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K. L. ラインホルトの著作の翻訳

 人間の表象能力についての新理論の試み [1789年]

第1巻 ( v. 1.0.1.)

Versuch
einer neuen Theorie
des menschlichen
Vorstellungsvermögen


Erstes Buch



  第1巻 目次

  タイトルページ 
表象能力についての新しい探求が、必要であることについて



                  第1

   表象能力についての新しい探求が、必要であることについての論考


 場所をすこし片づけたり、知識への途上のゴミを取り除いたりという下働きをすることは、なお大望とするに十分である。
 ジョン・ロック『人間悟性論』の「読者への手紙」


  表象能力についての新しい探求が、必要であることについて

                      § 1

 哲学はこれまで、宗教や倫理(Moralität)のもつ根源的真理について、普遍的に通用する(allgemeingeltend)認識根拠を提示してこなかった。また道徳(Moral)や自然法について、普遍的通用の主要な原則も、提示してはいない。

 哲学においては、普遍的通用の原理は、普遍的に妥当するallgemeingültig)原理とは異なる。普遍通用の原理とは、普遍妥当の原理同様に、原理を理解するすべての人によって真理として認められるのみならず、健全な哲学するすべての人によって、現実に理解されるものである。
 まだなお哲学者たちの間で普遍的に通用はしない認識でも、むろんそれ自体として普遍的に妥当なものでありえる。例えば、自然科学を豊かなものにしたニュートンの学説は、発見されたその瞬間から、普遍的に妥当した。しかし、それがはじめて普遍的に通用したのは、長い間の誤解と論争をへた後でのことであった。しかし少なくとも、普遍的に妥当な認識は、普遍的に通用する可能性を持っていなくてはならない。
 何かある哲学の問題を解明したと思っている哲学者や、新しい体系の創始者、そして古い体系の改善者たちはすべて、彼らがはっきりと、あるいは暗黙のうちに、基礎に置いた前提が、普遍的に妥当すると考えている。そして彼らは、なぜこれらの前提がいまだに普遍的に通用しないのかという原因を、いたるところで、ただしこれらの前提以外のところで、常日頃探している。たとえ彼らがこれらの前提を、あまりに深く信じこんでいたとしても、彼らが仮定していることには――正しい理論が、また正しく述べられてもいる理論が、理解されない理由は理論自体にあるのではなく、著者や著者の能力とは関係のない外的な環境にある、という仮定には――抗論できない。
 この仮定に当てはまる例として、先入観がある。こうした先入観は、すべての文明国において、哲学がもっとも盛んな国々においてさえも、政体や有力な宗教によって維持されている。この種の妨害物は総じてまったく変えがたいものであり、その哲学への影響も圧倒的だと考えられたので、人々は普遍的に通用する原理への期待は、永久に捨てねばならないと思ったのである。こうして、哲学において普遍的通用という特権は、哲学にたずさわる大多数の人々から、ひどく軽視されたのだった。この特権を、ある人々はまったくの妄想だと見なしたし、他の人々は、誤謬と真理の両方に通じている両義的なメルクマールだと見なした。
 私はここで、この先入観を非難することで前記の仮定への非難を否定しようなどとは思わない。また、普遍的に通用した誤謬が、哲学においてはあったと言われている事実、あるいは確実な事実によって、普遍的通用性一般の外的可能性 [つまり、普遍的妥当性を伴わないで普遍的に通用する可能性] が証明されたと、主張しようとも思わない。私はただ、哲学界においてはよく知られている事実に留意したいのである。数学や自然科学においてのみならず、直観する素材のまったくない学問である論理学においても、普遍的に妥当する原理は存在しており、現実にこれらの原理は普遍的に通用するのものとなっている、という事実である。
 そこで、哲学的学問の他の分野、例えば形而上学が、普遍的に通用するという特権をいつまでも欠かざるをえないということが確かであれば、この欠かざるをえないことの十分な理由を、たんに外面的な妨げに帰すのは不可能であろう。この理由は、当の学問や、学問の普遍妥当な諸原理自体のうちに、求めねばならないであろう――あるいは、こうした学問にはこれまでこれら諸原理が、なかったのであろう。

 著述をしているとき、各哲学者は、少なくとも対象とする読者層を念頭に、何らかの普遍的に通用するものを仮定している。そうした仮定なくしては、読者の理解をえることも難しいであろう。哲学者が、あるテーマに関する、これまで知られてなかった普遍的に妥当する原理を、確定しようと思っているときでさえ、彼がすでに普遍的に通用すると見なしているものから、出発するほかはないのである。そして彼がその目的を果たせないとすれば、その原因の多くは、普遍的に通用すると見なしたものについての判断を誤ったことにあろう。
 独断的な懐疑論者は哲学における普遍的通用性を嘲笑するが、その嘲笑文を著すことで、自己自身を否定しているのである [つまり、彼が著した内容は、絶対的に正しいということで、懐疑の対象とはならないから]。超自然主義者は、啓示された真理に対してのみ普遍的妥当性の特権を認める。そして、これらの真理が普遍的通用性を持たないことの原因を、人間の本性において堕落が継承されることに求める。だが、彼の敵対者たちを例えば奇跡ないしは薪の山 [火刑用] によって改宗させられないかぎりは、彼が前提としていることに逃げ込まざるをえない。この前提によれば、闇の子たちは光の子たちと一緒だというのである(訳注1)
 なおもまったく対立しあっている原則をもった独断論者たち、すなわち有神論者と無神論者、唯心論者と唯物論者、宿命論者と均衡論者(訳注2)が、ついに戦いあうときには、双方ともに少なくとも、携えている武器は普遍的通用性という、こぼたれることなき鋼鉄からできていると、思い込んでいるにちがいない。要するに一言でいえば、哲学者が、普遍的に妥当する説を他人に確信させることができると望むことができるのは、普遍通用性に基づくときだけなのである。

 私の以下の主張は、なにも普遍的に通用するというのではないが、しかし哲学界の尊敬すべきかなりの人々によって、受け入れられているものである: 哲学のもっとも大切な目的は、この世においての、そしてまた来世を期待するさいの、義務と権利について、人類に開示することである。
 この高尚な哲学の目的に関しては、一つならぬ学派から異論がおきている。宗教や倫理のもつ根源的真理についての普遍的に通用する認識根拠、および道徳や自然法の有する普遍的に妥当する最高原則を、提示することが、哲学においてこれまでに成功していたのであれば、哲学のこの高尚な目的も、思索するすべての人々によって承認されるに違いないであろうが。

 哲学はこの重要な貢献をいつの日か人類になしえるのだろうかという問題を、なにも私が扱うことができるというのではない。ただ私が思うに、前述の最重要な事がこれまで普遍的通用性を欠如していることは広く知られた事実ではある。が、それだけに恐らくは、あまり検討されてこなかったのではないだろうか。
 思弁哲学者には、次のような古(いにしえ)からの原罪があったのである: 彼らは知ってはいないことについて口論するために、よく知っていることの検討を打っちゃったのである。また、理解できないものや想像できないものにおいて、また答えることができないものにおいて、新しいことを探し求めるために、確実なことをなにか古くさいこととしてなおざりにしたのである。

 改めていう必要はないであろうが(訳注3)、私はここで宗教と倫理ということで、神学や道徳の学問的体系を述べているのではなく、宗教および倫理という語でふつう言われる意志の傾向や活動すべてを、述べているのである。これらの傾向や活動をまずもって可能にさせるような確信を、私は基本的な諸真理と名付け、この確信の十分な根拠を宗教と倫理の基本的諸真理認識根拠と名付ける(「宗教と倫理の諸対象の認識根拠」ではない)。

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   第1巻 §1 の訳注

訳注1
Meiner 社、哲学文庫版編集者 Ernst-Otto Onnasch 氏の注釈によれば、光と闇の子供たち云々という箇所は、新約聖書の「エペソ人への手紙」第5章、8~14 節をふまえているそうです。同氏がルター訳のものを引用しているので、それを以下に訳出します(ご案じなされぬよう。引用は現代表記の 1984 年版からされているので、浅学な私でも理解できたのでした):

 「あなた方は、以前は闇でした。しかし今やあなた方は、主の内で光です。光の子として生きなさい。光がもたらすものは、純粋な善意と正しさ、そして真理です。主の御心にかなうものを、味わいなさい。不毛な闇の所業と、友誼を結んではいけません。むしろそれらの所業を、暴きなさい。というのも、それらによって密かになされるものは、語るのさえ忌まわしいことだからです。光によって暴かれるとき、すべてが明らかになってしまうのです。というのも、明らかになるものすべて、それは光だからです。したがって、次のように言われるのです:目覚めよ、汝眠れる者。そして死者の中より立ち上がれ。かくて汝を、主キリストは照らさん」。

 つまり、聖書の教えでは、光の子は闇の子とは不倶戴天の関係ですが、前記の超自然主義者は自分が無力なために妥協して、敵対性を曖昧にしてしまうと、ラインホルトは皮肉っているのです。

訳注2) 均衡論(
Äquilibrismus)というのは:
 「意志の決定論に対する非決定論の一つで、中世スコラ哲学者の多く説いたもの。二つの反対動機が同じ力と価値をもって均衡しているとき、意志はなんらの外的原因によっても制約規定されず、絶対に自由にどちらの動機をでも選択しうると説いて、意志の自由を主張する。」(平凡社『哲学辞典』)

訳注3
Meiner 社の哲学文庫版(599a, 2010 年)では、この箇所は Er bedarf wohl kaum erinnert zu werden, daß . . . となっています。しかし、文頭の Er は以下の3点を考慮すると、Es の誤植のようです:
(1)
Er だとすれば、それが受ける男性1格の適当な名詞が見当たりません。
(2)
Es bedarf wohl kaum erinnert zu warden, daß . . . は、よく使われる定型的表現です。

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(初出: 2011/11/28)
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