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 ヤコービの著作の翻訳
 ヤコービによるスピノザ哲学の要約_1 v. 1.6.0

『スピノザ書簡』よりの抜粋
(正確な書名は:
『モーゼス・メンデルスゾーン氏宛の手紙で表明した、スピノザの学説について』)
Über die Lehre des Spinoza
in Briefen an den
Herrn Moses Mendelssohn


  目 次

はじめに
 ● 注意点
I. テキストについて
II. オンライン・テキストについて
III. 凡例
IV. 訳
 ● *S. 88 - 110(Meiner 社の哲学文庫版
 ● *S. 63 - 80(Meiner 社の哲学文庫版)

はじめに

 18世紀末のドイツ思想界に大きな影響をおよぼしたのは、カントの『純粋理性批判』(A版1781年)と、スピノザ哲学だということは、広く認められています。しかし後者の影響については、その機縁となった「スピノザ論争(汎神論論争)」(1785年から。ウィキペディアに詳しい経緯が掲載されていますhttp://ja.wikipedia.org/wiki/汎神論論争)は、一般的な形で紹介されることがほとんどで、特にドイツ観念論(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)との具体的論点の照合ということは、あまりなされていないようです。

 これは無理からぬことで、この論争の登場人物といえば、
・ヒューマニズムの長老作家レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)、
・ドイツ啓蒙主義の大御所であるメンデルスゾーン(Moses Mendelssohn, 1729-1786)、
・信仰(感情)哲学のヤコービ (Friedrich Heinrich Jacobi, 1743-1819)
等ですから、相当レトロなイメージになりがちです。しかし、
・1780年にヤコービと対話時のレッシングは51才、1783年にヤコービと文通が始まったときのメンデルスゾーンは、54(53?)才と、まだ老衰する齢ではありません。
・ヤコービは、自称「反スピノザ主義による、唯一正統なスピノザ主義者」、あるいは「正当なカント主義者」です。一筋縄ではいかない明晰・先鋭な知性をもっており、いずれにしろ一国一城の主です。現代風にいえばトップ・プロの一人で、才能を持って生まれ、独自の哲学観を築いたと評されるべきでしょう。

 「スピノザ論争」が起きたのは、『純粋理性批判』初版(A版)が出版された4年後であり、それが大きな反響をよんだということは、やはりカント哲学では納まりのつかない大問題が出来したといえます。私見では、
・ヤコービの鋭敏な頭脳を通過したスピノザ哲学が広まったことにより、スピノザは当時の「現代哲学」として蘇生しました。ゲーテをはじめとする思想家・芸術家・知識人たちも、スピノザ的汎神論へとなびくようになりました。
・ヤコービによる同哲学の紹介・批判によって、同哲学に関する論点・視点がしぼられ、共通の問題意識が当時形成されたようです。
・シェリングとヘーゲルは、テュービンゲン大学の学生だった1792年頃、近代の哲学者ではカントやルソーとともにヤコービを読んでいたようです(『世界の名著 フィヒテ シェリング』付録年譜、635ページ)。すると、1785年出版の『スピノザ書簡』か、1787年の『ディビッド・ヒューム』か(あるいは両方)ということになりますが、より世間を騒がせたのは前者ですから、前者の可能性が高いといえるでしょう。すなわち、シェリングとヘーゲルはフィヒテを知る以前に、ヤコービのスピノザ哲学を知っていたかもしれません。

 このヤコービ版スピノザ哲学を、カント哲学が創始した超越論的方法を適用して改訂したのが、フィヒテ以降のドイツ観念論だったと評することも可能でしょう。
(1) なるほど、スピノザとカントのの哲学はまったく異なります。しかし、前者の実体も後者の物自体(主観の側と客観の側の2つ)も、それだけが真に存在するものでありながら、私たちの前に現れることはなく、現存物(前者では様態、後者では現象)の原因となってそれらを生みだすものです。
 そこで、物自体を実体に対応させるときには、2つの哲学を同一の視野・問題意識に据えることもできると思います。

(2) また、フィヒテの自我哲学は、
 (a) スピノザからの直接の影響を受けてはいないにせよ、
 (b) しかし、後者の実体を許容するものとなっています。(注1)
 そこでシェリングとヘーゲルは、自我をスピノザの実体に擬すことによって、容易にフィヒテの哲学を受容できたのではないでしょうか。

 そこでまずは、ヤコービの『スピノザ書簡』(正確な題名は『モーゼス・メンデルスゾーン氏宛の手紙で表明した、スピノザの学説について』(Über die Lehre des Spinoza in Briefen an den Herrn Moses Mendelssohn)(1785年)を読まねばならないのですが、残念ながらまだ邦訳がありません。そこで以下に、ヤコービのスピノザ哲学への理解が端的に現れている箇所を、まずは訳出する次第です。


 注意点
(1) 広く一般的に「物」や「事」を表す Ding を、本訳文では「事物」と訳出しました。しかし意味上は、「人」を表している場合も、多いようです。このことは、著者ヤコービが、個人をも哲学的・抽象的に個物として扱っていることの、反映だと思われます。そこで、Ding を「人」と訳しかえることなく、「事物」で通しました。

(2) 文中の「延長態」というのは、Ausdehnung の訳です。ふつうは「延長」と訳出されるようですが、「延長しているもの」という意味で使われていますので、「態」を添えました。「延長物」とまでは訳出しなかったのは:
 デカルトは存在を「延長(態)」と「思考(=精神)」に2分しましたが、この2つがスピノザでは実体の2つの属性になっています。したがって現代の私たちからすれば、「延長(態)」には物質のみならず、物理的エネルギーも含まれることになります。「延長物」と訳したのでは、エネルギーを含まない狭義の「物質」と、取られかねないためです。

------------------------------------
注1) スピノザからの直接の影響がなかったことは、フィヒテのシェリング宛手紙(1801年5月31日?)の一節からうかがえます。そこでのフィヒテの述懐によれば:
 「知識学は、原理においては欠けるところはまったくないのですが、しかし、完成してはいません。つまり、最高の総合が、まだなされていないのです、神的な領域を合わせた精神世界の総合 [die Synthesis der Geisterwelt] が。この総合をしようとしたとき、人々は [私のことを] まさに『無神論』と叫んだのです。」(Fichtes und Schellings philosophischer Briefwechsel, 1856, S. 83. 『フィヒテ-シェリング往復書簡』座小田豊/後藤嘉也訳、法政大学出版局、1990年では、147ページ)

 もしフィヒテが、スピノザ哲学の「実体=神」の影響を強く受けたとすれば、彼の「自我」が神との連関・「総合」なくして発想されるなどとは、考えにくいことです。(ちなみにこの「総合」は、後の1806年『幸いなる生への導き』において、神と自我は存在が通底するとされることによって、なされます)。

 また、フィヒテの知識学がスピノザ哲学を容れえるものであったことは、
(1) 独断論としては(つまり、超越論的な説明抜きの哲学としては)、スピノザ哲学が最高の形態であるとの彼の評価や、
(2) シェリングがスピノザに目をつけたのはいいことだとの、彼の評などから分かります。


I. テキストについて

 読書用としては、マイナー(Meiner)社の 哲学文庫(Philosophische Bibliothek)シリーズ中の Über die Lehre des Spinoza(2000年)が入手しやすいようです。この版の特徴としては:

(1)1998年より刊行されだした、いわゆる決定版全集Friedrich Heinrich Jacobi. Werke. Bd. 1.1: Schriften zum Spinozastreit, herausgegeben von K. Hammacher und I. M. Piske)に基づいています。

(2) この哲学文庫版には、詳しい目次がついていません。その不便を補うために、哲学文庫版に所収されているもの(これらについては、同書 X(ローマ数字の 10) ページで説明されています)を、以下に記しますと:
 ● 1785年初版の『モーゼス・メンデルスゾーン氏宛の手紙で表明した、スピノザの学説について』(Über die Lehre des Spinoza in Briefen an den Herrn Moses Mendelssohn)・・・ 3 ~ 151 ページ。(ページ数は、哲学文庫版でのページを表しています。以下同じ)

 ● 第2版での増補部分(1789年)。この部分は、以下のものを含みます:
   ・デュッセルドルフのハインリッヒ・シェンク氏への献辞・・・155 ~ 156 ページ。
   ・序文(Vorrede)・・・157 ~ 165 ページ。
   ・およびその一部としての(?)「人間の自由について」・・・166 ~ 181 ページ。
   ・付録(Beilage)として、メンデルスゾーンの書いた「ヤコービ氏への抗弁」・・・182 ~ 192 ページ。
   ・付録(Beilage)I 「ブルーノ著『原因・原理・一つのものについて』からの抜粋」・・・195 ~ 220 ページ。
   ・付録 II 「無神論についてディオクレスからディオティメへ」, Diokles an Diotime über den Atheismus. ・・・221 ~ 232 ページ。
   ・付録 III・・・233 ページ以下
   ・付録 IV・・・237 ページ以下
   ・付録 V・・・242 ページ以下
   ・付録 VI・・・252 ページ以下
   ・付録 VII・・・271 ページ以下
   ・付録 VIII・・・294 ページ以下

 ● 第3版での、すなわちヤコービ全集(1812-1825年)、第4巻(1819年)での増補部分。以下のものがあります:
   ・「序文」(Vorbericht)・・・299 ページ以下

(3)哲学文庫版には、所収されていないものは:
 ● 『メンデルスゾーンからの非難への反論』, Wider Mendelssohns Beschuldigungen

(4)なお、所収の『モーゼス・メンデルスゾーン氏宛の手紙で表明した、スピノザの学説について』の一部をなしている、ヤコービの Hemsterhuis 宛の手紙(Abschrift eines Briefes an den Herrn Hemsterhuis im Haag.)は、オリジナルのフランス語のものではありません。ヤコービが出版を念頭におきながら、ドイツ語に訳出したものです。

(5)初版と第2版および第3版との字句が異なるものは、各ページに脚注として記されています。第2版は D2, 第3版はD3(2と3は下字)と表記されています。

(6)4種類のページ数が記されています(同書328ページに説明されています)。同書の左(右)側のページを例に取れば、
 ・ページの左(右)上部:この哲学文庫版自体のページ数
 ・ページの右(左)上部:初版(1785年)の該当するページ数
 ・左(右)の余白の、直立した活字体の数字:第2版(1789年)の該当するページ数
 ・左(右)の余白の、斜めの筆記体の数字:第3版(1819年)の該当するページ数

(7)第3版はヤコービ全集、第4巻F. H. Jacobi, Werke, Bd. IV-1, 2, hrsg. F. Roth und F. Köppen, 1819; reprint, 1968)に所収されているものです。したがって、第3版のページ数(左右余白の斜め筆記体)は、全集第4巻でのページ数になります。
 ところが前記 Bd. IV-1, 2 のように、全集第4巻が第1分冊と第2分冊に分かれているため、これらのページ数を反映して、哲学文庫版での第3版ページ数も一貫したものとはならず、何度も途切れたり、逆行したりしています。そこで逞しい想像力によって推測しますと、以下のように対応するのではないかと思います:

 哲学文庫版 3      ページ → 第 1 分冊の 1    ページ
         9      ページ →  1       5 ~ 6 ページ
         11 ~ 50 ページ →  1      37 ~ 94 ページ
         51 ~ 53 ページ →  1      52 ~ 54 ページ
         54 ~ 59 ページ →  1      94 ~ 103 ページ
         60 ~ 151 ページ →  1      119 ~ 253 ページ
         155 ~ 156 ページ → 1      3 ~ 4 ページ
         157 ~ 161 ページ → 1      7 ~ 13 ページ
         166 ~ 179 ページ → 1      17 ~ 36 ページ
         179 ~ 181 ページ → 1      13 ~ 15 ページ
         182 ~ 192 ページ → 1      103 ~ 119 ページ
         193 ~ 296 ページ → 2      3 ~ 167 ページ

(8)あってしかるべきコンマのない場合が、散見されます。おそらく、当時の句読法を残したものと思われます。例えば:
・先行詞と関係代名詞の間
das ist(すなわち)の後

(9)人名索引は付属しているのですが、事項索引と詳しい目次がないのは残念です。


II. オンライン・テキストについて

 「III. 訳」の
  ・「● *S. 88 - 110(Meiner 社の哲学文庫版)」のテキストは、ここです
   同サイトに行き、So denke ich noch で検索して下さい。
  ・「● *S.63 -」のテキストは、こちらにあります。
    同サイトの最初の文章からになります。

 前記 I の書籍のテキストは、オリジナルに近い表記法をとっているため、読んでいて時に混乱しますが、そのようなときに現代正書法のオンライン・テキストがあるのは、助かります。例えば、
前者: . . . in dem . . .
後者: . . . , indem . . . (S. 76, Z. 8)


III. 凡 例

 便宜を考えて、訳出した箇所については2種類のページ数を記しました。
    例:LS, S. 55-57/* 23-25

 a) まず左側に、哲学文庫版に記されている第3版のページ数を記しました。しかし、前記「I. テキストについて」 (7) のような問題があるため、ページ数の前に表題もそえました。表題は略記とし、以下のとおりです:
  LS: Über die Lehre des Spinoza:
  EJ: Die Beilage. Erinnerungen an Herrn Jacobi
  B.IV:
Beilage IV
  B.V: Beilage V

 b) 次に、前記 a のページ数の右側に、「/」を置いたあと、哲学文庫版のページ数(S. 以下)と行数(Z. 以下)を記しました。明確にするため、哲学文庫版のページ数の左側には * 印を添えています。例えば:
   LS, 172-205 / * S. 88, Z. 4-S. 110, Z. 10
は、「以下の訳文は、Über die Lehre des Spinoza からの抜粋であり、全集(1812-1825)第4巻では172ページから205ページに該当し、哲学文庫版では88ページ4行目から110ページ10行目に該当します」ということです。

(2) テキストへのヤコービ自身による注(原注)は、多くの場合訳出していません。

(3) [  ] 内の挿入は、訳者によるものです。


 ● LS, S. 172 - 205 / * S. 88, Z. 4 - S. 110, Z. 10

 ・・・さて、ここで新たにスピノザの哲学体系について、述べてみようと思います。

I. いかなる生成に対しても、生成したのではない存在 [ein Sein] が、基礎になければならない。また、いかなる発生物に対しても発生したのではないものが、いかなる変化するものに対しても変化しない永遠なものが、基礎になければならない。

II.生成というものは、存在と同様、生成しえたものでもなければ、始まりえたものでもない。すなわち、
・それ自体において [in sich selbst] 存続するものや
・永遠に変化しないもの、
・また、変転するもののうちで持続するものは――この持続するものが、かつて変転するものなくして、ただそれだけで存在したとすれば――、
生成を生みだすようなことは決してないであろう。自らの内においても、また外においてもである。というのも、これら2つの場合は同じく、無からの発生を前定にしているからである。

III. したがって永遠の昔から、変転するものは変転しないものと、時間的なものは永遠なものと、有限なものは無限なものとともに存在していたのである。そして、有限なものの始まりを想定する人は、無からの発生を想定しているのである。

IV. 有限なものが、永遠の昔から無限なものとともにあったのであれば、有限なものは無限なものの外部には存在できない。というのは、もし外部に存在したとすれば、この有限なものは、[かの無限なものとは] 別のそれ自体で存続する存在 [無限なもの] であるか、あるいは、存続するものによって無から生み出されたかである [が、それは不可能だ] という理由からである。

V. [つまり、] もし有限なものが、存続するものによって無から生み出されたのであれば、そのときの力あるいは規定性も――この力あるいは規定性によって、有限なものは無限なものによって無から生み出されたとなっているのだが――、また同様に無から発生せざるを得なかったことになろう。というのも、無限なもの・永遠なもの・変転しないものの内では、すべてのものが、無限であり、変転なく、永遠に現実的だからである。
無限な存在が初めて始めるなどという行為は、ただ永遠に行われているが如く [nach Ewigkeiten] に、始められることができるだけなのであろう。そしてそのときの規定性は、無から以外には生じえないことになってしまおう。

VI. したがって有限なものは、無限なものの内にある。そこで有限なものすべての総体は――すべての瞬間において永遠すべてを、過去のものも未来のものも、[無限なものと] 同じような仕方で自らのうちに含むのだから――、無限なものそのものと一つであり、同じものなのである。

VII. この総体は、無限なものを構成するところの有限なものを、たんに寄せ集めたものではなく、もっとも厳密な意味における全体である。すなわち、全体の各部分は、ただ全体の内でのみ、また全体にしたがってのみ、存在することも考えられることもできるのである。

VIII.物において本質からすれば [der Natur nach]より早く存するものは、前述のことより、時間的に早いのではない。本質からすれば物体的延長は、その延長のあれこれのあり方以前に、現存 [da sein] することができる。たとえこの延長が、
・それだけでは [für sich]、
・[つまり、] あれこれの規定されたあり方ぬきには、
・すなわち、非時間的には、
・あるいは、悟性の外部では [つまり、現実認識を行う悟性の手の届かないところなどでは]、
決して存在しはしないとしてでもである。
 思考 [Das Denken] についても、まったく同様である。その本質からすれば思考は、あれこれの表象より早く存在する。しかしながら思考は、
・ある規定されたあり方でしか、
・つまり時間的に見ると、あれこれの表象と同時にしか、
現実に存在することができない。

IX. 以下の例によって、前記 VIII の事態を明らかにし、この事態の把握の一助としよう。
 いわゆる水・地・風・火の四大について、次のように仮定してみよう:さまざまな在り方をする物体的延長 [die körperliche Ausdehnung] すべては、この四大に帰することができ、四大に還元ができると。
 さて、ある物体的延長が火ではなく、水だと想像することはできる。また、地ではなく火だと、風ではなく地、等々と想像することはできよう。けれども、このような在り方 [水・地・風・火] のどれも物体的延長というものを前提にすることなくして、それだけでは想像されはしないであろう。したがって、物体的延長というものはその本質からすれば、四大の各々において、最初のものであり、本来の実在であって、また実体的な物であり、能産的自然である。

X. ・最初のものを――延長的なものや、思考するものにおいてのみならず――、
・あるものや他のものにおいて、また同様にすべてのものにおいて、最初のものを、
・ [すなわち] 原-存在 [Ur-Sein] を、
・それ自体は性質とはなりえないが、他のすべてのものが、それが有するたんなる性質であるような、遍在・常在し、変化しない現実的なものを、
・存在すべての、こうした唯一にして無限な存在を、
スピノザは神と、すなわち実体と名付ける。

XI. したがって、このような神は、ある種の事物に属することはなく、[他のものから] 分かたれて [他と] 異なる個物などではない。そこで、個別的なものどうしを区別するような規定性も、神には属しえない。特殊でそれ固有な思考や意識といったものは、特殊でそれ固有な延長・形・色と同様に、神には属しえないのである。すなわち、純然たる原素 [bloßer Urstoff] 、純粋質料、普遍的実体ではないものは、それがどう呼ばれていようとも、属さないのである。
 
XII. 「規定とは否定である。あるいは、規定はそ [れが対応するところ] の存在からすれば、事物に関係していない」。したがって個別的な事物は、たんにある規定されたあり方で現存するかぎり、存在ではない [non-entia]。だが、無規定で無限な存在 [Wesen, 本質] は、唯一真に実在するような存在 [ens reale]である。すなわち、存在するすべてのものは存在し、存在の外部においては、存在するものは何もない」。

XIII. ・問題をもっと明瞭なものにするために、
・また、神のもつ悟性について [von dem Verstande Gottes] 生じだした困難な問題点が、おのずと明らかになるために、
・そして、すべての曖昧さをなくすために、
スピノザが彼の哲学体系をまとわせるのに都合がいいと思った用語法のヴェールの端っこを、私たちはつかんで、このヴェールをめくってみたいものである。

XIV. スピノザによれば、無限な延長と無限な思考は、神の属性である。この延長と思考は両者相まって、ただ一つの分離できない本質を形成している。そこで、人が神を考察するときに、これら2つの属性のうちのどちらによってするのかは、どうでもいいのである。なぜならば、観念間の [Begriffe] 秩序ならびに連関は、事物間のそれと同じになっているからである。神の無限の特性 [Natur] から形相的に [formaliter, つまり観念的に] 生じてくるすべてのものは、また客観事物的に [objektivè] この特性から生じてこざるをえないのである。そしてこの逆もまた同様である。

XV. 個々の変化する物体的事物は、「無限の延長の内での」運動ないし静止という様態 [Modi] である。

XVI. 運動と静止は、無限な延長の直接の様態そのものであって、この延長と同じように、無限であって変化せず、また永遠である。この2つの様態は相まって、すべての可能な物体的形態と力の本質的形式を形成する。これらの様態は、こうした形態と力に関しアプリオリなものである。

XVII. 無限な延長の2つの直接的様態に、無限な絶対的思考の2つの直接的様態が、すなわち意志と悟性が、関係している。意志と悟性は、運動と静止が形相的に含んでいるものを、客観事物的に含んでいる。また意志と悟性は、それぞれが、延長という特性を有するすべての個々の事物ならびに思考するという特性を有するすべての個々の事物より以前に、存在するのである。

XVIII. 無限な意志と無限な悟性以前には、無限な絶対的思考が存在するが、この思考だけが能産的自然に属する。無限な意志と無限な悟性は、所産的自然に属する。

XIX. そこで、
・能産的自然は、
・[つまり、]「自由な原因として考察されるかぎりでの神」は、
・すなわち、無限な実体は、
「変状を考慮にはいれずに、それ自体として考察すれば、すなわち正しく考察すれば」[スピノザ『エチカ』第1部、定理5からの引用] 意志も悟性も――これらが無限なものであれ有限なものであれ――、持ってはいないのである。

XX. これら [延長ないし思考という性質を有する] さまざまな事物が、互いの内で、また同時に、そしてなおそれらの「本性からは [der Natur nach]」互いに前後して、いかに存在しえるかは、これに関して先ほど述べたことにより、新たな説明は必要としないであろう。

XXI. さて、次のこともまた、十分明瞭に示されたことと思う:
個々の物体のほかに、ある特定の [besondre] 無限な運動や静止が――ある特定の無限な延長も――、存在することはありえない。また、スピノザの諸原理によれば、思考する有限な諸事物のほかに、ある特定の無限な意志や悟性が――ある特定の無限で絶対的な思考も――、存在することはありえない。

XXII. しかしながら、疑念を払拭し、再検討の余地を残さないために、有限な悟性についてのスピノザの考えを、私たちは一瞥(いちべつ)しよう。私はどこでも、とりわけここでは、私の Hemsterhuis への手紙を、下敷きにしている。というのもその手紙では、私はスピノザの考えの内容をただ述べるだけでよかったため、多くの事柄がより分かりやすくなっているからである。

XXIII. 有限な悟性は、すなわち無限な絶対的思考の「様態的変状への様態化は」[訳注]、現実に存在する個々の事物の観念から生じる。
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[訳注] 原語は、das modificatum modificatione です。
(1) この modificatione は、ラテン語の名詞 modificatio の単数・奪挌です。というのは――
modificatio を辞書で引くと、単数・属挌は「-onis」となっています。単数・属挌が is で終わっているので、「第3変化名詞」です。そして、単数・主格の modificatio より、単数・属格の modificationis の方が1音節多いので、第3変化名詞の中の「子音幹名詞」(すなわち、複数・属格が -um で終わる um 型)です。
 語基、つまり語尾変化しない部分は、第3変化名詞では、単数・属格から語尾の -is を除いた形ですので、modification です。「子音幹名詞」では、語基と語幹は一致するので、modification は語幹でもあり、それに「子音幹名詞」の単数・奪格の語尾 –e を加えると、modificatione になります。

(2) 次に、modificatum は、ラテン語の動詞 modifico の 完了分詞・単数・中性・主/対格(=スピーヌム)です。このことは、辞書で modifico を引くと、この動詞の基本形の一つである完了分詞・単数・中性・主/対格が、-atum と記されていることから分かります。
 完了分詞は多くの場合、受動の意味を表し、動詞の働きをする形容詞となります。

(3) この形容詞の modificatum にドイツ語の定冠詞 das を付けて、名詞化すると das modificatum になります。

(4) さて、das modificatum modificatione の意味ですが、スピノザの『エチカ』第1部、定理22には、
quatenus modificatum est tali modificatione,
また、定理28の証明には、
quatenus modificatum est modificatione,
とあります。
『エチカ』のこれらの箇所を踏まえて、ヤコービは今問題の語句を書いたと思われます。畠中尚志氏による定理28の証明の訳は、「[神のある属性が] 様態的変状に様態化した限りにおいて」(岩波文庫、上、71ページ)です。すなわち、
・奪格の modificatione を、「様態的変状に」と訳し、
・受動の(現在)完了である modificatum est を、「様態化した」と訳しています。むろん文法的に訳せば、「様態化された」と受動になるのですが、意味の上からこなれた日本語として、「様態化した」と氏は訳出されたのでしょう(岩波文庫、上、277ページ、氏の訳注8は、そうした事情をうかがわせるものだと思います)。

(5)『エチカ』では、modificatum には est が付いて受動の完了ですが、ヤコービでは modificatum は完了分詞です。しかし、意味は同じだと思います。そこでヤコービの das modificatum modificatione を「様態的変状への様態化は」と訳出した次第です。なお、畠中氏が解説していますように、様態的変状とは様態のことに他なりません(岩波文庫、上、270ページの氏の訳注33)。

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XXIV. 個々の事物が、それ自体の観念の原因とはなりえないのと同様に、観念も、個々の事物の原因とはなりえない。すなわち、思考が延長 [的事物から] 由来することはありえないのと同様に、延長 [的事物] が思考から由来することもありえない。
 延長と思考の両者は、2つのまったく異なった本質である。がしかし、ただ1つの物のうちにあるの。すなわち、両者は1つの同じもの(一にして同一, unum et idem)なのであるが、これがたんに異なった性質において見られるのである。

XXV. 絶対的な思考は、
・普遍的な存在 [Sein]の内での、
・κατ’εξοχηυ [ギリシア語は不案内なもので] の存在の内での、
・すなわち、実体の内での、
純粋にして直接的な絶対的意識である。

XXVI. 実体の属性については、思考を除いて、私たちはただ一つ、物体的延長の表象しか持っていない。そこで私たちはまたそれのみに依拠するのであり、そして次のように言うのである:「意識は延長と分かちがたく結合しているので、延長のうちで生起することはすべて、意識のうちでも生起せずにはいない」、と。

XXVII. ある事柄の意識を、私たちはその事柄の観念 [Begriff] と名付ける。だがこうした観念は、ただ直接的観念たりえるだけである。

XXVIII. 直接的な観念は、その内では、またそれだけでは、表象 [Vorstellung] を欠いている。

XXIX. 表象は間接的観念から発生するのであり、間接的対象を必要とする。つまり、表象が存在するところでは、相互に関係しあういくつかの個別的事物がなければならない。そこでは内的なものとともに、外的なものもまた現れ [sich darstellen] なければならない。

XXX. ある現実に存在する個別的事物の直接的で直の [direkt] 観念を、この物の精神 [Geist]、心 [Seele]([すなわちラテン語で] mens [精神、心])と名づける。このような観念の直接的で直の対象としての、個別的な物そのものは、身体 [Leib] という。

XXXI. この身体の内で、心はこの身体外部のもので自身が気付いた [gewahr] ことすべてを、感じるのである [empfinden]。心がそれらに気づくのは、それらから身体が受けとる [それらの] 諸性質 [訳注] の観念によってにほかならない。そこで、身体が性質を受け取れないようなものについては、心はまったく気付かないのである。
------------------------------------------
[訳注] 原文は Beschaffenheiten なので、「諸性質」と訳出しました。この節に相当するのは、『エチカ』第3部、定理32の「備考」の終末部分などですが、そこでのスピノザの用語は affectiones(諸作用、諸影響)となっています。岩波文庫では畠中氏は「刺激(変状)」と訳しています。

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XXXII. これに対して、心は自らの身体を気付きえないのであって、身体がそこにあるということも知らないのである。心が自らを認識するのも、身体外部にある事物から身体が受け取る諸性質とこれらの観念によってに、ほかならない。というのも、身体というのはある仕方で規定された個別的な事物なのであって、個別的な事物というものはただ他の個別的な諸物によって、かつそれらと一緒に、そしてそれらの間でのみ、現存しえるようになるのだし、またそうしたあり方でのみ現存し続けることができるからである。
 したがって、身体の内部 [=心?] は身体の外部なくしては存続できない。すなわち身体は、
・他の外部の事物への多様な関係なくしては、
・また逆に、これらの事物の身体への多様な関係なくしては、
・[つまりは、他の事物の] 諸性質の絶えざる変化なくしては、
現存することもできなければ、現実に存在するものとして考えられることもできない。

XXXIII. 身体の直接的観念についての直接的な観念は、心の意識を形成する。そしてこの意識は、心が身体と合一している [vereinigt ist] のと同じような仕方で、心と合一している。すなわち:観念自体が、個々の事物のある規定された形相 [Form] を示すように、心の意識は、観念のある規定された形相を示している(原注)。しかし、個々の事物とその観念、そしてこの観念についての観念、これらはったくもって1つの同じもの(一にして同一)であって、この同じものが、異なった属性や性質のもとで見られるのである。(原注)
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(原注)『エチカ』第2部、定理21とその「備考」。

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XXXIV. 心は、身体の直接的な観念に他ならず、心と身体とは1つの同じ物なのであるから、心のすばらしさもまた、その身体のすばらしさ以外のものではありえない。悟性の能力は、表象すなわち客観的対象にもとづく(nach der Vorstellung oder objectivè)肉体 [Körper] の能力に他ならない。同様にして、意志の行う決意は、肉体の決定性に他ならない(原注1)。
心の本質もまた、客観的肉体の本質に他ならない(原注2)。
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(原注1)すでに引用した『エチカ』第3部、定理2の「備考」には、以下のようにある:
 「以上すべてからきわめて明瞭に次のことが分かる。それは精神の決意ないし衝動と身体の決定とは本性上同時に在り、あるいはむしろ一にして同一物なのであって、この同一物が思惟の属性のもとで見られ・思惟の属性によって説明される時、我々はこれを決意(デクレトウム)と呼び、延長の属性のもとで見られ・運動と静止の法則から導き出される時、我々はこれを決定(デテルミナテイオ)と呼ぶということである。
「このことはなお、これから述べることからいっそう明瞭になるであろう」。[畠中訳によります。岩波文庫、上巻、174ページ]

(原注2)「精神はその身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ物を永遠の相のもとに考える」。(『エチカ』第5部、定理31の「証明」)

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XXXV. すべての個々の事物は、他の個々の事物を前提とするが、これは無限に遡及していく。そしていかなる個々の事物も、無限であるものから直接に生じることはできない。さて、観念相互の秩序・関連は、事物相互の秩序・関連と同じなので、個々の事物の観念もまた、神から直接に生じることはできない。この観念は、すべての個々の物体的事物と同じようなしかたで、現存するようにならねばならない。またこの観念は、ある特定の物体的事物と同時にしか存在できない。

XXXVI. 個々の事物は、無限なものから間接的に生じる。すなわち個々の事物は、神によって生みだされるのではあるが、それは神の本質の直接的な諸変状 [Affektionen]、すなわち諸性質 [Beschaffenheiten] にあずかってである。 これらの変状は、永遠に神と同じ [gleich] なのであり、また無限である。神はこれら変状の原因であるが、それは神が自らの原因であるのと同様である。
 したがって、個々の事物は、神から(直接的には)ただ永遠で無限なあり方で生じるのであって、つかの間で有限的、かつ一時的なあり方でではない。というのも、個々の事物は相互に生みだしあったり、壊しあったりしているのであり、またそれゆえに永遠の現存において変わらずに持続しながら、それらはもっぱら他の個々の事物から生じるからである。

XXXVII. 同じことは、個々の事物の観念についてもいえる。すなわちそれらの観念は、神によって生みだされ、無限な悟性のうちで現存するが、そのようなあり方は、物体的諸形象(die körperlichen Gestalten)が、無限な運動と静止において、すべて同時に、そして常にまさしく現実的に、無限な延長のうちで存在するあり方と同じである。

XXXVIII. 神が無限であるかぎり、現実的に存在する個々の事物、すなわちまったく規定された事物のいかなる観念も、神のうちに存在することはできない。これらの観念が、神のうちに存在し、神によって生み出されるのは、ただそれらの事物が神のうちに現に [gegenwärtig] 生じ、事物と共にその観念も生じることによってのみである。すなわち、このような観念は、ただ一度だけ個々の事物と同時に存在したのであり、この事物を離れては決して神のうちに存在することはなく、また、この事物と同時に、あるいは事物以前・以後に、神のうちに存在するのではない。(原注)(訳注)
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(原注)『エチカ』第2部、定理9とその証明、およびその系と証明。

(訳注)この1文は意味が取りづらく、前記の(原注)の参照箇所を見ても、よく分かりません。原文は:
 das ist, dieser Begriff ist nur Einmal mit dem einzelnen Dinge zugleich Vorhanden, und ist außer dem gar nicht in Gott vorhanden, weder mit dem einzelnen Dinge zugleich, noch vor oder nach ihm.

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XXXIX. 個々の事物はすべて、相互の前提となっており、また相互に関係している。その結果、それらの一つは他のすべての事物なくしては、また他のすべてはこの一つの事物なくしては、存在できないし、考えられもできない。すなわち、個々の事物はともに、分離できない全体を形成している。あるいは、より正確にまた本来的には:
 個々の事物は、一つのまったくもって分割できない無限な事物のうちにあって、ほかでもなく現にあるあり方でもって現存し、共にある。

XL. その内に諸物体が現存し共にあるような、まったくもって分割できない存在 [Wesen] は、無限で絶対的な延長である。

XLI. その内にすべての観念が現存し共にあるような、まったくもって分割できない存在は、無限で絶対的な思考である。

XLII. 前記2つの存在は、神の存在に属しており、また神の存在の内に包含されている。それゆえ神は、特徴として(訳注), 延長する物体的なものだと言うことも、また思考するものだと言うこともできない。同一の実体が延長し、かつ同時に思考するのである。
 あるいは言いかえれば:いかなる神の属性にも、特定の異なる実在 [Reale] が基礎になっているのではない。そこで各属性は、互いの外部に存在し、各々それだけで独自に現存する事物だとは、見なされえないのである。これら属性はただ、一つの同じ実在的事物の、すなわち超越論的存在の、現実性 [Realitäten] あるいは実質的なもの [Substantielle]、あるいは本質的な表出である。この超越論的存在は、まったくもってただに唯一なものでありえるし、すべてのものはこの超越論的存在のうちで必然的に混じりあい、まったくもって一つのものに成らざるをえないのである。
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(訳注) 原語は distinctivè で、フランス語だと思われ、挿入句として使われています。一応「特徴として」と訳出しました。

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XLIII. それゆえ神という無限な観念は、神の本質についても、この本質から必然的に帰結するすべてのものについても、ただ唯一にして不可分の観念である。

XLIV. この神という観念は、唯一にして不可分であるから、全体の中と同様に、各部分の中にも存在する。すなわち、各物体の観念は、つまり個々の事物の観念は、それがどのようなものであれ、神の無限の本質を自らのうちに含まざるをえないのである、完全完璧に。

これでもって、私のスピノザ哲学の要約を終えましょう。・・・

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(初出: 2009/9/9-2010/10/16)
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