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 ドイツ観念論関係の誤訳(9)
 シュルツェ『アイネシデモス』からの引用 v. 1.2.5

『アイネシデモス(Aenesidemus)』は、『エーネジデムス』とも訳されます。)


はじめに
I. テキストについて
II. 凡 例
III. 訳 文


  訳文の目次

    ・253 ページ; S. 159f. ?→159
    ・253 ページ; S. 141
    ・252-253 ページ; S. 140
    ・252 ページ; S. 133
    ・252 ページ; S. 117, Anm. 12
    ・251-252 ページ; S. 103 ?→102
    ・251 ページ; S. 94
    ・211-212 ページ; S. 97f.
    ・206 ページ; S. 88, Anm. 10
    ・206 ページ; S. 83
    ・206 ページ; S 72
    ・205 ページ; S. 70f.
    ・205 ページ; S. 73
    ・205 ページ; S. 73f.
    ・204 ページ; S. 65
    ・203 ページ; S. 348
    ・184 ページ、注3(196 ページ); S. 97f.
    ・183 ページ; S. 98
    ・149 ページ; S. 45
    ・149 ページ、注22(173 ページ); S. 100f.
    ・149 ページ、注21(173 ページ); S. 107
    ・148 ページ; S. 98
    ・148 ページ; S. 70f.
    ・147 ページ; S. 24
    ・146 ページ; S.Titel
    ・31 ページ; S. 199
    ・30 ページ; S. 226-230
    ・29 ページ; S. 198f.
    ・29 ページ; S. 227, Anm.24
    ・29 ページ; S. 194 ?
    ・29 ページ; S. 226, Anm.24
    ・28-29 ページ; S. 225, Anm. 24.
    ・18 ページ; S. 234
    ・17-18 ページ; S. 232
    ・16-17 ページ; S. 231f.
    ・15-16 ページ; S. 230f.
    ・『ドイツ観念論からヘーゲルへ』の 15 ページ; 1792 年初版の S. 226-230 (以後同様)
    ・全般的な問題点


  はじめに

 最近、『ドイツ観念論からヘーゲルへ』(栗原隆著、未來社)という本が出版されました。その中では、シュルツェの『アイネシデモス』(前掲書では『エーネシジムス』と表記)がいろいろ引用されおり、わが国では数少ない紹介となっています。そこで、拙サイトで『アイネシデモス』を訳出している(といってもまだ前半の3分の1)関係もあって、引用箇所を拾い読みしたのですが、意味のハッキリしない箇所があるようです。私たちが、ともすれば誤訳しそうなところです。
 そこで、前掲書で引用された箇所を、私の方で訳出してみました。初学者の方は、<コメント>の部分だけでも見ていただくと、役にたつこともあるかもしれません。

 なお、誤訳問題についての誤解を避けるために、<はじめに>をご一読願えればと思います。


I. テキストについて
  『アイネシデモス(エーネジデムス)』の原文テキスについては、こちらを参照ください。


II. 凡 例

(1) 前掲の「目次」で、例えば、「15ページ; S. 226-232は、栗原隆著『ドイツ観念論からヘーゲルへ』 15ページでの引用文は、1792年初版『アイネシデモス』では 226-232 ページにあることを示しています。
(2) 『ドイツ観念論からヘーゲルへ』中の『エーネジデムス』からの引用文の後には、( )が付され、( )内には Aetas Kantiana, 1969 年版のページ数が記されています(同書の「引用符号一覧」による)。
 調べてみたところ、この版のページ数は、1792年初版のものと一致しました。(引用ページ数は原則として、初版のものを、初版だと明記して使用すべきです。どの版であれ、初版ページ数は併記されるのがふつうですから)。
(3) 「目次」の「15ページ; S. 226-232」をクリックしますと、15ページ引用文に相応する原文の私の訳へと移動します。つまり、下記の章題「III. 訳文」以下で掲載している訳文は、拙訳(むろん「私の訳」という意味)です。
(4) Aenesidemus 原文と、『ドイツ観念論からヘーゲルへ』中の引用文は、掲載していない場合が多いです。
(5) 拙訳の下側に、そのように訳出した理由を<コメント>として付けました。
(6) [  ] 内の挿入は、訳者によるものです。


III. 訳 文

253 ページ; S. 159f.→159 
 <コメント>
・引用ページが 159f. となっている引用は、159ページ冒頭からの引用ですので、f. は不要です。
・ . . . so würde die Vernunftkritik . . . erheben, . . . は、接続法・第2式・未来なので、意味は現在の事態の仮定的(婉曲的)主張で、「高めることになろう」です。過去の「高めることになったであろう」ではありません。

253 ページ; S. 141. <拙訳>
 このような推論はまた、すべての独断論が基づく論拠でもある。この論拠は、表象の外部に存在するものの客観的性質や、真なる実在を規定するために、哲学においては昔から使われてきたのである。また、この論拠を適用することによって、すべての理論哲学(der theoretischen Weltweisheit)の体系が――これらの体系が帰結するところは、互に矛盾するのであるが――、基礎づけられてきたのである。つまりは、ヒュームを反駁するために、理性批判は一つの推論を用いたのであるが、この推論こそヒュームが、まったくもって欺瞞的だと明言したものなのである。

 <コメント>
・ . . . duruch dessen [des Fundamentes] Anwendung man alle in ihren Resultaten sich widersprechenden Systeme der theoretischen Weltweisheit begründet hat. この文中の ihren は「Systeme の」ということですが、問題は sich widersprechenden が、「自己矛盾する」なのか「相互に矛盾する」なのかです。
 これまでの「すべての理論哲学の体系が」自己矛盾するというのは、無理がありますから、「相互に矛盾する」だと思います。つまりシュルツェの言わんとするところは:
 「論拠」が正当なものであったとすれば、この同じ論拠を適用してできた諸哲学が、互いに矛盾するはずはない。しかるに矛盾するということは、論拠そのものがおかしいのである。
・ Weltweisheit は「哲学」と訳さないと、その前に出てきた「哲学(Philosophie)」とは少し違うものと受けとられかねません。ヨーロッパ語では、同じ言葉が近くに再出することをきらい、別語を当てます(そうすると、内容にふくらみや新鮮さが生じます)。しかし日本語では、同じものには同じ言葉を当てるか、それが煩雑なときには代名詞を用いるという暗黙の了解があります。
 (蛇足ながら、これは日本語における修辞学の未発達と関係があるのでしょう。日本には論理学と修辞学がなかった――この桑原武夫テーゼは、注目されてしかるべきです。が、それらに換えて間(ま)の論理と綾がある――というのが愚見ですが、出藍の誉れというには程遠いものがあります)。
 それに、Weltweisheit はまずどの辞書をみても、訳は「哲学」です。管見では、「世界知」の訳がある辞書にはまだお目にかかっていません。

252-253 ページ; S. 140. <拙訳>
 したがって理性批判は、私たちのうちの表象や思考の性質から、表象の外部に存在する物の、客観的で実在的な性質を推論する(schließt)。すなわち、「ある物はかくかくしかじかの性質を、実際にもっている。なぜなら、そのある物はそれ以外には考えられないからである」と、証明するのである。まさにこの推論(Schluss) こそ、ヒュームが疑った当のものである。

 <コメント>
・ 拙訳中の「まさにこの推論(Schluss)」は、直前の内容「ある物はそれ以外には考えられない。ゆえにある物はかくかくしかじかの性質を、実際にもっている」を指します。また、「性質を推論する(schließt)」と、動詞の形も前のほうに登場しています。したがって、ここの Schluss を「結論」と訳すのは不適です。

252 ページ; S. 133. <拙訳>
 理性批判は、ヒュームがその信頼性を強く疑ったところの諸命題を、実のところたんに、すでに確実で確定したものだと前提にすることによって、ヒュームの懐疑論を反駁しようとしている

 <コメント>
・ Und dass die Vernunftkritik . . . den Humischen Skeptizismus eigentlich bloß dadurch zu widerlegen suche, dass . . . 中の eigentlich(実のところ)と bloß(たんに)は、dadurch にかかっていきます。つまり、「実のところたんに dass 以下のことによって」という意味です)。eigentlich を、widerlegen にかけるのは、おかしいです。

252 ページ; S. 117, Anm.12. <拙訳>
 しかしその呈し方によって、彼自身が次のような考えをひき起こすきっかけを与えてしまった:「こうした疑問と、ヒュームの懐疑論のすべては、経験論の根本命題に――この根本命題によれば、人間の持つすべての認識は、ただたんに感覚から由来する、というのだが――基づいている」。
 ここから、ヒュームの反対者のうちでもっとも明敏な人たちですら、次のいずれかを証明したと思ったときには、ヒュームを完全に論破したと錯覚したのである。

 <コメント>
・「ヒュームの懐疑論のすべては、経験論の根本命題に――この根本命題によれば、人間の持つすべての認識は、ただたんに感覚から由来する、というのだが――基づいている」という考えは、ヒュームの反対者たちのものです。(当該箇所の原文は:
 Hume hat selbst . . . zu der Meinung Anlass gegeben, dass diese Zweifel und sein ganzer Skeptizismus auf den Fundamental-Satz des Empirismus, nach welchem alle menschliche Erkenntnis lediglich und allein von Empfindungen abstammen soll, beruhen;)
 したがって、シュルツェの考えのように訳すのは不適です。
・「もっとも明敏な人たちですら」の「ですら(sogar)」は、落とさずに訳出したいところです。

251-252 ページ; S. 103 ? →102 <拙訳>
 ところが根元哲学は、客観的に現実的なものとしての表象能力から、現実の表象を導出して、表象能力が表象の原因だと説明する。このことによって・・・

 <コメント>
・この箇所の引用は、1792 年初版の 103 ページからとされていますが、同ページにはなく、102 ページの誤記だと思います。
・この箇所の原文は:
 Indem aber die Elementar-Philosophie die wirklichen Vorstellungen aus einem Vorstellungsvermögen, als aus etwas objektiv Wirklichem ableitet, . . .
 文中の etwas objektiv Wirklichem と、 einem Vorstellungsvermögen は同じものです。したがって、「・・・現実の表象を、表象能力に基づいて、あたかも何か客観的に現実的なものから導出する・・・」のように、別々のものであるかのごとく訳するのは適切ではありません。

251 ページ; S. 94 <拙訳>
 すでに長い間、次の問題が哲学における最重要問題の一つであった:「私たちが持つ表象はどこから由来し、また表象は、私たちの内部でいかなる仕方で生じるのか?」
 私たちの内部の表象は、表象されている事物そのものではないのだから、「とりわけこの問題への信頼できる根本的な回答によって、私たちのもつ表象と、私たちの心の外部にある事物との関連が、明らかとならねばならない。また、認識のさまざまな構成要素の実在性についても、確実性が求められねばならない」と考えられたのも、もっともである。

 <コメント>
・ rühren には、「(herrühren)由来する」という意味もあります(相良守峯『大独和辞典』)。そこで、Woher die Vorstellungen rühren . . . ? は、「どこから由来するのか」という意味であり、「どこから触発されるか」ではありません。ちなみに、自動詞 rühren が「触れる」の意味の場合には、前置詞 an を伴いますが、この文にはありません。
・ . . . dargetan, und . . . gesucht werden müsse: の müsse は、「ねばならない」であって、「~に違いない」ではありません。したがってこの部分の意味は、「明らかとされねばならないし、・・・求められねばならない」です。
・『ドイツ観念論からヘーゲルへ』 251 ページ引用文では、「・・・ない以上、人は、とりわけ・・・」中の主語「人は」の述部が、欠けているようです。原文は、so glaubte man mit Recht, dass . . . なので、述部は「・・・と、考えるのももっともである」になります。なお拙訳では、「人は(man)」以下を受動形にして訳出しています。

211-212 ページ; S. 97f. 
 この箇所の引用と同じものが、184 ページの注3(196 ページ)にすでに出てきていますので、そちらの指摘をご覧下さい。

206 ページ; S. 88, Anm.10. <拙訳>
 根元哲学が、表象行為とその本質的な諸性質について与える説明によれば、主観が私たちのうちではじめて表象されるのは、人が主観を個別的意識の客観にすることによってである。そしてこの客観には、この客観や表象する自我とは区別されるもの [表象] が、関係づけられる。

 <コメント>
 この拙訳の、「主観が私たちのうちで・・・」以下の原文は:
 . . . wird das Subjekt nur erst dadurch in uns vorgestellt, dass man es zum Objekt eines besondern Bewusstseins macht, auf welches etwas von demselben und von dem vorstellenden Ich Unterschiedenes bezogen wird;

・文中の erst は「初めて」の意味であって、「まず最初に」ではありません。つまりシュルツェの主張するところは:
 根元哲学は、「主観が私たちのうちではじめて表象されるのは、人が主観を個別的意識の客観にすることによってである」と主張するが、主観はそのようにされなくとも、「すでに表象されていた」のである。
――ということです。
・文中の etwas を説明する2格は、あとの Unterschiedenes ですが、これを修飾する語句の1つ demselben は、前の Objekt を指します。したがって、この部分の訳は、「客観・・・とは区別されるもの」であって、「主観・・・から区別されたもの」ではありません。

206 ページ; S. 83. <拙訳>
 主観すなわち私の自我は、意識という現実の発現において現れるが、この主観もまたそのつど特定の変容をうけ、多くの性質によって規定された主観である。

 <コメント>
・ シュルツェは『アイネシデモス』において、認識論的部面をのみ取り扱っているので、Subjekt の語は「主観」と訳すべきです。この箇所だけ「主体」とするのは、我田引水の気味があります。
・ Das Subjekt oder mein Ich . . . ist jedesmal auch ein besonderes . . . und . . bestimmtes Subjekt.
 この文中の auch は、次の besonderes や bestimmtes にかかっていきます。つまり前文では、<表象が bestimmte であり besondere である>と述べられていますが、それを受けて「主観もまた」そうである、という文脈になっています。
 そこで、「特殊で変容された、そして多様な特性によって規定された主体(Subjekt)でもある」(強調は筆者)と訳するのは、不適切です。

206 ページ; S. 72 <拙訳>
 私の外部に現実に存在するといわれる対象の直観においては、私はなるほど直観する私の自我と、直観の内容を形成する表象を認める。しかしながらこの直観にあっては、直観している間は客観の知覚が――すなわち、私の自我およびこの自我のうちに存在する表象とは、異なる客観の知覚が――、欠けている。

 <コメント>
・この箇所は、シュルツェがラインホルトの意識の命題を検討しているところです。そして、「私はなるほど・・・自我と・・・表象を認める」と述べて、部分的に意識の命題を是認します。したがって、「認める(bemerke)」というのは、ラインホルトへの是認の言葉なのです。
 しかし、『ドイツ観念論からヘーゲルへ』 206ページでは、シュルツェが自分の自我観を押し出すための、積極的主張のように訳されています:
 「私は、なるほど、直観する私の<自我(Ich)>や、直観の内容を構成する表象に注目する」
 この訳では「なるほど」という認容が意味不明になることや、自我の語を< >でつつんで原文にはない強調を加えていることの是非は、問わないにしても、このあと 206 ページでシュルツェの自我論へと(しかもシュルツェの意想とは反対のものに)つながっていくのは、シュルツェにいささかの共感を持つ私としては、首肯できないものがあります。

205 ページ; S. 70f. <拙訳>
 ・・・意識の命題は、普遍的に妥当する命題ではない。また意識の命題は、特定の経験や推論とは結びついていないような事態を表してはいない。そして、私たちが意識するであろうすべての可能な経験や思考に、伴うような事態も表してはいないのである。

 <コメント>
・この拙訳の原文は:
 . . . der Satz des Bewusstseins weder ein allgemeingeltender Satz, noch drückt er [der Satz des Bewusstseins] ein Faktum aus, das . . . vielmehr alle mögliche Erfahrungen und alle Gedanken, deren wir uns bewusst werden, begleitete.
 これは、シュルツェの主張です。彼によれば、「意識の命題は・・・すべての可能な経験や思考にともなうような事態も、表してはいない」ことになります。したがって、『ドイツ観念論からヘーゲルへ』205 ページの、「シュルツェは意識律 [意識の命題] の妥当性を・・・『我々が自覚しているありとあらゆる説明や思想に伴う』(Aenesidemus, 71)自己意識に限定して捉えた」との主張は、これまた不可解です。そもそも、「自己」意識がどうして、またどこから登場するのでしょうか? (なお、Erfahrungen の訳が「説明」になっているのは、見ま違ったのでしょう)。

205 ページ; S. 73
 <コメント>
・前項の「205 ページ; S. 73f.」での引用中の「特定の経験」は、意識の命題が妥当するような経験、つまり、表象・客観・主観の3つが現われるような経験を指します。すなわちこの引用の少し前に出てくる、「私が以前見たことのある対象を想いだすとき」、「私がパレスチナ [地名] を表象する」場合などです。
 「その特定の経験とは、自らが自らを対象化しつつ、これをも自分だと捉える自覚である」(『ドイツ観念論からヘーゲルへ』、205ページ)と主張するのは、不可解としか言いようがありません。そしてこの主張の直後には、説明として次の文がでてきており、謎は深まるばかりです―― 

205 ページ; S. 73f. <拙訳>
 ・・・「すべての意識のうちで、表象は主観によって客観と主観から区別され、そして両者へと関係づけられる」という命題は、「特定の経験に結びついてはおらず、すべての経験に伴っているような事態」を表す命題ではないのであろう。

 <コメント>
・ . . . ein Faktum . . ., das an keine bestimmte Erfahrung gebunden wäre, und alle Erfahrungen begleitete;
 この原文を、上記拙訳ではそのままに、「特定の経験に結びついてはおらず、すべての経験に伴っているような事態」と訳出しています。しかしこれを、「<特定の経験への結びつきに留まらず、すべての経験に伴う事実>と訳すと、意味が少しずれるように、あるいはぼやけるように思いますが、いかがでしょうか。少なくともこれまでのシュルツェの表現とは、変わってきます。

204 ページ; S. 65 <拙訳>
 ・・・意識の命題が自らによってまったく規定された命題であるのならば、意識のうちで生じるとりわけ「区別する」「関係させる」という行為は、意識の命題で用いられている言葉によって、正確にまた完全に規定されて、述べられなければならなかったであろう。つねにすべての人が同一の、過不足のない諸特性を「区別する」「関係させる」に与えられるようにである。

 <コメント>
・「諸特性が・・・与えられる(・・・結びつけられる, mit denselben verbunden werden)」のは、denselben で複数形になっています。したがってこの denselben は「区別する」「関係させる」の2つの行為をさします。単数形の「意識の命題(意識律)ではありません。

203 ページ; S. 348 <拙訳>
 近代になって、人間自身の内部において存在したり、起きたりすることに、多くの注目がされ始めて以来、意識もまたたいへん重要な思索の対象であった。しかしラインホルト氏には、これまでこうした思索によってよく知られるようになったものすべてが、あいまいで不確かなものであり、欠陥だらけと見えたのである。そこで氏は、全哲学を彼が改革する以前に存在するすべての哲学において、この点では共通の誤りや欠陥を、根本から永遠になくすために、私たちに意識の新理論を贈ったのである。

 <コメント>
・ここでの Spekulation は、近代においてなされた思考を広く指しているので、一般的な意味の「思索」のほうが、特殊な「思弁」より適しているでしょう。ちなみに、広辞苑、第5版によれば、「思弁」とは:
 「経験によることなく、ただ純粋な思考によって真理の認識に到達しようとすること」。
 デジタル大辞泉も同様な説明ですが、両辞典ともに、「思弁哲学」参照の表示があり、それを引くと、「・・・フィヒテ・シェリング・ヘーゲルの哲学が特にこの語で呼ばれる場合がある」(広辞苑。大辞泉も同様)となっています。
・ vorgeht は現在形なので、拙訳でも「起きたり」と現在形になっています。これを「生じた」と過去形に訳すと意味が限定されてしまい、読者はいらぬ注意を払うことになります。

184 ページ、注 3(196 ページ); S. 97f. <拙訳>
 「表象能力ということでもって、客観的で現実的なある物を――それは表象が現実に生じる原因と条件をなし、すべての表象以前に存在している――考える」ことも、表象能力の概念に属しているというのだから、私たちはまず次のことを探求せねばならないのだろう:
 前記のようなある物が客観的に存在しているという大仰な見解(Kenntnis)に、根元哲学はどうやって到達したのか? ・・・

 <コメント>
・「大仰な(überschwenglich)」を「熱狂的な」と訳されると、さすがにギョッとします。相良守峯『大独和辞典』や小学館『独和大辞典』の überschwenglich の例文を見てみますと、mit überschwenglichen Worten(大げさな言葉で)、mit den überschwenglichsten Ausdrücken(非常に誇張して)が載っています。

183 ページ; S. 98
 <コメント>
・ . . . ist nun nirgends ein Beweis . . . angegeben worden. は、「証明はどこにも述べられて(angegeben, 示されて)いない」です。これを、「証明はどこでも言及されていない」と訳すと、どこかに証明がすでにあって、それに言い及んではいないといった意味になってしまいます。

149 ページ; S. 45 <拙訳>
 ・・・これらの表象相互間にはさまざまな相違が現われている。またこれら表象においては、ある種の特色(Merkmale)も見いだされるが、これらの特色においては表象は互いに一致する。

 <コメント>
・『ドイツ観念論からヘーゲルへ』 149 ページの引用文:
 「そうした諸表象に即して、多様な相互の区別も現出するし、またこれを鑑みるなら諸表象が相互に合致しているところの確実な標識が見出される」を、
日本語として読むかぎり、「これを鑑みる」は、その前に出ている「区別も現出する」を鑑みることになります。これでは意味が通りません。関係代名詞の訳出し方については、ここを参照ください。
 なお、同箇所からの引用は 208 ページでもされていますが、同じことが言えます。

149 ページ、注 22(173 ページ); S. 100f. 
 <コメント> 
・『ドイツ観念論からヘーゲルへ』 149ページの注 22 の説明(173 ページ)では:
 「直観、概念、感性、悟性、理性などの・・・『それらの現存在やそれらの区別は、一つの事実だからである』(Aenesidemus, 100f.)」と述べています。
 しかし、これは不正確です。『アイネシデモス』 100 ページ以下で「事実(Tatsache)」とされているのは、derselben が指しているもの、すなわち derselben の直前の「直観、概念、理念の存在とそれらの区別」です(拙訳の「人間の・・・」から「・・・から。」までを参照ください)。
 では、「感性、悟性、理性」については 100 ページ以下でどう書かれているかといえば:
 a) それらは、現存在(Dasein, 拙訳では「存在」)する。
 b) 懐疑論者は、「直観・概念・理念とは異なる特定の力としての、またこの力を発揮する能力としての感性・悟性・理性という表象を、私たちが持っていることを」を否定しない。。
 c) 「しかしながら、
・このような能力が、この能力の表象の外部に客観的に現実に存在するのかどうか、
・私たちのうちの直観・概念・理念をはじめて可能にするような、そうしたある物についての思考は、客観的な価値のまったくない空虚な考えでないのかどうか、
・・・などということについては、懐疑論によればまったく不確定である。
・「したがって、懐疑論者が「理性」や「悟性」などの用語を用いるのは、平易に述べるためなのである。天文学者が分かりやすくするために、日の出・日の入りについて話しはしても、天文学者は太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回るということを知っている。同じように懐疑論者も、感性・悟性・理性・表象能力・認識能力などの言葉を使うが、これは他の人たちに分かってもらえるようにするためであり、いろいろな表象の区別を、言語の使用によって示すためである」。(上記「・・・から。」以下を参照ください)

 つまりシュルツェの主張では、感性・悟性・理性が現存在するといっても、それはつまるところ表象としてであって、これら表象の外部に本当に感性・悟性・理性の本体が存在するかどうかは、分からないとなります。

149 ページ、注 21(173 ページ); S. 107 <拙訳>
 むしろ表象の導出にさいしては、根元哲学は表象能力の存在を恣意的に前提にしており、私たちが経験により表象において出会うとされるものを、[表象能力の] 性質や働き方として、表象能力に付与するのである。

 <コメント>
・ . . . sondern sie [die Elementar-Philosophie] setzt dabeiwillkürlich das Dasein eines Vermögens der Vorstellungen voraus, und legt demselben als Eigenschaft und Handlungsweise bei, was nach der Erfahrung in diesen anzutreffen sein soll.
 この文中の dabei は、内容的には「説明と導出」と取ることは可能ですが、より適切には、直前の文の indem 副文中に現われている「この導出」を指します。そこで拙訳では、たんに「導出」だけにしています。
・上記文中最後の sollen については、ここを参照ください。

148 ページ; S. 98 <拙訳>
 観念論者であれ、自我主義者であれ、独断的懐疑論者であれ、表象が現存することを否定することはできない。そして表象を認める人は、表象能力をも、すなわちそれなくしては表象が考えられないところのものをも、認めなくてはならない。

 <コメント>
・ kein Idealist, kein Egoist, . . . の kein を、「どんな」と訳すのは強すぎです。つまりここでの kein は、観念論(自我主義者)の程度の深浅がどうあれそれをすべて否定するというのではなく、哲学の諸流派すべてがそうでは「ない」ことを意味するのに使われてているのです。
 ちなみに、橋本文夫『詳解ドイツ大文法』(597ページ)によれば、「不特定の対象を表す名詞 [Idealist, Egoist, . . . ] があれば、nicht の代わりにこの名詞に kein を加えて全文を否定する」。
・ Egoist は率直に「自我主義者」ないしは「利己主義者」と、訳すべきでしょう。「唯我論者」は Solipsist.
・ aber は、拙訳では「そして」としていますが、ここを参照ください。
・「表象能力をも」の「をも(auch)」が、『ドイツ観念論からヘーゲルへ』の引用では欠けています。が、ここは訳出しておきたいところです。auch があることによって、<表象の現存から表象能力の現存への移行は、自明・自動的である>との立場からの主張であることが、明確になります。auch がなければ、「この移行の間にはなにか論理が介在しているのか?」と、読者は余計な気をまわすことにもなりかねません。
・上記拙訳中の「認めなくてはならない」の原文は、 . . . muß zugeben です。『ドイツ観念論からヘーゲルへ』の引用では、「認めざるをえない」となっていますが、内容からみてこの muß は「~しなくてはならない」でしょう。じっさい、同一箇所の引用文が、『ドイツ観念論からヘーゲルへ』の183ページでは、「認めなくてはならない」となっています。

148 ページ; S. 70f. <拙訳>
 意識の命題は、普遍的に妥当する命題ではない。また意識の命題は、特定の経験や推論とは結びついていないような事態を、表してもいない。

 <コメント>
・ . . . noch drückt er [der Satz des Bewusstseins] ein Faktum aus, das an keine bestimmte Erfahrung und an kein gewisses Raisonnement gebunden wäre, . . .
 前記文中の bestimmte と gewisses は、どちらも「特定の」を意味しています(gewisses を「ある種の」と訳したのでは、文意がとれません)。欧文では同一語を繰り返すのは避けますが、訳語でも別語にしますと、かえって文意が混乱したり、すっきりしない場合は、同一語で訳出した方がいいと思います。
 そこで拙訳では、「特定の」を続けて訳出することも嫌って、「特定の経験や推論」としました。
・ Faktum を「事実」と訳したのでは、日本語の事実は具体的なものを含意しますから、不適当です。ここは抽象的な「事態」がいいでしょう。

・● 147 ページ; S. 24 <拙訳>
  哲学においては、物自体およびそれの性質の存在あるいは非存在についても、また、人間の認識力の限界についても、疑いえない確実性や普遍的に妥当する原理にしたがって、何かが決まっているということはない。

 <コメント>
. . . dass . . . ausgemacht worden sei. ですから、「決まっている」と過去の意味に訳すべきで、現在形の「決められる」としますと、逆に<懐疑論の越権>になってしまいます。

146 ページ; Titel <拙訳>
 および、理性批判の越権に対する懐疑論の擁護

 <コメント>
・『アイネシデモス』のには、「理性批判の Anmaßungen」という語句が見られます。理性批判の著者が法律用語を多用したことを考えますと、この Anmaßung は倫理的な「僭越(不遜)」ではなく、「越権」の意味で使われているのではないでしょうか。シュルツェはカント自身の用語法で、カントを皮肉ったというわけです。

31 ページ; S. 199 <拙訳>
 ラインホルト氏によると、表象そのものの概念についての、唯一可能な説明にして、根元哲学において初めてなされた説明が、哲学を形成している思弁の進行の全範囲を規定する。またこの説明は、私たちが思考においての表象能力にたいし設けなければならぬ限界を、告知するというのである。
 彼によれば、私たちが行う認識は、思考の有する特性を越えでることなどは、決してできない。また、目下の生活における思考や表象すべてが、それらの外部に存する何かあるものに現実に関係したり、なんらかの仕方で対応したりするかどうかは、私たちはすこしも知りはしないのである。

 <コメント>
・ . . . die allein mögliche und in der Elementar-Philosophie allererst gelieferte Erklärung der Begriffs . . . 中の allererst は、「最初に」という意味です。したがって、「最初に提供された説明」となりますので、拙訳では「初めてなされた説明」としています。
・ die ganze Reihe der Spekulation を、拙訳では「思弁の進行の全範囲」と訳出していますが、Reihe の項目をご参照ください。
・またその後の、die ganze Reihe unserer Gedanken und Vorstellungen では、Reihe にそれほどの意味が付与されているとは思えないので、訳出していません。つまり、「思考や表象すべて」とだけにしています。
・ aber auch は、「非難・不満」(小学館『独和大辞典』)や「非難・嫌悪」(相良守峯『大独和辞典』)を表すのであり、aber に「しかし」の意味はありません。拙訳では、「~ことなど」と適当に訳しています。

30 ページ; S. 226-230 
 <コメント>
・このいささか長い引用(Aenesidemus, 226ff.)については、『ドイツ観念論からヘーゲルへ』の15 ページにこれとまったく同じ引用がありますので、そちらの方の拙訳とコメントをご覧下さい。

29 ページ; S. 198f.
 拙訳は、「すなわち・・・」から「・・・等々。」までです。

 <コメント>
・ eigentlich は、ここでは「そもそも本来」という強い意味ではなく、「いったい」だと思います。つまり、「疑問文に用いられて、話し手の主観的心情、特に疑念を反映」(『独和大辞典』小学館)する語でしょう。

29 ページ; S. 227, Anm. 24 
 <コメント>
 『ドイツ観念論からヘーゲルへ』の 29 ページには、次のようにあります:
 「ラインホルト [根元哲学] にあって真理は、認識の明証性にこそ帰されるものであったが、そこにシュルツェは『真理性の本質の歪曲』(Aenesidemus, 227Anm.)を感じ取って・・・」

・しかし、シュルツェが「真理性の本質の歪曲」を感じたのは、拙訳を参観していただければ分かるように、「批判哲学 [カント哲学] の支持者たち」の主張に対してです。なるほどラインホルトも支持者の1人ですが、「歪曲」の語の直後の引用(29ページ)に示されているように、彼はそこまでは主張していず、表象に対応する実在物が表象外にあるかどうかを、「決定しないままにしておいた」のです。
・シュルツェが『真理性の本質の歪曲』だと難じたのは、「認識の明証性」という一般的な問題に関してではなく、「表象と表象外の対象との関係」の欠如に関してです。

29 ページ; S. 194 ? 
 <コメント>
・(Aenesidemus, 194)として引用されている文章は、それに対応する原文を 1792年初版本の 194 ページに探しましたが、見つかりませんでした。

29 ページ; S. 226, Anm. 24 <拙訳>
 すなわち、認識の真理性と実在性、これらの本質をなすのは、認識をかたちづくる表象と表象の外部に存する物との関係である。

 <コメント>
Zum Wesen der Wahrheit und Realität unserer Erkenntnis gehört nämlich ein Verhältnis der Vorstellungen, aus denen die Erkenntnis besteht, zu den Dingen außer denselben.

・上記の文は、これまでの文意をまとめた内容となっているので、nämlich(すなわち)は文全体にかかります。したがって、訳出では文の冒頭にもってくるか、「・・・、すなわち、・・・」と途中に挿入する形になります。(なお、ドイツ語では nämlich などの文全体にかかる語が、定動詞の後に来るのはふつうです。)
・ gehören は、前後の内容から、「必要である」ではなく、「一部を(構成部分を)なす」でしょう。
・ der Vorstellungen, aus denen die Erkenntnis besteht, を、「そこから認識が成立する表象」と訳したのでは、「そこから」はそれより前の語句を指すと、理解されかねません。日本語では代名詞は、すでに出てきた語句や状況を指すものと決まっているからです。
 そこで欧文の関係代名詞を、「そこ」などのように代名詞で訳出するのは、基本的には避けるべきです。ただし、例外としては:
 a) 内容から訳の代名詞が何を指すかが明瞭な場合、
 b) 前の語句とは内容的に連続しないことを示し、そして例えば、「そこから認識が成立するところの表象」のように「ところの」を入れて文にタメをつくって、漢文調ないし翻訳文文体であることを明示する場合があります。

28-29 ページ; S. 225, Anm. 24 
 <コメント>
 『ドイツ観念論からヘーゲルへ』の 28-29 ページでは、「・・・『エーネジデムス』でシュルツェは、[ラインホルトの] 根元哲学が、表象や表象能力、認識の生成、それらの構成要素の性質など [を]、どのように考えなければならないのかを示そうとしたにもかかわらず、何も決めることができなかったとして非難した(Vgl. Aenesidemus, 225 Anm.)」と、述べられています。

・しかし、 そのシュルツェの「非難」に相当する拙訳(原注24の始めから「やぶさかではない」まで)を読めば分かるように、シュルツェは「非難」してはいません。根元哲学が、「何も決めること」を(拙訳では「決着をつけようとはなんら」)望んでいないのなら、シュルツェは「結論づけようとは思っていない」のです。

18 ページ; S. 234 <拙訳>
 ・・・これら2種類の必然性が、私たちがおこなう認識のすべての部分においてまったく無かったならば、あるいはこれらの必然性が私たちの心から導出されたならば、多くの人たちが観念論に対しておそらくは好意的だったであろう。

 <コメント>
・ . . . und fehlten diese beiden Arten der Notwendigkeit allen Teilen unserer Erkentnis gänzlich oder ließen sich dieselben aus dem Gemüte ableiten,
 文中の主語 dieselben が指すのは、「2種類の必然性」なのか「認識のあらゆる部分」なのかが問題です。この段落では2種類の必然性が問題となっており、前の文の主語も diese beiden Arten der Notwendigkeit(2種類の必然性)ですから、代名詞 sie より強い調子の dieselben が主語に置かれたとすれば、やはり前文で同じ主語である「2種類の必然性」を指すととるのが自然でしょう。
 ちなみに、シェリングの文章においては、代名詞が何を受けるかは、ほとんどの場合文法面(単数・複数、性など)からすぐに分かります。そのように文章をたやすく書きえた彼の文才は、やはり大したものです。

17-18 ページ; S. 232 <拙訳>
 つまり、私たちの持つある種の表象においては、2重の必然性が現われる。一方は、表象の現存に関することであり、他方は、表象の内容を形成している多様なものの結合に関することである。
 例えば私たちが家を見るとき、この見る状態が続くかぎりは、その家を見ないということは不可能である。家が見えている場所のそばに、人や木やその他のものがあるとは、私たちは考えることができる。しかしながら、家のある場所に家以外のものを見ることは、私たちにはまったくできない。
さらに、私たちが家を見ている間は、家の諸部分の結合のしかたは、それが現にあるとおりのしかたであらざるをえない。私たちが結合のしかたを変えることは、できないのである。なるほど家の屋根が下に、家の土台が上にあることを私たちは考えられるし、また家の右側にあるものが左側にあるとも考えることはできる。しかし、そのように知覚はできない。私たちは見ている家の諸部分の結合しかたを、見ている間は、それが現にそこにあるがままにさせざるをえないのである。

 <コメント>
・ gewissen Vorstellungen の gewiss については、ここを参照して下さい。
・ . . . an der jenigen Stelle, wo wir das Haus Sehen, ein Mensch, ein Baum . . . stände; この文中の an は、「~のそばに、かたわらに」という意味です。「~に即して」と訳せば、「家が建っているのが見える場所に即して」、つまり「家の場所に」ということになりますが、人はともかく木が家の場所(内部?)に立っているとは、考えられません。
・ Wir müssen ferner die Verbindung der Teile, die zum Hause gehören, während der Empfindung davon lassen, wie sie einmal ist, ohne darin etwas abändern zu können.
 この文の組み立ては、「lassen + lassen の4格の目的語 + von + von の目的語句」です。相良守峯『大独和辞典』には、lassen の項に「last die Hände davon! それに手を触れるな」の例文があります。したがってこの文の骨格は、「私たちは、wie 以下のことに(davon の da は、wie 以下を指しています)、諸部分の結合を関与させない」ということです。
 müssen は、「せざるをえない(必然)」であって、「しておかなければならない(当為)」ではありません。というのも、家を見ている間は、屋根や土台の家の部分の結合し方の知覚像は、見えているがままにいやおうなくあるのであり(必然)、私たちが思いのままに変えることはできないからです。
 während der Empfindung は、視覚という「感覚の間」ですが、ですが、意味を取って軽く「見ている間」と訳出しました。
 darin は、「結合のなかで」ということで、「感覚のなかで」ではありません。というのも:
 今問題の文とほぼ同じ文が、次の次に(1792年初版、232ページの最後)あります:
 . . . wir . . . müssen die Verbindung der Teile des Hauses, das wir sehen, während der Empfindung so lassen, wie sie einmal da ist.
 「私たちは見ている家の諸部分の結合 [しかた] を、感覚している [見ている] 間は、それ(sie) が現にそこにあるがままにさせざるをえない」。
 上記文中の「それ(sie)」は、明らかに「結合」を指しています。そこで、今問題の文中の wie sie einmal ist の sie も「結合」を指すとみていいでしょう。すると、次の語句 ohne darin etwas 中の darin は、「sie(結合)」のなかととるのが自然なことになります。
 以上をふまえて、今問題の Wir müssen ferner . . . を訳出するときには、逐語訳的にすると日本語になりにくいので、意訳的に、
 「さらに、私たちが家を見ている間は、家の諸部分の結合のしかたは、それが現にあるとおりのしかたであらざるをえない。私たちが結合のしかたを変えることは、できないのである」とした次第です。
 
16-17 ページ; S. 231f. <拙訳>
 そこで、人々がまず最初はたんに主観的なものと見なした表象に、彼らの外部の物への、また表象の外部の物への関係を、付与するのはなぜであろうか? なぜ人々は、表象する自我が局限したもののたんなる認識から、実在的に存在する物へと、考え方を変えるのであろうか? そしてこの移行の根拠は何なのか? ――それは、ある種の表象の特定の性質についての、はっきりはしない理屈付けである。そして、私たちがぼんやりした推論にしだいに慣れてしまっために、表象の外部に存在するという物の現存を、もはや推論されたものとしてではなく、直接認識されたものとして見なすようになったためである。

 <コメント>
・ zunächst und zuerst は、おそらく二語一想で、強調したり語調をよくするために、1つの意味を2語で表しているのでしょう。したがって、「さしあたり、まずもって」とニュアンスを変えながら2語に訳し分けると、文章の調子がおかしくなります。拙訳では「まず最初に」としましたが、「まず」と「最初」は別々にではなく、一つながりの語として意識されると思います。
・ gewissen Vorstellungen の gewiss については、ここを参照して下さい。
・ unmittelbar については、ここを参照して下さい。

15-16 ページ; S. 230f. <拙訳>
 新生児が、自分が最初にもった諸表象によって、これら表象の外部にある何物かの実在的現存を知るなどということは、疑わしいといえよう。おそらく新生児は、自分の能動的あるいは受動的な能力をはじめて用いることによって、さまざまなあり方に局限された(modifiziert)自分自身の自我をともかく認識するのであろう。そのさい自分の外部の物の現存については、なにも予感はしていないのだが。
 盲目から後年回復した人々(とくに、1729年チェゼルデン(訳注)が視力を回復せしめた先天的盲人の報告(原注)の [回復した] 視覚の最初の状態ならびに除々の変化についての報告によって、私たちはこうしたことをはっきり認識することができる。したがって、もともと私たちのもつ表象は、私たちの外部ならびに表象の外部に存する何ものかへの関係を、含んではいないのであろう。むしろこれら表象は、私たちの内部に存し、私たちに属するたんに主観的なものと、見なされるだけであろう。
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(訳注) William Cheselden (1688-1752) イギリスの外科医。眼球の虹彩切除手術を初めて行った。
(原注) この報告は、ヴォルテールの『ニュートン哲学要綱』第6章に記載されている。

 <コメント>
・ hinweisen は、「指示て入る」というよりも、「指示する」。一般的に日本語に訳するときは、状態「~している」と、動作「~する」を区別しないと、ピントの合わない訳になる危険性が大きいです。
・ gewisser Dinge については、ここを参照して下さい。
・ leidend は、ここでは「受苦的」ではなく「受動的」です。その前の tätig(活動的、能動的)と対比されて用いられています。受動という意味での Leiden, leidend は、例えばフィヒテ『全知識学の基礎』(1794-95年)でもよく使われます。
・ nur immer は、「(ただ)常に」の意味ではなく、「譲歩・許容・無関心」といったものを表していると思います。拙訳では、「ともかく」としています。相良守峯『大独和辞典』には、以下の例文があります:
 laß ihn nur immer kommen! とにかく彼をよこしてくれ(来たいなら来たいならこさせろ)
 laß es nur immer gut sein! まあこれで上々さ(いいとしておこう)
・ von der ersten Beschaffenheit und allmählichen Abänderung der Empfindung des Gesichts の句では、ersten Beschaffenheit と allmählichen Abänderung が対をなしています。Empfindung des Gesichts は「見えの感覚」なので「視覚」。そこでこの語句の正確な訳は、「視覚の最初の状態ならびに除々の変化について」です。
・人名 Cheselden は、ほとんどの場合「チェゼルデン」としてわが国には紹介されています(『リーダーズ・プラス』、ウィキペディア、グーグルの検索結果)。
・ヴォルテールの著書 Elements de la Philosophie de Newton のElements は、「基礎原理、要理」の意味です(『新スタンダード仏和辞典』、例文: Les Elements d'Euclide ユークリッドの『(幾何学)原論』)。邦訳では、『ニュートン哲学要綱』などとされています。

15 ページ; S. 226-230 <拙訳>
 私たちが直接もっているものとしては、とにかく表象しかないのであり、私たちはただ表象を意識するのである。私たちが見たり、聞いたり、感じたり、考えたりなどするところのものは、それ自体としては、また直接的には私たちの心の内部に存在するのではなく、そのとき存在するのはたんにそれらの表象である。
 ところがそれにもかかわらず、表象の外で表象からは独立して存在し、表象と共には生成消滅しないが、なお表象と関係はするようなある物が、実在的に現存するという、こうした確信が、人々の間には一般的に広まっている。[読者のご参考のために、以下の文も訳出します。] この確信とその一般性は、どこに由来するのか? この確信は、あいまいな感情に基づくのか、あるいは明瞭な認識に基づくのか? またとりわけ、私たちの心の外部に現存する物についての確信や、表象のこれらの物への関係を、独断論が作り出そうとするとき、その根拠は何なのであろうか? これらの問いへの返答は、独断論に対する懐疑論の元来の主張を知らしめるであろう [懐疑論の方が正しいことが明瞭になる]。

 <コメント>
・また、Gemüte の前の in も、後文の außer(外部に)と対比されるのですから、「おいて」ではなく「内部に」です。
・ gewisser Dinge の gewisser(2格)は、ここでは「確実な」といういみではなく、「或る、ある種の」の意味です。gewisser Dinge は後文で、「ある物(Etwas, S. 230, 231)」、「実在的に存在する物(realiter vorhandener Dinge, S. 231)」、「存在するという物(befindlich sein sollenden Dinge, S. 232)」と言い換えられていますが、「確実な」に相当する形容語はついていません。
 なお、in gewissen Vorstellungen (S. 231-232) の gewissen も、「ある種の」という意味です。

全般的な問題点
 ・ 『アイネシデモス』で使われている Gemüt は、人間における精神活動の場を表していますから、「心」と訳すべきで、「心情」の訳は無理があります。心情というのは、「心の中の思い。気持ち」(広辞苑、第5版)、「心の中にある思いや感情」()のことですから、心のなかの情意的な内容物を意味します。
 したがって、例えば、『ドイツ観念論からヘーゲルへ』 15ページの引用文のように、. . . sind nicht . . . in unserem Gemüte(1792年初版、227-228ページ.)を「心情において存するのではなく」と訳すると――「心情」は情感に彩られて、主観の影響下にあるものですから――、次の「存在するのはたんにそれらの [やはり主観の領域にあるところの] 表象である」に、合致しなくなります。

sollen については、ここを参照して下さい。

 ・ヘーゲルの場合には、unmittelbar を「無媒介的」と訳す場合もありますが、ふつうは率直に「直接的」にしないと、何か含みのありそうな、分かりにくい訳文になります。

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・ちなみに、『アイネシデモス』での「表象」の意味については、ここを参照してください。

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(初出: 20011-7-15)
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