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 ドイツ観念論関係の誤訳(10)
 ヘーゲル『論理学』からの引用 v. 1.1


  目 次

はじめに
I. 訳出箇所について
II. 拙 訳


   はじめに

 廣松渉『弁証法の論理』(青土社、1980年)113ページには、『論理学』からの引用があります。廣松氏によれば、「これは『同一性』に関する有名な条りですが、迂生が勝手な訳文で誣いているという嫌疑を避けるために武市健人先生の訳で引用します」ということです。
 このへんが氏の如才ないところなのでしょうが、いずれにしろ引用文は訳のわからないものとなっております。これでは、「判りやすい文章ではありませんので、何卒、繰返し味読して議論の構造を摑んでいただきたいと念います」とフォローされても、難儀な話で――というより、よくこのような厚顔なセリフを吐けるものだと驚き、かつは呆れ・・・いぇ、私も廣松ファンの一人なのですが。
 そこで、「著者 [廣松氏] がもしこれまで世に問うた十余冊の自著のうち三冊の自撰を求められるとすれば、躊躇することなくその一冊として本書 [『弁証法の論理』] を数え」(同書、i ページ)るような書籍に、意味不明な個所があっては大変ですので、同箇所をここに訳出する次第です。なお、武市氏の訳文は掲載を省略します。

 なお、誤解を避けるために、<はじめに>のご一読をお願いします。


I. 訳出箇所について

 『(大)論理学』の「第2巻 本質論」、「第2章 A. 同一性」の「2」の一節です。
・アカデミー版全集では、第11巻、262 ページ。
・ズーアカンプ版著作集では、第6巻 40-41 ページ。


II. 拙 訳

 すなわち同一性は、自己内への反射であるが、そうであるのは、この反射が内面を突き放す(Abstoßen)限りにおいてである。そしてこの突き放しは、自己内への反射として、直接自己を自己の内へと取り戻す突き放しとしてある。したがって同一性は、自らと同一であるところの区別なのである(訳注1)
 が、区別が自己と同一なのは [すなわち、区別が区別であるのは]、ただ同一性ではない限りであって、絶対的な非同一性である限りにおいてである。そして、非同一性が絶対的であるのは、自らとは別の何ものをも含まず(訳注2)、自己自身をのみ含む限りである。つまり、非同一性が、自己と絶対的に同一である限りである。
 したがって、同一性はそれ自身において絶対的な非同一性である。・・・

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訳注1) 「同一性は、自らと同一であるところの区別なのである(Sie [die Identität] ist somit die Identität als der mit sich identische Unterschied.)」の一文の意味は:
 同一性が、自らと同一であるところの」事態であることは、当たり前で、ふつうに理解できます。ここの箇所での内容に即していえば、自己内へ反射した後の自己も、そのように入射する前の自己も、同じ自己だということです。
 しかし他方では、入射以前と入射以後では、反射の運動が介在するために、レベルが違ってきます。つまり、直接的であった自己と、運動によって媒介された自己(規定性が加わった自己)とは、同じ自己(同一性)だといっても区別が生じています。そこで、文の後半「区別なのである」となります。
 この「同一性は、自らと同一であるところの区別なのである」というテーゼは、巷間ではヘーゲルの創出したものと考えられているようです。しかしこれは、フィヒテの「自我は自己を措定する」という洞察の、ひいてはドイツ観念論そのものの奥義なのでした。→「1. ドイツ観念論とは?」

訳注2) 原文は:
 insofern sie [die Nichtidentität] nichts von ihr anderes enthält, . . .
・これは、往時の表記法によるアカデミー版全集に依拠したマイナー社哲学文庫版からの引用です。anderesa は小文字ですが、しかし副詞ではなく、名詞だと思います。(ズーアカンプ版では、Anderes となっています)
そこで、nichts von ihr anderes が問題となりますが、nichts anderes (別の何ものも)に von ihr が付加されたのだと思います。ihr は、前に女性名詞は「非同一性」しかないのでそれを指します。残る von が厄介ですが、もともとは anderes von ihr で、「非同一性の別のもの」という意味だと理解したのですが・・・


(初出: 20011-11-24)
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