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   イツ観念論関係の誤訳について(7) v. 2.3.0.

        フィヒテ-シェリング往復書簡』


はじめに 誤解を避けるために、御一読をお願いします。
『往復書簡』について 
『往復書簡集』のテキストについて―→こちらをご覧ください
凡 例 


目 次   
 
    ・全般的な注意点(1) abstrahieren: 「抽象」と「捨象」  (v. 1.2.)
    ・全般的な注意点(2) bloß: 「たんに」と「もっぱら」  (v. 1.1.)
    ・全般的な注意点(3) objektiv; Objekt: 「客観」と「対象」  (v. 1.0.)
    ・全般的な注意点(4) wohl: 「おそらく」と「確かに」  (v. 1.0.)
    ・全般的な注意点(5) aber: 「しかし」と「そして」  (v. 1.0.)
    ・全般的な注意点(6) nur: 「すぎない」と「ただ・・・ばかり」  (v. 1.1.)
    ・全般的な注意点(7) 助動詞 werden: 「未来」と「推量」  (v. 1.0.)
    ・全般的な注意点(8) Satz: 「命題」と「主張、考え」  (v. 1.0.)
    ・全般的な注意点(9) 関係代名詞の訳語としての代名詞  (v. 1.0.)
    ・全般的な注意点(10) begreifen: 「概念的に把握する」と「理解する」  (v. 1.0.)

    ・121 ページ、11 - 12 行目; S. 54/III,4, 360.  (v. 1.3.)
    ・121 ページ、13 行目; S. 54  (v. 1.3.)
    ・122 ページ、8 行目; S. 55  (v. 1.0.)
    ・122 ページ、13 行目; S. 55  (v. 1.0.)
    ・122 ページ、15 行目; S. 55  (v. 1.0.)
    ・123 ページ、3行目; S. 56  (v. 1.0.)
    ・124 ページ、17 行目; S. 57  (v. 1.0.)
   ・125 ページ、6 - 8 行目; S. 58  (v. 1.1.)
   ・125 ページ、15 - 17 行目; S. 58  (v. 1.1.)
   ・126 ページ、1 - 2 行目; S. 59  (v. 1.2.)
   ・126 ページ、8 - 11 行目; S. 59  (v. 1.2.)
   ・126 ページ、11 - 14 行目; S. 59  (v. 1.4.)
   ・126 ページ、14 - 15 行目; S. 59f.  (v. 1.0.)
   ・127 ページ、2 行目; S. 60  (v. 1.1.)
   ・127 ページ、11 - 13 行目; S. 61  (v. 1.2.)
   ・127 ページ、13 -14 行目; S. 61  (v. 1.1.)
   ・127 ページ、14 - 17 行目; S. 61  (v. 1.1.)
   ・127 ページ、18 行目; S. 61  (v. 1.0.)
   ・128 ページ、2 行目; S. 61  (v. 1.1.)
    ・128 ページ、7 行目; S. 61  (v. 1.0.)
   ・128 ページ、9 - 10 行目; S. 62  (v. 12.)
    ・128 ページ、13 行目; S. 62  (v. 1.1.)

   ・130 ページ、2 - 3 行目; S. 63 - 64  (v. 1.0.)
   ・130 ページ、3 - 7 行目; S. 64  (v. 12.)
   ・130 ページ、10 -13 行目; S. 64  (v. 1.0.)
   ・130 ページ、15 - 17 行目; S. 64  (v. 1.3.)
   ・131 ページ、1 -2 行目; S. 65  (v. 1.2.)
   ・131 ページ、2 行目; S. 65  (v. 1.2.)
   ・133 ページ、12 - 13 行目  (v. 1.1.)
   ・134 ページ、3 行目  (v. 1.0.)
   ・135 ページ、13 - 14 行目; S. 68  (v. 1.2.)
   ・137 ページ、14 行目; S. 71  (v. 1.2.)
   ・138 ページ、12 - 15 行目; S. 72  (v. 1.2.)
   ・139 ページ、3 行目; S. 72  (v. 1.0.)

   ・140 ページ、10 - 11 行目; S. 74  (v. 1.1.)
   ・140 ページ、14 行目 - 141 ページ、1 行目; S. 74 - 75  (v. 1.1.)
   ・141 ページ、17 - 18 行目; S. 76 - 77  (v. 1.1.)
   ・142 ページ、7 - 8 行目; S. 76 - 77  (v. 1.2.)
   ・142 ページ、8 - 10 行目; S. 77  (v. 1.2.)
   ・142 ページ、16 行目; S. 77  (v. 1.1.)
   ・142 ページ、17 - 18 行目; S. 77  (v. 1.1.)
   ・143 ページ、6 行目; S. 78  (v. 1.0.)
   ・143 ページ、17 行目; S. 78  (v. 1.1.)
   ・143 ページ、18 行目 - 144 ページ、2 行目; S. 79  (v. 1.1.)
   ・144 ページ、6 行目; S. 79  (v. 1.0.)
   ・144 ページ、10 行目; S. 79  (v. 1.0.)
   ・146 ページ、4 行目; S. 81  (v. 1.1.)
   ・146 ページ、7 行目; S. 81  (v. 1.0.)
   ・146 ページ、10 行目; S. 81 - 82  (v. 1.1.)
   ・146 ページ、12 行目; S. 82  (v. 1.2.)
   ・146 ページ、15 行目; S. 82  (v. 1.2.)
   ・147 ページ、3 行目; S. 82  (v. 1.0.)
   ・147 ページ、11 行目; S. 83  (v. 1.0.)
   ・148 ページ、1 行目; S. 83  (v. 1.1.)
   ・148 ページ、10 行目; S. 84  (v. 1.2.)
   ・148 ページ、12 行目; S. 84  (v. 1.2.)
   ・148 ページ、16 -17 行目; S. 84  (v. 1.2.)
   ・148 ページ、17 -18 行目; S. 84  (v. 1.0.)
   ・149 ページ、5 - 6 行目; S. 85  (v. 1.3.)
   ・149 ページ、6 - 7 行目; S. 85  (v. 1.2.)

   ・150 ページ、1 - 2 行目; S. 86/III,5, 47.  (v. 1.2.)
   ・150 ページ、5 - 6 行目; S. 86/III,5, 47.  (v. 1.3.)
   ・150 ページ、8 行目; S. 86  (v. 1.1.)
   ・150 ページ、9 行目; S. 86  (v. 1.0.)
   ・150 ページ、10 - 11 行目; S. 86/III,5, 47.  (v. 1.4.)
   ・150 ページ、17 行目 - 151 ページ、1 行目; S. 86/III,5, 47.  (v. 1.0.)
    
151 ページ、1 行目; S. 87  (v. 1.0.)
    151 ページ、6 - 7 行目; S. 87  (v. 1.2.)
    
151 ページ、15 - 16 行目; S. 88  (v. 1.1.)
    151 ページ、16 - 18 行目; S. 88/III,5, 48.  (v. 1.0.)
   ・152 ページ、3 - 4 行目; S. 88  (v. 1.0.)
   ・152 ページ、9 行目; S. 89  (v. 1.1.)
   ・152 ページ、13 - 15 行目; S. 89/III,5, 49.  (v. 1.0.)
   ・153 ページ、1 -2 行目; S. 89  (v. 1.1.)
   ・153 ページ、2 - 4 行目; S. 89  (v. 1.1.)
   ・154 ページ、2 行目; S. 90  (v. 1.1.)
   ・156 ページ、16 行目; S. 94  (v. 1.0.)
   ・157 ページ、1 - 2 行目; S. 94  (v. 1.2.)
   ・158 ページ、12 - 13 行目; S. 96  (v. 1.1.)
   ・158 ページ、17 行目 - 159 ページ、3 行目; S. 96  (v. 1.4.)
   ・159 ページ、4 - 6 行目; S. 96  (v. 1.1.)
   ・159 ページ、8 行目; S. 96  (v. 1.0.)

   ・160 ページ、1 - 3 行目; S. 97  (v. 1.2.)
   ・161 ページ、8 行目; S. 99  (v. 1.1.)
   ・161 ページ、10 行目; S. 99  (v. 1.1.)
   ・161 ページ、16 - 18 行目; S. 99  (v. 1.1.)
   ・162 ページ、1-4 行目; S. 99  (v. 1.3.)
   ・162 ページ、16 行目; S. 97  (v. 1.0.)
   ・163 ページ、1 -3 行目; S. 100  (v. 1.2.)
   ・163 ページ、4 行目; S. 101  (v. 1.1.)
   ・163 ページ、11 行目; S. 101  (v. 1.1.)
   ・163 ページ、12 - 14 行目; S. 101  (v. 1.0.)
   ・164 ページ、2 - 3 行目; S. 102  (v. 1.0.)
   ・164 ページ、7 - 8 行目; S. 102  (v. 1.0.)
   ・164 ページ、9 - 10 行目; S. 102  (v. 1.1.)
   ・164 ページ、12 - 14 行目; S. 102  (v. 1.2.)
   ・164 ページ、14 - 17 行目; S. 102  (v. 1.3.)
   ・164 ページ、17 行目 - 165ページ、1 行目; S. 103  (v. 1.2.)
   ・165 ページ、2- 5 行目; S. 103  (v. 1.1.)
   ・165 ページ、6 行目; S. 103  (v. 1.1.)
   ・165 ページ、11 行目; S. 103  (v. 1.1.)
   ・165 ページ、17 - 8 行目; S. 104  (v. 1.2.)
   ・167 ページ、3 - 11 行目; S. 105 - 106  (v. 1.1.)
   ・167 ページ、13 行目 - 168 ページ、1 行目; S. 106  (v. 1.1.)
   ・168 ページ、3 - 6 行目; S. 106 - 107  (v. 1.2.)
   ・169 ページ、15 行目 - 170 ページ、1 行目; S. 108 - 109  (v. 1.1.)
   ・170 ページ、9 行目; S. 109  (v. 1.0.)
   ・172 ページ、4 行目; S. 111  (v. 1.0.)
   ・172 ページ、12 - 15 行目; S. 112  (v. 1.2.)
   ・173 ページ、4 - 5 行目; S. 112 - 113  (v. 1.0.)

   ・181 ページ、16 行目 - 182 ページ、1 行目; S. 122  (v. 1.1.)
   ・182 ページ、2 行目; S. 122  (v. 1.0.)
   ・182 ページ、4 行目; S. 122  (v. 1.0.)
   ・182 ページ、4 - 6 行目; S. 122  (v. 1.2.)
   ・182 ページ、6 - 8 行目; S. 122  (v. 1.1.)
   ・182 ページ、10 行目; S. 122  (v. 1.0.)
   ・183 ページ、6 - 9 行目; S. 123  (v. 1.1.)
   ・183 ページ、10 行目; S. 123  (v. 1.0.)
   ・183 ページ、16 行目; S. 124  (v. 1.0.)
   ・184 ページ、1 行目; S. 124  (v. 1.0.)
   ・184 ページ、7 - 8 行目; S. 124  (v. 1.2.)
   ・184 ページ、13 - 14 行目; S. 124  (v. 1.0.)
   ・184 ページ、16 - 18 行目; S. 125  (v. 1.3.)
   ・185 ページ、1 -3 行目; S. 125  (v. 1.2.)
   ・185 ページ、5 -6 行目; S. 125  (v. 1.1.)
   ・185 ページ、7 -8 行目; S. 125  (v. 1.1.)
   ・187 ページ、10 -18 行目; S. 128  (v. 1.4.) 
   ・187 ページ、18 行目 - 188 ページ、3 行目; S. 128  (v. 1.3.)

   ・201 ページ、原注 (38)  (v. 1.0.)
   ・206 ページ、訳注 (二四)  (v. 1.1.)


206 ページ、訳注 (二四)

★ 「第一巻第一号」の箇所は、「第二巻第一号」の誤りです。『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』、35 ページの編集者注 2 を参照。
(初出 2013.1.1 ――はい、元旦なのでした。でもこれを、学問への情熱・求道精神・一刀三礼などと称するのは、「少しく失当なる無からんや」となるのが、辛いところです。やっぱり、いろいろ事情があったので・・・)
(目次)

201 ページ、原注 (38)

Teuschen は、Teutsche の誤記です。
 また、3. は、1. の誤記です。

 この Der Neue Teutsche Merkur 誌に掲載された、ラインホルトの Der Geist des Zeitalters als Geist der Filosofie (原文のまま)については、
http://www.ub.uni-bielefeld.de/diglib/aufkl/neuteutmerk/neuteutmerk.htm
で、左側枠内の「1.Bd., 1801」をクリックし、Reinhold で検索してみて下さい。
(初出 2012.8.8)
(目次)

187 ページ、18 行目 - 188 ページ、3 行目; S. 128. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 といっても、私を喜ばせたこともあったのです。つまり、貴方の手紙の終わりに、貴方の率直な意見を間接的に確証できる痕跡が見出せたのです。貴方はこう書いておられます――「われわれは、たしかに、問題に関してはかなりのところまで一致しているかもしれません」、と。

◆ 原文は:
 . . . wobei es mich doch gefreut hat, am Ende des Schreibens Spuren einer indirekten Bestätigung Ihrer direkten Äußerung zu finden: „Wir möchten wohl, was die Sachen betrifft, ziemlich einig sein.“

☆ 拙・改訳では:
 とはいえ、この通知の最後で、貴方の [私への] 直接なご発言「私たちは、事柄についてはかなり一致しているようです」を、間接的に確認する手がかりを見出したのは、私の喜びとするところです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) am Ende des Schreibens を元の訳では「貴方の手紙の終わり」としていますが、Schreiben はすこし前に出てきた erwähnter Mitteilung、つまりフィヒテのシャート宛の「通知」のことでしょう。
 この「通知」については、この前の段落で、シェリングは「目にした(Mir . . . ist . . . eine Mitteilung . . . zu Gesicht gekommen)」と述べています。

(2) indirekten direkten は、意識的に(皮肉っぽく)対比して書かれていると思いますので、「間接」「直接」と、はっきりさせた方がいいと思います。

 なお、Wir möchten . . . sein. は、フィヒテの 1801-5-31 付シェリング宛の手紙から、すこし字句を変えて引用されています(元の訳では147ページ11行目。1856年版では, S. 83, Z. 10)。
(初出 2010.9.29)
(目次)

187 ページ、10 - 18 行目; S. 128. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方が手元に留めておいて今度同封してくださった返事 [31(番の手紙)] のなかの最初の論証については、もちろん、それほどではありません。それは、私の言う絶対的なものの量的なものに関するものですが、貴方にとってこの量的なものは、貴方が見たがっておられる私の『[わが哲学体系の] 叙述』の 25 節からは決して成り立たず、貴方が私の手紙の中で、双対文の後半部を無視していることから生じたのです。そこでは、実はこう言われているのです。「この絶対的なものは、個別的なものにおいては量的な差異という形式のもとで、全体的なものにおいては等しい無差別という形式のもとで実在(現象)する」と。ちょうど今言及した報告のなかの、<私が「都合の良いことに絶対的なものを量的諸形式のもとに実在させている」>という同じ [貴方の] 前提が、私に反対する主要論証としてまたもやみごとに用いられていたのですから、私は笑いを禁じ得ませんでした。
 ([  ] の部分は、元の訳者が付けたものです)。

◆ 原文は:
 Noch mehr freilich, als über die erste Argumentation in der zurückbehaltenen Antwort, welche Sie jetzt beigelegt haben, betreffend das Quantitative meines Absoluten, welches Ihnen keineswegs aus meiner Darstellung §. 25, den Sie ansehen mögen, sondern daher entstanden ist, dass Sie in meinem Briefe die zweite Hälfte des Perioden übersehen, indem es dort heißt: „Dieses Absolute existiert (erscheint) unter der Form der quantitativen Differenz im Einzelnen und der gleichen Indifferenz im Ganzen,“ habe ich darüber lächeln müssen, dass in eben erwähnter Mitteilung dieselbe Voraussetzung, dass ich „glücklich das Absolute unter Quantitätsformen existieren lasse“ – glücklich wieder als Hauptargument gegen mich gebraucht ist, . . .

☆ 拙・改訳では:
 貴方が今回のお手紙に同封してくださった、私にはお出しにならなかった返答 [の手紙] の中に書かれている最初の議論、つまり、私の考える絶対的なものの、量的なことに関する議論よりも――
[なお、] この量について [の貴方の意見] は、決して私の『[私の哲学体系の]叙述』の第25節からではなく(この節を見ていただければと思います)、貴方が私の手紙の中の双対文の後半を、見落としたことから生じたのです。この双対文は、「この絶対的なものは、個別的なものにおいては、量的な差異という形式のもとで存在(現象)します。そして全体においては、量的な無差別という形式のもとで存在するのです」となっています――、
この議論よりも、むろん私に微笑を禁じえなくさせたのは、まさに前述の通知の中に、同じ前提が――私 [シェリング] は「都合よくも、絶対的なものを量の諸形式のうちに存在させている」という前提が――、私への反論の主要な論拠として、都合よくもまた使われていたことでした。 

◇ 拙訳の理由は:
(1) じつに長い 文章で、相当入り組んでもいますが、骨格は:
  Ich habe darüber lächeln müssen, dass . . . , als über die erste Argumentation . . .
 「私は、最初の議論(論証)についてよりも dass 以下のことについて、より微笑せざるをえなかった」です。

(2) den [= §. 25] Sie [= Fichte] ansehen mögen を、元の訳では「貴方が見たがっておられる・・・25 節」としています。しかし、フィヒテがシェリングの『[わが哲学体系の] 叙述』の「25 節を見たい」との文言は、この一連の文通のうちにはありません。逆に、フィヒテは「この体系の叙述を傍らへと押しやった(bei Seite gelegt)」と、述べています(1801-10 付シェリング宛ての手紙。1856 年版では, S. 109, Z. 8. 元の訳では 170 ページ、3 行目)。おそらくフィヒテは、シェリングの『私の哲学体系の叙述』を読むことを、途中でやめたとでも言いたいのでしょう。
 そこで、ansehen mögenmögenは、「催促」の意味であり(相良守峯『大独和辞典』の mögen の項目 5)、「貴方に 25 節を見ていただければと思います」ということでしょう。

(3) 引用文中の der gleichen Indifferenz は、元の訳では「等しい無差別」となっています。しかし、これはその前の der quantitativen Differenz (量的な差異)と対比されているのですから、gleichen quantitativen と同じということで、「量的な無差別」という意味だと思います。
 実際、シェリングの 1801-10-3 付の手紙(引用文中で、シェリングが「私の手紙」と言っているもの)では、der quantitativen Indifferenz . . . im Ganzen と書かれており、gleichen の部分は quantitativen となっています。

(4) lächeln は、「笑う」というより、「ほほえむ。微笑する」です。もともとは、可愛い子供や親しい友人が、ちょっとドジなことをしてしまった――そのようなときのクスッとした笑いです。もちろんシェリングの心中は、怒り心頭ないしは嘲笑いだったのかもしれませんが、ここは「微笑する」というレトリックを活かすべきで、「笑う」と訳したのでは、あまりにもシェリングが不作法な印象になってしまいます。

(5) 引用文中に 2 度にわたって glücklich (都合よく)が使われていますが、シェリングは皮肉を込めてこの語を繰り返しているのですから、同じ言葉で訳す必要があります。
(初出 2010.9.27)
(目次)

185 ページ、7 - 8 行目; S. 125. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・私に有利な意見が、もしも貴方にとって何ほどかの重みをもっているはずであるとすれば・・・・・・

◆ 原文は:
 . . . . . . sollte vorteilhafte Meinung von mir . . . einiges Gewicht für Sie haben, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・私に関する好意的なご意見を・・・いささかなりとも心に留めておられるのでしたら・・・

◇ 拙訳の理由は:
 sollen の接続法第 II 式(接続法過去)の sollten は、「würde, könnte の意味に用いられ、[たんに] 仮定を表す」場合があります(相良守峯『大独和辞典』。[ ] 内は筆者の挿入)。引用文中の sollte は、この場合だと思いす。
 この箇所ではフィヒテは、(修辞的に)謙遜した言辞で述べているのですから、元の訳のように「はずである」とはならないでしょう。
(初出 2013-4-15)
(目次)

185 ページ、5 - 6 行目; S. 125. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・あるいは<(こうした私の仕事の遅れは別にして、私がやはりかつてはまったくまずまずのことを述べていた・・・

◆ 原文は:
 . . . dass ich, -- dies mein Zurückbleiben abgerechnet, ehemals doch ganz erträgliche Sachen vorgebracht . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・(私のこの遅鈍さは別にして)私は以前まともなことを言っていたようであり・・・

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳では Zurückbleiben を唐突に「仕事の遅れ」の意味に解していますが、文脈的にそぐわないようです。zurückbleiben には「ひけをとる。劣る。(発達・発育などが)遅れる」の意味もあり(小学館『独和大辞典 第 2 版』)、ここはフィヒテがレトリック的な自己卑下をしたと、理解した方がいいと思います。
(初出 2013-4-15)
(目次)

185 ページ、1 - 3 行目; S. 125. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・自然哲学には、観念論が対立するのではまったくなく(というのも、自然哲学は、この観念論のただなかにこそ存しているからですが)、叡智的存在の教説である倫理学だけが対立するということが、帰結するのです。

◆ 原文は:
 . . . [es] folgt, dass . . . derselben [= der Naturphilosophie] durchaus nicht der Idealismus (denn in diesem liegt sie mitten darin), sondern nur die Ethik, die Lehre vom intelligiblen Sein, gegenüberstehe.

☆ 拙・改訳では:
 また・・・この [自然] 哲学に対するのは観念論などではなく(というのは、観念論のただ中に自然哲学があるのですから)、たんに倫理学、すなわち英知的存在についての学説なのです。

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳では gegenüberstehe を「対立する」としていますが、「対する。対置される」などが適切だと思います。「対立」というのは一方が成立するときには他方は敗退するという、排他的関係です。しかし、この箇所の前半はフィヒテがシェリングの思想に言及したもので、シェリングは自然哲学と(超越論的)観念論を平行論的に考えています。したがって、両哲学は「対立する」のではなく「対する」のです。
(初出 2010.9.27)
(目次)

184 ページ、16 - 18行目; S. 125. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方 [シェリング] の作品のなかで描いてこられたような超越論的観念論は、本当は、形式主義、つまり一面的なものにほかならず、せいぜいのところ、上質の計画に従って切り離された知識学の一章でしかないということです。

◆ 原文は:
 . . . dass ein transzendentaler Idealismus, wie Sie ihn . . . in Ihrem Werke dargestellt haben, eigentlich nichts weiter ist, als ein Formalismus, eine Einseitigkeit, höchstens ein nach einem nicht guten Plan abgesonderter Abschnitt einer Wissenschaftslehre:

☆ 拙・改訳では:
 ・・・貴方が・・・貴方の著作で叙述した超越論的観念論は、そもそもが形式主義であり、一面的であって、たかだかよろしくない構想のもとに抽象化された、知識学の断片にすぎないということです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 引用文中の 「形式主義(Formalismus)」と「一面性(Einseitigkeit)」は意味を異にし、その間にはコンマしかありません。したがってこの 2 つの語を、元の訳のように「つまり」で結ぶのは、勇み足だと思います。<形式主義であり、また一面的でもある>との意味でしょう。拙訳では、そのまま並置しました。
 
(2) 文中の nicht guten Plan (よろしくない構想)の語句ですが、1856 年版と『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』では、そのように印刷されています。しかし、元の訳(W. シュルツ編纂の版にもとづくとされます)では nicht を付けずに、「上質の計画」となっています。そして、元の訳には訳注(三八)が付けられ、「全集版では『上質ではない』となっている」と注記されています。
 しかし、ここはやはり 1856 年版と『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』にしたがい、nicht を付けてf「よろしくない」と訳出すべきでしょう。といいますのは、
(i) 『アカデミー版』を見ますと、nicht 近辺に編集者注は付いていません。ということは、フィヒテの手紙のオリジナルには、nicht が書かれていたもののようです。

(ii) 内容面からみても、ここでフィヒテはシェリング的超越論的観念論を非難しているのに、その観念論に対し、「[シェリングの] 上質の計画」云々という肯定的形容を付ける理由はありません。

(3) absondern のもともとの意味は、なるほど「切り離す」です。しかし、哲学的な「抽象する」という意味もあります(相良守峯『大独和辞典』および小学館『独和大辞典 第 2 版』)。(ちなみに、abgesondert は「抽象の」という意味も持ち、用例としては、abgesonderter Begriff (抽象概念)があります(相良守峯『大独和辞典』)。
 そこで、文中の abgesonderter をどう訳すかはなかなか悩ましいのですが、拙訳では一応「抽象化された」にしました。いずれにしても abgesonderter は、「十全ではなく偏頗(へんぱ)な」という意味ではあります。

(4) 元の訳では ein . . . Abschnitt が「一章」となっています。この「一章」は比ゆ的意味に使われているのかもしれませんが、「一章」と訳出すると特定のある章だけを指すようなイメージになります。Abschnitt のもともとの意味は「断片。部分。」ですので、そう訳した方が自然だと思います。
(初出 2010.9.27)
(目次)

184 ページ、13 - 14 行目; S. 124. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・あらゆる第二の言葉は、このものを歪めるものなのです。。

◆ 原文は:
 . . . jedes Zweite Wort ist vom Übel.
 
☆ 拙・改訳では:
 ・・・それ以上の言葉はすべて「悪より来るのです」。

◇ 拙訳の理由は:
 この部分は、聖書からの引用だと思います。相良守峯『大独和辞典』の Übel の項目に、「. . . was darüber ist, das ist vom Übel それ以上に出ることは、悪から来るのである(マタイ伝の 5 の 37)」という用例があります。
 したがって、引用文中の von は、「~から。~より」の意味です。
(初出 2015-5-19)
(目次)

184 ページ、7 - 8 行目; S. 124. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 それは貴方がまさに行っていることでもありますが、知識学によっては決して正当化されないことなのです。

◆ 原文は:
 . . . wie Sie eben auch -- durch die Wissenschaftslehre keineswegs berechtigt –– tun.
 
☆ 拙・改訳では:
 ちょうど貴方 [シェリング] も――知識学によって根拠づけられることなく――していますように。

◇ 拙訳の理由は:
 berechtigt (正当化されて。根拠づけられて)は、文法的には明らかに tun にかかります。そこで率直に、「根拠づけられることなく――していますように」と訳出しました。
 元の訳のように<貴方が行っていることは、知識学によっては正当化されない>としたのでは、事態がすこし異なってきますし、フィヒテがいかにも自分の哲学(知識学)の権威を振りかざしているように聞こえます。
(初出 2010.9.19)
(目次)

184 ページ、1 行目; S. 124. (フィヒテ→シェリング)
★ 元の訳での箇所は:
 ――スピノザの場合がそうなのです。

◆ 原文は:
 -- So ergeht es Spinoza.
 
☆ 拙・改訳では:
 スピノザについては、事態はこうです・・・

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳では、引用文冒頭の So を引用文より前の内容にとっています。しかし、前の内容は「絶対的なものは、何ものかについて見ることではありえない」ということです。そして、引用文直後の内容は、それとは関係のない「一はすなわち一切」ということに関してです。したがって、元の訳のように「スピノザの場合がそうなのです」としたのでは、文脈がつながらなくなります。
 そこで拙訳では、So は引用文より後の内容を示すものと、解しました。
(初出 2013-5-10)
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183 ページ、16 行目; S. 124. (フィヒテ→シェリング)
★ 元の訳での箇所は:
 貴方は答えて、或るものについて<見ること>など決して存在しえない、とおっしゃいました。

◆ 原文は:
 Sie erwiderten, es könne kein Sehen von Etwas sein,
 
☆ 拙・改訳では:
 貴方 [シェリング] は、<絶対的なものは、何ものかについて見ることではありえない>、と答えたのでした。

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳では副文の部分が、「或るものについて<見ること>など決して存在しえない」です。しかしそれでは、シェリングが直観一般を否定していることになり、内容的におかしくなります。そこで、
(i) 副文の主語 es はこの引用文の直前の文の das Absolute (絶対的なもの)だと思います。

(ii) 副文の sein は、存在を意味するのではなく、繋辞(けいじ)「~である」でしょう。
(初出 2012.12.17)
(目次)

183 ページ、10 行目; S. 123. (フィヒテ→シェリング)
★ 元の訳での箇所は:
 ・・・もっと高次の地点が存在するのです(61)

(61) シェリングの欄外注記――「理想と現実について」。[203 ページの原注]

◆ 原文は:
 Aber es gibt einen noch höheren [Punkt], . . . ; dieser Punkt ist eben auch ein Wissen (nur nicht von etwas, sondern das absolute)g’ und in diesem . . . ,
 
g’ am Rande von Schellings Hand: Über Ideal u. Real.

☆ 拙・改訳では:
 しかし、これよりなお高い地点があるのです・・・この地点も、まさしく知です(ただ、何かについての知ではなく、絶対的な知です)(g’)。そして・・・この地点に・・・

◇ 元の訳の問題点は:
 元の訳では注の記号 (61) [筆者の方で赤字にしました] が、上記に引用したように付けられています。しかしこれでは、フィヒテが「もっと高次の地点が存在するのです」と述べたことに対して、シェリングが<そのような地点が存在するというのは、貴方フィヒテの理想であって、現実は・・・>と、冷かしているかのようです。
 ところが、
(i) 原注 (61)に相当するのは『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』、112ページの注「g’」 [筆者の方で赤字にしました] ですが、これが打たれている箇所は、元の訳とは違い『アカデミー版』では2行下の、「das absolute)」の次です(上記の「原文は:」を参照して下さい)。

(ii) したがって、上記原文の注 g’ の説明文中の Ideal は、元の訳のように「理想」を意味するのではなく、「理念的」ということで「絶対的な知」が念頭に置かれていた可能性があります。そして Real は「現実」ではなく「実在的」という事で「何かについての知」です。
(初出 2013-5-9)
(目次)

183 ページ、6 - 9 行目; S. 123. (フィヒテ→シェリング)
★ 元の訳での箇所は:
 そうだとすると、貴方の地点は、もちろん、貴方が知識学に帰している相関的な知におけるそれよりも、もっと高次のところにあるわけですし、貴方の地点が第三であるとすれば、貴方が知識学に帰しているそれは第二だということになります。

◆ 原文は:
 Ihr Punkt liegt also allerdings höher, als der im relativen Wissen, den Sie der Wissenschaftslehre zuschreiben, und ist Nr. 2, wenn jener Nr. 3 ist.

☆ 拙・改訳では:
 したがって貴方 [シェリング] の立脚点は、相関的な知における立脚点――貴方が知識学に帰しているところの立脚点です――より、なるほど高いところにあります。相関的な知の立脚点が 3 番目だとすれば、貴方の立脚点は 2 番目です。

◇ 拙訳の理由は:
(i) 元の訳では、内容的に矛盾することになります。つまり、「貴方の地点(立脚点)」が「知識学に帰している」ものより「高次」であるのに、「貴方の地点」が「第三」で、「知識学に帰している」ものが「第二」になっています。

(ii) 引用文中の ist Nr. 2 の主語は、文法的に Ihr Punkt (貴方の地点)以外にありえません。そこで、「貴方の地点は 2 番目です」となります。
 したがって jener は、der [Punkt] im relativen Wissen (相対する知のうちの地点)になります。なるほど文法的には、jener ではなく、dieser が適していたのかもしれませんが、フィヒテの念頭には主語となっているIhr Punkt が強くあったために、これが dieser だったのでしょう。
(初出 2012.12.17)
(目次)

182 ページ、10 行目; S. 122. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 また、貴方の体系は、まったくもって根本的-反射 Grund-Reflexe にまで高められてはいません・・・

◆ 原文は:
 Das Ihrige [System] erhebt sich eben nicht zum GrundReflexe . . .
 
☆ 拙・改訳では:
 貴方の体系は、まさに根本的な反省にまでは高まっていません。

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳のように GrundReflexe を「根本的-反射」としたのでは、文意が分からなくなります。この引用文の次には、「私の体系が・・・反省の立場に留まったままである(das meinige . . . auf dem ReflexionsPunkte stehen geblieben.)」という文が続き、「反省(Reflexion)」の語が登場します(元の訳も、「反省」となっています)。そこで、GrundReflexe Reflexe も「反省」の意味でしょう。
(初出 2012.12.5)
(目次)

182 ページ、6 - 8 行目; S. 122. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方 [シェリング] は、ご自分がどちらについても [=貴方の存在と貴方の知] 知りかつ語っている以上は、両者を、それよりも高次のものを通して説明せざるをえないのです。貴方はまさにこの高次のものについても知っているに違いありませんし・・・

◆ 原文は:
 . . . und Sie müssen, da Sie von beiden wissen, und reden, beides durch ein höheres erklären, von dem Sie eben auch wissen müssen . .
 (文末最後にピリオドが 2 個あるのは、『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』にしたがっています)

☆ 拙・改訳では:
 そして貴方 [シェリング] がこの両者 [=シェリングが主張する存在と知] について知り、語るからには、貴方は両者をより高いものによって説明しなければなりません。このより高いものについても、貴方はまさしく知らなければならないのです。

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の 2 つの müssen の意味が問題です。
(i) 引用文後半には auch (~もまた)があるので、前半と後半は似たようなことを言っているはずですから、2 つの müssen は同じ意味だろうと思われます。

(ii) 元の訳のようにmüssen を「~せざるをえない。~のはずである」の意味にとりますと、文脈においてフィヒテがこの文章で何を言おうとしているのか、分かりにくいようです。

(iii) したがって、 2 つの müssen は「しなければならない」だと思います。
 つまりフィヒテによれば:
・「貴方 [シェリング] の体系はそれ自体としては(知識学による暗黙の説明抜きには)明証性をもちませんし、得ることもまったくできないのです。貴方の最初の命題 [つまり、「私 [シェリング] は絶対的理性を――すなわち、主観的なものと客観的なものとの全くの無差別として考えられた理性を――、理性と呼ぶ」] が、ただちにこの事を示しています」(フィヒテの 1801-5-31付の手紙)。
・「貴方 [シェリング] は・・・[絶対的なものについての重要な] 問いを、必然的に無視せざるをえな」かったことになります(フィヒテの 1801-10 日付なしの手紙)。
 そこでフィヒテは、「より高いもの [つまり、上記の「理性」、「絶対的なもの」] についても、貴方 [シェリング] はまさしく知らなければならない」と、主張しているのでしょう。
(初出 2012.12.16)
(目次)

182 ページ、4 - 6 行目; S. 122. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ――そして、私は付け加えますが、そうして、こうであるに違いないのですが、貴方の存在と貴方の知そのものは、[両者の] 相関関係のなかにしか存在していないわけですし・・・

◆ 原文は:
 -- Und -- setze ich hinzu -- so muss es sein -- Ihr Sein, und Ihr Wissen selbst sind auch nur in Relation . . .
 (『アカデミー版全集 III, 5』によります。1856 年版では、上記 4 カ所のダッシュ(――)がありません。)

☆ 拙・改訳では:
 ――そして、付け加えて言いますと、そうであらざるをえないのです―― [。] 貴方が [主張する] 存在と知そのものも、また関係のうちにあります。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 元の訳では、so muss es sein 「こうであるに違いない」のは、後の文章の内容だとしています。しかしもしそうであれば、Und . . . so muss es sein の文の前と後にダッシュ(――)を入れて、挿入文にする必要はなく、ふつうに Und es muss so sein, dass . . . でよかったと思います。したがって、Und . . . so muss es sein は、その前の文の内容に対するフィヒテの感想だと思います。
 この引用文の前の箇所で、フィヒテは次のように述べています:

 「貴方 [シェリング] の雑誌の第 1 号の多くの箇所で、貴方は、『すべての量や関係は、絶対的なものにはまったく属さない』と表明しています。ところが実際に貴方は、私の手紙で引きあいにだした箇所を書き記しているのですし、また貴方の最新著『[私の哲学体系の] 叙述』でも、たしかに同様なことをかなりはっきりと述べています」。(イタリックは、筆者)

 上記イタリックの部分が、フィヒテの考えでは、 so muss es sein 「そうであらざるをえない」ということなのでしょう。
 なお、上記引用文中の「私 [フィヒテ] の手紙で引きあいにだした箇所」というのは、「『絶対的なものは・・・量的な差異のもとに存在する』と、貴方 [シェリング] は『[私の哲学体系の] 叙述』で主張していると、貴方は言います」の部分です。 
 つまり、フィヒテの論旨は――
(i) まずフィヒテは、今問題の前の文のイタリックの部分で、<貴方シェリングは、「絶対的なものは量的差異においてある」と主張しているではないですか>と、述べます。同時に言外の含みとして、<貴方シェリングは、「絶対的なものは関係においてある」とも主張しているのですよ>ということでしょう。
(ii) そして、<絶対的なものが量や関係においてあるのは、「そうであらざるをえないのです」と、フィヒテは感想を述べます。
(iii) その後、「貴方が [主張する] 存在と知そのものも、また関係のうちにあります」と、文を続けているのだと思います。

(2) そこで、元の訳では「もまた(auch)」が訳出されていませんが、ここはあって欲しいところです。

(3) 182 ページ、2 行目の項の (1) でも述べましたが、Relation(関係)を「相関関係」と訳すのは、行き過ぎだと思います。
(初出 2012.12.6)
(目次)

182 ページ、4 行目; S. 122. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方の新しい叙述全体は、きっと、もっと強い種類のものなのでしょう。

◆ 原文は:
 . . . und Ihre ganze neue Darstellung hat wohl kräftigere der Art.
 
☆ 拙・改訳では:
 ・・・貴方の最新著『[私の哲学体系の] 叙述』でも、たしかに同様なことをかなりはっきりと述べています。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 引用文中の Darstellung は、この手紙の書かれた前年の 1801 年に出版された、シェリングの『私の哲学体系の]叙述』を指すと思われます。ちなみに、『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』にはDarstellung に編集者注 (37) が打たれており、「『私の哲学体系の叙述』の§2 を参照」となっています(S. 111)。

(2) そうすると、kräftigere の後に省略されている名詞は、Darstellung ではなく、この引用文の直前にある Stelle(箇所)でしょう。したがって kräftigere Stellen となり、「かなりはっきりと [述べられた] いくつかの箇所」という意味です。

(3) そこで引用文中の ganze は、形容詞「全体の」として Darstellung に懸るというより、副詞「まったく」として neue を修飾するのではないでしょうか。つまり、「まったく新しい」という意味です。現代表記であれば、ganz になる語だと思います。

(4) 引用文は、フィヒテがシェリングを批判している文脈中にあります。すると元の訳のように、フィヒテは当該のシェリングの本を読まずに、「きっと(wohl)」という予測でもってその本に批判的に言及したというのは、いささか考えづらいものがあります。実際、フィヒテは前年に出版された『私の哲学体系の]叙述』を読んでおり、その感想メモを残しています。
 そこで、この wohl は「たしかに」という意味です。

(5) 引用文中の kräftigere は、他とは比較しない比較級の絶対的用法だと思います。したがって、「かなりはっきりと」の意味です。
(初出 2013-4-29)
(目次)

182 ページ、2 行目; S. 122. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方は・・・量や相関関係はどれもすべて絶対的なものには属さない、と表明して・・・

◆ 原文は:
 Sie bezeugen es . . . dass alle Quantität und Relation durchaus nicht in das absolute fällt . . .
 
☆ 拙・改訳では:
 ・・・「すべての量や関係は、絶対的なものにはまったく属さない」と、貴方は表明しています。

◇ 拙訳の理由は:
(1) Relation は「関係」一般ですから、元の訳のように「相関関係」では、意味が狭くなってしまいます。なお、広辞苑(第5版)によれば相関関係とは:
 「一方が他方との関係を離れては、意味をなさないようなものの間の関係。父と子、右と左など」。
 
(2) 元の訳では、強調の durchaus が訳出されていませんが、ここはあって欲しいところです。
(初出 2010.9.18)
(目次)

181 ページ、16 行目 - 182 ページ、1 行目; S. 122. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・私の心を動揺させるもののようです。だからこそ、私は先の手紙で強調しておいた箇所に下線を施しておいたのですが、貴方は、もちろんそれを冷笑されることでしょう。

◆ 原文は:
 . . . würde mich . . . bewegen. Sie werden freilich über die im demselben [= dem früheren, beigelegten Brief] angestrichene Stelle, die ich eben deswegen angestrichen habe, lächeln.
 
☆ 拙・改訳では:
 ・・・には・・・心を騒がせるものがあります。貴方は、前の手紙で私が線を引いた箇所を――そうならないためにこそ、線を引いたのですが――むろんまじめに取り合わないかもしれません。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 元の訳では、deswegen (~だから。そのために)は、直前の「私の心を動揺させる」を受けているようです。しかしそれでは、なぜフィヒテが、自分の心が動揺する(のを防ぐ?)ために、先の手紙の(重要な)箇所に強調の線を施したのか、理由がよく分かりません。
 フィヒテは文章の途中で、これから書こうとしている事柄の理由・正当性を、その事柄より先に、直前に示すことがよくあります(頭の回転が早い人の特徴ですね)。そこでこの場合も、deswegen (そのために)は直後の lächeln を指しているのではないかと思います。
 フィヒテが前の手紙において線を引いたのは、シェリング哲学の原理を批判した箇所です。そこでシェリングとしては、そのような批判は当たっていないとして、軽視するかもしれません。それでは困るというので、フィヒテは強調の線を引いたというわけです。
 したがって、deswegen の訳としては、文脈上の意味を考慮し、否定の意味を添えた「そうならないために」が、適当だと思われます。

(2) なお元の訳では、angestrichen が「下線を施しておいた」となっていますが、「下線」ではないようです。『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』の編集者注 d (S. 91) には、「左側の余白に・・・線が引かれている。その傍らには、フィヒテの筆跡で N. B. [notabene 注意せよ]」 とあります。
 そこで拙訳では、たんに「線を引いた」としました。

(3) lächeln über et. は熟語で、「et. をまじめに取り合わない」の意味です。むろん元々は、「~について笑ってすます」という意味だったのでしょう。
 ちなみに、元の訳にある「冷笑」するは、小学館『独和大辞典 第 2 版』では höhnisch/verächtlich lächeln となっており、しかるべき副詞(höhnisch/verächtlich)が必要なようです。
(初出 2012.11.30)
(目次)

173 ページ、4 - 5 行目; S. 112 - 113. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 かつて私に喜びを与えてくれた貴方の筆跡と封印を見て私が苦渋を味わったり、それを予期して私が身構えたりすることを・・・

◆ 原文は:
 . . . dass ich bei der Erblickung Ihrer Hand und Ihres Siegels, die ehemals mir Freude machen, auf Bitterkeiten gefasst sein und gegen sie mich waffnen soll.
 
☆ 拙・改訳では:
 私が貴方の [手紙に書かれた宛名の] 筆跡と [封緘(ふうかん)の] 印章を見るとき――これらは、かつて私に喜びをもたらしたのですが――、[貴方の] 辛辣な言葉に備えて自分を武装せねばならないといったことを・・・ 

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の Bitterkeiten ですが、これはシェリングのフィヒテへの「辛辣 [な言葉]」だと思います。元の訳のように「[私フィヒテの] 苦渋 [な思い]」だとすれば、その後の gegen sie ( = Bitterkeiten) mich waffnen(それに対して自分を武装する)の意味が、おかしいことになります。
(初出 2012.11.28)
(目次)

172 ページ、12 - 15 行目; S. 112. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 そうすれば・・・私が大切な事柄だとみなしていることのためにも、貴方のような優れた頭の持ち主を味方につけておくことができるでしょう。

◆ 原文は:
 . . . und so würde . . . ein eminenter Kopf, wie Sie, dem was ich für die gute Sache halte, erhalten werden können.
 
☆ 拙・改訳では:
 そのようになれば・・・貴方のような傑出した頭の持ち主が、私が正しいと思うことのために [やがて活動するべく] 守られていることができるでしょう。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 引用文中の die gute Sache は、「大切な事柄」というよりも、端的に「正義」でしょう。小学館『独和大辞典 第 2 版』に、gut の項目で「eine gute Sache 正義」、Sache の項目で「für eine gerechte <gute> Sache kämpfen 正義のために戦う」があります。

(2) 引用文中の erhalten ですが、「Gott erhalte den König! 神よ国王を守りたまえ(国王万歳)」(相良守峯『大独和辞典』)の用法がありますので、ここは erhalten werden で「守られる。大切に保存される」といった意味だと思います。
(初出 2012.11.28)
(目次)

172 ページ、4 行目; S. 111. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・ですって。友よ、一体いつから私が・・・というのでしょうか

◆ 原文は:
 . . . Lieber, seit wann soll ich . . .
 
☆ 拙・改訳では:
 ・・・ですって。そんなばかな。いったいいつから、私は・・・というのですか。・・・ 

◇ 拙訳の理由は:
 Lieber ですが、相良守峯『大独和辞典』の文例に「Lieber gar! そんなばかなことを(疑惑・拒否・驚嘆を表す)」というのがありますので、ここはその意味だと思います。
(初出 2012.11.23)
(目次)

170 ページ、9 行目; S. 109. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 これらの問いは、終局にまで到達した思弁が解決すべき問いであり・・・必然的に貴方の無視せざるをえない問なのです。

◆ 原文は:
 . . . das ist die Frage, welche die bis zu Ende gekommene Spekulation zu lösen hat, und welche Sie . . . notwendig ignorieren müssen.
 
☆ 拙・改訳では:
 これらの問いを、完成した思弁は解かねばならないのですが、貴方はこれらの問いを、必然的に無視せざるをえないのです・・・ 

◇ 拙訳の理由は:
 und には、「~と~。および」の意味以外に、「文と文を結合」するとき「(対比・対照を示して)一方。それなのに」の意味もあります(小学館『独和大辞典 第 2 版』)。
 ここの引用文での用法は、後者の意味だと思いますので、文章の前半(思弁の使命)と後半(シェリングの場合)の対比を、明確にしたほうがいいでしょう。
(初出 2012.11.19)
(目次)

169 ページ、15 行目 - 170 ページ、 1 行目; S. 108 - 109. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 「絶対的なものは」・・・「量的な差異という形式のもとに実在する」と、私が私の叙述の中で主張していると、貴方はおっしゃいます。

◆ 原文は:
 ,,Das Absolute'' . . . ,,existiert unter der Form der quantitativen Differnz,'' behaupte ich in meiner Darstellung, sagen Sie.
 
☆ 拙・改訳では:
 「絶対的なものは」…「量的な差異のもとに存在すると、私 [シェリング] は『[私の哲学体系の] 叙述』で主張している」と、貴方 [シェリング] は言われます。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 元の訳では、引用文中の ich meiner がフィヒテのようになっていますが、どちらもシェリングを指します。フィヒテはこの箇所で、シェリングの前便(1801-10-3 付)に言及しています。

(2) したがって、Darstellung (叙述)はシェリングの『私の哲学体系の叙述』のことです。
(初出 2012.10.16)
(目次)

168 ページ、3 - 6 行目; S. 106 - 107. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ところで、私は、貴方の哲学を叙述しようとしてきたわけですが、この点でも一度たりとも旨くいった試しがなかったということ――敬愛するフィヒテ、これは実際辛すぎることで、特に、最初の事柄 [雑誌の計画の件] が終わったあと、何の根拠もなく貴方の言葉が第二のこと [ふたりの哲学の相違をめぐる人格問題] にも及んだときにはそうでした。
 (上記引用文中の [ ] は、元の訳の原文。)

◆ 原文は:
 Aber die Ihrige haben darstellen wollen, und auch darin nicht einmal glücklich gewesen zu sein – lieber Fichte, dies ist wirklich etwas zu hart, besonders da wenn das Erste ausgemacht ist, über das zweite Ihr Wort ohne alle Gründe hinreicht.
 
☆ 拙・改訳では:
 しかし、私は貴方の哲学を叙述しようと望んだ、しかもそれも上手くいきはしなかった [などと貴方から言われたこと] ――親愛なるフィヒテ、これは本当にいささかつらすぎます。とりわけ、私は叙述しようと望んだことがないのがはっきりしているときに、上手くいかなかったことについての貴方の発言が、まったく何の根拠もないままに及んで行くのですから。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 元の訳では、内容的におかしなものになっているようです。この引用箇所は、前の段落の内容を受けています。前の段落ではシェリングは、フィヒテが彼の『新しい知識学』の予告広告において自分を不当に評価し(フィヒテの「協力者」)、またそこでは自分が「フィヒテを理解していない」ことが暗示されていると、フィヒテを非難しています。問題の予告広告は、以下のとおりです:

 「私の才気あふれる協力者であるシェリング教授が、彼の自然科学の著作や、新しく出版した超越論的観念論の体系において、超越論的な見解を普及させることに、どれほど成功しているか、それをここで調べようとは思っていない 」。 (これの原文は――そして予告広告の全文も――、ここで読めますInwiefern es meinem . . . で始まる段落です。)

 予告広告文中の「超越論的な見解」は、フィヒテ哲学のことですし、「どれほど成功しているか」の含意は、むろん「成功はしていない」ということです。したがって、フィヒテはここで、「シェリング教授は私の協力者として、彼の著作で私の哲学を叙述しようとしたが、成功してはいない」と、読者に向けて表明したことになります――シェリングの目には、そのように映ったのでした。このようなフィヒテに対して、シェリングはここで反論しているのです。

(2) nicht einmal はよく出てくる熟語で、強い否定を表します。「~でさえない」の意味で、「一度も~ではない」ではありません。

(3) 元の訳では、das Erste (最初の事柄)を、突然「雑誌の計画の件」だとし、das zweite (2 番目のこと)を、これまた出し抜けに「ふたりの哲学の相違をめぐる人格問題」としていますが、無理があります。
 (i) 「最初の事柄」は、前の文の前半「[シェリングが] 貴方の哲学を叙述しようと望んだ」という問題を、指しているのではないでしょうか。そして、ausgemacht は「はっきりしている。確実である」という意味であり、「シェリングがそのように望んだことはないことが、はっきりしている」ということです。
 これはむろん、当のシェリングについては自明ですが、フィヒテにも「はっきりしてい」たとシェリングが考えていることは、この引用文と同じ段落の少し後で、
 「貴方 [フィヒテ] が読者の前でそのように私を [フィヒテの協力者と] 見なしたときには、私が貴方と同一の目標を持っていないことは、貴方ご自身もすでに十分知ることができた」
と書いていることから分かります。

 (ii) 「第二のこと」は、前の文の後半「[シェリングがフィヒテ哲学を叙述しようとして] 上手くいかなかった」という問題を、指しているのでしょう。そもそも「叙述しようと望ん」ではいないのですから、叙述が「上手くいかなかった」という主張には、「まったく何の根拠もない」ことになります。

(4) über das zweite über を、元の訳のように「~に(及ぶ)」の意味にとるのは、字義的に無理ではないでしょうか。拙訳では、「~について」の意味にとり、次の、Ihr Wor を修飾させています。
(初出 2012.11.9)
(目次)

167 ページ、13 - 168 ページ、1 行目; S. 106. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 けれども、私たちの間の差異がこれ以上かまびすしいものにならないようにというご希望の意味するところは、その差異を公然のものとすることが貴方にとって好都合になるまでは、私にはただ待つだけにして欲しいということなのでしょう。あるいは、貴方が新しい知識学の広告などにおいて、私を貴方の才気溢れる協力者として賞賛し、その際、公衆にはきわどく隠微に、ニコライたちや『[新] 一般ドイツ叢書』の批評家たちには気づかれるような仕方で、私が貴方を理解していないとこっそりと教えるといったことを、とにかく私が貴方に許容するということなのでしょう。だとすれば、[貴方の] この提案がどこか不当なものだということは、十分おわかり頂けるでしょう。
 (上記引用文中の [ ] は、元の訳の原文。)

◆ 原文は:
 Sollte aber der Wunsch, dass die Differenzen zwischen uns weiter nicht laut werden, so gemeint sein, dass ich damit nur so lange warte, bis es Ihnen gelegen ist, sie laut werden zu lassen, oder dass ich Ihnen indes erlaube, in Ankündigungen der neuen Wissenschaftslehre u. s. w. mich als Ihren geistvollen Mitarbeiter zu rühmen, dabei aber dem Publikum auf eine feine und versteckte Weise, dass es auch die Nicolais und Rezensenten der Allg. D. B. merken, unter die Füße zu geben, dass ich Sie nicht verstehe, so sehen Sie wohl, dass dieser Vorschlag etwas unbillig ist.
 
☆ 拙・改訳では:
 しかし、私たちの間の相違をこれ以上表立てないようにという貴方の希望が、もし、
[・] 貴方にとって相違の表立つのが都合のいい時まで、私はたんに待っているいうことでしたら、
[・] あるいは待っている間に、貴方の「新しい知識学」かなにかの予告広告において、[貴方が] 私を才気ある協力者として誉めることを――しかもその際、ニコライのような輩や「一般ドイツ叢書」の批評家達が気付くような密かな巧みな仕方で、読者に私が貴方を理解していないことをこっそりと知らせることも――、私が許すということでしたら、
この [前段落での私の] 提案はいささか不適切であると、貴方の目にはたしかに映ることでしょう。

◇ 拙訳の理由は:
(i) 込み入った長文ですが、まず文の構造を見ますと、冒頭の仮定を表している副文は、Sollte aber . . . から nicht verstehe までです。元の訳ではこの仮定の部分を、
  a. 「・・・待つだけにして欲しいということなのでしょう」とか、
  b. 「・・・許容するということなのでしょう」と、
シェリングの主張のように意訳(?)しています。
 しかし、シェリングとしても、フィヒテが ab のような企みを実際に持っているとはさすがに思っていないはずで、ただ結果的に ab の事態になるのは困るということです。
 もしここの文意が、元の訳のように ab のような主張だとすれば、これはもう完全にフィヒテに喧嘩をふっかけたことになりますが、それはちょっと考えられません。あくまでも、非現実の接続法 Sollte を使った仮定文なのです。(とはいえ、ここの箇所がフィヒテを怒らせたであろうことは、想像に難くありません。シェリングも相当、感情的になっています。)

(ii) 最後に置かれた dass 節内の dieser Vorschlag は、フィヒテの提案ではなく、シェリングの前段落での 2 つの提案を指していると思われます。もともと引用したこの段落は、最初の文で aber が使われていることからも分かるように、前段落を受けて書かれているのです。
(初出 2012.11.9)
(目次)

167 ページ、3 - 11 行目; S. 105 - 106. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 私の最近の叙述を参照・・・この叙述では十分でないと・・・私の叙述の続きは・・・貴方にも、私の叙述が完成するのを・・・「私が貴方の叙述を読んだかぎりでは」・・・

◆ 原文は:
 . . . ich [Schelling] . . . auf meine letzte Darstellung verweisen darf. Sollte diese nicht hinreichend sein . . . Die Fortsetzung meiner Darstellung . . . Sie die Vollendung meiner Darstellung . . . So weit ich in Ihrer Darstellung geslesn habe . . .
 
☆ 拙・改訳では:
 最近の私の [著作] 『叙述』の参照を・・・もしこの『叙述』が十分ではないのでしたら・・・私の『叙述』の続きも・・・私の『叙述』の完成・・・「私が貴方の『叙述』を読んだ限りでは」・・・

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳で<叙述>となっているのは、この年の 1801 年に出版されたシェリングの『私の哲学体系の叙述』を指します。したがって、<叙述>の語句に「 」か『 』を付けないと、大変まぎらわしいことになります。
(初出 2012.11.7)
(目次)

165 ページ、17 - 8 行目; S. 104. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ご自分の体系の大部分をもってしても、むしろ決して自然から抜け出てはいない以上、貴方がその体系によって自然を無化してしまったと考えておられることは、歴然としています。

◆ 原文は:
 Nicht undeutlich sind Sie der Meinung, durch Ihr System die Natur annihiliert zu haben, da Sie vielmehr mit dem größten Teil desselben nie aus der Natur herauskommen.
 
☆ 拙・改訳では:
 まぎれもなく貴方のお考えとしては、ご自身の体系によって自然を絶滅させてしまったということのようですが、むしろ貴方はご自身の体系の大部分で、自然から決して外に出てはいないのです。

拙訳の理由は:
(1) 元の訳の「無化する(annihilieren)」という用語は、フッサールやサルトルなどの現象学を訳出するのに使われだした造語です。それをシェリングの文章にまで及ぼしたのでは、意味が不分明になります。
 この引用文では、シェリングはすこし皮肉っぽくフィヒテに抗議していると思われるので、 annihilieren を「絶滅」と訳出しました。

(2) 文中の da は、よく使われる「~なので」ではなく、相反の副文を導く「~でありながら」だと思います。後者の意味の時には、ふつう dochdahingegen を伴うようですが(相良守峯『大独和辞典』)、その代わりに vielmehr が使われているのではないでしょうか。
(初出 2010.9.10)
(目次)

165 ページ、11 行目; S. 103. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方は、「感性界、あるいは(?)自然は・・・」と述べています。

◆ 原文は:
 Sie sagen „die Sinnenwelt, oder (??) die Natur ist . . .
 
☆ 拙・改訳では:
 貴方 [フィヒテ] は、「感性界、すなわち(??)自然は・・・」と述べています。

◇ 拙訳の理由は:
 この箇所でシェリングは、フィヒテからの前便の一節を引用していますが、oder の後におかれた (??) はシェリングが挿入したものです。したがって、この (??) が活きるような訳にする必要があります。そこで、oder は「あるいは」ではなく、「すなわち」です。
 つまり、フィヒテが「感性界」とシェリングの「自然」を、oder (すなわち)でつないで等しいと見なして、いわば矮小化したのに対し、シェリングは(??)を挿入して、<それはどうでしょうか>と抗弁したのです。

 このフィヒテ引用文の元の文(1856年版では, S. 89, Z. 14)は、元の訳では 152 ページ 17 行で「・・・感性界あるいは自然は・・・」となっています。その箇所での「あるいは」を、「すなわち」に訂正するよう求めなかったのは、日本語の「あるいは」は、広義では「すなわち」を含意するからです。が、そこでも「すなわち」の訳が、ベターではあります。

  なお、フィヒテの考えでは、「感性界」と「自然」が「(狭義の)あるいは」ではなく、「すなわち」で結合されることは、元の訳にも次のようにあることから明らかです:
 「・・・意識のこの小さな領域のうちに感性の世界、つまり自然が存在するのです」(注)(151ページ7行目)
 原文は: . . . in dieser kleinen Region des Bewusstseins, liegt eine Sinnenwelt: eine Natur. [1856 年版ではS. 87, Z. 18])

---------------------------------
(注)むろん、シェリングの自然に対するフィヒテのこの矮小化に対して、彼は反応を示します。『アカデミー版全集 III, 5』の編集者注によれば、シェリングはこの箇所の欄外に、「NB(注意せよ)」と書いているとあります(48 ページ)。
 そしてシェリングは、1801 年 10 月 3 日付けのフィヒテ宛の手紙で、こうしたフィヒテの考えに言及しています:
 「あなたの自然概念によれば、貴方にとって自然が、意識のいかなる小さな領域に属さねばならないかということ、このことを私は十分知っています」。(元の訳では、166 ページ、12 行目。1856 年版では, S. 104, Z. 25)
(初出 2010.9.12)
(目次)

165 ページ、6 行目; S. 103. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 しかし、私に対してそれとはまったく別の武器をもっているフィヒテが・・・

◆ 原文は:
 Aber Fichte, der noch ganz andere Waffen gegen mich hat, . . .
 
☆ 拙・改訳では:
 それにしても、私に対しこれとはまったく別の論拠をおもちのフィヒテともあろう人が・・・

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳の「武器(Waffen)」には、いささかギョッとさせられます。まだこういう場合の日本語としては、なじんでいないようです。Waffen には、比ゆ的意味として「論拠」があります(小学館『独和大辞典』第2版)。
(初出 2010.9.10)
(目次)

165 ページ、2 - 5 行目; S. 103. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 私が、誰かに向かって、旧約聖書にはさまざまな神話 Mythen があると主張し、その人がそれに答えて、旧約聖書は神の唯一性を説く以上、どうしてそうなるはずがあろうか、と言ったとします。その人が「神話 Mythologie」という言葉を聞けば、どうしてもそれに、ありきたりの神話学 Götterlehre という概念をむすびつけざるをえなくなるとすれば、それは私の責任でしょうか。

◆ 原文は:
 Wenn ich gegen jemand behaupte: Im alten Testament sind Mythen und er antwortete darauf: Wie sollte das sein, da es ja die Einheit Gottes lehrt, wäre es meine Schuld, wenn dieser [Jemand] das Word „Mythologie“ nicht hören könnte, ohne damit den trivialen Begriff der Götterlehre zu verbinden?
 

☆ 拙・改訳では:
 もし私が誰かに向かって、「旧約聖書には、いくつかの神話(Mythen)がある」と主張し、彼が「そんなはずはない。旧約聖書は、神が唯一であることを教えているのだから」と、答えたとします。では、彼が「神話(Mythologie)」 という言葉に、ありきたりの多神論(Götterlehre)という概念を結びつけてしまうのは、私の責任なのでしょうか。

◇ 拙訳の理由は:
 Götterlehre は辞書には「神話学」となっていますが、この意味では文意が通じません。この語を構成する Götter は「Gott (神)」の複数形なので「多神」、lehre は「教義、説」なので「論」と解すると、Götterlehre は「多神論」ということになります。
(初出 2012.10.27)
(目次)

164 ページ、17 行目 - 165 ページ、1 行目; S. 103. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ただ、哲学上の問題における判断は、もしその問題の理解ないし無理解に関する証明書を貴方から交付されさえすれば良いというのであれば、当然のことながら、かなりのものを奪われてしまうことでしょう。

◆ 原文は:
 . . . obgleich freilich das Urteil in philosophischen Dingen um ein Beträchtliches erleichtert wäre, wenn es dazu bloß eines ausgestellten Testimoniums des Verstehens oder Nichtverstehens derselben von Ihnen bedürfte.
 
☆ 拙・改訳では:
 もっとも、哲学的な事を判断をするためには、その事を理解しているか否かについての、貴方によって発行された証明書さえあればよいというのであれば、むろんこうした判断はよほど容易なのでしょうが。

◇ 拙訳の理由は:
 文中の erleichtern は、「軽くする。容易にする」の意味で、元の訳のように「奪う」というのは、財布などが話題になっていない以上、無理だと思います。ここでの意味は、「判断が容易になる」ということです。

 そこで、この箇所の文意は:
 この前の文でシェリングは、フィヒテの知識学を頼るべき基準とはしないと、主張します。とはいえ、(ここからは、シェリングのフィヒテに対する皮肉です)フィヒテの判断を基準として、哲学的問題を決定することができるのであれば、私たちはそれらの問題によって悩むことも少なくなってよいのでしょうが――というものです。
(初出 2010.9.6)
(目次)

164 ページ、14 - 17 行目; S. 102. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 知識学に精通しているなどと考えたことはこれまで一度もありませんでしたし、まして今現在そう考えたりなどはしておりません。むしろ私は、知識学は、哲学に携わるあらゆる人が今後も頼みにし、また頼みにするようにならざるをえない書物であるとみなしてきたのです。

◆ 原文は:
 Diese Meinung habe ich von der Wissenschaftslehre nie gehabt, und habe sie also noch viel weniger jetzt, dass ich sie als das Buch betrachtete, worauf nun fernerhin jeder im Philosophieren angewiesen wäre und angewiesen werden müsste, . . .

☆ 拙・改訳では:
 私は知識学を、今後とも哲学をする誰もが頼りとする書物であると、またすべき書物であると、見なすような評価をしたことはかつてありませんし、また今ではなおさらしていません。

◇ 拙訳の理由は:
(1) Diese Meinung (この評価)は、後の従属節 dass ich sie . . . を指すと、考えるべきだと思います。この場合、前述の betrachtete は、接続法2式になります。
 元の訳では、Diese Meinung が、この引用文の直前の従属節 (dass ich . . .der Durchdrungene sei. 私が知識学に精通していること)を指していると解釈しています。そのため、dass ich sie . . . の副文を導く主文がないのに、接続詞 dass 1 語で、「むしろ・・・です」を意味させています。これはちょっと無理でしょう。

(2) 引用文中の Meinung は、「意見。考え」というより「評価」の意味だと思います。といいますのは:
 (i) 手元の辞書(相良守峯『大独和辞典』と小学館『独和大辞典 第 2 版』)の Meinung の用例をみますと、 引用文でのように動詞が haben の場合は「評価」の意味で使われており、「意見。考え」の用例はありません。「意見をもつ」の意味で Meinung を使う用例では、以下のようになっています:
  a) 前置詞 nach をともなって 3 格にする。
  b) 動詞を bilden にする。
  c) 動詞を sein にして、2 格にする。

 (ii) 引用文の直後には、「もっとも(obgleich)・・・」という但し書きが続きますが、そこに「判断(Urteil)」の語があり、これと「評価(Meinung)」がゆるく対応していると考えられます。
(初出 2010.9.6)
(目次)

164 ページ、12 - 14 行目; S. 102. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 しかし、もちろん私は、こうした意味では今もって知識学に精通するに至っていませんし、今なお、この意味で、いつかは知識学に精通するようになりたいものだと、すなわち、このように透徹しながら精通した者でありたいと、思案しているのです。

◆ 原文は:
 Aber freilich habe ich sie [= die Wissenschaftslehre] in diesem Sinn bis jetzt nicht durchdrungen, noch bin ich gesonnen, sie in diesem Sinn jemals zu durchdringen, nämlich so, dass ich bei dieser Durchdringung der Durchdrungene sei.

☆ 拙・改訳では:
 むろん私は今でも、以下の意味では知識学に精通していませんし、また以下の意味では、いつの日か精通しようという気もないのです――つまり、これに精通することによって、これに染まってしまうという意味においてです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) in diesem Sinn (こうした意味で)の内容は、その後の nämlich so, dass(すなわち、~)以下を指すと思います。

(2) 文中の noch は、その前に nicht があるので、否定詞として(auch nicht)訳さなくてはいけません。
(初出 2010.9.6)
(目次)

164 ページ、9 - 10 行目; S. 102. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 この「書簡」のなかに「私はまだ知識学に精通しているわけではない」という文章があるのを、貴方はもちろんすぐに見出されたでしょう。

◆ 原文は:
 Diese Briefe ließen Sie freilich gleich sehen, "dass ich die Wissenschaftslehre nicht durchdrungen habe."

☆ 拙・改訳では:
 むろん貴方はすぐに、「私が知識学に精通していない」ことを、この「書簡集」において見てとられました。

◇ 拙訳の理由は:
 「私が知識学に精通していない(dass ich die Wissenschaftslehre nicht durchdrungen habe.)」という箇所は、「独断論と批判主義についての哲学的書簡集」中にあるのではなく、フィヒテの前便(1801年5月31日付)からの引用dass Sie [= Schelling] die Wissenschaftslehre nicht durchdrungen hätten;)です。(1856年版では、81 ページ、20 行目。元の訳では、146 ページ 6 行目。)
 したがって、文意も元の訳とは異なります。
(初出 2012.10.25)

164 ページ、7 - 8 行目; S. 102. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・そして、その点で貴方が私を信じられなくなったとすれば、逆に私はこの点で貴方に付き従うことができなくなったのです。

◆ 原文は:
 . . . und wenn Sie dort an mir irre wurden, so habe ich dagegen hier aufgehört, Ihnen folgen zu können.

☆ 拙・改訳では:
 そして貴方が、<観念論哲学-実在論哲学>において私を信じられなくなったとすれば、私の方は、<知-信仰>において貴方について行けなくなったのです。

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳では――日本語として率直に読めば――、「その点(dort)」は、前文の「貴方 [フィヒテ] はいまだに知と信仰の対立をまったく止揚しないままに残して」いる点になります。また、「この点(hier)」は、引用文中の「貴方が私を信じられなくなった」点になります。これでは、文意が通じません。
 引用文の少し前の部分でシェリングは、「私においての観念論哲学と実在論哲学との関係は、まさに貴方においての知と信仰の関係なのです」と述べています。この文の前半を「その点(dort)」が、後半を「この点(hier)」が指していると思います。


164 ページ、2 - 3 行目; S. 102. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 この感情は、・・・貴方の場合にも私に劣らず姿を現し・・・

◆ 原文は:
 . . . das [= das Gefühl] bei Ihnen . . . nicht weniger zum Vorschein kam . . .

☆ 拙・改訳では:
 そのような気持ちは、貴方にあっては・・・少なからず現われてきたのでした。

◇ 拙訳の理由は:
 ここでの weniger には、als . . . が付帯してはいないのですから、「~より少ない」ではなく、比較級の絶対的用法で「少しは」という意味です。それに nicht が付いて nicht weniger となっていますので、「少なからず」となります。
 例えば、小学館『独和大辞典 第 2 版』には、
das Schicksal nicht weniger Begabter 才能に恵まれた少なからぬ人々の運命
(初出 2012.10.25)
(目次)

163 ページ、12 - 14 行目; S. 101. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 そうなさっていたなら、<哲学の真正な体系は、、内に向かっては相違しているにもかかわらず、外に向かってはまったく無差別なものでありうる>という私の命題にも、もっと簡単に一致してくだされたのにと思うのです。

◆ 原文は:
 Sie würden dann sich leichter auch in meinen Satz vereinigen können, dass das echte System der Philosophie nach aussen völlig indifferent, obwohl nach innen different sein könne.

☆ 拙・改訳では:
 そのように従われていたとしたら、貴方は私の「哲学の真正な体系は、内的には区別があるにせよ、外的にはまったく無差別でありえる」という考えに、いくらかは容易に一致されることでしょう。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 引用文中の leichter は、als を伴わない絶対的比較級だと思います。つまり、原級の leicht よりは程度が弱く、「いくらか容易に」という意味です(絶対的比較級については、例えば、桜井和市『改訂 ドイツ広文典』、110 ページ)。

(2) 引用文中の Satz が、「命題」というよりも「考え」だということは、ここをご覧ください。

(3) この文の時制は、würden können ですから、過去ではなく現在です。つまり、まだフィヒテに対し、<一致しなかった>とは言いきっておらず、これからもフィヒテの考えいかんでは、一致の可能性があることを(外交辞令的にではあれ)含みとしています。

(4) 引用文中の 2 つの nach が、元の訳の「ように「向かって」だとすると、文意が取れないようです。むしろ、「~に基づいて。~から見れば」(相良守峯『大独和辞典』)の意味だと思います。
 つまり、「哲学の本当の体系は」、<内部においては内容上の区別があるにしても、外部から見れば――すなわち、それを対象として見たときには――、[絶対的なものにふさわしく] 一体化した無差別である>という文意でしょう。
(初出 2012.10.24)

163 ページ、11 行目; S. 101. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ところが、貴方は、かなり明確にご自分の哲学を観念論として特徴づけてはいなかったでしょうか。

◆ 原文は:
 Haben Sie aber Ihre Philosophie nicht bestimmt genug als Idealismus charakterisiert?

☆ 拙・改訳では:
 ところが、貴方はご自分の哲学をきっぱりと観念論だと、特徴づけはしなかったでしょうか

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の bestimmt genug genug (十分に)ですが、副詞的に用いられており、前の副詞(bestimmt)を修飾しています。小学館『独和大辞典 第 2 版』には同じような genug の用法として、以下の例文が記載されています:
Die Bühne ist tief genug. (この舞台は十分奥行きがある)
Wir haben lange genug gewartet. (我々は十分長くまった)

 したがって、元の訳の「かなり明確に」では文意が尽くされてはおらず、「十分明確に。きっぱりと」という訳がより妥当だと思います。
(初出 2012.10.23)

163 ページ、4 行目; S. 101. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方がどれほど私の論敵であるように見えるにせよ、私は、貴方の論敵ではないからです。

◆ 原文は:
 . . . da ich nicht Ihr Gegner bin, obwohl Sie aller Wahrscheinlichkeit nach der meinige sind.

☆ 拙・改訳では:
 というのも、私は貴方の反対者ではないのですから。貴方が、私の恐らくは反対者であるにしても。

◇ 拙訳の理由は:
 aller Wahrscheinlichkeit nach は辞書に載っていて、「たぶん、おそらくは、十中八九は」という意味です(小学館『独和大辞典』第 2 版、相良守峯『大独和辞典』)。
(初出 2010.9.6)
(目次)

163 ページ、1 - 3 行目; S. 100. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 私はまた・・・観念論が唯一必然的な体系であることを証明する際に用いられるすべての術策を・・・知っております。

◆ 原文は:
 Ich kenne auch . . . auch alle die Künste, mit welchen der Idealismus als das einzig notwendige System demonstriert wird.

☆ 拙・改訳では:
 私はまた、観念論が唯一の必然的な体系であることを証するためのすべての説明法も・・・知っています。


◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の Künste を「術策」と訳すと、悪い意味になってしまいます。この引用文中の「観念論」は、シェリングやフィヒテが唱導する観念論のことですから、そのさいに策略を弄したというのは、おかしいです。
 拙訳は、Kunst の中心的な意味である「術、技術」を活かし、「説明法」としました。
(初出 2010.9.2)
(目次)

162 ページ、16 行目; S. 100. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方のお手紙全体には、私の理念に対するまったくの誤解が見られますが・・・

◆ 原文は:
 . . . dass durch Ihr ganzes Schreiben ein völliges Missverständnis meiner Ideen geht, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・貴方のお手紙すべてにわたって、私の考えに対するまったくの誤解があります・・・

◇ 拙訳の理由は:
 ここでの Ideen は、文脈から見て――つまりこの段落では、議論が高次のものに及んでいるのではないのですから――ことさらに「理念」といったものではなく、より一般的に「考え」だろうと思います。
 また、この段落中の他の「理念」も、「考え」でしょう。
(初出 2010.9.2)
(目次)

162 ページ、1-4 行目; S. 99. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 そのことからして、貴方は・・・私が観念論をオルガンとして利用ができた理由、それどころか・・・観念論についてさえも、かくも多くの明瞭で深遠なことを申し述べることができた理由についても、自分の意見を表明することができるのです。

◆ 原文は:
 . . . woraus Sie unter Anderm auch sich erklären können, warum . . . ich . . . habe den Idealismus als Organ brauchen . . . so viel Klares, Tiefes sogar darüber vorbringen können.

☆ 拙・改訳では:
 とりわけこうした点から、貴方はご自分に説明することができるのです――なぜ・・・私が観念論を道具(オルガノン)として用いることができたのかということをです。さらになぜ・・・私がとても多くの明晰で意味深いことを、観念論について言いえたのかということをです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) sich erklären können, warum . . . は、「warum 以下の理由を自らに説明できる」という意味だと思います。元の訳のように、sich erklären を「自分の意見を表明する」にとると、文意が不明になってしまいます。また、文法的にも、「理由について」を言うためには、接続詞 warum だけでは無理で、über den Grund, warum とする必要があるのではないでしょうか。

(2)
Organ を日本語にするときには、元の訳のように「オルガン」では楽器になってしまいます。「道具」ないしは「オルガノン」と訳出すべきでしょう。
(初出 2010.9.2)
(目次)

161 ページ、16 - 18 行目; S. 99. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 スピノザは、こうした説明の仕方を間違いだとは決して思っていないはずですし、それは絶対的に真ではないだけであって・・・と考えているはずなのです。

◆ 原文は:
 Diese Erklärungsart . . würde er gar nicht falsch, er würde sie nur nicht absolut=wahr . . . finden.

☆ 拙・改訳では:
 このような説明し方を、彼は間違いだとは決してみないでしょう。ただ、絶対的で真実なものともみず・・・とみることでしょう。

◇ 拙訳の理由は:
(i) 定動詞は接続法 2 式の würde ですので、「はずです」ではなく「でしょう」となります。また内容面からも、「でしょう」としたいところです。つまり、ここではシェリングはスピノザの考えを推量して、フィヒテに反論していますので、「はずです」ではあまりに先輩フィヒテに無礼なものとなります。

(ii) 引用文中の absolut=wahr absolut wahr は、連結されていますので 2 つは同格の副詞です。つまり、「絶対的で、真実な」の意味です。
(初出 2010.10.3)
(目次)

161 ページ、10 行目; S. 99. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 いずれにしても、時代の欲求が、その拡張を最も緊急に求めているのです。

◆ 原文は:
 . . . zu welcher [= eine weitere Ausdehnung der Transzendentalphilosophie selbst in ihren Prinzipien] ohnedies das Zeitbedürfnis aufs Dringendste auffordert.

☆ 拙・改訳では:
 いずれにせよ、時代の要請は、この拡張を私たちに強く求めています。

◇ 拙訳の理由は:
 最高級の dringendste には aufs が付いているので、程度の高いことだけを示す絶対的最高級です。
(初出 2010.9.2)
(目次)

161 ページ、8 行目; S. 99. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 それらの命題は、超越論的哲学そのものを、その原理にまでさらに拡張していくことによってのみ基礎づけることができる・・・

◆ 原文は:
 . . . dass sie [シェリングの提示した諸命題] nur durch eine weitere Ausdehnung der Transzendentalphilosophie selbst in ihren Prinzipien begründet werden können . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・これらの考えは、超越論的哲学をその諸原理においてさえもさらに拡張することによってのみ、基礎づけられえるのです。

◇ 拙訳の理由は:
 ここは、フィヒテからシェリング宛の手紙(1800年12月27日付)の一節を、シェリングが引用している箇所です。selbst が、
・直前の Transzendentalphilosophie を修飾するか(その場合は「そのもの」の意味)、
・直後の in ihren Prinzipien を修飾するか(「(~において)さえ」の意味)が、
問題です。
 この箇所が引用された元のフィヒテの手紙は、
 . . . durch eine noch weitere Ausdehnung der Transzendentalphilosophie, selbst in ihren Prinzipien, begründet werden können . . . (強調は原文)
となっており、明らかに selbst は後ろの in ihren Prinzipien にかかっています。
 なるほどシェリングの引用では、隔字体(拙稿ではイタリックに直しています)がなくなり、selbst 直前と Prinzipien 直後のコンマも消えています。しかし、シェリング引用が引用した箇所では、所々でフィヒテの原文とは字句や句読点が異なっているのであり、シェリングの意図としては忠実な引用だったと思われます。
(初出 2010.8.30)
(目次)

160 ページ、1 - 3 行目; S. 97. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 <見ること>や絶対的なものについて貴方ご自身が抱かざるをえなかった意識や感情のために、貴方は・・・思弁的なものを――つまり、貴方はそれを自分の知のなかに本当には見出すことができなかったわけですから――信仰の領域に移行させざるをえなくなったのです。

◆ 原文は:
 Das Bewusstsein oder Gefühl, das Sie selbst davon haben mussten, zwang Sie . . . das Spekulative, weil Sie es nämlich in Ihrem Wissen wirklich nicht finden konnten, in die Sphäre des Glaubens überzutragen . . .

☆ 拙・改訳では:
 貴方ご自身が持たずにはいられなかったところの絶対的なものについての意識すなわち感情が、[貴方の著書]『人間の使命』においては、まことに貴方をして思弁的なものを信仰の領域へと――なぜなら、貴方は思弁的なものを、のうちにはじっさい見いだせなかったものですから――持ちこませたのです。

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳では、davon が<見ること>と「絶対的なもの」の2つを受けていますが、「絶対的なもの」だけを受けると思われます。といいますのは、
 a) 「絶対的なもの」は、例えば 1856 年版では、davon の1行前に登場しますが、<見ること>は 3 行も前にあります。<見ること>を davon が受けるのは、すこし無理があると思います。

 b) シェリングの文意からみると:
 引用文の前文での、シェリングの指摘によれば、フィヒテの「見ること」から出発する哲学においては、「絶対的なものについてはもはや何も見出され」ません。しかし「見出されない」ままでは、フィヒテとしては絶対的なものに対する感情面から納得できなかったので、絶対的なもの(=思弁的なものであることが、1856 年版では9行前で言われています)を、信仰の領域へと持ちこんだのだ――と、このようにシェリングは論難したのでしょう。
(初出 2010.8.30)
(目次)

159 ページ、8 行目; S. 96. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 もし私が、この歩みを事前に辿ってしまい、この地点で貴方を待ち受けもせずに・・・

◆ 原文は:
 . . . wenn ich diesen Schritt voraus genommen [habe], und ohne Sie bei diesem Punkt abzuwarten, . . .

☆ 拙・改訳では:
 もし私がこの道行きを先行し、最終的総合の地点で貴方が到着するのを待たずに・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の diesem Punktdiesem を、たんに「この」と訳したのでは、文の流れからいって「この」は、その前の「この歩み」を指すことになります。しかし、「歩み」は延長のあるもので、「地点」とは平仄があいません。
 内容からいって「この」は、引用文の前文に出てくる「最終的な総合」を指すとみられます。そして、「この歩み(この道行き)」は、最終的な総合への「歩み」ということになります。
(初出 2012.9.28) 
(目次)

159 ページ、4 - 6 行目; S. 96. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・別の人たちが近づいてきて・・・貴方の原理を単に暫定的なものとみなし、貴方の哲学を・・・単に予備的でしかないものとみなすとすれば、貴方がどうやって身を守ろうとなさるのか・・・

◆ 原文は:
 . . . wie Sie [= Fichte] sich erwehren wollen, wenn . . . Andere herzutreten, die . . . Ihr Prinzip bloß für vorläufig und Ihre Philosophie . . . für bloß probädeutisch erklären.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・他の人たちが――つまり・・・貴方の原理はたんに暫定的であり、貴方の哲学は・・・たんに入門的なものであると言明する人たちが――やって来たときに、貴方が自説をどう擁護なさろうとするのか、・・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の A für B erklären は、「A を B だと言明(公言、宣言)する」、つまり公に明言するというのがふつうの意味ですから、ここはそう訳すべきでしょう。つまり、「別の人たち」がフィヒテ哲学をどうこう「みな」しただけで、フィヒテが自分の「自説を擁護する(身を守ろうとする)」云々は、理解しづらいものがあります。
(初出 2012.9.28) 
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158 ページ、17 行目 - 159 ページ、3 行目; S. 96. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 もしも貴方が、ご自分でおっしゃっているような<見ること>から、つまりまさしく主観性から、そして、かつて『(全)知識学(の基礎)』のなかで言われたそれぞれの自我という主観性から決して脱却してはならないとすれば、絶対的実体が存在し存続しなければなりません。そうではなくて、貴方がひとたびそこから抜け出て、これまた把握不可能なひとつの実在根拠に向かうのであれば、主観性に戻るようにとあのように指示すること全体は、真の原理が見出されるまでの暫定的なものでしかなくなります。

◆ 原文は:
 Entweder müssen Sie nie aus dem Sehen, wie Sie sich ausdrücken, das heisst eben aus der Subjektivität heraus, und eines jeden Ich, wie Sie einmal in der Wissenschaftslehre sagen, muss die absolute Substanz sein und bleiben, oder gehn Sie einmal heraus, auf Einen auch unbegreiflichen Realgrund, so gilt jenes ganze Zurückweisen an die Subjektivität nur vorläufig, bis das wahre Prinzip gefunden ist;

☆ 拙・改訳では:
[・] 或いは、貴方のおっしゃるように、貴方は見ることから、つまりまさしく主観性から外に決して出てはならず、そして貴方が知識学においてたしかに言われているように、各自の自我が絶対的な実体でなければならず、またあり続けなければならないのか、
[・] 或いは、貴方は把握不可能な 1 つの実在的根拠に向けて、[自我の] 外へともかく出るというのであれば、前記の主観性に留まるようにということすべては、真の原理が見出されるまでの暫定的なものであるのか、
[このどちらか] なのです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) まず文全体の構造は、Entweder A oder B (A か B である)ですので、この文の意味は、「müssen Sie nie . . . sein und bleiben」か、「gehn Sie einmal . . . Prinzip gefunden ist」である、となります。

(2) 引用文中の「貴方が知識学においてかつて言われたように」というのは、『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』の編集者注5 (S. 82)によれば、『全知識学の基礎』の「第 1 部、第3 章、D, 8」の最後の部分を指します (1794年版では S. 47. 岩波文庫版では上巻の 152 ページ)。そこでは、以下のようにあります:

 . . . nur dass eines jeden Ich selbst die einzige höchste Substanz ist:
 「ただし、各自の自我そのものが、唯一最高の実体なのである」。

 この文の主語は、eines jeden Ich (各自の自我)です。つまり、Ich は 1 格で、それを修飾する eines jeden は、2 格です。eines jeden とは奇妙で、2 格であれば jedes となりそうなものですが、jeden は「各自(の)」という名詞で使われています。そして、jedes が名詞として 2 格に用いられる場合には、ふつう eines jeden によって代用されます(相良守峯『大独和辞典』、小学館『独和大辞典』第2版)。

(3) したがって、引用文中の eines jeden Ich も主語で、die absolute Substanz は補語となります。

(4) 文と文を結合する Entweder . . .oder では、 Entweder の後には、主語がくる場合もあれば、定動詞がくる場合もあります。そこで、müssen Sie . . . の文は、いわゆる wenn の省略された条件を表す副文ではなく、平叙文だと思います。
 もしwenn の省略された副文だとすれば、それに続く主文(eines jeden Ich 以下 )の前に und が置かれていたり、主文の定動詞 muss が正置だったりするのは変です(主語が eines jeden Ichであることは、(2), (3) を参照して下さい)。

(5) wie Sie einmal einmal は、過去を表す「かつて」ではなく(というのも動詞は sagen で、現在形です)、「(否定できない不変の事実を示す)確かに、実に、まったく」(相良守峯『大独和辞典』)といった意味ではないかと思います。

(6) gehn Sie einmal heraus einmal は、「ひとたび(一度)」という意味より、「話し手の主観的心情を反映」(小学館『独和大辞典』第2版)した (4) に近い意味だと思います。そこで、「ともかく」と訳出しました。
 しかし、(5) も (6) も同じ語の einmal なので、訳語も 1 語にしたいというのであれば、「なるほど」などが適するのかもしれません。
(初出 2010.8.30)
(目次)

158 ページ、12 - 13 行目; S. 96. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ところで、この存在は、貴方にとっては、最終の綜合なのです。

◆ 原文は:
 Aber dieses Sein ist Ihnen die letzte Synthesis.

☆ 拙・改訳では:
 しかしながらこの存在は、貴方にとっては最終的な総合なのです。

◇ 拙訳の理由は:
 引用文冒頭の Aber (しかしながら)は、その前文中の allerdings (なるほど~には違いないが)と対応しています。この辺は、シェリングも熱が入って高ぶってきていますので、「しかしながら」と強く訳出しました。
(初出 2012.9.26) 
(目次)

157 ページ、1 - 2 行目; S. 94. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 思惟と直観とのこの絶対的同一性が最高の原理である以上、この同一性は実際、絶対的無差別であると考えられますし、必然的に、同時に最高の存在であると考えられます。

◆ 原文は:
 Da diese absolute Identität des Denkens und Anschauens das höchste Prinzip ist, so ist sie, wirklich als absolute Indifferenz gedacht, notwendig zugleich das höchste Sein;

☆ 拙・改訳では:
 思考と直観のこの絶対的な同一性は、最高の原理ですから、この同一性は、現実に絶対的な無差別として考えられる場合には必然的に、同時にまた最高の存在なのです。

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の wirklich (現実に)は、その前の Prinzip (原理)と対比させられているのではないでしょうか。つまり、最高の原理は、「原理」であるのみならず、「現実に」も存在するということです。したがって元の訳「実際」では不十分で、「現実に」と訳出しました。
(初出 2010.8.30) 
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156 ページ、16 行目; S. 94. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 観念根拠と実在根拠との同一性は、思惟と直観との同一性に等しいのです。思惟と直観の同一性ということで、貴方 [フィヒテ] が言っておられるのは、最高の絶対的な理念、つまり、その直観が思惟のうちにあり、また、その思惟が直観のうちにあるような、絶対的なものの理念のことです。

◆ 原文は:
 Die Identität des Ideal- und Realgrundes ist = der Identität des Denkens und Anschauens. Sie drücken mit dieser Identität die höchste spekulative Idee aus, die Idee des absoluten, dessen Anschauen im Denken, dessen Denken im Anschauen ist.

☆ 拙・改訳では:
 観念的根拠と実在的根拠の同一性は、思考と直観の同一性に等しいのです。この [観念的根拠と実在的根拠の] 同一性ということでもって、貴方は最高の思弁的理念を、絶対的なものの理念を、言い表しています。この絶対的なもの [について] の直観は思考のうちにあり、絶対的なもの [について] の思考は直観のうちにあります。

◇ 拙訳の理由は:
 問題点は2つあります。
(1) dieser Identität (この同一性) を元の訳は、「思惟と直観の同一性」と補って訳していますが、しかし前便でフィヒテが「思惟と直観の同一性」を「言っておられる」ような箇所はありません。フィヒテが論じていたのは「観念的根拠と実在的根拠の同一性」でした(149ページ3行目以下。1856年版では S. 85, Z. 5)。
つまり、ここでのシェリングの思考の流れをたどれば:
 フィヒテは、観念的根拠と実在的根拠の同一性を述べたが、これは「最高の思弁的な理念」=「絶対的なものの理念」である。なぜなら、
 a) 観念的根拠と実在的根拠の同一性は、思考と直観との同一性に等しい。
 b) 絶対的なものにおいては、直観は思考のうちにあり、思考は直観のうちにある [ので、思考と直観との同一性が成立している]。
 c) したがって、フィヒテの「観念的根拠と実在的根拠の同一性」=「絶対的なものの理念」=「最高の思弁的な理念」である。

(2) 関係代名詞 dessen の先行詞は、明らかに直前の absoluten (絶対的なもの)です。したがって元の訳の「その直観」および「その思惟」の「その」は、後の「絶対的なもの」を指すはずですが、そのように受け取る読者はほとんどいないでしょう。「その」の前にある「理念」を受けていると、理解するはずです。
(初出 2010.8.22) 
(目次)

154 ページ、2 行目; S. 90. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 さらに、全体の驚くべき構成のせいでもあるのです。

◆ 原文は:
 Ferner, wegen der merkwürdigen Organisation des Ganzen.

☆ 拙・改訳では:
 さらには、[知識学] 全体の独特の組織によってです。

◇ 拙訳の理由は:
 merkwürdig を元の訳のように「驚くべき」としたのでは、フィヒテが自分の哲学を「驚くべき」ものだと、他人(シェリング)に向かって評することになるわけで、違和感があります。
 そこで merkwürdig は、「独特の」とか「特色ある」、あるいはせめて「注目すべき」の意味にとるべきでしょう。
(初出 2010.8.22)   
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153 ページ、2 - 4 行目; S. 89. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・しているような観念論などというものは、まったく問題にならないでしょうし、それが何ものかであろうとしても、一般的な形式論理であるほかは・・・

◆ 原文は:
 Ein Idealismus aber, der . . . , wäre gar nichts aber wenn er doch etwas sein wollte, müsste er die allgemeine formale Logik sein.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・するような観念論は、何ものでもないでしょう。何ものかであろうとしても、一般的な形式的論理学たらざるをえないでしょう。

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の nichts (何ものでもない)と etwas (何ものか)は、対応していますので、そのように訳出するのが好ましいです。
(初出 2010.8.22)   
(目次) 

153 ページ、1 - 2 行目; S. 89. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・絶対的な X に基づいて初めて、有限な理性の諸法則を通して明確に導出されうるのです。

◆ 原文は:
 . . . sind . . . erst aus dem absoluten x bestimmt durch die Gesetze der endlicher Vernunft, abzuleiten.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・・・・絶対的 X から、有限的理性の諸法則にしたがって、必ずや導出されねばなりません.

◇ 拙訳の理由は:
(1) ここでの sein + zu 不定詞(sind abzuleiten)は、「されえる」ではなく「されねばならない」でしょう。
 というのは、この引用文の直前の部分は、「自然哲学は、すでに出来あがり定まった自然概念に基づくのかもしれません。しかし、この概念自体そのものや、それから形成される哲学は」となっているからです。つまり、<自然哲学は、既成の概念に基づいているかもしれない。しかし、これらの概念は>という意味のことが言われているのですから、これに続く文は、<(既成のものをそのまま使ってはダメで、)有限的理性の法則にしたがって導出されねばならない>とならざるをえません。

(2) 過去分詞 bestimmt は、ふつう形容詞として使われるのですが、小学館『独和大辞典』第 2 版、bestimmen の項目を引きますと、「(副詞的)(陳述内容の現実度に対する話し手の判断・評価を示して)確かに、きっと」となっています。
 この引用文の bestimmt は副詞として使われており、上記のような意味だと思いますので、「必ずや」と訳出しました。
(初出 2012.9.11)   
(目次) 

152 ページ、13 - 15 行目; S. 89/49. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 (私は今しがた『エアランゲン文芸新聞』の 67 号を読みました。・・・ 533 頁以下の推論も的確です)。

◆ 原文は(『アカデミー版フィヒテ全集 III,5』):
    (Ich sehe eben in der Erlanger L. Z, Nr. 67. . . So ist auch das Räsonnement S. 533 f. trefflich.)

☆ 拙・改訳では:
 私は今、『エアランゲン文芸新聞』の 67 号を読んでいます。・・・.533 および次ページでの論理展開も、すぐれています。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 本文に挿入された、この談話風の段落の位置が問題です。元の訳は、この段落を 1856 年版以来の仕方で、「それに対して、感性界・・・」で始まる段落の直前に置いています。
 しかしそれでは、「それに対して、感性界・・・」の段落の次の段落(つまり、「特に後者から・・・」で始まる段落)の内容が、解せなくなくなります。とりわけ、その段落冒頭の「特に後者から」の「後者」が、何を指すのかが分かりません。
 そこで、『アカデミー版フィヒテ全集 III,5』に従って、問題の談話風の段落は、「特に後者から・・・」の段落の直前に置かれるべきだと思います。この場合には、「後者」は「.533 と次ページでの論理展開」を指すことになります。

(2) 元の訳では「読みました」と過去形になっていますが、動詞は lese と現在形ですので、「読んでいます」にすべきでしょう。つまり、フィヒテは読み終わった後で自分の考えをまとめ、それをシェリングに主張しているということではなく、カジュアルになにげなく、読んでいる途中での自分の感想をもらしたということです。あるいは、そのような体裁を、ここでフィヒテはとっています。

(3) 元の訳の「『エアランゲン文芸新聞』の 67 号を読みました」の「読みました」には、編集者の注(47)が添えられています。この注記は、元の訳では、「1801 年 4 月 7 日のこと。・・・」となっています。
 しかしこれでは、フィヒテが 67 号を読んだのが「1801 年 4 月 7 日」になってしまいます。この日付は 67 号が発刊された日を指します。というのも、『アカデミー版フィヒテ全集 III,5』 49 ページの編集者注14 には、以下のようにあるからです:
 In: „Nro. 67. Litteratur-Zeitung. Erlangen, Dienstags, am 7. April 1801.“
 (「1801 年 4 月 7 日火曜日 [付の] 『エアランゲン文芸新聞』 67 号」に [掲載])

(4) 元の訳では「533 頁以下」となっており、どこまで該当するページが続くのか不明です。しかし原文では 533 の後には f. が使われていますので、続くのは 1 ページだけです。拙訳では、「.533 および次ページ」としました。
(初出 2012.9.11)   
(目次) 

152 ページ、9 行目; S. 89. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・無理数の根を、平方して有理数にしたものであって・・・

◆ 原文は:
 . . . ein rationales Quadrat einer irrationnalen Wurzel . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・無理数の平方根を、平方した有理数です・・・

◇ 拙訳の理由は:
 この Wurzel は、内容的に平方根でなければなりません。元の訳のようにただ「根」としたのでは、現代日本の高校数学を学んだ多くの読者にとっては、累乗根の意味になってしまいます。
 ちなみに Duden Deutsches Unversalwörterwuch には、Wurzel の意味として Quadratwurzel (平方根)も記載されています。なるほど、フィヒテの時代には、数学者を除き一般教養人は、3 乗根以上は習ったことがなかったと思います。したがって Wurzel といえば平方根を思い浮かべたことでしょうが。
(初出 2010.8.22)
(目次)

152 ページ、3-4 行目; S. 89. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・知識学はこの原理から体系を提示する・・・提示し・・・

◆ 原文は:
 Die Wissenschaftslehre stellt das System aus diesem Prinzip dar, sie stellt . . . dar, . . .

☆ 拙・改訳では:
 知識学は [哲学の] 体系を、この原理から叙述します。したがって知識学は・・・叙述するのであり・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の darstellen は、「提示する」というよりも、「叙述する」です。
 1801 年 5 月 31 日付のフィヒテの手紙では、「貴方 [シェリング] の体系について読んだ限りでは、私たちは事柄(Sache)に関しては帰するところが同じなのでしょうが、その叙述Darstellung)に関しては決してそうではありません。そしてここでは、叙述がまさに本質的に事柄に属しているのです」とあります。darstellen の訳語には「叙述」の語句を入れた方がいいでしょう。
(初出 2010.10.9)
(目次)

151 ページ、16 - 18 行目; S. 89/48. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 後者がそれとして存在するのは、有限な理性にとってだけなのです。ですから、それはただ有限な理性にとってのみ存在するものであって、それ自体としては存在ではないのです。

◆ 原文は:
 Das letztere ist es nur für die endliche Vernunft: es ist daher nur für diese, nicht aber an sich ein Sein.

☆ 拙・改訳では:
 物体から反射する光が存在であるのは、ただ有限な理性に対してだけです。したがって物体から反射する光は、たんに有限な理性に対して存在するのであり、それ自体としては存在ではないのです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) Das letztere はむろん「後者」と訳してもいいのですが、拙訳では分かりやすく「物体から反射する光」と、具体的に訳しています。
 しかし、元の訳の「後者」は、文脈からいって前文の「光を反射する物体」を指しています。けれども、物体(Körper)は男性単数(ないしは複数)名詞なので、元の訳の場合には、引用文冒頭の Das letztere ist Der letztere ist ないし Die letztere sind となっていなければならないはずです。
 (なお、フィヒテが erster letzter の語を使用するさいには、冠詞の性に気を留めていたことは、
 Das letztere [= das Individuum] ist der IdealGrund der erstern = [der Geisterwelt]; die erstere der . . . RealGrund des letztern. (1856 年版では S. 85. 『アカデミー版フィヒテ全集 III,5』では S. 46)
などの用例に見られます)。

(2) 引用文中の es が何を指すかが問題です。元の訳では、主語の Das letztere を指す人称代名詞と解しています。
 しかし、文脈からいえばここは、das reine Sein (純粋な存在)がテーマとなっている箇所です。引用文の直前の文の主語である es も、明らかに「純粋な存在」を意味しています。そこで今問題の es も文章の流れからいって、「純粋な存在」でしょう。(ただし、後文との関係から、「純粋な」は取って訳出しました。)
(初出 2013-7-21)
(目次)

151 ページ、15 - 16 行目; S. 88. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・この存在は・・・光であって、光を反射する物体ではありません。

◆ 原文は:
 . . .es [= dieses Sein] ist . . . Licht, nicht das Licht zurückwerfender Körper.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・この存在・・・は・・・光なのです。物体から反射する光ではありません。

◇ 拙訳の理由は:
 das Licht zurückwerfender Körper ですが、das Licht が 1 格で ist の補語になっており、zurückwerfender Körper は複数の 2 格で、das Licht を修飾していると思います。
 そして、最初の Licht に冠詞は付いていないのに、後の Licht にあるのは、zurückwerfender Körper によって修飾されて特定化されたためです。

 しかし元の訳では、das Licht は 4 格で zurückwerfen の目的語になっています。しかしそうだとすれば、
(i) なぜ das Licht と定冠詞が Licht に付いているのか理解できません。

(ii) Körper には定冠詞が付いてないので、否定されるときには kein を伴うはずです。したがって、nicht das Licht zurückwerfender Körper ではなく、kein das Licht zurückwerfender Körper でなければなりません。

(iii) 上記引用文の後には、
 das Letztere ist es nur für die endliche Vernunft:
の一文が続きます。この「後者(das Letztere)」は das Licht zurückwerfender Körper を指していますが、元の訳のようにこの部分の意味が「・・・物体」ですと、物体(Körper)は男性名詞ですから、das Letztere ではなく、der Letztere とならなくてはなりません。

 とはいえ、拙訳のように解釈した場合には、zurückwerfen は他動詞なのに自動詞になってしまいます。けれども、
 a) 他動詞と自動詞の転用はときに生じることですし、あるいは、
 b) zurückwerfender の直前に本来の目的語であるはずの Licht があるので、心理的に他動詞のようにフィヒテは使ったのかもしれません。
(初出 2012.10.9)
(目次)

151 ページ、6 -7 行目; S. 87. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・そして、この目的概念が、この行為の意識を規定可能なものにする<もの-概念>を前提しています。

◆ 原文は:
 . . .und dieser [= der Zweckbegriff] einen Dingbegriff als sein Bestimmbares voraussetzt:

☆ 拙・改訳では:
 そしてこの目的概念は、目的概念が規定できるものとしての概念 [の存在] を前提とします。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 引用文中の sein が何を指すかが問題です。元の訳はこの sein を、前の節中の sein Bestimmendessein と同じと見なし、「行為の意識」に取っています。
 しかしこの箇所は、「行為の意識」は「目的概念」を、「目的概念」は「物概念」を前提にすると、順に話を進めているのですから、それにつれて sein の指示対象も移って行ったと考えるのが、自然だろうと思います。そこで拙訳では、sein はこの節の主語であって、候補者の中では直近の dieser (= der Zweckbegriff) だと取りました。

(2) sein Bestimmbares の意味ですが、元の訳のように形容詞 Bestimmbares を「bestimmen できる」の意味にとり、bestimmen の目的語を直前の所有形容詞 sein で表現するというのは、文法的に無理ではないかと思います。
 この部分を直訳すれば、「目的概念がもっている(= sein)規定できるものとしての、物概念」です。そこで意訳して、「目的概念が規定できるものとしての物概念」としました。
 つまり、「目的にそって物は規定されえる」、氷は頭を冷やす物にもなれば殺人道具にもなる、ということです。(推理小説の読み過ぎですね)
(初出 2012.9.15)
(目次)

151 ページ、1 行目; S. 87. (フィヒテ→シェリング

★ 元の訳での箇所は:
 ですが、たしかに、――考えてはいるのです。

◆ 原文は:
 . . . , so gewiss er -- denkt.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・確かに――考えていてもです。

◇ 拙訳の理由は:
 この引用文においては、定動詞 denkt が後置になっています。そこでこの文は、so が先頭に立つ認容文です。相良守峯『大独和辞典』の so の項、II 4 c には、so sehr er sich [auch] bemüht (彼はどんなに骨折っても)などの例文が載っています。
(初出 2012.9.9)
(目次

150 ページ、17 行目 - 151 ページ、1 行目; S. 87/47. (フィヒテ→シェリング

★ 元の訳での箇所は:
 われわれは誰もこの交替点そのもののことを考えたりしませんし、この交替点そのもののことを考えていると思い込んだりもしません。

◆ 原文は:
 Unser keiner denkt ihm [= dem WechselPunkt] selber, noch wähnt er, ihm selber zu denken . . .

☆ 拙・改訳では:
 私たちの誰も自分で、この変換点のことなど考えませんし、自分が考えているとも思いません。

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の selber の意味が問題です。元の訳では「そのもの」と訳していますが、それはむしろ selbst の訳です。相良守峯『大独和辞典』によれば、selber の意味は「自分で。自身で」になります。例文として:
 Ich muss das selber sehen. 「私はそれを自分で見なければならない」
が載っています。
(初出 2013-7-18)
(目次)

150 ページ、10 - 11 行目; S. 86/47. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・絶対的意識 [A] においては、前者、つまり規定されたものは、規定可能なものとしての後者に属するからにほかなりません。
 ([A] は、元の訳での挿入)

◆ 原文は:
 . . . weil in dem absoluten Bewusstsein das erstere das bestimmte ist von dem letztern, als bestimmbarem.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・その理由は、絶対的意識のうちでは、前者は、規定されえるものとしての後者が、規定されたものだからです。

◇ 拙訳の理由は:
 もともとの文は、
 weil . . . das erstere das Bestimmte von dem letztern als Bestimmbaren ist.
だと思います。つまり、主語は das erstere のみで、定動詞 ist が補語 das Bestimmte をとっています。
 ところがそれでは、補語の部分である das Bestimmte von dem letztern als Bestimmbaren (規定されえるものとしての後者が、規定されたもの)があまりにも長くなるので、定動詞 istdas bestimmte の後にいったん後置(副文なので)したのでしょう。
 このように副文の定動詞を早くもってきて、文章の骨格を示し、その後に修飾語句を連ねるというのは、一般的によくあることです。
 なお、von dem letztern の後にはそのまま als Bestimmbaren が続けばよいと思うのですが、フィヒテの文らしく間にコンマが入れられています。(フィヒテはドイツ語の文体について一家言あったようで、彼の原文はやたらコンマが多くなっていることがあります。日本語の例でいえば、分かち書き論者のような感覚でしょうか?)

 しかし元の訳では、
(i) das ersteredas Bestimmte を同格にとっています。しかし、そうだとすれば、 2 つの語の間にコンマが入る(手紙原文にはなくとも、編集者が入れる)はずですが、ありません。

(ii) 元の訳の解釈では、従属接続詞 weil の節でもあるにもかかわらず、定動詞 ist が正置になってしまいます。

(3) 内容面からみると――規定されたものである前者(すなわち das Von)と、規定されえるもの(規定可能なもの)としての後者(das Für)との関係は、実在的には前者が後者にもとづき、観念的には後者が前者に基づくという相互関係です。元の訳のように、単純に「前者・・・は・・・後者に属する」ということにはなりません。
(初出 2010.8.18)
(目次)

150 ページ、9 行目; S. 86. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・感性界も、<とって>の世界、つまり精神世界から出発するのです)。

◆ 原文は:
 Die Sinnenwelt, von der Welt des Für, der Geisterwelt), . . .

☆ 拙・改訳では:
 感覚的世界も、「に対して」の世界すなわち精神世界に、実在的に基づいています)。

◇ 拙訳の理由は:
 この 1 文は、動詞 ausgehen (基づく/出発する)が直前の文と重複するために省略されています。が、副詞 realiter (実在的に)も、重複のため省略されており、訳文では補う必要があります。
 といいますのは、ここでは実在的な依存のみが、論じられているからです(観念的な依存については、この後で述べられます)。
(初出 2012.9.14)
(目次)

150 ページ、8 行目; S. 86. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ところで、<ついて>は、実在的には<とって>から出発しますし・・・

◆ 原文は:
 Das Von aber geht von dem Für realiter aus . . .

☆ 拙・改訳では:
 さて、「について」は「に対して」に実在的に基づいているのですが・・・

◇ 拙訳の理由は:
(1) 元の訳のように「実在的には(realiter)」とすれば、「について」の実在的なあり方以外も、問題になるかのような印象を与えます。

(2) von et. ausgehen を、元の訳のように「出発」すると、いささか擬人法的にしたのでは、意味がよく分かりません。そこで、
(i) 相良守峯『大独和辞典』では、例文 von einem Grundsatz ausgehen を「原則に基づいている」と訳しているので、この箇所でも「基づく」と訳するか、
 (ちなみに、元の訳でも 149 ページ 3 行目(1856年版では S. 85)には、「前者 [精神世界の意識] は後者 [個体の意識] の実在的根拠なのです」とあり、「根拠」の用語が使われていますので、ここで「基づく」と訳しても違和感はないでしょう。)

(ii) 直訳して、「「『について』は、『に対して』から実在的に発します」とするかでしょう。
(初出 2010.8.18)
(目次)

150 ページ、5 - 6 行目; S. 86/47. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 まさにそれゆえすべてにとって妥当するわけではないようなものが、すべてについて妥当することは決してないし・・・

◆ 原文は:
 Nichts ist von allen gültig, was nicht eben darum auch für alle gültig wäre . . .

☆ 拙・改訳では:
 すべてのものについては妥当しないようなものは、それゆえ、すべての知性に対して妥当するということもないでしょう。

◇ 拙訳の理由は:
(1) für alle は、「すべてにとって(に対して)」ではなく、「すべての知性にとって(に対して)」と訳すべきであることは、150 ページ 1 - 2 行目の件で、すでに述べました。

(2) 引用文中の darum (それゆえに)は、直前の主文「すべてのものについては妥当しない」を受けていると思います。元の訳では darum は、その直前の文章すなわち前段落の内容を受けたようになっています(注)

(3) 元の訳では、「決してないし」と強い断定になっていますが、原文では wäre (でしょう)の接続法 II 式が使われ、やわらげた表現になっています。これは、ここでの主張をフィヒテは証明しておらず、哲学的良識でもってシェリングに訴えているからです。
 むろんシェリングも、この主張には賛同していたはずです。この主張に反するようなものは、そもそも真の哲学的対象とはなりえないという了解事項は、ドイツ観念論のみならず、古典哲学一般の共有するところでしょう。

(4) 元の訳では、部分否定なのか全体否定なのか、判然としません。

--------------------------------
(注)前段落では、以下のように述べられています:
 「明証的であるということは、すべてのもの [前記の例では、すべての直線] について当てはまりますし(意識 C において)、またすべての知性に対しても当てはまります(意識 B において)。これは、どこに由来するのでしょうか? これら 2 重の妥当性 [=当てはまること] の統一点や [一方の妥当性から他方の妥当性への] 転換点は、どこにあるのでしょうか? 答え: C そのものが、B との関係では「の内でIn)」であり、自ら自身との関係では「に対してFür)」
(初出 2012.9.13)
(目次)

150 ページ、1 -2 行目; S. 86/47. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 明証は・・・また(意識Bのおける)あらゆるものにとって妥当します。

◆ 原文は:
 Die Evidenz gilt . . . für alle (im Bewusstsein B).

☆ 拙・改訳では:
 明証的であるということは・・・すべての知性に対しても当てはまります(意識 B において)。

◇ 拙訳の理由は:
 für alle alle を、たんに「あらゆるもの」と訳したのでは問題です。と言いますのは:
 引用文中の「意識 B 」は、普遍的な精神的世界を表しています。つまり、誰に対しても開けている世界です。そこで、そのような世界における für alle とは――もともと für alle が登場してきた 2 点間の直線の例では(元の訳では148ページ。1856年版では S. 84)、für alle は「すべての知性に対して」という意味だったことからも――、「すべての知性に対して」という意味です。
(初出 2010.8)
(目次)

149 ページ、6 - 7 行目; S. 85. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 この把握は、いかなる意識によっても凌駕されず、そしてまた反省されることもできない絶対的な意識において生じます。

◆ 原文は:
 Dieses geschieht in dem absoluten, durch kein Bewusstsein zu überfliegenden und wiederum zu reflektierenden Bewusstsein;

☆ 拙・改訳では:
 こうした事は、[個別的な] 意識によっては、見通されえないし新たに反省されえないところの、絶対的な意識において起きるのです。
 
◇ 拙訳の理由は:
 ここでは「絶対的な意識において起きる」ことが、すなわち超越論的な事態について書かれています。こうした事態は、現実の個々の意識にはのぼってきません。そこで、小学館『独和大辞典』(第 2 版)で überfliegend を引きますと、「一わたり見渡す」の訳が出ていましたので、拙訳は「見通され」としました。
 元の訳のように「凌駕する」では、どういう意味なのかはっきりしません。
(初出 2010.8)
(目次)

149 ページ、5 - 6 行目; S. 85. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方 [シェリング] は自分を、すなわち自分の把握、つまり主観-客観性の重なりを、規定されたものとして措定している――このように私 [フィヒテ] は申しました。

◆ 原文は:
 Sie setzen sich d. i. Ihr Erfassen, Ihr Zusammenfallen der Subjekt=Objektivität, als Bestimmtes; sagte ich.

☆ 拙・改訳では:
 貴方は自己を、すなわち貴方がなす把握を、「主観性=客観性」という両者の合一を、規定されているものとして措定する――そう私は言いました。
 
◇ 拙訳の理由は:
(1) 引用文中の Zusammenfallen は、あいまいで意味の取りにくい「重なり」ではなく、「合一」のように明確に訳すべきでしょう。なお、「主観=客観」については、用語の解説をご覧ください。

(2)  元の訳のように setzen sich を「(貴方は)措定している」としたのでは、シェリングがフィヒテとは無関係なところで「措定」しており、フィヒテがそれをとがめているような、ニュアンスになります。しかしこの箇所は、148ページ12行目(1856年版では、S. 84)のフィヒテの「例えば・・・捉えてみてください」という、フィヒテが仮想的に設定した場面にもとづいています。そう設定すれば、「貴方は(これは別段シェリングでなくても、「人は」でもいいのですが)・・・措定する」はずだということです。
 そこで拙訳では、「措定している」ではなく、「措定する」にしました。また、元の訳でも、「措定するからです」(148ページ、17行目)と、フィヒテは「措定する」と「申し」たようになっています。
(初出 2010.8)
(目次)

148 ページ、17 - 18 行目; S. 84/46. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 前者、すなわち、まさしく自己把握の形式によって、時間と共に個体としての自分が貴方に与えられ、後者・・・

◆ 原文は:
 Das erstere gibt Ihnen mit der Zeit sich als Individuum; das Letztere . . .

☆ 拙・改訳では:
 前者の「規定されている自己」は、時間が加わって(mit der Zeit)、個人としての自己を貴方に与えます。後者の・・・

◇ 拙訳の理由は:
(i) 引用文中の Das erstere (前者)と das Letztere (後者)は、その直前の文で強調のイタリック体によって書かれている bestimmtes (正確には、 sich . . . als bestimmtes規定されているものとしての自己)と bestimmbares (正確には、 sich . . . als bestimmbares規定されえるものとしての自己)を指すと思います。

(ii) そこで、前者の「規定されているものとしての自己」は、規定されていることによって固体化されているとはいえ、まだ抽象的で、それが具体的な「個人としての自己」になるには、時間の内に存在する必要がある――このようにフィヒテは主張しているのでしょう。
(初出 2013-7-6)
(目次)

148 ページ、16 - 17 行目; S. 84/46. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方が自分を第一の観点では規定されたもの・・・として措定し・・・

◆ 原文は:
 Sie setzen in der ersten Rücksicht sich d. h. eben die Form des sich erfassens als bestimmtes . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・貴方が自己を――すなわち、まさに自己把握の形式を――、前の「ついて」に関しては規定されているもの(質料的なもの)として措定し・・・

◇ 拙訳の理由は:
 『アカデミー版全集(III, 5)』によれば、引用した原文中の d. h. eben die Form des sich erfassens の語句が、余白にメモとして書かれているようです(S. 46)。そして『アカデミー版全集(III, 5)』では、これらの語句は本文テキストに挿入されています(上記の「◆ 原文は」の箇所で、青色の字で示したように)。そこで拙訳では、これらの語句も本文に入れて訳出しました。
 なお、原文中の ersten Rücksicht (前の観点)というのは、「ついて」に関することなので、そのように訳出しています。
(初出 2012.10.4)
(目次)

148 ページ、12 行目; S. 84. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 例えば、二点間の直線はただ一本であるということを、意識的に捉えてみてください。

◆ 原文は:
 Fassen Sie auf z. B. Ihr Bewusstsein, dass zwischen zwei Punkten nur Eine gerade ist. 

☆ 拙・改訳では:
 例えば、2 点間を通る直線はただ1本であるという、貴方の意識を考えてみて下さい。

◇ 拙訳の理由は:
 dass 以下は、直前の z. B. Ihr Bewusstsein をうけて、この意識の内容を表しているのだと思います。つまり、「例えば、dass 以下であるような貴方の意識」という意味です。
 なお、分離動詞 auffassen の目的語は Ihr Bewusstsein なのですが、これの説明である dass 節をくっ付けたために、auf の右側に Ihr Bewusstsein も出てしまったのでしょう。
(初出 2010.8)
(目次)

148 ページ、10 行目; S. 84. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 また、観念根拠と実在根拠との同一性が、直観と思惟との同一性に等しいものとして提示されなければなりません。

◆ 原文は:
 . . . auch muß die Identität des Ideal- und Realgrundes, = der Identität des Anschauens und Denkens aufgestellt werden. 

☆ 拙・改訳では:
 観念的根拠実在的根拠の同一性も、直観と思考の同一性と同様、提示されるべきです。

◇ 拙訳の理由は:
 原文中の「
= der Identität」の「=」は、1856 年版では gleich の文字になっているように、gleich と同じです。この副詞 gleich は3 格支配なので、次の der Identität も 3 格になっています。用法は、例えば:
 
Er ist gleich mir eingeladen worden. 彼は私と同様に招待された(相良守峯『大独和辞典』の gleich の項目)

 つまり、「A は B と同様~」という意味ですので、引用文の文意も「観念的根拠実在的根拠の同一性も、直観と思考の同一性と同様」となります。
 もし元の訳のような意味であれば、= [gleich]
ではなく、mit が使われるべきでしょう。
(初出 2010.8.3)
(目次)

148 ページ、1 行目; S. 83. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 さしあたってはこれで十分です。

◆ 原文は:
 Vorläufig nur so viel:

☆ 拙・改訳では:
 とりあえずは、以下のことだけを [述べましょう]。

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳文「これで十分です」の「これ」は、それまでのフィヒテの主張を指すと考えられます。そこで so viel が、元の訳のようにそれ以前の内容を指すのか、あるいは拙訳のようにその後の内容を指すのかが、問題です:
(i) 引用した原文の最後は、コロン(:)で終わっているので、そのあとに so viel の内容が記されていると理解するのが自然です。

(ii) また、元の訳のように、それまでのフィヒテの主張で「十分」なのであれば、なぜ引用文の最後のコロンの後にフィヒテの哲学的議論が延々と続くのか、解せなくなります。

(iii) 引用文の前の文章で、フィヒテは「貴方にまったく明瞭に説明するために、私はただ [知識学の] 新しい叙述に期しています」と述べています。つまり、シェリングに対する反論は、新しい『知識学』の登場を待ってからにしてほしいということです。<とはいえ、ここで何も述べないというのも適切ではないでしょうから、「とりあえずは、以下のことだけを」>と、フィヒテは書いたのだと思います。
(初出 2010.8.3) 
(目次)

147 ページ、11 行目; S. 83. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方の体系を読んだかぎりでは・・・

◆ 原文は:
 So viel ich in ihrem System gelesen habe . . .

☆ 拙・改訳では:
 私が貴方の『[私の哲学] 体系 [の叙述]』を読んだ限りでは・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用した文の「体系(System)」は、シェリングの哲学体系一般を指しているのではなく、前の段落(1856 年版では同じ段落)冒頭に出てきている『哲学体系』、すなわちシェリングの著書『私の哲学体系の叙述』のことです。
 なお、フィヒテのここでの引用文を、シェリングは次便で少し語句を変えて、「私が貴方の『[私の哲学体系の] 叙述』を読んだ限りでは」と、引用しています(元の訳では、167ページ、11行目)。
(初出 2012.11.7) 
(目次)

147 ページ、3 行目; S. 82. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方 [シェリング] がひょっとして私 [フィヒテ] の観念論のことを断定的に考え・・・たとすれば・・・
 ([ ]内は、引用者による挿入です。)

◆ 原文は:
 Wenn Sie etwa das erste kategorisch gedacht. . . haben, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・貴方が、前者 [のフィヒテの観念論について述べたいくつか] を確定的に考え・・・たのでしたら・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用した文中の das erste (前者)は、引用文直前の文中に出てくる「フィヒテの観念論」を指すのではなく、シェリングが「フィヒテの観念論についていくつか、不確かな調子で(problematisch)述べ」たことを指します。
  つまり、フィヒテはここで、「貴方は私の観念論について、
problematisch に(不確かに。疑わしい調子で)いくつかの事を述べていますが、もしそれらを kategorisch に(確定的に。断定的に)考えておられるのでしたら・・・」と言っています。

 なお、シェリングが
problematisch に述べたいくつかの事については、こちらを参照してください。
(初出 2013-6-9) 
(目次)

146 ページ、15 行目; S. 82. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方のあの命題について・・・述べたりはしませんでした。

◆ 原文は:
 Ich erklärte mir also jenen Satz bei Ihnen, so wie Sie wissen, ohne mich weiter über das Recht, das Intelligible in eine Naturphilosophie hineinzuziehen, zu erklären, indem ich glaubte, dass auch hierüber Ihnen der Wink genügen werde.

☆ 拙・改訳では:
 私は貴方のあのお考え [自然から知性を導出することの可能性] については、貴方もご存知のように解釈して、知性的なものを自然哲学の内部へ導入する権利を表明するようなことはしませんでした。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 引用文中の Satz を「命題」と訳すと、それは主語と述語を備え、真偽を問える判断という、厳密な意味になります。しかし、ここではより一般的な意味で、つまり、「主張、考え」という意味で、この語は用いられているようです。
 といいますのは、この
jenen Satz は 2 つ前の文中の (Ihre Äußerung,) von der Möglichkeit einer Ableitung der Intelligenz aus der Natur を指しますが、これは命題というよりは、シェリングの「主張、考え」でしょうから。

(2) erklärte mir は、「解釈しました」という意味だと思います。
sich (3 格) erklären は「解釈する」という意味で、Ich erkläre mir die Sache so (私はこの件をそのように解釈している)という例文が)小学館『独和大辞典』第2版と相良守峯『大独和辞典』に出ています。
 erklärte mich (4 格) であれば、もとの訳のように「私の意見を表明しました」になります。

(3) 引用文中の das Recht が、元の訳のように「正当性」になるのか、拙訳のように「権利」なのかは、微妙です。拙訳は、修辞的な用法でフィヒテは「権利」と書いたと、解しています。
 といいますのは、
 i) 「正当性」であれば、
Richtigkeit を使うのが自然かもしれません。
 ii) 「知性的なものを自然哲学の内部へ導入する」というのは、シェリングが「知性を自然から導出する」(1856年版では S. 82, Z. 3.)ことへの対抗手段として持ちだされているわけで、フィヒテ本来の哲学ではありません(もともと自然哲学さえも認めていないのですから)。それを、「正当性」と形容するのは、すこし表現過多ではないでしょうか。
(初出 2012.8.22)
(目次)

146 ページ、12 行目; S. 82. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方以外の人であったなら・・・思いつきもしなかったのです。

◆ 原文は:
 Ihnen zu sagen, was ich ohne Zweifel –- jedem Andern gesagt haben würde, -- Sie an den greiflichen Zirkel in der Ableitung einer Natur aus der Intelligenz und hinwiederum der Intelligenz aus der Natur zu erinnern, und zu meinen, dass ein Mann, wie Sie, so etwas übersehen haben könnte, konnte mir nicht einfallen.

☆ 拙・改訳では:
 [・] 貴方に対して、他のすべての人には疑いもなく言ったであろうような事を言うようになろうとは、
 [・] また、自然を知性から、そしてまた知性を自然から導出するという明らかな循環を、貴方に指摘するようになろうとは、
 [・] そして、貴方のような人でさえこうした事を見落とすのかと、思うようになろうとは、
私には思いもよりませんでした。

◇ 拙訳の理由は:
 長い文章ですが、3 つの不定詞句が並列に、それぞれこの文の主語となっています。つまり、
Ihnen zu sagen
. . . (貴方に~を言う [ようになろうとは])
Sie . . . zu erinnern
(貴方に~を指摘する [ようになろうとは])
zu meinen . . . (思う [ようになろうとは])
(初出 2012.8.22)
(目次)

146 ページ、10 行目; S. 81 - 82. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方があの学問 [シェリングの自然哲学] に手を加えてさえいれば・・・

◆ 原文は:
 . . . in der Bearbeitung jener Wissenschaft . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・ [私が] あの学問 [知識学] そのものを改訂することによって・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の Wissenschaft は、1つ前の段落に出てくる Wissenschaftslehre (知識学)を指します。なお、フィヒテが知識学の改訂の意図を持っていたことは、
1800-9-13 付フィヒテからシェリングへの手紙での、meine neue Bearbeitung der Wissenschaftslehre(知識学の私の新しい改訂)という箇所(1856 年版では 46 ページ)、
・ 1800-11-15 付フィヒテからシェリングへの手紙での、
mit meiner neuen Bearbeitung der Wissehnschaftslehre(知識学の私の新しい改訂で)という箇所(1856 年版では 52 ページ)、
などですでに述べられています。
 この後も、
einer neuen Bearbeitung der Wissenschaftslehre (知識学の新しい改訂)という語句が、 1802-1-15 付フィヒテからシェリングへの手紙で表れます(1856年版では 115, 116 ページ)。
(初出 2012.8.19)
(目次)

146 ページ、7 行目; S. 81. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・このうえなく明瞭かつ深遠で、しかも正しいことを・・・

◆ 原文は:
 . . . unendlich viel Klares, Tiefes, Richtiges, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・限りなく多くの明晰で、意味深く正しいことを・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の viel は、数の多さを表していると思います。つまり、viel Gutes (多くの善いこと)と同じ用法です(相良守峯『大独和辞典』の viel の項)。
 なお、形容詞
viel は、「格が明らかな場合は語尾を省くことが多い」(相良守峯『大独和辞典』)といえます。
(初出 2012.8.19)
(目次)

146 ページ、4 行目; S. 81. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・観念論哲学と実在論哲学はどちらも真理であり、併存可能であると・・・

◆ 原文は:
 . . . von zwei Philosophien, einer idealistischen und realistischen, welche, beide wahr, neben einander bestehen könnten, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・観念論哲学と実在論哲学の2つの哲学について、これらは本当に併存することができる・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の wahr の意味が微妙です。
(i) wahr
beide の補語と見なすことが可能です。その場合、
  a) beide wahr . . . bestehen で、「どちらも真理として存続する」と解するか、
  b) sein が省略されており、beide wahr [sein] 「どちらも真理であって」と解するかで分かれますが、いずれにしても元の訳のようになります。

(ii) 拙訳では
wahr を副詞にとり、「本当に。まことに。」の意味に解しています。といいますのは、シェリングが両哲学は併存可能であるといったのは、『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』の編集者注2 (S. 43)によれば、『独断主義と批判主義についての哲学的書簡集』(1795 年)です。そしてその箇所が、編集者によって引用されています(S. 43f.)。
 それを読みますと、 wahr の語は出てこず、代わりに
begründen 「(両者を)基礎づける」、möglich 「(両者は)可能である」が使われています。そして両者とも、人間の自由によって初めて解決できる「同じ問題を持っている」とも書かれています。そこで、もしフィヒテがシェリングの文意に忠実に引用したのでしたら、今問題の wahr を「(どちらも)真理である」と訳すのは、強すぎることになります。
(初出 2012.8.17)
(目次)

144 ページ、10 行目; S. 79. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・私たちのおよそあずかり知らぬ、多数の認識を・・・

◆ 原文は:
 . . . eine, und völlig unbekannte, Mehrheit von Erkenntnissen . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・私たちのまったく知らないところの、諸認識の多数性を・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の unbekannte は、文法的に、また意味的にも Mehrheit を修飾します。つまり、フィヒテとシェリングにとっては絶対的認識の唯一性が肝心なことですが、バルディリとラインホルトが(諸認識の)多数性をもちだすのは馬鹿げていると、シェリング言っているのです。
(初出 2012.8.15)
(目次)

144 ページ、6 行目; S. 79. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 バルディリ-ラインホルトの出発点は・・・

◆ 原文は:
 . . . das Bardili-Reinholdische A, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・バルディリとラインホルトの主要対象は・・・

◇ 拙訳の理由は:
 相良守峯『大独和辞典』で A を引くと、比喩的意味としては「始め、最初(のもの)」のほかに、「主要事、核心(物事の)」があります。ここは、後者の方だろうと思います。
 といいますのは、元の訳のように前者の意味にとって、「出発点」と訳しますと、引用文の後の文が、「その出発点を無限に反復しうるゆえんは」となり、意味がつかめません。
 後者の「主要事」の意味、つまり、「バルディリとラインホルトの哲学の主要対象(フィヒテとシェリングの絶対的認識に相当)」の意味ですと、「主要対象が無限に反復できるということは」となり、理解できます。すなわち、この少しあとで出てくる「[フィヒテとシェリングの] 絶対的認識は私たち [=フィヒテとシェリング] の考えるところでは、すべてのうちで反復する」ということに相当する事態です。
(初出 2012.8.15)
(目次)

143 ページ、18 行目 - 144 ページ、2行目; S. 79. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 思考を客観的活動とみなすあの馬鹿げたおしゃべりは、またそのなかにひそむ真実は、まさに観念論の主要命題以外の何ものでもありません。つまり、<唯一の実在するのもは自我であり、そして一切の実在するものは主観・・・と客観である>という観念論の主要命題にほかならないのです。

◆ 原文は:
 Das absurde Geschwätz vom Denken als einer objektiven Tätigkeit ist mit dem was daran wahr ist durchaus nichts anders als eben der Hauptsatz des Idealismus, dass das einzig Existierende das Ich, und alles Existierende Subjekt . . . und Objekt sei. i.

☆ 拙・改訳では:
 客観的活動としての思考についての [彼バルディリの] 馬鹿げたおしゃべりは、その際真実なものとともに、まさに [貴方フィヒテの] 観念論の原理――つまり、唯一現存するのは自我であり、すべての現存するものは、主観(ラインホルトの思考)であり [かつ] 客観であるという――そのものです。


◇ 拙訳の理由は:
 引用文最後のほうに出てくる Subjekt . . . und Objekt und をどう解釈するかです。元の訳では、「主観あるいは客観」という意味になっています。しかし、「主観かつ客観」だと思います。といいますのは、
(i) この引用文の前の文でシェリングは、<バルディリはフィヒテの思想を、引用・継承した>と、言っています。それを受けてこの文は、<したがって、バルディリが唱えるくだらない説(馬鹿げたおしゃべり)も、貴方の説いた観念論の原理そのものです>となるわけです。(しかしそれだけでは、フィヒテの観念論も「馬鹿げた」ものだという論理になってしまいますので、「その際真実なものとともに」という語句を、シェリングは付けています。


(ii) したがって、dass 以下の「唯一現存するのは自我であり・・・」は、フィヒテの思想ということになります。フィヒテにあっては<主観=客観>です。そこで、Subjekt . . . und Objekt の意味は、「主観かつ客観」となります。
(初出 2012.8.16)
(目次)

143 ページ、17 行目; S. 78. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 彼 [バルディリ] は・・・貴方から、また貴方について何を手に入れたかを自分でも重々承知しているのです。

◆ 原文は:
 . . . er wohl weiß, was er aus Ihnen und von Ihnen hat.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・彼は貴方から何を引用し、継承したか、自分でもよく承知しているのです。

◇ 拙訳の理由は:
 相良守峯『大独和辞典』で haben を引くと、「(I) ④ 得ている」の例文として;
・「Das hat er aus dem Cicero, 彼はそれをキケロから引用した」があり、
・「Ich habe es von ihm, b) 私はそれを彼から受け継いだ」があります。
 そこで、前記のように訳出しました。
(初出 2010.8.3)
(目次)

143 ページ、6 行目; S. 78. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・明らかに彼は貴方の命題にとびついただけなのです。

◆ 原文は:
 . . . und endlich aus Sätzen Ihres Systems, die er freilich auf jeden Fall nur aufgeschnappt hat, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・そして最後に、むろんたんに偶然に知った貴方の体系からの考え・・・

◇ 拙訳の理由は:
(1) aufschnappen は、「たまたま聞き込む。小耳にはさむ」(相良守峯『大独和辞典』)、「小耳にはさむ、偶然に知る」(小学館『独和大辞典 第 2 版』)という意味です。

(2) この引用文中の Sätzen (Satz)も、論理学・哲学の専門用語である「命題」よりは、一般的な「考え」と訳出して十分でしょう。
(初出 2013-1-15)
(目次)

142 ページ、17 - 18 行目; S. 77. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・「無化作用 Annihilationsakte」・・・とならんで・・・この時代全体の論争術の絶頂と・・・

◆ 原文は:
 . . . nebst der Annihilationsakte . . . als den Gifhel der polemischen Kunst des ganzen Zeitalters

☆ 拙・改訳では:
 ・・・「無効宣言文書」とともに、すべての時代をつうじての最高の論争術と・・・

◇ 拙訳の理由は:
(1) nebst は 3 格支配の前置詞なので、次の der は 3 格・単数です。そこで、AnnihilationsakteAkte は、単数形の女性名詞のはずです。ところが、元の訳の「作用」という意味での Akte は、男性名詞の複数形なので、元の訳は不適当だといえます。そこで 、この単数・女性名詞の akte は、「記録、文書」という意味です。

(2) 引用文中の des ganzen Zeitalters (全時代の)には、「この」とか「私たちの」といった限定語がついていないのですから、「すべての時代(をつうじて)の」の意味だろうとおもいます。
またそうでなければ、フィヒテをあまり称賛したことになりません。
(初出 2012.8.9)
(目次)

142 ページ、16 行目; S. 77. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・貴方 [フィヒテ] がこのテーマを論じた仕方、手際に、私がどれほど感嘆したか・・・

◆ 原文は:
 . . . meine Bewunderung der Art, und der Kunst, mit der Sie ihn behandelt haben . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・貴方がラインホルトを論じた仕方や技法について感嘆いたしましたが・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の ihn が、何を指しているかが問題です。
(i) 元の訳では ihn を「テーマ」と訳していますが、それに相応するような単語は、近辺には見出せません。この箇所ではラインホルトが話題となっていますので、ラインホルトを指すと思います。

(ii) シェリングはこの手紙の冒頭で、フィヒテの論文「ラインホルトへの返書」を受け取ったことを書き、そして「繰り返し読ん」だと述べています。つまり、シェリングはフィヒテがラインホルトを論じたことに、感動したのでしたが、その事はこの引用文中の「感嘆」と合致します。

(iii) シェリング自身もラインホルトについてかつて論じたことがあり、そのことをこの手紙ですでに、
dass ich [= Schelling] Reinholden etwas sehr schnöde behandelt habe. と書いています。(1856 年版では、S. 77, Z. 6 - 7. 『アカデミー版フィヒテ全集 III, 5』では、S. 41, Z. 1)
 すなわち、引用文中の behandelt (論じる)と同じ動詞
behandelt が、すでにラインホルトを論じたことに使われているのです。
(初出 2012.8.9)
(目次) 

142 ページ、8 - 10 行目; S. 77. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 一切は現実的にはこの同じ自我においてのみ活動しているということが、また、どれほど高い意味で一切はすなわち自我であって・・・

◆ 原文は(文章の前半も入れて引用すると):
 es wird offenbar, dass Alles wirklich nur in demselben lebt und webt, und in welchem hohen Sinne alles = Ich und nur = Ich sei.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・すべてのものはただ同じものの内で、現実に活動していることが、明らかとなるでしょう。そしてまた、このような高い意味において、すべてのものは自我と等しいことが、ただ自我とのみ等しいことが明らかとなるのです。

◇ 拙訳の理由は:
   in welchem hohen Sinne welchem は、関係形容詞で、文章の前半を受けているのだと思います。つまり、「すべてのものはただ同じものの内で、現実に活動している」という「高い意味において、すべては自我と等しい」の意味になります。といいますのは:
 前半の「すべてのものはただ同じものの内で、現実に活動している」の動詞 lebt und webt は直説法です。したがって、シェリングがこれから明らかにする考えということになります。しかし、後半の「すべてのものは自我と等しい」の動詞は sei で接続法 I 式です。したがって、後半部はフィヒテの思想をシェリングが引用した形になっています。
 (ちなみに、この手紙の後の文においても、フィヒテの主張を引用した箇所は、やはり接続法 I 式の sei が使われています。元の訳では 144ページ 1 行目からの文――1856年版では、S. 79――「つまり、<唯一の実在するものは自我であり・・・客観である>という観念論の主要命題・・・」の「である」が、sei です。)

 そこで、シェリングの意図するところは、フィヒテの「すべてのものは自我と等しい」という思想も、私の考えに基づいて理解すべきだ、ということでしょう。
(初出 2010.8.3)
(目次)                                         

142 ページ、7 -8 行目; S. 76. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・観念論もまた、一切を包括し、概念的に把握し、透徹する真の太陽として・・・

◆ 原文は:
 . . . auch der Idealismus als die wahre alles befassende, begreifende, und durchdringende Sonne . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・観念論もまた、すべてを包括・包含し、貫く真の太陽として・・・

◇ 拙訳の理由は:
 begreifen を元の訳のように、「概念的に把握する」と訳すのは、Begriff を哲学の根幹にすえたヘーゲルの叙述の一部には適していますが、シェリングでは行きすぎです。ここはふつうに「把握する」の方がいいでしょう。が、太陽の形容語句として使われていることからすれば、むしろ「包括する」が適切だと思います。つまり、意味の似た befassend と一緒になって、意味が強調されているのです。
(初出 2010.8.3)
(目次)

・141 ページ、17 - 18 行目; S. 76. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・思想と作品のなかで・・・[叙述] したものにすぎない第二の世界が。
  ([  ] は元の訳文)

◆ 原文は:
 . . . eine Zweite [Welt] . . . doch nur Darstellung dieses Einen in Gedanken und werken.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・あの一つの対象の、思考と作品における叙述にほかならない [第 2 の] 世界が。

◇ 拙訳の理由は:
 最初の世界の上に立ち上がる「第 2 の世界」(auf der ersten Welt . . . wird sich eine zweite erheben)は、最初の世界より上位の世界なのですから、引用文中の nur は「すぎない」という意味ではなく、「~にほかならない」です。
(初出 2012.8.3)
(目次)

140 ページ、14 行目 - 141 ページ、1 行目; S. 74 - 75. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 <もしかすると自分の主張でしかありえないかもしれず、それどころか公衆が貴方の思想を理解する妨げにすらなりかねないようなあるもの>を私たちに共通の思想として提出することになりはしないかという臆病さが、私を引き止めることは、もうないでしょう。・・・

◆ 原文は:
 Ich werde nicht mehr durch diese Schüchternheit, etwas als unsre gemeinschaftliche Behauptung aufzustellen, was doch vielleicht nur die meinige sein, und ihrer Gedanken beim Publikum sogar im Wege stehen könnte, zurückgehalten werden;

☆ 拙・改訳では:
 私はもう遠慮によって――つまり、もしかするとたんに私の主張かもしれないものを、またさらには、貴方のお考えが読者に受け入れられるのを妨げるかもしれないようなものを、私たち共有の主張として提示するという遠慮によって――押し止められることはないでしょう。

◇ 拙訳の理由は:
 Schüchternheit (遠慮。臆病さ)の意味するところが問題です。
(i) 元の訳のように、これまでのシェリングに、「<・・・自分の主張でしかありえないかもしれず、それどころか公衆が貴方の思想を理解する妨げにすらなりかねないようなあるもの>を私たちに共通の思想として提出することになりはしないかという臆病さが」あったというのは、不可解です。
 もし、そのような不安をシェリングがもったのであれば、自分が発表するものを自説ですと、言えばいいだけです。フィヒテと共同の雑誌で、共通の論陣を張っているのではいるのではないのですから。
 私見では、シェリングはここで、「これまではフィヒテに遠慮して、フィヒテの陰で目立たなくしてきましたが(つまり、フィヒテと共有の説を述べているだけですとの姿勢でやってきましたが)、しかしこれからは・・・」と言いたいのだと思います。

(ii) 日本語では「~しないかと臆病である」、「~は遠慮する」と言えば、「その~はしない」ことを意味します。しかし、ドイツ語の Schüchternheit の用例をみますと(手元の辞書には、名詞 Schüchternheit の内容zu 不定詞句で説明した例文の記載はないので、決定的なことは言えないのですが):
 einen schüchternen Versuch machen 「おそるおそるやってみる」(小学館『独和大辞典』第2版)
 
schüchtern という形容詞の入ったこの例文では、「消極的に」ではあれ行為することを意味しています。
 
 そこで拙訳では、<シェリングはこれまでフィヒテへの「遠慮」によって、「私たち共有の主張として提示」していた>、と解釈しました。
(初出 2012.7.30)
(目次)

140 ページ、10 - 11 行目; S. 74. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・そして、自分が何ものかと一致していることに改めて気づきます。つまり、それと調和していると考えることが私にとって大切な何ものか・・・

◆ 原文は:
 . . . und [ich] sehe mich aufs Neue in der Übereinstimmung mit dem, mit welchem harmonisch zu denken mir wichtiger ist . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・新たに私が「より重要なもの」と一致することが分かります・・・これと調和して考えることが、私にはより重要なのです。

◇ 拙訳の理由は:
 mit welchem 以下の副文の主語の部分は、mit welchem harmonisch zu denken ですが、その意味は、「それと 調和して(調和的に)考えること」です。「調和していると考えること」と訳すのは、文法的に無理があります。
(初出 2012.7.27)
(目次)

139 ページ、3 行目; S. 72. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 望むらくは、この作品が個人のみならず、この個人が属する民族全体をも破滅させるようになってほしいものです。

◆ 原文は:
 Hoffentlich ist dieses Werk nicht nur für das Individuum, sondern für die ganze Race, zu der dieses gehört, verderblich.

☆ 拙・改訳では:
 望むらくはこの作品が、あの御仁のみならず、彼が属する種族 [グループ] 全体にとっても禍とならんことを。

◇ 拙訳の理由は:
 哲学的議論とは関係のない箇所ですが、シェリングの名誉のためを慮って――
 ここでは、シェリングが皮肉な諧謔を弄しています。Individuum には「個人」の意味のほかに、軽蔑的な「やつ、野郎」があり、ここは後者でしょう。(シェリングはなにせ神童ですから、格下の相手には容赦がありませんね)。
 元の訳の「この個人 [ニコライ氏] が属する民族全体 [ドイツ民族?] をも破滅させるように」というのは、いささか乱暴です。Race は本来のドイツ語では Rasse ですが、おそらく英語からそのままもってきたのでしょう(当時のドイツ語の綴りが Race だった可能性もありますが)。冗談っぽく「種族 [グループ]」とするのが、ベターだと思います。 
(初出 2010.8.3)
(目次)

138 ページ、12 -15 行目; S. 72. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 また、貴方もきっと見抜いておられる通り、私がまさしく従来の圏域の外部でしか説明できない地点に立っている――それは、貴方の体系の意義全体がこの地点に依存しておればこそなのですが――以上、この圏域の外部にとどまっている叙述は、どれも貴方本来の思考や見解について私を先に進ませないのですから。

◆ 原文は:
 . . . da . . . und jede Darstellung, die innerhalb des bisherigen Kreises bleibt, mich über Ihren eigentlichen Sinnund Meinung nicht weiter bringt, indem ich, wie Sie wohl einsehen, eben an einem Punkte stehe, dessen Erörterung außerhalb dieses Kreises fällt, eben darum, weil von ihm die ganze Bedeutung Ihres Systems abhängt.

☆ 拙・改訳では:
 また、これまでの範囲内での [貴方の] 叙述はすべて、貴方元来のお考えやご意見を越えたところでは、私には得るところがないからです。このことは、貴方もよくご存知のように、私が立脚している地点についてこれを論議することが、これまでの範囲外になる――なぜならまさしく、この地点に貴方の体系のすべての意味が懸っているがゆえにです――ためです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) ~ bringt mich nicht weiter は決まり文句で、「私にとってプラスにならない」(小学館『独和大辞典』)、「私のためにならない」(相良守峯『大独和辞典』)という意味です。そこで、この熟語の意味を活かした訳が好ましいでしょう(拙訳は「得るところがない」)。

(2) über Ihren eigentlichen Sinnüber が、「~について」なのか「~を越えて」なのかが問題です。拙訳では、「~を越えて」にしました。それは、
 i) この部分の動詞の部分 bringen は、もともとは「動かす。移す」という動作を意味していると思います。そうであれば、「~を越えて動かす」と解釈する方が、より自然な感じです。
 ii) 内容面からみると、「~について」だとすれば――「これまでの範囲内での [フィヒテの] 叙述はすべて、貴方 [フィヒテ] 元来のお考えやご意見について、私に得るところがない」となり、これはちょっと言い過ぎというか、解せません。これまでの範囲内で、フィヒテが叙述・説明したものは、少なくともいくらかは、フィヒテの元来の、つまりこれまでの範囲内での考えを、明らかにするでしょうから。

(3) Erörterung の意味は「説明」というより「論議。論究。検討」ですから、dessen Erörterung は「私の立脚する地点 [について] の検討」ということです。つまり、シェリングは自分の見地を絶対に正しいとはしておらず、検討・議論の余地は無論ありますという態度をとっているのでしょう。
(初出 2010.8.3)
(目次)

137 ページ、14 行目; S. 71. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ただ、私の望んでいるものは、超越論主義の従来の諸原則から帰結するのではなく、むしろそれらに対立しており、観念論をその諸原理そのものにおいて拡張することからしてのみ、観念的に把握され、導出されうるのです・・・

◆ 原文は:
 . . . nur folge, was ich wolle, nicht aus den bisherigen Grundsätzen des Transzendentalismus, sondern, sei ihnen vielmehr entgegen, und nur aus einer Erweiterung des Idealismus in seinen Prinzipien selbst, zu begreifen und abzuleiten, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ただ私 [シェリング] の望むものは――それを把握し、導出するためには――、超越論 [的観念論] のこれまでの諸原則から生じるのではなく、それらの原則にはむしろ対する(entgegen)ようだとしても、観念論を原理そのものにおいて拡張することからのみ、生じるのである・・・

◇ 拙訳の理由は:
 この箇所は、前回のフィヒテからの手紙(1800-12-27 付)の一部を、をシェリングが引用している形をとっているので、接続法一式が使われています。
 また、この箇所では諸原則(Grundsätze)と諸原理(Prinzipien)、超越論(Transzendentalismus)と観念論(Idealismus)は、同意味だと思われます。

(1) 引用文中の entgegen を「対立する」と訳したのでは強すぎで、「[カント以来の超越論的] 観念論の諸原理を拡張することによって、これまでの超越論 [的観念論] の諸原則と対立する」ということになってしまい、どうして「拡張」が「対立」なのか意味不明ですし、これまでの原理は廃棄すべきだということにもなります。
 
entgegen が意味するところは、「拡張されたものは、これまでの諸原則から導出されたものではなく、それ自身の自立性をもつ原理である」ということだと思いますので、たんに「対する」と訳出しました。

(2) 引用文は、
was が主語で、動詞が folge、それに続く前置詞 aus が 2 個あるという構造になっています。すなわち、
 (i)
folge nicht aus den bisherigen Grundsätzen des Transzendentalismus
 (ii) sondern aus einer Erweiterung . . .
 そこでこの構造に沿って、解釈することになります。

(3) すると問題は、最後の zu begreifen und abzuleiten という zu 不定詞句を、どこに接続させるかということです。
 内容的に見ますと、
was ich wolle は、前回のフィヒテからの手紙に記されているところの、シェリングの自然哲学における「これらの考え」を指します。そして、「これらの考えは、超越論的哲学のなおさらなる拡張――この哲学の原理においてさえも――によってのみ、基礎づけられ得るのです」と、フィヒテは書いています。
 したがって「これらの考え(
was ich wolle)」は、「基礎づけ」られなくてはならないのですが、このことを zu begreifen und abzuleiten という語句は表しているのだと思います。すなわち、「基礎づけるために」という意味で、「把握し、導出するために」と、シェリングは書いたのでしょう。そこで拙訳は、「私の望むものは――それを把握し、導出するためには――、超越論のこれまでの諸原則から生じるのではなく・・・」としました。
(初出 2012.7.18)
(目次)

135 ページ、13 - 14 行目; S. 68. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・私は、これらの一層拡張された諸原理を学問的に仕上げることがまだできていません。それに関しては・・・このうえなくはっきりと暗示しておきました。

◆ 原文は:
 Ich habe . . . noch nicht wissenschaftlich bearbeiten können; die deutlichsten Winke darüber . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・私はまだ学問的に論じることができてはいません。[しかし、] こうした諸原理について明瞭に示唆したものは・・・

◇ 拙訳の理由は:
(1) bearbeiten には、「(あるテーマを)取り扱う、論じる」という意味もあります。ここでは、この意味の方が適しているでしょう。元の訳の「仕上げる」では、「未完成ながら、一応は論じている」という意味が出てしまいます。 

(2) 元の訳のように、引用文中の
darüber を「それに関しては」とすると、「それは」は単数ですので、複数の「諸原理」ではなく、「学問的に仕上げることがまだできてい」ないことを、受けることになってしまいます。そこで、「こうした諸原理について」と、具体的に訳出しました。

(3) 引用文中の deutlichst は最上級ですが、これは他と比較して最も程度が大きいということではなく、意味を強調するための最上級です。そこで拙訳においては、「明瞭に」の語句により、すでに強調された表現になっているものと見なしています。
(初出 2010.8.3)
(目次)

134 ページ、3 行目; (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・知識学(貴方が理解するようなそれ、私によれば知識学はすなわち哲学一般なのですが)・・・

◆ 原文は:
 . . . die Wissenschaftslehre (wie Sie es verstehen; nach mir ist Wissenschaftslehre = Philosophie überhaupt -) . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・知識学は(貴方もご存知のように、私にとっては知識学=哲学一般です)・・・

◇ 拙訳の理由は:
 wie Sie es verstehen (貴方が理解するような・・・。貴方もご存知のように・・・)
es を、元の訳では直前の女性名詞 Wissenschaftslehre に取っていますが、
(i) 直前の女性名詞であれば、es ではなく sie で受けるのがより自然なのではないでしょうか。

(ii) 元の訳のようにここでの Wissenschaftslehre が、シェリングの理解するようなものだとすれば、この引用文の直後に出てくる transzendentaler Idealismus genommen als System (体系として考えられた超越論的観念論)も、シェリングの理解するところのものとなります(両者は「すなわち(oder)」で接続されているので)。したがって、この体系を説明した後の文章も、シェリングが理解したかぎりでは、ということです。
 ところが、その直後の段落冒頭では、「来たるべき夏に、私(フィヒテ)はこうした考えを叙述することに取りかかるでしょう」と書かれており、前記の体系の説明はフィヒテのものだったことが分かります。

 そこで、wie Sie es verstehen は、直後の nach mir . . . überhaupt
にかかると見るべきでしょう。

(iii) 問題は、両文の間にあるセミコロンですが、現代の私たちからすればコンマであるべきです。しかし、フィヒテの句読法には独特のものがありますし、200 年も前のことですから、無視してもいいのではないかと思います。
(初出 2013-3-8)
(目次)

133 ページ、12 - 13 行目. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 つまり翻して言えば、自我は、[自我とは] どこか別のところでまるごと自我から説明される当のものから説明されるわけにはいかないのです。

◆ 原文は:
 Nun kann nicht umgekehrt das Ich wieder aus dem erklärt werden, was anderswo durchaus aus ihm erklärt wird.

☆ 拙・改訳では:
 そこで、逆に自我の方を、[自然哲学とは] 別のところでまったくもって自我から説明されるもの [=シェリングの自然における主観的なもの] から、なおまた説明することはできないのです。

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の anderswo (別のところで)を、元の訳では「自我とは別のところで」と解釈しています。そして、「自我は、[自我とは] どこか別のところでまるごと自我から説明される・・・」となっているのですが、これでは文意が理解できません。
 そこで、anderswo は「シェリングの自然哲学とは別のところで」、たとえば「拡大されたフィヒテの知識学において」という意味ではないでしょうか。
 といいますのは、フィヒテの目には、高いポテンツである自我を低次のポテンツである自然から説明しているのが、シェリングの自然哲学だと映っています。したがって、反対に自我から自然(における主観的なもの)を説明するのは、この自然哲学以外のものということになります。
 ただ、引用文の前後には、「自然哲学」の用語が出てきてはいないのに、それを (
anderes) wo で表すのは、なるほど唐突すぎます。しかしこの文章は草稿であること、また他に wo が受ける適当な語句が見当たらないことから、それもやむをえないと思われます。
(初出 2013.3.7)
(目次)

131 ページ、2 行目; S. 65. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 けれども、線と面と立体は、・・・成立するにすぎず、・・・

◆ 原文は:
 Aber Linie, Fläche und Körper entstehen nur ursprünglich eben erst in der Naturphilosophie , . . .

☆ 拙・改訳では:
 ところで線、平面、立体は、根源的には、まずもって自然哲学のうちでのみ生じます。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 冒頭の aber は、逆説の「しかし、けれども」の意味ではなくて、継続を表す「すると。そこで」です(この引用文では、「ところで」と訳しています)。といいますのは、この引用文の 2 つ前の文で、「数学哲学は・・・自然哲学からの抽象なのです」と述べられており、その例証として「線、平面、立体」が挙げられているからです。

(2) 引用文中の nur の部分が、元の訳では「線と面と立体は・・・自然哲学において初めて成立するにすぎず」(強調は引用者)となっており、自然哲学において成立することが、なにかネガティブな印象を与えます(「~にすぎない」という言い方の第一義は、否定的です)。しかしシェリングの意図はそうではないのですから、「自然哲学のうちでのみ」と訳出しました。
(初出 2012.6.23)
(目次)

131 ページ、1 - 2 行目; S. 65. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 線はひとつの次元で増減する量として算術の図式であり――算術の数列もやはりひとつの次元しかしかもたない・・・

◆ 原文は:
 Die Linie, als nach Einer Dimension auf-und absteigende Größe, ist das Schema der Arithmetik, deren Reihe auch nur diese Eine Dimension hat,

☆ 拙・改訳では:
 一次元的に [傾斜して] 上昇・下降する量としての線は、算数の形式です。算数での [数の] 並び方も、たんにこの一次元なのです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 「eine aufsteigende Linie 上昇線」「eine abfsteigende Linie 下降線」という訳が、小学館『独和大辞典』(第2版)には出ていますので、そのように訳出しました。
 元の訳では auf ab を増減の意味にとり、「線は・・・増減する量として」としていますが、これでは意味不明となります。

(2) deren Reihe が元の訳では「算術の数列」となっていますが、「数列」というのは高校数学で出てくる用語ですから、「算術(算数)」とはマッチしません。一般的にいって、文系の訳本では数学・科学用語の訳が不適切であることが、しばしばあります。中学と高校の数学・理科の教科書は、哲学をこととする私たちも、一通り揃えておきたいところです。
(初出 2012.6.20)
(目次)

130 ページ、15 - 17 行目; S. 64. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 球にはたしかに長さ [線] や幅 [面] はありませんが、しかし深さはあるからです。球としての空間はしたがって、反省においてはすでに、無限な空間へと限定された直観なのです。
 (ここでの [  ] は、元の訳者の挿入です)

◆ 原文は:
 . . . denn die Kugel hat zwar nicht Länge und Breite, wohl aber Tiefe. Der Raum als Kugel ist also schon in der Reflexion auf den unendlichen Raum begrenzte Anschauung.

☆ 拙・改訳では:
 というのは、球はなるほど長さや幅は持ちませんが、しかし奥行きは持っているのですから。したがって球としての空間は、すでに反省において無限空間へと限定されたところの直観なのです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 元の訳では、[ ] を挿入することによって、長さを 1 次元の線として、幅を 2 次元の面として解釈しています。しかしそれでは、球は立体の三次元ということになります。するとシェリング(元の訳)によれば、「球にはたしかに長さ [線] や幅 [面] は」ないのですから、球は一・二次元を欠いた三次元の立体という、分けのわからないものになってしまいます。
 そこで、ここでの「長さ」、「幅」、「奥行き(深さ)」は、現代的に言えば、三次元空間を表すときに用いる X 軸、Y 軸、Z 軸に相当すると思われれます。

(2) 元の訳では、「無限な空間へと限定された・・・」となっており、いささか形容矛盾をきたしています。そこで、「反省においてはすでに」と訳すのではなく、「すでに反省において・・・」と訳出するのがいいでしょう。。
 つまり、シェリングの文意は、<球なる空間は、なるほど無限な空間ではあるが、(すでに)反省のうちにある。その意味では、純粋な直観ではなく、すでに限定された直観である>、 ということだと思われます。
(初出 2010.8.3)
(目次)

130 ページ、10 - 13 行目; S. 64. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 しかし、そう考えることこそ、これまで少なくとも最初の諸原則については私たちが完全に同意見であるようにさせてきた点なのです。ですからそのかぎりでは、私が貴方を理解していないと考えることは・・・本質的なことではないのです。

◆ 原文は:
 Dieses ist aber eben ein Punkt, der uns bis jetzt wenigstens über die ersten Grundsätze völlig einig sein lässt, also insofern . . . nicht wesentlich ist.

☆ 拙・改訳では:
 しかしこの一致していない所は、今まで私たちを、少なくとも第一義の諸原理(die ersten Grundsätze)に関して、完全に一致させてきた点に他ならないのであり、その限りでは・・・この不一致は本質的ではありません

◇ 拙訳の理由は:
(i) 引用文冒頭の主語 Dieses が、何を指しているかが問題です。主語 Dieses の補語は Punkt (点。箇所)ですが、引用文の直前の文中に Punkt という単語は出てきており、そこでは、「私 [シェリング] が [貴方のフィヒテと] 一致していない所」の意味で使われています。すなわち、
 Wo ich nicht einig bin, und der Punkt doch wesentlich ist, (z.B. in der Religionslehre) . . .

(ii) そこで、引用文中の Punkt も同じ意味だろうと考えるのが、自然だと思います。すると、主語 Dieses も、「一致していない所」となります。

(iii) そこで、引用文の少し前から見てみますと、以下のような文章の流れになります:
 「貴方 [フィヒテ] の体系の本質的な点すべてにおいて、私 [シェリング] はこれまで貴方と一致しています。・・・[とはいえ、] 本質的な点でありながら、私が [貴方と] 一致していない所では・・・私はまだ貴方を理解していないものと思っています。しかしこの一致していない所は、今まで私たちを、少なくとも第一義の(ersten)諸原理に関して、完全に一致させてきた点に他ならないのであり、その限りでは・・・この不一致は本質的ではありません」。
(初出 2013-2-22)
(目次)

130 ページ、3 - 7 行目; S. 64. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 誰かある人物の・・・助けてくださるでしょう。

◆ 原文は:
 . . . dem Buchstaben jeder Art wird auch kräftiger Einhalt dadurch getan, und Sie sind zu weit darüber erhaben, einen bloßen Anhänger an irgend Jemand zu begehren, um diesem eignen Weg, den ich nehmen will, nicht mit Vergnügen zuzusehen, und wenn Sie überzeugt werden, dass er zum Ziel führt, mich selbst darauf zu fördern.

☆ 拙・改訳では:
[・] 私がとろうとしている独自の道を、喜んで眺めているということをしないがために、誰かがその人のたんなる信奉者を欲することによって、
[・] また、私の道が目標に通じていると貴方が納得されるとき、私を目標に向けて支援するということによって、
あらゆる種類の [私が書こうとする] 文章が、強く抑制されることになりますが、しかし貴方はこうしたことを、はるかに超越されています。

◇ 拙訳の理由は:
(1) この長い文章の構造がどうなっているかですが、
 (i) 冒頭の dem Buchstaben . . . dadurch getan の文と、
次の
Sie sind zu weit darüber erhaben の文が、
同格的に並列しています。

 (ii) 前記 2 つの文に含まれている dadurch darüber
da は、どちらともその後の 2 つの zu 不定詞句を指しています。すなわち、zu begehren zu fördern です。

 (iii) um diesem eignen Weg . . . zuzusehen の句は、その前の zu begehren にかかります。といいますのは、内容的にもさることながら、文法的にも、
  (a) begehren um の間にコンマがあるのは当然としても、
und などの 2 つの句を区切る語がありません。
  (b) 他方、um diesem . . . zuzusehen の句と、wenn Sie . . . の間には und があります。

(2) したがってここでのシェリングは、フィヒテを「卑俗なことをするには、貴方はあまりにも高貴です」と持ちあげることによって、
・私(シェリング)が自由に書くこと、を妨げないでほしい、
・私の考えに賛成する場合でも、余計な干渉はしないでほしい、
ということを、暗示しています。

 こうして相当アクロバティックな文体にはなっていますが、文法的には破綻していません。この辺が、ヘーゲルとは違うところです。
(初出:2012.6.7)
(目次)

130 ページ、2 - 3 行目; S. 63 - 64. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・彼ら自身は、それがどのようにして可能であるかをまだ概念的に把握していないとすれば・・・

◆ 原文は:
 . . . wenn man . . . selbst noch nicht begreift, wie das möglich sei;

☆ 拙・改訳では:
 ・・・どうしてそのようなことが可能なのか、彼ら自身には理解できないときには・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中に出てくる begreifen は、ヘーゲルにあっては Begriff (概念)と関係づけられて、「概念的に把握する」の意味になるときもあります。しかし、辞書的な意味は「理解(把握・会得)する」であり、シェリングが使っているのですから、それに文脈からいっても、ここはふつうに「理解する」でしょう。
(初出 2013.2.17)
(目次)

128 ページ、13 行目; S. 62. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・すでに自我として(つまり根源的にすでに知っているものとして・・・

◆ 原文は:
 . . . schon als Ich (d. h. als ursprünglich schon Wissendes, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・すでに自我として(すなわち、もともとすでに知るものとして・・・

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の Wissendes は、名詞化された現在分詞ですので、元の訳の「知っているもの」というより、「知るもの」です。schon Wissendesschon (すでに)という語に引きずられて、「すでに知っているもの」と訳したと思われます。

 自我にとって自己措定は、根源的な活動であり、自らの存在条件です。自己措定によって、自我は自己を対象化し、自己を知ることになります。したがって、自我とは、「もともと(自己を)すでに知るもの」だと言えます。
(初出 2012.7.5)
(目次)

128 ページ、9 - 10 行目; S. 62. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・哲学者が、自分の客観をただちに最高のポテンツにおいて(自我として)受け取るのか・・・

◆ 原文は:
 . . . ob der Philosoph sein Objekt gleich in der höchsten Potenz, (als Ich) . . . aufnimmt.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・哲学者が自分の対象をただちに最高のポテンツにおいて(自我として)取りあげるのか・・・

◇ 拙訳の理由は:
(1) 元の訳のように、「自分の客観を」というのは、日本語としては、「客観的なものとしての自分自身」という意味になってしまいます。
 なお、「自分が扱う客観的対象を」と訳してもいいのですが、あっさりと「自分の対象を」で十分だと思います。

(2) aufnimmt を「受け取る」と訳したのでは、他から提供されたものを受動的に受けとる、という感じになります。しかし、ここでの哲学者は自発的に対象を研究しようとしているのですから、「取りあげる。扱う」がいいでしょう。
(初出 2010.8.3)
(目次)

128 ページ、7 行目; S. 61. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・ほかならぬこうした単に客観的なものとしての観念-実在的なもの・・・

◆ 原文は:
 . . . ein Ideal=Reales, nur als solches bloß Objektives . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・ただもっぱら客観的なものとしての、観念的-実在的なもの・・・

◇ 拙訳の理由は:
 この Objektives(客観的なもの)は、シェリングの自然哲学が対象とするものですから、肯定的・積極的な存在です。そこで「単なる」という否定的意味合いの語を用いずに、「もっぱら」と訳出しました。 
(初出 2010.8.3)
(目次)

128 ページ、2 行目; S. 61. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・したがってひとつの(許された)虚構によって自然がおのれ自身を構成するようにさせる学問・・・

◆ 原文は:
 . . . welche [= die Wissenschaft] . . . sie [= die Natur] daher durch eine (erlaubte) Fiktion sich selbst konstruieren lasse, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・それゆえ(たわいもない)虚構によって自然に自らを構成させるような学問・・・

◇ 拙訳の理由は:
 (  ) 内の erlaubte を、文字通りに「許された」と解すると、「誰が許した虚構なのか(シェリング自身?)」などの疑問が残り、文意が取りにくくなります。むしろ、erlaubte Vergnügungen「無邪気な(無害な)娯楽」のような用法がありますので(相良守峯『大独和辞典』、erlaubt の項)、ここでは軽く「たわいもない」と訳出する方がいいかもしれません。
(初出 2010.8.3)
(目次)

127 ページ、18 行目; S. 61. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 しかし、貴方はおっしゃることでしょう。

◆ 原文は:
  Werden Sie aber
  2) sagen, . . .

☆ 拙・改訳では:
 しかし、もし貴方が・・・とおっしゃるのであれば・・・

◇ 拙訳の理由は:
 文頭に werden の助動詞が来ているので、wenn が省略された定形倒置であり、仮定の意味をもちます。
(初出 2012.7.4)
(目次)

127 ページ、14 - 17 行目; S. 61. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・今やしかし、もう私は自然哲学と超越論的哲学を互いに反措定されたふたつの学問だとはみなしません。同じひとつの全体の、すなわち哲学体系の、互いに反措定されたふたつの部門であり・・・互いに反措定されるとしか考えていないのです。

◆ 原文は:
 Jetzt aber, . . . betrachte ich Natur-und Transzendentalphilosophie nicht mehr als entgegengesetzte Wissenschaften, sondern nur als entgegengesetzte Teile eines und desselben Ganzen, . . .

☆ 拙・改訳では:
 しかし今では私は・・・自然哲学と超越論的哲学は対置される学問だとは、もはや考えていません。一つの同じ全体の、すなわち哲学体系の、対置されるたんなる部門だと考えています。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 元の訳では原文中の nur(としか) を entgegengesetzte にかかるものとして訳していますが、nur は、明らかに Teile(部門)にかかります。

(2) entgegengesetzte については、127 ページの 11 - 13 行目の箇所で述べたように、「反措定」されたというより「対置される」がいいと思います。
(目次)

127 ページ、13 - 14 行目; S. 61. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 おそらく貴方は見抜いておられるでしょうが、今やしかし、もう私は・・・だとはみなしません。

◆ 原文は:
 Jetzt aber, wie Sie wohl sehen, betrachte ich . . . nichtmehr . . .

☆ 拙・改訳では:
 しかし今では私は、貴方もよくご存知のように・・・だとは、もはや考えていません。

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の wohl は、元の訳では「おそらく」となっていますが、「確かに」の意味だと思います(拙訳では「よく」)。相良守峯『大独和辞典』の wohl の項、 II, 2, f の「観察又は熟慮の結果を表す文章において決着を示す」用例として、ich sehe wohl, daß ~ (私は~のことがよくわかる)の例文があります。
(初出 2012.5.15)
(目次)

127 ページ、11 -13 行目; S. 61. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 自然哲学はどうしても知識学に反措定されることができません。むしろ観念論に・・・超越論的哲学に反措定されるのです。

◆ 原文は:
 Der Wissenschaftslehre kann Naturphilosophie nie entgegengesetzt sein, wohl aber dem Idealismus, . . . der Transzendentalphilosophie . . .

☆ 拙・改訳では:
 自然哲学を、知識学と対置させることは決してできません。確かに観念論とならできますし・・・超越論的哲学と対置できます・・・。

◇ 拙訳の理由は:
 引用文中の entgegengesetzt を、元の訳のように「反措定される」と訳したのでは、シェリングの自然哲学が知識学や超越論的哲学(観念論)を否定することになります。しかし、自然哲学と超越論的哲学(観念論)とは、対立し否定しあうのではなく、必然的に両立せざるをえない学問(正確には、部門)どうしなのです。
 この引用文の直後の文では、次のように言われています:
 「私 [シェリング] は・・・自然哲学と超越論的哲学は・・・一つの同じ全体の、すなわち哲学体系の、対置されるたんなる部門(entgegengesetzte Teile)だと考えています」。
 したがって、entgegengesetzt は「対置される」とか「相対する」と、訳出するのがいいと思います。

 なお、ここではシェリングは、知識学と超越論的哲学(観念論)を区別しています。知識学は、自然哲学の主観=客観のポテンツが高次のものとなった「知的直観としての自我」を扱うもの、すなわち自然哲学の発展形;超越論的哲学は、自然哲学とは逆向きの方向性をもつもの――このような区別を設けているのでしょう。
 「逆向き」といいますのは、この手紙の前年(1799 年)に書かれた『自然哲学の体系構想への序論(Einleitung zu dem Entwurf eines Systems der Naturphilosopie)』から引用しますと:
 「超越論的哲学の課題が、実在的なものを観念的なものに従属させることだとすれば、自然哲学の課題はそれに対し、観念的なものを実在的なものから説明することである。したがってこれら 2 つの学問は、1 つの学問なのであって、ただ、それぞれの課題が対置される(entgegengesetzt)ことによって区別される。さらにこれら両方向は・・・同じように必然的でもあるので、知の体系における両学問には、同じ必然性が帰属する」。(『自然哲学の体系構想への序論』、オリジナル版シェリング全集、第 III 巻、272 - 273 ページ)
(初出 2010.8.3)
(目次)

127 ページ、2 行目; S. 60. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・反定立を止揚すること・・・

◆ 原文は:
 Die Aufhebung der Antithesis . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・反定立を廃棄すること・・・

◇ 拙訳の理由は:
 「止揚」というのは、Aufhebung のヘーゲル的な意味づけ(保存しつつ廃棄する)ですから、ここでは普通の意味「廃棄」が適切だと思います。また、元の訳でも 126 ページの14行目では、 aufheben が「廃棄」となっています。
(初出 2010.8.3)
(目次)

126 ページ、14 -15 行目; S. 59f. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 (知識学はあの同一性性を決して廃棄せず、まさにそれゆえ観念-実在論的です)。

◆ 原文は:
 (die Wissenschaftslehre hebt jene Identität nie auf und ist eben deswegen ideal=realistisch).

☆ 拙・改訳では:
 (知識学は、あの同一性を決して廃棄しませんので、知識学は観念的=実在的です。)

◇ 拙訳の理由は:
(i) 知識学は(超越論的)観念論ですので、元の訳のように、「観念-実在論的」ということはありません。
(ii) 引用文中の「あの同一性(jene Identität)」とは、引用文の直前の文に出てきた「主観=客観」の同一性を指すものと思われます。主観は当然主観的ですし、客観は実在的です。そこで、知識学は「主観=客観」を主張しているのですから、「知識学は観念的=実在的で」ある、となります。
(初出 2013-2-9)
(目次)

126 ページ、11 - 14 行目; S. 59. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 理論的部門は普遍的な知識学を抽象することによって生じます。すなわち、自己意識において主観-客観を自らと同一のものとして措定する主観的な(直観する)活動性が抽象されるのです。この同一的な措定によって、主観-客観はまさに初めてすなわち自我となるのです・・・

◆ 原文は:
 Er [= der theoretische Teil der Philosophie] entsteht durch eine Abstraktion von der allgemeinen Wissenschaftslehre. Es wird nämlich abstrahiert von der subjektiven, (anschauenden) Tätigkeit, welche das Subjekt-Objekt im Selbstbewusstsein als identisch mit sich setzt, durch welches identisch Setzen dieses eben erst = Ich wird . . .

☆ 拙・改訳では:
 この部門は、一般的な知識学を捨象することによって生じます。つまり、主観的な(直観する)活動が捨象されるのです。この主観的活動は、自己意識における主観=客観を、自らと等しいものとして措定します。この等しくする措定によって、主観-客観は、まさに初めて自我に等しくなるのです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) Abstraktion von der allgemeinen WissenschaftslehreAbstraktion von は、「von 以下を抽象すること」ではなく、「von 以下の捨象」です。といいますのは、
 ・文法的にabstrahiren von は、「von 以下を捨象する」という意味です。
 ・内容的に:引用文冒頭の Er (哲学の理論的部門)は、自然を導出する働きをするということが、引用文の前の文で言われています。この部門は、知識学とは異なる部門です。したがって、そのような部門は、知識学を「捨象」することによって生じるというわけです。

(2) 次の文の. . . abstrahiert von der subjektiven . . . Tätigkeit
abstrahiert も、von の後の「主観的活動を捨象する」という意味です。といいますのは、
 (i) このabstrahiert は明らかに前のAbstraktion(捨象)を受けています。
 (ii) 引用文の前の文では、「自然は客観性において導出されねばならない」と言われていましたが、そのような部門は、主観的な活動の捨象によって生じることになります。ここでは、「自然=客観性」と「知識学=主観性」とが、対比されているのです。

(3) im Selbstbewusstsein(自己意識)は、直前の das Subjekt=Objekt を修飾しています。つまり、「自己意識における(あるいは、自己意識のうちの)主観-客観」という意味になります。といいますのは、自己意識というのは、自らを客観的対象とする主観の意識ですから、自己意識においては「主観=客観(Subjekt=Objekt)」が成立しているのです。
(初出 2012.5.4)
(目次)

126 ページ、8 - 11 行目; S. 59. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 後者 [観念論の実質的な証明] にあっては、もちろん自然が、しかもその客観性、独立性において演繹されなければなりません。といっても、自然は、それ自身客観的であるような自我によってではなく、主観的な哲学する自我によって、そのすべての規定について演繹されるのです。

◆ 原文は:
 In diesem [= dem materiellen Beweis des Idealismus] ist allerdings die Natur, und zwar in ihrer Objektivität, in ihrer Unabhängigkeit, nicht vom Ich, welches selbst objektiv ist, sondern vom subjektiven und philosophierenden, mit allen ihren Bestimmungen zu deduzieren.

☆ 拙・改訳では:
 この証明において、むろん自然はそのすべての規定とともに、導出されなければなりません。しかも、自然はその客観性において、自立性において――といっても自我から自立しているということではなく(自我そのものは客観的です)、主観的な、哲学する自我からです――導出されねばなりません。

◇ 拙訳の理由は:
 vom Ichvon は、その前の Unabhängigkeit に対応しています。そこで、Unabhängigkeit, nicht vom Ich は、「自我から自立しているという自立性ではなく」の意味です。
 つまり、シェリングが主張したいことは:
 「自然は客観的に、自立したものとして、導出され、存在せねばならない。主観的な自我に依存させてはならない。しかし、これは何も自然が、自我そのものから自立するということではない。というのは、自我自体はこういう意味においては、主観的ではなく客観的なものだからである」、ということです。
(初出 2010.8.3)
(目次)

126 ページ、1 - 2 行目; S. 59. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 最初に知識学についてですが、これはまず別にしておきます。知識学は完全に独立しており・・・

◆ 原文は:
 Was erstens Wissenschaftslehre betrifft, so sondre ich diess gleich ab; diese steht völligh für sich, . . . 

☆ 拙・改訳では:
 まず知識学に関してですが、ただちに次のように言えす:知識学は完全に自立しており・・・

◇ 拙訳の理由は:
(1) diess 中性の代名詞なので、女性名詞 Wissenschaftslehre を指すのではないでしょう。すると、セミコロン以下の diese steht . . . を指すことになります。つまり、「知識学(diese)は完全に自立しており・・・」ということを、私は absondern します、との文意です。
 
(2) そこで absondern ですが、DudenDeutsches Universalwörterbuch (6. Auflage) を見ますと、3 に転義として er hat wiedr lauter Unsinn abgesondert (geredet) の用例があります。つまり、「言う」という意味も、absondern は持っているようです。おそらくシェリングは、absondern をこの意味で使っているのでしょう。

 なお、原文では
sondre . . . ab となっており、d の後の e が脱落していますが(口調を整えるため?)、意味に変わりはありません。
 また、原文には前述のセミコロンが使われ、コロンでないのが、いささか不審な点ではあります。
(初出 2012.4.25)
(目次)

125 ページ、15 -17 行目; S. 58. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 というのも、この実在性は、これらの内在的法則に従ってただ哲学者によって見出されるだけであり、<見出すものではなく産出するものそのものである、哲学の客体>によって見出されるものではないからです。

◆ 原文は:
 . . . denn sie [= die Realität in der Transzendentalphilosophie] wird doch wohl nach diesen immanten Gesetzen gefunden nur von dem Philosophen, nicht aber vom Objekt der Philosophie, was nicht das Findende, sondern das Hervorbringende selbst ist;

☆ 拙・改訳では:
 といいますのは、なるほどこの実在は、哲学者によってだけは知性の内在的法則にしたがって見出されもしましょうが、しかし哲学の対象によって [=自我によって] ではありません。この対象は見出すものではなく、まさに生みだすものそのものなのです。

◇ 拙訳の理由は:
(1) 文中の doch wohl は後の aber と対応しており、「なるほど~ではありましょうが、しかし・・・」とメリハリをつけて訳出しないと、文意があいまいになってしまいます。

(2) Objekt der Philosophie を「哲学の客体」と訳したのでは、意味が分かりにくくなります。ここは「哲学の対象」でしょう。つまり、この引用文の少し前に出てきた産出的「自我(=自然)」のことだと思います。
(初出 2012.4.23)
(目次)

125 ページ、6 - 8 行目; S. 58. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 そうでしたら、さらに、私が観念的活動性と実在的活動性を同時に客観的なもの、つまり産出的なものたらしめようとする場面を、体系の連関のなかで(産出的直観の理論において)調べて頂けないでしょうか。

◆ 原文は:
 . . . und wollen Sie . . . im Zusammenhanng des Systems da nachsehen, wo ich die ideale und reale Tätigkeit zugleich objektiv d. h. produzierend werden lasse, (in der Theorie der produktiven Anschauung)

☆ 拙・改訳では:
 そこで体系との関連では、私が観念的な活動と実在的な活動をともに客観的なもの、すなわち産出的なものたらしめている箇所(産出的直観の理論において)を・・・当たってくだされば・・・

◇ 拙訳の理由は:
(1) この引用文の前の箇所で、シェリングはフィヒテに対し、およそ次のように述べています:
 自著『超越論的観念論の体系』の「緒論」では、フィヒテ同様に、意識が事物につけ加わるのでもなければ、その逆でもないと主張している。しかし、「緒論」ではなく、本文の超越論的観念論の体系そのものが、この主張に沿ったものとなっているかどうかを、貴方は疑っている。
 「そこで体系との関連では(im Zusammenhanng des Systems)・・・ [の] 箇所を・・・当たってくだされば・・・」と、引用文が続くのでしょう。つまり、Zusammenhanng(関連。連関)というのは、元の訳のように、体系内部の諸要素間の「連関」を意味するのではではないと思います。

(2) 元の訳では、「(産出的直観の理論において)」が、文章のどこにかかっていくのか、判然としないようです。引用文の構成を見てみますと、da を関係副詞 wo が受けてどのような場所(箇所。場面)かを説明しています。すなわち、「観念的な活動と実在的な活動をともに客観的なもの・・・たらしめている箇所」です。そして、その箇所があるところをシェリングは( )内に示しています。つまり、「産出的直観の理論」においてです。
 ちなみに、それは『超越論的観念論の体系』、第 3 章(Hauptabschnitt)、第 2 節(Abschnitt)、第 1 区分(Epoche)の、「C, 産出的直観の理論」です。
(初出 2012.4.19)
(目次)

124 ページ、17 行目; S. 57. (シェリング→フィヒテ)

★ 元の訳での箇所は:
 超越論的哲学と自然哲学との対立こそ要をなす点です。・・・私がこのように両者を対立させる理由は・・・

◆ 原文は:
 Der Gegensatz zwischen Transzendentalphilosophie und Naturphilosophie ist der Hauptpunkt. . . der Grund, warum ich diesen Gegensatz mache, . . .

☆ 拙・改訳では:
 超越論的哲学と自然哲学との対置は、重要な点です。・・・私がこのように両者を対置させる理由は・・・

◇ 拙訳の理由は:
 「121 ページ、13 行」の「対立(Gegensatz)」の箇所でも述べましたが、シェリングは超越論的哲学に反対して、自然哲学を提唱したのではなく、両者を「対置(Gegensatz)」させて、両者にはにはポテンツ(段階、レベル)の違いがあることを主張しています。
(初出 2010.8.3)
(目次)

123 ページ、3 行目; S. 56. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 角形を介してのみ、空間は思考と抽象の作品 [三つの次元] をあらわにするのです。( [  ] は、原文]

◆ 原文は:
 Nur durch die Eckigkeit verrät er das Denk- und Abstraktionswerk.

☆ 拙・改訳では:
 ただ角 [が存在すること] によって、立体は思考と捨象の産物であるということが、分かってしまうのです。

◇ 拙訳の理由は:
 文中の er (男性形・単数)が何を受けているかです。直前の文は:
 Der Körper ist denn nun wirklich ein Raum, wie die Anschauung ihn [= den Raum] will.
 したがって、男性形・単数としては Körper(立体)と Raum(空間)があります。文法的には、問題の er は主語なので、全文のやはり主語である Körper を受けていそうです。また内容的にも、それで文意がうまくつながることになります。つまり:
 「立体は、現実の空間といっていいのだが、しかしただ、角によって、立体は思考の産物だということが露わになってしまう」。
(初出 2012.4.16)
(目次)

122 ページ、13 行目; S. 55. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 自然哲学は数学の哲学からあの演繹を借り受け、前提しているのです。

◆ 原文は:
 . . . aus welcher [= der Philosophie der Mathematik] die NaturPhilosophie jene Deduktion voraussetzt.

☆ 拙・改訳では:
 自然哲学は、数学の哲学による 3 次元の導出を、前提とするのです。

◇ 拙訳の理由は:
 元の訳では、今実際にシェリングの自然哲学が、数学の哲学が行った空間の 3 次元の導出(演繹)を、借り受けて利用しているかのようです。しかし、引用文の前の文でフィヒテは、「3 つの次元の導出は、純粋な知識学がせねばならぬことではなく、おそらくはまず数学の哲学がせねばならないのです」と述べており、まだこの導出は行われてはいないようです。
 したがって、フィヒテが「自然哲学は、数学の哲学による 3 次元の導出を、前提とする」というのは、将来の話です。
(初出 2013-1-25)
(目次)

122 ページ、8 行目; S. 55. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 ・・・この手紙を記している今は手元にありませんし・・・

◆ 原文は:
 . . . ist mir, indem ich diesen Brief schreibe, nicht gegenwärtig . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・この手紙を書いている今となっては覚えていませんし・・・

◇ 拙訳の理由は:
 jemandem gegenwärtig sein は、「・・・の記憶に残っている」という熟語です。「Das ist mir nicht gegenwärtig. (私はそれを覚えていない)」という用例が、小学館『独和大辞典』(第2版)に記載されています。
(初出 2012.4.14)
(目次)

121 ページ、13 行目; S. 54. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方が超越論的哲学を自然哲学と対立させていることには・・・

◆ 原文は:
 Über Ihren Gegensatz der Transzendental= und der NaturPhilopsophie . . .

☆ 拙・改訳では:
 貴方が超越論的哲学と自然哲学を対置させていることについては・・・

◇ 拙訳の理由は:
 文中の Gegensatz を対立と訳すと、超越論的哲学と自然哲学が相互に否定しあい、二者択一ということになります。しかし、両者はシェリングによって並置されて、相互補完的です。例えば:
 「2 つの基本的な学問 [超越論的哲学と自然哲学] は、原理と方向性においては互いに対置される(entgegengesetzt)が、相互に求めあい、補完しあう」。(『超越論的観念論の体系』、1800 年初版、7 ページ。)
 これはシェリング哲学の基本的な構成ですから、フィヒテもこのことは知っていたと思います。また、このフィヒテの手紙に対するシェリングの返信(1800 年 11 月 19 日付)では、シェリングも両者の Gegensatz を語っています。そこで、Gegensatz を「対置」と訳出した次第です。
 むろんフィヒテの真意は、「対立(Gegensatz)」ですが、それはやがてフィヒテの意を汲んだシェリングによって、「矛盾(in Widerspruch)」と形容されます。(1856 年版、72 ページ。法政大学出版局『フィヒテ-シェリング往復書簡』では、138 ページ。) 
(初出 2012.4.16)
(目次)

121 ページ、11 - 12 行目; S. 54/III,4, 360. (フィヒテ→シェリング)

★ 元の訳での箇所は:
 貴方の天才的な叙述から期待されえただけを賞賛すれば十分であり、それがすべてです。

◆ 原文は:
 . . . hierüber nur so viel, es ist alles, wie es von Ihrer genialischen Darstellung zu erwarten war.

☆ 拙・改訳では:
 すべてが、貴方の天才的叙述から期待されえたとおりであると、言えば十分です。

◇ 拙訳の理由は:
 意味がとりにくい箇所ですので、最初から一つずつ見ていきたいと思います。
(i) まず、冒頭の hierüber (これについて)ですが:
 この引用文の直前の文では、
・フィヒテは、シェリングの『超越論的哲学の体系』を受けとり、熟読したこと、
・そして、この本に対する「大げさな賛辞は、私たちの間ではふさわしくない」ことが書かれています。
 しかし、せっかく送ってくれた本について何も言わないというのでは、礼を失します。そこで、hierüber が書かれます。したがって hierüber は、「前記の本に対する賛辞・評価については」という意味です。(拙訳では、日本語の表現としてこの部分は不要だと思いましたので、訳出していません。)

(ii) nur so viel は、「たんに以下のことだけ [を記せば十分でしょう]」との意味です。

(iii) es ist alles, wie . . . es は仮主語で、本当の主語は alles です。この事については、例えば小学館『独和大辞典 第 2 版』に、次のような例文が載っています:
   Es ist alles wie früher. (何もかも昔のままだ)
   Es soll alles bleiben, wie es ist. (すべて現状のままでよい)
 そこで、es ist alles, wie . . . の意味は、「すべてが、wie 以下のようである」となります。

(iv) wie es . . . の主語 es が何を指すかですが、直前の alles だと思います。といいますのは、前述の辞書の例文:Es soll alles bleiben, wie es ist.(すべて現状のままでよい)を見ますと、wie es . . . es もやはり前の alles を受けているからです。

(v) そこで、es ist alles 以下を直訳しますと、「すべてが、貴方の天才的叙述から期待されえたようである」となります。
(初出 2013-7-25.)
(目次)

全般的注意点(10)begreifen:「概念的に把握する」と「理解する」

  begreifen は、ヘーゲルにあっては Begriff (概念)と関係づけられて、「概念的に把握する」の意味になるときもあります。しかし、辞書的な意味は、
(1) 理解(把握・会得)する
(2) 包括(包含)する
です。(他の意味は、哲学的文脈においては出てきませんので省略。)
 この往復書簡集は、フィヒテとシェリングによって書かれたものですから、begreifen の意味も (1) か (2) になります。
 (1) の場合を、130 ページ 2 -3 行目で、
 (2) の場合を、142 ページ 7 -8 行目で、
見ることにします。
(初出 2013-2-17)
(目次)

全般的注意点(9)関係代名詞の訳語としての代名詞

  本来の日本語では、代名詞がそれより後にくる語句を指すということは、本来はありません。なるほど、漢文的表現などではあるにしても、その場合には後にくる語を指すということが、文体・文脈から分かるように(ふつうは)なっています(例えば:「その値の高かるべき品」「その値段がとても高い品物」。しかしこれも本来は、「値段がとても高い品物」とすべきでしょう)。
 ところが翻訳文献では、しばしば関係代名詞などの訳出において、何の工夫もなく代名詞が後のものを指すという表現になっています。これは意味が取りづらく、誤解も招き、困りものです。(えっ、テストの和訳問題ではそれでマルになっていた!?)
 このような一例を、156 ページ 15行で検討します。
(初出 2012.9.23)
(目次)

全般的注意点(8)Satz:一般的な「主張、考え」

 Satz はふつう、主語と動詞の備わった1つの「文」ないしは「命題」の意味で用いられます。しかし、より一般的に「(Behauptung) 主張」(相良守峯『大独和辞典』)、「信条、主義」(小学館『独和大辞典』第2版)の意味でも多用されます。
 その 1 例を、146 ページの 15 -16 行目で見ることにします。 
(初出 2012.8.22)
(目次)

全般的注意点(7)助動詞 werden:「未来」と「推量」

 助動詞 werden は、「未来」と「受動」を表すほかに、なお案外忘れがちですが、「推量」で多用されます。その 1 例を、141 ページの 1 行目で見ることにします。 
(初出 2012.8.2)
(目次)

全般的注意点(6) nur:「すぎない」と「ただ・・・ばかり」

 nur は、は対象とするものをそれだけに限る働きがありますが、「~にすぎない」と訳しますと、対象の低評価を伴うことになります。そこで、「ただ~だけである」、「~にほかならない」といった訳出が必要な場合も、かなりあります。
  その 1 例を、141 ページの 17 - 18 行目で見ることにします。 
(初出 2012.8.2)
(目次)

全般的注意点(5) aber:「しかし」と「そして」

 aber は、「しかし」の意味のほかに、継続を表す「そして、すると」の意味でよく使われます。この書簡集では、シェリングは「そして」を多用しています。しかし元の訳では、一律に「しかし」と訳されているようです。
   1 例を、131 ページの 2 行目で見ることにします。 
(初出 2010.8.3)
(目次)

全般的注意点(4) wohl:「おそらく」と「確かに」
 
 この往復書簡集のシェリングの手紙には、wohl がよく出てきますが、wohl には、不確実であることを表す「おそらく、たぶん」と、確実なことを示す「確かに、はっきりと」の意味があります。元の訳では前者の意味に取っていますが、多くの場合、後者の「確かに」の意味だと思います。
 といいますのは、シェリングはフィヒテと論争しており、しかも論拠を示しながら確実に議論を進めるという、彼本来の態度をとっています。つまり、自分の議論にあいまいなところを残しておくという、懐の深さを示すようなことはないわけです。そこで、「確かに、はっきりと」といった訳でないと、おかしいと思うのです。
 こうした一例を、127 ページの 13 行目で見ることにします。

 ちなみに、シェリングにとってみればこの論争は、防衛戦です。フィヒテが 1800 年 11 月 15 日付の手紙で、シェリングの自然哲学の内容に疑義を呈したのに端を発した論争ですが、フィヒテにすれば、自然哲学全体が無くもがなのものであり、シェリングも当然それは気付いています。しかし、自然哲学を否定されたのでは、シェリングの存在理由は無くなります。彼としては当然はっきりと主張を通したいところです。

 シェリングは手紙などでは、第 3 者(特に自分より格下の人々)の悪口を相当言っていますが、自分の方から相手を攻撃しに行ったたことは、あまりないようです。よく言えば、好青年の慎み、たしなみですが、「金持ちケンカせず」といったところでしょうか。
(初出 2012.5.15)
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全般的注意点(3) objektiv; Objekt:「客観」と「対象」

 objektiv(名詞:Objekt)には、「客観的」と「対象的」の意味があり、さらに両者の合わさった「客観的対象」の場合もあります。法政大学出版局版では、「対象」と訳すべきところが、しばしば「客観」になっています。
   1 例を、128 ページの 9 行目で見ることにします。 
(初出 2010.8.3)
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全般的注意点(2) bloß:「たんに」と「もっぱら」

 bloß には、否定的な感じをともなう「たんに~だけ」という意味以外に、「もっぱら」「まったくの」という意味もあります。
 座小田/後藤訳が「たんに」になっているところで、文意が分かりにくいようでしたら、「もっぱら」「まったくの」「そのもの」「純然たる」といった語に読みかえてみて下さい。
 そのような 1 例として、128ページ7行目を取り上げます。 (目次)
(初出 2010.8.3)  
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全般的注意点(1) abstrahieren:「抽象」と「捨象」
 
 abstrahieren には、「抽象する」と「捨象する」という、相反する2つの意味があります。座小田/後藤訳の「抽象」で意味が分かりにくい場合、「捨象」と読み替えてみて下さい。
(初出 2010.8.3)
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『往復書簡』について  

 フィヒテとシェリング両者の哲学の相違やその是非を知ろうとするものにとっては、2 人の往復書簡集は絶好の資料といえます。
 邦訳には、法政大学出版局<<叢書・ウニベルシタス 295>>『フィヒテ-シェリング往復書簡』(座小田豊/後藤嘉也訳、1990年5月初版)があり、私も多くを教わりました。が、意味が取りにくかったり、誤訳と思われる箇所も少なからずあります。そこで、一般読者のご苦労を軽減できればと考え、哲学的議論の部分でのそうした箇所に、拙訳をそえた次第です。
 結果的には、そうした箇所がだいぶ多くの数となりましたが、哲学の他の訳書に比べて特にこの訳書に問題が多いというのではありません。
 なお、哲学的議論の部分の拙・全訳を、こちらに掲載しています
(初出 2010.8.3, v. 1.1.)
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凡 例 

・対象とした前記テキスト中の訳文は、哲学的議論の場面に限っています。すなわち、1800 年 11 月 15 日付の書簡(フィヒテからシェリング宛)から、2人の文通の最後となった1802 年 1 月 25 日付の書簡(シェリングからフィヒテ宛)での、該当する箇所です。

・見出しには、
  (i) 左側に、法政大学出版局『フィヒテ-シェリング往復書簡』のページ数と行数を、
  (ii) その右側に、1856年版 FIchtes und Schellings philosophischer Briefwechsel のページ数を、「S.」の記号とともに記しました。
 またその後、「/」の右に『アカデミー版全集』のページ数が入ることもあります。例えば、「/III,4, 360」とあれば、第 III シリーズ(Reihe)の第 4 巻、360ページを指します。
  (iii) 右端には、誰から誰への手紙かを記しました。
    例えば:(フィヒテ→シェリング)は、「フィヒテからシェリング宛て」ということです。

・引用した原文ドイツ語の綴りは、現在の正書法に直しています。

・[  ] 内は私の挿入です。
(初出 2010.8.3, v. 1.1.)
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