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シェリングの著作の訳

   シェリングのヘーゲル宛の手紙 (1795-2-4 付)(v. 2.1.)


   目 次 

   はじめに
   凡 例
 手紙の訳
   訳 注

   はじめに

 「ぼくはスピノザ主義者になった」の語句で有名な、シェリングの手紙です。でもこの語句の解釈には、注意が必要です。
 いずれにしろ、20 才の彼の志向するところが、よく表れています。そして最後に、「ぼくたちの最高の努力は、[啓蒙主義的な] 人格の破壊であり、存在の絶対的な領域への移行だ」と、主張されます。

 なお、若きシェリングは、地方都市の抑圧的雰囲気がよほど嫌だったとみえて――同時代では、スタンダールもそうでした。固陋な宗教的抑圧、浅ましい利欲、教養や理想の欠如などに、知性や鋭敏な感覚をもった青少年が苦しむというパターンの始まりですね――、つねに「自由」ということを高らかに唱えます。自由は、彼においては思想的なものに先立って、まず感覚的な生活上の欲求としてあったようです。

 『シェリングとヘーゲルの、往復書簡の一覧表』が拙サイトにありますので、ご利用下さい。


   凡 例

・テキストとしては、Meiner 社の 哲学文庫版 Briefe von und an Hegel, Bd. 1.(J. Hoffmeister 編、オリジナルは 1952 年)が、入手しやすいと思います。
 というよりGoogle で "Tübingen, den 4ten Febr. 95." を検索すれば、全文が閲覧できるのでした。

・原文の引用は、上記テキストよりしました。したがって、Briefe von und an Hegel と記してあるのは、上記の Meiner 社版を指します。
 また、たんに「編集者注」というのは、この版の注です。

F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1 と表記しているのは、シェリングのいわゆる『アカデミー版』全集の第 3 シリーズ、第 1 巻を指します。訳文は、最終的にこの版にそうようにしました。訳文の段落分けも、この版によります。

・引用したドイツ語は、現在の正書法で表記しました。

・小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』と記しているのは、昭和 50 年初版発行の日清堂書店刊行のものです。

・原文では段落分けをしていない箇所でも、訳文は読みやすさを考えて、新段落にしました。したがって、文章をどこで切って新段落にするかという判断には、訳者の解釈が入っています。
 なお、原文で段落分けをしている箇所は、訳文では1行空けて新段落としています。

・ [  ] 内は、断り書きがないかぎり、訳者の挿入です。


   手紙の訳

                          テュービンゲン(Tübingen)、1795 年 2月 4 日

 いや、ぼくたちは疎遠になったのではなく、以前と同じ道の途上にともにいる(*1)。そしてこの道が、ぼくたち 2 人のおそらく予想しなかった曲折をたどったとしても、この曲折はぼくたち 2 人にとっては、同じものなのだ。
 ぼくたち 2 人は、さらなるものを望んでいる。ぼくたち 2 人は、ぼくたちの時代が生みだした偉大なものが、過ぎ去った時代の古びてだめになったものと、またもや一緒にされることを、阻止しようと望んでいる。この偉大なものは、その創始者の精神から発したままの純粋さで、ぼくたちのもとで存在しなければならない。また可能であるならば、この偉大なものは、歪められることなく、古い昔ながらの形式へと貶(おとし)められることもなく、まったくの完全さにおいて、その崇高な形態において、そして世間や諸学問のこれまでの全体制に対して、勝利か滅亡かの戦いを挑むということを高らかに告げながら、ぼくたちから後世へと伝えられねばならないのだ。

 哲学を究極的な諸原理へと立ち帰らそうとするラインホルトの試み(*2) については、君の推察―― [彼の試みのもとでは] 哲学が、『純粋理性批判』(*3)がもたらした革命そのものを、さらに進めることはないという(*4)――は、たしかに間違ってはいなかった。だがそれ [=ラインホルトの試み] もまた、学問が越えていかねばならなかった 1 つの段階だった。そしてぼくたちは、ぼくの確信するように、今やすぐにも最高の地点に立つはずだが、それをラインホルトのおかげとすべきかどうかは、ぼくには分からない。
 哲学の最近のこうした進展からぼくは、やがておおっていた最後のとばりが完全に落ちくずれて、特権的哲学者たちがつむぐ哲学的迷妄の最後のクモの巣が、引き裂かれることも期待している。カントとともに暁光がさしてきたのたが――高山がすでに太陽の光で輝いている一方で、なおここかしこの沼地の谷間に、いささか霧が残っていたとしても不思議ではない。暁光が太陽に先行せざるをえないのだし、自然は、次第に完全な真昼となることによって、また薄明りをとおしての [夜から昼への] 以降によって、弱まった眼にも配慮しているわけだ。しかし、暁光が一たび現れれば、太陽が昇らざるをえないし、奥まった隅々にも光と生命が広がる。また、沼地の霧は晴れざるをえない。(*5)

 君が遂行しようとしている、すばらしい計画!(*6) できるだけ早くそれに着手するよう、お願いしたい。君が無為に過ごさないことを決心すれば、そのとき君には、豊かな成果と偉大な功績の機会が訪れる。そして、君は迷妄の最後のドアをも完全に閉ざすことになるのだ。君自身が書いている――フィヒテが『あらゆる啓示への批判 [の試み]』でまた持ちだしたところの(おそらくは便宜的に、つまり迷妄をもつ人とも友人でいるために、また神学者からの感謝を笑納するために(*7))あの推論法(Schlussart(*8)が、有効だとまだ見なされるているかぎりは、哲学的愚かさは終わらない――と。
 ぼくは、神学者たちの馬鹿ばかしさ(Unfug)への怒りから、風刺文を書こうと何度も思ったし、また教義学全体を、暗黒の諸世紀がもつそのすべての付属物ともども、実践的な信仰の根拠へと立ち戻らせようと思いもした(*9)。しかし、時間がぼくにはなかったし、風刺をしたとしても、それを大半の人が真剣に受けとったかどうかは分からない。また若年のぼくが、哲学的に教会の明かり(Kirchenlicht)として輝くという喜びを、すくなくとも内心で持てたかどうかも分からない。こういう事は、真剣に取り組まねばならないが、友人の君の手でそれが始められることを、ぼくは期待したい。

 君の問い――道徳的証明は(*10)、人格的本質 [の成立] にとっては十分でないと、ぼくが考えているのかどうか?――にも、答えておこう。この問いには、驚いたというほかはない。レッシングの信奉者 [= ヘーゲル] からの、このような問いは予想していなかった。しかし、君がこう問うのはおそらく、この問いがぼくにあっては完全に決しているかどうかを、知るためだろう。君にとってはこの問いは、たしかにもうとっくに決している。ぼくたちにとっても、神の正統的概念はもはや存在しない(*11)。――ぼくの答えは:ぼくたちは、人格的本質以上へと達するのだ(*12)(*13) 

 ぼくの方は、スピノザ主義者になった(*14)というわけだ(*15)。――驚くなかれ! すぐに、どうしてかを言うから――
 スピノザにとっては、世界(主観に対置するところの、まったくの客観)がすべてだった。ぼくにとっては、自我がすべてだ。批判的哲学と 独断論的哲学の本来の違いは、ぼくには次の点にあるように思える:批判的哲学は、絶対的(まだ客観によって制限されていない)自我にもとづき、独断論的哲学は、絶対的客観すなわち非我(*16)にもとづくということだ。
 独断論的哲学を徹底させると、スピノザの体系へと至るし、批判的哲学の方はカントの体系だ。無制限なものに、哲学はもとづかねばならない。では、どこにこの無制限なものはあるのか、自我のうちにか、非我のうちにか、これが問題だ。この問題が決せられたならば、すべてが決せられたことになる。
 ぼくにとっては、すべての哲学の最高原理は、純粋な絶対的自我だ。つまり、自我そのものであるかぎりでの自我であり、まだ客観によっては全然制限されていない、自由によって措定されているかぎりでの自我だ。すべての哲学の核心は、自由なのだ。
 絶対的自我は、絶対的存在の無限の領域を包含する。この無限の領域のうちに、有限な諸領域が形成されるのだが、有限な諸領域は、絶対的領域が客観によって限定を受けて生じる(現存Dasein)の諸領域――理論的哲学 [の対象])。現存の諸領域には、ただ制限があって、無制限なものは矛盾におちいる。
 しかしぼくたちは、この限界を突破しなければならない。つまり、有限な領域から無限な領域へと行かねばならないのだ――実践的哲学。したがって実践的哲学は、有限性を破壊することを要求する。そしてこのことによって私たちを、感覚を超えた世界へと導くのだ。「客観によって妨げられていたがゆえに、理論的理性には不可能だったことを、実践的理性が行う」(*17)
 しかしながらぼくたちは、感覚を超えた世界においては、絶対的自我しか見いだせない。というのも、ただ絶対的自我だけが、無限の領域を描いた(beschrieben)のだから。ぼくたちにとって感覚を超えた世界というものは、絶対的自我のものしかない。
 は、絶対的自我にほかならない。理論的なものすべてを無効にし、したがって理論的哲学においては0(ゼロ)であるかぎりでの、自我にほかならないのだ。
 人格は、意識の統一性から生じる。そして意識は、客観無くしては不可能だ。しかし、神にとっては、すなわち絶対的意識にとっては、客観というものはまったく存在しない。というのも、客観が存在すれば、絶対的意識は絶対的ではなくなるからだ。それゆえ、人格神は存在しない。そこでぼくたちが志向する最高のものは、人格性(Persönlichkeit)の破壊であり、存在の絶対的領域への移行なのだ。しかしこの移行は、永遠に可能ではない――よって、絶対的なものへのただ実践的な接近であり、よって――不死というわけだ。(*18)

 もう、ペンを置かねばならない。お元気で。すぐに返事をくれたまへ、
                                       君の
                                          シェリングに

 追伸 要望のあった冊子を送るが(*19)、これへの君の率直で厳しい判定を期待している。
 レンツ(*20)には、今のところまったく絶望している。これについては、近いうちにいくつか [書こう]。君の方で、彼に手紙を書かないか? ぼくも手紙を出したいのだが、彼のおじさんに読まれてもいいように、手紙をうまく工夫しなければいけないようなのだ。


   訳 注

(*1) この文言は、ヘーゲルからの前便(1975年1月末)中の、以下の文章に呼応したものです:
 「ぼくたちは友人として、決して疎遠にはならなかったし、ましてや、理性的人間すべてが大きな関心を寄せ、力のかぎり促進・拡大に寄与しようと努めるものに関しては、ぼくたちは決して疎遠なのではない。(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 15f. / F. W. J. Schelling. Historisch-kritische Ausgabe. Band III, 1, S. 18. )

 なお、上記引用文中の「大きな」は、小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』では、「最大の」となっています(18 ページ)。小島訳が依拠した Verlag von Dluncker und Humblot, 1887 版は手元にないのですが、なるほど Briefe von und an Hegel, Bd. 1 では große でも、F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 18 では、gröste と最上級になっています。しかしこれは絶対的最上級だと考え、「大きな」にしました。(えっ、「非常に大きな」とすべき? それは、ちょっとくどくなるのではないかと・・)

(*2) Briefe von und an Hegel の編集者注1 (S. 436)は、この「試み(Versuch)」を、ラインホルトの著書『人間の表象能力についての新理論の試み(Versuch einer neuen Theorie des menschlichen Vorstellungsvermögens)』(1789 年)だとしています。
 しかし、F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 270 では、この「試み」を著書の題名の 1 部分としてではなく、一般的な意味にとって、以下の諸論文も参照としてあげています:
・「哲学の普遍的に妥当する第一原理の、必要性・可能性・諸性質について(Über das Bedüfnis, die Möglichkeit und die Eigenschaften eines allgemingeltenden ersten Grundsatzes der Philosophie)」
・および「厳密な学問としての哲学の可能性について(Über die Möglichkeit der Philosophie als strenge Wissenschaft)」
 上記 2 論文とも、1790 年刊行の『哲学者たちのこれまでの誤解を訂正するための、寄稿論文集(Beiträge zur Berichtigung bisheriger Missverständnisse der Philosophen)』に所収。なお、「寄稿論文集(Beiträge)」というのは、雑誌などに寄稿して発表した論文を集めた、論文集のことです。

(*3) 初版(A 版)は 1781 年、第 2 版(B 版)は 1787 年の出版。

(*4) このシェリングの言及に該当するのは、ヘーゲルの前便(1975年1月末)の、以下の箇所だと思われます:
 「より深く研究しようとする近ごろの諸著作(Bemühungen)については、ラインホルトの著作と同じく、ぼくはまだ疎(うと)い。これらの思索は、たんに理論的理性に対して細かく意味づけしただけであって、[前述したカントのあげた諸成果を] より一般的に使用できる諸概念に適用することの可能性を、高めたものではないとぼくには思われたのだ。」

 この箇所の原文は:
 Mit den neuern Bemühungen, in tiefere Tiefen einzudringen, bin ich ebenso wenig noch bekannt, als mit den Reinholdischen, da mir diese Spekulationen [mehr] nur für die theoretische Vern[unft] von näherer Bedeutung als von großer Anwendbarkeit auf allgemeiner brauchbare Begriffe zu sein schienen.
 
Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 16. [ ] は、編集者の挿入。/ F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 18. なお、この『アカデミー版全集』では、上記引用文中の
neuernneuen になっていますが、絶対的比較級の neuerneu でこの場合、意味にそれほど差があるとは思えません。
・また、Briefe von und an Hegel の編集者が付けた [mehr] が、『アカデミー版全集』にないのは、不可解です。

 しかし、小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』では、以下のようになっています:
 「更に深奥に徹せんとする近頃の労作は僕は未だ知らない、ラインハルトのものも同様だ。この人の思弁は、理論的理性に対してのみいくらかの意義を持っているにすぎないので、もっと普遍的に行使出来る概念に対しては大々的に適用することがむしろ出来ない様に僕には思えるのだ――」(18 ページ)

 読者が拙訳との違いに混乱するかもしれませんので、以下コメントしますと:
(1) diese Spekulationen の diese は、小島訳では「この人の」となっており、「ラインホルト」を表しています。しかし、「近ごろの諸著作(den neuern Bemühungen)」も含めるべきです。といいますのは、
 (i) 内容面からみると――この箇所でヘーゲルは、<ラインホルトの著作も含めて近ごろの諸著作については、ぼくは疎い。これらの著作は・・・>と述べているからです。小島訳のようですと、ヘーゲルが近ごろの諸著作について疎いと述べたことは、後文に続かず無意味となります。
 (ii) 文法的には――もし小島訳のように、「ラインホルトの」ということをヘーゲルが言いたかったとすれば、diese (これらの)ではなく、seine (彼の)を使うのが自然でしょう。

(2) da 以下の副文は、「diese Spekulationen は、von großer Anwendbarkeit より、von näherer Bedeutung であるようだ」、という構造になっています。
 なお、この副文でのように、性質を示す von が、「主語+ seinvon (A について)+ A」という構文をとりえることは、例えば相良守峯『大独和辞典』に次のような例文があります:
 das ist von großem Nutzen, それは非常に訳にたつ. (von の項目、7, b

(3) 小島訳では、von näherer Bedeutungnäherer を「いくらかの」と訳し、「(少ない)分量」の意味にとっています。しかし、辞書をみても näher にそのような意味はなく、いささか乱暴にすぎる意訳でしょう。

(4) anwenden A auf B は、「A を B へ適用する」という意味ですので、引用文中の「Anwendbarkeit auf ~」は、「~ヘの適用可能性」を意味します。そこで Anwendbarkeit auf allgemeiner brauchbare Begriffe は、「より一般的に使用できる諸概念に適用することの可能性」という訳になります。
 では、何を「適用することの可能性」なのかが、問題となります。小島訳では、主語の「この人の思弁」のようです。しかし、それでは意味をなさないことは、例えば、「彼の論文は、この彼の論文の適用可能性について(論じ(たもの)である」という文が、意味をなさないのと同断です。

 そこで、引用箇所の直前の文を見ますと、ヘーゲルは以下のように言っています:
 「しばらく前から、ぼくはカント哲学の研究に、また取り組みだした。彼のあげた重要な諸成果を、ぼくたちの間でいまだふつうに使われているかなり多くの観念に、適用することを学ぶためだ・・・」(*21)
 したがって、前述の「適用する可能性」というのは、
  (i) 実質的には「カントのあげた諸成果」を適用する可能性だと思われます。しかしそれならば、großer Anwendbarkeit に、「前述の」などの形容語句をヘーゲルは付けたはずだ、という反論があるかもしれません。けれども、ヘーゲルの悪文は有名なことですし、ましてやこれは手紙なのですから、完全な文章とはなっていなくても仕方がありません。
  (ii) とはいえ文章に即して見れば、文中に出てきている「理論的理性(die theoretische Vern[unft])」を適用する可能性だとも、解釈できます。

 結局、拙訳では無難に (i) の「カントのあげた諸成果」を採用しました。

(*5) ホフマイスター(Johannes Hoffmeister)編纂の Briefe von und an Hegel, Bd. I, S. 21 では、「暁光が太陽に先行・・・沼地の霧は晴れざるをえない。」の文章が省略されて、「 . . . 」記号になっていま。F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 21 によって、補いました。

(*6) ヘーゲルは自分の計画について、以下のようにシェリングへの前便(1975 年 1 月末)で書いていました:
 「ぼくにもし時間があれば、次のことをすこし詳しく規定したい:道徳的信仰(*22)を強固にした後では、
[・] 神の [道徳的信仰において] 正当化された観念を、そこで逆方向に(rückwärts)使用することが――例えば目的関係の説明において等々――、どの程度許されるのか。
[・] 神の正統化された観念を、倫理神学(Ethikotheologie)から今度は物理神学(Physikotheologie)へと持ってきて、そこにおいてこの正統化された観念を自由に扱うことが、どの程度許されるのか。
 「こうしたことは、人が、一般的には神の摂理の観念において、そしてまた奇跡やフィヒテのような場合には啓示において、一般的に歩んできたことだと、ぼくには思われる。」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 17. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 19)

(*7) この( )内の推測は、シェリングのものです。

(*8) ヘーゲルはシェリングへの前便(1975年1月末)で、以下のように述べていました:
 「君が [1795 年 1 月 Dreikönigsabend (6 日)付の手紙で] 書いているところの [神学者たちの] 馬鹿ばかしさ――これが行う推論法については、君が書いていることから(*23)、ぼくも想像できる――へと至る門は、だが疑う余地なくフィヒテが彼の『あらゆる啓示への批判 [の試み]([Versuch einer] Kritik aller Offenbarung)』でもって開いたのだ。彼自身、[あの推論法を] 適当に使った。」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 17. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 19.)

(*9) この箇所ではシェリングは、ヘーゲルからの前便(1975年1月末)中の、以下の文章を念頭においているようです:
 「次のようなことをするのも、面白いのではないかとぼく [ヘーゲル] は思う:
[・] 神学者たちが彼らのゴシックふう神殿を堅固にするために、[カントの] 批判的 [哲学から] 資材を調達して、蟻よろしくいそしんでいるのをできるだけ妨害するとか、
[・] 彼らのなすことすべてを困難にする、
[・] 彼らをもぐり込んいるすみずみから追い出して、もうどこにももぐり込めるところを無くし、彼らの欠点を白日のもとにさらてしまう、などだ。」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 16f.)

(*10) (1) a) 「道徳的証明(der moralische Beweis)」とは、おそらく「神が存在することの道徳的証明(der moralische Beweis von der Existenz des Gottes)」だろうと思います。
 この手紙が書かれた同じ 1795 年に、シェリングは『独断論と批判主義についての哲学的書簡集(Philosophische Briefe über Dogmatismus und Kritizismus)』を出版します。その後、1809 年に再版しますが、その版に以下のように記しています:
 「『独断論と批判主義についての哲学的書簡集』は、当時 [1795 年] ほとんど世間一般的に通用し、たびたび乱用されたいわゆる<神が存在することの道徳的証明>に対する・・・痛烈な論ばくを含んでいる。」(なお< >の使用は訳者。S. W., I, 283)

 b) つまり、この「道徳的証明」は、大多数の保守的な人や、守旧的な神学者が行っているものであり、この証明からは、ヘーゲルやシェリングが言うところの「人格的・個人的本質」は導き出せない、ということです。

(2) a) 「君の問い」とは、ヘーゲルがシェリングへの前便(1975年1月末)で、以下のように書いていたことを指します:
 「君の手紙 [シェリングの 1795 年 1 月 Dreikönigsabend (6 日)付の手紙] で、道徳的証明についての表現が、よく分からないのだが。『大多数の人たちは、個人的で人格的な本質が飛び出してくるように、道徳的証明を扱うすべを知っている』。ぼくたちは、[道徳的証明によっては] そこ [= 人格的本質] にまでは達しないと、君は考えているのか?」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 18. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 20.)

 b) しかし、シェリングの 1 月 Dreikönigsabend 付の手紙には、上記のヘーゲルが引用した『 』内と同じ文言はありません。そこで、おそらくヘーゲルの念頭にあったのは、シェリングからの同手紙の次の箇所だと思われます:
 「僕の確信するところでは、古き迷妄は――既成宗教のだけでなく、いわゆる自然宗教のものも――大多数の人の頭の中では、すでにカント哲学の字句と結びついてしまっている。彼らが道徳的証明を、どううまくやることができるか見物するのも一興だ。あっという間に、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキーナ)が飛び出すのだ――そこの天上にまします人格的で個人的な本質が。」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 14. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 16.)

(*11) 編集者注3 (Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 436)にあるように、これはレッシングの以下の言に倣(なら)っています:
 「神性(Gottheit)についての正統的な概念は、もはや私には存在しません。」(Über die Lehre des Spinoza in Briefen an den Herrn Moses Mendelssohn, Felix Meiner Verlag, 2000, S. 22; Originalausgabe, 1785, S. 12)

(*12) 原文は:
 Wir reichen weiter noch, als zum persönlichen Wesen.

(1) この 1 文は、F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 22 によれば、シェリングが後から挿入したものです。

(2) このシェリングの返答は、この手紙のすこし前の箇所で、シェリングが言及したヘーゲルの以下の問いに、に答えたものです:
 . . . ob ich [Schelling] glaube, wir reichen mit dem moralischen Beweis nicht zu einem persönlichen Wesen?
 「道徳的証明は、人格的本質 [の成立] にとっては十分でないと、ぼく [シェリング] が考えているのかどうか?」

(3) しかし、言及したヘーゲルの問の文では、mit dem moralischen Beweis (道徳的証明 [で] は)の語句があったのですが、上記シェリングの返答では省略されています。そのため、
 (i) 返答では「道徳的証明」という条件がつかない、一般的な意味での返答になっています。
 (ii) 動詞 reichen には、「十分である。足りる」と、「達する。~にとどく」の 2 つの意味がありますが、前記の問いの方では「十分である」の意味に、返答の方では「達する」の意味になっています。

(*13) これまでの、「道徳的証明」と「人格的本質」をめぐる、2 人の応答を整理しますと:
(1) シェリングの(1795 年 1 月 Dreikönigsabend (6 日)付)手紙
  「彼らが道徳的証明を、どううまくやることができるか見物するのも一興だ。あっという間に、機械仕掛けの神が飛び出すのだ――そこの天上にまします人格的で個人的な本質が。」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 14. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 16)

 上記での、シェリングの趣旨は:大多数の旧套(とう)的な神学者たちは、道徳的証明でもって人格的本質を導出しようとするが、うまくできるはずがない。結局は、「機械仕掛けの神」の登場ということになる。

(2) ヘーゲルの(1975年1月末)手紙
  「ぼくたちは、[道徳的証明によっては] そこ [= 人格的本質] にまでは達しないと、君は考えているのか?」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 18. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 20.)

 上記での、ヘーゲルの趣旨は:君(シェリング)は、古くさい道徳的証明によっては、ぼくたちが志向する人格的本質には至らないと、考えているのか?

(3) シェリングの(1795年2月4日付)手紙
  「君の問い――道徳的証明は、人格的本質 [の成立] にとっては十分でないと、ぼくが考えているのかどうか?――にも、答えておこう・・・レッシングの信奉者 [= ヘーゲル] からの、このような問いは予想していなかった・・・君にとってはこの問いは、たしかにもうとっくに決している。ぼくたちにとっても、神の正統的概念は、もはや存在しない。――ぼくの答えは:ぼくたちは、人格的本質以上へと達するのだ」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 21. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1, S. 22.)

 上記での、シェリングの趣旨は:(むろんのことだ。)レッシングの支持者である君は、とっくに道徳的証明ではダメだと確信しているはずだ。というのも、レッシングにとっては「神の正統的概念は、もはや存在しない」のだから、正統的概念を前提とする古くさい道徳的証明などは、有効性をもちえない。そしてぼくにとっても、正統的概念はもはや存在しない。
 [そして、おそらくこの後、] したがって、ぼく(シェリング)としては、「道徳的証明では、人格的本質にまでは達しない(あるいは、道徳的証明は、人格的本質にとって十分ではない)」と、答えたい。 [というシェリングの返答が、続くはずでした。しかし、このような分かりきった答えを、才子シェリングは省略します。というのも、シェリングとしてはすでに、「ぼくたちにとっても、神の正統的概念は、もはや存在しない」と述べたことによって、答えたつもりになっていたのです。そこで、彼はもっとも今ヘーゲルに話したいこと、次の段落でのスピノザ哲学や自我のことに話を移します。しかし、それらを書いた後で、ヘーゲルの問いにはっきりと回答しないというのもまずいと思い、かといって平凡に書くのも面白くないということで、シェリングはヘーゲルの問いの文言から、「道徳的証明」という語句を省略して、意味を替えた 1 文を挿入します。すなわち――]
 そして現在のぼく(シェリング)の結論を言えば、ぼくたちは、人格的本質以上へと達するのだ。 [このように、シェリングはスピノザ主義的観点から、自身の新しい心境を示したのでした。]

(*14) 「スピノザ主義者になった」といっても、文字どおりの意味でないことは、この直後の文章から明らかです:
 「スピノザにとっては、世界(主観に対置するところの、まったくの客観)がすべてだった。ぼくにとっては、自我がすべてだ。」(*24)

 では、どういう意味で「スピノザ主義者になった」のかといいますと、
 (i) この発言は直前の「ぼくたちは、人格的本質以上へと達するのだ」を受けていますので、「人格的本質」を否定することにおいてです。
 (ii) この発言の後、シェリングは「すぐに、どうしてかを言うから」と説明しますが、その最後でも「人格神は存在しない。そこでぼくたちが志向する最高のものは、人格性(Persönlichkeit)の破壊であり、存在の絶対的な領域への移行なのだ」と、述べられています。むろん、スピノザの無限な実体(=神)は人格神ではありません。
 (iii) したがって、シェリングが「スピノザ主義者になった」のは、啓蒙主義的な「人格的本質」や「人格性」を否定し、「存在の絶対的な [無限の] 領域へ移行」するという意味においてでした。

(*15) 原文は Ich bin indessen Spinozist geworden! ですが、indessen の解釈が問題です。2 つの可能性があります:
(1) 「その間(かん)に。そうこうするうちに」と、時間的な意味にとる。この意味での indessen については、グリム『ドイツ語辞典』は、
 「時を表す副詞で、前に言われた期間の範囲内に(innerhalb einer vorher genannten zeit)起きたことを示す」
と述べています。
 つまり、「前に言われた期間」を受けて、indessen (その間に)がくるわけです。この点で、neulich, vor kurzem (先頃)などの用法とは異なるようです。
 ところが、シェリングのこの手紙には、indessen より前に、期間や時を直接示す語句や内容がありません。なるほど、「君 [ヘーゲル] にとってはこの問いは、たしかにもうとっくに(schon längst)決している」においての、schon längst はあります。そこで、この「とっく」の以前から今までの間を受けて、indessen が使われたと解釈するのも、不可能ではないでしょうが、いささか苦しいものがあります。

(2) 「しかしながら。とにかく」(小学館『独和大辞典 第 2 版』)と、前文に対して否定的な意味にとる。(なお、相良守峯『大独和辞典』には、副詞としてこの意味が記載されていないのは、残念です)
 この意味での indessen については、グリム『ドイツ語辞典』は、、
 「また、弱く、たんにぼんやりと存する対立を示す(auch verblaszt, nur einen bestehenden leisen gegensatz bezeichnend)」
と述べています。
 拙訳では indessen を、この (2) の弱い対立を示す意味にとって、「~の方は・・・というわけだ」としています。すなわち、「 ぼくの方は、スピノザ主義者になったというわけだ」の文と、その直前の文「ぼくたちは、人格的本質以上へと達するのだ」を一体としてとらえ、それが、その前に登場しているヘーゲルの考え――道徳的証明は人格的本質には至らないとはしながらも、まだ、人格的本質に拘泥する考え――と、「対立(対比)を示す」のが indessen だとの解釈です。
 なお、この手紙のすこし前の箇所でも、シェリングは indessen の語を用いています:
   「だがそれ [=ラインホルトの試み] もまた(Indessen war auch das eine Stufe, . . . )、学問が越えていかねばならなかった 1 つの段階だった」。
 この indessen は、明らかに「対立」の意味ですが、このことも傍証になるのではないかと思います。

(*16) 原文は Nicht-Ich で、直訳すれば「非-自我」(つまり、自我でないもの)」です。伝統的に、「非我(あるいは、非-我)」と訳されています。
 もともとフィヒテが、彼の「知識学」において導入した用語ですが、ここでのシェリングは簡便に、俗流的に用いており、フィヒテ的ではありません。といいますのは、フィヒテによれば――
 根源的(超越論的)な自我 [これを A とします(訳者)] ――シェリングの用語では「絶対的自我」ないし「純粋な絶対的自我」――は、自らを措定します。このとき、措定された自我 [B とします] は、自らでないもの(非我)によって制限を受けます。したがって、非我というのは、非-B の意味なのです。(なお、根源的自我 A は、自我 B と非-B をともに自らの内に含みます。
 しかし、シェリングは「自我 A」の意味で「絶対的自我」という用語を使っておきながら、それに「非我」を対立させます。このようなは「非我」は、フィヒテの用法からすれば非-B であらざるをえず、シェリングのいうような「絶対的客観」などにはなりようがありません。
 ちなみに、シェリングがこの手紙を書いたときには、彼はすでに『全知識学の基礎』(1794年)の前半を入手しており(1795-1-6 付のヘーゲル宛手紙を参照)、読んでいたはずです。

(*17) sintemal (~がゆえに)などと、力の入ったこの「 」内の名文句は、どうやらシェリングちゃんの自家製のようです。Briefe von und an Hegel の版にも、F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, さらには F. W. J. Schelling. Briefe und Dokumente, hrsg. von H. Fuhrmans の版にも、この文句に注はついていません。また、グーグルで "sintemal sie durch das Objekt" を検索しても、この手紙以外にはでてこないんです。

(*18) 「永遠に可能ではない」ものへ、「接近」していくというカント=フィヒテ的発想を、やがてシェリングは捨てます。例えば:
 「フィヒテの哲学は・・・発展すればするほどますます・・・
[・] [主観性=客観性] の] 同一性を、絶対的かつ自体的なもの(an sich)として、無限な課題の対象や絶対的要請の対象とするように、
[・] そして、このような仕方で思弁からすべての実質(Substanz)を引きぬいた後、思弁そのものを抜け殻のごとく置き去りにして、
[・] そのかわりに、カント哲学のごとく絶対性を行為と信仰をつうじて、新たに最深奥の主観性に結合するように、
見えたのである」。(『自然哲学についての考察』の「緒論への付記」(1803 年). S. W., II, S. 72)

(*19) この文言は、ヘーゲルからの前便(1975 年 1 月末)中の、以下の文章に応じたものです:
 「君 [シェリング] の印刷した冊子を、君はぼくに送ってくれてはないが―― [ヘーゲルに] 郵送料金のかかることを心配したのであれば、それは無用だった。その冊子を、手紙郵便(Briefpost)としてではなく、[早く確実に届く] 郵便馬車で送ってほしい! その冊子は、ぼくには非常に大切なものとなるだろう。」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 16. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 18.)
 なお、「冊子(die Bogen)」とは、編集者注5 (S. 436) によれば、シェリングの『哲学一般の形式の可能性について(Über die Möglichkeit einer Form der Philosophie überhaupt)』が掲載されたものです。ちなみに、編集者注ではこの論文を 1795 年の出版としていますが(F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 270 の編集者注18,13 でも)、ふつうは 1794 年だとされます。(なお、シェリングの論文の跋文(ばつぶん。NachSchrift)は、1794 年 9 月 9 日付です。)

(*20)) Renz, Karl Kristoph (1770 - 1829) ヘーゲルやヘルダーリンのグループに属していた、秀才です。(F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S.268 の編集者注13,30-1 および S. 270 の編集者注19,29 を参照)
 ヘーゲルは前便(1975 年 1 月末)で、以下のように書いています:
 「レンツはどうしている? 彼の性格のうちには、不信感みたいなものがあるようだ。それで自分のことは話さないし、自分だけでするし、人のために何かする労苦には価値を見いださない。また、まずいことはもうどうしようもないと思っている。君の友情で、彼を現行の神学を論ばくする活動へと、促がすことはできないのだろうか。」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 18. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 19f.)
 また、1794-12-24 付の手紙でも、ヘーゲルは彼に言及しています:
 「レンツは、一体どうしている?・・・」(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 16. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 13f.)

(*21) この箇所の原文は、以下のとおりです:
 Seit einiger Zeit habe ich das Studium der Kantischen Philosophie wieder hervorgenommen, um s[eine] wichtige[n] Resultate auf manche uns noch gang und gäbe Idee anwenden zu lernen . . .Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 16. [ ] は、編集者の挿入。/ F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 18.)

 しかし、拙訳とは異なり、小島訳では上記引用文の箇所は次のようになっています:
 「先頃以来僕は又カント哲学の研究を取り出した。カントの重要結論を僕達がなお抱懐しているいくつかの理念に適用することを研究し・・・」(小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』、18 ページ)

(1) 小島訳では、他人が行った「カント哲学の研究」を、「又・・・取り出した」ように読めます。しかし、この「研究(das Studium)」には誰が行った研究かが、示されていないのですから、ヘーゲル自身の研究だと思います。

(2) そうすると、hervorgenommen は「取り出した」ではなく、「取り組みだした」の意味になります。

(3) 引用文中の manche を、小島訳では「いくつかの」としていますが、ふつうに「かなり多くの」とか「少なからぬ」とすべきでしょう。

(4) 引用文中の gang und gäbe は熟語で、「世に行われている。習慣的な。普通の」という意味です(相良守峯『大独和辞典』の gang の項目)。
 したがって、uns noch gang und gäbe Idee というのは、小島訳のような「僕達がなお抱懐しているいくつかの理念」といった高級なものではなく、たんに「ぼくたちの間でいまだふつうに使われている観念」だと思います。
 そしてこの「通俗的な多くの観念」が、訳注の (*4) で引用した文中では、「より一般的に使用できる諸概念(allgemeiner brauchbare Begriffe)」と、言いかえられているのでしょう。

(5) 小島訳では das Studiumlernen をどちらも「研究」と訳したため、文意が混乱することになりました。

(*22) 道徳的信仰(moralischer Glaube)とは:
 「カントの用語。理性信仰、理性宗教、道徳宗教とほぼ同義。・・・基となる思想は『実践理性批判』の<最高善>をめぐる要請論にある。つまり、人間の純粋な実践理性は完全な道徳とそれに見合った幸福の統一(これが最高善)を目指すことを人間に義務づけるが、このとき理性は<神の存在>を不可避的に要請するという。カントはこの道徳的信仰がキリスト教の教会信仰に先立たねばならないという。」(『岩波 哲学・思想事典』、岩波書店、2012 年)

(*23) この推論法とは、シェリングの 1795 年 1 月 Dreikönigsabend (6 日)付の手紙の、以下の箇所で述べられている事態だと思います。(なお、このとき 19 才のシェリングは、テュービンゲン大学に在籍していました。ヘーゲルは同大学を卒業して、スイスのベルンで家庭教師。):
 「[テュービンゲンでは] すべての教義は、今やすでに実践理性の要請だとされている。そして、理論的-歴史的証明がまったく不十分であるところは、実践的(テュービンゲン流)理性が断を下すというわけだ」。(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 14. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 15.)

 なお参考までに、シェリングが上記の手紙でテュービンゲンの守旧派の宗教関係者たちを、非難している箇所を訳出しますと――
 「ぼくの方がどうなっているか、知りたいかい? ――神様、日照り(αυχμοζ)がやって来ました、日照りはすぐにまた、いつもの雑草をはびこらせるでしょう。だれがこの雑草を抜き取るのでしょうか? [という次第だ。] (*25) ――
 ぼくたちは、哲学にすべてを期待していたし、哲学がじっさいにテュービンゲンの精神にまで与えた衝撃は、すぐには無力にならないと信じてもいた。だが、残念ながらそうなのだ。哲学的精神は、当地ではすでに南中してしまった――おそらく、なおしばらくの間は高みを運行するだろうが、その後は加速度的な落下だろう。
 「たしかに、カント主義者は今やごまんといるのだが――子供や赤ん坊の口からも、哲学賛美の言葉が聞こえてくる(*26) ――、しかし、今や我らが哲学者たちは多くのご苦心のあとで、そこまでは哲学と共に [気楽に] 同道できるという地点を(それ以上は、やっかいな哲学なしにはどうにも進めそうにはないのだから)、ついに発見したのだ。その地点に我らが哲学者たちは定着・定住し、小屋を建てた(*27)。その小屋で彼らは安楽に暮らし、それゆえ彼らは主なる神を讃えるというわけだ。この世紀にあっては、誰が彼らをそこから追い払うというのだろう? 彼らが定着してしまったところから、* * [= 悪魔] にでもさらわれてしまうがいい!
 「要するに、彼らはカントの体系からいくつかの要素を取りだし(むろん表面的に)、それらから――あたかも機械仕掛けで [もたらすか] のように(tamquam ex machina)――、神学上のどんなテーマ(quemcunque locum theologicum)についてもこってりとした哲学的スープを作り上げるのだ。すでに衰弱しはじめた神学を、さあすぐにもこれまで以上に健康・壮健に、闊歩させるために。
 「すべての教義は、今や実践的理性の要請だとされている。そして、理論的-歴史的証明がまったく不十分であるところは、実践的(テュービンゲン流)理性が断を下すというわけだ。こうした哲学の英雄たちの大勝利を、彼らと一緒に眺めるのも乙なものだ。書かれているところの(*28) 哲学の試練の時代は、今では過ぎ去ったということなのだ!」 (Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 13f. / F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 15f.)

(*24) このように、シェリングとスピノザ哲学は根本的に対立するのですが、両者が親近性も示すことは、編集者注4 で指摘されています(Briefe von und an Hegel, Bd. 1, S. 436):
 「シェリング著『独断論と批判主義についての [哲学的] 書簡集([Philosophische] Briefe über Dogmatismus und Kritizismus)』 [1795 年] の第 8 書簡、第 16 段落を参照:
 『私たちの諸理念が高まり達しえる最高のものは、明らかに、まったく自足的にただ自らの存在をのみ享受するところの本質的存在(Wesen)である。この本質的存在のうちでは、すべての受動性(Passivität)は已(や)む。この本質的存在は何ものに対しても、諸法則に対してさえも受動的には振るまわず、絶対に自由に、ただ自らの存在のみに即して行為する。そして、この本質的存在の唯一の法則は、自らの本質(Wesen)なのである。
 『デカルトとスピノザ――このような理念について人が語るときには、今にいたるまでほとんど貴方がたの名しか、人は挙げることができない! ただわずかな者だけが、彼らを理解したのであり、理解しようと望んだ者もあまりいなかったのである。』」
 (なお、SW版のシェリング全集では、上記引用文中の「唯一の法則(einziges Gesetz)」が、「統一的法則(einiges Gesetz)」となっています。拙訳では、前者の方をとりました。 )

(*25) ここでシェリングは、自分たちを「雑草」に喩(たと)えて、茶化して述べているのでしょう。

(*26) F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 269 の編集者注 15,20 によれば、讃美歌からの引用のようです。

(*27) F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 269 の編集者注 15,23 によれば、新約聖書からの引用のようです。

(*28) F. W. J. Schelling. Historisch-Kritische Ausgabe, Bd. III, 1. S. 269 の編集者注 15,35 によれば、新約聖書からの引用のようです。


(草稿初出:2013 年 8 月)
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