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 ドイツ観念論関係の誤訳について(8)
 ヤコービ『スピノザ書簡』からの引用 v. 1.7

『スピノザ書簡』正確な書名は:
『モーゼス・メンデルスゾーン氏宛の手紙で表明した、スピノザの学説について』
Über die Lehre des Spinoza
in Briefen an den
Herrn Moses Mendelssohn


  目 次

はじめに
I. テキストについて
II. 凡 例
III. 訳 文


  はじめに

 私たちが「スピノザ論争」について知ろうとするとき、まずは次の2論文に目を通すこととおもいます:
a) 伊坂青司氏「有限と無限――あるいはヤコービとヘーゲル」の第2節「ヤコービと『汎神論論争』」(『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』所収、ミネルヴァ書房、1994年)
b) 栗原隆氏「IV ヤコービ/ヘルダー」(『哲学の歴史 第7巻 理性の劇場』所収、中央公論新社、2007年)

 けれども、これら論文での引用箇所の文意は、すこし分かりにくいようなので、それらを前後の文章を含めて訳出することにしました。両論文中の訳と拙訳は、多くの場合多かれ少なかれ、内容的に齟齬をきたす結果になっています。しかし、原文を引用しながら拙訳になった理由を説明することは、煩雑になりすぎるのでしませんでした。読者より、ご質問やご異論があれば、その箇所についてご説明したいと思います。

 なお、訳出箇所の拙稿での掲載の順番は、下記マイナー社の哲学文庫シリーズ中の Über die Lehre des Spinoza に添うようにしました。
 
 ヤコービがスピノザ哲学をどのように理解したかについては、拙稿『ヤコービによるスピノザ哲学の要約_1』ならびにその『2』を、参観下さい。

 また、誤訳問題についての誤解を避けるために、<はじめに>をご一読願えればと思います。


I. テキストについて

  拙稿『ヤコービによるスピノザ哲学の要約_1』の「I. テキストについて」を、ご覧下さい。


II. 凡 例

(1) 便宜を考えて、私の訳出箇所には2種類のページ数を記しました。
    例:LS, S. 55-57/* 23-25

 a) まず左側に、哲学文庫版に記されている第3版のページ数を記しました。しかし、前記「I. テキストについて」 (7) のような問題があるため、ページ数の前に表題もそえました。表題は略記とし、以下のとおりです:
  LS: Über die Lehre des Spinoza:
  EJ: Die Beilage. Erinnerungen an Herrn Jacobi
  B.IV:
Beilage IV
  B.V: Beilage V

 b) 次に、前記 a のページ数の右側に、「/」を置いたあと、哲学文庫版のページ数を記しました。明確にするため、哲学文庫版のページ数の左側には * 印を添えています。例えば:
   訳文(LS, S. 55-57/* 23-25)
は、「以下の訳文は、Über die Lehre des Spinoza からの抜粋であり、全集(1812-1825)第4巻では55ページから57ページに該当し、哲学文庫版では23ページから25ページに該当します」ということです。

(2) [  ] 内の挿入は、訳者によるものです。


III. 訳 文

● 『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』88ページでの引用
  拙訳(LS, S. 54/* 22-23)

 [以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングと私(ヤコービ)の会話を、メンデルスゾーンに報告しています。] 
レッシング:神性についての正統派的な考えは、もう私には関係ないものです。そうした考えには、満足できないのです。「ヘン・カイ・パン [一にして全。一即全]」、これしか私は知りません。この [ヤコービが持ってきた] 詩も、またそこへと向かっていますね。この詩は大変気に入ったと、白状せざるをえません。
私:では、あなたはスピノザに、かなり同意できるのかもしれませんね。
レッシング:私が誰かの信奉者ということでしたら、彼以外にいません。
私:私もスピノザは、素晴らしいと思います。しかし、私たちは彼に無い物ねだりをしがちです。
レッシング:ええ、もしそう言いたいのであれば・・・だが・・・よりいいものがあるでしょうか? [省略は原文]

● 『哲学の歴史 第7巻』230-231ページでの引用
  拙訳(LS, S. 55-57/* 23-25)

 [以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。レッシングとヤコービ(私)のやりとりを報告しています。] 
 翌朝、私は朝食をとった後、服を着るために自室へ戻りました。しばらくして、レッシングがやって来たのです。私がすわって髪を整えさせていたので、その間レッシングは、部屋の片隅の机に静かに体をもたせていました。私たち2人だけになり、レッシングが体をもたせている机の別の側に私がすわると、彼は語りだしました:
「私が来たのは、あなたに私の信じる『ヘン・カイ・パン』について、お話ししたいためです。昨日は、あなたは驚かれたことでしょう」。

私:あなたにはビックリさせられました。さぞかし青ざめたり赤くなったりしたことでしょう。困惑してしまったものですから。でも恐慌をきたしたわけではないのです(注1)。まさかあなたがスピノザ主義者、つまり汎神論者だったとは、思いもよりませんでした。しかも、あっさりとそう打ち明けられたものですから。私がここにやって来たのは、およそあなたからスピノザに抗するための援助を、得るためだったのです。

レッシング:では、あなたはスピノザのことを知っているのですね?

私:彼をよく知る数少い一人だと、思っています。

レッシング:それなら、あなたにはそのような援助など、必要ないでしょう。むしろ、完全にスピノザの友人になりなさい。スピノザ哲学以外に、哲学はありません。

私:そうかも知れません。決定論者は、自説を貫こうとすれば、宿命論者にならざるをえないのですからね。その後は、自余の問題もおのづと片付こうというものです。(注2)

レッシング:私たちは分かり合えるようですね。あなたがスピノザ主義の根本思想と考えているものを、ますますお聞きしたくなりました。ここでスピノザ主義というのは、スピノザ自身が考えていたもののことですが。

私:彼の根本思想は、おそらく古語にいう「無からは何も生ぜず(a nihilo nihil fit)」だと思います。スピノザは、カバラ哲学者達や彼以前の哲学者達よりも、より抽象的な考え方でもって [nach abgezogenern Begriffen] この古語を考察したのです。この考え方によって、彼が見出したのは、「無限なもののうちに何かが生じるときには、その何かをいかように表現したところで、何かが無から措定されてしまう。また、無限なもののうちに何らかの変化が起きるときも、同様である」ということでした。
 したがってスピノザは、無限なものから有限なものへのいかなる移行も退けたのです。一般的にすべての移行原因 [Causas transitorias] を、それが2次的なもの [secundarias] であろうと遠隔的なもの [remotas] であろうと、退けました。そして彼は、ただ内在的な「神」 [Ensoph, エンソーフ。カバラ主義における無窮の神(英和辞典『リーダーズプラス』)] を、流出するものの代わりに措定したのでした。つまり世界の、内在的にして自らのうちで永遠に変わることなき1つの原因を、措定したのです。この原因は、そのすべての結果ともどもに――、一つの同じものなのでしょう。・・・ [省略記号は原文]
 この内在的で無限な原因そのものは、明らかなことですが、悟性をも意思をも持っていません。なぜならこの原因は、その超越論的一性 [Einheit] と一様な絶対的無限性によって、思考と意欲のいかなる対象も持ちえないからです。それにまた、
概念 [の存在] 以前の概念を生みだす能力とか、あるいは、
・その概念が対象とするもの以前に存する概念、つまり、自ら自身だけが原因となって [対象が原因となったのではなく] 生じたような概念――こうした概念を生みだす能力とかは、
・意欲に働きかけて、全く自らを規定する意思同様、
まったく馬鹿げたことだからです。

● 『哲学の歴史 第7巻』234ページでの引用
  拙訳(LS, S. 59f./* 26-27)

 [以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙(1783年9月4日)からの抜粋です。ヤコービは自らの考えを述べています。]
 純粋な作用因が存在しても目的因がなければ、思考する能力は、たんに森羅万象のなかで傍観するだけになります。この思考能力がすることはといえば、作用する諸力の働き方に随行することです。
 [例えば] 今私たちが交わしている会話も、たんに私たちの肉体が隣接しているだけのことです。そして会話の内容すべては、要素に分解すれば、延長・運動・速度、ならびにそれらの概念、およびこれら概念の概念になります。時計の発明者は、本来は時計を発明したのではなく、たんに、盲目的に展開する諸力から時計が発生してくるのを、傍観しただけです。ラファエロが『アテネの学堂』を描いたときにも、同じことがいえるでしょう。あなた [レッシング] が『賢者ナータン』を書かれたときも同じです。

● 『哲学の歴史 第7巻』236-237ページでの引用
  拙訳(LS, S. 86f./* 45)

 [以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙からの抜粋です。ヤコービ(私)の主張です。] 
 私がレッシングの考えを、これまで述べてきたような仕方で知るまでは、しかも、レッシングは正統な人格神論者 [Theist] であったとの証言によって、裏打ちされた確信とともに知るまでは、彼の『人類の教育』の若干の箇所は、私には理解できないままでした。とりわけその第73節は、そうでした。誰かがそれらの箇所を、スピノザの思想を援用することなくして、明瞭にできるものかどうか、知りたいものです。スピノザの思想を用いれば、これらの箇所の解説は容易です。[この後は、この後の引用文の「スピノザの神は・・・」に]続きます。]

● 『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』90ページでの引用
 ならびに
● 『哲学の歴史 第7巻』232ページでの引用
  拙訳(LS, S. 87f./* 45-46)

 [以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙からの抜粋です。ヤコービのスピノザ論です。]
 スピノザの神は、
・すべての現実的なものにおける現実性の、純粋な原理 [Principium] であって、
・そしてまた、すべての定在 [Dasein] するものにおける存在 [Sein] の、純粋な原理です。
 彼の神には個体性がなく、まさしく無限なのです。この神の一性 [Einheit, 統一性] は、区別されえないもの [nicht zu unterscheidenden] [が形成しているところ] の同一性に基づいていますが、ある種の多数性 [三位一体の三位のことのようです] を排除はしません。たんにこうした超越論的一性から見るときには、神性は現実性というものをまったく欠くことにならざるをえないのです。現実性は、ただ規定された個別的ものごとにおいてのみ、表現され、存在しえます。したがって個別的ものごと、すなわち現実性は、その概念とともに所産的自然 [Natura naturata] (永遠なる子)に基づいています。同様に、神性すなわち可能性、本質、永遠なものにおける実体的なものは、その概念とともに能産的自然 [Natura naturanti] (父)に基づいているのです。

● 『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』89ページでの引用
  拙訳(LS, S. 89/* 46)

 [以下は、ヤコービのメンデルスゾーン宛の手紙からの抜粋です。ヤコービのレッシングについての報告です。] 
 レッシングが、「ヘン・カイ・パン」を彼の神学と哲学の総括 [Inbegriff] として、しばしば、しかも強調して述べていたことは、何人もの人によって証言することができます。レッシングは折々に、この言葉を彼の確固としたモットーとして語り、また書いたのでした。

● 『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』89ページでの引用
  拙訳(LS, S. 172-173/* 88-91)

 [以下は、次のように題された節の一部です:
 「メンデルスゾーンが私 [ヤコービ] に送付した『[ヤコービ氏への] 抗弁』についての、[私から] メンデルスゾーンに宛てた手紙」。
 この箇所で、ヤコービはメンデルスゾーンに向かって、スピノザ哲学の概要を述べます。]

 ・・・さて、ここで新たにスピノザの哲学について、述べてみようと思います。

I. いかなる生成に対しても、生成したのではない存在 [ein Sein] が、基礎になければならない。また、いかなる発生物に対しても発生したのではないものが、いかなる変化するものに対しても変化しない永遠なものが、基礎になければならない。

II. 生成というものは、存在と同様、生成しえたものでもなければ、始まりえたものでもない。すなわち、
・それ自体において [in sich selbst] 存続するものや
・永遠に変化しないもの、
・また、変転するもののうちで持続するものは――この持続するものが、かつて変転するものなくして、ただそれだけで存在したとすれば――、
生成を生みだすようなことは決してないであろう。自らの内においても、また外においてもである。というのも、これら2つの場合は同じく、無からの発生を前定にしているからである。

III. したがって永遠の昔から、変転するものは変転しないものと、時間的なものは永遠なものと、有限なものは無限なものとともに存在していたのである。そして、有限なものの始まりを想定する人は、無からの発生を想定しているのである。

IV. 有限なものが、永遠の昔から無限なものとともにあったのであれば、有限なものは無限なものの外部には存在できない。というのは、もし外部に存在したとすれば、この有限なものは、[かの無限なものとは] 別のそれ自体で存続する存在 [無限なもの] であるか、あるいは、存続するものによって無から生み出されたかである [が、それは不可能だ] という理由からである。

V. [つまり、] もし有限なものが、存続するものによって無から生み出されたのであれば、そのときの力あるいは規定性も――この力あるいは規定性によって、有限なものは無限なものによって無から生み出されたとなっているのだが――、また同様に無から発生せざるを得なかったことになろう。というのも、無限なもの・永遠なもの・変転しないものの内では、すべてのものが、無限であり、変転なく、永遠に現実的だからである。無限な存在が初めて始めるなどという行為は、ただ永遠に行われているが如く [nach Ewigkeiten] に、始められることができるだけなのであろう。そしてそのときの規定性は、無から以外には生じえないことになってしまおう。

VI. したがって有限なものは、無限なものの内にある。そこで有限なものすべての総体は――すべての瞬間において永遠すべてを、過去のものも未来のものも、[無限なものと] 同じような仕方で自らのうちに含むのだから――、無限なものそのものと一つであり、同じものなのである。

VII. この総体は、無限なものを構成するところの有限なものを、たんに寄せ集めたものではなく、もっとも厳密な意味における全体である。すなわち、全体の各部分は、ただ全体の内でのみ、また全体にしたがってのみ、存在することも考えられることもできるのである。

● 『哲学の歴史 第7巻』234-235ページでの引用
  拙訳(EJ, S. 103-104/* 182)

 [以下は、メンデルスゾーンの書いた「ヤコービ氏への抗弁」からの抜粋です。]
 あなた [ヤコービ] は次のように述べています:
「無限なもののうちに何かが生じるときには、その何かにいかようなイメージをかぶせたところで、何かが無から措定されてしまう。また、無限なもののうちに何らかの変化が起きるときも、同様である」。
 そこで、あなたの信じるところではスピノザは:
「無限なものから有限なものへのいかなる移行も退けたのです。一般的にすべての移行原因を、それが2次的なものであろうと遠隔的なものであろうと、退けました。そして彼は、ただに内在的なエンソーフ [カバラ主義における無窮の神] を、流出するものの代わりに措定したのでした。つまり、世界の一つの内在的原因を――自らのうちで永遠に変わることなき原因を――、措定したのです。この原因を、そのすべての結果ともども眺めやれば、それらは一つの同じものでもあるでしょう」。
 [けれども] この点で、私は克服しえない困難に出会うのです:
1) 端緒なき連続態 [Reihe] というものを、もしもスピノザが不可能ではないと見なしていたら、事物の流出による発生ということは、必ずしも無からの生成ということにならなかったでしょう。
2) スピノザがこれらの事物を有限なものと見なしているのであれば、これらの事物が無限なもののうちに内在する [Inwohnen] ということは、これらの無限なものからの流出 [Ausfluß] 同様に、いえそれ以上に理解できないと、私には思われるのです。無限なものが有限なものに作用できなければ、無限なものは有限なものを考えることもできません。
 およそスピノザの体系からこの種の困難を除くことは、できないように見えます。これらの困難は、思考に関しても、また思考の現実の対象に関しても、生じざるをえません。客観的・現実的に生成することができないものは、主観的に考えることもできないのです。スピノザが気づいた困難、すなわち、有限なものを神から存在あらしめることの困難――これと同じ困難を、彼が
・有限なものを神的な存在のうちに置いたとき、
・またこれら有限なものを神性の思考として考察したとき、
彼は再び気づいたに違いありません。
 [この後、次の「あなたは・・・」の訳文に続きます。]

● 『哲学の歴史 第7巻』236ページでの引用
  拙訳(EJ, S. 105f./* 183)

 [以下は、メンデルスゾーンの書いた「ヤコービ氏への抗弁」からの抜粋です。]
 あなた [ヤコービ] は続いて、レッシングがスピノザでもっとも分かりにくいところだと述べた箇所を、説明しています。その箇所は、ライプニッツもまた分かりにくいと感じ、十分な理解を得られなかったところなのですが。すなわち:
 (あなたの文章によれば)「無限な原因は、明らかなことですが、悟性をも意思をも持っていません。なぜならこの原因は、その超越論的一性 [Einheit] と一貫した絶対的無限性によって、思考と意欲のいかなる対象も持ちえないからです」。
 さらに、あなたの説明によれば、「無限な自然に属するところの第一原因に対しては、個別的な思考や、意志の個別的な規定性は、あなたとしては否認せざるをえない」とのことでした。そしてあなたはその理由を次のように付言しました:個別的な概念は、それぞれ別の個別的概念から生じ、現実に存在する対象に直接関係しなくてはならないからである。
 そこであなた [ヤコービ] は、第一原因のうちにはたんに悟性と意志の原素 [Urstoff] しか、すなわち、内的で一般的 [allgemeinen] な第一原素しか、認めようとしないのですね。このあなたの説明は、私にはスピノザ自身の言葉同様、理解しがたいと言わざるをえません。第一原因は思考を持つが、悟性は持たない [とされる]。第一原因は思考を持つ、なぜならスピノザによれば、思考は真なる唯一の実体の主要な属性だからです。とはいえ、個別的な思考を持つのではなく、ただ個別的思考の一般的な原素だけをもつ [とされます]。[しかし、] 個別的なものなくして、いかなる一般的なものが把握されるというのですか? 

● 『哲学の歴史 第7巻』237ページでの引用
  拙訳(EJ, S. 116f./* 190)

 [以下は、メンデルスゾーンの書いた「ヤコービ氏への抗弁」からの抜粋です。]
あなた [ヤコービ] は以下のように言われます:「スピノザの神は、
・すべての現実的なものにおける現実性の、純粋な原理 [Principium] であって、
・そしてまた、すべての存在するものにおける存在の、純粋な原理です。
「彼の神には個体性がなく、まさしく無限なのです。この神の一性 [Einheit, 統一性] は、区別されえないもの [が形成しているところ] の同一性に基づいていますが、ある種の多数性 [三位一体の三位のことのようです] を排除はしません。たんにこうした超越論的一性から見るときには、神性は現実性というものをまったく欠くことにならざるをえないのです。現実性は、ただ規定された個別的ものごとにおいてのみ、表現され、存在しえます」。
この引用文への私 [メンデルスゾーン] の理解が正しいとすれば、規定された個別的なものこそが、現実に存在する事物です。他方の無限なもの、すなわち現実がもつ原理は、たんなる集り [Zusammen] です。つまり、個別態すべての総体 [Inbegriff] なのです。それは、まったくもってある集合体 [collectivum quid] なのであり、この集合体はそれを構成している要素が持っている実体性 [Substantialität] 以外の実体性を、持ちません。

● 『哲学の歴史 第7巻』238-239ページでの引用
  拙訳(EJ, S. 117f./* 190-191)

 [以下は、前記引用箇所からの続きです。] 
 さて、各集合体 [Kollektivum] は、多様なものを総括する [zusammen fassen] 思考に基づいています。というのも、思考の外部では、すなわち客観的に見れば、個別的なものはそれぞれ孤立していて、一つの物そのものだからです。[個別的なものどうしの] 関係だけが、個別的なものを全体の部分に、集りの構成要素にします。この関係は、考えることの働き [によってできたもの] です。
 さて、スピノザ主義に関して私が陥っている困惑から、私を救っていただきたいのです。
[I] まず、私は問いました:前述の思考・集合体・個別的なものの全体への関係は、どこに存在しているのか? 個別的なもののうちには、存在していません。というのは、各個別的なものは、それそのものとして存在しているだけだからです。個別的なもののうちでのそうした存在を認めないとすれば、神性のうちでのある種の多数性 [例えば、三位一体の三位] のみならず、本当に無数に多くのものができてしまいます。
 [前述の思考・個別的なものの全体への関係は、] 集合体のうちにも、存在していません。というのも、そのように存在することは、明らかにつじつまの合わないことだからです。
 したがって、このようなパン [Pan, 全] が、すなわち前述の集まりが、真実だというのであれば、このパンは、すべての多数性を排除するところの現実的かつ超越論的一性のうちに、存在していなければなりません。これでは、思いがけずもアカデミック哲学と、同断だといいうことになってしまいます。

● 『哲学の歴史 第7巻』239ページでの引用
  拙訳(EJ, S. 118/* 191)

 [以下は、前記引用箇所からの続きです。] 
[II] さらに、今まで私はスピノザにしたがって、「ただ唯一の無限なもののみが、真実の実体性をもつ。有限で多様なものは、無限なもののたんなる様態ないし思考にすぎない」と、常に信じてきました。あなたはこの私の信念をひっくり返すようです。あなたは有限なものに、実体性を与えます。それでは、全体はたんに、個別的なものの思考だということにならざるをえないでしょう。
 したがって私は、あなたによって輪のなかを循環させられるだけで、輪の外には出られないのです。というのも、他の場合に、あなたは次の点で私とやはり同意権であるように思われるからです:「スピノザによれば、ただ一つの超越論的で無限な実体が可能であり、この実体の属性は無限な延長と、無限な思考である」。
 しかし、私がスピノザの体系において見いだすもっとも大きな難点は、次の点です:スピノザは、制約されたもの [有限なもの] の一まとめ [Zusammennehmen] から、制約されていないものを生じさせたいのです。

● 『哲学の歴史 第7巻』250-251ページでの引用
  拙訳(B.IV, S. 76-78/* 238-240)

 [以下は、ヤコービの主張です。]
 「世界の原因は、つまり最高の存在は、万物のたんに永遠で無限な根源・能産的自然・最初のバネといったものなのか、あるいは理性と自由によって活動する知性なのか」ということです。私の答えは、この世界の原因は知性である、というものでした。
 人格性(Personalität)を欠いた知性などというものは、私には理解できませんでした。また、私の確信するところでは、――なにしろ現実には、そのようなものは誰にも理解不可能なのですから――レッシングもまたそうしたものを理解できるとは思っていませんでした。
  自己意識の統一性が、人格性を形成しいるのであり、自らの同一性の意識を持っている存在が、人格(Person)です。そこで、カントの主張するように、私の意識は流動的fließend)ではないだろうかと疑いえるのであれば、私自身の客観的な人格性を(つまり、私の主観の現実的な同一性)を疑うことも可能です。しかし神の人格性については、私が神に意識を帰属させるときには、決して疑うことはできないのです。
  動物に対しては、私たちは人格性を認めません。なぜなら、動物が明確な認識を――同一性の意識は、この明確な認識に基づいています――持つとは、認めないからです。しかし、人格性の原理は、意識を与えられたすべての個人に、すなわちすべての生きている(lebendig)存在に、帰属させねばなりません。
 この個人の意識には度合いがあり、その度合いが一つ増すごとに個人は人格に近づきます。それは、――個人を知性へと高めていく意識の度合いが、同時に個人に人格の特性を(つまり、理性によって自らを規定する存在の特性を)完全に与えるまで、――続くのです。
  したがって私たちが、思考可能な領域からはまったく立ち去ろうとか、概念をまったく使わずに判断しようとか望まないのであれば、必然的に最高の知性には最高度の人格性を、認めななければならないのです。
 私の知る限り、ヘルダー以前にはこのことについて、これとは別様に考えた人はいません。そこでヘルダーが次のように主張したのは、なるほどまったく新奇ではあります:「レッシングが、人格的存在としての事物の第一原因が、語られるのを聞いたとき、彼はそれを未聞のこととして、それに注意を払うべきであった」。
  こうしたことが検討に値したのは、ただ、非人格的な神があの文学的な哲学 [ヘルダーの哲学] の必然的な欲求であるという、理由からだけです。あの文学的哲学は、人格神論(Theismus)とスピノザ主義の間を喜んで浮動したいのであり、私たちのうちにも多くの信奉者を見出したのです。
 あの哲学は、「神の悟性は人間の悟性ではありえず、神の意志は人間の意志ではありえない」という真実な命題から出発しはします。その後、あの哲学はこの真なる命題を延長して、すべての理性的思考と行動の根源を絶滅し、またすべての知性の原理を、すなわち人格的存在の原理を絶滅するのです。しかもその際、首尾一貫しているスピノザとは違い、「事物の最上位の原因は、知性ではありえない」などとは、主張しないのです。
 が、もしこの知性が、悟性的存在ということで私が想像するものを、何ももっていないとすれば、知性ということで何を理解すべきだというのでしょうか? ――私には、何一つ理解できません。

● 『哲学の歴史 第7巻』252ページでの引用
  拙訳(B.V, S. 92/* 248)

 [以下は、ヤコービの主張です。]
 すなわち、「目的因の [der Endursachen] 体系とたんなる動力因の [der bloß wirkenden Ursachen, 作用因とも] 体系の間に、(私たち人間に理解可能な)中間の体系が存在する」ということを、私は認めません。悟性と意志が、もし第1位のもの・最上位のものではないと、一にして全ではないというのなら、悟性と意志はたんなる下位に位置する2つの力でしかありません。そしてこの2力は、創造された自然に属するのであって、創造する自然には属さないことになります。2力は [いわば] 歯車装置であって、最初に働くバネの力ではないのです。つまり、分解することもできれば、メカニズム(Mechanismus)をたどっていくこともできる歯車装置なのです。

● 『叢書ドイツ観念論との対話 第5巻』91ページでの引用
  拙訳(B.VI, S. 101/* 254-255)

 [以下は、ヤコービの主張です。] 
 スピノザは、必然的な事物の概念から、また次のような命題から出発します:「生成 [Werden] は存在 [Sein] と同様、生成したことも始まったこともありえなかった」。
 したがって運動と静止は、彼の物体的な [körperlich] 実体の永遠の様態 [Modi] ですし、また、さまざまな形態 [Gestalten] を生みだすような、絶えることのない継続的原因です。そこでは、ある形態は他の形態から発展するのですが、作用する原因そのものはいささかも変化しないのです。
 そういうわけでスピノザの体系においては、個体すなわち個別的な事物は、神性そのものと同様に永遠なのです。神性はといえば、まったくもって必然的な仕方で、無限なものを無限なものから生みだします。しかし、唯一の実体の絶対的な連続性 [Continuo] の内で、個別的な事物が内在的に [inneren] 可能であるということ、このことについてスピノザは、説明をしませんでした。その上、
・そうした事物が [無限なものから] 分離されること、
・事物間の相互作用と共通性、
・そしてまた、個体性のもろさゆえに存在する驚くべき「万人の万人に対する戦い」――この戦いは、まとまりすべてを飲み込む [alle Einheit verschlingenden] ところの無限にして唯一なものの内に、またこれと共にあるのですが――、
これらについても、説明はないのです。

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注1) 「恐慌をきたしたわけではない(Schrecken war es nicht.)」――ヤコービのこの発言の含意は、以下のようなものでしょう。:
「ある人がスピノザ主義者であるからといって、私はそれを世間の人のように恐れたり、毛嫌いするのではない。むしろ、理知的な人がスピノザに引かれるのは、ある意味で当然でもある。ただ、突然他ならぬあなたから、スピノザ主義者であることを打ち明けられたのには、困惑した」。

注2)このヤコービの発言は、直前のレッシングへの返答としてはおかしなものです。しかしそれは、年長者へのヤコービの社交辞令(時代はロココ!)が発揮されているためで、議論テクニックの一つです。すなわち、本当は「そうかも知れません」ではなく、「それは違います」というのが、ヤコービの真意です。その後、自説の「決定論者は・・・」を述べることになりますが、角をとるために省略されていますので、筆者の方で補完すれば:
「スピノザは決定論的な思想を展開しましたが、結局は(容認できない)宿命論になってしまいます。この観点から彼の思想を見ると、すべて理解できるということです」――といったところでしょう。
 しかもこの自説を、ヤコービの発言への肯定的返答である「そうかも知れません」の理由として、述べています(「決定論者は・・・ですからね」。Denn der Determinist . . . )。したがってここでのヤコービの発言は、形式的にはレッシングの考えを肯定し、その理由も述べたようになっているのです。

注3)この Individuo(個人に)は、語源がラテン語 (individuum)であることから、ラテン語の活用(単数、与挌)をしたものです。

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(初出: 2009-6-8)
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