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要請 Postulat> v. 1.2.

 この「要請」という語は、カントが「実践理性の要請」、つまり、「実践的理性要請すること」というフレーズで使ったことで、有名になりました。

語義
 哲学用語としての「要請」というのは:
・「議論や推論を行うための、また何かを信じるための基礎・土台として、真実だと想定されているもの」(Oxford Dictionary of English, 2nd ed.)、
・つまり、「理論や思考過程の出発点として、またそれらの必要不可欠な前提として、はたらいている仮定や命題。これらの仮定や命題は、証明されていないか、証明はできない」(Duden Deutsches Universalwörterbuch, 6. Auflage
という意味です。

 また、上記の意味で Postulat が数 学で使われるときには、ふつう「公準(公理)」と訳されます。

 ラテン語の postulare (動詞「要求する。要請する」の能動・不定法。辞書の見出し語となる直説法・現在・1人称・単数は postulo)がもとになり、postulat- から派生したとされます(前記 ODE)。

カントの用法
  カントの『実践理性批判』(つまり、「実践的理性への批判」の意味です)の「序文(Vorrede)」での脚注で、以下のように言われています:
 「純粋な実践的理性の『要請(Postulat)』という表現は、純粋数学の『公準(Postulate, Postulat の複数形)』がもっている意味と混同するときには、大きな誤解を引きおこすおそれがある。純粋数学の公準は、明白な確実性をもっている。そしてこれらの公準は、行為が可能であることを要請するのだが、この行為の対象については、理論的かつアプリオリに、完全な確実性をともなって、あらかじめ可能であると認識されているのである(*1)
 「しかし、純粋な実践的理性の場合は、対象(神や心の不死)そのものの可能性 [= 可能であること] が、明白な実践的諸法則にもとづいて要請される。したがって、たんに実践的理性のために要請されるのである。というのも、要請された [対象(神や心の不死)の] 可能性の確実性は、まったく理論的ではなく、それゆえ明白でもない、つまり、対象に関して認識された必然性ではないからである。そしてこの確実性は、実践的理性の客観的ではあっても実践的な [つまり理論的ではない] 諸法則を、順守するために必要な主観に関する想定であって、つまりは、たんに必要な仮定だからである。
 「この主観的ではあるが、しかし真実でありまた絶対的でもある、理性の必要事については、『要請』以上に適切な表現を見つけることが、私にはできなかったのである」。
 (Kritik der praktischen Vernunft,Felix Meiner Verlag, 2003, S. 14. また、
オンライン上のテキストの場合は、そのサイト内で Aber der Ausdruck の語句で検索。)

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(*1) この文は、抽象的にしか述べていなくて分かりづらいのですが、およそ次のような文意だろうと思います:
 純粋数学――要するに、中学・高校での数学を想像すれば十分だと思います――での公準は、例えば「2 点間をとおる線で、最短なものは直線である」は、証明することができない。しかし、それら公準がなくては、数学は成りたたないので、公準は真理だとして要請されている。
 ところで、公準が述べている事態が、例えば「直線は 2 点間をとおる最短な線である」が、正しい(真である)ことは明らか(自明。ア・プリオリ)である。ただ、それが真であることを示すには、確かめる「行為」が、前記の場合にはいろいろ作図してみることが、必要である。
 そこで一般的に、「公準が要請されている」とき何が要請されているかといえば、前記のような「行為」を行うことが可能であるということなのである。

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 鑑賞の手引き(笑):『実践理性批判』からのこの引用箇所では、現代数学の観点からカントの数学観を批判するのは、ヤボというものです。カントが実践的理性の要請ということを説明するにあたって、数学の公準と対比させ、「行為の可能性」と「対象の可能性」といういささか意表を突く道具立てで、論じ切る手際が見どころとなります。爽快な趣があり、私などはやはり拍手ということになります。
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