HOME 全サイト地図 3人の年表 3人の著作年表 目 次


   イツ観念論関係の誤訳について(6) v. 1.1.3

        フィヒテ幸いなる生への導き』


はじめに 誤解を避けるために、御一読をお願いします。
凡 例 

目 次
 ● 内容目次
   第11講 ・Z, 264/I, 9/SW, 580
   第11講 ・Z, 264/I, 9/SW, 580
   第8講 ・Z, 263/I, 7/SW, 579
   第8講 ・Z, 263/I, 7/SW, 579
   第8講 ・Z, 263/I, 7/SW, 579
   第5講 ・Z, 261/I, 5/SW, 577
   第5講 ・Z, 261/I, 5/SW, 577
   第5講 ・Z, 261/I, 5/SW, 577
   第4講 ・Z, 261/I, 5/SW, 577
   第3講 ・Z, 260/I, 4-5/SW, 576
   第3講 ・Z, 260/I, 4/SW, 576
   第1講 ・Z, 259/I, 3/SW, 575
 ● 序文(Vorrede)
   ・Z, 257-258/I, 12/SW, 400
   ・Z, 257/I, 12/SW, 400
   ・Z, 257/I, 11/SW, 399
 ● タイトル Z, 256/SW, 397


Z, 264/I, 9/Z, 580
★ Z での個所:「あらゆる人間を哀れな罪人とする・・・の原理から・・・」。
★ I での個所:「すべての人間は憐れなる罪人であると云ふ・・・原理(近代的博愛主義)よりして・・・」

☆ 拙訳では:
 すべての人間が哀れな罪人だという、相互の絶対的前提(近代的人間性)の原理から・・・

◆ 原文は:
 . . . aus dem Princip der absoluten gegenseitigen Voraussetzung aller Menschen, als armer Sünder (der modernen Humanität).

◇ 訳出のポイントは:
1) I 訳では、「(近代的人間性)」が脱落しています。

2) Z 訳のように、Humanität (人間性)を「博愛主義」としたのでは、意味がずれると思います。(目次)
(初出 2008.4.5, v. 1.0)


Z, 264/I, 9/Z, 580
★ Z での個所:「教説の一般的応用に寄せて、内面の伝達の障害について、・・・外的環境について」。
★ I での個所:「一般的適用の為に次のことを論ず。・・・に就いて」。(適切な訳です)。

☆ 拙訳では:
 一般的な適用のために:緊密な意思伝達の障害について、完全な献身の欠如について、・・・について。

◆ 原文は:
 Zur allgemeinen Nutzanwendung: von den Hinderungen einer innigen Mittheilung, dem Mangel völliger Hingebung, . . .

◇ 訳出のポイントは:
 「一般的な適用のために(に寄せて)」フィヒテが語る内容が、「緊密な意思伝達の障害」以下の事柄です。そのことが判然とするような訳にしました。(目次)
(初出 2008.4.5, v. 1.0)


Z, 263/I, 7/Z, 579
★ Z での個所:「・・・自我の意志も神の生と共に倒れる・・・」
★ I での個所:「・・・自我の意志は神の生と合致す」。(適切な訳です)。

☆ 拙訳では:
 自我の意志は、神の生と一致する。

◆ 原文は:
  . . . falle der Wille des Ich zusammen mit dem Leben Gottes;

◇ 訳出のポイントは:
 Zusammenfallen は「1 崩壊する」の意味の他に、mit et. を伴うときには、「4 一致する」があります。
 ところで有史以来、「神の生は、自我の意志とともに倒れる」などと言った人は、まだ出現していないのかも知れません・・・ (目次)
(初出 2008.4.4, v. 1.0)


Z, 263/I, 7/Z, 579
★ Z での個所:「定言命法が生ずる愛の特性既述」。
★ I での個所:「それよりして至上命令が生ずる愛、の特徴を叙述す」。

☆ 拙訳では:
 そこから定言的命法が生じて来るような愛の特徴。

◆ 原文は:
  . . . Charakteristik der Liebe, aus der ein kategorischer Imperativ entspringt.

◇ 訳出のポイントは:
1) 日本語として率直に読めば、 Z 訳の「生ずる」は自動詞とは理解されず、「愛を生ずる」他動詞となってしまいます。I 訳についても同じことが言え、その場合「それよりして」は、前文を指すことになります。
 1938年の I 訳は、「ところの」を入れて、「「そこよりして至上命令が生ずるところの愛、これの特徴を叙述す」としたいものです。

2) 一般読者の理解や検索の便宜を考えて、哲学用語で広辞苑に載っているものは、その表記に従った方がいいと思います。広辞苑の表記が不適切な場合は、哲学会などが岩波書店に要望を出すべきでしょう。
 そこで、「定言的命法」にしました。(目次)
(初出 2008.4.3, v. 1.0)


Z, 263/I, 7/Z, 579
★ Z での個所:「・・・客観的自己規定の愛が捨てられた後に・・・」
★ I での個所:「・・・客観的自己規定に対する愛を放棄した後に・・・」

☆ 拙訳では:
 ・・・諸対象によって規定された自己への愛を、放棄した後に・・・

◆ 原文は:
  . . . nach aufgegebeneer Liebe objektiver Selbstbestimmung.

◇ 訳出のポイントは:
 この個所は、前の文で登場する「諸対象によって・・・規定された自己への愛(die Liebe zu einem . . . durch die Objekte bestimmten Selbst)」を、受けています。そこで、そのような訳にしないと意味がとれません。
 objektiv を「客観的」、die Objekte を「客観」と訳しても可だとは思いますが、Objekte が複数形ですから、「諸対象」とした方が、より内容に沿うようです。(目次)
(初出 2008.4.3, v. 1.0)


Z, 261/I, 5/Z, 577
★ Z での個所:「・・・そこでは同一の実在的なものが・・・うちへと措定される・・・」
★ I での個所:「・・・現存世界の内に於いて・・・与えられる見解である」。(構文のとり方は適切です)。

☆ 拙訳では:
 ・・・そこでは [第2の世界観のときと] 同じ実在性が、現存する世界の中に新しい世界を創造するところの、自由へと向かう法則のうちに措定される。

◆ 原文は:
  . . . da dasselbe Reale in ein, -- innerhalb der vorhandenen Welt, eine neue erschaffendes -- Gesetz an die Freiheit gesetzt wird:

◇ 訳出のポイントは:
1) ein Gesetz を修飾するのが、ダッシュ(-- --)で囲まれた部分です。eine neue の後には、Welt が省略されています。そこでダッシュで囲まれた部分の訳は、「現存する世界の中に、新しい世界を創造する」となります。そしてこの「創造する(erschaffendes)」は、その後の「法則(Gesetz)」にかかっていきます。

2) Gesetz an die Freiheitす は、下に既述のように、「「自由へと向かう」と訳出しました。(目次)
(初出 2008.4.1, v. 1.0)


Z, 261/I, 5/Z, 577
★ Z での個所:「・・・そこでは実在的なものは現在する世界を秩序づける自由に基づく法則のうちへと・・・」
★ I での個所:「・・・現存世界を秩序づける・自由に対する法則に・・・見解である」。

☆ 拙訳では:
 ・・・そこでは実在性は、現存する世界を秩序づけるところの、自由へと向かう法則のうちに、措定される。

◆ 原文は:
 . . . da das Reale in ein, die vorhandene Welt ordnendes Gesetz an die Freiheit gesetzt wird:

◇ 訳出のポイントは:
1) an die Freihiettdie Freiheit は4格ですから、an は方向性を表すと考えられます。そこで、「自由へと向かう」と訳出しました。
 a) Z 訳のように「自由に基づく法則」としますと、自由が第1で法則が第2のものになります。それでは、本文第5講の次のような内容と矛盾してしまいます:
「法則が・・・この世界観では第1のものであり、そこでは法則のみが真実に存在し、他に在るものはすべて、法則によってはじめて在るのである。自由と人類は、この世界観にとっては2番目のものであって、それらが在るのはただ、自由へと向かう法則(ein Gesetz an die Freiheit)が必然的に、自由と自由な存在者(Wesen)を、措定するからである」。(SW, Bd., V, S. 467. Z 訳では 335 ページ、I 訳では 104 ページ)

 b) I 訳のように「自由に対する法則」としますと、自由と法則が対立しているような感じになってしまいます。

2) なお前記引用文中の「自由へと向かう法則(ein Gesetz an die Freiheit)」を、Z 訳ならびに I 訳では「自由の法則」と訳しています。しかし、この法則は道徳法則なので、「自由の法則」というのは無理があると思います。

3) ちなみに、「この世界観の首尾一貫した最適な例は、・・・カントである――もし彼の哲学を、実践理性批判までしか追わないとすればだが。・・・このような考え方 [前述の世界観] に固有な特徴を、カントは [フィヒテと] 同じ言葉で表現したのである」(SW, Bd., V, S. 467)と、言われます。そこでカントは、道徳法則と自由の関係をどのように説明しているかといいますと:

 「私がここでは [『実践理性批判』の「序文(Vorrede)」] 自由を「道徳法則の条件」と呼び、後の論述[同書、第1章、第6節の注] では、「道徳法則は、私たちがはじめて自由を意識できるようになるための条件である」と主張するのは、矛盾ではないかと思われないために、以下のことを指摘しておきたい。自由はたしかに道徳法則の存在根拠(ratio essendi)であるが、道徳法則は自由の認識根拠(ratio cognoscendi) なのである。というのは、もし私たちの有する理性のうちの道徳法則が、先に明瞭に考えられていなかったとすれば、私たちは自由が存在するというようなことを(たとえそれが自己矛盾をきたすことではないにしても)想定する根拠を、もたないであろう。しかし、自由が存在しないとすれば、私たちのうちの道徳律を見出すこともできないであろう」。(『実践理性批判』の「序文(Vorrede)」の注、A, S. 5.)

 (いや~、いかにもカント的な議論ですね。相反する A と B を、S からすれば A、しかし T からすれば B というものです。しかも S も T も、同じく根本的で、相補的な立脚点です。はじめてこのような議論に出会ったときは、仰天・感心すること必定です)。(目次)
(初出 2008.3.31, v. 1.0)


Z, 261/I, 5/Z, 577
★ Z での個所:「・・・しかしながらこの最後の分裂は最初の分裂と内的に絡み合いもつれ合っている」。
★ I での個所:「併しながら此の・・・絡み合っている」(適切な訳です)

☆ 拙訳では:
 とはいえ、後者(世界についての反省)の分裂は前者(世界)の分裂と、大変緊密に絡みあい、結びついている。

◆ 原文は:
  . . . welche letztere Spaltung jedoch mit der ersten innigst durchdrungen und verwachsen sey..

◇ 訳出のポイントは:
1) letztererst は、時間的に、あるいは多く並んでいる内の、「最後」と「最初」ではなく、前文で提示されている2つの内の「前者」と「後者」の意味です。
2) innigst は、「内的に」というより、「甚だ密接に(I 訳)」とか「大変緊密に」。
3) mit et. verwachsen は、「I 1 b) 癒合する、緊密に結ばれている」の意味です。「もつれ合っている」と訳したのでは、内容的にもずれてしまいます。(目次)
(初出 2008.3.28, v. 1.0)


Z, 261/I, 5/Z, 577
★ Z での個所:「この世界はかのとしての事実によって・・・また無限に」。
★ I での個所:「――此の世界は・・・形態化される」。

☆ 拙訳では:
 この世界は、かの「として」という事実によって、特徴づけられ、形成されている。この事実は、絶対的に自由な自立性である――無条件に無限なまでにつづくような。

◆ 原文は:
 Diese Welt werde charakterisirt oder gestaltet durch das Factum jenes Als, welches Factum sei eine absolut freie Selbstständigkeit – ins unbedingte und unendliche fort.

◇ 訳出のポイントは:
1) Z の訳では、この個所にかぎらず、「
als(として)」が特別に表記されることもなく訳されているので、読者としてはおかしな日本語に面することになります。原文では Als と名詞扱いされて際立たされていることからも、「 」を付けるか、傍点を振るべきでしょう。

2) absolut freie Selbstständigkeit は、率直に「絶対的に自由な自立性
とすべきだと思います。「絶対的自由の独立性」とか「絶対自由の独立性」などと訳すと、「自由が独立的」の意味になってしまいます。(ちょっとシェリング的ですね)。

3) charakterisirt が、Z の訳では「特性記述され」となっています。しかし、世界が「として」を有するのは、誰かが記述するしないにはかかわらないのですから、勇み足です。

4) Factum を I では「行為」と訳していますが、これでは意味がずれてしまいます。

5) 最後の ins unbedingte und unendliche fort.(拙訳では、「無条件に無限なまでにつづくような」)が、
frei(自由な)を修飾するのか、あるいは selbstständig(自立的)を修飾するのか、迷うところです。内容的には、どちらであっても大差ないともいえます。しかし、ここでははじめて登場した名詞の Selbstständigkeit が文の主役ですから、直前の selbstständig だと思われます。
 Z の訳「この事実は絶対的自由の独立性である――無制約的にまた無限に。」では、「この事実が絶対的自由の独立性である」ことが、無制約的であり無限的であるような意味になります。それでは意味がずれてしまいますし、最後の「
fort(さらに先へと、引き続いて)」が効いてきません。
 なお、I の訳では、unbedingte(無条件)が脱落しています。また、「無限に特徴付けられる」と、奇妙な訳になっています。

6) 拙訳では「この事実は」というように、2番目に登場した
Factum もイタリックにしました。これは、原文どおりにたんに「事実」としたのでは、直前の文「この世界は、・・・形成されている」全体を、1つの「事実」として指すように読まれることを、避けるためです。(目次)
(初出 2008.3.26, v. 1.0)


Z, 260/I, 4-5/Z, 576
★ Z での個所:「・・・この意識は、・・・導出できない、・・・」
★ I での個所:「此の意識は・・・演繹することは出来ないが、・・・」(適切な訳です)

☆ 拙訳では:
 この意識はそれ自体の現存(Dasein)一般については、現存の個別的・実在的諸規定についてと同様、存在からは発生論的(genetisch)に導出することができない。

◆ 原文は:
  . . . welches Bewußtsein . . . seinem eigenen Dasein überhaupt, sowie den besonderen realen Bestimmungen desselben nach, aus dem Seyn sich selbst nicht genetisch ableiten . . . könne, . . .

◇ 訳出のポイントは:
 Z の訳は、前置詞 nach を「4a) (準拠)・・・に従って」の意味にとっています。しかしそれでは、「それ自身の現存在一般・・・に従って自己自身を存在から発生的に導出できない」というのはどういうことか、理解に苦しむことになります。
 そこでこの nach は、「4b) ・・・の(観)点で」だと思います。つまり、「現存一般の点では(については)、現存の個別的・実在的諸規定の点でと同様」という訳になります。(目次)
(初出 2008.3.24, v. 1.0)


Z, 260/I, 4/Z, 576
★ Z での個所:「この思考は、領域に・・・形式上は区別される」。
★ I での個所:「かかる思惟と・・・如何に相違しているか」。(正しい訳とはいえ・・)

☆ 拙訳では:
 ・・・また、この思考が・・・形式の面ではたんなる思い込みと、どう違うのかということ。

◆ 原文は:
  . . . und wie dieses [= das eigentliche höhere Denken] vom blossen Meinen . . . der Form nach sich unterscheide.

◇ 訳出のポイントは:
1) Z の訳では、原文の
wie(どのように)が見落とされています。
2)
Meinenmeinen(思う)という基本的な動詞を、たんに名詞として使ったものです。これにフィヒテは、否定的な意味を込めています。そこで、「臆念(深く心中に銘記して忘れぬ考え――広辞苑第5版)」とか、「臆見(憶測にもとづく意見――同前)」などと訳したのでは、意味がずれることになります。たんに「思い込み」でいいのではないかと思います。(目次)
(初出 2008.3.20, v. 1.0)


Z, 259/I, 3/Z, 575
★ Z での個所:「・・・それゆえ生と幸いは即かつ対自的に一であり同一である」。
★ I での個所:「従って生と浄福は、それ自体に於いては、一にして同じものである」。(正しい訳です)

☆ 拙訳では:
 ・・・したがって、生と幸いは本来一つのものであり、まったく同一である。

◆ 原文は:
  . . . und daher ist Leben und Seligkeit an und für sich Eins und ebendasselbe.

◇ 訳出のポイントは:
 
an und für sich を「即かつ対自的に」と訳したのでは、ヘーゲル哲学の第3段階(1. 即自的、2. 対自的、3. 即かつ対自的)になってしまいます。ここはふつうの意味で使われており、「本来、そもそも」です。(目次)
(初出 2008.3.18, v. 1.0)


Z, 257-258/I, 12/Z, 400
★ Z での個所:「何となれば、私自身としては・・・多くの聴衆というものを正しく掴めなかったのである」。
★ I での個所:「何故と云ふに、・・・甚だ迷っており、」

☆ 拙訳では:
 というのも私自身は、いささかの興奮がもたらす途方もない混乱を目にし、また、正しきことを欲する人には必ず生じるところの感謝の念を目にしたので、少なからぬこれら聴衆を前に度を失い・・・

◆ 原文は:
 Denn ich für meine Person bin durch den Anblick der unendlichen Verwirrungen, welche jede kräftigere Anregung nach sich zieht, auch des Dankes, der jedem, der das Rechte will, unausbleiblich zu Theil wird, an dem grösseren Publicum also irre geworden, . .

◇ 訳出のポイントは:
1) フィヒテは聴衆を否定的に見ているのではなく、肯定的に受け止めています。つまり、聴衆はフィヒテの講演を理解できず、ただの混乱状態を呈したのではありません。逆にフィヒテの話に熱狂したのです。このことは、「正しきことを欲する人には必ず生じるところの感謝の念」を、聴衆がもったことから、明らかです。
 しかし単に、聴衆は私の話を分かってくれて、熱狂的に感謝してくれた、と書いたのでは自慢話になってしまいます。そこでフィヒテは、いささか間接的な表現を用い、また、聴衆の混乱によって度を失ったような講演を今さら活字にしても――などというこの後での遁辞の陰に隠れたのです。

2) „irre werden“ は、「狼狽する、度を失う」、„an et. irre werden“ は、「・・・に自信を失う、・・・が信じられなくなる」の用例が、小学館『独和大辞典』にあります。(目次)
(初出 2008.3.18, v. 1.0)


Z, 257/I, 12/Z, 400
★ Z での個所:「友人たちは、成果が彼らの期待に反するものであれば、責任を感ずるであろう」。
★ I での個所:「若し結果が・・・負ふが宜しい」。(的確な訳です)

☆ 拙訳では:
 友人たちは、結果が彼らの期待に反するときには、責任を取られるがよろしかろう。

◆ 原文は:
 Diese [Freunde] mögen es nun verantworten, wenn der Erfolg gegen ihre Erwaltung ausgefällt.

◇ 訳出のポイントは:
 
„mögen“ は接続法 I で、意味は、「1 d)(話し手の主観的願望を示して)・・・して欲しい」だと思います。Z での訳のように、推定の「・・・でありうる」だと、文意がピリッとしません。
 なお、「責任を取られるがよろしかろう」というのは、むろんフィヒテの冗談です。(目次)
(初出 2008.3.18, v. 1.0)


Z, 257/I, 11/SW, 399
★ Z での個所:「・・・よりゆったりと、しかもより成熟した・・・」。
★ I での個所:「より多くの閑暇とより成熟せる・・・」

☆ 拙訳では:
 ・・・比較的ゆっくりとした、壮年期ともいえる時期の・・・

◆ 原文は:
 . . . mit mehr Musse und im referen Mannesalter . . .

◇ 訳出のポイントは:
 
„mehr“ „reiferen“ のという比較級ですが、これらは「絶対的比較級」だと思います。つまり、「必ずしも他と比較せず・・・ただその性質の程度がかなりであることを示す」ものです(桜井和市著『改訂 ドイツ広文典』、第三書房、110ページ)。例文として:“Er gehört zu den besseren, wenngleich noch nicht zu den guten Schülern.“ が記載されており、「bessere Schüler はまだ gute Schüler ではないのである。おなじように、eine ältere Dame eine alte Dame より若いし、eine höhere Schule『高等学校』は eine Hochschule『大学』より低いのである」。(目次)
(初出 2008.3.18, v. 1.0)


Z, 256/SW, 397
★ Z での個所:„Die Anweisung zum seligen Leben, ader auch Religionslehre, 1806.“

◇ Z の訳書では、255 ページのタイトル『幸いなる生への導き』に続いて、次ページに原語タイトルが、前記のように掲載されています。しかし文中の aderoder の誤植です。読者に辞書を引く労を省いていただくために、記す次第です。
(初出 2008.3.18, v. 1.0)


 例  
 ・フィヒテ全集、第15巻所収『幸いなる生への導き』(晢書房、2005年)で、不適切と思われる訳がされている個所を、取り上げました。
 ・岩波文庫の『浄福なる生への指教』は、絶版になってはいますが、アマゾンなどの中古市場で安価に入手できます。そこで適宜、この訳へも言及しました。
 なおこの訳は1938年のもので、古い表現が最初は取り付きづらいとは思いますが、比較的良訳ですので、安価なことからも、こちらをお勧めします。
 ・原文からの引用は、『SW 版(小フィヒテ版)』全集の第V巻に拠りました。
 ・略字は以下のとおりです。
   Z: フィヒテ全集第15巻
   I: 岩波文庫『浄福なる生への指教』(1999年、第4刷)
   SW: SW 版第V 巻
 ・その次の数字は、ページ数です。
 ・[  ] 内は私の挿入です。
 ・使用している独和辞書は、小学館『独和大辞典 第2版』の、書籍版ならびに電子辞書版です。(TOP)

HOME 全サイト地図 3人の年表 3人の著作年表 目 次