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   ドイツ観念論関係の誤訳について(3) v. 1.3.7

カント:平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上(2005年版)

  [注意点]

 (下記まで訂正してきたものの、この翻訳の場合、まず和文読解をしなければならないのが、辛いところです。原文を参照して翻訳の意味が分かる、ということもしばしばです。体調を崩したのを機会に、また翻訳本を替えることにしました)。


   [目 次]
 (例:251ページ→平凡社ライブラリー版のページ数。(B, S. 130) → B 版の原文のページ数)。

 ・「超越論的論理学」、329 ページ下段(B, S. 168f.) 
 ・「超越論的論理学」、327 ページ下段(B, S. 168) 
 ・「超越論的論理学」、323-324 ページ下段(B, S. 166) 
 ・「超越論的論理学」、323 ページ下段(B, S. 166) 
 ・「超越論的論理学」、322 ページ下段(B, S. 165) 
 ・「超越論的論理学」、321 ページ下段(B, S. 165) 
 ・「超越論的論理学」、320 ページ下段(B, S. 164) 
 ・「超越論的論理学」、316-317 ページ下段(B, S. 162f.) 
 ・「超越論的論理学」、312-313 ページ下段(B, S. 160f.) 
 ・「超越論的論理学」、309 ページ下段(B, S. 157) 
 ・「超越論的論理学」、308 ページ下段(B, S. 159) 
 ・「超越論的論理学」、302 ページ下段(B, S. 156) 
 ・「超越論的論理学」、300 ページ下段(B, S. 155) 
 ・「超越論的論理学」、299-300 ページ下段(B, S. 154) 
 ・「超越論的論理学」、298 ページ下段(B, S. 153) 
 ・「超越論的論理学」、298 ページ下段(B, S. 153) 
 ・「超越論的論理学」、291 ページ下段(B, S. 150) 
 ・「超越論的論理学」、289 ページ下段(B, S. 149) 
 ・「超越論的論理学」、289 ページ下段(B, S. 149) 

 ・「超越論的論理学」、280 ページ下段(B, S. 144) 
 ・「超越論的論理学」、279-280 ページ下段(B, S. 144f.) 
 ・「超越論的論理学」、277-278 ページ下段(B, S. 143) 
 ・「超越論的論理学」、275 ページ下段(B, S. 142) 
 ・「超越論的論理学」、271 ページ下段(B, S. 140) 
 ・「超越論的論理学」、268-269 ページ下段(B, S. 138) 
 ・「超越論的論理学」、266 ページ下段(B, S. 137) 
 ・「超越論的論理学」、265-266 ページ下段(B, S. 137) 
 ・「超越論的論理学」、264-265 ページ下段(B, S. 136) 
 ・「超越論的論理学」、260 ページ下段(B, S. 133f.) 
 ・「超越論的論理学」、256 ページ下段(B, S. 132) 
 ・「超越論的論理学」、255 ページ下段(B, S. 132) 
 ・「超越論的論理学」、253 ページ下段(B, S. 131)
 ・「超越論的論理学」、251 ページ下段(B, S. 130)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、329 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 この演繹は、経験の可能性の原理として純粋悟性概念を(またそれとともにすべてのア・プリオリな理論的認識を)叙述したものであるが、しかしこの原理を、空間と時間とにおける諸現象の規定一般として叙述し、――最後にこの規定一般を、統覚の根源的な綜合的統一の原理にもとづいて叙述したものであって、統覚のこの根源的な綜合的統一は、感性の根源的形式としての空間および時間との連関における悟性の形式にほかならない。

◆ 原文は:
 Sie [= diese Deduktion] ist die Darstellung der reinen Verstandesbegriffe, (und mit ihnen aller theoretischen Erkenntnis a priori,) als Prinzipien der Möglichkeit der Erfahrung, dieser aber, als Bestimmung der Erscheinungen in Raum und Zeit überhaupt, -- endlich dieser aus dem Prinzip der ursprünglichen synthetischen Einheit der Apperzeption, als der Form des Verstandes in Beziehung auf Raum und Zeit, als ursprüngliche Formen der Sinnlichkeit.

☆ 拙・改訳では:
  この演繹は、純粋悟性概念を(また、すべてのア・プリオリな理論的認識をも)、経験を可能にする原理として叙述したものである。そしてこの経験を、空間と時間のうちでの諸現象の規定一般として、叙述している。そして最後に、これら現象を、統覚の根源的な綜合的統一という原理にもとづいて叙述している。統覚のこの統一は、悟性のもつ形式なであるが、この悟性は、感性の根源的な形式としての空間および時間と、関係しているのである。

◇ 改訳の個所は:

1) aber を「そして」と改訳したことについては、ここを見てください。

2)
“dieser aber”“dieser これは" は、元の訳では「この原理 Prinzipien」を指しています。しかしそれでは、「これは」の指すものが遠くになってしまいます。そこで、直前の「経験」を指すものと理解しました。つまり、
・「経験」を構成するものには、感性に属するもの以外に、ア・プリオリな純粋悟性概念があります。この個所では、「経験を可能にさせる原理としての純粋悟性概念」を扱っているのですから、当然ながら、純粋悟性概念が形成するものとしての経験が問題となります。そのような経験だということが、
“dieser aber” 以下で述べられることになります。
・そのような経験は、個別的なものとしての経験ではないので(経験の個別性をつくるものは、感性に属すものですから)、個別的なものとして規定された諸現象ではありません。諸現象の規定一般です。

3)
“endlich dieser”“dieser これは" は、元の訳では「規定一般 Bestimmung . . . überhaupt」を指しています。しかしそれでは、「これは」の指すものが遠くになってしまいます。そこで、より近い「諸現象」を指すものと理解しました。
 しかし、「これら現象を、統覚の根源的な綜合的統一という原理にもとづいて叙述」すると言っても、現象と統覚の統一とは離れすぎています。そこで、カントはこの2つの間をうめるために、「として als」 をさらに2つ持ち出して、「統覚の統一-悟性-空間と時間-感性」と述べていき、現象とつないだのだと思います。
(初出 2007.7.28, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、327 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・この主観的な必然性が或る種の経験的な諸表象をそれらの関係のそのような規則にしたがって結合する程度のものであるとすれば、・・・

◆ 原文は:
  . . . subjektiven Notwendigkeit, gewisse empirische Vorstellungen nach einer solchen Regel des Verhältnisses zu verbinden, . . .

☆ 拙・改訳では:
  ・・・この主観的な必然性が、経験的な諸表象を、そのような関係規則 [=原因の概念] にしたがって結合するものであるとすれば、・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では “des Verhältnisses” を、「それらの [=諸表象間の] 関係」としていますが、文意が分からなくなります。特定の表象間の「関係」ではなく、抽象的な意味での「関係」だと思います。 つまり、”solchen Regel des Verhältnisses 関係のそのような規則” とは因果関係のことであり、文中の語では「原因の概念」になります。
 
 なお
“gewisse 或る種の” は、訳出しなくても意味は変わらないと思いましたので、省略しました。(「なんらかの」と訳出しても、よかったのかもしれません)。
(初出 2007.7.28, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、323-324 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・カテゴリーは思考においては私たちの感性的直感の条件によって制限されはておらず、・・・私たちが思考するところのものを認識すること、すなわち、客観を規定することだけが直観を必要とする・・・

◆ 原文は:
  . . . dass die Kategorien im Denken durch die Bedingungen unserer sinnlichen Anschauungen nicht eingeschränkt sind, . . . und nur das Erkennen dessen, was wir uns denken, das Bestimmen des Objekts, Anschauung bedürfe, . . .

☆ 拙・改訳では:
  ・・・カテゴリーは思考においては、私たちの感性的直感の条件によって制限されはておらず、・・・ただ、私たちが表象するものを認識することだけが、すなわち客観を規定することだけが直観を必要とする・・・

◇ 改訳の個所は:

 "sich denken“ が元の訳では「思考する」となっていますが、感性的に表象することを意味すると思われますので、「表象する」と改訳しました。つまり、

1) この個所では、思考におけるカテゴリーの働きと、感性的直観による客観の規定(認識)が、対比されています。“was wir uns denken“ というのは、感性的直観による客観を指します。それが「思考するところのもの」では、おかしいというわけです。

2) 辞書の訳でも "sich denken“ は、「心に思い描く<想像する>」(小学館『独和大辞典』第2版)となっていますが、この用法については、「299-300 ページ下段」の個所でも述べたとおりです。(同個所の「◇ 改訳の個所は」を参照)。
(初出 2007.7.28, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、323 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 人がこの命題から引きだされる気づかわしい敵意ある結論で性急につまずかないために・・・

◆ 原文は:
 Damit man sich nicht voreiligerweise an den besorglichen nachteiligen Folgen dieses Satzes stoße, . . .

☆ 拙・改訳では:
 この命題から性急に、憂慮すべき不都合な結論を引きだされることのないよう、・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳ではnachteilig が「敵意ある」となっていますが、そこまで否定的な、また論争的な、意味はないと思われます。また、「気づかわしい敵意ある」というのは、そもそもどういうことか(心理描写をこととする文学作品ならともかく)、分かりません。
 そこで率直に、「憂慮すべき不都合な」と改訳しました。
(初出 2007.7.27, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、322 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 しかし、経験一般については、また経験の対象として認識されうるものについては、ひとりあのア・プリオリな諸法則が教えてくれるだけである。

◆ 原文は:
 . . . von Erfahrung aber überhaupt, und dem, was als ein Gegenstand derselben erkannt werden kann, geben allein jene Gesetze a priori die Belehrung.

☆ 拙・改訳では:
 しかし、経験一般については、また経験一般の対象として認識されえるものについては、ただ前記のア・プリオリな諸法則のみが、教えてくれるのである。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では derselben を、たんに「経験」と訳出していますが、その後の überhaupt も付けて、「経験一般」とすべきだと思います。なぜなら、
・元の訳の「経験の対象として認識されうるもの」というのは、「特殊的 [個別的] な諸法則」(322 ページ。B, S. 165)です。
・しかし、特殊的な諸法則は、「カテゴリーから完璧には導出されることはできない」(322 ページ。B, S. 165)のであり、したがって特殊的な諸法則を、「ア・プリオリな諸法則が教えてくれる」こともないからです。
(初出 2007.7.26, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、321 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・自然(たんに自然一般として考察された)は、この自然の必然的合法則性の根源的根拠としての(形式からみられた自然 natura formaliter spectata としての)そうしたカテゴリーに依存する。

◆ 原文は:
  . . . von welchen [= den Kategorien] die Natur (bloß als Natur überhaupt betrachtet), als dem ursprünglichen Grunde ihrer notwendigen Gesetzmäßigkeit (als natura formaliter spectata), abhängt..

☆ 拙・改訳では:
 ・・・(たんに自然一般として考察された)自然は、カテゴリーに――すなわち、自然の(形式的自然として見られた natura formaliter spectata )必然的な合法則性の、根源的根拠に――依存する。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では、「形式からみられた自然」が、「根源的根拠」(あるいは、カテゴリー?)を説明する同格となっています。しかし、「根源的根拠」はカテゴリーのことですから、「形式からみられた自然」と「根源的根拠」は、同格(イコール)とはなりえません。

2) “als dem ursprünglichen Grunde” 中の als と、” als natura formaliter spectata” 中の als を、同格ととる必要はありません。(その前の “als Natur überhaupt” 中の als は、”als natura formaliter spectata形式からみられた自然として 中の als に対応しています。しかし、“als Natur überhaupt” 中の als には、その前に同格となる als はありません)。

3) そこで、「形式的自然として見られた」は、直前の「必然的な合法則性」を、修飾していると思います。(その前の「自然一般として考察された」も、直前の「自然」を修飾していました)。
(初出 2007.7.26, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、320 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 しかしたんなる表象としては諸現象は、連結する能力が指定するもの以外には、連結のいかなる法則にも全然従うことはない。

◆ 原文は:
 Als bloße Vorstellungen aber stehen sie unter gar keinem Gesetze der Verknüpfung, als demjenigen, welches das verknüpfende Vermögen vorschreibt.

☆ 拙・改訳では:
 しかし、たんなる表象としては諸物は、連結する能力が指定する連結法則以外の法則に、従うことはないのである。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では sie を「諸現象」にとっていますが、「諸物」だと思います。というのは、
1) 現象と表象が同じであることは、直前の文で、「諸現象は、諸物についての表象にすぎない」と確認されています。そこで、sie が元の訳のように「諸現象」だとすると、なぜ文頭に ”Als bloße Vorstellungen aber“ と置くまでして、「しかしたんなる表象としては諸現象は」と、強調しなければならないのか、理由が分かりません。

2) この個所の前では、物自体についての叙述がされています:
・悟性自体のもたらすもの以外の合法則性が、「諸物自体そのものには・・・必然的に帰属するであろう」とか、
・「諸物は、それ自体で何であるかということからみれば、現に認識されてはいない」などと、
述べられていました。(320 ページ。B, S. 164)
「しかし、物自体については上述のようであっても、表象(=現象)としての物は、そうではないんですよ」と、カントはこの個所で言いたいのだと思います。

3) この個所の直前には ” . . . was sie an sich . . .” とあり、sie が出てきますが、この sie は明らかに「諸物」です。そこで、その後の sie (今問題の sie)も「諸物」だとするのが、文の流れからも自然です。

(とはいうものの、私も不安になって岩波書店『カント全集 4』、岩波文庫『純粋理性批判』、講談社学術文庫『純粋理性批判』を見てみたのですが、すべて sie を「諸現象」と訳していますネ・・・)
(初出 2007.7.26, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、316-317 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 私が・・・水の氷結を知覚するときには、私は二つの状態(液体と固体という)を、時間の関係において対立するものとして把捉する。しかし、私が内的直感としてこの現象の根底におく時間においては、私が必然的に表象するのはその多様なものの綜合的統一であって、この綜合的統一なしではあの関係は一つの直観において規定されて(時間継続に関して)与えられることはできないであろう。

◆ 原文は:
 Wenn ich . . . das Gefrieren des Wassers wahrnehme, so apprehendiere ich zwei Zustände (der Flüssigkeit und Festigkeit) als solche, die in einer Relation der Zeit gegeneinander stehen. Aber in der Zeit, die ich der Erscheinung als inneren Anschauung zum Grunde lege, stelle ich mir notwendig synthetische Einheit des Mannigfaltigen vor, ohne die jene Relation nicht in einer Erscheinung bestimmt (in Ansehung der Zeitfolge) gegeben werden könnte.

☆ 拙・改訳では:
 私が・・・水の氷結を知覚するときには、私は二つの状態(液体と固体)を、時間的 [前後の] 関係において対置しているものとして把捉する。つまり、内的直観としての現象の根底に、私が置くところの時間、この時間のうちでは、私は必然的に多様なものの総合を表象するのであって、この総合なくしては、前記の時間的 [前後の] 関係も、一つの直観のうちで規定されて(時間的順序に関して)与えられることはできなかったであろう。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では、”gegeneinander stehen“ が「対立する」となっていますが、そのような強い意味では、文意がとれません。「[時間的な前後関係において] 対置する」という意味だと思います。

2) Aber は元の訳では、「しかし」となっていますが、この Aber に否定的意味はないようです。前文を受けて主張を進展させる役をしているだけですので、文脈上から、「つまり」と改訳しました。

3) 元の訳の「内的直感として als inneren Anschauung」は、訳文を率直に読めば、「時間」(” . . . in der Zeit, die . . . “ die)を修飾することになります。しかし、die は1格で、”inneren Anschauung” は2ないし3格ですので、これは無理です。
 そこで、”inneren Anschauung” は、直前の Erscheinung に付く2格と解釈しました。

4) 元の訳では ”der Erscheinung” が「この現象」となっており、前の氷の個別例をさしています。しかし、一般的に現象の根底には時間があるということは、カントがくり返し主張してきたことですから、ここも「現象」を一般的にとった方がいいと思います。その方が論拠が強まります。

5) 元の訳では ”gegeben werden könnte” が「与えられることはできないであろう」となっています。しかし、最後の könnte は接続法 II 式で、非現実を表しますから、そのような意味がでるように「・・・できなかったであろう」と改訳しました。
 つまり、前記の私が氷結を知覚する例では、私は液体と固体という多様なものを、時間的前後関係という総合において、表象せざるをえないし、またしているのです。
(初出 2007.7.25, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、312-313 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 それゆえ、それ自身すでに、私たちの外ないしは内なる多様なものの総合の統一は、・・・

◆ 原文は:
 Also ist selbst schon Einheit der Synthesis des Mannigfaltigen, außer oder in uns, . . ..

☆ 拙・改訳では:
 それゆえ、私たちの内外の多様なものの総合という統一さえも、・・・すでに・・・

◇ 改訳の個所は:

 selbst は、元の訳では「それ自身」となっていますが、ここは「~でさえ、~すら」という意味だと思います(すなわち、同 313 ページ(B, S. 161)でこの後の、「知覚すら selbst Wahrnehmung」と、同じ用法です)。つまり、

・この文章の前では、「空間と時間は・・・直観自身におけるこの多様なものの統一という規定をともなって、ア・プリオリに表象されている」と、述べられています。
・それを受けて、さらに論をすすめて、「それゆえ・・・内外の多様なものの総合という統一さえも、・・・すでに・・・与えられている」と、言われるわけです。
(初出 2007.7.24, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、309 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・この自己直観は、ア・プリオリに与えられた形式、言いかえれば、時間をその根底にもっており、この時間は、感性的であって、規定可能なものの受容性に属している。

◆ 原文は:
 . . . Selbstanschauung, die eine a priori gegebene Form, d. i. die Zeit, zum Grunde liegen hat, welche sinnlich und zur Rezeptivität des Bestimmbaren gehörig ist.

☆ 拙・改訳では:
 この自己直観は、一つのア・プリオリに与えられた形式を、すなわち時間を、その根底にもっている。またこの自己直観は、感性的であって、規定されるもの [=私の存在] がもつ受容性に属している。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、関係代名詞の welche で、「時間 Zeit」を受けています。しかし、「自己直観 Selbstanschauung」を、受けているのだと思います。つまり、

1) welche は「Rezeptivität 受容性に属している」となっていますが、受容性というのは「感性」のことです。(本訳書 145 ページ (B, S. 33) に、「表象をうる性能(受容性)は、感性と呼ばれる」とあります)。

2) すなわち、自己直観は感性的直観の一種であると、カントは言いたいのでしょう。したがって、自己直観によって多様なものが与えられることができますから、それらを悟性が規定することが可能となり、自己認識にいたる――という文脈だと思います。
(初出 2007.7.23, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、308 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・だからおのれ自身を認識しうるのも、直観(・・・)をめざして、おのれがおのれ自身にたんに現象するとおりに認識しうる・・・

◆ 原文は:
  . . . sich daher selbst doch nur erkennen kann, wie sie [= die Intelligenz], in Absicht auf eine Anschauung ( . . . ), ihr selbst bloß erscheint, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・だからみずから自身を認識しえるのも、直観(・・・)の点に関しては、たんにみずからに現象するとおりにであって・・・

◇ 改訳の個所は:

 “in Absicht auf eine Anschauung” は、元の訳では「直観・・・をめざして」となっていますが、「直観をめざす」というのはどういう意味か、分かりません。
 “in Absicht auf には、「~の点に関して」という意味があるので(小学館『独和大辞典』第2版)、そのように改訳しました。
(初出 2007.7.22, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、302 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・次のことによって明瞭に立証される。すなわち、時間は、なんとしても外的直観のいかなる対象でも全然ないのではあるが、私たちが一本の線を引いてみるかぎりにおいて、一本の線という形象のもとで表象される以外には、私たちに表象されようがなく、そうした抽出様式なしでは私たちは時間を測定する単位を全然認識することができないということ、同じく、私たちは・・・

◆ 原文は:
  . . . kann . . . dadurch klar dargetan werden, dass wir die Zeit, die doch gar kein Gegenstand äußerer Anschauung ist, uns nicht anders vorstellig machen können, als unter dem Bilde einer Linie, sofern wir sie ziehen, ohne welche Darstellungsart wir die Einheit ihrer Abmessung gar nicht erkönnen könnten, imgleichen das wir . . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・次のことによって明瞭となる:
1] 時間は外的な直観ではまったくないが、私たちが一本の線を引くときにかぎり、時間をこの線の形象のもとで、[外的] 表象のようなもにすることができる。そして、このような時間の表現仕方なくしては、私たちは時間の測定単位を、まったく認識することはできないであろう。
2] 同じように私たちは、・・・

◇ 改訳の個所は:

1) dargetan は、元の訳では「立証される」となっていますが、語意的にも内容的にも、意味が強すぎると思います。そこで "klar dargetan" で、「明瞭となる」と改訳しました。

2) 元の訳では「時間は、・・・一本の線という形象のもとで表象される以外には、私たちに表象されようがなく」とあり、ここでの「表象されえる」というのは、vorstellig の訳です。しかし文字とおりに「表象されえる」のドイツ語は vorstellbar ですから、ここは vorstellig を「[外的] 表象のようなもの」と改訳しました。
 つまり、時間はもともとアプリオリには、「表象される」のです。「時間表象はアプリオリな内的直観」です(本書 162-163 ページ、B, S. 48f.)。しかし、一本の線のような外的直観ではありません。とはいえ時間は、このような線を引くことによって、形象的で外的な表象めいてはくる――と、カントは言いたいのだと思います。

3) Darstellungsart が、もとの訳では「抽出様式」となっていますが、意味が不明です。率直に「表現仕方」と改訳しました。

4) 元の訳では、読点で区切られた各部分が、文の中でどのような働きをしているのか不明なので、分かりやすく改訳しました。
(初出 2007.7.22, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、300 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・空間における多様なものの総合は、私たちがこの空間を捨象して、私たちがそれによって内的感官をその形式にかなって規定する働きにのみ注意するとき、継起という概念をすらはじめて産み出すのである。

◆ 原文は:
  . . . die Synthesis des Mannigfaltigen im Raume, wenn wir von diesem abstrahieren und bloß auf die Handlung achthaben, dadurch wir den inneren Sinn seiner Form gemäß bestimmen, bringt sogar den Begriff der Sukzession zuerst hervor.

☆ 拙・改訳では:
 空間のうちの多様なものの総合は、私たちがこの空間を捨象して、働きに――この働きによって、私たちは内的な感官を、その形式面から規定するのであるが――着目するときには、継起という概念をはじめて生みだしもするのである。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳の「それによって」の「それ」は、「働き」を指すはずなのですが、文の流れからは、前の「空間を捨象」することになってしまいます。つまり、日本語では、代名詞が後のものを指すことは、本来的にはないのです。
 (このことは、小・中学校の国語の時間に、代名詞が出てくると、文章の前の部分から探しなさい、と教わることからも分かります)。
 したがって、代名詞で後のものを指したいのであれば、相応の舞台設定――前の文章とはいったん区切りをつけるとか、前の語句には指されるべき候補が明らかにないようにするとか――が、必要となります。

2) 前記の「それ」が、「働き」を指すと理解しても、今度は文章が意味の取れないものになります。つまり、「私たちが<その働き>によって内的感官をその形式にかなって規定する働きにのみ注意するとき、・・・」となります。
 そこで、[ ] 内の言葉を補って、「私たちが<その働き>によって内的感官をその形式にかなって規定する [ところの、このような] 働きにのみ注意するとき、・・・」としなくてはなりません。しかしそれでは、日本語として分かりづらいので、改訳のようにしました。
(初出 2007.7.19, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、299-300 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 私たちは、思想のうちでそれを引いてみることなしには、いかなる線をも思考することはできず、それを描いてみることなしには、いかなる円をも思考することはできず、・・・

◆ 原文は:
 Wir können uns keine Linie denken, ohne sie in Gedanken zu ziehen, keinen Zirkel denken, ohne ihn zu beschreiben, . . .

☆ 拙・改訳では:
 私たちは、思考によって線を引いてみることなしには、いかなる線も思い浮かべることはできず、思考によって円を描いてみることなしには、いかなる円も思い浮かべることはできない。また、・・・

改訳の個所は:

 元の訳では、”sich denken“ が「思考する」となっていますが、「思い浮かべる」のように、感性的直観 die sinnliche Anschauung をもつ内官 der innere Sinn らしく、訳すべきかと思います。つまり、

1) ここの個所で登場しているさまざまな事例は、前の段落の説明です。前の段落では、
「内的感官は・・・規定された直観をまだ含んでいない」のであり、「この規定された直観 [これも感性的直観の一種] が可能となるのは、「構想力の超越論的な働き(すなわち、内観への悟性の総合的影響)・・・によってのみである」
――ということが、述べられています。
 逆に言えば、内観への悟性の綜合的影響なしには、感性的直観の一種である規定された直観も存在しえない、という論旨になります。

2) この論旨に添う形で、ここの個所の事例は展開されています。したがって、「~なしには ohne . . .」の「~」は、悟性の側であり、「・・・することはできない(=前記の「存在しえない」)」の「・・・」は、感性的直観の側です。

3) 最初の事例では、「思想のうちでそれを引いてみることなしには」は、「なしには」が付いていますから悟性の側ですが、これは「思考のうちで」によって表現されています。ところが、「いかなる線・・・」は感性的直観の側のはずですが、元の訳「思考する sich denken ことはできず」では、悟性の側のような表現になってしまいます。
 “sich denken“ は、「心に思い描く<想像する>」(小学館『独和大辞典』第2版、なおDUDEN の Deutsches Universalwörterbuch も、同意味の “sich etwas [in bestimmter Weise] vorstellen“)ということです。
もっともこのような現代の辞書的意味が、200年以上前のケーニヒスブルクにまで、妥当するかどうかは問題ですが、 ここの個所ではそのような意味にとりました。実際、“sich denken“ は、3番目の事例の同型の文においては、同様な意味の ”uns . . . vorstellen“(表象する)になっています。
そこで、「思いうかべる」という、内官らしい訳にしました。

4) 2番目の事例の円では、元の訳は「描いてみることなしには」となっています。しかしこのままでは、「描いてみること」は悟性の側とはいえません。同型文が続くときには、文成分が省略されますが、ここも “[Wir können uns] keinen Zirkel denken, ohne ihn [in Gedanken] zu beschreiben” という文内の [ ] の部分が、省略されていると考えられます。そのように改訳しました。
(初出 2007.7.18, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、298 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 それゆえ悟性が、構想力の超越論的総合という名称のもとで、悟性がその能力にほかならない受動的な主観へとおよぼす働きは、・・・

◆ 原文は:
 Er [= der Verstand] also übt, unter der Benennung einer transzendentalen Synthesis der Einbildungskraft, diejenige Handlung aufs passive Subjekt, dessen Vermögen er ist, aus, wovon . . ..

☆ 拙・改訳では:
 それゆえ悟性は、構想力の超越論的総合と名づけられた働きを、受動的な主観に――この主観の能力が、悟性である――およぼす。この働きに関しては・・・

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では、「構想力の超越論的総合という名称のもとで」という語句は、その前の「悟性」を修飾するように、読まれてしまいます。

2) うっかりすると、「その能力」の「その」は、前の「悟性」だと受けとられかねません。つまり、「悟性が、悟性の能力にほかならない・・・」となってしまうのです。
(初出 2007.7.17, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、298 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・悟性の総合は、悟性がそれ自身だけで単独に考察されるなら、悟性が、そのようなものとして、感性なしでも意識する働きの統一以外の何物でもないが、・・・

◆ 原文は:
. . . so ist seine [= vom Verstand] Synthesis, wenn er für sich allein betrachtet wird, nichts anderes, als die Einheit der Handlung, deren er sich, als einer solchen, auch ohne Sinnlichkeit bewusst ist, . . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・悟性の総合は、悟性がそれ自身だけで単独に考察されるなら、悟性の働きによる統一に他ならない。この統一についてはそのようなものとして、悟性は感性の介在なくして自覚しており、・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳の「そのようなものとして」では、「その」が前の「悟性」を意味してしまいます。(”einer solchen“ ですから、er (悟性)を意味することは、文法的にありえません)。そこで、「そのようなもの einer solchen」が 「統一 Einheit」を指すか、「働き Handlung」を指すかです。
 意味的には、「悟性の働き=統一」で同じことになります。しかし、カントはこの個所では悟性による「統一」を打ち出したいのですから、「統一」で改訳しました。
(初出 2007.7.17, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、291 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 純粋悟性概念はたんなる悟性をつうじて直観一般の諸対象と連関するが、・・・

◆ 原文は:
 Die reinen Verstandes Begriffe beziehen sich durch den bloßen Verstand auf Gegenstände der Anschauung überhaupt, . . .

☆ 拙・改訳では:
 純粋悟性概念は、悟性そのものによって、直観一般の対象と関係するが、・・・

◇ 改訳の個所は:

 ドイツ語の形容詞 bloß の意味は、DUDEN の Deutsches Universalwörterbuch(第6版)によれば、”nichts anderes als” ということです。そこで訳は、「たんに」と「そのもの」に分かれると思います。
 「たんに」は、それが修飾する語を軽んずる働きがあります(たんに杞憂だ。たんなるケガによって、死亡した。等々)。「そのもの」というのは、「ほかならぬ~」の意味です。
 元の訳では、bloß を「たんなる(たんに)」としているため、読者としては、修飾されている悟性では本来は役不足なのかと、思ってしまいます。そこで、「悟性そのものによって」と改訳しました。
(初出 2007.7.15, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、289 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 しかしながら、私がその客観の直観はこれこれではないということを指示するだけで、いったい何がその直観のうちに含まれているのかを言うことができないなら、これはなんとしても本来の認識ではない。

◆ 原文は:
 Allein das ist doch kein eigentliches Erkenntnis, wenn ich bloß anzeige, wie die Anschauung des Objekts nicht sei, ohne sagen zu können, was in ihr denn enthalten sei; . . .

☆ 拙・改訳では:
 しかしながら、客観の直観がどのようではないかを示すだけで、この直観のうちに含まれているものを言うことができなければ、それは本来の認識ではないのである。

◇ 改訳の個所は:

 同じ289ページの下記の個所の、続きになります。元の訳の「これこれでは」は、諸事物を意味します。しかし原文は wie ですから、「どのようでは」を意味します。すると、下記の「述語 Prädikate」の諸例文の内容と、対応します。

 もし、元の訳のように「これこれ」で諸事物が意味されるときには、それら特定の事物が否定されれば、逆に否定されなかったものは肯定されることになり、間接的に「何がその直観のうちに含まれているのかを言うことができ」る可能性も、あることになってしまいます。
(初出 2007.7.14, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、289 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 それゆえ、非感性的直観の客観が与えられたものとして想定されるなら、もちろん人はこの客観を、この客観には感性的直観に属するものは何ひとつとして帰属しないという前提、それゆえ、そのような客観は拡がりをもたないとか、・・・ないとか、・・・ないとか、・・・ないとかなどという前提のうちにすでにひそんでいるあらゆる述語によって示すことはできる。

◆ 原文は:
. Nimmt man also ein Objekt einer nicht-sinnlichen Anschauung als gegeben an, so kann man es freilich durch alle die Prädikate vorstellen, die schon in der Voraussetzung liegen, dass ihm nichts zur sinnlichen Anschauung Gehöriges zukomme: also, dass es nicht ausgedehnt, . . . , dass . . . , dass . . ., usw.

☆ 拙・改訳では:
 それゆえ、非感性的な直観の客観を、もし与えられたものとして想定するのであれば、もちろんその客観を、前提のうちにすでに存する述語によって表すことはできよう:つまり、「その客観には、感性的直観に属するものは、何一つとして帰属しない [=非感性的な直観]」という前提のうちに存するすべての述語――例えば、「その客観は広がりをもたないとか、・・・ないとか、・・・ないとか、・・・ないとか、等々――によって、示すことはできるのである。

◇ 改訳の個所は:

 原文の ”dass ihm nichts . . . zukomme“ が、その前の Voraussetzung の説明なのは、明らかで、元の訳のようになります。というのも、非感性的な直観の客観(対象)を想定する(前提する)ということは、その客観には感性的直観に属するもが帰属しない、ということを意味するからです。
 しかし、コロン以下の ”dass es nicht . . . ,usw.” は、”alle die Prädikate“ の説明です。この alle は、”dass es nicht . . .” 以下でたくさんの例をあげ、なお usw. で結んでいることに、対応しています。
もし元の訳のように Voraussetzung の説明だとすると:

1) 「示すことのできる」はずの「あらゆる述語」とは何か、説明がないままに終わってしまいます(しかもこれらの述語は、元の訳のように「ひそんでいる」のではなく、「存する liegen」のです)。

2) ”dass ihm nichts . . . zukomme“ だけをイタリック(原文は隔字体)にして、”dass es nicht . . . ,usw.” と区別している理由が分かりません。

3) zukomme の後のコロンは、ふつうコンマになると思われます。

4) 「非感性的な直観の客観(対象)を想定する」ということが、余りにもたくさんの前提を想定することになってしまいます。
(初出 2007.7.14, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、280 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 その証明証拠は、対象がそれをつうじて与えられる直観の表象された統一にもとづくのであって、直観のこの統一は、直観へと与えられた多様なものの総合をいつでもそれ自身のうちに包みこんでおり、・・・

◆ 原文は:
 Der Beweisgrund beruht auf der vorgestellten Einheit der Anschauung, dadurch ein Gegenstand gegeben wird, welche jederzeit eine Synthesis des mannigfaltigen zu einer Anschauung Gegebenen in sich schließt, . . .

☆ 拙・改訳では:
 その証拠は、直観の表象された統一である。この直観によって対象は与えられるのであり、またこの直観はつねに、直観に与えられる多様なものの総合を、内にもっているのであって、・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では関係代名詞 welche は、「直観の統一」を受けています。しかし、その前の dadurchda は、直前の「直観」を受けています。すると並列する2文の da [= die] welche が違うものを受けることになってしまいます。しかも、welcheEinheitAnschauung のうち遠くの方の Einheit を受けるという、文法的にはすこし奇妙なことになります。

 また、「直観の統一」と、「多様なものの総合」は、意味がほとんど同じですから、元の訳のように welche を「直観の統一」としたのでは、「直観の統一は・・・多様なものの総合をいつでもそれ自身のうちに包みこんでおり」というのは、意味が重複していることになってしまいます。そして、なぜ「いつでも jederzeit」と強調されねばならないのかも、分かりかねます。

 そこで、welche を「直観」に改訳しました。
 (なお、Beweisgrund は、カントらしく「証拠原因」という法律用語のようです。といっても、はたして200年以上前にもそうであったかどうかは、分かりませんが。小学館『独和大辞典』第2版)。
(初出 2007.7.13, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、279-280 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 のちに(第 26 項)、感性において経験的直観が与えられる様式から、この経験的直観の統一とは、カテゴリーが前項第 20 項にしたがって与えられた直観一般の多様なものに指定する統一以外のいかなるものでもないということが示され、・・・

◆ 原文は:
. In der Folge (§ 26) wird aus der Art, wie in der Sinnlichkeit die empirische Anschauung gegeben wird, gezeigt werden, dass die Einheit derselben keine andere sei, als welche die Kategorie nach dem vorigen § 20 dem Mannigfaltigen einer gegebenen Anschauung überhaupt vorschreibt, . . .

☆ 拙・改訳では:
 後の第 26 項では、感性においての経験的直観の与えられ方から、次のことが示されよう:すなわち、カテゴリーは前の 20 項にしたがって、与えられた直観一般がもつ多様なものに対して、統一を与えるが、経験的直観の統一とは、この統一に他ならないのである。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、「・・・第 20 項にしたがって与えられた・・・」のように、読点がなくて続いているために、意味が分からなくなっています。
(初出 2007.7.13, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、277-278 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 それゆえすべての多様なものは、それが一なる経験的直観において与えられているかぎり、判断する論理的な諸機能の一つに関して規定されており、つまり、すべての多様なものはそうした論理的な諸機能をつうじて意識一般へともたらされるのである。

◆ 原文は:
 Also ist alles Mannigfaltige, sofern es in Einer empirischen Anschauung gegeben ist, in Ansehung einer der logischen Funktionen zu urteilen bestimmt, durch die es nämlich zu einem Bewusstsein überhaupt gebracht wird.

☆ 拙・改訳では:
 それゆえすべての多様なものは、それが一つの経験的直観において与えられているかぎり、判断するという、論理的な機能の一つに関して規定されている。つまり、この論理的な機能の一つによって、多様なものは、一つの意識一般へともたらされるのである。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では Einer が「一なる」となっていますが、それでは「唯一の」意味になってしまいます(例えば、「一なる神」)。ここでは「一つの」という意味で、後の「<一つの>意識一般」と対応しています。ただ最初の E が大文字なので、「一つの」としました。

2) 元の訳では „durch die“die で、「論理的な<諸>機能 derlogischen Funktionen」を受けています。そして、「判断する論理的な諸機能の一つに・・・」と訳されていますので、判断するのは論理的な<諸>機能と、解釈したのではないかと思われます。
 しかしそれでは、言及されている諸機能の一つ(einer)の意味が分からなくなります。そこで、„durch die“ die を、「論理的な機能の一つ」と改訳しました。つまり、論理的な諸機能には、判断する、推論する等々、いろいろあるというわけです。

 なるほど原文のこの個所の直後には、次の文があります:
 Nun sind aber die Kategorien nichts anderes, als eben diese Funktionen zu urteilen, . . .

 ここでは “diese Funktionen zu urteilen” と「判断する<諸>機能」になっています。しかしこれは、主語が「<諸>カテゴリー」ですから、それに対応しているのだと思います。つまり、カテゴリーの一つ一つが、一つの判断機能だというわけです。
(初出 2007.7.12, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、275 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・これらの諸表象は経験的直観においてたがいに必然的に従属しあっているということではなく、これらの諸表象は統覚の必然的統一の力で諸直観の総合においてたがいに従属しあっている、・・・

◆ 原文は:
. . . diese Vorstellungen gehören in der empirischen Anschauung notwendig zueinander, sondern sie gehören vermöge der notwendigen Einheit der Apperzeption in der Synthesis der Anschauungen zueinander, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・これらの表象が、経験的な直観のうちで、必然的に互いに結びついているということではなく、これらの表象が互いに結びつくのは、統覚の必然的な統一によって、諸直観の総合のうちでだということである。・・・

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では „gehören zueinander” が、「たがいに従属しあう」となっています。しかし、多様な諸表象が「たがいに従属しあう」というのは、どういうことか分かりにくいようです。これまでカントは、諸表象は互いに結合される verbunden とか、統一されている vereinigt と言ってきましたが、ここでは „gehören zueinander” と表現を変えただけだと思います。
 つまり2つの表象の双方に等しく注意を向けていれば、「結合される」などとなりますが、一方を注視するときには、それが他方へと「属する gehören」ように映ります。ただし、双方のいずれが主、いずれが従かはここでは関係がないので、「互いに zueinander」 が付いているようです。
 しかし、「互いに属しあう」とすれば、日本語として強すぎるので、「互いに結びつく」としました。
(初出 2007.7.11, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、271 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・それは、もっぱら、直観の多様なものの、我思考すという唯一のことに対する必然的連関によってであり、・・・

◆ 原文は:
. . . lediglich durch die notwendige Beziehung des Mannigfaltigen der Anschauung zum Einen: Ich denke; . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・それはただ、直観のもつ多様なものが、「我思考す」という一つのものに、必然的に関係することによってである。・・・

◇ 改訳の個所は:

 原文のこの個所は、「多」様なものと「一」つのものの対比になっています。そこで Eines を元の訳のように「唯一」としたのでは、意味がずれるようです。
 また、「多様なもの」という訳をする以上、「一つのもの」とそろえた方が、分かりやすいでしょう。
(初出 2007.7.11, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、268-269 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・我存在すという表象における悟性の純粋統覚によっては、まだ何ひとつとして多様なものが全然与えられてはいない悟性にとってだけの原理である。

◆ 原文は:
. . . ein Prinzip, . . . sondern nur für den [=den Verstand], durch dessen reine Apperzeption in der Vorstellung: Ich bin, noch gar nichts Mannigfaltiges gegeben ist.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・ある悟性にとってだけの原理である:つまり、その悟性の純粋統覚によっては、「我在り」という表象のうちに、まだ多様なものが何も与えられてはいないような、そうした悟性である。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、「我存在すという表象」を直前の「純粋統覚」にかけています。「我存在す」ではなくて、「我思考す」と書かれているのであれば、そのようにも考えられます。
 しかし、「我存在す」がここに突然出現しているということは、カントは「我思う、ゆえに我在り」を念頭においていたようです。つまり、「純粋統覚の『我思考す』だけでは、『我在り』は多様な内容をまだもちえない」という意味です。
 したがって、「我存在すという表象」は、後方へ、場所を表す副詞句としてかかっていきます。
(初出 2007.7.10, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、266 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 空間は直観の多様なものを可能的経験のためにア・プリオリに与えるだけである。

◆ 原文は:
  . . . er [der Raum] gibt nur das Mannigfaltige der Anschauung a priori zu einem möglichen Erkenntnis.

☆ 拙・改訳では:
 空間はただ、ア・プリオリな直観のもつ多様なものを、可能的認識に与えるだけである。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、「ア・プリオリ」を「与える」にかけています。しかし、「ア・プリオリ」は「直観」にかかると思います。
 といいますのは、「空間の根源的表象は、ア・プリオリな直観」(153ページ、B, S. 40)ですが、このア・プリオリな直観は、幾何学が題材とするもの(「多様なもの」)を与えます。原文のこの個所は、このような意味だと思います。そして、そのような題材の例として、次の文では直線が取り上げられます。

 また、元の訳での「直観」は、「ア・プリオリに与える」ので、感性的な直観ではないはずです。しかし、この文の直前には「感性的な直観」が登場するので、「直観」と書いただけでは、感性的なものか、ア・プリオリなものか区別がつきません。そこでカントとは、おそらくただ「直観」とだけは書きはしないであろう、したがって “Anschauung a priori” “Anschauung”“a priori” に分断して訳出はできないであろう、と推測されます。
(初出 2007.7.10, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、265-266 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 認識は、与えられた諸表象と一つの客観との規定された連関にある。しかし客観は、与えられた直観の多様なものがそのものの概念において合一しているところの、そのものにほかならない。ところが、諸表象のすべての合一は、それらの諸表象の総合における意識の統一を必要とする。

◆ 原文は:
 Diese [= die Erkenntnisse] bestehen in der bestimmten Beziehung gegebener Vorstellungen auf ein Objekt. Objekt aber ist das, in dessen Begriff das Mannigfaltige einer gegebenen Anschauung vereinigt ist. Nun erfordert aber alle Vereinigung der Vorstellungen Einheit des Bewusstseins in der Synthesis derselben.

☆ 拙・改訳では:
 
認識は、与えられた諸表象と一つの客観との、規定された関係である。そして客観についていえば、与えられた一つの直観内の多様なもの [=諸表象] は、この客観の概念において統一されているのである。ところで、諸表象の統一のすべては、諸表象を総合している意識の統一性を必要とする。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では 2 個所の aber が「しかし」と訳されています。けれどもこの aber には、前文に対する否定的な意味はなく、「単に接続を示」しています(小学館『独和大辞典』第2版)。つまり読者に、<前文を受けつつ、主張の進展をはかりますよ>と、注意をうながしているのです。
 本訳書では、このような aber を「しかし」と訳出している例が余りにも多いので、今後は aber だけを取りあげることはしません

2) 元の訳の「そのもの」が何を指すのか、分かりにくいです。
(初出 2007.7.10, v. 1.1)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、264-265 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 空間と時間、およびそれらのすべての部分は、直観であり、したがって、それらがそれ自身のうちに含んでいる多様なものを伴った個別的表象である(超越論的感性論を参照せよ)。したがって、同一の意識が、多くの表象のうちに含まれているものとして、それをつうじて見いだされるたんなる概念ではなく、多くの表象が、一つの表象およびこの表象の意識のうちに含まれ、したがって合成されているものとして、それをつうじて見いだされるものである。それゆえ意識の統一が、綜合的ではあるが、それにもかかわらず、根源的なものとして、それをつうじて見いだされるものである。

◆ 原文は:
 Der Raum und die Zeit und alle Teile derselben sind Anschauungen, mithin einzelne Vorstellungen mit dem Mannigfaltigen, das sie in sich enthalten (siehe die transz. Ästhetik) , mithin nicht bloße Begriffe, durch die eben dasselbe Bewusstsein, als in vielen Vorstellungen, sondern viel Vorstellungen als in einer, und deren Bewusstsein, enthalten, mithin als zusammengesetzt, folglich die Einheit des Bewusstseins, als synthetisch, aber doch ursprünglich angetroffen wird..

☆ 拙・改訳では:
 空間と時間、またそれらのすべての部分は:
直観である。
・だから個別的な諸表象であるが、これらの表象はそれぞれ多様なものを含んでいる。(超越論的感性論を参照)
・だから概念ではない。概念によっては、まさに同じ意識が、多くの表象のうちに含まれているものとして存在するが、そのような概念ではないのである。
・そこで多くの表象である。これら諸表象は、一つの表象に含まれ、またその一つの表象の意識に含まれたものとして、だからまとまったものとして存在する。
したがって、意識の統一が、総合的なものとして、そして根源的でもあるものとして、見いだされるのである。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳は、原文と参照しながらでないと理解しにくいものなので、分かりやすく訳出することに努めました。

2) 元の訳に2回でてくる「それをつうじて見いだされるもの」が、何を意味しているのか不明です。またこの訳に相当する原文の個所もありません。

3) 原文のこの個所は、どのように解釈するにしろ、文法的に不審な部分があります。その原因として、次の2つが考えられるかもしれません:
 i) 現行版の誤植。しかし、オンライン上の諸テキストを見るかぎりは、管見の範囲で字句に違いは見出されません。
 ii) カントの筆の誤り。しかし、上記の Philosophische Bibliothek 版には、諸家の校訂注は記載されていません。

 そこで、原文テキストの字句を承認して、率直に読めば、以下のような構成になります。(拙・改訳はこれに拠っています)。

Der Raum und die Zeit und alle Teile derselben sind
 I) Anschauungen,
 II) mithin einzelne Vorstellungen mit dem Mannigfaltigen, das sie in sich enthalten (siehe die transz. Ästhetik) ,
 III) mithin nicht bloße Begriffe, durch die eben dasselbe Bewusstsein, als in vielen Vorstellungen,
enthalten [?],
 IV) sondern viel Vorstellungen
   i) als in einer
Vorstellung, und deren Bewusstsein, enthalten,
   ii) mithin als zusammengesetzt,
folglich die Einheit des Bewusstseins, als synthetisch, aber doch ursprünglich angetroffen wird.


 赤字の部分は、文章を完成するために筆者が補ったものです。この補填は、異論のないところだと思います。
 問題は “?” にどのような定動詞を入れるかです。上の文から sein 動詞 (wäre) を持ってくるか、はるか下の文から angetroffen wird (würde) を持ってくるかですが、いずれにしろ意味に違いはありません。
 しかし、最後の文章の定動詞が後置になっているのは、不審な感じがします。ところが、275 ページ(B版、S. 142)を見ますと、「このことで私が主張しようとするのは、・・・」の文も、主文にかかわらず定動詞が後置になっているのです。原文は:

 Damit ich zwar nicht sagen will, . . .

 この Damit は、副詞の「このことで」と解釈するほかはなく、従属の接続詞の「~するために」では、ありえません。そうするとカントは、副詞が先頭にくるときには、主文の定動詞を後置にすることもあったようです。

4) 諸訳を見ると、岩波書店『カント全集』では、最後の文章を副文として訳しています。副文だと、定動詞が後置になっているのは当然です。全文を引用すると:

「空間と時間、ならびにそれらすべての部分は、もろもろの直観であり、したがって、諸直観が自らの内に含む多様を伴った個別的諸表象であり(超越論的感性論を見よ)、それゆえ単なる概念ではなくて、多くの表象 [直観] である。言い換えると、単なる概念によってまさに同じ意識は多くの表象に含まれたものとして見出されるが、多くの表象 [直観] によって意識は、一つの表象に、かつこの表象の意識に含まれたものとして、したがって合成されたものとして見出されるのである。それゆえ、意識の統一によって意識は総合的なもの、けれども根源的なものとして見出されるのである」。

 つまり、岩波書店『カント全集』は、原文を次のように構成したようです:

Der Raum und die Zeit und alle Teile derselben sind
 I) Anschauungen,
 II) mithin einzelne Vorstellungen mit dem Mannigfaltigen, das sie in sich enthalten (siehe die transz. Ästhetik) ,
 III) mithin nicht bloße Begriffe, durch die eben dasselbe Bewusstsein, als in vielen Vorstellungen,
enthalten angetroffen würde,
 IV) sondern viel Vorstellungen,
durch die das Bewusstsein,
  i) als in einer
Vorstellung, und deren Bewusstsein, enthalten,
  ii) mithin als zusammengesetzt,
angetroffen wird,
folglich
durch die Einheit des Bewusstseins das Bewusstsein, als synthetisch, aber doch ursprünglich angetroffen wird.

 補填したと思われる字句は、赤色で示しました。最後の “durch” と “das Bewusstsein” の補填は、文法的には恣意的なものなので、カントの文意の内容面から、このように補填したと思われます。
 しかし、それでは意味がおかしなものとなるようです。つまり、
・最後の文中の、「総合的なもの、けれども根源的なものとして見出される」ものは、純粋(=根源的)統覚のことだと思われますが、この訳ではそれは「意識」として表現されます。しかし、「意識」の前の「意識の統一」も、純粋統覚のことです。
 すると最後の文は、「意識の統一 [=純粋統覚] によって意識 [=純粋統覚]は・・・として見出される」という、純粋統覚の重複した奇妙な表現になってしまい、カントが何を言いたいのか、分かりかねます。

・また、この補填された「意識 [=純粋統覚]」は、その前の文の「多くの表象 [直観] によって意識 [これも補填された意識] は、一つの表象に、かつこの表象の意識に含まれたものとして、したがって合成されたものとして見出されるのである」に登場する、補填された意識と同一です。ところで、その後の「一つの表象」は<我思考す>であり、「この表象の意識」は純粋統覚ないしは純粋統覚の統一を指します。
 すると前述の文は:
「多くの表象 [直観] によって意識 [=純粋統覚] は、一つの表象に、かつこの表象の意識 [=純粋統覚] に含まれたものとして・・・」
となり、純粋統覚の重複した、文意が理解しにくいものとなってしまいます。その上、「意識 [=純粋統覚] は、・・・合成されたものとして見出される」となっては、カントの思想に反してしまいます。
(初出 2007.7.9, v. 1.2)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、260 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 さまざまの異なった諸表象に共通のものとして思考されるべき或る表象は、この表象以外になお何か異なったものをおびているような、そうした諸表象に所属するものとみなされ、したがってこの表象は、他の諸表象(たとえそれが可能的でしかない諸表象であるにせよ)との綜合的統一において、この表象を共通概念 conceptus communis たらしめる意識の分析的統一を私がこの表象で思考しうる以前に、あらかじめ思考されなければならない。

◆ 原文は:
 Eine Vorstellung, die als verschiedenen gemein gedacht werden soll, wird als zu solchen gehörig angesehen, die außer ihr noch etwas Verschiedenes an sich haben, folglich muss sie in synthetischer Einheit mit anderen (wenngleich nur möglichen Vorstellungen) vorher gedacht werden, ehe ich die analytische Einheit des Bewusstseins, welche sie zum conceptus communis macht, an ihr denken kann.

☆ 拙・改訳では:
 ある表象が、さまざまに異なった諸表象に、共通なものとして考えられるときには、この表象はそれら諸表象に属するものと見なされる。そしてこれら諸表象は、この共通な表象以外にも、互いに異なるものをそれぞれもっている。したがって、この共通な表象は、他の諸表象との(たんに可能性としての諸表象との、であるにせよ)総合的な統一のうちに、前もって、考えられなければならないのである。すなわち、私が意識の分析的統一を――この分析的統一が、前述の共通な表象を、共通表象(
conceptus communis)として措定するのだが――、共通な表象において考えることができる以前に、総合的な統一のうちに考えられなければならないのである。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳は、原文と参照しながらでないと理解しにくいものなので、分かりやすく訳出することに努めました。

2) soll は、「しなければならない」という強い意味ではなく(muss ではない)、「することになっているはずの(一応の取り決め)」だと思われるので、「(考えられる)ときには」と、軽く改訳しました。
(初出 2007.7.7, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、256 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 なぜなら、或る種の直観において与えられる多様な諸表象は、それらがことごとく一つの自己意識に属するとまではゆかないなら、ことごとく私の表象となるとまではゆかないであろうからである。

◆ 原文は:
 Denn die mannigfaltigen Vorstellungen, die in einer gewissen Anschauung gegeben werden, würden nicht insgesamt meine Vorstellungen sein, wenn sie nicht insgesamt zu einem Selbstbewusstsein gehörten, . . .

☆ 拙・改訳では:
 なぜなら、一つの特定の直観のうちに与えられる多様な諸表象は、それらすべてが一つの自己意識に属さないとすれば、それらすべてはまた、私の表象ではないであろうからである。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では、gewissen が「ある種の」となっていますが、これでは他の種類の直観についてはあてはまらないかのようです。この gewissen は、「特定の、つまり、著者の注意の定まった対象としての」という意味だとおもいます。
 ただし、「特定の」とすれば日本語としては意味が強すぎるので、訳出しない方がいいかもしれません。
(初出 2007.7.6, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、255 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 それは、この統覚は自己意識であって、そのような自己意識は、あらゆる他の諸表象にも伴いえなければならず、だからすべての意識において同一のものであるところの、我思考すという表象を産みだすゆえ、いかなるものによってもそれ以上伴われえないからである。

◆ 原文は:
  . . . weil sie dasjenige Selbstbewusstsein ist, was, indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt, die alle anderen muss begleiten können, und in allem Bewusstsein ein und dasselbe ist, von keiner weiter begleitet werden kann.

☆ 拙・改訳では:
 というのは、この根源的な統覚は自己意識であって、そのような自己意識は、「我思考す」という表象を――すなわち、他のすべての表象に伴うことができなければならず、またすべての意識のうちで同一のものであるところの「我思考す」という表象を――産出することによって、他の表象によって伴われるということはないからである。

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では、「あらゆる他の諸表象にも伴いえなければなら」ないものは、直前の「自己意識」と理解されかねません。(ちなみに、「あらゆる他の諸表象に伴う」のは、「我思考す」だということは、この第16項の冒頭に出てきています)。

2) weiter は、「それ以上」と訳出すべきかもしれませんが、そのように訳出すると、今の段階でも或る程度は「他の表象によって伴われている」かのように、日本語としては理解されてしまいます。そこで、訳出しなくても文意に変化はきたさないので、省略しました。
(初出 2007.7.6, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、253 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 はたして諸表象がそれ自身同一のものであるか、それゆえ或る表象は他の表象によって分析的に思考されうるかどうかは・・・

◆ 原文は:
 Ob die Vorstellungen selbst identisch sind, und also eine durch die andere analytisch könne gedacht werden, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・この働きは根源的には一つのものであり、すべての結合がこの働きによらねばならないということ・・・

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳のように「諸表象がそれ自身同一のものであるか」とすれば、「各表象が、時間の経過などにはかかわりなく、変化しない」といった意味に、取られかねません。そこで「互いに」を入れて、改訳しました。

2) selbst の意味は、「諸表象が、それら自体として」、ということだと思います。つまり、この文の直後に登場する「表象の意識」ではないということです。
(初出 2007.7.5, v. 1.0)


平凡社ライブラリー『純粋理性批判』上、251 ページ下段
★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・この働きは根源的に一つにまとまったものでなければならず、だからすべての総合にとって等価のものでなければならないということ・・・

◆ 原文は:
  . . . dass diese Handlung ursprünglich einig, und für alle Verbindung gleichgeltend sein müsse, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・この働きは根源的には一つのものであり、すべての結合がこの働きによらねばならないということ・・・

◇ 改訳の個所は:

 「この働き」というのは、表象を結合する働きのことですが、それが、「等価」 gleichgeltend」だというのが問題になります。gleich は、「等しく」という意味でいいのですが、geltend は、「妥当する、支配的な力が及ぶ」の意味だと思います。
 なお、「すべての結合が・・・よらねばならない」という改訳部分は、岩波文庫版がいい訳をしていますので、そこからの借用です。
(初出 2007.7.5, v. 1.0)


   [注意点]
本訳書では、aber がほとんどの場合「しかし」と訳されています。けれども多くの場合、原文の aber には前文に対する否定的な意味はなく、「単に接続を示」しています(小学館『独和大辞典』第2版)。つまり読者に、<前文を受けつつ、主張の進展をはかりますよ>と、注意をうながしているのです。
 しかしこのような個所は多いため、265-266 ページ下段の改訳でこのことを取りあげた以外は、aber 単独で問題にすることは、省略しました。

・また本訳書では、「それ」などの代名詞が後に出てくる言葉をさすことが、たびたびあります。本来の日本語にはない用法で、しかも句読点なども打たれていないため、読者は前の言葉をさすものと受けとりがちです。
 しかしこのような個所は多いため、300 ページ下段の改訳でこのことを取りあげた以外は、単独で問題にすることは、省略しました。

・なお、誤解を防ぐために、「はじめに」を読んでいただければと思います。

・原文テキストには、Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek, 1976 を使用しました。(シュミットの編集によるもの。オリジナルテキストの重要な校訂は、この Felix Meiner Verlag のテキストに、注として記載されています)。
 ・[  ] 内は私の挿入です。

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