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   ドイツ観念論関係の誤訳について(4) v. 1.1.6

カント:岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』((2001年版)

   [注意点] v. 1.2
   [目 次]
 (例:235ページ→この岩波書店版のページ数。(B, S. 170) → B 版の原文のページ数)。

 ・「超越論的論理学」、247 ページ(B, S. 185)
 ・「超越論的論理学」、247 ページ(B, S. 185)
 ・「超越論的論理学」、247 ページ(B, S. 185)
 ・「超越論的論理学」、247 ページ(B, S. 184)
 ・「超越論的論理学」、246 ページ(B, S. 184)
 ・「超越論的論理学」、246 ページ(B, S. 183)
 ・「超越論的論理学」、246 ページ(B, S. 183)
 ・「超越論的論理学」、245 ページ(B, S. 182)
 ・「超越論的論理学」、243 ページ(B, S. 178)
 ・「超越論的論理学」、242 ページ(B, S. 178)
 ・「超越論的論理学」、240 ページ(B, S. 175)
 ・「超越論的論理学」、238 ページ(B, S. 173)
 ・「超越論的論理学」、238 ページ(B, S. 172)
 ・「超越論的論理学」、238 ページ(B, S. 172)
 ・「超越論的論理学」、237 ページ(B, S. 172)
 ・「超越論的論理学」、235 ページ(B, S. 170)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、247 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 なぜなら、諸カテゴリーは(根源的統覚におけるすべての意識の必然的合一のゆえに)アプリオリに必然的な統一に基づくことによって、諸現象を総合の普遍的規則に従わせる・・・

◆ 原文は:
 . . . indem sie [= Kategorien] . . . durch Gründe einer a priori notwendigen Einheit (wegen der notwendigen Vereinigung alles Bewusstseins in einer ursprünglichen Apperzeption) Erscheinungen allgemeinen Regeln der Synthesis zu unterwerfen, . . ..

☆ 拙・改訳では:
 なぜなら、カテゴリーは諸現象を、ア・プリオリで必然的な統一(すなわち、根源的な統覚のうちで、すべての意識が必然的に統合されるがゆえの)という根拠によって、総合のもつ普遍的諸規則に従わせる・・・

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では、( )内の「根源的統覚における・・・」という文章が、直前の「諸カテゴリー」を修飾すると受け取られかねません。かりに、この( )内の文章が後の文成分を修飾すると理解しても、「アプリオリ」、「必然的」、「統一」、「従わせる」のどれにかけていいのか、判然としないようです。
 原文を見ると、( )内の文章は直前の「統一 Einheit」を修飾するので、そのことが明確になるよう改訳しました。

2) 元の訳では、<諸カテゴリー自体が、統覚のもたらす統一に基づいている durch Gründe>ことになります。しかし、原文の意味は、<諸カテゴリーは、統覚がもたらす統一という根拠を用いて(根拠を通じて)>ということですので、そのように改訳しました。
(初出 2007.8.20, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、247 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 だから、諸カテゴリーは結局は可能な経験的使用以外のいかなる使用もされない。

◆ 原文は:
 . . . die Kategorien sind daher am Ende von keinem anderen, als einem möglichen empirischen Gebrauche, . . .

☆ 拙・改訳では:
 だから結局のところカテゴリーは、経験的に可能な使用以外の使用はされないのである。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、「可能な・・・使用以外のいかなる使用もされない」となっており、トートロジーを思わせます(「不可能な使用はされることはない」、のですから)。いずれにしろ、「可能な」という語が、おさまりの悪い状態となっています。
 そこで、「可能な」と「経験的」の位置を入れ替えることによって、「経験的な使用以外には使用されない」という主題を明確にしました。
(初出 2007.8.21, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、247 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・悟性の図式論は内的感官における直観のすべての多様の統一以外の何も目指さず、・・・

◆ 原文は:
  . . . dass der Schematismus des Verstandes . . . auf nichts anderes, als die Einheit alles Mannigfaltigen der Anschauung in dem inneren Sinne, . . . hinauslaufe.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・悟性の図式論は、直観のもつ多様なものすべてを内的感官において統一することをこそ、目指す・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、「内的感官における」は、「直観」ないしは「多様」を修飾することになります。しかし図式論は、直観一般(のもつ多様)を、つまり外的感官の直観をも、対象にするのですから、これは不適切だと思われます。そこで、「内的感官における in dem inneren Sinne」を、「統一 Einheit」にかけました。
 つまり、この個所でカントは、図式論は内的感官での統一であるということを、主張したいのだと思います。と言いますのは、

1) 「諸図式は、アプリオリな時間規定に他ならない」(247 ページ。B, S. 184)のですが、そもそも「時間は・・・内的(私たちの心の)現象の直接的条件」です(110 ページ。B, S. 50)

2) 今問題の 247 ページの引用個所の直後は、「したがって間接的には、内的感官・・・に対応する機能としての統覚、この統覚の統一を目指すのである」と、続いています。ここでも内的感官に関する限りでの(統覚の)統一が、述べられています。
(初出 2007.8.18, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、247 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・おのおののカテゴリーの図式は(・・・、ちなみに)量の図式としては、・・・

◆ 原文は:
  . . . das Schema einer jeden Kategorie, als das der Größe, . . ..

☆ 拙・改訳では:
 ・・・おのおののカテゴリーの図式は(・・・、例えば)量の図式としては、・・・

◇ 改訳の個所は:

 ( )内は原文にはなく、訳者が補った方がいいと思われる個所です。元の訳では「ちなみに」と挿入してから、「量の図式」以下を述べています。しかし、「ちなみに(因みに)」というのは、現在の話題からはずれて、関連しているなにか<新しい>ことを、述べだすときに使われます。この個所では「量の図式」以下は、カントが<既>述したことを確認するために、例として持ち出しているのですから、「ちなみに」ではなく、「例えば」や「すなわち」の方が好ましいようです。
(初出 2007.8.14, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、246 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 可能性の図式は・・・だから、何らかの時間における物の表象の規定である。

◆ 原文は:
 Das Schema der Möglichkeit ist . . . also die Bestimmung der Vorstellung eines Dinges zu irgendeiner Zeit.

☆ 拙・改訳では:
 可能性の図式は・・・だから、ある物の表象を、なんらかの時間のうちへと属させることである。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳のように Bestimmung (単数)を「規定」としたのでは、どういう規定なのか、意味がはっきりしません。また、文中の「だから」以前の内容とのつながりも、判然としません。
 Bestimmung には「規定」のほかにも、「決定」の意味があり、”die Bestimmung eines Tieres ある動物の分類<所属決定>(小学館『独和大辞典』第2版)のように使われます。
 そこで Bestimmung を、この「決定」の意味にとり、この個所を、「なんらかの時間のうちへと、物の表象の所属を決定する」と解しました。

 「だから」の直前では、「1つの物において対立しあうものは、同時に存在することはできないが、継起的には存在しえる」と言われています。つまり、対立しあう諸表象も、時間の前後に割り振れば存在可能であり、それが可能性の図式(の一例)なのです。「だから、ある物の表象を、なんらかの時間のうちへと属させることである」――このように改訳すれば、すっきりつながりそうです。
(初出 2007.8.14, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、246 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 物一般の原因と原因性との図式は、それが任意に定立される場合には、いつも他の或るものがそのあとに継起する実在的なものである。

◆ 原文は:
 Das Schema der Ursache und Kausalität eines Dinges überhaupt ist das Reale, worauf, wenn es nach Belieben gesetzt wird, jederzeit etwas anderes folgt.

☆ 拙・改訳では:
 物一般の原因 (Ursache) や物一般の原因性 (Kausalität) の図式は、実在的なものであって、この実在的なものが任意に措定されると、つねにそれとは別のものが継起するのである。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では、「・・・原因と原因性との図式は」となっています。しかし、「AとBとのCは」という表現は、ふつう「A-B間に存するC」を表すときに使われるようです(例えば、「東京と大阪との距離」)。
 訳文のように、「AのCとBのC」を表現したいときには、「AとBのC」が多くの場合に適切だと思われます。(例えば、「東京と大阪の人口」です。これを、「東京と大阪との人口」とすれば、何か意味がはっきりとせず、両都市間の人口比のようなものを考えてしまいます)。
 しかしこの個所で、「物一般の原因と原因性の図式は」と書くと、「<物一般の原因>と<原因性の図式>は」のように、読まれかねません。そこで文章が長くはなりますが、改訳のようにしました。

 

2) 元の訳の「それ」は、直前の「図式」を受けていると、読者は思ってしまうことでしょう。日本語には代名詞が後の語句を指すという用法は、もともとないからです。(この点については→)。そこで改訳しました。

3) 一般読者は、用語の意味を調べるときには、広辞苑などを引くと思われます。そこで哲学用語の訳も、広辞苑に沿うことが必要だと思われます。(広辞苑に出ている説明がおかしいときには、哲学会などが改訂を申し入れた方がいいでしょう。改訂されるまでは、その用語を使うときには、注記をつけることなどが望まれます)。
 元の訳では「定立」となっていますが、これは「テーゼ」のことです(『広辞苑』第5版、『明鏡国語辞典』2002-2004)。setzen の意味は、前掲の両辞典では「措定」で出てきています。そこで、「措定」と改訳しました。
(初出 2007.8.12, v. 1.0


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、246 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 そして、実在性の図式は、或るものが時間を満たすかぎりにおける、その或るものの量として、まさしく時間における実在性のこの連続的な一様な産出である。

◆ 原文は:
  . . . und das Schema einer Realität, als der Quantität von Etwas, sofern es die Zeit erfüllt, ist eben diese kontinuierliche und gleichförmige Erzeugung derselben in der Zeit, . . . .

☆ 拙・改訳では:
 そして、実在性――つまり、時間を満たすある物の量としての実在性――の図式は、時間のうちでのその量の、まさにこの連続的で一様な産出にほかならない。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、「実在性の図式は、・・・実在性の・・・産出である」となっていますが、これでは同語反復的で、カントが「まさしく eben」と強調する意味が伝わってきません。そこで、derselben が 「実在性 Realität」ではなく、より近くの「量 Quantität」を受けていると解して、「実在性・・・の図式は、・・・量の・・・産出」である、と改訳しました。
 つまりこの個所の直前では、実在性が「定量 Quantum」として表わされることが述べられており、量というものがテーマになっています。そしてこの個所でも、「量としての実在性」が問題となっており、まさにこの量の産出が実在性であると、主張されているのだと思います。
(初出 2007.8.10, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、245 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 したがって、数とは同種的な直観一般の多様の総合の統一以外の何ものでもなく、・・・

◆ 原文は:
 Also ist die Zahl nichts anderes, als die Einheit der Synthesis des Mannigfaltigen einer gleichartigen Anschauung überhaupt, . . ..

☆ 拙・改訳では:
 したがって数とは、同種の直観のもつ多様なものを、総合することによって得られる統一以外の何ものでもなく、・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では助詞の「の」が4個も使われており、それぞれの言葉がどこにかかっていくのか、判然としないようです。しかも、「同種」と「多様」は相反する意味をもちますし、「総合」と「統一」は同じような意味なので、それらをただ繋げたのでは、それぞれの言葉の役割が不明です。
 そこで改訳しましたが、「総合することによって得られる統一」というのが、冗漫であれば、「綜合的統一」という訳もいいと思います。(ただこの場合は、「・・・同種の直観のもつ多様なものの綜合的統一・・・」となってしまい、かえって理解しにくいとも言えます)。
(初出 2007.8.9, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、243 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・若干のいかなる意味ももちえないということ・・・

◆ 原文は:
  . . . noch irgend einige Bedeutung haben können . . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・少しの意義ももちえないということ・・・

◇ 改訳の個所は:

1) 揚げ足をとるのは、本意ではありませんが、さすがにこのような表現に接しますと、一瞬混乱してしまいます:「若干の特定の」意味をもたないのか、あるいは「いかなる」意味ももたないのか、いずれであろうか・・・
 原文を見ると、後者の「いかなる~」でした。

2) 元の訳では Bedeutung は「意味」となっていますが、単数形なので、つまり "einige Bedeutungen" とはなっていないので、「意義、重要性」という意味だと思います。

3) この個所の直前の部分の「諸概念はまったく不可能であるということ」を、訳者は「注 (3)」として説明してしています:
文のこの部分は、「[カントの] 自家用本では『諸概念はわれわれにとって無意味 Sinn であるということ』・・・と修正されている」(457 ページ)。
 そこで、もし前記のBedeutung の意味が「意味」ということであれば、カントは自家用本においては、「無意味 ohne Sinn である」、「意味をもたない noch . . . Bedeutung haben」と、重複してしまう叙述をしたことになります。
 このことからも、Bedeutung を「意義」と改訳しました。
(初出 2007.8.5, v. 1.1)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、242 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・純粋悟性概念は諸物一般の可能性の諸制約として諸対象自体そのものに・・・拡張されうるのか・・・

◆ 原文は:
  . . . ob sie [= diese reinen Verstandesbegriffe], als Bedingungen der Möglichkeit der Dinge überhaupt, auf Gegenstände an sich selbst . . . erstreckt werden können..

☆ 拙・改訳では:
 ・・・純粋悟性概念は、物一般の可能性の条件として、対象自体にまで・・・関係しえるのか・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では ”auf et. erstreckt werden” を、「~に拡張される」としています。しかし、”sich erstrecken“ は「広がっている(拡張している)」ですが、”auf et. sich erstrecken“ はより抽象的に「~に関係している、~を対象としている」という意味です。(『クラウン独和辞典』第3版。なお小学館『独和大辞典』第2版での用例では、「~を対象とする」「~にわたる」。また、Duden の Deutsches Universalwörterbuch, 6. Auflage では、jmdn., et. beziehen u. mit einbeziehen )。
 そこで、「~にまで関係しえる」と改訳しました。つまり、

1) この “auf Gegenstände an sich selbst . . . erstreckt werden” は、同文中で前に出てきた “sich a priori auf Erscheinungen beziehen” と対応しています。つまりカントは、”beziehen 関係する という語を繰り返すのを避けるため、erstrecken にしたと思われます。
 しかし日本語では、2回くらいであれば同語を繰り返すことに抵抗感はなく、別の語にすればかえって意味がとりにくくなることもあります。

2) 日本語で「AはBに拡張される」というときには、AとBは同種であることが、暗黙の内に了解されています。しかし、純粋悟性概念と対象自体は同種のものではないので、もし「拡張する」という訳にするのであれば、「純粋悟性概念<の適用>は・・・拡張されうる・・・」などのように、言葉を補う必要があります。
(初出 2007.8.4, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、240 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・そのもとでのみ純粋悟性概念が使用されうる感性的制約について・・・

◆ 原文は:
  . . . unter welcher [= der sinnlichen Bedingung] reine Verstandes Begriffe allein gebraucht werden können, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・そのもとでのみ、純粋悟性概念が使用されえるような、感性的条件について・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では Bedingung を「制約」としています。しかし、「そのもとでは・・・されえ<ない>制約」のように、「制約(あるいは、制限)」の前には否定形がこなければ、日本語としてはおかしいことになります。(例えば、「その映画を見ることができない年齢の制約」)。
 そこで、率直に「条件」と改訳しました。
(初出 2007.8.3, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、238 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 諸実例はまれにしか規則の制約を・・・適切に充足しないから・・・

◆ 原文は:
 . . . weil sie [= Beispiele] nur selten die Bedingung der Regel adäquat erfüllen . . .

☆ 拙・改訳では:
 諸実例はまれにしか、規則の条件を・・・適切に満たさないから・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では Bedingung を「制約」としています。なるほどそのように訳したほうが、いい場合もあります。しかし、「制限を満たす(充足する)」という言い方は、日本語にはないと思います。ふつうは、制限に「引っかからない」とか、制限を「クリアーする」、制限「内に納まる」とかでしょう。
 そこで率直に、「条件を満たす」と改訳しました。
(初出 2007.8.1, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、238 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 適切な程度の悟性と悟性特有の概念以外の何ものも欠如していない愚かなあるいは弱い頭は・・・

◆ 原文は:
 Ein stumpfer oder eingeschränkter Kopf, dem es an nichts, als am gehörigen Grade des Verstandes und eigenen Begriffen desselben mangelt, . . .

☆ 拙・改訳では:
 適度な悟性 [=理解力] と、悟性自らがもつ諸概念がないということ以外には、欠けることのない愚かなあるいは偏狭な頭は・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では eingeschränkt を「弱い」としていますが、その意味は前の「愚かな stumpf」で、すでにでています。そこで率直に「偏狭な」と改訳しました。
 つまり、「愚かな stumpfer」 が「適度な悟性がない」ということに対応し、「偏狭な」が「諸概念がない」に対応すると、解しました。
 なお、eingeschränkt は 237 ページ(B, S. 172)でも出てきており、「制限された(悟性)」という訳になっています。

 この個所を含む注を書いたときには、カントもよほど虫のいどころが悪かったのか、積年の怒りをストレートにだしています。しかしフィヒテのように、序文で書くようなことはせず(ましてや本文で)、注にまわしたところに配慮があるのでしょう。
 さらに、本当に言いたいことは、注の最後にもってきています。といいますのは、注の最初を除いて、中間の部分は、注の前後の本文で述べられている内容ですから、なにも注で繰り返す必要は、本来はないはずなのです。
 しかもその最後でも、「哲学」とは書かずに、「学問」と一般化する配慮ぶりです。そしてこの注を最後まで読んだ後、読者がふと注の最初に目をかえすと、「愚かさ Dummheit」の字句が目にささるというわけです。

 錦上花を添えるとまで評するのは、どうかと思いますが、このような個所が『純粋理性批判』に、興趣をもたらしているのは確かでしょう。 
(初出 2007.7.31, v. 1.1)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、238 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・ひとがこの点において生徒に指令しようとする規則は乱用を免れない。

◆ 原文は:
 . . . keine Regel, die man ihm [= dem Lehrlinge] in dieser Absicht vorschreiben möchte, ist . . . vor Missbrauch sicher.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・この点においては生徒に規則を指示しても、その規則は誤用されるおそれがある。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では Missbrauch を「乱用」としています。しかし「乱用」というのは、限度を越えて適用することです。しかしこの個所では、後で説明されているように、「一つの具体的事例が一般的なもの(普遍) [=規則] に属するのかどうかを区別できない」(238ページ)ことが問題です。
 そこで、「誤用」と改訳しました。
(初出 2007.7.30, v. 1.0)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、237 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・しかし判断力は決して教えられていることではなく、ただ訓練されていることだけを欲するという特殊な才能である・・・だから、この判断力はいわゆる生まれつきの才知の特殊なものでもあり、・・・

◆ 原文は:
  . . . Urteilskraft aber ein besonderes Talent sei, welches gar nicht belehrt, sondern nur geübt sein will. Daher ist diese auch das Spezifische des so genannten Mutterwitzes, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・しかし判断力は、教えられている必要はまったくなく、ただ経験をつんでいる必要があるだけという、特殊な才能である・・・だからこの判断力は、いわゆる生まれつきの才知という、独特な才能でもあり、・・・

◇ 改訳の個所は:

 この個所でカントは、辛口の世間知を述べています(モラリスト(人間認識家)カントの深い洞察、などという大げさなものではありません)。しかし、そのニュアンスが元の訳ではあまり出ていないようです。

1) 元の訳では、「教えられていることではなく」とありますが、”nicht belehrt” の後には "sein will“ が省略されているので、「教えられている必要はなく」と改訳しました。

2) 元の訳では geübt が、「訓練されている」となっています。しかし訓練というのは、教えられながら行うことですから、前の「教えられている」と鋭い対照とはなりません。そこで「経験をつんでいる」と改訳しました。

3) will は、元の訳では「欲する」と漢文調になっています。しかし少し大仰なので、「必要がある」と改訳しました。(意志のない主語の場合の “wollen 必要がある”)。

4) 判断力は、「生まれつきの才知の一つ」というのなら納得できますが、元の訳のように「生まれつきの才知の [うちの] 特殊なもの」というほどのものではないと思います。
 そこで、“des so genannten Mutterwitzes””das Spezifische” の同格の2格ととりました。また、”das Spezifische” の後には前の Talent が省略されていると理解しました(「また auch」が付いているので)。
 したがって、改訳は「いわゆる生まれつきの才知という、独特な才能」となります。
(初出 2007.7.30, v. 1.1)


岩波書店『カント全集 4 純粋理性批判 上』、235 ページ
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・思惟(討議的認識)一般の形式に・・・

◆ 原文は:
 . . . mit der Form des Denkens (der diskursiven Erkenntnis) überhaupt . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・思考(論証的認識)一般の形式に・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、diskursiv が「討議的」となっています。しかし、diskursiv は「比量的な、論弁(論証)的な」という意味です(小学館『独和大辞典』第2版)。そしてこの「論弁的な」の意味は、広辞苑(第5版)によれば、「(discursive)直観によって対象を一気にとらえるのでなく、判断・推理を重ねて対象をとらえること。比量的。論証的」。
 したがって、討議や論議をすることとは、直接の関係はありません。。
(初出 2007.7.29, v. 1.1)


   [注意点] v. 1.2

・この岩波書店『カント全集 4』では、Bedingung を「制約」と訳出しています。しかしほとんどの場合、「条件」と訳した方がいいと思われましたが、238 ぺーじ240 ページ以外は、煩雑になることをおそれて指摘しませんでした。

・この『カント全集 4』では、「AのCとBのC」を表現したいときに、「AとBとのCは」と訳出しています。しかし、「AとBとのCは」という表現は、ふつう「A-B間に存するC」を表すときに使われますので、適切な訳だとは思われません。
 例えば、「東京と大阪との距離」と言えば、東京-大阪間の距離です。また、「兄と弟との車」は、「兄と弟が共有している車」のことであって、「兄の車と弟の車の計2台」を意味しはしません。
 このことも煩雑さを避けて、246 ページの個所で指摘した以外は、言及しませんでした。

・原文テキストには、Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek, 1976 を使用しました。(シュミットの編集によるもの。オリジナルテキストの重要な校訂は、この Felix Meiner Verlag のテキストに、注として記載されています)。

・[  ] 内は私の挿入です。

・誤解を防ぐために、「はじめに」を読んでいただければと思います。

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