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哲学と批評


1. 『血液型』シリーズ著作名と関連サイト

 能見氏の著作には、次のようなものがあります。

1971年『血液型でわかる相性』青春出版社
1973年『血液型人間学』サンケイ出版
1974年『血液型愛情学』サンケイ出版(青春出版社版は1985年)
1976年『血液型活用学』サンケイ出版
1976年『血液型スポーツ学』サンケイ出版
1977年『血液型エッセンス』サンケイ出版
1978年『血液型政治学』サンケイ出版(青春出版社版は1986年)
1978年『新・血液型人間学』けいせい出版
1979年『血液型人生論』青春出版社
1979年『血液型で人間を知る本』青春出版社
1981年『血液型女性白書』青春出版社
1981年『血液型と性格ハンドブック』サンケイ出版
1982年『血液型ゴルファー学』サンケイ出版(能見俊賢氏が編集)

●上記著作の内容紹介と能見俊賢氏の著作については、次のサイトでまとめられています。
http://www.abo-world.co.jp/page/book.html

●血液型と性格に関する内外の文献やホームページをまとめ、紹介したサイトとして、大和田氏の「ABO FAN」があります。大変な労作で、氏の主張とともに見逃すわけにはいかないと思われます。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/


2. 成果と問題点

1) 血液型人間学と「科学」

 結論として、多くのデータが能見氏の立論を支持しているといえる。とはいえ、多くの分野で血液型による有意差が見いだされたからといって、「血液型と気質体質との関係、すなわち血液型人間学は、これらの資料及び統計学上の処理の結果、もはや疑う余地もなく、科学的に根拠づけられたということであ(*1)――このように断定する権利を獲得したことには、残念ながらならない。血液型による有意な差がない分野も、多くあるだろ(*2)、また、特定の血液型には差がでても、他の血液型には表れない場合もあるからである。
 もちろん、そのようなときも、能見「ABO式血液型」人間学から合理的解釈はなされえよう。しかし、その反対の解釈をはじめから退けることもできない。例えば、次のように主張する人が現れることもあろう。
 「跳躍や投てきと違ってマラソンでは、大局を読むことや、競争心・かけひきが要求される。O型の気質には『勝負師性がある(*3)と能見氏はいうが、それならマラソン選手にO型が相対的に多くなるはずなのに、事実は少ない。だから、能見血液型人間学は誤りである」云々。
 そして、このような反論は、場当たり的にしようと思えばいくらでもできよう。したがって、さまざまな分野を統計的観点から考察することは、血液型と気質・体質との関係をより深く理解していくためであって、関係を直接証明するためではないし、またできない。むろん、統計的事実を積み重ねていけば、血液型人間学に対する理解はじょじょに増え、多くの人を納得させえるようになるであろう。能見氏も警告するように、「ただ、蛇足を加えれば、どのような精密化学分野でも、数字はあくまで補助の道具、基本はあくまで私たちの観察と観測であることを忘れてはなるまい。(*4)
 やがて、同じ分野(たとえばボクサー)では、各国である特定の血液型が多い、といったことが発見されたり(普遍性)、ある領域では何型が少ないはずだ(予見可能性)、などとある程度言えるようになったりすれば、いわゆるゲシュタルト・チェンジが起き、血液型人間学は「科学」だと、事実上、認知されることになろう。そのときには、同じ分野でも(例えば、知事職)、国によって(例えば、日本とアメリカ)血液型の分布に違いがあることが分かったとしても、血液型学の妥当性が疑われるのではなく、逆に、同じ分野に対する人々の嗜好や要求にも国によって違いがあるのだと、解釈されよう。
 血液型で表されている生体の化学組成の違いが、体質・気質を
条件づける化学組成に、どのように影響するのかが分かれば問題は簡単だが、これには科学の進歩をもってしても、少なくともあと数十年はかかるであろう。そもそも「気質」ということで、いかなる性質ないし行動の発現や傾向を指すのか、そうしたコンセンサスが得られるのにも、相当の時間を要する。
 また、血液型の調査や公表にはたえずプライバシーの問題がかかわってくる。調査対象者から自発的に血液型を知らせてもらう場合でも、その人の思い違いや、何らかのウソがいくらかは混じるはずだ。また、データの欠落も生じざるをえない。ラボラトリーで、数百匹のマウスに定量の化学薬品を投与して調べるのとは、違うのである。
 したがって、まず「科学」がみたすべき厳密な条件をあげ、あるいは、標本抽出にあたっての要件を列挙して、能見血液型学は学問的とはいえないと断じ、能事終われリとすべきではない。現今の人文系の学問は(自然科学においても最先端の領域は)、そのような厳密な条件をみたしてはいないし、とくに心理学などは条件反射などの分野を除いてそうである。計量経済学者や精神分析研究者に向かって、「科学ではありませんね」と言えば、相手も苦笑するであろうが、「学問ではありませんね」とは、ふつう世間の人も言わないのではないだろうか。
 なるほど推計学にもとづいた社会調査では、標本抽出
にさいしてのランダム性の確保については、細心の注意がはらわれる。政党支持率を調査するときに、手当たり次第に1000人から聞きましたでは、意味をなさない。地域、職種、年齢、年収など、さまざまな条件が支持率に影響をおよぼすであろうから、それらによるバイアスが結果に表れない抽出法をとることになる。しかし、例えば司会者の血液型分布ということであれば、調査対象者の決定には、さして神経質にならずともいいのではなかろうか。つまり、「テレビのプロデューサーや芸能記者の助言も受け、一定期間、TV番組で安定した司会役を続けた人をとりあげている」(『新・血液型人間学』44ページ)といった決定法で、ある程度の人数(標本数)を確保すれば、実質的な問題は少ないと思えるのである。政党支持率調査のときのような、結果を左右する条件が想定できないからである。むろん、周囲との人の交流が乏しく、血液型分布が全国平均とはズレているような地方が、対象となった場合などは別である。
 
例えば、あるサイコロの目のでかたにクセがないかを調べるため、そのサイコロを1000回振った結果を記録にとろうとする。その場合、サイコロを第1回目から次々と1000回振って、それらをデータとしていいのではないか。いわば、手当たり次第に標本を採取するのである。サイコロが壊れるまで試投したあと、その中から乱数表をもとに第何回目の試投を採取するといった方法で、1000個の標本を集めなくてもいいであろう。出る目に影響するような条件を、想定できなからである。試投しているうちにサイコロが変形し、目の出方にバイアスがかかってくるというのであれば別である。
 
血液型調査もこのサイコロのクセの調査と似ている。むろん、厳密な取り決めのもとに全数調査、あるいは標本採取が行なわれ、欠損データも詳しく報告されるのが望ましいことはいうまでもない。それらなくしては、推計学的に推定してもその精度が今ひとつハッキリしないし、あとから他人が確かめようもない。

 ところで、文系の学問が「科学的」であろうとすれば、推計学に訴えざるをえない。能見氏がデータを数表化してカイ2乗検定を利用したのは、その方向への当然な一歩である。しかし残念なことには、氏は推計学に対してまったくの素人であった。データの取り扱い方がずさんだったり、推論の仕方が誤っている個所も多々見られたのである。氏の仕事には科学的厳密さが欠けていたとの批判は、甘受しなければならないであろう。とはいえ、いかなる巨人とて、すべての側面を完璧に仕上げることはむろん不可能である。欠点の是正と、研究の発展は後世の私たちの課題といえよう。
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(*1) 『血液型活用学』111ページ、サンケイ出版社、1976年(戻る)
(*2) 「特別の性格の加わらない集団では、まずまず日本人平均なみの分布率を示すものだ」。(『血液型エッセンス』16ページ、サンケイ出版社、1977年 (戻る)
(*3) 『血液型活用学』150ページ、サンケイ出版社、1976年。(戻る)
(*4)
同書、102ページ。(戻る)


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