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見正比古「血液型」シリーズを

推計学で検証すれば?


目 次

はじめに 

1. 『血液型』シリーズ著作名と関連サイト

2. 成果と問題点    

3. 用いた検証法について
 ●カイ2乗検定
 ●二項検定
 ●二項分布の正規近似
 ●分割表による一様性の検定
 ●調整化残差の吟味

4. 『血液型活用学』(1976年)から 
 (1) 歌手、司会者、オーケストラ・メンバーの血液型分布
 (2) 運動選手の血液型分布

5. 『血液型エッセンス』(1977年)から
   衆議院議員と都道府県知事の血液型分布

6. 『新・血液型人間学』(1978年)から 
 (1) 司会者の血液型分布
 (2) 加害自動車事故と血液型分布

7. 『血液型と性格ハンドブック』(1981年)から
 (1) 戦後首相の血液型分布
 (2) 紅白出場歌手(1970, 1980年)の血液型分布の変遷

 (3) 東大工学部での異学科の調査例

 


はじめに

 1971年に能見氏の『血液型でわかる相性』が登場してから、81年10月に講演中、氏が急逝するまで、ABO式血液型批評は一大ブームとなった。しかし、氏の説は非学問的というわけで、ほとんどの専門家からは無視されるか、批判をよぶのみであった。批判といっても、粗野な俗説をしりぞけることはあっても、氏の著作を正面から扱ったものはあまりなかったようである。

 一般に、合理的根拠をもった組織的な探求が学問とよばれている。それが合理的かどうかを決めるのは、現在では、学問の一領域をしめる自然科学である。自然科学の方法論や成果に矛盾していると見なされるものは、占星術や骨相学、風水説のように学問ではないとされる。組織的というのは、一定の方法論をもち、ある分野での体系知を目ざすということにほかならない。
 近・現代の学問の歴史は、新しい学問誕生の歴史でもあった。わが国の例では、高等哺乳動物の群れの成員に固有名詞を与えて、固体の「個性」を識別したり、チンパンジーに「(サブ)言語」を認め、サル「社会」の「文化」を観察するといった研究は、従来の動物学の延長にはなかったものである。今までにない観点や方法論を有する学問が登場したとしても、そのこと自体は決していかがわしいことではない。
 それでは、能見氏の血液型人間学のばあいは、どうであろうか。まず、合理的根拠については氏は次のように述べている。
 「〔ABO式――筆者〕血液型というのは……初め、血液から発見されたため、血液型と命名されてしまいました。このため多くの人々が、血液だけの型かと誤解するようになったのです」。(*1) しかし、実際は「血液型は体質型の一つ」なのであって、「血液型の違いを生む原因物質」である"多糖類−蛋白質型の複合化合物"は、「体の隅々にまで存在している」。(*2)
 そのためか、病気へのかかりやすさも血液型によって異なる場合がある。Britannica CD 99には、「A型はO型やB型より、胃がんに 20%多くかかりやすい」ことや、「O型は、40%多く十二指腸潰瘍にかかりやすい」ことなどが紹介されている(*3)
  能見氏によれば、「私は人間の"性格"とは、脳を含めた人間の神経系を、一つの電気回路とみなしたとき、その回路特性であると定義している。〔氏は電気工学科の卒業であった〕事実神経の刺激伝達は、電気的に行なわれる。その回路を構成する材料が血液型で異なるのだ。回路特性にひびくわけである。
 「中で私が有力な犯人(ほし)とニラんでいるのは、シナップスである。これは神経細胞のターミナルのようなもので、八方から情報が入って来ては出て行く。その伝達方式は電気化学的に行なわれる。つまりシナップス一個は一つの電池のようなものである。その電解液の化学性が血液型によって違っている。一つ一つのシナップスの特性差は小さくても、脳の中だけで何億というシナップスがあるのだ。積算すれば大へんな差になることも考えられる」。しかし、「いずれにしても、この解明は将来の問題である」。(*4)
 このように、能見氏は自説の立脚点を、自然科学的なものに求めている。精神的な"性格"や気質といえども、物質的なものに基盤をもつという考えは、多くの人が納得するところである。ただ、従来は、人間としての種的な必然的同一性を認めたあとは、偶有の非本質的な差異が各人の生体にあるとし、それによって気質ができ、そこに社会的境遇の違いが加わって、性格が形づくられるとされていた。しかし、氏は、種的な同一性と偶有的な差異のあいだに、ABO血液型と関連する物質によって決定される「基本気質」を挿入するのである(*5)
  氏の方法論をみてみよう。
 「血液型と性格の関係を数字化する主な方法に次の四つがある。
(1) 性格に関するアンケート調査を大量に集め、それを血液型別に比較分析する。
(2) 特殊な分野での血液型分布率を求め、平均的分布率とのズレから特異性を見出す。
(3) 多数の人々に行動実験を行ない、血液型別にデータを比較する。
(4) 生理学的な実験や観測。
 「このうち(4)については、いろんなアイデアが考えられるが、なお将来の問題である。(1)は、主要な方法の一つで、私もこれまで記名回答に基づき、約二万四千名の人々について行なってきた。…… (3)については教育現場などの協力がない限り、実施はなかなか難しい。『血液型人間学』の中の二百余名の大相撲力士の立合い調査がその一例である。血液型と性格の関係を、最も簡明に、直接的に裏づけるのは、(2)の方法といえよう。ある分野に属する人々の血液型分布率は、誰が調べても同じ結果が出る……。」。(*6) 
 このように、氏は、血液型別の気質や性格についての観察結果を定性的に記述するだけでなく、定量的にまとめて客観的に提示しようとしていた。
 以上要するに、血液型人間学は骨相学などとは違い、心理学あるいは人間学の分野における新興の学問である、と認められるのである。むろん誤っている可能性や、後世において反証される可能性は、学問である以上当然ありえる。例えば、ナプキンに描かれて登場したラッファー・カーブは、伝説を残しはしたが、今では(少なくとも主流派からは)誤りとされる。しかし、それは経済学として誤っているのであって、風水説が「誤っている」のとは意味がちがう。たとえ、誤ったにせよ、多くの人を啓発した優れた着眼であった、ということも起こりえる。ラッファー・カーブは、増税をすれば税収は増大するという暗黙の前提に、光をあてたとはいえる。

 血液型人間学が現在のところ正しいかどうかは、一応二つに分けて検討されるべきだと思われる。
(A) 血液型で表されている人間の生理的体質型(以下ではたんに「血液型」と略記する)が、気質ないし性格と本当にリンクしているのか。
(B) リンクしているとすれば、能見氏による各血液型の気質・性格の特徴づけは的確か。
 2局面に分かれるのは、、血液型人間学は、他の心理学やさらには社会科学と異なった性質をもつからである。血液型という生理学が扱う自然科学の分野と、人間学(気質・性格の学)という文化的(精神的)分野が、結合されているのである。これに対し、政治学や経済学では、文化的形象が扱われるだけである。例えば、百人のデモと、一万人のデモを政治学者はインパクトが違うものとして扱っても、それは物理学的運動量の違いとしてではなく、民意の大きさないし激しさにおいてである。また、日本は中東から石油を大量に輸入しているが、経済学的にはその物理的質量は意味がなく、石油という財貨のもつ経済的効果が問題となる。仮に石油の輸入が制限され、自動車などが動かなくなっても、経済学において扱われるのは金銭的数字(文化的形象)に最終的に収れんする経済的影響である。
 なるほど、心理学においては上記の2分野において研究がなされているが、両分野の研究は別個のものとされ、住み分けているようである。つまり、一方には行動心理学や、条件反射あるいは刺激−反応を扱う学派があり、それらは生理学や物理・化学の延長線上にある。他方には精神分析学など、ある種の解釈学に従事するものが独立した領域を形成している。精神分析学が、人間の行動の根底に性的リビドーを見いだすからといって、「行動Aがなされるときには、性的行動のさいに分泌される物質Bが、一定量分泌されている」といったことを実証的に発見したわけではない。他人の行動の観察や自らの内観によって、人間の意識や行動を解釈したまでである。
 ところが、唯一血液型人間学だけは、自然科学と解釈学を、おそらくまだ無自覚に、結合させているのである。これは大きな問題をはらんでいると思われるが(私のような哲学屋は、すぐに認識論上の権利問題などといったことが気にかかってくるのです)しかし、それは将来に預けることにしよう。まずは、上記のように2つに分けて検討するのが妥当であろう。

 (B)の各血液型についての能見氏の説明(解釈学的側面)は、大変精妙でまた多面的、そして完成度が高いと私は思う。私はO型であるが、あたかも掌を指すかのように、自分の心のあり方や動きを氏によって示されたのには驚いた。同じように感じた人は多かったにちがいない。血液型別の生活指針が提示されたことと相まって、爆発的人気をよんだゆえんであろう。
 卓抜な比喩にも忘れがたいものがある。「私は、よく野菜のたとえを用いる。……野菜には、大根、ニンジン、ナス、……と多種多様の品種があるように、人間の個性も千差万別である。いわば同じO型でも大根O、白菜Oとあるようなものだ。だが、O型全体を考えると、それらの野菜のうちで、生野菜がO型であるとしよう。野菜の種類は数あっても、生野菜としての共通性、それがO型気質である。A型もO型と同様、大根、白菜、……等々の個性差はある。しかし、A型はそれらの野菜を、ツケモノにしたものと考えるのだ。するとここに"ツケモノ"という共通性が、新たに加わってくる。それが、A型気質に相当するわけである」。(*7)
 また、さまざまな観察を総合し、じつに多くの資料を収集して、人の心を構造化して示そうという氏の努力も見逃すわけにはいかない(*8) したがって、氏の著作は「子女の読みもの」と受けとられがちだが、じつは全体像を把握するのには努力を要する体系性を有している。

 だが、血液型人間学では、その体系は自己完結することはできず、血液型という生理の方面からの検証を受けねばならない。そこで、上記(A)の場面が問題となる。
 (A)を検討するときには、能見氏があげた上記(2)、(3)、(4)の方法が有効であるが、氏は著作の中で(2) の「特殊な分野での血液型分布率を求め、平均的分布率とのズレから特異性を見出」した例を数多く援用している。そこで、以下では、それらを推計学(確率論をともなった統計学)的に検証してみたい。氏が著作で提出している統計データを前提にしたとき、氏が提出した結論がはたして推計学的に妥当かどうかを、まず確認しようというわけである。データ自体の信憑性の検討は(本当はこれが大切にしても)、私の手にあまる。熱心な探求者が、後日現れることを願うほかはない。
 最近では私のような素人でも、入門用の安価なパソコンと、エクセルなどの表計算ソフトがあれば、<カイ2乗検定>や<分割表による一様性の検定>などはあっという間にできてしまう。第3章で、使った検証法を紹介したので、関心のある能見ファンは他でもいろいろと試してほしい。
 今回取りあげたさまざまな例は、氏がおこなったサンプル採取の段階で、偏りが少なく、サンプル数も十分にあると思われるものを中心とした。
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(*1) 能見正比古『血液型と性格ハンドブック』(サンケイ出版、1981年) 13ページ。(戻る)
(*2) 同氏『血液型エッセンス』(サンケイ出版、1977年) 164-67ページ。(戻る)
(*3) 'ABO blood group system'の項目を参照した。(戻る)
(*4) 能見正比古『新・血液型人間学』(けいせい出版、1978年)80ページ。(戻る)
(*5) 同氏『血液型人間学』(サンケイ出版、1973年) 68-70ページなどを、参照した。(戻る)
(*6) 同氏『血液型活用学』(サンケイ出版、1976年)102ページ。(戻る)
(*7) 同上、80ページ。(戻る)
(*8) 同氏『血液型人間学』(サンケイ出版、1973年) 68-74ページなど。(戻る)


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