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フィヒテの著作の全訳
『シェリングの超越論的観念論を
       読んだ際のコメント』
(*1) (1800年) v. 1.4.

Bemerkungen bei der Lektüre von Schellings transzendentalem Idealismus


   拙稿の目次

『シェリングの超越論的観念論を読んだ際のコメント』の翻訳
はじめに
凡例


     シェリングの超越論的観念論を読んだ際のコメント』

 哲学の、彼 [シェリング] による2つの根本的な学問への区分:自然哲学および超越論的哲学

 しかし、私に言わせれば、客観としてのこの自然は、ただ君 [シェリング] が考えているのにすぎない。君が考えるかぎりにおいてのみ、自然は君にたいして存在する。[シェリングの] 超越論的観念論の体系においては、この自然は、知性(Intelligenz)が捨象されることによってのみ説明される: ――或る段階が存在するのであって、この段階は自然から知性への移行なのである。――神学においても、事態はまったく同じである。神学は客観化された知性であり、したがって 第 3 の根本的学問であろう。

 シェリング曰く:私たちのもっている実践的性質(Natur, 自然)がなければ、人は超越論的観念論に駆りたてられはしないであろう。

 私の返答は:(認識そのものについて)反省する自由をも、君が実践的なものと見なすのであれば、君は正しいのだろう。しかし見なさないのであれば、人は私たちのを反省すること自体によって、[超越論的] 観念論へと駆りたてられるのである。――もし私たちが、たんに諸対象について知るだけならば、そしてこの知については知ることが無ければ、超越論敵観念論は決して可能とはならないであろう。この [知については知ることが無いような] 観点は、そのことを承知しているときは、[シェリングの] 自然哲学の観点であり、知らないときは独断論の観点である。

 さて、これに対してシェリングは、次のように主張するかもしれない:あなた [フィヒテ] が自然哲学をあなたの領域に引き入れたように、私も自然が自分自身を反省すること説明によって、 [超越論的] 観念論を私の領域に引き入れるのである。――
 私の返答は:
1) 君は実際にそのことを為したのだろうか、つまり遂行したのか?(私自身は、そのことを『人間の使命』[1800年] において言ったのだが、自然にとって必然的なものとして、それを演繹をもしたのである。というのは、特にシェリングも次のように認めているのだから:
 「自然の概念のうちには、自然を表象する(*2)知性的なものも存することは、含まれていないということ」(*6)。3 ページ(*7)。「自然を表象するものが何もなかったとしても、自然は存在するだろうと思われる」(*8)

2) 仮に君がそのことを為すとしても、君は反省の反省を、すなわち自由を、手短に言えば超越論的観念論のすべてを、絶対的に単純で必然的なものから説明できるのだろうか? 明らかにできはしない。ましてや神学においておや。

 言うまでもなくシェリングは、私とは違ったように超越論的観念論を、理解している。彼においては、第3の中間部分 [der dritte mittlere Theil] がある。

 [『超越論的観念論の体系』の] 28 ページ。「私たちにとっては、自己意識は固定点であって、この固定点にはすべてのものが結びついているが、このことは証明を必要とはしない。しかしこの自己意識が、より高次の存在の(おそらくはより高次の意識の。そしてこのより高次の意識は、さらに高次の意識のという具合に、無限に続くことが可能だが)たんに限定されたもの(die Modifikation)であろうということについては、すなわち一言でいえば、自己意識もまた説明可能なものであろうということについては――私たちが<何も知ることはできない>あるものからの、説明が可能だということである。なぜなら私たちのもつ知識という総合 [判断] はすべて、まさに自己意識によってはじめて形成されるのだから――、超越論的哲学者としての私たちには、関係ないものである。というのは、自己意識は私たちにとっては、存在の一様式(eine Art)などではなく、の一様式だからである。しかも、私たちに対して存するかぎりでの、最高・至高の様式である」。

 ここにはまた、シェリングが区分するところのものが幾つかある(Hier liegt wieder Manches für seinen Unterschied,)。そしてここでは、あの [シェリングが行う自然哲学と超越論的哲学(超越論的観念論)への]2分裂の必然性が、確かに読み取れようというものである。

1) 知識は、存在の一様式として確かに考察できる。[フィヒテから見たシェリングの主張。]
2) しかし、私見では:すべての存在は、知識への関係のおいてのみ存在する。彼 [シェリング] は私に答える:「否。すべての知識は、たんに存在の一様式である」。

 の主張の方がの主張より、正しいであろうか? 私たちはいつの日か、相手を片付けることができるだろうか? [uns packen は意味不明。一応「相手を片付ける」と訳しました。] ここでもやはりブーテルウェク(*3)の非証明性に対する嘆きが、現れてくるようである。
 こう主張してもいいだろう:「よく考えなさい」。彼は答えるだろう:「もし私があなたの観点に立つとすれば、そのときには無論あなたが述べたことは正しい。しかし、私はそのような観点に立つつもりはないのです。それともあなたの観点へと、強いることができるとでも言うのですか?」

 私の観点へと、前述の仕方で反省の反省でもって、誘えないだろうか? たとえば君がただの反省(自己(das Selbst))を、存在の様態(Modus des Seins)として説明するときに。
 明らかなことだが [シェリングの論じる] そこにおいては、まったく新しい系列が――存在や客観性(Objektivität)を少しも伴わない、客観性から取り出された(herausgehoben)系列が――、生じている。前記の存在は、すべての知識からは独立に、展開している。

 このことについては、大いにシェリングの自然哲学と比較せねばならない。彼は自然を1つの活動と考えており、この活動は他の活動によって阻止(hemmen)される。そしてこれによって、妨げのさまざまな程度に応じて(auf den verschiedenen Graden dieser Hemmung)諸現象を生じさせるのである。
 これに対して [フィヒテの考える] 知性は、自ら自身を自ら自身によって把握し、また阻止する力である。これは自然に対する真の対立物であり、自らの内へ絶対的に帰還するもの、自己である。知性は、絶対的に対置しているものから、また客観的に単純なものから、たんにそれらの上昇(純化)によって導き出すことはできない。知性はそれ自らの始まりであり、前提である。したがって、最初のもの、絶対者(das Absolute, 絶対的なもの] である。統一性Einheit, 一性)であるが、同時に2重性(Duplizität)としてある。それゆえまさにそれ自体で、同時に自らの原因でもあれば結果でもあるようなものなのである。
 そうでなければ、私たちはあの二元論 [自然哲学と超越論的観念論] のもとに止まってしまうだろうし、2つの力を仮定的に想定することになろう。そしてこの2力を、再び別のものから正当に説明しなければならないだろう。この別のものも、また別のものからということになり、かくしてかの無限後退やまったくの恣意、原理の喪失が、またもや現出せざるをえないだろう。

 こうした問題が必ずや、また決定的なものとして、彼を襲うだろう。彼はこの問題を、[彼の] 自然から抜き去ることは、決してできないだろう。自我を [自然から] 引き出すこともできないだろう。[この段落の訳は不確かです。原文は:
 Dies also packt ihn sicher und entscheidend. Dies dürfte er aus der Natur nimmermehr herausbringen; nimmermehr ein Ich.]
 
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   訳 注

(*1) この小論は、I. H. フィヒテによる遺稿集に収められた草稿です。Walter de Gruyter & Co. 社の Fichtes Werke では、第 XI 巻に所収されており、同巻 368 ページの編集者による脚注には、「1800 年に書かれた」とあります。
 なお、邦訳が2015 年に出版された『フィヒテ全集』(晢書房)の第10巻に、収録されています。同巻での題名は、『シェリングの超越論的観念論を読んだ際のコメント』になっています。題名の訳は、できるだけ統一されているのが望ましいことは言うまでもありません。そこで、拙訳もこれにならって改変しました。

(*2) 「表象する」と訳出したのは、他動詞の vorstellen です。小学館の『独和大辞典』ならびに「SAGARA Großes DEUTSCH-JAPANISCHES WÖRTERBUCH」によれば、「表象する」の意味では vorstellen は3格の sich を伴います。伴わなければ「前に立てる、前に置く」という意味です。
 ここでは、伴っていないのですが、文脈から、「表象するような」という訳にしました。

(*3) Friedrich Bouterwek (1766-1828) 「ドイツの哲学者。ゲッティンゲン大学教授。(平凡社『哲学辞典』1971年)

(*4) なお、フィヒテの非我がシェリングの「自然」に相当するという、時に見られる見解は誤解です。この草稿の文章を援用すれば、フィヒテの自我は「自ら自身を自ら自身によって把握し、また阻止する力である」以上、自我は自らに否定的な非我を、自らの内から生み出さざるをえないわけです。それに対し、シェリングの自然は物心並行論です。

(*6) フィヒテは記憶にたよって、引用したと思われます。フィヒテの引用は:
 dass es nicht im Begriff der Natur liege, dass auch ein Intelligentes sei, das sie vorstellt.
 他方、シェリングの原文は:
 Im Begriff der Natur liegt es nicht, dass auch ein Intelligentes sei, was sie vorstellt.
 「自然の概念のうちには、自然の表す知性的なものも存するということは、含まれていない」
 2 つの文の意味は、ほぼ同じです。

(*7) このページ数は、当然のことながら、1800 年のオリジナル版『超越論的観念論の体系』のものです。

(*8) 直前の引用と同じく、オリジナル版 3 ページでのフィヒテの引用は:
 Die Natur, so scheint es, würde sein, wenn auch Nichts wäre, das sie vorstell.
 シェリングの原文では、関係代名詞 daswas であり、vorstellt は過去形のvorstellte (表象した)です。文意に違いはありません。


     〔はじめに〕

 フィヒテが、シェリング初期の代表作『超越論的観念論の体系』(1800 年)を読んで、同 1800 年に書かれたとされる感想が、この草稿です。この著作についてフィヒテはシェリングに、「貴方の『超越論的哲学の体系』の方は、確かに [落掌しました]。そして、熟読しました」と書き送りました(1800-11-15 フィヒテからシェリングへの手紙)。その後、「大げさな賛辞は、私たちの間ではふさわしくないでしょう。すべてが、貴方の天才的叙述から期待されえたとおりであると、言えば十分です」と賛辞を述べましたが、しかし、「貴方が超越論的哲学と自然哲学を対置Gegensatz(訳注2)させていることについては、私はいまだに同意できません」と続けて、ここに 2 人の間の論争が開始されることになりました。

 シェリングの自然哲学は、結局フィヒテにとっては無用の長物でした(*4)。これはフィヒテの観点からすれば納得できます。しかし彼は、シェリングの発想を理解せずに、シェリングの自然を近代的世界観の2分法である、「物質-精神」シェーマの物質(文中の「存在」)に、押し込めようとしています。(シェリングの自然は、知性(精神・心)との物心並行論(Parallelismus)で理解されねばなりません。)
 とはいえこの草稿からは、フィヒテ-シェリング関係のみならず、ドイツ観念論特有の発想も読み取れ(「すべての存在は、知識への関係のおいてのみ存在する」など)、興味深いものがあります。

 なお、「超越論的観念論の体系」後のシェリングの同一哲学を、フィヒテが批判した草稿には、『シェリングの同一性の体系に関する、叙述について』があります。

 1800年のオリジナル版『超越論的観念論の体系』は、オンライン上で閲覧できます


     〔凡例〕

・ [ ] 内の挿入は、訳者によるものです。

・ テキストは、Walter de Gruyter & Co. 社より 1971年に出版された、Fichtes Werke herausgegeben von Immanuel Hermann Fichte の第11巻所収のものを、使用しました。
(オンライン上のテキストは、こちらです。)

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(初出:2008-06)

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