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 ヤコービの著作の翻訳
 ヤコービによるスピノザ哲学の要約_2 v. 1.0.7

『スピノザ書簡』(Über die Lehre des Spinoza)
よりの抜粋

  目 次

はじめに
 ● 注意点
I. テキストについて
II. オンライン・テキストについて
III. 凡例
IV. 訳
 ● *S. 88 - 110(Meiner 社の哲学文庫版
 ● *S. 63 -80(Meiner 社の哲学文庫版)


 ● LS, S. 123 - S. 159 / * S. 63, Z. 1 - S. 80, Z. 24

前便 [ヤコービの1784年9月5日付のメンデルスゾーン宛手紙] への添付 [として] 

[オランダの] ハーグ [在住] のヘムステルフイス(Hemsterhuis)氏への手紙の写し

 貴方 [Hemsterhuis] の4月26日付のお手紙に書かれていました、スピノザについての項目(Artikel)に、私は返答しますと約束しましたが(訳注1)、すでに2ヶ月以上たってしまいました。ようやくのことですが、このことについて満足のいくお答えをすべく、努めようとおもいます(訳注2)

 貴方はこの有名な人物 [スピノザ] のことを考えるとき、彼が30年遅く生きてはいなかったことを嘆かずにはおれないと、言われます。「もし生きていたなら、物理学自体の進歩によって、幾何学が直接に自然物に適用されることを、彼は自分の目で見たことであろう。そして彼が、幾何学者の定式的方法Formularmethode)を、幾何学的精神と取り違えていたことを、見たであろう。彼がこの幾何学的精神を形而上学に適用したのであれば、自らの卓越した天才によりふさわしいものを、彼は生みだしたことだろう」。

 私自身 [ヤコービ] は、おそらく幾何学の知識が不足しているため、貴方のこのような批判に対してスピノザを弁護する役が、ふさわしいとは思えません。しかし、スピノザに幾何学的精神が欠けており、彼は幾何学者の定式的方法とこの精神を取り違えたのだったならば、いずれにしろこの精神は不可欠なものではまったくないでしょう。といいますのも、スピノザはこの精神なくしても、誠実きわまりない心(Sinn)、精妙な吟味能力、そして容易には凌駕しがたい正確さ、強靭さ、深さをそなえた知力を持っていたからです。
 こうした彼の長所は、彼が誤ることを防ぎはしませんでしたし、また彼はたしかに誤りもしました。彼は惑わされて、幾何学者の定式的方法を形而上学において使ったのです。けれども、この方法が彼の哲学体系を生みだしたのではありません。この体系の基盤(Grund)はたいへん古く、伝承されていくうちに次第に消えていきましたが、ピタゴラスやプラトン、また他の哲学者たちはこの基盤から [彼らの哲学を] 創りだしたのです。
 スピノザの哲学が、これらすべての哲学者たちと違うところは、そして、彼の哲学の魂を形成しているのは、有名な原理「無からは無が生じ、無は無に帰する(gigni de nihilo nihil, in nihilum nil potest reverti)」が、彼の哲学においては極度に守られており、また遂行されているということです。スピノザが何らかの行為のあらゆる始まりを否定し、究極原因に基づく体系を人間知性のとてつもない錯乱だと見なすのは、この原理からの帰結であって、自然物ではないものへ幾何学を直接適用した結果ではないのです。

 スピノザのもろもろの思想の相互連携を、私がどう考えているか、大よそのところを見ていただこうと思います。スピノザが私たちと会話をしたと、想定しましょう。しかも、彼が [貴方のご著書である] 『アリステ(Aristée)』(訳注3)を読んでいるということで――ただしこの点については、以下の会話では [直接] 触れるようなことはありませんが(訳注4)

ピノザ曰く:
 存在とは、属性(Eigenschaft)などではなく、また何かしらの力から導出されたものでもありません。存在は、属性や性状(Beschaffenheiten)すべての、そして諸力の基盤になっているのです。また存在は、人が実体という言葉で表しているものであって、存在以前には、何ものも措定されえないし、すべてのものは存在を前提とせざるをえないのです。

 存在のさまざまな表出(Äußerung)のうちいくつかは、存在の本質から直接流出します。それらは延長ならびに思考の、絶対的な実在的連続態(Kontinuum)なのです。

 思考は、もっぱら実体の属性ないし性状であって、いかなる意味においても実体の原因ではありえません。思考の定在は、思考が依存しているもの [実体] の内にあるのです。思考とは、思考が依存しているものの表現(Ausdruck)であり、また行い(Tat)なのです。思考が同時に、実体が行為 [Handlung] するように措定したもの [延長態] であることは、不可能です。

 概念(すなわち、ある仕方で規定されているような思考)とは、その内容(Inhalt)によって種別をもちます。しかしこの内容、ないしは内容に対応するものは、思考を生み出しはしません。

 概念の内容、ないしはこの内容に対応するものは、私たちが概念の対象と呼んでいるものです。
 そこで、各々の概念のうちには次のものが存在します:
1.) 絶対的で根源的なもの。これは、思考を――思考の対象とはかかわりなく――形成します。
2.) 付け加わるもの、あるいは消え去るもの(Vorübergehendes)。これは、[対象への] 関係(Beziehung)を示し、この関係の結果です。

 これら両者は、概念のうちで相互の必然的な一部となっています。そこで、思考(その本質においてのみ考えられた場合)が対象の概念や表象を生み出すことは不可能ですが、同様に、対象あるいは中間原因(Mittelursache)(訳注8)、ないしは [対象の側の] 何らかの変化が、思考しないもの内に思考を生じさせることも、不可能なのです。

 意欲(Das Wollen)は、思考の後で存在します。というのも、意欲は自己感知(Selbstgefühl)(訳注9)を前提とするからです。意欲は、概念の後で存在します。なぜなら意欲は、[概念の対象へ] 関係しているという感知を必要とするからです。
 したがって意欲は、実体と直接結びついてはいないし、思考とさえも直接の結びつきはないのです。意欲は、[対象との] 関係からの遠隔的な作用にほかならず、最初の源ないしは純粋原因にはなりえないのです。

              ************************
 以上のスピノザからの攻撃は、ここで中断することにしよう。そして、彼の塹壕や要塞をつぶしたり、破砕できないか、また彼が用いた砲弾を彼自身に向けて爆発させることができないか、見てみよう。
 [こちらからの] 一斉射撃(Generalfeuer)。スピノザさん、お気の毒にも妄想家ですね! 手短に、事実にそって(訳注5)[こちらの攻撃を] 始めましょう。

私:
 貴方 [スピノザ] は、すべての行為は方向性(Richtung)を持たざるをえないことを認めますか?

スピノザ:
 いいえ。その逆でして、すべての本源的な行為は、ただそれ自体を対象として持つことができるのです。したがって方向性を持ちえないことは、確かだと思います。というのは、人が方向性と呼ぶものは、特定の [対象との] 関係がもたらす作用の結果に他ならないからです。

私:
 しかし、なぜ存在するものすべてが、あるいは存在するように見えるものすべてが――本質、様態、あるいは貴方のお好みのものでいいのですが、そうしたものすべてが――それであって他のものではないのか、ないしはそれであるように見えるのか、ということには原因がありはしませんか?

スピノザ:
 疑いもなくそうです。

私:
 それなら、「なぜ」や「原因」は、方向性をもつでしょう。この「なぜ」は、方向性の中にあるのではありません。そのようにあるとすれば、この方向性は存在する以前に存在することになってしまいますから。

スピノザ:
 確かに。

私:
 したがって、「なぜ」は現実の事物のうちにあるのであり、またこの事物のうちにその理由(Grund)[すなわち「なぜ」への答え] をもつのです。
 さて、原因からまたその原因へと無限にたどって行くことはできません。というのも、作用するもの(das wirkende Dinge)[すなわち実体ないし神] が方向性を与える特定の瞬間があるからです。したがって第一原因は、作用するもののもつ作用のうちに見出されるか――この作用を、作用するものは意欲することができるのです――、あるいは様態的変状(Modifikation)(訳注6)のうちに、見出されるのです。
 この様態的変状は、「なぜ」をもっており、[「なぜ」の] 原因からまたその原因へとたどって行くとき、ついにはある特定の作用へと行きつきます。すなわち 、ある作用するものの意志へと。かくして方向性は、第一原因に意志をもっているのです(訳注7)
 しかし、予見する知能をともなわないような、また自己感知をともなわないような、規定された作用を、また方向性を与える意志を、私たちはなんら思い浮かべることができません。したがって、すべての作用の第一原因は、無限に大きくまた無限に力のある理性的意志の、行為なのです。ここで私が「無限に」と言いましたのは、私たちが原因からまたその原因へとたどることによって、必然的にこの「無限」に行きつくからです。

スピノザ:
 すでに示しましたように、意志は、方向性のうちに存する運動と同様、たんに導出されたものであり、[対象への] 関係(Verhältnis)から発生したものです。前述の [事物の存在] 理由からはですね、運動の方向性の原因がその方向性の中に存在するということは、ありえないのです。なぜなら、存在するとすれば、方向性が存する以前に、方向性は存していたということになってしまいますから。
 前述の[事物の存在] 理由からは、意志の方向性の原因が、この方向性の中において存在するということは、ありえません。なぜなら、存在するとすれば、方向性は存する以前に、存していたことになりますから(訳注10)
 意志は意欲する能力を規定しますが、この意志は、まったくもって原因がもたらす結果です。貴方が認められたように(貴方ご自身が述べられているとおり)、意志は思考の限界内にあるだけでなく、観念(Idee)の限界内にもあるのです。
 さて、思考をその本質において考察すれば、思考とは自らを感知する存在(Das Sein das sich fühlt)です。観念は、規定されているかぎり、個体的に(individuell)存するかぎり、そしてまた他の個別的な事物との関係のうちに存するかぎり、自らを感知する存在です。意志は、規定されているかぎり、また個別的な存在として行為するかぎり、自らを感知する存在にほかなりません・・・ [「・・・」は原文]

私:
 落ちついて下さい、貴方はまたもや幻想の中にいます。貴方は、2つのまったく異なっていて、対置されさえもする種類のものを、区別しないので誤ってしまったのです。作用と慣性(Trägheit)です。
 自然界においては、運動が静止にまさるということはありません。運動しているある部分が、その運動を静止している他の部分に伝達するときは、逆に静止を他の部分から受けとります。作用と反作用がそれらの源となっているのですが、この作用と反作用は等しいのです。したがって、世界のうちで作用の合計は、反作用の合計と等しいです。一方は他方を廃棄します。そしてこれは、完全な静止や真の慣性をもたらします。
 もともと物のうちの慣性(不活発な力(vis inertiae))とは、物をその物たらしめている力にほかなりません。そしてもっぱらこの力によって、またこの力の程度に応じて、慣性は作用し返すのです。反作用と慣性は、したがって同じものなのです。私たちにこの慣性を認識させるものは、同時に、この慣性を打ち負かすような運動を、あるいはこの慣性によって廃棄されてしまう運動を、認識させます。すなわち、まったく異なった性質の力を、作用力と名づけられている力を、認識させるのです。
 したがって私たちは、世界の2つの部分を見ることになります。1つの部分は、完全に惰性的かつ受動的で、無作用と静止のまったき形象となっています。
 別の部分は、活動的かつ活動的ならしめる部分ですが、自然の死せる諸部分に働きかけてそれらを結合し、また、それら固有の無作用の力そのものによって、それらが生きて作用するようにさせます。ある存在のうちのこのようにさせる作用、このような力行(Anstrengung)、この最初の力なるものは、作用することができるという能力なのです。すなわち前述のある存在が有する領域にある事物に、作用しえる能力です。
 この能力は、可能な方向性のすべてをもっていますが、このことのうちにこの能力の自由はあるのです。この能力は、規定されてはいない力であって、意志の素地(Willensfähigkeit)を、すなわち意欲できる能力を、形成します

スピノザ:
 貴方のお気のすむように語っていただきましたが、私の返答はこうです。なんといっても(訳注11)、私には「最初の力」とやらが――この力は、事物をその事物たらしめるような力(訳注12)ではないのですが――、少しも理解できません。つまり私には、できるという能力が、すなわち、ある存在が有する領域にある事物に、作用できることが可能だということが――この存在は、そのようにできることができるわけですが――、私は理解できないのです(訳注13)。つまりは、可能な方向すべてに作用する力を、香料が香りを発散するように、力や作用をあらゆる方向に発散するような無規定な力を、理解できません。
 私の考えでは、このような力なるものは、概念をくもらせるものであって、何も理解できることは言ってないのです。受動性というのは、つまり、たんに力を受けざるをえないというのは、何でしょうか? また、作用というのは何でしょう? つまり、
・この受動性へと伝わり、
・受動性のうちで、[受動的事物がおこなう] 行為のまったく異質な原因となり、
・受動的事物―-これは、自らの無作用でもって、逆に作用物に働きかけるというのですが――の本質そのものとは相容れない、行為の原因となるような、
作用とは何なのですか? 
 力なるものは、その源から分離できるのですか? 力は、その一部を与えることができるとでも? そしてこの一部は、別個に存在できる? あるいはあえて言えば、この一部は別の物の性状に、しかもまったく別種の物の性状になれるとでもいうのですか? 
 貴方は、「事態がそうであることを、私たちは見ているのですから!」とでも、おっしゃるのですか。私の返答はこうです:「私たちは、太陽が地球の周りを回っていることも、見ているのですよ」。現れている現象はうっちゃって置くことにし、私たちは事物がどうあるかを、認識すべくつとめたいのです。真理は外からやって来るのではなく、私たちのうちにあります。
しかし、完全な抽象性を解することができる頭脳はまれです。つまり、ただ内面的な存在にのみ向けられるような注意深さを、持つ人は少ないのです。私たちはことさら注意深くして疲れることは、今回は避けたいと思います。あなたが言われた世界の2つの部分はさて置き、あなたの学説の理論(訳注14)だけを、少し見ましょう。
 貴方の出した結論をまとめますと、こうです:作用する原因は、事物の進展を随意に規定する;したがって、この原因は知性的(verständig)だといえる;また原因の活動性は、原因の意志のうちに存している。
 そこで貴方にお聞きしたいのですが、原因が知性的であるのは、原因がそのように欲したからなのですか。それとも、原因がもつ意志とは関係なくそうでしょうか? 貴方はおそらく、原因の意志とは関係なくそうだと、答えるのでしょう。しかし、規定されていない思考は空虚です。そして、表象をともなわない考えはすべて、規定されてはいないのです。(訳注15)
 さて、お聞きしますが――創造主は、唯一であって、創造主にとって外的なものはありません(訳注16)。あるいは、この外的なものがまったくの無ではないとすれば、それは創造主自身が創ったものです。では何が、表象Vorstellung)を創造主の思考のうちへと、もたらしたのでしょうか? つまり、個々の規定され無常の諸物についての、表象をです。創造主は、諸物の概念 [=前述の表象] をもつことができるという能力によって、諸物が存在する前に、概念を創りだし、規定したのでしょうか? 
 そして意志の素地は(訳注17)、つまり創造主の意志は、創造主の知性の源泉でもなければ結果でもありませんし、またそうしたことのために知性的でなくなることもありません。ではこの意志は、どこから来てどこにおもむくのか、私には分からないのです。この意志は何であり、どうあって、何たらんとしているのでしょうか? 要するに一言で問えば、「創造主は、その思考と意欲に自らの存在を負うているのか、あるいは、自らの存在に思考と意欲を負うているのか」、ということです。
 貴方のお答えは、こうかもしれません:「この問は笑止であって、神のうちでは、思考も意志も存在も、ただ一つの同じものである」。このご意見には私もまったく賛成なのですが、唯一の異論は、貴方が意志と呼んでいるものは、私には、常に作用している能力のことであって、それ以外のものだとは思えないことです。
 というわけで、私たちの考えは一致します。だから、作用を導いていくような意志については、もう何も言わないでください。すべてのものを支配するような知性、第一原因そのものも従うような、しかしまた、従いはしない知性についても、もう聞きたくありません。いかなる意味においても、このようなものは、馬鹿げたことなのです。

私:
 スピノザさん、興奮しないで。これまでのすべての議論が、どこに行き着いたか、手早く見てみましょう。貴方が私の主張を扱ったのと同じように、私も貴方の主張を扱おうと思います。そこで端的にお尋ねしたいのですが、貴方が貴方の意志にそって行為するには、どのようにしますか? この意志が、[他からの強制によらない] 貴方の [主体的] 作用の結果に他ならないとき、しかも貴方がおっしゃったように、作用の直接の結果であるとしての話ですが。
 貴方が、別に証明などなくても事実は認めるということを、私は前提にしています。というのも、意欲するという人間の能力を証明するように要求することは、この能力の現存(Dasein)を証明するよう要求することだからです。ある人が、自分の外部の事物の表象をもったときに、意欲する能力の現存を感知しないとすれば、また、行為したり求めたりするときに、意欲する能力を感じないとすれば、その人は人間ではありません。[したがって、私たちは人間である以上、意欲する能力をもっているのです。だから、この能力は存在し、よってこの能力は、証明されていると見なせないこともないのです。] まあ、人は自分の存在(Wesen)については、何も決められないのですね。

スピノザ:
 私の存在については、貴方のお好きなように決められて結構です(訳注18)。けれども、私は特定の意欲や個別的な欲求は、他の人と同様もつにしても、意欲する能力なるものをもっていないことは、よく承知しています。貴方が言っている意欲する能力とは、理性の存在(Wesen)そのものです。この存在とあれこれの特定の意欲との関係は、動物性と個々の犬や馬の関係と同じなのです。あるいは人間なるものと、貴方や私との関係です。
 この空想上の形而上学的 [理性の] 存在のせいで、貴方たちのすべての誤謬が生じたのです。貴方たちは、存在もしないあるものにもとづいて――それが何かは私の知るところではありませんが――、行為しえる、あるいは行為しえない力量(Fähigkeit)とやらを妄想したのです。貴方たちが能力とか、能力する能力等々と呼んでいる力量によって、貴方たちは人に気づかれることなく、無からあるものを生じさせます。そして貴方たちは、粗雑な言葉を使うことは巧みに避けるので、衒学者の賛嘆はえますが、真の研究者を怒らせるのです。これらの能力、あるいは能力する能力のうちのどれ一つとして、現実に存在するものはありません。
 規定されているものがもつすべての作用は、同じように規定されているのです(訳注19)。作用しないような力は無く、各瞬間において作用しない力もありません。力というものは、中断することなくその現実性(Realität)の度合いに応じて作用するのです。

私:
 スピノザさん、私の質問の方に答えて下さい!

スピノザ:
 私が貴方のことをうっちゃっておくとでも? 私の答えはこうです。私の行為が私の意志に一致するときには、私はもっぱら私の意志にそってgemäß)行為しています。しかしながら、私を行為するようにさせるものは、私の意志ではないのです。
そこで、次のような逆の(entgegen gesetzte)意見が登場します:私たちは自分が意欲し、求めるものを、よく知ってはいる;が、私たちに意欲させ、求めさせるものが、何であるのかは知らない。知らないがゆえに、意志そのものによって意欲を生みだしたと、私たちは信じるのです。時にはもろもろの欲求も、意志そのもののせいにさえするのです。

私:
 貴方のおっしゃることが、あまりよく分からないのですが。御存知のように、意志を規定するものについて、3つの体系がありますね。まず、無頓着 [一視同仁, Indefferenz] の体系すなわち [精神の] 平衡の体系と呼ばれているもので、これは、自由の体系とも言えるでしょう。ついで、最善の選択の体系すなわち道徳的必然性の体系。そして、物理的必然性の体系すなわち宿命論の体系です。貴方はこの3つのうちのどれに賛成なのですか?

スピノザ:
 3つのどれにも賛成しません。とりわけ2番目のものは、最悪でしょう。

私:
 私は最初の体系に賛成なのですが、どうして貴方は2番目が最悪だと思うのですか。

スピノザ:
 それが、究極原因を前提としているからです。究極原因説なるものは、ほんとうにナンセンス(Unsinn)です。

私:
 より善なるものの選択、すなわち道徳的必然性については、貴方にお任せすることにしましょう [そのようなものは、私にとってはどうでもいいことです]。なぜなら、その体系は自由を廃棄するからです。だが究極原因については、私としては、それを拒否するのはほんとうにナンセンスだと言いたいですね。
 
スピノザ:
 [道徳的必然性と究極原因のうちの] 一方だけを、私にまかせることはできませんよ。貴方も認められるように、すべての個々の事物は自然な性質(Natur)として、自らの維持を目的にしています。つまり、すべての事物は、その存在(Wesen)を維持する傾向があり、この傾向(Streben)を、私たちはその事物の自然な性質と呼んでいます。さらに認められるでしょうが、固体というものは、何か知られている理由から、あるいは特定の目的のために、自分を維持しようとするのではないのです。まさに自分を維持せんがために、維持しようとするのです。なぜなら、このことをその固体の自然な性質が、求めからです。つまり、固体をしてその固体たらしめている力が、求めるからなのです。
 このような傾向を、私たちは本能(den natürlichen Trieb)と呼んでいます。また、この傾向が、感情をともなっているときには、欲求と呼びます。そこで欲求とは、個々の事物の存在維持に役立つものへの傾向に――感情をともなった、個々の事物の傾向に――、他ならないのです。個々の事物の欲求に応じるものは、良いgut)ものと言われます。欲求に反するものが、悪いböse)ものです。
 したがって欲求から、あるいは意識をともなった衝動(Trieb)から、善悪の知識が生じるのです。だから、この逆に思い込んで、結果の方から原因を導出してしまうのは、明きらかに馬鹿げています。
 意志について言えば、意志もまた衝動や欲求に他なりません。ただし衝動ないし欲求が、心(Seele)に関わるかぎりにおいて、つまり、もっぱら表象として、すなわち思考するもののうちである限りにおいてですが。そこで意志とは、欲求にかかずらっている知性(Verstand)に他ならないのです。
 知性(これは、明瞭な概念を持つかぎりでの心そのものに、他ならないのですが)は、個々の事物がもつ傾向や欲求のいろいろなバリエーション(Modifikationen)――これらいろいろな傾向や欲求は、これらをもつ事物の存在と、他の事物との結合や関係へと向かうのですが――を考察しながら、個々の事物の特性と他の事物との調和・不調和を、知性が知りえるかぎりで、決定します。
しかし、知性の行為はただ肯定するか否定するかであって、個々の事物の行為を規定することありません。同様に、知性の他の決定や判断も、それが何であれ、個々の事物の性質を規定しはしないのです。

私:
 貴方のおっしゃることは、光彩陸離たるものがあるのですが、しかし幻惑されはしません(訳注20)。が、明らかになったことは、貴方がすべての自由を否定する宿命論者だということです。このことを、貴方が先ほど認めなかったにしてもです。

スピノザ:
 いえ、すべての自由を否定する、というのではないのです。そのことでは、私もずいぶん都合よく非難されてしまいました(訳注21)
 しかし自由は、夢のようなお話の意欲できる能力なるものに、存するのではありません。なぜなら意欲は、現実に存在する規定された意志のうちにおいてのみ、現存できるからです。意欲することができる能力を、ある存在物に帰するということは、存在物に現存することができる能力を――この能力の力によって、存在物が現実的に現存するかどうかは、その存在物次第だというわけですが――、帰することと同じようなものなのです。
 人間の自由というものは、人間の本質そのものです。すなわち、人間の現実的能力の度合い(Grad)、あるいは人間を人間たらしめている力の度合いです。人間は、ただ自分の本質(Wesen, 本質的存在)の諸法則に従って行為しているかぎり、完全に自由に行為しているのです。
 神は、ただ根拠(Grund)にもとづいてのみ行為し、また行為できるのですし、神は根拠によって存在し、また自ら自身にのっとってのみ存在します。したがって神は、絶対的な自由を持つのです。これが自由に関する私の本当の考えです。
 宿命論について言えば、それが唯物論に基づかせられているかぎり、拒否しています。つまり、「思考は火や光等々と同じように、延長態の変容したものにすぎない」などという、馬鹿げた考えに基づく唯物論ですね。というのも、思考が延長態から由来するというのは、延長態が思考から由来するのと同様、不可能だからです。たとえ思考と延長態が、ただ一つの事物をともに形成しており、両者がこの事物の2つの属性だとしても、思考と延長態とは、まったく異なる存在なのです。
 すでに述べたように、思考とは自らを感知する存在です。したがって、延長態のうちで起きることすべては、思考のうちでも同じく起きます。そして、すべての本来の固体(jedes eigentliche Individuum=個人)は、もっている多様性と統一性に応じて、すなわち固体をその固体たらしめている力の度合いに応じて、心を与えられているのです(beseelt)。この個々の事物 [=個人] のうちでは、思考は必然的に表象と結合しています。なぜなら、個々の事物は、[それをとりまく] 状況を感知することなしに自らの存在を感知することは、不可能だからです。

 私:
 宿命論についての貴方の考えは、もういいです。というのも、「ローマの聖ペテロ寺院は、自立的に(selbst)建っている」とか、「ニュートンの発見は、彼自身によってなされた」、また、「にもかかわらず、心はただ見ているだけである」などといったことを証明するために、もう [宿命論は] 必要ないのですから(訳注22)
 それからさらに、「すべての個々の事物は、他の個々の事物より生じることができた」ということになり、この他の事物は、また違った事物から生じることとなり、こうした事態が無限に続きますが、これらを証明する必要はありません。もっとも、[事物から事物へ続くという議論が成立するには] 最初の原因と、この原因が作用する特定の瞬間が、[前提条件として] いるでしょうが。
 私がすこし前に述べたことを、覚えてらっしゃいますね。その肝心な論点に、そろそろ答えていただけませんか。

スピノザ:
 それらに関しては、貴方のおっしゃった聖ペテロ寺院や、ニュートンの発見について、私の意見を述べてから、すぐに答えます。
 ローマの聖ペトロ寺院は、自立的に建っているのではありません。物体的延長態の全宇宙に含まれているものが、この寺院の存立には寄与しているのです。ニュートンの諸発見についてですが、これらは考える能力にのみ関係しています・・・ [・・・は原文]

私:
 いいでしょう。しかし、貴方が「心(Seele)」と呼ぶ変様した(modifiziert)思考、これは肉体の表象(Idee)ないし観念(Begriff)にほかなりません。つまり、思考の側から見られた肉体そのもののことです。したがってニュートンの心は、ニュートンの肉体のもつ様式(Art)なのです。だからニュートンの肉体は、考えはしなくても、諸発見をしたのです。彼の心が直感し、理解し、感じ、考えた諸発見をですね。

スピノザ:
 貴方は問題をすこし間違って考えておられるようですが、でもいいでしょう。もっとも次の点に留意していただければですが:ニュートンの肉体に、貴方のおっしゃる「様式」をすべての刹那(せつな)で与えるためには、まさに全宇宙が関与するということ、また心が肉体の観念を受けとるのは、肉体にその様式をあらしめたもの [神、実体] の観念をとおしてだけであることです。これらの見解は重要ですが、想像力(Einbildungskraft)が私の主張する真理に抵抗するのを、[残念ながら] 阻止できないでしょうね。
 幾何学者ではない人に向かって、限られた四角形は無限の空間に等しいと、言ったとします。そしてこのことを証明すると(訳注23)、その人は驚くでしょうが、しかしやがては、よく考えてみることによって、この困惑から脱することでしょう。
 私の考えに想像力をさえある程度融和させることは、不可能ではないかもしれません。が、それは正しい仕方でとりかかって、じょじょに進歩し、未開人の衝動から、つまり彼を保護していた木や洞窟へ帰ろうという衝動から、聖ペトロ寺院の建立へといたればです。
私たちは大変複雑な国家制度というものを熟慮して、何がこの制度を一つの全体へともたらしているかを、見出すべきです。これを熟慮すればするほど、ただ、盲目的な原動力(Triebfeder)と、1つの機械 [国家制度] の全体的な動き方に気づくのです。もちろん機械といっても、諸力が固有の必要性とエネルギーの程度にしたがって構成されるような、直接的な(von der ersten Hand)機械であり、またすべてのバネが、自らが作用していることを感知し、その感知を相互の働きかけをつうじて、必然的で限りない過程にわたって、たがいに知らせあうような機械です(訳注24)
こうしたことは、言語についてもいえます。言語がもつ完全な構造は、奇跡のようにみえますが、言語のどれ一つとして文法の助けによってできたのではありません。細かく見てみれば、いかなる事物においてであれ、行為が思慮に先行しているのであり、思慮とは進行中の行為にすぎないのです。要するに、私たちは自らがすることを知ってはいますが、それ以上は何も知ってはいないというわけです。
 さて、貴方の肝心な論点についてです。貴方の主張は、「原因から原因へと無限にたどっていくことはできない。ある特定の瞬間が、つまり、最初の純粋な原因の側からの行為の始まりが、あるはずだ」というものでした。
 私の主張はこれとは逆で、「原因から原因へと無限にたどることができる、すなわち、無から何ものかが生じるといったことを想定しないかぎり、行為の純粋な絶対的始原は、想定できない」ということです。この [私の主張の] 真理は、この [主張を] 提示するだけで理解されるでしょうし、また厳密な証明もできます。したがって、いわゆる中間原因をたどって至りつくことができる第一原因なるものは、また延長態と持続態のすべての諸点にまったく内在し、同じく作用する第一原因なるものは、原因などではないのです(訳注25)
 この第一原因は、神とも自然ともよばれていますが、その存在根拠と同じ根拠にもとづいて、作用します。そして、第一原因の現存(Dasein)根拠や目的がありえないように、それが行為する根拠や目的も同じくありえないのです。

     ――――――――――――――
 これでスピノザに関しては、打ち切ることにします・・・(以下は訳出を省略)

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訳注1)原文は:ich Ihnen mit einer Antwort . . . gedroht habe.
 直訳すると:「私は貴方を・・・返答で脅した」となります。もちろんこれは、社交的な謙譲のユーモアです(時代は、フランス革命以前のロココなのでした。若きヤコービのあでやかな姿を御覧じろ)。しかし、日本語の表現には対応するものがないので、平凡に「約束した」と訳しました。

訳注2)原文は:Ich will mir endlich hierüber genug tun.
 sich genugtun は、「満足する」ですが、訳出しづらいところです。

訳注3)『Aristée すなわち神性について』は、1779年パリで出版されたヘムステルフイスの著作。

訳注4) 以下の「私」の発言箇所で、『アリステ』の内容がときどき語られることになります。マイナー社の哲学文庫版『スピノザ書簡』では、そのような箇所には注が付けられていますが、煩瑣になるので訳出しませんでした。

訳注5) 原文は bei Tatsachen ですが、浅学のゆえ意味を取りかねます。一応、「事実にそって」と訳しました。

訳注6) 岩波文庫の畠中尚志訳『エチカ』では、modificatio を「様態的変状」と訳しているので、それに倣いました。

訳注7) この箇所の訳は不確かです。この文全体を、原文で示せば:
 Aber diese hat ihr Warum, und von Ursache zu Ursache fortgegangen, kommst du endlich zu der bestimmten Wirksamkeit, oder zum Willen irgendeines wirkenden Dinges, und also hat die Richtung zur ersten Ursache, Willen.
 文中の du はスピノザを指しますが、一般的な人を意味していると考えて、訳出していません。最後の文は、主語が Richtung、定動詞 hat の目的語が Willen だと、解釈しました。

訳注8) 「中間原因」に対するものは、「究極原因」だろうと思います。これは、神の意志とか、実体でしょう。

訳注9) この「Selbstgefühl(自己感知)」というのは、そのまま訳せば「自己感情」になります。しかし、その意味は「自らを感じること」という意味でしょうから、Gefühl を「感情」と訳したのでは、ピントがあいません。そこで、一応「感知」にしました。「Selbstgefühl(自己感知)」というのは、実質的には私たちが「自己意識」と呼ぶものでしょう。この後の「感知」も「意識」と読み替えていいと思います。

訳注10) この辺の訳は、分かりにくいものになっていますが、あえて言わせていただきますと、ヤコービは文章があまり上手ではないのですね。そうそう、シェリングは別として、マイモン、シュルツェ、フィヒテ、ヘーゲル――皆さんそれぞれに、恐ろしい文章をお書きになっています。訳出するほうとしては・・・

訳注11) この箇所の原文は:
 Einmal, begreife ich nichts von einer ersten Kraft, . . .

 この冒頭の einmal の意味が分かりにくいのですが、一応、「3.(否定できない不変の事実を示す)確かに、実に、全く・・・」(相良守峯『大独和辞典』博友社)の意味に取っておきます。しかし、この意味の場合には doch や nun を先行させるようですが、原文では einmal が単独で使われており、気にかかります。(自分の浅学を棚に上げて言うのもなんですが、訳していてこういう箇所に遭遇すると、心臓に悪いといいますか、ストレスがたまります)。

訳注12) つまり、事物に本質的で内在的な力、ということでしょう。

訳注13) えっ、この1文、分かりにくい訳ですって? 原文は:
 [Ich begreife nichts] von einem Vermögen, das heißt von einem können, wirken zu können auf das, was in der Sphäre des Wesens liegt, das mit diesem können zu können begabt ist;

 ヤコービが、このような皮肉な文章に(3ヶ所の強調イタリックを、順にご覧下さい)したのは、あとで、「こうしたものは、いかなる意味においても、馬鹿げたことなのです」と言わんがためなのでしょう。

訳注14) 「あなたの学説の理論」と一応訳出しましたが、自信ありません。原文は:
 die Theorie von deiner Theorie

訳注15) ここでの「規定されていない(unbestimmt)」という語を中心とする主張が、前の「意志」ならびに「知性的」の議論とどうつながるのか、分かりにくいところです。おそらく、ヤコービは、「意志なき知性は、規定されてはいない」、「意志なきところに、表象はない」ということを、前提しているのでしょう。

訳注16) つまり世界すべては、創造主のうちに存在するということです。

訳注17) 「意志の素地(Willensfähigkeit)」とは、「意欲できる能力」だとの説明がありました。

訳注18) この辺のやり取りは、軽口でしょう。つまり、討論に余裕をもたせるための、間合いです。

訳注19) この文は訳しづらいのですが、原文は:
 Das bestimmte Wesen ist auf gleiche Weise bestimmt in allen seinen Wirkungen.

訳注20) この訳文は、不確かです。原文は:
 Was du da sagst, verblendet eben nicht durch seine Klarheit.
 何か典拠があるのか、あるいは諺のようなものなのか・・・

訳注21) この訳文は、不確かです。原文は:
 Ich bin fern, alle Freiheit zu leugnen, und weiß, dass der Mensch seinen Teil davon bekommen hat.

 文中の der Mensch(人間)が、
a. スピノザ自身のことであるのか、
b. スピノザ以外の人たちを指すのかが、
まず問題となります。
 次いで、seinen Teil bekommen haben には相反する2つの意味があるようです(小学館『独和大辞典』第2版):
c. 「すでに自分の分け前をもらっている」と、
d. 「しかるべき罰を受けている」です。

 拙訳では、b と c の意味にとっています。

訳注22) この文の訳は、不確かです。原文は:
 Was du vom Fatalismus annimmst, ist mir genug; denn man braucht nicht mehr, um darzutun, dass sich die Peterskirche zu Rom selbst gebaut hat; . . .

 文中の brauchen(必要とする)には、Fatalismus(宿命論)に相当する2格ないし4格の目的語が省略されていると、解釈しました。

訳注23) ユークリッド幾何学において、かかる証明があるとは、筆者は寡聞にして知りません。

訳注24) ここでスピノザが念頭においている機械は、機械の運行過程に人間の操作が介在してくるものではなく(例えば、御者が運転している馬車)、物理的・自動的に運行するような機械だと思われます(例えば、川の流れで水車が回転し、それに結合している碾き臼が回る製粉機)。

訳注25) 原文は:
 Die erste Ursache ist also keine Ursache, zu der man durch sogenannte Mittelursachen hinaufsteigen kann: sie ist ganz und gar inwohnend, gleich wirksam in jedem Punkte der Ausdehnung und der Dauer. Diese erste Ursache, welche . . .

 文中 zu der の関係代名詞 der は、内容的に直前の keine Ursache ではなく、Die erste Ursache を受けていると理解しました。すると、sie ist ganz und garsiedie erste Ursache を指していることになります。
 こうして die erste Ursache が話題になっていたので、次の文 Diese erste Ursache . . . が、Diese で始まっていると思われます。
 では zu der の先行詞が Die erste Ursache ならば、なぜ zu derDie erste Ursache の直後にもってこなかったのかといえば、それでは主部が長くなりすぎ(sie ist . . . 以下も付いています)、述部の keine Ursache と釣り合いがとれないからでしょう。

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(初出: 2010/10/24-2011/1/16)
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