 3 ページの注)「次のことが問題となる:アプリオリな純粋認識としての哲学は、いかにして可能であるか?」カントによれば「形而上学はいかにして可能であるか?」
 応用認識としての哲学が可能であるということは、理解しやすい。すなわち私たちは、普遍的な経験法則を(これらは、経験的対象に関するものであるが)もっている。これらの法則は、私たちが帰納法を用いて導出したものである。私たちはこれらの普遍的法則のもとに、個別的な経験事例を包括する。それによって、<存在するものや起こることの理由>を述べることができるのである。すなわち、哲学することができる。
 しかしながら、アプリオリな純粋認識(すなわち、悟性が認識の形式のみならず質料も、自らのうちから生じさせるような)としての哲学は、いかにして可能であろうか? というのも悟性は、規則や条件を考えることができるだけなのであり、それらに従って何かを自らのうちから作り出すことはできないのだから。
 もし哲学が、実際の reell 対象ではなく、単に論理的な対象にかかわるのであれば、これによって哲学は論理学になってしまうであろう。そうであれば哲学は、用をなさなくなる。つまり、哲学は個々の経験的な対象には、適用できなくなるのである。というのもその場合には、特定の形式をまさにある種の対象へ――他の種類の対象ではなく――適用する根拠を、私たちは持たないからである。なぜならこの特定の形式は、すべての対象に区別なく適用しえるからである。
 その上、この特定の形式自体の実在性も Realität、疑わしいものとなろう。例えば、原因と結果の関係にある両者という考えは、矛盾を含んでいないというだけでは、この因果関係の実在性を証明するためには、十分でない。したがって私たちは、原因と結果の両概念を、つまりは特定の経験的対象を、仮言的判断の形式のもとへ包摂しなければならないだけでなく、この形式自体を疑わねばならないことになる。[Wir werden also nicht nur die Begriffe von Ursache und Wirkung, d. h. bestimmte Gegenstände der Erfahrung, der Form der hypothetischen Urteile subsumiert, sondern auch diese Form selbst bezweifeln müssen. この文中の subsumiert は、subsumieren の誤りだと思われます。]
 したがって哲学は、たんなる論理的対象にかかわるのではないし、アプリオリな対象(数学のような)や、アポステリオリな対象(自然学の対象のような)にかかわるのでもない。するとすべての対象が、不適合のように思われる。しかしよく考えてみると、なお一つ残されたものがある。すなわち、哲学は超越論的な対象にかかわるのである。つまり、それらなくしては実際の対象一般が考えられないところのものに、つまり時間と空間にかかわるのである。この両者は、アプリオリな対象の質料を形成し、またアポステリオリな対象の形式を形成する。両者の客観的な実在性自体も、このことに基づいている。なぜなら両者なくしては、実際の対象一般が考えられないからである。
 例えば、私たちは経験的な対象において、仮言的判断の形式 [a が措定されると、必然的に b が措定される] を見いだす。つまりこの形式によって、その経験的な対象を考えるのである。これによって、この形式自体が客観的な実在性を得るばかりでなく、経験的対象の時間規定へのこの形式の関係によって、この形式の使用そのものが、正当であると分かるのである。が、このことは後ほど示そう。(戻る)


オリジナル版 9 ページの注)「ときには、彼についての注釈も加えたい・・・」
 すべての誤解を避けるために、こうしたことに関して私の世界観を表明しておきたい。つまり、私はカントの『純粋理性批判』を、ユークリッド幾何学がその分野におけるのと同様、ほとんど反論し得ない模範的なものだと思っている。この私の主張を確証することにおいて、私はカントの敵対者すべてと争う用意がある。しかしながら他の面から考察するときには、私はこの『純粋理性批判』の体系は、不十だと思うのである。
 私たちの [内の] 思考する存在者 unser denkendes Wesen(それが何であれ)は、自分が知性界 intelligibele Welt [=英知界。感性によってではなく、知性(悟性・理性)によって把握される世界] の一員だと感じている。たしかにこの知性界は、またこの思考する存在者自身も、この存在者の認識の対象ではない。しかし感性的対象さえもが、この存在者に知性界を指し示すのである。
心の内に諸理念が存在することは、[これら理念の] 何らかの使用を、必然的に示している。しかし私たちは、感性界においてはこの使用を見いだせないので、知性界にこの使用を求めざるをえない。知性界では、悟性が形式自体によって、前述の諸理念がかかわる諸対象を、特定するのである。――したがって、これらの対象に、また悟性がこれら対象を考える仕方に、私たちの思考する存在者が満足することは決してない。あたかも伝道者ソロモンが、「魂は、決して完全に満足させられることはない」と語ったように。
したがって思考する存在者は、一方では自らが感性界へと制限されていることを知っており、他方ではそれに対し、
・いつもこの制限を押し返そうという抗しがたい欲求を、
・そして感性界から知性界への移行を見いだそうという(これは、政治家たちがなんと言おうと、東インドへの道を案出するより重要である)抗しがたい欲求を、
自らのうちに感じているのである。
 かりにこの移行を、思考する存在者が見いださないとしても、この移行をたえず探すことによって、別の真理を(重要性では劣るにしても、なお十分重要であり、探すに値するような真理を)見つけることもできよう。ちょうど錬金術師が、金を探していて、ベルリン青 [濃紺色の顔料] を見つけたようにである。読者におかれてはこのような視点から、この著作で私が意図したところを判断していただきたい。そして私が約束しなかったことは、要求しないでほしい。
 党派心、熱弁、さもしい人たちを反論しえない体系に向かってけしかけること――こうしたことは、私には関係がない。私は真理を探究したい。私がそれを見いだしたかどうか、またどれほどの程度まで、といったことは、他の人の判断にまかせよう。なるほど個々の点では、私はカント氏とは考えをことにしている。しかし肝心な事柄に関してどうであるかは、すでに述べたとおりである。(戻る)


   1章

オリジナル版 12 ページの注)「したがって感性の形式は、感性的な対象に・・・」
 感性の形式と悟性の形式は、互いにいわば対置している。感性の形式は、この形式をもたずに認識能力の外部にあるものを(感覚における実質的なもの das Reelle)、認識能力の内部に現前させる。
 これに対し悟性の形式は、この形式をもたずに、たんに認識能力の変容 Modifikation として認識能力の内部にあるものを(直観)、認識能力の外部へ対象としてもたらす。(戻る)


オリジナル版 13 ページの注)「赤色が認識能力に対して、与えられるとしよう・・・」
 認識の質料と形式が何であるかということ、これはたいへん重要な問いである。認識のこの2つの構成要素の唯名的定義(Nominaldefinition)[単に別の語に言い換えるにすぎない定義の仕方。(広辞苑)]は、こうであろう:対象そのものと考えられるものにおいて見いだされるのが、質料である;対象そのものにではなく、個々の認識能力の性状にその根拠をもつのが、対象のもつ形式である。
 しかし問題は、対象そのものに根拠をもつものが、また対象とかかわる認識能力に根拠をもつものが、何によって認識できるのかということである。私たちに、認識能力の外部にある対象そのものが分かっているのであれば、またこの認識能力そのものが分かっているのであれば、私たちは、対象そのものに固有なものや、対象が認識能力から受けとったものを、知ることができるであろう。しかしこれは不可能であるから、これでは問題は解けないままである。
 例えば、丸い容器に入ったワインが丸い形をしているのは、容器のためであることを、私たちは知っている。というのも、ワインがその本質からして丸い形ならば、容器の外にあってもやはり丸い形でなければならないが、そうはならない。これに対し、容器の方はワインが入ってなくとも、やはり丸い形である。そこでワインそのものを、たとえそれが容器外にあったとしても、私たちは質料と名づける。そしてワインが容器から受けとった丸い形は、形式と名づける。
 しかし、もし私たちがワインを、容器の外では見たことがなかったとしたら――容器もワインと離れては見たことがなかったとしたら――、そのときにはワインそのものが丸いのか、あるいは容器のせいで丸いのかを、私たちはどのようにして知るのだろうか? まさにこれが、問題となっていることなのである。
 つまりは質料を形式から区別できるのは、ただ特殊性と普遍性のメルクマールによってである。例えば、私が空間の内に赤い対象を見たとする。そして、空間は赤い対象においてだけでなく、私が知覚する他のすべての感性的な対象においても、見いだされることに気づく。それに対して赤い色は、ただこの対象においてしか見いだされない。ここから、赤い色はその対象そのものに基づくのであり、空間は、すべての対象一般にかかわる認識能力に基づくだけにちがいない、と推測するのである。
 しかしなぜ「すべての対象一般に」なのか? 将来いつか、私が空間の内には(あるいは時間の内にも)知覚しないような対象が、見いだされるかもしれない。だから私たちは、これらの表象から帰納法によってアポステリオリに導出された普遍性を、アプリオリな必然性へと高める根拠を、持ってはいないのである。
 このことは、矛盾を犯すというのとは違う。矛盾の場合には、「矛盾しているために考えることができない」、ということを私たちは確信しているのである。なぜなら、矛盾していて考えられないということは、[記述に使われている] 記号(Zeichen)そのものから [例えば、言語や数学記号の表記自体から]――その記号が何を意味しているかには関わりなく――、私たちにはすでに分かっているからである。
 しかしながら帰納法の場合には、私たちに分かっていることといえば、ただ、「私たちは今にいたるまで、時間と空間をともなわない直観をもったことはない」、ということだけである。「時間と空間をともなわなければ、直観をもてない」ということではない矛盾の場合には、私たちが認識するのは、不可能性である。帰納法の場合には、たんに可能性を認識していないのである。
 この「可能性を認識していない」ということは、悟性の諸形式の場合も、同様である。カント氏はたんに [すでに起きた] 事実を前提とする。しかし彼は事実 [の必然性] を証明しはしない。したがってこれらの諸原理 [=悟性の諸形式] は、たんに蓋然的なままであり、必然的だとはいえないのである。(戻る)


オリジナル版 15 ページの注)「というのは、時間と空間はそれ自体としては、多様なものを・・・」
時間と空間のそれぞれがもつ、異なる諸規定は(先行するものと後続するもの、右側と左側、等々)、多様なものを形成するのではない。というのもこれらの規定は、一つの関係概念の異なる項にすぎないからである。したがって、それぞれは互いに相手を欠くとき、考えられることができないのである。(戻る)


オリジナル版 16 ページの注)「しかし、AとBがまったく異なっていれば・・・」
 私がここで考えている「相違性の意識 [=本文中の、相違するという意識]」というのは、「対象そのものの意識」と同時に生じる意識である。つまり、「各々の直観そのものの意識(das Bewusstsein einer jeden einzelnen Anschauung an sich)」である。
 というのは、「事物自体の意識(das Bewusstsein an sich)[=対象そのものの意識]」が、すでに先行しているのであれば、これらの事物がまったく異なっていても、これら事物の相違性の意識にたっすることは、確かにできる。例えば、私たちがある物体の密度と重さを知覚して、そのとき、密度と重さはまったく異なっていることに、気づいたとする。しかしこのように気づくのは、私たちがすでに以前に、密度そのものについての、また重さそのものについての概念を得ていたからである(異なる密度の物体どうしを、あるいは異なる重さの物体どうしを、比較することによって)。こうしたこと以前には、まったくの相違性については、概念を得ることができないのである。なぜならまったくの相違性は、前述したように、客観的な単一性 [統一性] の欠如だからである。(戻る)


オリジナル版 17 ページの注)「同じ場所にあるということは、空間の規定ではなく・・・同時に存在することは・・・」
 つまり、同じ場所にある2つの物は、その相互関係によって、空間のうちにあるのではない。2つの物は、それらの外にある第3の物との関係によって、空間のうちにあるのである。同様に、同時にある2つの物は、その相互関係によって、時間のうちにあるのではない。だが、2つの物と同時にはない第3の物との関係によって、時間のうちにあるのである。(戻る)


オリジナル版 18 ページの注1)「そしてこの直観は概念を前提とする・・・」
 つまりこれは、一般的にいってである。同じ対象においてではない。このことについては、後の注記で説明しよう。(戻る)


オリジナル版 18 ページの注2)「ある特定の物どうしが相違していることの感性的表象は・・・」
 バウムガルテン [A. G. Baumgarten, 1714-1762] によれば(『形而上学』、第 33 節)、2つの物が異なるのは、一方の物にはある規定が、他方の物にはないときである。この説明によれば、相違というものは1つの特殊な形式 [=全体に共通する形式ではなく、個々の形式] などではないが、少なくとも部分対置ではある。事物の相違についてのこのような説明も、私たちがこれら事物について、はっきりとした概念をもっているときには、あるいは許容すべきかもしれない。だが、明確な概念そのものについては、このような説明は用いることはできないのである。
 なぜならば、一方の物にはある規定が、他方の物にはないかどうかを見るために、概念を概念規定のうちへと解消させることは、できないからである。物Aが a と b の2つの規定をもつものとする。物Bはこれに対し、a の規定だけをもつ。するとAは、AはもつがBはもたない b の規定によって、Bとは異なっている。しかし問題は、「a および b という規定自体は、何によって互いに異なるのか?」ということである。(というのも、もし a と b が異ならないとすれば、これらによって規定されているAとBを、互いに区別することはできないからである)。
 ここでは、前述のバウムガルテンの説明は、役に立たない。なぜなら私たちは a と b の規定性を、単純なものとして(als einfach)理解しているからである [つまり、これらの規定性が、構成要素からなるものとは考えない。例えば、a=c+d, b=c などということはない]。したがって、私たちは当然、「相違性は、ここでは1つの特殊な形式である」と、理解しなければならない。
 一様性(Einerleiheit)という形式は、論理的対象に、すなわちある非特定の対象にかかわる。というのは、すべての対象一般は、自己自身とは一様なのであるから。それに対し相違性の形式は、ただ実際の対象にかかわる。というのは相違性の形式は、特定ができる対象を前提にするからである(論理的対象は、論理的対象から、すなわち自己自身から、異なっていることはできない)。したがって、一様性の形式はすべての思考一般の形式である(また論理的対象の形式である)。これに対して相違性の形式は、実際の思考すべての形式である。だから超越論的哲学の対象である。
 さて私が主張したいのは、「個々の感性的な対象にかかわっている空間についての、感性的な表象は、すなわちそのような空間の直観は、これら諸物 [感性的な対象] の相違性についての、感性的図式ないしは像である」ということである。互いに異なるすべての感性的対象にかかわっている空間の(このような空間は、本来空虚な空間であるが)直観は、諸物一般の相違性の図式である。この図式という形式が、感性的に表象されるのは、ただ、この形式が純粋には表象されえないときである。つまり、この形式がかかわる直観が、一種な( einartig)ときである。これとは逆に、この形式が多種の(verschiedenartig)いくつかの直観にかかわるとすれば、この形式は純粋に表象されえるのである。
 一種な物体の例として、水をとりあげてみよう。私が水を空間のうちで表象すると、水自体には諸部分の相違がないことに気づく(なぜなら、水は一種だから)。相違を取りだすには、推理に頼るほかはないのである(岸にある諸対象への、水の諸部分の関係によって:例えば、「異なる諸対象へ関係するものは、それ自体が多種の [異なる部分から形成されているもの] である。ところで、今のケースでは、云々」といったように、推理することによって)。したがって、相違性のこの感性的な表象が、相違性の概念の図式である。すなわち、直観としての空間である。
 これに対して、私がただ異なっている物を表象すれば(これらの物のうちのどれも、それ自体としては、同じ種類の部分だけで形成されているのではない)、たんに相違性の純粋概念をもつだけであり、前記の図式はもたない。つまり、概念としての空間をもつのであり、直観としての空間ではない。ここから分かることは、「直観としての空間は、感性の形式そのものであるにせよ、概念としての空間は、すべての超越論的な認識一般の形式である」、ということである。
 時間についても、同じことがいえる。ただし、時間は私たちの自我に関する規定にかかわるのであるが。(戻る)


オリジナル版 19 ページの注1)「絶対的な考え方と相対的な考え方の区別は・・・」
 すなわち、空間、位置、運動、等々は、それらの本質からすれば、たんに相対的なものである。たとえ私たちが、それらを絶対的なものとして考えようとも、それらの本質は変わらない。このような私たちの考えは、諸条件の完全性についての理念なのである。すなわち、諸条件の表象の無条件性についての理念である。したがって、たんに主観的な原理なのである。(戻る)


オリジナル版 19 ページの注2)「その上、構想力・・・」
 感性や構想(Einbildung, 想像)などの作用は、完全性では劣るにしても、まさに悟性や理性の作用であるということ、ただこの仮定ののもとでのみ、数学の明証性は説明できるのであって、この仮定なくしては、説明はできない。このことについては、後ほど説明しよう。(戻る)


オリジナル版 21 ページの注)「直観としての時間と空間は・・・(この想定された単一性に関して、そしてまた、この総合の常に可能な続行の点で)・・・」
 「想定された単一性 [単位]」は、この単一性の有する部分に関して(この部分を [またさらに] 単一性と見なすと)、数多性とも見なしえるのである。他方ではまた、想定された数多性は、単一性とも考えられるのである。そしてこの単一性を、連続的に自らに付け加えていくことによって、また別の数多性が生じることになる。(戻る)


オリジナル版 24 ページの注)「実体と付随性のカテゴリーをもたない時間規定は・・・」
 時間は変化を前提とする。変化は、不変(Beharrlichkeit, 堅持)と変移(実体と付随性)を前提とし、またこれらは特定の対象を前提とする。(戻る)


オリジナル版 30 ページの注)「『表象』という用語は・・・」
 本来の意味での表象は、ある総合(Synthesis)の一部をその総合の観点から再生することである。この総合の意識に達する以前には、この総合の各部分の意識は、表象ではなくて、表現(Darstellung)なのである。なぜなら、そのときには総合は、自ら自身にしか関係しないからである。だから総合のすべての部分の完全な(vollständig)意識は、したがってまた総合自体の完全な意識も、表象ではなくて、(悟性の)事物自体の表現なのである。
 注意しなければならないことは、総合の構成要素 [=部分] についての原初的な意識は、構成要素が総合に関係づけられていないとき、完全な総合の意識と同じく、たんに理念だということである。つまり、この原初的な意識とこの総合の意識は、それぞれある総合の限界概念なのである。総合なくしては、意識も可能ではないということによって、完全な総合の意識は自らの内に、無限性を含んでいる。したがって、制限された認識能力にとっては、完全な総合の意識は不可能なのである。
 私がここで考察しているのは、ただ諸理念のうちの最初の種類である。すなわち、この最初の種類の理念より、意識は始まる。なぜなら、私たちのうちのこの種の理念の存在は、すべての特定の意識より以前に、措定されねばならないからである。
 これに対して、別の種類の理念へは、私たちは決して到達することができない。だから私たちは、事物の認識を中間から始めて、再び中間で終わるのである。このことは例えば、数の体系にしたがって行う計算においてと同様である。つまり数の体系では、単位についての同じ諸規則にしたがって、伸張している(少数によって)大きさの前方へも後方へも、私たちは進むのである。すなわち、より大きい単位もより小さい単位も、私たちはつねに想定することができる。というのも、10 まで数えた後は 10 を単位とみなして、またこの単位を 10 回数えて 100 に至り、そしてまた、等々。つまり、つねにより大きい単位を、私たちは考える。
 あるいは、私たちは後進して、0.1 や 0.01 等々を単位とみなす。つまり、つねにより小さい単位も考えるのである。絶対的な単位は(純粋算術で考察されるような)、理念であって、直観のうちで(直観の形式は時間と空間であり、これらは無限に分割できる)表現されることはできないのである。
 こうした事情は、ここでの論点にも共通する。事物の意識において絶対的に最初のものは、理念そのものであって、私たちがこの理念へ到達するのは、意識を無限に減少させることによってである。すなわち、直観において到達するのでは決してない。
 
 さらに私が述べたいのは、2種類の無限小があるということである。すなわち、記号的な(symbolisches)無限小と直観的な無限小である。
 記号的な無限小が意味しているところの状態へは、ある量(Quantum)を絶えず近づけていくことはできる。しかし、この量がその状態に達することは、量であることをやめることなしにはできないのである。したがって私たちは、記号的な無限小をこのような状態のものとして、ただ記号的に考察できるだけである。
 これに対して、直観的な無限小が意味しているすべての状態一般に、量(Quantum)は達することができる。ただし、無限に小さいといっても、量がまったく無くなるということではなく、規定された(bestimmt)量は無くなるということである。
 このことを、実例でもって説明しよう。2本の平行線が作る角度や、コサイン 90 度等々は、記号的な無限小の種類である。なぜなら、「2本の平行線が作る角度は、無限に小さい」と私がいうとき、これは次のことを意味しているからである:「[交わっている] 2本の直線が、最初の位置から接近すればするほど、この2本の直線がつくる角度は小さくなる。このような事態は、2本の直線がこれ以上は接近することができないほど、最初の位置から遠ざかるまで続く。そしてこの状態では、角度は無限に小さくなるが、しかし角度ではまったくなくなっている」。
[以下の文章を読むときの参考のために:
cos90°= 0 です。 
また、y = f (x) のとき、⊿x は x の増分を表し、それが限りなく 0 に近い時には、dx と表します。y の増分は ⊿y で、限りなく 0 に近い時には dy です。
⊿y / ⊿x (すなわち、⊿y : ⊿x)は、 f (x) の微分を表します]。

 また私が、「コサイン 90 度は無限に小さい」というときも、これは次のことを意味している:「角度が大きくなればなるほど、角度のサインは大きくなり、コサインは小さくなる。このようなことは、この角が 90 度になるまで続くが、そのときにはコサインは無限に小さい。すなわち、コサインではなくなっている」、等々。
 このような、ある量が決して達することのできない状態を、それにもかかわらず取りあげるのは、これらの状態が限界概念だからである。つまり、ただ記号的に、無限に小さいものだからである。
 これに対して、ある大きさの微差態が意味するのは、大きさが大きさではなくなる状態ではない。それが意味するのは、大きさが達することのできる、区別のないそれぞれの状態である。すなわち、規定されえるが、規定されていない状態である。
 それゆえ私が、「dx : dy = a : b」だと言うとき、その意味は、「すべての大きさを無くした x が、すべての大きさを無くした y に対し、かくかくの比の関係にある」ということではない。なぜなら、「無に対する無」は大きさの関係をもちえないからである。そうではなく、前述の比が意味するのは、「xにはいかなる大きさ、あるいは小ささを想定してもよい(xがおよそ大きさをもつかぎりは)。するとこれらの大きさ間の等式(Gleichung)からは、常に『x : y 等々』が帰結する」ということである。
 したがって私はここでは、言いえるいかなる小ささよりもさらに小さい(omni dabili minus)x を想定している。そこから「dx : dy等々」が、帰結するであろう。(私見では大きさというのは、それより大きいものか小さいものを、考えることのできるものなのである。したがって、言いえるいかなる大きさよりもさらに大きいものや、言いえるいかなる小ささよりもさらに小さいものも、すなわち、無限に大きいものや無限に小さいものも、大きさなのである)。
 記号的な無限は、たんに数学者たちの発明にすぎないのであって、それはこの無限によって、彼らの諸定理に普遍性を持たせるためなのである。例えば数学者たちは、角ないしはコサイン一般(その大きさは随意である)についての定理を証明したときには、彼らはこの定理を、角やコサインが大きさをもたない場合にも適用するのである(新しい真理の発明においてのこうしたやり方は、何かの効用をもたらすのかということについては、今は問わないことにする)。
 これに対して、実在的な無限小は、確かにたんなる形式であり、対象として構成されることはできないが、すなわち直観のうちに現れることはできないが、しかしそれ自体が対象として(直観の述語としてだけでなく)考えられないということでは決してないのである。例えば純粋数学においての絶対的な単位は、この種の無限小である。この絶対的な単位は、何らかの直観の形式を持つことはできない(なぜならすべての直観は、その形式である時間と空間のために、無限に分割可能なので、絶対的な単位は持ちえないからである)。したがって絶対的な単位から、絶対的に規定された対象が、直観の形式において生じてくるということはない。しかしながら絶対的な単位は、純粋数学自体の対象としては考察されるのである。というのは、この絶対的な単位をより減少させることはできなくても、増加させることはできるからである。

 このようなことは、今問題とすることについても当てはまる。ただ互いの間に(それぞれが第3の大きさとの間にではなく)比率(Verhältnis) があるような、2つの大きさ(ある量)が考えられる。この比率は、例えば無理数の値(Irrationalgröße)[例えば、正方形の一辺と対角線の長さの比率などを、指すものと思われます] のように不変な数比ではなく、ただ一般的な関数関係であり、2つの大きさの方が変われば変化するものである。この2つの量は無限小を意味しており、特定の大きさではまったくない(2つの量が大きさではあることは、2つが相互間に一般的な関数関係をもつことからして、確かである)。
 2つの大きさについてのこのような考え方は、正当であるだけでなく、つまり、客観的な実在性をもつだけでなく、2つの大きさ間の新しい比率を発見するためにも、大変有効である。2つの大きさが相互間で一般的関数関係にあれば、一方の大きさが特定値をとるときには、他方も特定値をとることになる。すなわち、2つの大きさは相互間で数比をもつのであり、このことによって2つの大きさは、変化するごとに、そのつど数比をもつのである。
 そして直観において明らかになるのは、それらの大きさの一つは、第3の大きさとの間に [も]、そのつどごとの比率を持たざるをえないことである。そして、これら2つ [すなわち、元の2つの大きさのうちの一つと、第3の大きさ] のうちの一方の大きさ [すなわち、元の2つの大きさのうちの一つ] は、すでに規定されているので、このことによって第3の大きさもまた、規定されることができる、等々。

 形而上学的な無限小は、実在的である。というのは、質は確かにすべての量から抽象されて、それ自体考えられえるからである。このような考え方は、権利問題(quid juris?)を解決するのにも役立つ。それというのも、純粋悟性概念すなわちカテゴリーは、直接には決して直観に関係せず、ただ直観の要素に――この直観の要素は、直観の発生の仕方についての理性理念である――関係するからである。そして、この直観の要素を介して、直観自体へと関係するのである。
 私たちが高等数学において、それぞれ異なる大きさの微差態から、これら大きさ間の比率そのものを見出すように、悟性も同じようにまた(むろんよく分からない仕方ではあるが)、異質の微差態間の実在的な関係から、これらの質の実在的関係そのものを見出すのである。
 そこで人が、「火は蝋(ろう)をとかす」と判断するときには、この判断は、直観の対象としての火や蝋にではなく、それらの要素に関係しているのである。それらの要素は悟性によって、原因 [火] と結果 [蝋] の関係において、考えられるのである。
 つまり、私見によれば悟性は、直観における特定の対象間の普遍的関係を考える能力を持つだけでなく、関係によって対象を規定する能力をも持つ。したがって悟性は当然のことながら、さまざまな諸関係をアプリオリに関連づけることができるのである。このことはちょうど、例えば算数において、悟性が一と多についての普遍的な関係から、特定の数比 (Zahlenverhältnisse)を見出し、その後で悟性が、この数比に別の比率(Verhältnisse)を関連させるのと、同様である。[この算数の例の意味は、訳者には不明です。] これ以上は、私にはこの件について説明のしようがない――  (戻る)


オリジナル版 34 ページの注)「したがってこの三角形は、作図されるすべての場合において、すでに生じたものとして悟性によって考えられてはならず・・・」
 つまり悟性は、三角形の大きさについては無規定に考えるのである。これに対して構想力は、三角形の大きさを規定してしか表象できない。したがって構想力は、規定された直観自体を持つ。しかし悟性は、この直観の規則ないしは発生の仕方を、対象とする。 (戻る)


オリジナル版 35 ページの注)「悟性がある線を考えようとすれば、悟性は思考においてその線を引くしかない。だが人が直感においてある線を表そうとすれば、その線をすでに引かれたものとして、表象するしかないのである・・・」
  悟性における線の概念のうちには、規定された量というものは含まれていない。そこで悟性が、線を規定された量のもとで考えようというときには、悟性はまず構想力の助けでもって線を引かねばならない。
これに対して直観された線は、すでに規定された量をそれ自身が含んでいる。そこでこの点では、構想力がなすべきことはないのである。 (戻る)


オリジナル版 36 ページの注)「私の説明では、純粋概念とは・・・」
  [前記の引用個所から、オリジナル版で] 37ページの終わりまでは [「・・・直観なくしては考えられない。第 3 章を参照。」まで]、形式の概念の解説である。この形式の使用については 38 ページで説明される。これらは本来は 56 ページへの注記であるが、誤ってここに来てしまった。 (戻る)


オリジナル版 38 ページの注)「またその上、これら諸形式の可能性も把握できるものではない・・・」
  総合命題の可能性は、ただこの命題の現実性によって(この命題の現実の使用によって)のみ、示すことができる。例えば私が直線を作図する以前でも、つまり直観のうちで描く以前でも、直線が2点間を結ぶ最短の線だと考えることはできる。なぜなら直線であることと、2点間を結ぶ最短の線であることは、互いに矛盾しないからである。
 しかしその時、この直線は最短の線に他ならないと、現実に考える根拠はないのである。なぜなら、直線であることと、最短の線ではないことは、矛盾しないからである。その上、直線を詳しく解明すると、「直線は2点間を結ぶ最短の線である」という命題が、実は矛盾を含んでいたということになるかも知れない。けれどもこの命題が、現実の作図において持ち出されることによって、この命題は矛盾を含まないのみならず、客観的な根拠をも持つということが、明らかとなるのである。 (戻る)


オリジナル版 39 ページの注)「これは悟性自身が、経験命題のためにそこへと持ち込んだたものなのだが・・・」
  規定された対象ではなく、規定されえる対象に関する判断の形式は、たんに主観的な根拠を持つだけで、客観的根拠は持たない。(規定されえる諸対象は、たんにさまざまに異なった種類のもの、実際の対象一般であって、これやあれやの特定の対象と考えられるべきではない)。
 したがって、悟性が客観的形式のために付け加わることによってのみ [原文は:Nur dadurch also, daß der Verstand zu diesen objektiven Formen hinzu tut,]、悟性は諸対象やそれらの関係を、互いの間で考えられる。つまり、経験命題を作れるのである。 (戻る)


オリジナル版 40 ページの注)「可能な対象は区別なくすべて、何かの原因でありえる・・・」
  『純粋理性批判』A 版の189 ページを参照 [B 版では、232-234 ページ。「B 第2の類推 因果律に従う時間的契機の原則」の冒頭部分]。この点に関する私見については、簡単な概略を参照。 (戻る)

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訳注1) Materie を、訳語に一貫性をもたせるため「質料」訳しましたが、ここでは「素材」という意味が強いです。こだわって訳出すると、「質料的素材」。

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