HOME | サイト地図 |
フィヒテの著作の紹介 |
|
『知識学の概念、あるいはいわゆる哲学の概念について』 (1794年5月) v. 3.0.2. Über den Begriff der Wissenschaftslehre oder der sogenannten Philosophie |
|
拙稿の目次 はじめに 凡例 参考までに 『知識学の概念』の目次 [第1版] 序文Vorrede 第1章 知識学全般の概念について 第1節 知識学概念のとりあえずの提示 第2節 知識学の概念の発展 第2章 知識学の概念の検討 第3節 [表題はなし] 第4節 知識学は、どの程度確実に人間の知識一般を包括しえたのか? 第5節 普遍的な知識学を、知識学によって基づけられた個別的な学問と分かつ境界は、どのようなものか? 第6節 普遍的な知識学は、とりわけ論理学とどのようにかかわるのか? 第7節 学問としての知識学は、自らの対象とどのようにかかわるのか? 第3章 知識学の暫定的な分類 第8節 (表題はなし) 〔はじめに〕 〔凡例〕 [第1版] 序文(Vorrede) 第1章 知識学全般の概念について 第2節 知識学の概念の発展 第2章 知識学の概念の検討 第4節 知識学は、どの程度確実に人間の知識一般を包括しえたのか? 第5節 普遍的な知識学を、知識学によって基礎づけられた個別的な学問と分かつ境界は、いかなるものか? コメント: 初版では、この節に2つのフィヒテによる注が、含まれていました。幾何学と自然科学についてそれぞれ論じられていたのですが、第2版では削除されました。やはりさすがに言いすぎだと、 感じたのでしょう。しかしフィヒテの発想法を知るうえで、興味深いものがありますので、自然科学の方については、訳出しておきました。 そこでは、自然科学の諸法則も、研究者がはじめから「自然の中へ入れておいたもの」だと述べられていますが、いかにも悪しき観念論の典型のような主張です。しかし、フィヒテの論理を忖度(そんたく)すれば自然観察の前に法則の知識が存在したところの研究者の精神とは: ・近代的「主-客」対立における主観ではありません。 ・むしろ、「主=客」合一態における主観の契機です。 ・個人的な意識・精神ではなく、私たちから見れば共同主観性です。 こうしたことを勘案すれば、たんに常識的な視点からの「悪しき観念論」という非難が、妥当するものではありません。とはいえ、フィヒテのこのような発想では(そしてこの根本的発想は、シェリングやヘーゲルにも引き継がれるのですが)、自己完結したというよりも閉じられてしまった哲学体系が帰結することになります。私たちとしては比喩的に言えば、投影図をとって平面的に見ればなるほど閉じられているが、立体的には無限でありえるような構成を、考えるべきだと思います。 訳(全訳ではありません): 第3節で、同じ命題であっても、普遍的な知識学の命題となっている場合と、個別的な学問の原理となっている場合では、意味あいが違うことを、私たちは見い出した。個別的学問の原理となっている場合には、それになお、たとえば何かが付け加わって来なければならないのである。付け加わるべきものは、知識学からしかもたらされない。というのは、知識学には人間の持つことのできるすべての知識が、含まれているからである。そこで、知識学のうちの 1 つの命題が、個別的学問の原理となるべき命題と、結合するのにちがいない。 私たちが今答えねばならないのは、直接知識学自体の概念から派生した問題ではなく、知識学以外にも実際に諸学問があるという仮定から派生した問題である。だから私たちも、同じく仮定によってこの問題に答えてもよかろう。すなわち、私たちは前述の境界のあり方の一つの可能性を示したが [すなわち、知識学のうちの 1 つの命題が、個別的学問の原理となるべき命題と、結合するということ]、当座はそれで十分だろう。この示したものが真の境界であるかどうか(おそらくそうであろうが)ということは、ここでは証明できないし、またすべきでもない。 さてそこで、強いられて必然的に完遂するような、人間のある種の精神活動を、知識学が含んでいると仮定してみよう。しかし、そうした活動の究極的な説明根拠として、「精神は活動するように強制されることはまったくなく、思いどおりにふるまえる」という、前述の同じ精神が持つ能力を、知識学が設定するものととする。 すると知識学によって、必然的な活動 と自由な活動の2つが与えられていることになる。人間の精神的活動は、精神が必然的に活動するかぎり知識学によって規定されていよう。しかし、精神が自由に活動するかぎりにおいては、規定されてはいない。 そしてさらに、自由な活動といえども何らかの理由で、規定されると仮定してみよう。そのような事は、だが知識学のうちでは起こりえないであろう。しかしながら、規定というものが問題となっているのだから、そのような事は学問のうちで、したがって個別的な学問のうちで起きなければならないであろう。こうした自由な活動の対象は、知識学によって与えられる必然的なものに他ならない。というのも、知識学が与えていないものは何もなく、知識学が与えるものは何であれ必然的なものだからである。 したがって、個別的な学問の原理のうちで、知識学が自由なものとした活動が、規定されなければならない。すなわち、知識学は原理に必然と自由を与えるが、個別的学問の方は、自由に対して規定性を与える。この点に、両者間の明快な境界線があるといえよう。それ自体としては自由な活動が、規定された方向性を得るやいなや、私たちは普遍的知識学の領域から、個別的な学問の分野へと移るのである。このことを2つの例を使って、説明しよう。 1) 知識学は絶対的な境界 [Grenze, つまり、一つの領域] として空間と点を、まったく必然的 [als notwendig] に与える。しかし知識学は、想像力に対し思うがままに点を措定する自由を与えるのである。この自由が規定されるやいなや、例えば、限界なき空間の果てに向けて点を動かし続け、そのことによって線を引くことが規定されるやいなや、それはもう知識学の領域ではなく、幾何学という個別的学問の分野なのである。ある規則にしたがって空間を境界づけるという課題や、空間内での構成は、幾何学の原理 [の関与するところ] であって、このことにより幾何学は、知識学と明確に区別される。 2) 知識学によって、たんなる表象の法則からはまったく独立している非我と、それらにしたがって非我が観察されねばならない(原注)ところの諸法則が、必然的に与えられる。 原注 [第2版(1798年)では削除された]:次のようなことは、自然研究者にとっては奇妙だと思われるだろうが、やがては厳密に証明されるだろう。すなわち、自然研究者が自然の観察によって学んだと信じている自然の諸法則は、彼自身がはじめに自然の中へ入れておいたものなのである。小さな法則から、天体の運動に関するような大きな法則まで、観察に先だって、人間の全知識の有する原理から導出できるのである。 なるほど、いかなる自然法則も、また法則一般も、それらの法則が適用されるべき対象が与えられていないときには、意識にのぼりはしない。また、すべての対象が、必然的に法則と一致するとか、同じ程度で一致するというのでもない。いかなる対象も、法則と完全には一致していないし、できもしない。しかし、かかるがゆえに、[逆に] 私たちは法則を観察によって知るのではなく、すべての観察の基礎に法則をすえると言うのである。そして、私たちが自然を観察するとき、私たちから独立した自然の法則があるというより、私たちのための法則があるのである。 [本文の続き] しかしこのとき判断力は、これら法則一般を適用するかどうかについての完全な自由をもっている。また、さまざまな法則があり、さまざまな対象があるなかで、どの法則をどの対象に適用するかについて、例えば人間の身体をあるいは自然物として、あるいは有機物として、あるいは動物的生命体として考察するのかについて、判断力は完全な自由をもっている。 けれども判断力が、特定の対象が特定の法則に一致するかどうか、するならばどの程度かをみるために、その対象をその法則に照らし合わせるときには、判断力はもう自由ではなく、規則のもとにおかれている。したがって、私たちはすでに知識学の領域にいるのではなく、自然科学という別の学問分野に入ったのである。 経験において与えられる対象を、私たちの精神のうちで与えられる法則と照らし合わせるという仕事 [Aufgabe] が、自然科学の原理である。この仕事は、私たちが進んでおこなう実験から成り立っており、自然が私たちへおよぼす無規則な作用 [Einwirkungen] への受動的な態度から成り立つのではない。この実験は、私たちが自らの意志で自らに課したものであり、実験 [結果] と自然は合致することもあれば、しないこともある。このことによって、自然科学は知識学と分かたれる。 なぜ知識学だけが絶対的な全体性をもつのか、個別的学問はすべて限りがないのか、ということもここで分かる。知識学は必然的なもののみを含むのである。そのようなものは、必然的に量に限りがある。 その他の個別的学問は、それが私たちの精神についての学問であれ、私たちからまったく独立している非我についての学問であれ、すべて自由へと向かう、ただし法則の拘束を受けてはいるが。そこで、個別的学問の領野は限りないものとなるのである。 TOP 第6節 普遍的な知識学は、とりわけ論理学とどのようにかかわるのか? コメント: この節では「反省」と訳される Reflexion が登場します。これは普通の意味での反省(自分がなした行為や思ったことを、倫理的に検討し、今後の指針にすること)ではなく、哲学用語としての反省(意識に生じたことを、自覚的に整序すること)です。 次に、ふつう私たちは「A = A」という命題を、暗黙のうちに、論理学ないしは意味論的領域で自明の真理と受けとっています。しかし、フィヒテはこの命題の発生の場面から問題にし、自我によるこの命題の措定から考えていきます。 訳(全訳です): 知識学は、可能なすべての学問のために形式を定めねばならない。ふつう考えられているところによれば、これにも一理あるのだろうが、論理学もまた同じことをする。この2つの学問はどのような関係にあるのだろうか? とりわけ、形式を定めるという両者が自分のものだ見なしている仕事について、どのような関係にあるのか? 論理学は、可能なすべての学問にたんに形式のみを与えねばならぬが、知識学は形式のみならず内容も与えなければならないことを思いおこすならば、この大変重要な問題の探求はすぐに容易なものとなろう。知識学においては、形式は内容から、そして内容は形式から、決して分離してはいない。知識学の各命題においては、形式と内容はもっとも緊密に統合されている。[したがって、] 論理学の命題のうちには可能な学問の形式はあっても、内容はないのであれば。論理学の命題が同時に知識学の命題となることはない。論理学の命題と知識学の命題は、異なっているのである。 したがってまた、全学問は知識学そのものではないし、知識学の一部というのでもない。一般的に全学問は――このことを哲学の現況においては奇妙に思う人がいるにしても――哲学的な学問ではなく、それぞれが固有に抽象的な学問なのである。とはいえそのために、これら学問の威厳が傷つくわけではない。 学問というものが、このようであってみれば、自由のもつ1つの規定が――この規定によって、学問と普遍的な知識学との間に、境界が設けられるのであるが――、明らかにされねばならない。実のところ、この規定はたやすく見いだされるであろう。 知識学においては、内容と形式は必然的に統合されている。論理学は、内容を捨象した形式そのものを定めねばならない。この捨象は、もともと必然的に起きるものではない。もっぱら自由によってなされるのである。したがって、自由がこのような捨象を行うためには、自由は論理学において規定されていなくてはならない。それは、抽象(Abstraktion [捨象とも訳しえる])と呼ばれる。こういうわけで論理学の本質は、知識学の全内容の捨象にある。 このようなあり方をしている論理学の命題が、たんに形式であるのかというと、それは不可能なのである。というのも命題一般の概念のうちには、命題が形式と同様に内容をも持つということがあるのだから(第1節を参照)。それゆえ、知識学においてはもっぱら形式であるものが、論理学では内容であらねばならないだろう。この内容は、再び知識学の普遍的形式を得るであろうが、この形式は、論理学においてはまさに論理的命題の形式として考えられよう。 [前記知識学の普遍的] 形式を、形式 [a] の形式 [b] となすような――すなわち、形式 [a] は形式 [b] の内容として存するのだが ――、こうした自由の第2の活動は、反省(Reflexion)と呼ばれる。[文章のこの部分は、第2版では次のようになっています:形式をその形式固有の内容となし、自己 [=形式] 自身の内へと帰還させるような(in sich selbst zurückkehrt)、こうした自由の第2の活動は、反省と呼ばれる。] いかなる抽象も、反省無くしては存在しない。またいかなる反省も、抽象無くしては可能でない。抽象と反省それ自体として見れば、自由の行う活動である。しかし、両者が相互に関係しあうときには、それぞれが必然的に他方からの制約を受けるのである。[第2版では以下の補遺があります: 総合的思考にとっては、両者は一つの同じ活動であり、2つの側面から見られたものにすぎない。] ここから、知識学と論理学の一定の関係が生じる。知識学が論理学を基礎づけるのであって、論理学の方が知識学を基礎づけるというのではない。知識学は論理学からは、まったくもって証明されえないのである。知識学に先だっては、いかなる論理学の命題も、矛盾律と言えども、妥当なものとして前提することはできない。逆に論理学の各命題は、そして全論理学も、知識学から証明されねばならない。論理学において定められた諸形式は、知識学においての特定の内容がもつ現実的な諸形式であることが、示されねばならないのである。したがって、論理学がその妥当性を知識学から借りてくるのであって、知識学の方が妥当性を論理学から借りるのではない。 さらに言えば、知識学が論理学によって条件付けられ、規定されるのではなく、論理学の方が知識学によってそうされる。知識学は、例えばその形式を論理学から得るのではなく、自ら自身のうちに持っており、自由による捨象の可能性のために、この形式を定めるのである。 それどころか、知識学は論理学の適用に条件をもうける。すなわち、論理学が定める諸形式を適用しえる内容は、これら諸形式がすでに知識学において包括している内容だけなのである。だが、必ずしも包括している内容すべてではない。というのも、もしそうであれば個別的学問は生じずに、ただ知識学の諸部分が繰りかえされるだけであろうから。そこで、内容の一部に、すなわち前述の形式によって包括されている内容が含むところの内容に、必然的に適用しえるのである。このような条件を満たさない形式の適用によって成立した学問は、空中楼閣にすぎない。 最後に知識学が、明確に考えられて体系的に提示された学問ではなくとも、 人間の素質 [の発現] として、必然的なものであるのに対し、論理学は自由な人間精神が作り出した人工的な産物である。知識学なくしては知識や学問はまったく不可能であろうが。が、論理学がなくても全学問はたんに遅れはしても完成したことであろう。全学問にとって知識学は、[それらが成立するための] 唯一の条件である。論理学は、学問の進歩を確実にし容易ならしめるための大変役立つ発明である。 ここれまで体系的に演繹してきたことを、例を使って述べてみう; 「A = A」は、疑いもなく論理的に正しい命題である。この命題がその正しさにおいて意味するところは、「もしAが措定されているならば、すなわちAは措定されている」ということである。ここで、2つの問いが生じる。 (1) いったいAは、措定されているのか? そして、もしAが措定されているのであれば、どの程度まで、また何ゆえに措定されているのか? (2) 上記命題中の「もし」と「すなわち」は、いったいどう連関しているのか? 前記Aが「私(ich)」だとし、「私」としての内容を持っているとしよう。すると前記命題は、「私は私である(Ich bin Ich.)」という意味にまずもって(訳注1)なる;つまり、「もし私が措定されているならば、すなわち私は措定されている」という意味になる。 さて、この命題の主語(Subjekt)[の私] は、絶対的な主観(Subjekt)であるから、すなわち端的に主観であるから、この場合に限っては、命題の形式とともに命内の内容も、同時に措定されるのである:つまり、「私は措定されている、なぜなら私が措定したがゆえに」、あるいは「我あり、我あるがゆえに(Ich bin, weil ich bin)」。 したがって、論理学は「もしAが存在するならば、Aは存在する」と言うが、知識学は「A(訳注2) が存在するがゆえに、Aは存在する」と言うのである。かくして、「いったいA(訳注3)は措定されているのか?」という問いには、「Aは措定されている。というのも、Aは措定されているのだから」と答えられよう。(訳注4) [ここで誤解を防ぐために一言すれば: I. フィヒテにあっては、また一般的に、「措定されている」ということは「存在する」を意味します。 II. この箇所の Ich ないし ich は、「私」と訳出していますが、哲学タームとしての「自我」ではないことは、動詞の活用や das Ich とは書かれていないことから明らかです。つまり、フィヒテは彼の「自我」を押し出す前に、日常的、現実的な意味合いの「私」を導入することによって、読者の理解しやすさを狙ったものと思われます。 III. なお、ここでフィヒテが言わんとしていることは: (a) 「A = A」という命題は、Aが私であるときには、「私は私である」という命題になる。 (b) 「私は私である」という命題は、「もし私が措定されているならば、すなわち私は措定されている」ということを意味する。 (c) では、「もし私が措定されているならば」と言われているが、実際に私は措定されているのか? 措定されている。なぜなら、 i) 前記の命題そのものは、私たちの眼前にあるのだから、措定されている。 ii) この命題そのもの(フィヒテの表現では「命題の形式」)は、そもそも私(フィヒテの表現では「絶対的な主観」)によって措定されることなくしては、そもそも存在しないのだから、この命題が措定されているということは、措定した私もすでに存在する、措定されている。 iii) ところで、前記命題中の「Aが「私(ich)」だとし、「私」としての内容 [=絶対的な主観] を持っているとしよう」と仮定していたのであるから、命題を措定する私(絶対的な主観)が存在するということは、命題中の「私」も存在する、措定されていることを意味する。 前記の命題中のAが、自我(das Ich)を意味せず、何か他のものを意味するとしよう。すると前述のことから、 (1) 「Aは措定されている」と言えるための条件が分かる。 (2) また、「もしAが措定されているならば、すなわちAは措定されている」と推論するのが、どうして正当なのかが分かる。 ――つまり、「A = A」という命題は、もともとは自我についてのみ妥当するのである。この命題は、知識学の命題「自我は自我である」から、抽出されたのである。したがって、 「A = A」の命題を適用しえるすべての内容は、自我のうちにあらねばならず、自我に含まれていなければならない。いかなるAも、自我のうちに措定されたもの以外ではありえない。 そこで今や命題「A = A」は、次のようなことを意味するであろう: ・自我のうちに措定されているものは、措定されている。 ・Aが自我のうちに措定されていれば、 i) すなわちAは措定されているし(つまり、Aが可能的に、あるいは現実j的に、ないしは必然的に [自我のうちに] 措定されているかぎり)、 ii) また、自我が自我たるかぎり、命題「A = A」は文句なく正しい」。 ・さらに、もし自我が措定されているならば―― [実際] 自我は措定されているのだからして――、自我のうちに措定されているものすべても、それらは措定されているがゆえに、措定されている。 ・そして、Aが自我のうちで措定されたものでありさえすれば、もしAが措定されているならば、すなわちAは措定されている(訳注5)。こうして、前記 (2) の問題も答えられたのである。 ------------------------------ (訳注1) この「まずもって」は、zuförderst を訳出したものですが、しかし zuförderst は相良守峯『大独和辞典』や小学館『独和大辞典』(第2版)には記載がなく、訳者の憶測によるものです。 (訳注2) 第2版では、「ここでの規定されたA=私」だとの付記があります。 (訳注3) 第2版では、「ここでの規定されたA」だとの付記があります。 (訳注4) 第2版では、「Aは、無条件に、端的に措定されている」との付記があります。 (訳注5) この原文は、. . . so ist es gesetzt, wenn es gesetzt ist, とコンマで終わり、次の文 und die zweite Frage ist auch beantwortet. につながっています。しかし、この前後の2文は意味的に切って読まざるをえませんので、このコンマはピリオドないしセミコロンの誤りであると解釈しました。(SW版全集、第1巻70ぺーじでは、セミコロンになっています)。) TOP 第7節 学問としての知識学は、自らの対象とどのようにかかわるのか? 訳(全訳ではありません): 知識学自身も一つの学問であり、何ものかを対象とする。知識学の対象は、つまるところ人間のもつ知識の体系である。この人間の知識の体系は、知識学から独立してはいるが、知識学によって体系的な形式において提示される。この新しい [体系的] 形式とは何なのか? この新しい形式は、それ以前に存在する形式とはどう違っているのか? また知識学自体は、その対象とどう違うのか? [以下は全訳です] 学問からは独立に、人間の精神のうちに存在するものを、精神の諸活動 [Handlungen] と私たちは名づける。この活動が「事柄 [Was]」である。これらの活動は、ある特定の仕方で行なわれるが、この特定の仕方によって、それらの活動は相互のあいだで区別される。これが「仕方 [Wie]」である。 したがって、人間の精神のうちには私たちの知識に先立って、もともと内容 [=事柄] と形式 [=仕方] があり、両者は分かちがたく結びついている。各活動はそれぞれ特定の仕方で、それぞれの法則にしたがって行われる。この法則が、活動を規定する。これらすべての活動が相互に関連し、普遍的あるいは特殊的、ないしは個別的な諸法則のもとにあるとき、もし観察者がいれば、一つの体系が存在していることになるだろう。 しかしながら、これらの活動が実際に時間順に [第2版:Zeitfolge]、前記の体系的形式において次から次へと、私たちの精神のうちに現われるかといえば、必ずしもそうとは限らない。つまり、すべての活動を包括し、そしてもっとも普遍的な最高法則を与えるような活動がまず現われ、ついで、より少ない活動を包括するような活動が、そして次に云々、となるとは限らない。さらに、 ・すべての活動が純粋に、他の活動とは混じり合わずに現れ、 ・その結果、観察者がいれば十分に区別したであろう諸活動が、不可分唯一の活動として現象することはない、 などということが、帰結するのでもまったくない。[訳注4] たとえば、人間の精神の最高の活動は、自らの存在を措定することであるにせよ、この最高の活動が時間的に最初に、意識に明瞭に上ってくるとは、限らない。また、 ・この最高の活動が、純粋に意識にいつも [訳注1] 上るかどうか、 ・そして人間の精神が、ある何かが自我ではないということを同時に考えることなしに、端的に「[自] 我あり」をつねに考えられるかどうかは、 定かではないのである。 さて、ありうべき知識学の全素材はこうしたことのうちにあるにせよ、[知識学を含む] 諸学問自体は、ここにはまだ存在していない。諸学問を完成させるには、既述した諸活動すべてのうちにもまだ含まれていないところの、人間精神のある活動が必要なのである。すなわち、精神の活動様式 [Handlungsart] 一般を意識に上らせるような活動である。この活動は、既述した諸活動には含まれていない。そして、既述の諸活動はすべて必然的であり、また必然的な諸活動はすべて既述の諸活動であるから、今問題にしている活動は、自由な活動である。 したがって、知識学が体系的学問である限り、他のすべての可能な体系的学問と同じように、自由が規定されることによって生じる。ここでの自由は、人間精神の活動様式一般を意識化するように規定されている。知識学が他の諸学問と異なるところと言えば、ただ、 ・他の学問の対象自体は、自由な活動であるのに対し、 ・知識学の対象は、必然的な諸活動であることである。 このような自由な活動によって、すでにそれ自体としては形式だったものが、つまり、人間精神の必然的活動が、内容として新たな形式へと、すなわち知識という形式ないし意識という形式へと [訳注2] 、取り入れられる。したがってそうした自由な活動は、反省 [Reflexion] という活動である。前述の必然的諸活動は、それらがそのままに [an sich] 現われてきた系列から恐らくは切り離されて、また混合から純化されて提示される。それゆえこの自由な活動は、抽象という活動でもある。抽象してはいないのに反省することは、不可能なのである。 人間精神の必然的な活動様式一般が取り入れられるところの意識という形式は、疑いもなくこれ自身そのような必然的活動様式に属する。人間精神の必然的な活動様式は、そうした意識形式 [知識] のうちへ取り入れられるが、このことはすべての他の取り入れられるものとまさしく同様である、。そこで、「ありうべき知識学のためのこうした意識形式は、いったいどこから来るのか?」という問いに答えるのは、たやすいであろう。[すなわち、「そのような形式は、人間精神が必然的にもつ活動様式の一つである」と答えられよう。] しかし、この形式に関する問いから私たちが解放されたとしても、素材に関する困難な問いが生じてくるのである。つまり、人間精神の必然的な活動様式が、そのまま [an sich] その意識形式 [=知識] に取り入れられるというのであれば、この必然的活動様式はそのようなものとして既に知られていなければならなくなってしまう。したがって、その形式 [=知識] のうちに、すでに取り入れられていなければならないこととなる。そこで、私たちは循環に陥っていることになろう。 [そうではなくて、] この [必然的] 活動様式一般は、既述したところにしたがって、この活動様式以外のすべてのものから反省的に抽象されることによって、分離されなければならないのである。この抽象は自由によって行われるのであり、抽象化にさいし人間精神[第2版では「哲学的判断力」] が盲目的に強制されることは少しもない。そこで困難な問題は、まったくもって次の点にあることになる:自由はいかなる規則にしたがって、前記の分離を行うのか? 人間精神はいかにして、何をとり上げ何を放置しておくべきかを知るのか? だが人間精神は、このことをまったく知りようがないのである――人間精神が意識にはじめて上せるべきものが、すでに意識に上っていなければ。しかし、それは矛盾というものである。したがって、このことに関しての規則はないし、またありえない。人間精神は、さまざまな試みをする。盲目的な試行錯誤によって薄明にいたり、そこからやがては白昼へと移行するのである。人間精神は始めはおぼろげな感情によって、導かれる(この感情の起源と現実性については、知識学が説明しなければならない)。私たちがようやく後になって明瞭に認識できたものを、まずはおぼろげに感じはじめるということがなかったならば、今日でも私たちは明瞭な概念を持つことはなかったであろうし、私たちは未だに大地から盛り上がった土くれにすぎなかったであろう。 。 これは実際哲学史でもあった! そしてこれが、「すべての人の精神のうちに隠されることなく存在し、明示されていさえすれば誰もが容易に理解できることが、なぜいろいろさ迷った末にようやく少数の人々の意識へと達したのか」、ということの本来の理由である。すべての哲学者が、掲げられた目標に向かって出発し、反省によって人間精神の必然的な活動様式を、その偶然的な諸条件から分離しようとした。そして彼らすべてが、完成度や純粋さにおいて異なるにせよ、そのような分離を成しとげてきた。全体としてみれば、哲学的な判断力はつねに前進しており、目標に近づいてきたのである。 前記の反省が、 ・そもそもなされるかどうかという点においてではなく――というのも、反省をするもしないも自由なのであるから――、 ・反省が諸法則にしたがってなされるかぎり、 ・[すなわち、] 反省がそもそも行われるという条件下においては、反省の仕方が規定されているかぎり、 ・そしてまたこの反省の仕方が、人間精神の必然的な行為に属するかぎり、 反省がしたがう諸法則は、人間精神一般の体系のうちに存するに違いないのである。そし学問が完成した後では、行った反省がそうした法則にかなったものだったかどうかは、はっきりする。したがって少なくとも後になれば、私たちが企てる学問体系 [知識学] の正しさの明瞭な証明が、可能となることを信じてもよかろう。 しかし、私たちが学問 [=知識学] の進行において見いだすところの反省の諸法則が――[第2版での追加:] 知識学が完成できるために唯一可能であるような反省の諸法則が――、[知識学の] 方法の規則として、私たちが仮定的に設定する諸法則と一致したとしても、その見いだすところの反省の諸法則はそれら自体が、仮定的に設定する諸法則を前もって適用した結果なのである。ここでは、新しい循環が存在する。すなわち、「私たちは反省の諸法則を前提にしており、ついで学問の進行において、同じ諸法則を見いだす。よって、私たちが前提とした諸法則は、唯一正しいものである。」という循環である。 もし私たちが他の諸法則を前提にしていれば、前述の見出された諸法則とは違う諸法則が、やはり学問の進行と共に見出されたであろう。ただその場合問題となるのは、この見出された諸法則が、前述の前提にした諸法則と一致するかどうかである。もし一致しなければ、前提にした諸法則か見いだされた諸法則かが、明らかに誤っていたのである。あるいはおそらく両方とも、誤っていたのである。 したがって私たちが、[学問体系の正しさを] 後で証明する時には、前述の欠陥のある循環論法で、推論することはできない。そうではなく、両方が一致することから体系の正しさを、推論するのである。しかしながらこのような方法は、正しさのたんなる可能性を基礎づける消極的な証明である。前提にされた反省 [Reflexionen] と見出された反省が一致しなければ、その体系は確かに誤っている。両方が一致すれば、その体系は正しいのかもしれない。しかし必然的に正しいはずだとはいえない。なぜなら、 ・人間の知識においてはただ一つの体系しかなくて、 ・前述の両方の一致が、正しい推論のもとでは、ただ一つの仕方でしか起こりえない場合でも、 一致を生みだすような若干の正しくない推論によって、一致がもたらされてしまうことが、常にありえるからである。 これはあたかも割り算の試し算を、掛け算によってするようなものである。望んでいた積の数字ではなく、別の数字を得たとすれば、きっとどこかで間違った計算をしたのである。望んでいた積の数字を得たとすれば、正しい計算をした可能性がある。ただし、たんなる可能性である。というのも、割り算と掛け算の双方で同じ誤りを、したかもしれないからである。例えば、双方で 5 x 9=36 としてしまった場合である。これでは前述の一致があったとしても、何も証明してはいない。 知識学についても、同様である。知識学は規則であるのみならず、計算 [推論] でもある。私たちの行う掛け算の積の正しさを疑う人は、何も「掛け算では一方の数字を、他方の数字の回数分だけ足していかねばならない」という永遠に妥当する法則 [前記の「規則」] を、疑っているのではない。この法則については、彼も私たち同様よく心得ている。ただ彼が疑うのは、私たちが実際にこの法則を守っ [て計算し] たかどうかなのである。 したがって、体系が最高度に統一されていることは、その体系の正しさの消極的な条件ではある。だがこの統一があってもなお、厳密には決して証明されることができず、ただ蓋然的にしか仮定できないことが――つまり、「この統一は、正しくない推論から偶然的に生じたものではない」ということなのだが――、常に残るのである。このことの蓋然性を高めるために、いくつかの手段を使うことはできる。すなわち、一連の諸命題が記憶に定かでない時には、それらを何回か考え直すことができるし、推論を逆行して、結果の方から原理へと戻って行くことができる。また反省自体についても、再び反省することができる。等々。このようにして、蓋然性は絶えず増大するが、しかしたんに蓋然性だったものは、確実性に変わりはしない。 [だが] こうした努力の際に、誠実に探求したとの(原注)、また結果を先取りするようなことはしなかったとの自覚があれば、この蓋然性は十分満足できるものである。また、私たちの体系の信頼性を疑う者に対しては、私たちの行った推論のどこが間違いかを示すよう、要求できるだろう。とはいえ、私たちの無謬性を主張することは、決してできないのである。 人間精神の体系は――それを叙述するのが知識学なのだが――絶対に確実であり、無謬である。その体系のうちで基礎づけられているものは、すべて端的に真であり、誤るということはない。かつて人間の心の内に [SW版ではここに「必然的に」が挿入されています] あったもの、またあるであろうものは真である。人間が誤ることがあったとすれば、誤りは必然的なもののうちにあったのではない。反省をする自由な判断力が、自由なるがゆえに、ある法則を別の法則と取り違えて、誤りを犯したのである。 私たちの知識学が人間精神の体系の的確な叙述であるときには、知識学はこの体系と同様に、端的に確実で無謬である。ところが問題なのは、私たちが行うこの叙述が、はたして的確かどうか、またどの程度的確かである。このことについては、私たちは厳密な証明をすることができず、ただ蓋然性を根拠づけるような証明しか与えることができない。知識学は的確な叙述であるという条件のもとで、またその限りにおいてのみ、真理なのである。私たちは人間精神に対して立法者ではなく、記録編集者 [Historiographen] である。むろん新聞記者などではなく、原因究明的な歴史家 [pragmatische Geschichtsschreiber] であるが。[訳注3] こうしたことに加えて、体系の部分部分は完全な明証性をもたずとも、体系全体としては実際に正しいということもありえる。[つまり、] ここかしこで誤った推論がなされ、中間項が飛ばされ、証明すべき命題が証明抜きで提示されたり、あるいは誤った証明がなされたりしていても、なお重要な結論が正しいことがありえるのである。 このようなことは、不可能に思えるかもしれない。[ふつうは、] まっすぐな理屈づけからいささかでも外れると、必然的に無限に大きくずれてしまうと、思われている。たしかに、 [1] 人間がただ思考するだけの存在であり、感じることのない存在であれば、そうであろう。 [2] また、 ・まっすぐな理屈づけからの [別の] 新たな逸脱が原因となって、感情が古い逸脱を修正してしまうということが、まったくありえない場合とか、 ・人間が正しい推論によっては決して再び帰ることができない地点に、感情が人間を導き戻すということがない場合には、そうであろう。 [しかし、前記 [1] [2] のようなことは実情に合わない]。 したがって、[体系が全体としては正しく、部分的には誤っているということが、ありえる。しかしそうなってはいけないので、] 普遍的に妥当する知識学が立てられねばならないとしても、哲学的判断力はなお自らがこの領域で、なおも持続的完成に向けて努めなければならない。哲学的判断力は、なおも隙間をうめ、証明を強いものにし、規定をより厳密なものにしなければならないであろう。 ここで、なお2つコメントせねばならない。 [1] 知識学は、反省と抽象の [守るべき] 諸規則がよく知られており、またそれらが妥当するということを、前提にしている。また前提にせざるをえない。このことを知識学は恥じたり、秘密にしたり、隠したりする必要はない。知識学は、まったく他のすべての学問と同様、自ら [考えるところ] を表明したり [sich ausdrücken]、推論をして [Schlüsse machen] いいのである。知識学は、論理学の諸規則すべてを前提にしていいし、自らが必要とするすべての概念を使用していい。だがこうした前提は、[知識学を] 理解しやすくするためであり、したがってそこから何か結論を引き出そうというのではない。 すべて証明できることは証明しなければならないし、前述の最初の最高法則を除くすべての命題は導出されねばならない。たとえば、矛盾についての論理学の命題(すべての分析を基礎づけている矛盾律)や根拠についての論理学の命題 [der [logische Satz] des Grundes, 理由律](第3項において等しくないようなものどうしは、対立していないし[訳注5]、また、第3項において対立していないようなものどうしは、等しくない[訳注6]という、すべての総合を基礎づける命題)も、最初の絶対的原理から導かれることはないが、しかしその原理に依拠する2つの原理からは、導かれる。この2つの原理は、なるほど原理ではあるが絶対的な原理ではない。両原理のうちに存するものが、絶対的であるにすぎない。したがって両原理は、この両原理に依拠する論理学の諸命題ともども、証明する必要はないにせよ、導出はされねばならないのである。 こうしたことを、もう少し説明してみよう。知識学が提示するものは、考えられて言葉に表された命題である。人間精神においてこの命題に対応しているものは、精神の何らかの活動であるが、しかしこの活動そのものは、必然的に思考されるものだとはまったくいえない。この活動に対しては、この活動自体がそれなくしては成り立たないものを除いては、何ものも前提されるべきではない。そしてこの前提せざるをえないものは、暗黙のうちに前提されるのではなく、知識学によって明瞭に規定され、それなくしては精神活動が不可能なものとして、提示さるべきである。 たとえば、系列上4番目の活動Dがあるとしよう。するとDには活動Cが先行するはずであり、またCはDが存在するための不可欠な条件(ausschließende Bedingung)として証明されねばならない。そして、Cに対してはBが同様なことになる。しかし、活動Aは存在することが端的に可能であり、無条件に存在し、したがってAに対してはまったく何ものも、前提されなくていいし、またされてもいけない。 活動Aを思惟することは、[Aとは] 全く別の活動であり、多くのこと [後述のC, B, A] を前提としている。Aを思惟する活動が、提示されるべき諸活動の系列中のDだとすると、 ・DのためにA, B, C が前提とされねばならないこと ・しかもAの思惟 [D] は、知識学が行う最初の仕事でなければならないので、A, B, C は暗黙裡に前提されねばならないことは、 明らかである。 命題Dにおいて、はじめて知識学の最初の仕事の諸前提が証明されるが、するとまた、いくつか前提されていることになる[訳注7]。したがって、知識学の形式は、つねに知識学の素材に先行しているのである。そしてこのことが、前述した「なぜ学問というものは、たんに蓋然性をもつにとどまるのか」ということの、理由である。 叙述されたものと叙述自体は、2つの異なる系列をなす。叙述されたものの系列では、証明されていないものは前提とされない。だが、叙述自体の系列が可能になるためには、ようやく後になって証明されるものが前提とされざるをえないのである。 [2] 知識学が学問である限り、知識学全般において支配するのは反省 [Reflexion] であるが、この反省は表象すること [ein Vorstellen] である。とはいえ、反省されるところのものはすべて表象にすぎない、というのではない。 知識学においては、自我が表象される。しかしながら、自我はたんに表象するものとして、知能として表象されるということではない。そこにはなお他の諸規定が、見出されよう。哲学する主観としての自我というもの [das Ich] は、確かに表彰するだけである。だか、哲学の対象としての自我というもの [das ich] は、それ以上のものであろう。表象することは、哲学者たるもの [des Philosophen, als solchen] にとっては最高の、絶対的に最初の活動である。が、人間精神の絶対的に最初の活動は、別の活動であろう。というのもそうであるらしいことは、すべての経験に先だって、あらかじめ次のような理由から言えそうなのである: [a.] 表象は、完全に考察され尽くせるからであり[訳注8]、 [b.] また、表象が行うやり方 [Verfahren] はまったく必然的なものであり、それゆえ手法の必然性には、究極的根拠があるはずだからである。この根拠は、究極のものであって、それ以上の根拠を持ちえない。 このように考えるならば、表象の概念の上に建てられているような学問は、なるほど大変有益な学問への入門にはなりえても、知識学自体にはなりえないであろう。そして上述したところから確かに言いえることは、知識学が完全に考察 [erschöpfen] すべき人間精神の全活動様式は、 ただ表象の形式においてのみ――すなわち、これら活動様式が表象される限りにおいて、また表象されるやいなや――、意識にもたらされるということである。 ------------------------------ (原注) 哲学者には、真理感覚だけでなく、真理への愛も必要である。[だがここで] 私が言いたいことは、「哲学者たるものは、自分では十分に意識していながら、だが同時代人たちは誰も気づかないだろうと信じる詭弁でもって、結論を前提に織り込んだような主張をしてはいけない」、ということではない。そうした時には、その哲学者自身が、真理を愛してはいないと自覚しているのである。 この真理への愛に関しては、各人が自らの裁判官であって、明白な証拠もないのに、他人をこの愛に欠けるがゆえにとがめるなどという権利は、誰も持ってはいない。だが無意識に詭弁を弄してしまうことに対しても、人間精神の研究者は用心深くあらねばならないのである。人間精神の研究者は他のいかなる研究者にもまして、こうした詭弁にさらされている。人間精神の探求者は、 ・真理がいかようであれ、ただ真理のみを求めるということを、 ・そしてまた、どこにも真理は存在しないということがもし真理であるならば、ただこれが真理であるということだけから、喜んで受け入れるということを、 ただぼんやりと感じるのではなく、明確な意識へと、そして自らの最高の格律へと、高めねばならない。 ある命題がどんなに無味乾燥に、また些細な事柄に見えようとも、そういうことは人間精神の探求者にとってはどうでもいいのである。ある命題が真理の体系に属し、そこでの他の命題すべてを支えるかぎり、このような命題は彼にとって、ことごとく等しく神聖でなければならない。このような命題から何が生じるのかと、彼は問うてはいけない。何が生じようと、自らの道をまっすぐに行き続けなければならないのである。彼はいかなる労も惜しんではならない。そしてなお、たとえ困難にして意義深い研究といえども、それが根拠を欠いていることが示されたり、彼自ら そのことを発見したりした時には、常に瞬時にその研究を放棄できなければならない。もし彼が見込み違いを犯したとしても、それは今までの思想家すべてに共通な運命以上のものではあるまい? [訳注1] jemalsを文脈から考えて、「いつも」のと訳してみました。辞典に記載されている意味は、「(未来の)いつか」と「(過去の)かつて」です。しかし、je には「常に、いつも」の意味があり(相良守峯『大独和辞典』博友社)、それに「時点」を表す副詞を作る mals が付いているのではないかと、考えました。 [訳注2] レクラム文庫版(Universal-Bibliothek Nr. 9348)では、この箇所は in eine neue Form die Form des Wissens となっており、Form と die の間にコンマがなく、文法的に意味が取れなくなっています。 そこで、SW版全集のように(第1巻、72ページ)コンマがあるものとして、訳出しました。 [訳注3] pragmatische Geschichtsschreibung とは、「ギリシアの歴史家ツキジデスにまでさかのぼる歴史学で、歴史的諸事件の原因結果を究明し、それから将来への教訓を引き出そうとする」もののようです。(相良守峯『大独和辞典』博友社の pragmatisch の項目) [訳注4] この1文の原文は: ferner ist auch das gar nicht die Folge, dass sie [= die Handlungen des Geistes] alle rein und unvermischt vorkommen, so dass nicht mehrere, die durch einen etwanigen Beobachter gar wohl zu unterscheiden wären, als eine einzige erscheinen sollten. [訳注5] 例えば、<重いもの>と<冷たいもの>。 [訳注6] 例えば、宇宙の多くを占めるといわれる不可視の<暗黒物質>と、周期表で表される<通常の物質>。両者は、質量・重力を有する点では等しく物質です。なるほどフィヒテの文章への例としては不適切でしょうが、考え方の例として受け取っていただければ幸甚です。 [訳注7] この一文の訳ならびに意味は、よく分かりません。原文は: Erst im Satze D werden die Voraussetzungen des ersten erwiesen werden; aber dann wird wieder mehreres vorausgesezt seyn. 一応、des ersten は、前文に出てきた「知識学が行う最初の仕事」を指すと解釈しました。すると mehreres は、具体的に何を意味するのでしょうか? また、erwiesen は「証明される」というより、「明示される」が適切かも? しかし、同じ第7節の「だがこの統一があってもなお、厳密には決して証明 [erwiesen] されることができず、ただ蓋然的にしか仮定できないことが・・・常に残るのである」(SW版全集、第1巻、75ページ)という文中の erwiesen は、「証明」の意味にしか取れないのですが・・・ [訳注8] この箇所の原文は: sich die Vorstellung vollkommen erschöpfen läßt, この sich erschöpfen läßt を「考察され尽くせる」と訳しました。字義どおりに訳せば「汲みつくされる」です。 TOP 第3章 知識学の暫定的な分類 [訳注1] 第8節 [表題はなし] コメント: 自我の中に、自我そのものと非我が包括されるという構造が、登場します。つまり、自我が入れ子型となって、自らとその対立物をを包括するという論理(私たちの用語では、自我のメタ化)です。これは今まで誰もが聞いたことのない、真に革新的というか破壊・創造的、あるいはメチャクチャな主張です。「自明なものといえる、同一律・矛盾律などはどうなってしまったの?」 はじめてこの文章を目にした若い世代は、唖然呆然、やがて体が震だし熱狂に至ったことでしょう――ドイツ観念論なるものが、始まったのでした。 この著作の最後の結びの文は、いかにもフィヒテらしい、また彼の未来を予言するものとなっています。 全訳: 絶対的にして最初の原理が基礎づけるのは、人間のもつ知識の部分ではなくて、全体であるから、この原理は知識学すべてにわたって共通でなければならない。区分というもの [Einteilung] は、第3項に対しては等しいものどうし [第1項と第2項] を、対置することによってのみ可能である。 自我が最高の概念であって、自我にはある一つの非我 [ein Nicht-Ich,[訳注2]] が [前記の第2項として] 対置されるとしよう。すると明らかなことは、非我は措定されていなければ、しかももっとも包括的なものにおいて、すなわち自我において、措定されていなければ、対置されえないことである。 したがって、自我は2つの観点から考察されねばならないであろう。 [1] その中に非我が措定されるものとして。 [2] 非我に対置されており、したがって、それ自体が絶対的自我の中に措定されているものとして。 [2] の自我は、絶対的自我の中に非我とともに措定されている限り、絶対的自我の中では非我と等しいであろう。また同時にこの[2の] 観点において、自我は非我に対置されてもいよう。こ のように考えられるのは、自我と非我の両者は自我のうちでは等しいのであるが、この自我の中に第3項が存するという条件下でのみである。そしてこの第3項というのは、量の概念であろう。自我と非我の両者は、それぞれに対置されものによって [自我は非我によって、非我は自我によって] 規定される量をもつ。(原注1) 自我は、非我によって(非我の量の面から)規定される。その限りで自我は依存的であって、「知性 [Intelligenz]」と呼ばれる。この知性を扱う知識学の部門は、知識学の理論的な部門である。この部門は、 ・諸原理から導出されるべき概念に基づき、 ・また、諸原理によって証明されるべき概念に、表象一般 [に適用されるところ] の概念に、基づいている。,[訳注3] しかし、自我というものは絶対的で、端的に自ら自身によって規定されていよう。自我が非我によって規定されるとすれば、自ら自身を規定はしないのであってこれは最高にして最初の絶対的原理に矛盾することになる。この矛盾を避けるためには、次のように想定せねばならない。すなわち、知性を規定すべき非我は、それ自体自我によって規定されると。ただし、このような規定をする自我は、表象する自我ではなく、絶対的な原因 [Kausalität] を有するであろう。 しかし、 ・そのような原因性 は、対置されている非我と、また非我と共に、それに依存している表象を、まったくもって廃棄してしまうであろうし、 ・したがって、そのような原因性を想定することは、第2、第3の原理に矛盾する。 だから、この原因性は、表象に矛盾するものとして、表象できないものとして、原因ではない原因性として [als eine Kasualität, die nicht Kasualität ist.]、表象されなければならない。 が、原因ではない原因性という概念は、志向 [Streben, 努力] の概念である。原因性は、無限なものへの終結した接近 [einer geendeten Annäherung zum Unendlichen] という条件のもとでのみ、考えられる。しかし、原因性自体は考えられない。 志向という、必然的なものとして証明されるであろうこの概念は、知識学の第2部の基礎となる。この第2部は、実践的部門といわれる。 この第2部は、それ自体として大変重要である。むろん第1部 [理論的部門] も劣らず重要であるが、それはただ第2部の基礎としてなのであり、第2部が第1部なくしては、まったく理解できないからである。理論的部門 [第1部] は、第2部においてはじめて確実に限定され、しっかりとした土台をえる。それは、前述の必然的な志向から、次のような問いが答えられることによってである: ・なぜ私たちは、現にあるような触発 [Affektion, カントの用語:対象が私たちの感覚器官を刺激して直観を成立させること] 一般の条件下で、表象しなければならないのか?」 ・私たちはいかなる権利があって、表象を私たちの外部にあるものに、それが表象の原因だとして関係させるのか? ・いったい私たちはいかなる権利があって、完全に諸法則によって規定された表象する能力を、想定するのか?(この表象能力の諸法則は、表象する能力に固有なものとして表象されるのではなく、志向する自我のもつ諸法則として表象される。そして、これら諸法則の適用は、自我とは逆に志向する非我が、感覚能力 [das Gefühl] へ及ぼす作用によって、条件づけられているのである)。 第2部においては、快適さ・美・崇高さ・自然の自由における合法則性・神学・いわゆる常識、すなわち自然な真理感覚などについての、完全に規定されれた新しい理論が基礎づけられる。そして最後に、自然権 [Naturrecht, 自然法] と倫理学が、基礎づけられる。この倫理学だが、その原理は、形式のみならず実質をも持っているのである。 [訳注4] すべてのものは、以下の3つの絶対的なものの提示によって、基礎づけられるのである。 [1] 絶対的な自我。この自我は、 ・自らが与えたところの、 ・また、非我の作用 [を受けている] という条件のもとで表象しえるところの、 諸法則に従っている。 [訳注5] [2] すべての諸法則に依存せずに自由な、絶対的な非我。この非我を表象することはできるが、それはこの非我が、積極的にしろ消極的にしろ諸法則を、つねに限られた程度では表現するという条件のもとでである。 [3] 自我と非我の作用に応じて私たちを規定するところの、私たちの内なる絶対的な能力。この能力を表象することはできるが、それはこの能力が、非我の作用 [Einwirkung] を自我の働き [Wirkung, 意味は Einwirkung と同じ] から、つまり法則から、区別するという条件のもとでである。 いかなる哲学も、これら3つの絶対的なものを越え出ることはない。 [ここで本書の内容は終わり、この後はフィヒテの学生へ向けての挨拶と、学問をする者の心構えが説かれる。そして次の文章によって、締めくくられている。] まもなくイェナ大学の皆様の一員に、私も加えていただくという栄誉に浴することとなったが、この『知識学の概念』で展開を試みたのは学問の概念であり、私がこの学問についていかなる講義をしようとしているのかは、皆様におかれては講義告知からご存知であろう。そして、このことについて私から皆様に何か申すべきことがあるとするならば、前述の学問の2部門への導入書として『私の聴講者への手稿』(原注2)を印刷して、皆様にお渡しできればということである。 講義時刻については、私の到着後にしかるべき場所に掲示したい。 ただ1つの点に関しては、皆様に私は説明すべき義務がある。疑いもなく皆様すべてがご存知のように、学問は無益な精神労働のために、また上品な贅沢のために、あるのではない。もしそれらのためにだとすれば、学者もまさに、贅沢そのもののための生ける道具 [=人間] すべてが属するところの階級に、属することとなろう。そしてこの階級においてさえも、哲学者が最上位に位置するかどうかは、議論の余地があろう。 私たちのすべての探求は、人類の最高目的を目ざすべきである、[すなわち] 私たちが成員となっている類を高尚にすることを、目ざすべきである。そして学生たちを中心にそこから、言葉の最高の意味における人間性が、拡がっていかねばならないのである。学問が発展するごとに、学問にたずさわる人の義務は増すのである。 したがって、次の問いに全くもって真摯に留意することが、ますます必要となる: ・学者の本来の使命は何か? ・学者は、物事のしかるべきあり様においては [in der Ordnung der Dinge] いかなる位置を占めるのか? ・学者たち自身の相互関係は、どうあるのか? また、学者たちの他の人一般への関係は、そしてとりわけ、それぞれの職業の人たちへの関係は、どうあるのか? ・どのようにして、そしてまたいかなる手段でもって、学者たちは彼らに課せられた義務を、最も巧みに果たすことができるのか? ・そして学者たちは、どのようにしてこの巧みさを、自ら培わねばならないのか? これらの問いには、「学者にとっての道徳」と題して予告した公開講義で、私は答えようと試みるつもりである。 これらの講演 [Unterhaltungen] には、体系的な学問を期待しないでほしい。学者はときに [öfterer, 訳注6] 知識において欠けるというよりも、行動において欠ける。むしろこれら講義の時間には、結束したというよりは一体化した友人の集いのように、燃えるがごとき、高き共同体的義務感情へと、奮い立とうではないか。 ------------------------------ (原注1) ただ、自我の概念と非我の概念、そして量(限定 [Schranken])の概念だけが、端的にアプリオリである。それらの概念から、対置と等置によって、その他すべての純粋概念が導出されねばならない。 (原注2) この手稿をお渡しするのは、[皆様が私の考えを] 批判する権利を減じんがためではなく、批判ならびに批判者、そして聴講者の皆様に私の敬意を示そうとしてである。 [訳注1] この第3章は、やがて『全知識学の基礎』が出版されたため、第2版からは削除されました。 [訳注2] Nicht-Ich は、伝統的に「非我」と訳されています。そのまま訳せば、「自我ではないもの」あるいは「非-自我」になります。 [訳注3] 日本語で表現しづらい所ですが、原文は: Er wird gegründet auf den von den Grundsätzen abzuleitenden, und durch sie zu erwiesenden Begriff der Vorstellung überhaupt. [訳注4] すでに当時、カントの倫理学は、形式的だと批判されていました。 [訳注5] 原文は: Eines absoluten Ich, unter selbstgegebnen, unter Bedingung einer Einwirkung des Nicht-Ich vorstellbaren Gesetzen; 最初の unter と Gesetzen がイタリック(原文そのものは、隔字体)になっているのは、「最初のunter はGesetzen に掛かります」という、文法的な指示だと思います。 [訳注6] 「ときに」の原文は、副詞として用いられている öfterer です。この語は、öfter を絶対比較級として用いたものだと思います。そうだとすれば、öfter よりは、意味が弱くなるはずです。öfter は、oft の「比較級の意味なし」にも、「しばしばの, たびたびの」という意味の形容詞として、相良守峯『大独和辞典』に、記載されています。 ドイツ語では、形容詞の副詞への転用はよく行われることです。そこで、「しばしばの」という意味を弱めて、副詞の用法として、「ときに」と訳出しました。 TOP |
サイト地図 |