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   イツ観念論関係の誤訳について(5) v. 1.3.0.

           ヘーゲル精神の現象学』の
     「緒論
(Einleitung)



はじめに 誤解を避けるために、御一読をお願いします。
凡 例 

(なお、この「緒論」の拙訳も、参考にしていただけると幸甚です)


目 次
   ・H, 52/K, 76/GW, 53-54/Werke, 69
   ・H, 54/K, 79/GW, 55/Werke, 71
   ・H, 55/K, 80/GW, 55/Werke, 72
   ・H, 55/K, 80/GW, 55/Werke, 72
   ・H, 55/K, 80-81./GW, 55/Werke, 72
   ・H, 55/K, 81/GW, 56/Werke, 72-73
   ・H, 55-56/K, 81/GW, 56/Werke, 73
   ・H, 56/K, 82/GW, 56/Werke, 73
   ・H, 56/K, 82/GW, 57/Werke, 74
   ・H, 57/K, 83/GW, 57/Werke, 74
   ・H, 57/K, 83/GW, 57/Werke, 74
   ・H, 57/K, 84/GW, 57/Werke, 75
   ・H, 59/K, 86/GW, 58/Werke, 76
   ・H, 61/K, 89/GW, 60/Werke, 78
   ・H, 62/K, 91/GW, 61/Werke, 80


H, 52/K, 76/GW, 53-54/Werke, 69.

★ H での個所:「認識のことを『策略』などと・・・見えるからである」。
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「なぜ『詭計』かというに・・・しているのだからである」。

◆ 原文は:
 . . . denn eine List wäre in diesem Falle das Erkennen, da es durch sein vielfaches Bemühen ganz etwas anderes zu treiben sich die Miene gibt, als nur die unmittelbare und somit mühelose Beziehung hervorzubringen.

☆ 拙訳では:
 なぜなら、この場合の認識は、策略ということになるだろうから。というのも、認識はいろいろと骨折ることによって、[絶対なものとの] ただ直接的で、したがってたやすい関係を作ることとはまったく別のことを、しているそぶりをするからである。

☆ 訳出のポイントは:
sich die Miene gibt (<geben) は、「・・・ような風をする(を装う)」という意味です(相良守峯『大独和辞典』、Miene の項目)。
Miene の説明が、 ganz etwas anderes zu treiben です。
anderes zu treibenanderes を、後の als が受けて、「とは別の」という意味になっています。
・本来であれば、Miene を説明する ganz etwas anderes zu treiben は、
Miene の後ろに付くはずです。しかし、後ろには als nur . . . hervorzubringen という長い zu 不定詞句を付けざるをえないので、文のスタイルの観点から、ganz . . . zu treiben Miene の前に持ってきたのでしょう。

(初出 2008.2.22, v. 1.2)  (目次)

H, 54/K, 79/GW, 55/Werke, 71.

★ H での個所:「意味は周知のところだと言い、だれでもその概念が分かっている、と称することは、概念をきちんと提示するという肝心な作業をおこたるための口実にしかなっていないようなのだ。
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「なぜなら、一方ではこれらの語の意味は一般によく知られていると言いふらし、他方では自分でもそれらの概念をもっていると言いふらすのは、この概念を与えるという主要課題は、これを省略せんとするつもりとしか見えないからである。

◆ 原文は:
 Denn das Vorgeben, teils das ihre Bedeutung allgemein bekannt ist, teils auch dass man selbst ihren Begriff hat, scheint eher nur die Hauptsache ersparen zu sollen, .nämlich diesen Begriff zu geben.

☆ 拙訳では:
 というのは、それらの言葉の意味は広く知られているとか、人々はそれらの理解をもしているという口実によって、むしろ肝心なことを――すなわち、この理解を提供することを――、たんにしないで済まそうとするように見えるからである。しかしそれよりも適切なのは・・・。

☆ 訳出のポイントは:
 
Begriff にはいろいろな意味がありますが、ここでは「理解」だと思います。といいますのは、自然に考えるとき――
 「それらの言葉の意味は広く知られている」という口実に、さらに付け加わってくるのは、<人々はそれらの意味をも「理解」している>という口実だと思われます。もし、「概念」が登場するとすれば、この後でしょう。つまり、人々の理解とは何か? 知的直観のようなものか、あるいは哲学的な概念によるものか、云々。
 したがって、このような場面で人々が「理解」を飛び越して「概念」を口実にするとは、ヘーゲルも考えなかったと思います。

 なお、「肝心なこと――すなわち、この
Begriff を提供すること」はヘーゲルの主張ですが、この Begriff はヘーゲル的な概念でもありえません。といいますのは、『精神の現象学』は、単行本としては彼の処女作です。したがって彼の思想は世間一般にはまだ知られていず、そのような本の「緒論」で彼流の「概念」を突然、説明抜きで持ちだしてくることはないからです。

(初出 2012.1.9, v. 1.1) (目次)      

H, 55/K, 80/GW, 55/Werke, 72.

★ H での個所:「魂が、その本性にしたがって設置された宿駅さながらに・・・」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「・・・魂(ゼーレ)が己の本性によって予め設けられている駅々としての・・・」

◆ 原文は:
  . . . als durch ihre [= der Seele] Natur ihr vorgeschickter Stationen . . .

☆ 拙訳では:
 ・・・魂の本性にしたがって設けられた参詣(けい)所としての・・・

☆ 訳出のポイントは:
 文中の
Stationen は、「宿駅」とか「駅々」ではなく、例えば「参詣所」と訳さないと、文意がつたわりません。Station の項目を参照して下さい。

(初出 2012.1.16, v. 1.0) (目次)
H, 55/K, 80/GW, 55/Werke, 72.

★ H での個所:「・・・さまざまな魂の形態を・・・精神へと純化を遂げていく道程の・・・」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「・・・魂(ゼーレ)が・・・精神(ガイスト)にまで純化せられるさいの道程で・・・」

◆ 原文は:
  . . . der Weg der Seele, welche die Reihe ihrer Gestaltungen . . . durchwandelt, daß sie [= Seele] sich zum Geiste läutere, . . .

☆ 拙訳では:
 ・・・魂が精神へと純化するために、魂が・・・自分の一連の諸形態を遍歴する道程・・・

☆ 訳出のポイントは:
 原文の
daß 以下は、目的を表す接続法(läutere)になっていますので、「~するために」と訳出しました。そのことにより、魂が精神にまで純化するのは、崇高な当為であるといったニュアンスがでます。この個所をたんに事実の叙述として訳すと、ヘーゲルの文章が平板なものになってしまいます。

(初出 2008.2.24, v. 1.0) (目次)

H, 55/K, 80-81/GW, 56/Werke, 72.

★ H での個所:「自然そのままの意識は、知の可能性をもっているだけで、実際に知を備えているわけではない。が、当初その意識は自分が知を備えていると思いこんでいるから・・・」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「(この道程において)自然的意識は自分が知の概念であるにすぎないことを、言いかえると、実在的知ではないことを、自証するであろう。しかし自然的な意識は直接的にはむしろ自分が実在的知であると思い込んでいるので・・・」

◆ 原文は:
 Das natürliches Bewusstsein wird sich erweisen, nur Begriff des Wissens oder nicht reales Wissen zu sein. Indem es aber unmittelbar sich vielmehr für das reale Wissen hält,

☆ 拙訳では:
 自然な意識は、たんに知の観念であることが、すなわち現実的な知ではないことが明らかとなるであろう。しかし、自然な意識は、かえって自分をそのまま現実的な知だと見なしているので・・・

☆ 訳出のポイントは:
(1)
Begriff いろいろな意味をもちます。ここでは、ふつう日常的に使われる意味での「観念。考え」といった意味でしょう。といいますのは、
 (a) この Begriff の前には nur(たんに)が付いていて、低評価されています。
 (b) また、nicht reales Wissen(現実的な知ではない)だとされており、現実性についてはあっさりと否定されています。
 したがって、ふつう事物の本質を表すとされる「概念」という訳語では、おかしいことになります。

(2) 文中の
unmittelbar は、「直接に」とか「そのまま」の意味です。つまり、自然的な意識は、あれこれと反省してはいず、「そのまま」思い込んでいるだけなわけです。
 unmittelbar を、「直接的に<は>」と訳しますと、「間接的な」側面もあるかのような、文意となります。
 また、「当初」という訳も不適切です。自然な意識は、道程の途中でも終わりでも(最終局面は除いて)、自分を現実的な知だと見なしているのです。

(初出 2012.1.11, v. 1.1.) (目次)

H, 55/K, 81/GW, 56/Werke, 72-73.

★ H での個所:「したがって、知の道をみずから切りひらくこの懐疑主義は、真理と学問に精励するものが自分の武器として十分に使いこなしていると思い込む懐疑主義――学問上の権威ほしさに他人の思想に身をゆだねるのではなく、すべてを自分で吟味し、自分の信念だけにしたがうという懐疑主義、もっといえば、一切をみすから作りだし、自分の行為だけを真なるものとみなす懐疑主義――とは一線を画すものである。
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「いったい真理と学とにたしかにまじめで熱心である人々をして、それらに対する用意も準備も完了したと妄信させるところのものはなにかと言えば、即ち彼らが学においては権威に基づいて他人の思想に屈従するのではなく、一切を自分で吟味し、さらに進んでは自分で創(つく)り出し、ただ自分の業(わざ)のみをもって真理と考えようとする決心であって、彼らはこの決心だけで学に対する用意は完了したと妄信するのであるが、この道程は徹底的に完遂される懐疑論であるから、かかる決心でもないのである。」

◆ 原文は:
 Dieser sich vollbringende Skeptizismus ist darum auch nicht dasjenige, womit wohl der ernsthafte Eifer um Wahrheit und Wissenschaft sich für diese fertig gemacht und ausgerüstet zu haben wähnt; nämlich mit dem Vorsatze, in der Wissenschaft auf die Autorität [hin] sich den Gedanken anderer nicht zu ergeben, sondern alles selbst zu prüfen und nur der eigenen Überzeugung zu folgen oder, besser noch, alles selbst zu produzieren und nur die eigene Tat für das Wahre zu halten.
 (Autorität の後に [hin] を挿入しているのは、Suhrkamp 版です。)

☆ 拙訳では:
 したがって、このように遂行される懐疑主義は、
・学問においては権威ある他人の思想に服することはせず、すべてのことを自分で調べ、自らが確信することだけにしたがうという、決意でもないし、
・あるいは、なおいいことは自らすべてを作りだし、自らが行うことのみを真実なものと考えることだという、決意でもない。
真理や学問について真摯な熱意のある人々は、おそらくこうした決意を持つことで、真理や学問への準備万端は整ったと錯覚をおこすのである。

☆ 訳出のポイントは:
(1) 原文中の womit wo は、直前の dasjenige を受けています。そしてこの wo は、mit dem VorsatzeVorsatze で言いかえられています。

(2) したがって、「このように遂行される懐疑主義は・・・決意Vorsatze)でもない」という文意になります。しかし本当は、「・・・決意Vorsatze)を特徴とする懐疑主義でもない」となるところですが、強調するために文言が短縮されたのでしょう。

(3) 金子武蔵訳では、「この道程は徹底的に完遂される懐疑論であるから、かかる決心でもないのである」となっており、懐疑論と決心の内容が相反するように解しています。しかし、「権威に基づいて他人の思想に屈従するのではなく、一切を自分で吟味し、云々」というのは、既成のものに対する懐疑ですから、懐疑論であることには変わりありません(長谷川宏訳も、懐疑論の一種と解しています)。

(4) 長谷川宏訳は、意訳というか自由訳で、そういう訳もあっていいとは思うのですが、auf die Autorität [hin] を、「権威ほしさに」としているのは、乱暴すぎるでしょう。auf を、「(精神活動としての・・・期待の目標・対象)・・・をめざして」(小学館『独和大辞典 第 2 版』、auf の項目、3, a)の意味にとったようです。
  しかし、auf etwas [hin] が「或るものにしたがって(もとづいて)」という意味ですので、auf die Autorität [hin] は「権威にしたがって(もとづいて)」でしょう。
 (なお、拙訳ではなめらかな日本語にするため、auf die Autorität [hin] sich den Gedanken anderer nicht zu ergeben を、「権威ある他人の思想に服することはせず」と訳しています。)

(初出 2020.12.8, v. 1.1.) (目次)

H, 55-56/K, 81/GW, 56/Werke, 73.

★ H での個所:「学問的な懐疑主義は・・・克服していかねばならないのである。」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「かの決心が・・・現実的な実現である。」

◆ 原文は:
 Jener Vorsatz stellt die Bildung . . . als unmittelbar abgetan und geschehen vor; dieser Weg aber ist gegen diese Unwahrheit die wirkliche Ausführung.

☆ 拙訳では:
 前述の決意は・・・この形成をすぐに片付いて済んだことだと思っている。しかしこの道程は、こうした思い違いに反し、実際に遂行することなのである。

☆ 訳出のポイントは:
(1) 文中の diese Unwahrheit は、vorstellen の内容、すなわち、「die Bildung は、unmittelbar abgetan und geschehen である」を指しています。 むろん、そのように vorstellen するのは Vorsatz ですから、Vorsatz が実際は Unwahrheit となります。しかしそのように訳したのでは、
・内容的に、間遠なものになります。
Vorsatz Jener で形容しているのに、Unwahrheitdiese が形容しており、平仄が合いません。
diese を活かすためにも、Unwahrheit は直前の als unmittelbar abgetan und geschehen vorstellen ことと理解した方が、ヘーゲルの文意に沿うと思います。

(2) abgetan und geschehen は、完了形で過去の出来事を表しています。他方、wirkliche Ausführung は、これからやらねばならないことを含意しています。この両者の時制の対比が、この文章の眼目ですので、これを明確に訳し分ける必要があります。
 なお、「表象する(思っている、vorstellen)」ことと、「現実的な(実際に、wirkliche)」が対比されているのではありません。

(初出 2012.1.16, v. 1.0) (目次)

H, 56/K, 82/GW, 56/Werke, 73. (v. 1.1.)

★ H での個所:「思い込みと偏見の・・・もとづこうと・・・」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「他人の権威に基づいて・・・そうすること・・・」

◆ 原文は:
 Auf die Autorität anderer oder aus eigener Überzeugung im Systeme des Meinens und des Vorurteils zu stecken, . . . .

☆ 拙訳では:
 他人の権威に頼ろうとするのと、自らの確信によって思い込みと先入観の体系にはまり込んでいるのとは・・・

☆ 訳出のポイントは:
 最初の
auf の後に3格があれば、「権威にもとづいて」となります。しかし、4格が来ているのですから、
・「
auf die Autorität anderer zu stecken(他人の権威に頼ること)と、」
・「aus eigener Überzeugung im Systeme des Meinens und des Vorurteils zu stecken(自らの確信によって、思い込みと先入観の体系にはまり込んでいること)とは、・・・」
という文構成になっています。相良守峯『大独和辞典』には、自動詞 「
stecken + auf + 4 格」の文例はありませんが、他動詞ではあります(I, 1, a)。
 意味的にも、「
Meinen(思い込み)の体系」というのは、個人の確信にふさわしく、権威の場合であれば、伝統とか力、支配者の利益などを連想させます。

(初出 2008.2.24) (目次)

H, 56/K, 82/GW, 57/Werke, 74.

★ H での個所:「結論としては・・・見いださず」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「結果のうちに・・・だけを見て」

◆ 原文は:
 . . . der [= der Skeptizismus] in dem Resultate nur immer das reine Nichts sieht. . .

☆ 拙訳では:
 結果において、とにかく純粋な無しか見ない懐疑主義・・・

☆ 訳出のポイントは:
 文中の
nur immer は、「とにかく」とか「ともかく」という意味です。こちらを参照して下さい。 

(初出 2012.1.31, v. 1.0) (目次)

H, 57/K, 83/GW, 57/Werke, 74.

★ H での個所:「だが、意識は自分の・・・自覚しているから・・・」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「しかるに意識は自ら・・・己の概念であり・・・」

◆ 原文は:
 Das Bewußtsein aber ist für sich selbst sein Begriff, . . .

☆ 拙訳では:
 しかし意識は、まさにそれ自体で自らの概念であって・・・

☆ 訳出のポイントは:
 ここでの
für sich selbst は、「まさにそれ自体で(それ自身だけで)」という意味です。
・前文で、「自然的な生のうちに制約されているもの」は、「他のものによって」直接的な存在を越えさせられるとありますが、それに対比されています。
・もしこの für sich selbst が、「対自的に(自覚的に)」の意味だとしますと、
 i) 1ページほど前に書かれている、「[現象する意識である] 表象・思想・考えを調べ始めた意識は、これらによって占められ、取りつかれている。このことによって意識は、行おうとしていることが実のところできない」(GW, Bd. 9, S. 56)ということと、齟齬をきたすことになります。つまり、自然的な現象する意識は、無自覚的に変化・発展の運動をせざるをえないのです。
 ii) ここでは「即自(
an sich)」などは問題にされていず、唐突にヘーゲル用語の「対自(自覚的、für sich)」が登場することになり、読者は理解できないことになります。
 iii) 対自の意味での
für sich を強調するのために、 selbstsich の後に付けているのは、語学的におかしいような気がします。

(初出 2008.2.25, v. 1.1) (目次)
H, 57/K, 83/GW, 57/Werke, 74.

★ H での個所:「意識にとっては、個としての存在とともに彼岸が、たとえそれが限定つきの存在の横に空間的に設定されているにすぎないとしても、ともあれ彼岸が設定されているのだ。」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「意識には個別的なものと共に彼岸が同時に定立せられている。ただし「彼岸」と言うのは、かりに空間的な直観におけると事態が同じであるとした場合のみのことであって、この場合には、彼岸は制限せられたものの傍らに並んで定立せられていることになるが、とにかく個別的なものと共に彼岸が定立されているから・・・」

◆ 原文は:
 . . . mit dem Einzelnen ist ihm[= dem Bewusstsein] zugleich das Jenseits gesetzt, wäre es auch nur, wie im räumlichen Anschauen, neben dem Beschränkten.

☆ 拙訳では:
 意識にとっては個別なものとともに、彼岸が同時に措定されている。たんに空間内での直観であるかのような表現になってしまうが、制約されているものの傍らに措定されているのである。

☆ 訳出のポイントは:
(1) wäre es auch nur, wie im räumlichen Anschauen
は、挿入句になっています。so nur の後に補い、auch nur を省略して、wäre es . . . so, wie im räumlichen Anschauen の文で意味をとると、「それは、空間的直観においてであるかのように」となります。

(2) では何が「空間的直観においてであるかのよう」なのかといいますと、それは直後にきて強調されているneben 傍らに)だとするのが自然ででしょう。

(初出 2021.1.8, v. 1.0) (目次)

H, 57/K, 84/GW, 57/Werke, 75.

★ H での個所:「・・・繊細な感覚が、万物はそれなりに所を得ていると納得して身を固めようとすると、理性の方が割りこんできて、『それなりに』という留保がすでにしてものごとが所を得ていないあかしなのだと告げる」。
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「・・・またもし不安が一切をそれなりに善し in seiner Art gut と見ると『断言』するところの感傷主義として固定し停滞する場合にも、やはりこの『断言』は、或るものがそれなりであるかぎりにおいては、まさにこの理由によって善しとは見ない理性から圧力を蒙るのである」。

◆ 原文は:
 . . . oder daß sie (= die Angst) als Empfindsamkeit sich befestigt, welche alles in seiner Art gut zu finden versichert; diese Versicherung leidet eben so Gewalt von der Vernunft, welche gerade darum etwas nicht gut findet, insofern es eine Art ist.

☆ 拙訳では:
 あるいはこの不安が、「すべてのものは、その種なりに良い」と断言する感傷主義として、腰をすえようとしても、この断言は理性から同じく強制力をこうむる。というのも理性は、或るものが一定の種であるというまさにそのことでもって、或るものを良くないと見るのである。

☆ 訳出のポイントは:
 感傷主義の断言の中で使われた
in seiner Art は、それだけでの意味では、「それなりに」でしょうが、Art は文字どおりには「種(しゅ)。種類」です。この「種」の意味を離れて、ここでの文意は理解できないと思われます。というのも、Art の「種」の意味を使って、理性は感受性の断言に切り返しているのです: welche [= die Vernunft] gerade darum etwas nicht gut findet, insofern es eine Art ist (理性は、或るものが一定の種であるというまさにそのことでもって、或るものを良くないと見るのである。
 そこで Art は、「種」と訳出しておく必要があるでしょう。

 ところで理性は、なぜ或るものが種であることでもって、「或るものを良くないと見る」かということですが――
 『精神の現象学』の「序文」(GW, 40; Werke, 54)で、「彼 [アナクサゴラス] より後の人たちは、存在物の性質をより明確に、エイドス(形相)すなわちイデアとして把握した。すなわち、画定された普遍性
Bestimmte Allgemeinheit)、(しゅ, Art)である」と言われているように、「種」は制約を受けて「画定」されたものです。
 ところが、この引用文のすこし前に、「個別なものとともに、彼岸が同時に措定されている・・・制約されているものの傍らに措定されている」(GW, 57; Werke, 74)とあるように、個別なもの(種)はその制約を越えて出ていかざるをえません。この運動がここでは「理性」と言われています。したがって、理性は制約とは相いれず、制約された種を「良くないと見る」のです


(初出 2021..1.3, v. 1.1) (目次)

H, 59/K, 86/GW, 58/Werke, 76.

★ H での個所:「さて、知の真偽を探求・・・わたしたちの知にすぎないことになる。」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「ところで我々は知が真で・・・知であるにすぎぬであろう。」

◆ 原文は:
 Untersuchen wir nun die Wahrheit des Wissens, so scheint es, wir untersuchen, was es an sich ist. Allein in dieser Untersuchung ist es unser Gegenstand, es ist für uns; und das Ansich desselben, welches sich ergäbe, wäre so vielmehr sein Sein für uns; was wir als sein Wesen behaupten würden, wäre vielmehr nicht seine Wahrheit, sondern nur unser Wissen von ihm.
上記引用文については、『精神の現象学』初版本に忠実なアカデミー版と、ズーアカンプ版では、表記法に違いがありますが、ここでは読みやすさを考えてズーアカンプ版にしたがっています)。

☆ 拙訳では:
 さて、私たちが知の真理を検討するときには、本来的には何が存在するのかということを、検討しているように見える。けれども、この検討において存在しているのは私たちの対象であって、私たちに対しているものが存在するのである。そこで、生じるものの本来のものは、むしろこの生じるものの私たちに対する存在であろう。私たちがこの生じるものの本質と主張するものは、むしろ生じるものの真理ではなくして、たんに生じるものについての私たちの知であろう。

☆ 訳出のポイントは:
1) 
es が多用されていますが、その意味が問題となります。赤字で示した es は、es ist(~がある)という存在を示す es だと思います。したがって、緑字で示した sein ならびに ihm も「知の」ではなくして「生じるもの(desselben, welches sich ergäbe)」を意味します。
 諸家の訳では、これらの
esWissen(知)としたために、文意が通じなくなっているのではないでしょうか。
 存在を示す
es は、引用した文章の段落の直前の段落にも、出てきています:
 
es ist etwas für dasselbe; (意識に対して或るものがある)(注1)

2) 拙訳では、
es ist für unses も存在を示す es だと解釈していますが、そうすると次の für uns は名詞の働きをしていることとなります。これは破格ですが、
 (i) 直前に
ist es ~ という同じ構文があるので、文章として可能になっています。
 (i) 直前の段落には、
die Seite dieses an sich heißt . . . と、an sich も名詞として使われています。(注2)

-------------------------------
(注1) アカデミー版全集第9巻、64ページ、上から 13 行目。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第3巻、76ページ、上から 9 行目。
(注2) アカデミー版全集第9巻、64ページ、上から 19 行目。
 ただし、ズーアカンプ版では、
an sichAnsich と名詞の表記にしています。これは同版の編集者が直したと思われます。(第3巻、76ページ、上から 9 行目)

(初出 2011.10.16, v. 1.1.)  (目次)

H, 61/K, 89/GW, 60/Werke, 78.

★ H での個所:「意識が知のもとでも・・・呼ばれるものである。」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「右のごとく意識は・・・呼ばれているところのものである。」

◆ 原文は:
 Diese dialektische Bewegung, welche das Bewusstsein an ihm selbst, sowohl an seinem Wissen, als an seinem Gegenstand ausübt, insofern ihm der neue wahre Gegenstand daraus entspringt, ist eigentlich dasjenige, was Erfahrung genannt wird.

☆ 拙訳では:
 こうした弁証法的運動を、意識は自らにおいて、[すなわち] 自らの知においてと同様に、自らの対象においても行うのだが――新しい真なる対象が、この運動から意識に対し生みだされるかぎり――、この運動は要するに、経験と呼ばれるものである。

☆ 訳出のポイントは:
 挿入されている
insofern ihm der neue wahre Gegenstand daraus entspringt が修飾するのは、その前の文なのか、あるいは後の文なのかという問題です。
 内容的にみますと、弁証法的運動が続くのは、新しい対象が現われる限りにおいてですから(現われなくなったときは、絶対知であり、そこで目的に到達したことになり、一応運動も停止します)、前の文を修飾するといえます。
 また、文章の流れの面でも、訳者の感覚では、前の文にかけて読みたいところです。

(初出 2012.2.14, v. 1.0.) (目次)

H, 62/K, 91/GW, 61/Werke, 80.

★ H での個所:「・・・独自の形をとって・・・あらわれることはない。」
  -------------------------------------------------------
  K での個所:「・・・この真理の諸契機が・・・限定において現れてくる・・・」

◆ 原文は:
 . . . so dass die Momente derselben in dieser eigentlichen Bestimmtheit sich darstellen, nicht abstrakte, reine Momente zu sein, . . .

☆ 拙訳では:
 ・・・その結果、経験のもつ諸契機は各契機に固有の規定性において、抽象的で純粋な契機としてではなく・・・表れる。

☆ 訳出のポイントは:
(1) 引用文中の
derselben が何を指示するかですが、経験を指すように思われます。といいますのは、
  a) この副文に対する直前の主文は、次のようになっています:
 Die Erfahrung, welche das Bewusstsein über sich macht, kann ihrem Begriffe nach nichts weniger in sich begreifen, als das ganze System desselben (= des Bewusstseins), oder das ganze Reich der Wahrheit des Geistes,
 この主文の主語は Erfahrung(経験) であり、また、その直前の文では Wissenschaft der Erfahrung des Bewusstseins (強調は原文)ということが言われていました。つまり、この文脈においては、経験が主題になっています。そこで文の流れからすると、derselben は経験を指すのではないでしょうか。

 b) それに対し、引用した主文中の Wahrheit を指すとの解釈も可能です。しかしながら、ここでの Wahrheit の語は、直後の Geist の強調・修飾として使われており、いわば副次的な役割しか持たされていません。つまり、Wahrheit des Geistes は、その前の desselben (= des Bewusstseins)の言い換えとしてしか登場して来ていません。したがって、die Momente der Wahrheit と書く理由はないと思います。

(2) 引用した so dass 以下の副文中の dieser ですが、この語は比較的近接したものを指すので、その前の die Momente(諸契機)を意味するのでしょう。つまり、各契機はそれぞれが固有の規定性を持っているということです。

(初出 2012.2.27, v. 1.0.) (目次)

 例  

・長谷川宏訳(作品社、2000年)と金子武蔵訳(岩波書店、昭和46年)の双方で、ともに不適切と思われる訳がされている個所を、取り上げました。

H は、長谷川訳を、
 K は、金子訳を、
 GW は、『アカデミー版ヘーゲル全集』第9巻を、
 Werke は、『ズーアカンプ版ヘーゲル全集』第5巻を、指します。

・その次の数字は、ページ数です。

・原文からの引用は、『アカデミー版ヘーゲル全集』第9巻に基づくマイナー社の Studienausgaben の『精神の現象学』に拠りました。

・ [  ] 内は私の挿入です。

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