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   イツ観念論関係の誤訳について(5) v. 1.2.7.

           ヘーゲル精神の現象学』の
     「緒論
(Einleitung)



はじめに 誤解を避けるために、御一読をお願いします。
凡 例 

 (なお、拙訳も参考にしていただけると幸甚です)


目 次

   ・H, 062/K, 91/GW, 61/Werke, 80
   ・H, 061/K, 89/GW, 60/Werke, 78
   ・H, 059/K, 86/GW, 58/Werke, 76
   ・H, 057/K, 84/GW, 57/Werke, 75
   ・H, 057/K, 84/GW, 57/Werke, 74-75
   ・H, 057/K, 83/GW, 57/Werke, 74
   ・H, 056/K, 82/GW, 57/Werke, 74
   ・H, 056/K, 82/GW, 56/Werke, 73
   ・H, 056/K, 82/GW, 56/Werke, 73
   ・H, 055/K, 81/GW, 56/Werke, 72
   ・H, 055/K, 81/GW, 56/Werke, 72
   ・H, 055/K, 80/GW, 55/Werke, 72
   ・H, 055/K, 80/GW, 55/Werke, 72
   ・H, 054/K, 79/GW, 55/Werke, 71
   ・H, 052/K, 76/GW, 53-54/Werke, 69


H, 062/K, 91/GW, 61/Werke, 80.
★ H での個所:「・・・独自の形をとって・・・あらわれることはない。」
  K での個所:「・・・この真理の諸契機が・・・限定において現れてくる・・・」

☆ 拙訳では:
 ・・・その結果、経験のもつ諸契機は各契機に固有の規定性において、抽象的で純粋な契機としてではなく・・・表れる。

◆ 原文は:
 . . . so dass die Momente derselben in dieser eigentlichen Bestimmtheit sich darstellen, nicht abstrakte, reine Momente zu sein, . . .

☆ 訳出のポイントは:
(1) 引用文中の
derselben が何を指示するかですが、経験を指すように思われます。といいますのは、
  a) この副文に対する直前の主文は、次のようになっています:
 Die Erfahrung, welche das Bewusstsein über sich macht, kann ihrem Begriffe nach nichts weniger in sich begreifen, als das ganze System desselben (= des Bewusstseins), oder das ganze Reich der Wahrheit des Geistes,
 この主文の主語は Erfahrung(経験) であり、また、その直前の文では Wissenschaft der Erfahrung des Bewusstseins (強調は原文)ということが言われていました。つまり、この文脈においては、経験が主題になっています。そこで文の流れからすると、derselben は経験を指すのではないでしょうか。

 b) それに対し、引用した主文中の Wahrheit を指すとの解釈も可能です。しかしながら、ここでの Wahrheit の語は、直後の Geist の強調・修飾として使われており、いわば副次的な役割しか持たされていません。つまり、Wahrheit des Geistes は、その前の desselben (= des Bewusstseins)の言い換えとしてしか登場して来ていません。したがって、die Momente der Wahrheit と書く理由はないと思います。

(2) 引用した so dass 以下の副文中の dieser ですが、この語は比較的近接したものを指すので、その前の die Momente(諸契機)を意味するのでしょう。つまり、各契機はそれぞれが固有の規定性を持っているということです。(目次)
(初出 2012.2.27, v. 1.0.)


H, 061/K, 89/GW, 60/Werke, 78.
★ H での個所:「意識が知のもとでも・・・呼ばれるものである。」
  K での個所:「右のごとく意識は・・・呼ばれているところのものである。」

☆ 拙訳では:
 こうした弁証法的運動を、意識は自らにおいて、[すなわち] 自らの知においてと同様に、自らの対象においても行うのだが――新しい真なる対象が、この運動から意識に対し生みだされるかぎり――、この運動は要するに、経験と呼ばれるものである。

◆ 原文は:
 Diese dialektische Bewegung, welche das Bewusstsein an ihm selbst, sowohl an seinem Wissen, als an seinem Gegenstand ausübt, insofern ihm der neue wahre Gegenstand daraus entspringt, ist eigentlich dasjenige, was Erfahrung genannt wird.

☆ 訳出のポイントは:
 挿入されている
insofern ihm der neue wahre Gegenstand daraus entspringt が修飾するのは、その前の文なのか、あるいは後の文なのかという問題です。
 内容的にみますと、弁証法的運動が続くのは、新しい対象が現われる限りにおいてですから(現われなくなったときは、絶対知であり、そこで目的に到達したことになり、一応運動も停止します)、前の文を修飾するといえます。
 また、文章の流れの面でも、訳者の感覚では、前の文にかけて読みたいところです。(目次)
(初出 2012.2.14, v. 1.0.)


H, 059/K, 86/GW, 58/Werke, 76.
★ H での個所:「さて、知の真偽を探求・・・わたしたちの知にすぎないことになる。」
  K での個所:「ところで我々は知が真で・・・知であるにすぎぬであろう。」

☆ 拙訳では:
 さて、私たちが知の真理を検討するときには、本来的には何が存在するのかということを、検討しているように見える。けれども、この検討において存在しているのは私たちの対象であって、私たちに対しているものが存在するのである。そこで、生じるものの本来のものは、むしろこの生じるものの私たちに対する存在であろう。私たちがこの生じるものの本質と主張するものは、むしろ生じるものの真理ではなくして、たんに生じるものについての私たちの知であろう。

◆ 原文は:
 Untersuchen wir nun die Wahrheit des Wissens, so scheint es, wir untersuchen, was es an sich ist. Allein in dieser Untersuchung ist es unser Gegenstand, es ist für uns; und das Ansich desselben, welches sich ergäbe, wäre so vielmehr sein Sein für uns; was wir als sein Wesen behaupten würden, wäre vielmehr nicht seine Wahrheit, sondern nur unser Wissen von ihm.
上記引用文については、『精神の現象学』初版本に忠実なアカデミー版と、ズーアカンプ版では、表記法に違いがありますが、ここでは読みやすさを考えてズーアカンプ版にしたがっています)。

☆ 訳出のポイントは:
1) 
es が多用されていますが、その意味が問題となります。赤字で示した es は、es ist(~がある)という存在を示す es だと思います。したがって、緑字で示した sein ならびに ihm も「知の」ではなくして「生じるもの(desselben, welches sich ergäbe)」を意味します。
 諸家の訳では、これらの
esWissen(知)としたために、文意が通じなくなっているのではないでしょうか。
 存在を示す
es は、引用した文章の段落の直前の段落にも、出てきています:
 
es ist etwas für dasselbe; (意識に対して或るものがある)(注1)

2) 拙訳では、
es ist für unses も存在を示す es だと解釈していますが、そうすると次の für uns は名詞の働きをしていることとなります。これは破格ですが、
 (i) 直前に
ist es ~ という同じ構文があるので、文章として可能になっています。
 (i) 直前の段落には、
die Seite dieses an sich heißt . . . と、an sich も名詞として使われています。(注2)

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(注1) アカデミー版全集第9巻、64ページ、上から 13 行目。ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第3巻、76ページ、上から 9 行目。
(注2) アカデミー版全集第9巻、64ページ、上から 19 行目。
 ただし、ズーアカンプ版では、
an sichAnsich と名詞の表記にしています。これは同版の編集者が直したと思われます。(第3巻、76ページ、上から 9 行目)(目次)
(初出 2011.10.16, v. 1.1.)


H, 057/K, 84/GW, 57/Werke, 75.
★ H での個所:「・・・またもし不安が一切を・・・理性から圧力を蒙るのである」。
  K での個所:「・・・繊細な感覚が、万物は・・・あかしなのだと告げる」。

☆ 拙訳では:
 あるいは、この不安感がすべてをそれなりに(in seiner Art, 直訳は「その種類において」)良しと断言するような感受性として、落ち着きをえようとしても、この断言は同じように理性から暴力をこうむるのである。理性は、或るものがまさに [限定されている] 或る種類(eine Art)に属することをもって、それを良くないと見るのである。

◆ 原文は:
 . . . oder daß sie (= die Angst) als Empfindsamkeit sich befestigt, welche alles in seiner Art gut zu finden versichert; diese Versicherung leidet eben so Gewalt von der Vernunft, welche gerade darum etwas nicht gut findet, in so fern es eine Art ist.

☆ 訳出のポイントは:
・ Angst(不安感)が行う sich befestigen は、直訳すれば「強固になる」ですが、内容的には、この引用分の前の文章に出てきた Ruhe finden (安心を見いだす)だと思います。つまり、不安感が静まることで、直訳とは反対の意味になります。そこで、「落ち着く」と訳出しました。
それなりに(in seiner Art)良い」ものが、なぜ eine Art(種類) であることもって、理性から否定されるのかという理由が問題で、それによって訳も変わってきます。理性は普遍的なものを対象としますが、種類というのは他の種類と並立する限定されたものですから、そのために理性から否定されるのでしょう。
(目次)
(初出 2008.2.13, v. 1.1)


H, 057/K, 84/GW, 57/Werke, 74-75.
★ H での個所:「この力を感じると、真理を・・・」
  K での個所:「もっとも、この圧力を感ずるに・・・」

☆ 拙訳では:
 この暴力を感じると、真理に対する不安感があるいはぶり返し、不安感から、まさに失おうとしているものを維持しようとするかもしれない。

◆ 原文は:
 Bei dem Gefühle dieser Gewalt mag die Angst vor der Wahrheit wohl zurücktreten, und sich dasjenige, dessen Verlust droht, zu erhalten streben.

☆ 訳出のポイントは:
 „die Angst vor ~“
は、「~への恐れ」の意味です。Angst I」の用例に、「vor et. Angst haben: ・・・が怖い」があります。
 問題は zurücktreten で、辞書には文意に合うような適切な訳がありません。そこで zurück(副詞)の 2 を見ますと、「(元の場所へ)戻って、引き返して」があります。この意味ですと、zurücktreten は「立ち戻って」になりますので、「ぶり返し」と訳出しました。(目次)
(初出 2008.2.12, v. 1.0)


H, 057/K, 83/GW, 57/Werke, 74.
★ H での個所:「だが、意識は自分の・・・自覚しているから・・・」
  K での個所:「しかるに意識は自ら・・・己の概念であり・・・」

☆ 拙訳では:
 しかし意識は、まさにそれ自体で自らの概念であって・・・

◆ 原文は:
 Das Bewußtsein aber ist für sich selbst sein Begriff, . . .

☆ 訳出のポイントは:
 ここでの
für sich selbst は、「まさにそれ自体で(それ自身だけで)」という意味です。
・前文で、「自然的な生のうちに制約されているもの」は、「他のものによって」直接的な存在を越えさせられるとありますが、それに対比されています。
・もしこの für sich selbst が、「対自的に(自覚的に)」の意味だとしますと、
 i) 1ページほど前に書かれている、「[現象する意識である] 表象・思想・考えを調べ始めた意識は、これらによって占められ、取りつかれている。このことによって意識は、行おうとしていることが実のところできない」(GW, Bd. 9, S. 56)ということと、齟齬をきたすことになります。つまり、自然的な現象する意識は、無自覚的に変化・発展の運動をせざるをえないのです。
 ii) ここでは「即自(
an sich)」などは問題にされていず、唐突にヘーゲル用語の「対自(自覚的、für sich)」が登場することになり、読者は理解できないことになります。
 iii) 対自の意味での
für sich を強調するのために、 selbstsich の後に付けているのは、語学的におかしいような気がします。(目次)
(初出 2008.2.25, v. 1.1)


H, 056/K, 82/GW, 57/Werke, 74.
★ H での個所:「結論としては・・・見いださず」
  K での個所:「結果のうちに・・・だけを見て」

☆ 拙訳では:
 結果において、とにかく純粋な無しか見ない懐疑主義・・・

◆ 原文は:
 . . . der [= der Skeptizismus] in dem Resultate nur immer das reine Nichts sieht. . .

☆ 訳出のポイントは:
 文中の
nur immer は、「とにかく」とか「ともかく」という意味です。こちらを参照して下さい。 (目次)
(初出 2012.1.31, v. 1.0)


H, 056/K, 82/GW, 56/Werke, 73. (v. 1.1.)
★ H での個所:「思い込みと偏見の・・・もとづこうと・・・」
  K での個所:「他人の権威に基づいて・・・そうすること・・・」

☆ 拙訳では:
 他人の権威に頼ろうとするのと、自らの確信によって思い込みと先入観の体系にはまり込んでいるのとは・・・

◆ 原文は:
 Auf die Autorität anderer oder aus eigener Überzeugung im Systeme des Meinens und des Vorurteils zu stecken, . . . .

☆ 訳出のポイントは:
 最初の
auf の後に3格があれば、「権威にもとづいて」となります。しかし、4格が来ているのですから、
・「
auf die Autorität anderer zu stecken(他人の権威に頼ること)と、」
・「aus eigener Überzeugung im Systeme des Meinens und des Vorurteils zu stecken(自らの確信によって、思い込みと先入観の体系にはまり込んでいること)とは、・・・」
という文構成になっています。相良守峯『大独和辞典』には、自動詞 「
stecken + auf + 4 格」の文例はありませんが、他動詞ではあります(I, 1, a)。
 
意味的にも、「Meinen(思い込み)の体系」というのは、個人の確信にふさわしく、権威の場合であれば、伝統とか力、支配者の利益などを連想させます。(目次)
(初出 2008.2.24)


H, 055-56/K, 81/GW, 56/Werke, 73.
★ H での個所:「学問的な懐疑主義は・・・克服していかねばならないのである。」
  K での個所:「かの決心が・・・現実的な実現である。」

☆ 拙訳では:
 前述の決意は・・・この形成をすぐに片付いて済んだことだと思っている。しかしこの道程は、こうした思い違いに反し、実際に遂行することなのである。

◆ 原文は:
 Jener Vorsatz stellt die Bildung . . . als unmittelbar abgetan und geschehen vor; dieser Weg aber ist gegen diese Unwahrheit die wirkliche Ausführung.

☆ 訳出のポイントは:
(1) 文中の diese Unwahrheit は、vorstellen の内容、すなわち、「die Bildung は、unmittelbar abgetan und geschehen である」を指しています。 むろん、そのように vorstellen するのは Vorsatz ですから、Vorsatz が実際は Unwahrheit となります。しかしそのように訳したのでは、
・内容的に、間遠なものになります。
Vorsatz Jener で形容しているのに、Unwahrheitdiese が形容しており、平仄が合いません。
diese を活かすためにも、Unwahrheit は直前の als unmittelbar abgetan und geschehen vorstellen ことと理解した方が、ヘーゲルの文意に沿うと思います。

(2) abgetan und geschehen は、完了形で過去の出来事を表しています。他方、wirkliche Ausführung は、これからやらねばならないことを含意しています。この両者の時制の対比が、この文章の眼目ですので、これを明確に訳し分ける必要があります。
 なお、「表象する(思っている、vorstellen)」ことと、「現実的な(実際に、wirkliche)」が対比されているのではありません。
(目次)
(初出 2012.1.16, v. 1.0)


H, 055/K, 81/GW, 56/Werke, 72.
★ H での個所:「真理と学問に精励するものが・・・思い込む懐疑主義」
  K での個所:「いったい真理と学とに・・・なにかと言えば」

☆ 拙訳では:
 それゆえ、この自ら遂行する懐疑主義 [=迷いの道程] は、真理や学問への真摯な熱意をもつ人が、これを行うことによって、真理や学問への用意や準備は万端済んでしまったと、錯覚するようなものでもないであろう。

◆ 原文は:
 Dieser sich vollbringende Skeptizismus ist darum auch nicht dasjenige, womit wohl der ernsthafte Eifer um Wahrheit und Wissenschaft sich für diese fertig gemacht und ausgerüstet zu haben wähnt;

☆ 訳出のポイントは:
 womit は、むろん直前の dasjenige を受けているのですから、そのような構文で訳すことが必要です。そうしないと、文意が混乱することにもなります。 (目次)
(初出 2012.1.15, v. 1.0)


H, 055/K, 81/GW, 56/Werke, 72.
★ H での個所:「が、当初その意識は・・・思いこんでいるから」
  K での個所:「しかし自然的な意識は・・・思い込んでいるので」

☆ 拙訳では:
 しかし自然な意識は、むしろ自分をそのまま現実的な知だと見なしているので、
◆ 原文は:
  . . Indem es (= das natürliche Bewusstsein) aber unmittelbar sich vielmehr für das reale Wissen hält,

☆ 訳出のポイントは:
 文中の
unmittelbar は、「直接に」とか「そのまま」の意味です。つまり、自然的な意識は、あれこれと反省してはいず、「そのまま」思い込んでいるだけなわけです。
 unmittelbar を、「直接的に」と訳しますと、「間接的な」側面もあるかのような、文意となります。
 また、「当初」という訳も不適切です。自然な意識は、途中も終わりも(最終局面は除いて)、自分を現実的な知だと見なしているのです。(目次)
(初出 2012.1.11, v. 1.0)


H, 055/K, 80/GW, 55/Werke, 72.
★ H での個所:「魂が、その本性に・・・宿駅さながらに・・・」
  K での個所:「・・・魂(ゼーレ)が・・・駅々としての・・・」

☆ 拙訳では:
 ・・・心の本性にしたがって前方に設けられた参詣(けい)所としての・・・

◆ 原文は:
  . . . als durch ihre Natur ihr vorgeschickter Stationen . . .

☆ 訳出のポイントは:
 文中の
Stationen は、「宿駅」とか「駅々」ではなく、例えば「参詣所」と訳さないと、文意がつたわりません。Station の項目を参照して下さい。(目次)
(初出 2012.1.16, v. 1.0)


H, 055/K, 80/GW, 55/Werke, 72.
★ H での個所:「・・・さまざまな魂の形態を・・・精神へと純化を遂げていく道程の・・・」
  K での個所:「・・・魂(ゼーレ)が・・・精神(ガイスト)にまで純化せられるさいの道程で・・・」

☆ 拙訳では:
 ・・・心が精神へと純化するために、心が・・・己の諸形態を遍歴する道筋・・・

◆ 原文は:
  . . . der Weg der Seele, welche die Reihe ihrer Gestaltungen . . . durchwandelt, daß sie [= Seele] sich zum Geiste läutere, . . .

☆ 訳出のポイントは:
 原文の
daß 以下は、目的を表す接続法(läutere)になっていますので、「~するために」と訳出しました。そのことにより、心が精神にまで純化するのは、崇高な当為であるといったニュアンスがでます。この個所をたんに事実の叙述として訳すと、ヘーゲルの文章が平板なものになってしまいます。(目次)
(初出 2008.2.24, v. 1.0)


H, 054/K, 79/GW, 55/Werke, 71.
★ H での個所:「・・・概念をきちんと提示する・・・賢明であって・・・」。
  K での個所:「・・・この概念を与えるという主要課題は・・・より正当であるであろう」。

☆ 拙訳では:
 すなわち、[それらの言葉に] 概念を与えることである。が、それよりも適切なのは、・・・労を取らないことだろう。

◆ 原文は:
 . . . , nämlich diesen Begriff zu geben. Mit mehr recht dagegen könnte die Mühe gespart werden, . . .

☆ 訳出のポイントは:
 
文中の dagegen は、直前の diesen Begriff zu geben (概念を与えること)を指します。つまりヘーゲルの文意は、「論者たちが使用している意味のはっきりしない言葉には、概念を与えなくてはいけないが、それよりも(dagegen)、適切なのは論者たちの考えや・決まり文句そのものを無視することだ。なぜなら・・・」ということです。
(初出 2012.1.9, v. 1.0)


H, 052/K, 76/GW, 53-54/Werke, 69.
★ H での個所:「認識のことを『策略』などと・・・見えるからである」。
  K での個所:「なぜ『詭計』かというに・・・しているのだからである」。

☆ 拙訳では:
 というのも、この場合認識は、策略ということになるだろうから。なぜなら、認識はまったく違ったことを行うことにいろいろ努めることによって、たんなる直接的な、したがって容易な [絶対的なものとの] 関係を、生みだす振りをするからである。

◆ 原文は:
 . . . denn eine List wäre in diesem Falle das Erkennen, da es durch sein vielfaches Bemühen ganz etwas anderes zu treiben sich die Miene gibt, als nur die unmittelbare und somit mühelose Beziehung hervor zu bringen.

☆ 訳出のポイントは:
1) この引用文の文意を確認すると:
 ヘーゲルとは反対の立場が――すなわち、認識を道具のようなものとみなし、この道具によって絶対者は変容をこうむることなく、そのまま私たちにもたらされえる、と主張する立場が――、批判されます。批判の論拠は、この立場は、「絶対者は道具によって、[変容をこうむることなく] たんに私たちの近くへともたらされる」(引用文の前の文)とか、「直接的で容易な [絶対者への] 関係をもたらす」とか言いながら、いろいろご苦労なことをせざるをえないではないか、というものです。

2) 文法的には:
„Bemühen“ の説明が、„ganz etwas anderes zu treiben“ です。
„Miene“ の説明が、„als nur die unmittelbare . . . zu bringen“ です。
„als nur . . . “ 以下の文を、„etwas andres“ にかけても文意は通じます。このような意味も、ヘーゲルは才気を見せて、もたせた可能性はあります。(目次)
(初出 2008.2.22, v. 1.1)


 例  
 ・長谷川宏訳(作品社、2000年)と金子武蔵訳(岩波書店、昭和46年)の双方で、ともに不適切と思われる訳がされている個所を、取り上げました。
 ・H は、長谷川訳を、
  K は、金子訳を、
  GW は、『アカデミー版ヘーゲル全集』第9巻を、
  Werke は、『ズーアカンプ版ヘーゲル全集』第5巻を、指します。
 ・その次の数字は、ページ数です。
 ・原文からの引用は、『アカデミー版ヘーゲル全集』第9巻に基づくマイナー社の Studienausgaben の『精神の現象学』に拠りました。
 ・[  ] 内は私の挿入です。
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