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フィヒテの著作の全訳
『シェリングの同一性の体系に関する、
叙述について』
(1801年?) v. 1.0.8

Zur Darstellung
von Schelling's Identitätssysteme


     拙稿の目次

はじめに
凡例
『シェリングの同一性の体系に関する、叙述について』


   〔はじめに〕
  シェリングは 1800年から翌年まで、『思弁的物理学雑誌(Zeitschrift für spekulative Physik)』を編集しました(注1)。フィヒテが所持していたその第2巻の第2分冊に、シェリングの『私の哲学体系の叙述』(1801年)を批判した草稿『シェリングの同一性の体系に関する、叙述について』が、挿まれていました(注2)
 この草稿の執筆年ですが、I. H. フィヒテによる遺稿集所収(Walter de Gruyter & Co. 社の Fichtes Werke, Bd. XI)の同文章には、「記載年なし(o. J.)」との注があります。

 なおフィヒテが、「同一哲学」以前のシェリングの「自然哲学」と「超越論的観念論」を非難した草稿には、『シェリングの超越論的観念論を読んでの感想』があります。

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注1) 『世界の名著 43 フィヒテ シェリング』のシェリング年譜(636ページ)によります。
注2) I. H. フィヒテによる遺稿集(Walter de Gruyter & Co. 社の Fichtes Werke, Bd. XI)では、『シェリングの同一性の体系に関する、叙述について』というタイトルの下に、
 "In der Zeitschrift für spekulative Physik, II. Bd. 2. Heft"
の字句があります。


   〔凡 例〕
・テキストは、I. H. フィヒテによる遺稿集を、使用しました。(Walter de Gruyter & Co. 社の Fichtes Werke, Bd. XI )
・[  ] 内は、訳者の挿入です。
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   『シェリングの同一性の体系に関する、叙述について』


  [シェリングの『私の哲学体系の] 叙述 [』] は、次のような説明から始まっている:
 [第1節:] 「私は理性を、絶対的理性と名づける。すなわち、主観的なものと客観的なものとのまったくの無差別として考えられる、理性である」。[強調はフィヒテによる。ただし、シェリングが強調した「理性を」は、フィヒテの引用では強調なし]

 こうした説明によって、すなわち実在的な定義Realdefinition)によって、定義された対象(Gegenstand)は、出来あがってしまった客観(Objekt)のようにされて、完結してしまう(abgeschlossen)。だから私には分からないのである:どのようにしてここから次の思考へと、またさらに進展した思考へと移行するのかが。ここにおいては、たんに新たに再開することや、何か新しいものを、また同じく出来あがったものを、措定することができるだけである。
 [私見では] 発端(Anfang)は、最も無規定なもの、最も出来あがってないものであり、そのようでしかありえない。なぜなら、もしそうでなければ発端から進行したり、考えを進めて発端をより明確に規定したりする理由がないからである。こうした場合には、後続する叙述は、おそらくすでに遂行された構成を記述するものではあっても、自ら遂行する哲学的な構成ではない。

 さらに悪いことには、
・[シェリングの『叙述』では] 次のことが見てとれないのである:唯一絶対の理性の外には、何も存在しないのであるが、この理性が主観と客観の無差別でありえるのは、同時に、そしてまた分かたれることのない同じ本質において、両者の差別でもあるかぎりにおいててある。
・それゆえ、ここにおいては [無] 差別な1つの理性のほかに、なお第2の差別化する理性が取っておかれているのである。空虚で抽象的な無差別からは、何も始まらないのではあるが、この第2の理性が現実には、とにかく無差別から前進するという暗黙の動因であることによって、この理性はこっそりと役に立っているのだろう。(注3)
 こうした「叙述」の欠点は、小さくささいな過失といった類のものではなく、大変重大である。というのもこの誤りを通して、すべての演繹が行われるからである。

 ついにはこうした説明によって、理性は完全に規定され、自らの内で完結してしまう。つまり、生命なきものである。なるほど著者 [シェリング] はこの自分の思想を、好きなように繰り返し述べることができるし、バリエーションを付けることもできるが、しかしながら、その思想から次の諸規定へと進むための手段を、きちんと筋の通った仕方で見つけることはできないのである。

・さて著者が自分流に死者 [前記の生命なき理性] を蘇生させることを、実際に始めたときには、
・また後の節で「無」「全」や「統一」「自ら自身との同一」などの述語を、理性の前述の概念 [無差別] と比べるときには、
・そしてそれら述語を理性に導入するとき(hineindemonstrieren)には、
まず次のことが問われねばならない:著者自身はいったいどのようにして、これらの述語に到達したのか? それも、最初の説明で [理性=無差別]理性の本質は実際尽くされており、これらの述語はまずもって最初の説明の分析から、理性の本質に必然的に基づくものとして、導出されねばならないのにである。
 ここではすでに、第1節で取っておかれた差別化する理性の生命や動きが、著者の人物うちに見られる。この理性は、すぐに後続の第2節において登場することになる。

 第2節:「理性の外には何も存在せず、理性の内にはすべてが存在する」。[強調はシェリングによる]
 この命題は、第1節からそのまま続く。すべての可能な相異するものに対して――ここで前提とされているのは、ただ事実的経験の系列で想定されえるような、相異するものである――、理性は無差別なものである。しかしながら、後に続く同じくたんに形式的で、外面的にとどまっている [シェリングの] 証明が、すべてをだめにしている。
 理性はその外部に存するものに、主観が客観に関係するように関係することもできなければ、客観が客観に関係するように関係することもできない。なぜなら、理性を主観と客観の無差別として考えるという、第1節の前提にそれは反するからである。すなわち――
a) 私たちの解するかぎり、第1節から帰結することは:もし絶対的理性が、その外部に想定されるものに、主観的なものが客観的なものに関係するように関係するとすれば、絶対的理性は既にしてその本質を放棄しているに違いなく、また差異 [の世界] へと入ったに違いない。
b) 「客観的なものが客観的なものに関係する」 [ように、絶対的理性がその外部のものに関係する] というのは、全くもって考えられないことである。客観性というのは、一般的にただ主観的なものとの対立においてのみ存在するし、また考えられねばならない。主観に対する客観であり、その逆もしかりである。客観の客観ということは、一般に意味を持たない。絶対的無差別の外部に本当に存するものがあるとすれば、それはこの無差別になんの関係も持たないであろう。それはまさに第2の絶対者だろうし、第2の宇宙であろう。そのような存在については、私たちは肯定も否定もしようがない。
 明らかなことだが、この節で著者 [シェリング] は、大分後の説明(第26節)をすでに先取りして前提としている:「絶対的な同一性は、絶対的な全体性であり、宇宙である」[強調はシェリングによる。「宇宙である」という語句は、フィヒテが後の箇所から持ち出して、ここに挿入しています]。というのも第 26 節の説明からのみ、この第 2 節において表現されているような命題が、正しく続いてくるのである。
 直言すれば、第2節の命題はむしろ次のようであるべきだろう;「絶対的な無差別の外部に存するものは――それが何であるか、またそのようなものが存在するかどうかは、分からないにしても――、絶対的無差別に対しては決して存在していない。なぜなら、主観的なものとしてでもなく、客観的なものとしてでもない絶対的無差別は、その外部に存するものに関係できないからである」。

 第3節:「理性は、(a) まさに一つであり、(b) まさに自ら自身に等しい」。[(a), (b) の記号は、フィヒテが挿入したもの。]
a)「というのは、もし理性が一つではないとすれば、[別の] 理性が存在することについて、[前者の] 理性自身とは別の根拠がなければならないからである。というのは理性は、それ自身が存在するということの根拠 [強調はフィヒテ] をしか持ってはいないからである」、等々。[シェリングのオリジナルではこの後、「他の理性が存在するということの根拠は、持っていない。すると [他の理性が存在すれば、もとの] 理性は絶対的ではないことになり、これは前提に反する」という文章が続いています。]
 [シェリングの叙述する] この箇所だが、どこから突然「根拠(Grund)」というカテゴリーが、出てくるのであろうか? しかも、理性の(形式的)一性の証明のために。「根拠」というのは、もっと特殊なカテゴリーであって、質的な規定性が説明されて始めて、登場するものである。

 上記のことは別にしても、こうした論証は余計なものであるか、不十分なものである。[余計なものだと言うのは:] この論証が、「事実として存在するすべての差異に対しては、ただ一つの無差別が措定されるべきである」ということを証明しようというのであれば、この論証はすでに直接第1節と2節から帰結するのである。
 [不十分なものだと言うのは:] またこの論証が、すべて事実的なことはまったく別において――このことは、哲学的に正しいものとして要求されるべきだが――、「絶対的な無差別は、その純粋な概念にしたがって、ただ1つのものである」ということを示そうとしても(というのも、もし1つでないとするならば、あの証明が述べているように、この無差別は絶対的ではないからである [前掲の訳者の挿入文「すると理性は絶対的ではないことになり」の箇所を指すようです])。いかなる証明も、とりわけ提示されている証明は、そうしたことを示すことはできないのである。
 絶対的なものとか、自らにより存在するものAussichselbstsein)とかの単なる概念からは、そのようなものの一性ないし多数性や、そのようなものの存在は、推論できない。概念についての単なる思考や、包摂の形式についての単なる思考は、周知のように、それら概念や形式のもとに包摂されるべきものについては、決定できないのである。

 第4節。以前の節より帰結することは、理性は自らの内では単純であって、また自ら自身に等しい。そこで、「理性の最高の(「唯一の」と言うべきだろう [フィヒテの挿入句])法則は、同一性の法則であって、一般的に表現すれば A=A である」。[シェリングからの字句どおりの引用ではありません。「一般的に・・・」から後の強調はフィヒテ。それ以前の強調はシェリングのオリジナル」]
 同時に次のようなことも [シェリングによって] 追加される:最高の法則は、理性に対して存するのみならず、すべての存在に対して(それらが理性の内に包含されている限り [強調はフィヒテ])存するのである。というのも、理性の外部には何も存在しないからである。
 この法則は定評どおり、思惟および存在において措定されているすべてのもの(すべての措定物 Positives)に対して、唯一無条件の真理である。この法則は、純粋な肯定を表しているが、この肯定を同時に否定することはできない。[すなわちこの法則は]、措定(Position)の形式であり、それ以上のものでありはしない。
 だがこうした理解においては、前記の最高の法則はただ、すべての事物が理性の内に包括されていることによって媒介されているところの法則に――事物すべてのそのような法則に――、なっているように見える。つまりこの法則は、すべての事物に端的に妥当するのではない。[シェリングが] 後述しているように、ただたんに事物のうちで絶対的な理性が肯定されているがゆえに、妥当する [とされる] のである。このことにより、最高の法則のたんに形式的な意味内容が、まったく証明されていない不当な仕方で、事物内での絶対的理性の自己措定だと、すなわち絶対的理性の自己相当的存続である自己措定だと、解釈されるのである。
 
 [第4節の] 補足2は、了承。
[補足2は以下のようになっています:
「命題『A=A』は、そのものとしてan sich)、つまり時間とはまったく関係なしに、措定されている唯一の真理である」。私はこのような真理を『永遠の真理』と名付ける。経験的な意味において [永遠なの] ではなく、絶対的な意味においてであるが」。]

 [第5節に対するフィヒテの評はありませんが、第5節は以下のようになっています:
 「第5節:説明。[命題「A=A」の] 最初のAを、区別するために、私は主語と名付ける。そして後のAを述語と名付ける」。]

 第6節が示すのは:
一般的に考えれば、「A=A」はAの存在については何も述べてはいないが、ただ、Aが存在するときには、Aは同一律 [A=A] に属しており、自ら自身に等しいということは述べている、ということである。
したがって「A=A」という命題によって措定されている唯一の存在は、(Aの存在ではなくて、)同一性の存在である。
 同一性の存在ということで、
・同一律の無条件な妥当性以外のものが考えられていなければ、
・したがって第4節への補足2において永遠の真理と名付けられたものが(つまり、「観念上のideell)存在=普遍妥当性」であり、そのさい現実性は問題ではない)、考えられているとすれば、
「A=A」は了承することができる。

 第7節:「唯一の無条件な認識は、絶対的同一性の認識である」[強調はシェリング]。
 「A=A」が無条件な認識であることは、すでに先行する箇所 [第4節の補足2] に書かれてあり、その箇所では「A=A」の命題は、永遠の真理と名付けられている。したがって、この命題が唯一の無条件な認識であることの証明は、永遠の真理ということから、ここでなされねばならない。なぜならこの命題だけが、絶対的理性(無差別)の本質を表現しているからである。
 証明がここ [第7節] でも、 [シェリングによって] 外面的に理解されているにせよ、[第7節は] 了承できる。

 同一性の存在が、第6節において唯一受け入れえるものとして述べられたものを、まさしく意味するとすれば、第8節は、第6節ですでに明らかにされたことのただの繰り返しである。第6節で、同一性の絶対的な存在(前記の意味で)は、すでに説明されている。

第9節:「理性と絶対的な同一性とは、一つのものである [強調はシェリング]。「A=A」が、理性の唯一の存在法則である。ところでこの命題によって、絶対的同一性の存在は、直接的に措定されている。そして、絶対的同一性の存在は、その本質と一つであるから」([この点については] 第8節の補足1(注4)[を参照。――この参照の指示は、シェリングの原文にあります])、「理性はその存在からばかりでなく本質からしても、絶対的同一性と一つである。だから」([以下は第9節の] 補足 [からの引用です])「存在は、理性の本質に属しもするし、絶対的同一性の本質にも属する」。[これら3箇所の強調はシェリング]
 ――この証明は、またもや形式的なものにすぎない。この証明の主要な点は、絶対的な無差別が自らと等しいものとして存在するということに、つまり、そのようなものとしてのみ定義しえるということに基づいている。よって絶対的な無差別は、存在からいっても本質からいっても、絶対的な同一性と直接に一つのものであるというわけである。
 つまりまず第一に、絶対的同一性はすべての存在に対して、端的に普遍的に妥当する法則である。したがって絶対的同一性の存在――そもそもこの表現が、意義を持つというのであれば――が意味しえるのは、前述した法則の絶対性、またこの法則の無条件性、普遍妥当性に他ならないのである。
 さらにまた、絶対的理性がこの同一性と一つであることが意味しえるのはただ、前述の [A=A の] 法則は絶対的理性に適用され、絶対的理性は実際に存するすべてのもの同様、この法則のもとに包摂されるということである。前述の無差別はこの法則だけに従うのであり、この法則によってのみ規定され、他の何ものによっても(例えばその他の具体な存在物)規定されはしないということは――このことは、「本質および存在からして、絶対的同一性と一つのもの」と [シェリングによって] 表現される――、この [絶対的理性と絶対的同一性の] 関係をなんら変えはしない。
 そこで、ここ [第9節] までの [シェリングの] 論旨は以下のようになっていた:
 絶対的な理性は、絶対的同一性の法則へと同化するが(aufgehen in dem Gesetze der absoluten Identität)、他の法則や他の規定性は絶対的理性には、まったく適合しない。なぜなら、それら法則や規定性は、すでに差別のうちへと入っているからである。
 上記までは明らかなことである。だが同時に明らかなことは、こうしたことでもって著者 [シェリング] は暗にimplicite)、「絶対的理性の本質には、存在が属している」という命題を、こっそり確保したいようなのである。しかしながらこうしたやり方では、この命題は証明できないし、また一般的に何ものかについて、「それの本質(概念)はすでに存在を含んでいる」とは、言えないのである。(スピノザ『エチカ』第1巻、命題 VII および XI を参照)

 第10節:「絶対的な同一性は、端的に無限である」[強調はシェリング]。
 ――この「無限」というのは、何を意味するのか? 永遠? 絶対? 時間への全くの無関係さ? これらの場合この命題は承認できようが、たんに同一概念(ein identischer Begriff [トートロジー])ではある。というのも、このことはすでに、[主語の一部である] 絶対性の考えのなかに直にあるのだから。
 だがこの「無限」が、スピノザの措定されたもののpositiv)変状(Affectionen)(注5)や規定において無限だということであれば――ちょうどスピノザが、「神の本質からは、無限なもの [すなわち前記訳語「措定されたもの」に相当] が無限の仕方で、出来する」と述べたように――、次のような証明は不十分である:つまり、「なぜなら絶対的な同一性が有限 [強調はフィヒテ] だとすれば(すなわち、たんに有限なもの有限な仕方で、絶対的な同一性の本質から帰結するのであれば)、
・絶対的同一性の有限性の根拠は、絶対的同一性自体の内にあるか、
・すなわち絶対的同一性が自らの内部の規定 [有限] の原因であるか、
したがって、絶対的同一性は同時に生じさせるものでもあれば生じたものでもあるか
・そこで絶対的な同一性ではないか、
[あるいは、絶対的同一性の有限性の根拠は、絶対的同一性の内にはなくて外部にあるかである]」。
 むしろ絶対的なものは、まったくもって同時に、生じさせるものでもあれば生じたものでもあると考えられねばならない。絶対性というものが識別される特徴は、その絶対性自体が自らの存在の根拠であるということである。したがって同時にまた一挙に、生じさせるものでもあれば、生じたものでもあるということである。
 しかしこれでは、絶対性の「二重性(Zweiheit)」、「二重状態(Doppelzustand)」というものが措定されてはいない。そして [ここでシェリングの行った] 区別立ては、もっぱら「自己自身に基づく存在」という概念を分析する思考の産物にすぎない。
 したがってあの [シェリングの] 証明は、またしてもたんに外面的なものに止まっているので、まったくの偽りの、まさに検討している概念には矛盾する論証に基づいている。すなわち:
絶対的な同一性は、まさに絶対的なるがゆえに、同時に生じさせるものでもあれば生じたものでもある。そしてこれが、絶対的同一性にふさわしい唯一の概念である、という論証である。
 絶対的な同一性が、もし「有限」だとすると、その有限性の根拠は、むろん絶対的同一性のうちにあることになろう。というのも絶対的同一性が絶対的であるかぎり、外部から制限されることは、すなわち何らかの仕方で規定されることは、ありえないからである。絶対的同一性が自ら自身によって、その絶対性ないし無限性において同時に有限的であることは、けっして矛盾ではない。絶対性とは、純粋な自己規定に他ならないからである。
 総じてここには、なお甚だしく不明瞭なことがいくつかある。とりわけ、絶対的なものからの諸規定の帰結Folgen)という概念においてである。この帰結の概念によって、なるほど変化の原理(das Princip des Wandels)が不変なものに添加されはする。が、私たちはこの不変なものについては、厳密で不断の(stätig)(注6) [帰結物の不変なものからの] 演繹においても、何も知ってはいないと思われる。

   ――――――――――――――
 以下は、簡略に評することにする。
 第11節は、先行する節によって了解済みと見なせよう。

 第12節:「存在するものすべては、絶対的同一性なのであって、(この節の補足1より)(注7)したがって一つのものである」[強調はシェリング]。(補足2より)「そこでこの絶対的な同一性は、それ自体としてan sich)、ないしは端的に存在する唯一のものである」[強調はフィヒテ]。
 私たちはこうしたことについては、およそこのような観点に立つ限り、無条件に認める。が、この上記の命題は、そもそも第 2 節にすでに含まれていたと言えよう。だから [『私の哲学体系の叙述』の] これまでのすべての命題をもってしても、ちっとも私たちは前進しなかったのである。「絶対的同一性」という新しい表現を得ることと、「A=A」を絶対的理性に適用するということ以上には。

 第13節と第14節は、端的に先行する節からの帰結である:[すなわち第13節の] 「存在それ自体dem Sein an sichからは、何物も生じはしない」と[第14節の] 「何物もそれ自体として考察すれば、有限ではない」[は、先行節から帰結する] [以上2つの強調はシェリング] 。
 ここではすべての発生とあり方(Verfahren)が、実のところ否定されている。まったく何物も変化・変質しない。なぜなら何も存在しないからであ。絶対的同一性、純粋・不変な始原の現存を除いては。スピノザの場合もまさにそうである。
 さて問題は、どのようにして生成変化、一般的には相互の多様性を、[シェリングは] 取り除くのかということである。要言すれば、私たちが時間(変化の図式(Schema))と空間(多様性の図式)のうちに表象するところの「物」を、どう取り除くかである。
 シェリングはここで、典型的な思弁的観点に立つ。すなわち、
・時間と空間のうちに現象するものは、実際は存在しない。
・時空の形式は、まったくもって実質のないものであって、真の実在からは分離されねばならない、という観点である。
 シェリングは、あらゆる思弁的な哲学と同じ様に主張する。やはり彼が、時空の形式を根本的な仕方でもって、前述の不変のものないし一つのもののうちで把握するやり方には、注意を払うべきであろう。つまり彼が、そもそも有限なものを永遠なものから導出しようとするやり方には、注意を払うべきなのである。この導出こそは、まさに哲学の課題なのだから。
 第14節への「補足(Zusatz)」と「解説(Erläuterung)」は、前述の [シェリングの典型的な思弁的] 観点を正確に表明している。シェリングは [第14節への補足で] 述べる:「有限なものとして考えるということは、物がそれ自体として存在するような仕方では、物を考えないということである。同様に、物を多様に考えるということは、[物がそれ自体として存在するような仕方では、物を考えないということである]」。
 形式的に考えれば、この補足は自己矛盾していよう。[というのも] 物の多様性を廃棄すれば、
・物そのもの(die Dinge selbst)も廃棄されるている。
・また、そもそも物を問題とすることができない。(überhaupt kann aber noch gar nicht von Dingen die Rede sein;)
・そして私たちは、絶対的な同一性という一つのものの存在以外には、目下何も知らないこととなる。
(「解説」というものにおいては、いささか自由でほのめかすような言い回しが、著者には許される。だから私たちも、証明抜きでなされているそれらを、非難すべきではないのであろうが [しかし以下のことを、指摘しておきたい]。)[この括弧閉じ記号「)」は、フィヒテの原文にはありませんが、訳者が補いました]。
 [すなわち、シェリングは第14節の「解説」で、次のように述べている:]
「これまでの全哲学者のうちで、スピノザだけがこの真理(注8)を認識していた。もっとも、彼はこの真理の証明を、あまり完全には行わなかったし、あまり明瞭にも言い表さなかったが」。[このフィヒテによる引用は、シェリングを字句どおり引用したものではありません。また、引用文中の2箇所の強調はフィヒテです]。等々。
 なぜ [スピノザは証明を] 完全には行わず、また明瞭には言い表さなかった [とシェリングは言う] のか? シェリング自身よりも [スピノザの方が] 確かに完全だし、明瞭なのである。シェリングの表現のどこに、上記の事柄についてのスピノザの次のような表現より、明晰なものがあるというのか:「神は事物の内在的原因であって、その時々だけの(vorübergehende原因ではない」。

 第15節:「絶対的な同一性は、『A=A』という命題の形式のみをとる。 [以上、強調はシェリング] つまりこの形式は、絶対的同一性の存在によって、直接措定されているのである」。[強調はフィヒテ]
 以前シェリングは、次のことを証明した:『A=A』という命題によって、絶対的同一性が直接措定されている(第6節)。そして明らかに、絶対的同一性は『A=A』という命題において考えられねばならないし、また記されねばならない
 しかし逆に、
・『A=A』が絶対的同一性の存在によっていかに措定されるかということ、
・さらに絶対的同一性はこの『A=A』の命題の形式においてのみ、存在しえるのかということ、
こうしたことは何も分からないのである(注9)
 「A=A」は思考においては、同一性の絶対的法則のための表現であり、図式(Schema)である。[しかし]
・この「A=A」に何らかのしかたで存在を与えるということ、あるいは、
・「同一性は、「A=A」の形式のもとで必然的に存在する(おそらくは客観的に)」と主張すること、さらに、
・「同一性には、主語および述語という二重性が与えられなければならない。同一性はその統一においては、同時に主語であり述語である」と主張すること、
こうしたことすべては、前述の [シェリングが行った] 論考では、まったく意味をなさない。これらは論理的な形式であって、そのようなものを客観的存在へと高めるなどということは、まったくもって無意味なのである。
 さらに、形式と存在もまた、一つのもののうちで、すなわち単純なもの、区別されえないもののうちで、[シェリングによって] 同じく恣意的に区別される。しかしここ [15節] では、両者は端的に一致する。同一性はその存在ということ以外の形式をもたないのでる。したがって [ここでは]、
1) 絶対的な同一性において、形式と存在をどのように区別すべきなのかが、そもそも証明されるべきであった。絶対的同一性とは、純粋に自ら自身に等しい存在に他ならないのである。そしてこの自らに等しいこととは、同一性においてこの同一性の存在から区別されるべきものである形式と、別なものではない。すなわち自らに等しい存在とは、純粋な関係Beziehung)、純粋な措定Position)の表出である(「自らに等しい存在は――表出を欲しつつ――この形式に他ならないのである」)(注10)。こうしたことを問題にしないとしても(Dieses aber auch geschenkt,)、
2) 主語と述語の2重性としての「A [主語]=A [述語]」は、或る [実際に存在する] もの(Etwas)の客観的形式とはなりえない。というのもこの2重性それ自体は、たんに思考上のものであって、思考に対して存在するのであるから。思考は主語と述語を区別するが、主語と述語 [が表しているもの] が、2つのものとして客観的に実際に存在するするのではない。
 というのも、例えば「木は緑である」という判断は、
・木と緑の両者が一つのものへと結合されていることを、まさしく言い表わしているのであり、
・したがって、これら両者における2元性(Zweiheit)はすべて否定し、
・そして両者をよりいっそう結合するために、これら両者を思考においてただ最初には、別々に保持しているのである。
 そこで「A=A」は、何か或るものの客観的形式には、いかなる意味でもなりえないのである。
 [第15節の] 補足1では、「A=A」は絶対的同一性という一つのものの形式ないし「あり方」(Art)と、名づけられている。

 [第15節の] 補足2:「単なる形式から帰結するものは、それ自体an sich)としては措定されていない」[強調はフィヒテ]。それ自体ということの反対である:[すなわち] 他のものによって、措定されている。[単なる形式から帰結するものは、] 絶対的なものなのではなく、絶対的なものによって [措定されるているのである]。スピノザの変状(Affektionen)と様態(Modi)のように。これら変状と様態は、私たちの前述の文脈では、絶対的なものの形式に相当する。変状と様態は、絶対的なものによって措定されており、絶対的なものの存在によって、はじめてもたらされているのである。つまりは、この絶対的なものの存在を、思考は変状と様態から区別する。そうでなければ、継起あるいは生成などというものは、思考のうちにはないこととなる(注11)

 16節:「『A=A』において、主語 [等式の左辺のA] と述語 [等式の右辺のA] の間には、対立はそれ自体としてはan sich可能ではない」。
 なるほどAI [等式の左辺] とAII [等式の右辺] で措定されているものは、同じものである。したがって、前記の引用部分は自明のことではある。けれどもここでシェリングは、「それ自体として」と「それ自体としてではなく」の区別を、持ち出している。事実として存在する諸対立を、ほのめかすことによって。そうすることによって、こうした事実性を導出するといったことには少しも煩わされることなく、「これらの [事実上の] 諸対立は、それ自体としては存在しない」という命題が、[シェリングによって] できてしまうのであろう。
 こうしたことは、すでに述べられてはいる。が、むしろ [その箇所で] シェリングは、「どのようにして事実的諸対立は、[それ自体としては存在しないと言われながらも、] なお少なくとも存在するように見えはするのか」ということを、理解できるようにすべきだった。ここには、それ自体現存Existenz)の区別が、目立ってはいないが現れている。そしてこの区別は、後で大きな働きをすることになる。
 さて、[「A=A」においては] 同じAが主語と述語を代表しているのだから、絶対的な同一性の形式は、同一性の同一性という形式と言われる(補足2 [を参照])。

 第17節:「絶対的な同一性についての根源的な認識が、存在するのであるが、この認識は命題「A=A」によって措定されている」。「絶対的な同一性についての認識というものが、存在するのである」。(これは事実である。私たちはこの事実を、「A=A」という命題の真理が直接に認識されることから、察知する(entnehmen)。
 さて、存在するものすべては絶対的同一性のうちにあるのだから、認識もまたそのうちにある。しかし認識は、絶対的同一性の本質(Wesen 存在)からは生じないのだから、その形式から生じ、この形式に属する。
 形式は存在と同様に根源的である。そこで、形式によって措定されているものはすべて、絶対的な同一性 [=存在] と根源的にまさに等しくもある。ところでこのことは、絶対的な認識についても起きる。したがって、絶対的同一性は、根源的に絶対的認識の形式のもとにある。(この点は、第18節においてより明瞭となろう)。
 [フィヒテの考えでは、] こうした主張に対しては、多くの反論があることだろう。[シェリングにあっては、] 認識 [が存在すること] の事実から、この認識することは事実として、絶対的同一性の形式のうちで、存在させられこととなる。絶対的認識が存するのだから、(なかんずく)同一性 [=存在] もまた認識Erkennen)なのである。
 このことについては、以前に容認した以下の命題を考慮することによって、承認することができる:「ただ一つのものが存在する」。
 だが、こうしたことによっては第18節の命題「存在するすべてのものは、その形相Formからすれば、絶対的同一性の認識である」を、得ることはできない。――どこから命題中の「すべて」という語句は、来たのか? この詭弁は、以下の証明の語句の中でも出現するのである:認識が、絶対的同一性の命題の形式に属しており、この形式は存在と不分離というのであれば、存在する(!!)すべてのものは、存在の形式からすれば同一性の絶対的な認識に等しい。
 さて、絶対的な同一性の認識とは、さらに何を意味しているのか? これについては、これまでのシェリングの叙述中では、「『A=A』の命題は、直接的に認識される」ということ以上のものは、見出されないのである。[シェリング] が意図しているのはまたしても単に、差異の、しかも最も重要な差異である主観性と客観性の差異の、塗りつぶし(einschwärzen, 「解消」の意味)にすぎない。塗りつぶしについては、この「絶対的同一性の存在形式」が詳しく書かれている次の節において、明らかとなろう。

 第19節:(つまり、同一性というものが絶対的な認識のことだとすれば、この絶対的認識は、絶対的同一性としての自己認識でしかありえない)。
 「絶対的な同一性は、ただに絶対的同一性自体の――すなわち、自己自身と同一であるものとしての絶対的同一性自体の――認識という形式のもとにある(注12)。すなわち、端的に自己自身と等しいものとしての自己認識である。このことの証明は、[ここで問題にするのは] 省略しよう。この証明は、先行するいくつかの「補足」と同じ特徴をもつ [からである]。
 存在するのは、絶対的な同一性であって、しかもこの同一性の存在は、<自己自身と等しいという同一性>の自己認識という形式においてある(注13)。――絶対的同一性の存在のこの必然的形式は、明らかに無限である(第20節)。なぜなら、絶対的同一性自体がその存在からして、無限だからである。
 だがもし、上記のことが内容(? Haltung)と正しさをもつと認めるとしても、絶対的同一性の自己認識についての議論の全体は、[シェリングによって] まだ証明されてはいない。

 第21節:この無限な自己認識において、主観と客観は明確に区別されねばならない。したがって前述したところの形式によって、絶対的同一性は自らを無限に主観と客観として措定する。すなわち:
    S
I = ―― ∞  (注14)
    O

 これと別様にではない。例えば、
  I 
S   O ∞ というのではない(注15)。これは措定されてはいないのである。
 
 さて、主観と客観との間には、もともとは(an sich)いかなる対置(Gegensatz)も生じえない(第22節への補足)。というのも、主観と客観は、根源的に絶対的同一性のうちで結合されているからである。したがってこの両者の間には、ただ量的な差異しかありえない(第23節)。
だが、ここでの証明はまたもや不十分である。すなわち、「主観と客観においては、本質的には不変の同一性が現に存在する(sich verwirklichen)のだから、主観と客観は質的にではなく、量的に異なるのである」という証明は不十分なのである。なぜ同じ一つのものは、ほんとうの(wahrhaft)対立物のうちでは存在できないのか? この特に重要な関係について、説明が全然なされていない! この同じ一つのものは、本質的には同じままであるのだが、しかしこれまた著者 [シェリング] によれば、量的な相違は証明されて本質に達するということはないのであって、ただ形式にかかわるのである。
しかしながら、「[一つの] 同じものは、相反する(entgegengesetzt)形式のもとでは存在できない」ということが、証明されたならば、[シェリングの言う] 量的な差異もまた役には立たないであろう。というのも量的な差異は、相違性や対立(Gegensatz)[という相反する形式] をつねに措定するからである[つまり、シェリングの言う量的な差異においては、一つの同じものが存在できなくなるのである]。したがって、この箇所でもまた [シェリングの議論には] 隙間があり、[シェリングの] 恣意が残っているのである。
(続く)

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注3) この段落の訳には自信がありません。原文は:

Noch schlimmer ist aber, nicht zu sehen, dass die Eine und absolute Vernunft, außer der Nichts sein soll, nicht die Indifferenz des Subjektiven und Objektiven sein kann, ohne zugleich und in derselben ungeteilten Wesenheit auch die Differenz der beiden zu sein; dass hier sonach außer der Einen differenzierenden Vernunft noch eine zweite differenzierende im Sinne behalten wird, welche sodann auch wohl in aller Stille gute Dienste leisten dürfte, indem diese wirklich das stillschweigende Motiv ist, um aus der leeren und abstrakten Indifferenz, mit der Nichts anzufangen, überhaupt nur weiter zu kommen.

1) nicht zu sehen は、その前の ist の主語で、仮主語の es が省略されているものと、理解しました。
 といいますのは、dass die Eine und . . . zu sein; までは、フィヒテ自身の主張ですが(つまり、「同時に2重性(Duplizität)として存在する統一性(Einheit)」ということです)、それが「[シェリングの叙述では] 見てとれないので(nicht zu sehen)」、「さらに悪いこと」だと、フィヒテは主張しているわけです。

2) 次の文章 dass hier sonach . . . zu kommen. は、シェリングの「叙述」の特徴を述べているようです。するとこの文章は、前文の Noch schlimmer ist aber からつながることになります。nicht zu sehen の目的語ではありません。

3) 最初の理性にも2番目の理性にも、differenzierend の形容語が付いています。これでは意味が通らないように思いますので、最初の differenzierenden を、indifferenten だとして訳しました。

注4) 第8節の補足1 は、次のようになっています:
 「絶対的な同一性は、「A=A」の命題による以外には考えられない。そして、絶対的同一性はこの命題によって、存在するものとして措定される。したがって、絶対的同一性は考えられることによって存在し、存在することはこの同一性の本質に属する。

注5) スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳、岩波文庫)第一部、定義五に、「様態 [=個物] とは、実態の変状」だとあります。なお、同文庫『エチカ』の索引の「変状」も参考になります。

注6) 相良守峯:Großes DEUTSCH-JAPANISCHES WÖRTERBUCH によれば、stätig は stetig と同意味だとあるので、それに従って訳しました。

注7)この第12節の補足1 は、以下のとおりです:
「補足1:存在するすべてのものは、それ自体としては(an sich)一つのものである。この命題は、先行する命題のたんなる逆である。したがって、直接に先行する命題から帰結する」。

注8)「この真理(diese Wahrheit)」は、シェリングの原文では「命題(ein Satz)」となっています。すなわち、「絶対的な同一性(無限なもの)は、決して自ら自身の外に出ることはなく、また存在するものすべては、それが存在するかぎり、無限性そのものでる」という命題です。

注9)原文は:
 Wie nun aber umgekehrt A = A durch ihr Sein gesetzt werde, wie ferner sie nur in der Form des Satzes sein könne, damit läst sich gar kein Sinn verbinden.
 文中の Sinn の意味が訳者には不明です。一応前後の文脈より判断して、“damit läst sich gar kein Sinn verbinden.“ を「こうしたことは何も分からない」と訳しました。

注10)フィヒテの原文は:
 (>>das ist sie und nichts anderes,<< ausdrücken wollend).
しかし、この引用符「>> <<」中の文の、シェリング原文での箇所は、訳者には不明です。

注11)フィヒテの原文は:
 dies unterscheidet nämlich das Denken an ihnen;
 この文中の dies は、前文の「絶対的なものの存在」を指しています。またこの文中の ihnen は、前文の diese を、すなわち「変状と様態」を指します。
 問題は、
unterscheidet(区別する)の主語は、dies なのか das Denken(思考)なのかということと、
unterscheidet の目的語と、ihnen の関係です。
 訳者は、unterscheidet の主語を das Denken と取り、その主語が、目的語の dies「絶対的なものの存在」を ihnen から「区別する」と取りました。この場合、前置詞 an が、「から」という訳語になります(ちょっと苦しい?)。

注12)このフィヒテの引用は、シェリングの原文と内容的には同じだとしても、少し違っています。原文は:
Die absolute Identität ist nur unter der Form des Erkennens ihrer Identität mit sich selbst.
(絶対的な同一性はただに、<それと自己自身との同一性>の認識という形式のもとにある)。

なお、本文で訳出したフィヒテの引用文は:
Die absolute Identität ist nur unter der Form eines Erkennens ihrer selbst als identisch mit sich selbst.

注13)原文は:
in der Form des Selbsterkennens der Identität als sich selbst gleich.
 
 つまりこの文の意味は、
・絶対的同一性は、「同一性の認識という形式」においてあります。
・この「同一性の認識」の同一性とは、自己自身と等しいという同一性です。
・この「同一性」を、絶対的同一性は認識するのですが、それは自己認識であるというわけです。

注14) I は Identität [(絶対的)同一性], S は Subjekt [主観], O は Objekt [客観], ∞ はunendlich [無限] を表しています。
 したがって、この等式の意味は:
「絶対的な同一性は、自己認識の形式において存在することによって、無限に(無限な)主観と客観に区別される」
ということです。

注15)この文字式の意味は:
「主観と客観は、まずそれ自体として存在している。それらは分離している(∧)のだが、しかし同時に、両者は絶対的)同一性のうちで結合している( _ )」
ということでしょう。

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