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   ドイツ観念論関係の誤訳について(2) v. 1.4.3

カント:岩波文庫『純粋理性批判』上(1961年版。2007年現在で59刷)

  [注意点] v. 1.0

 (誤訳の個所が多いようで、訂正をしているうちに体調を悪くしてしまいました。そこで、翻訳本を替えることにしました)。


   [目 次]
 (例:57ページ→岩波文庫版のページ数。(B, S. 1) → B 版の原文のページ数)。

 ・「先験的論理学」、171-172 ページ(B, S. 127)
 ・「先験的論理学」、171 ページ(B, S. 127)
 ・「先験的論理学」、171 ページ(B, S. 126f.)
 ・「先験的論理学」、171 ページ(B, S. 126)
 ・「先験的論理学」、171 ページ(B, S. 126)
 ・「先験的論理学」、169 ページ(B, S. 125)
 ・「先験的論理学」、167 ページ(B, S. 122)
 ・「先験的論理学」、164 ページ(B, S. 119)
 ・「先験的論理学」、163-164 ページ(B, S. 118)
 ・「先験的論理学」、161 ページ(B, S. 115f.)
 ・「先験的論理学」、160 ページ(B, S. 115)
 ・「先験的論理学」、160 ページ(B, S. 114)
 ・「先験的論理学」、158 ページ(B, S. 112)
 ・「先験的論理学」、156 ページ(B, S. 110)
 ・「先験的論理学」、154 ページ(B, S. 108)
 ・「先験的論理学」、153 ページ(B, S. 106)
 ・「先験的論理学」、151 ページ(B, S. 104)
 ・「先験的論理学」、150 ページ(B, S. 103)
 ・「先験的論理学」、147 ページ(B, S. 99)
 ・「先験的論理学」、145 ページ(B, S. 97f.)
 ・「先験的論理学」、130-131 ページ(B, S. 83)
 ・「先験的論理学」、130 ページ(B, S. 83)
 
 ・「先験的感性論」、118 ページ(B, S. 70)
 ・「先験的感性論」、116-117 ページ(B, S. 68f.)
 ・「先験的感性論」、116 ページ(B, S. 68)
 ・「先験的感性論」、116 ページ(B, S. 67f.)
 ・「先験的感性論」、113 ページ(B, S. 64)
 ・「先験的感性論」、99 ページ(B, S. 48)
 ・「先験的感性論」、91-92 ページ(B, S. 39f.)

 ・「緒言」、81 ページ(B, S. 28)
 ・「緒言」、81 ページ(B, S. 27)
 ・「緒言」、57 ページ(B, S. 1)


岩波文庫『純粋理性批判』上、171-172 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・彼は、恐らく悟性がかかる概念によってみずから経験の創作者になるのではあるまいか、そして悟性の対象は経験そのもののうちに見出されるのではなかろうかということに思い及ばなかった。そこで・・・

◆ 原文は:
 Da er . . . darauf nicht verfiel, dass vielleicht der Verstand durch diese Begriffe selbst Urheber der Erfahrung, worin seine Gegenstände angetroffen werden, sein könne, so . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・彼は、悟性がこうした概念によって、経験の――つまり、悟性の対象がそこには見出される経験の――創始者でありえるかもしれない、ということには思い及ばなかった。そこで・・・

◇ 改訳の個所は:

1) 元の訳では、worin を連続(継続)用法的に扱っています。しかし、worin の節の後にも、Erfahrung を含む節の要素(sein, könne)があるので、worin の節は Erfahrung を限定するために、使われているようです。

2) 元の訳では、「悟性の対象は経験そのもののうちに見出される」とあります。その「経験」は、その前に「悟性が・・・経験の創作者」とありますので、<悟性が創った経験>の意味になります。
 すると、「悟性の対象は、自らが創った経験のうちに見出される」となりますが、悟性の対象は感性によって与えられることを考えれば、すこし意味がぶれた表現となってしまいます。
 むろん、「悟性の対象は感性によって与えられる」ことを承認しても、「悟性の対象は、自らが創った経験のうちに見出される」という事態は成立すると、議論することは可能です。しかしその場合には、なぜそのような、いわば当たり前の事態を、カントは「悟性が・・・よってみずから経験の創作者になる」という重要な論点を提出した後で、それに同格の形で付け加えるのか――カントの意図が分からなくなってきます。
(初出 2007.7.4, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、171 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 あの有名なロックには、かかる考察が欠けていた。彼は、悟性の純粋概念は経験において見出されると考えて、これらの概念を経験から導来した、・・・

◆ 原文は:
 Der berühmte Locke hatte, aus Ermangelung dieser Betrachtung, und weil er reine Begriffe des Verstandes in der Erfahrung antraf, und sie auch von der Erfahrung abgeleitet, und verfuhr doch so inkonsequent, dass . .

☆ 拙・改訳では:
 あの有名なロックは、こうした考察をしなかったことや、悟性の純粋概念を経験において見出したことから、これら純粋概念をまた経験から導出もしたのである。

◇ 改訳の個所は:

1) „aus Erfahrung“aus は、その後の weil と共に理由を表しているので、そのように改訳しました。

2) 元の訳では、antraf が「見出されると考えて」と現在形になっていますが、それでは意味が変わってしまうので、文法にそって「見出した」と改めました。

3) „sie auch von der Erfahrung“auch で、「経験<において>見出したばかりでなく、また経験<から>・・・」という意味をカントとは表現しているので、そのように改訳しました。
(初出 2007.7.3, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、171 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 認識の対象はすべて経験においてのみ現れる、このように可能的経験とカテゴリーとのかかる根源的関係がないと、・・・
◆ 原文は:
 Ohne diese ursprüngliche Beziehung auf mögliche Erfahrung, in welcher alle Gegenstände der Erkenntnis vorkommen, . .

☆ 拙・改訳では:
 認識の対象はすべて経験において表れるが、[ア・プリオリな概念と] 可能的な経験の、前述の根源的な関係がなければ、・・・

◇ 改訳の個所は:

1) 「このように」という語は、それの直前の文が、それの直後の文を説明するときに用いますが、元の訳の「認識の対象はすべて経験においてのみ現れる」が、「可能的経験とカテゴリーとのかかる根源的関係がない」を、どう説明しているのか、理解できません。
 そこで、元の訳の「このように」は、「このような」の誤植だと思われます。

2) 元の訳では「かかる diese」が、何を指しているのか分かりづらいので、「前述の」と改訳しました(つまり、「ア・プリオリな概念が、経験の可能性のア・プリオリな条件となっている」ことを、指します)。
(初出 2007.7.3, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、171 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・かかる概念の演繹にはならない(それなら演繹でなくて単なる説明である)・・・

◆ 原文は:
  . . . nicht ihre Deduktion, (sondern Illustration,) . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・このような概念の演繹ではない(例示である)。

◇ 改訳の個所は:

 ここでは「演繹 Deduktion」と Illustration が対比されます。元の訳のように、後者を「単なる説明」と訳すと、混乱が生じます。というのは、163 ページ(B版、117ページ)において、「・・・私は、このような概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を純粋悟性概念の先験的演繹・・・と名づけ・・・」と言われているように、先験的演繹も「説明」の一種ではあるからです。
そこで文脈上、Illustration を「例示」と訳しました。
(初出 2007.7.3, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、171 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・かかるア・プリオリな概念が、経験を可能ならしめるア・プリオリな条件(経験における直観の条件にせよ、或は思惟の条件にせよ)でなければならない、ということである。

◆ 原文は:
  . . . dass sie als Bedingungen a priori der Möglichkeit der Erfahrungen erkannt werden müssen, (es sei der Anschauung, die in ihr angetroffen wird, oder des Denkens).

☆ 拙・改訳では:
 ・・・ア・プリオリなすべての概念が、経験(この経験が、経験において見出されるところの直観でああるにせよ、思惟であるにせよ)の可能性の、アプリオリな条件として認識されねばならない、ということである。

◇ 改訳の個所は:

 原文の( )内の2格である „der Anschauung”(直観) と „des Denkens”(思惟) は、前文のどこに接続するのかが、問題になります。直前の 170 ページ(B版、126 ページ)に、「およそ経験は・・・感性的直観のほかに・・・概念をも含む」とあります。そこで、経験と(感性的)直観、また経験と思惟(概念)は同格ですから、「直観」と「思惟」の2語はいずれも Möglichkeit(可能性)の直後に接続することになります。

 そこで拙訳のようになりますが、意味的には元の訳と大差ありません。しかし元の訳では、( )内で「可能性(=可能ならしめる)」が消えてしまい、せっかくカントとが( )の前において「可能性」を使った意義がなくなってしまいます。
 そこで、元の訳は誤訳ではないのでしょうが、拙訳では原文のニュアンスを訳に再現しようとしたわけです。とはいえ、ニュアンスを拾って意味的に読みやすくするか、あるいは簡潔な訳にして、文章としての読みやすさを優先させるか、意見の分かれるところではあります。

(なお、複数 Erfahrungen は、Erdmann の校訂のように、単数 Erfahrung と理解するより他はありません)。
(初出 2007.7.3, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、169 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 ・・・表象自体は対象をその現実的存在に関して産出しえるものではないが(意志が原因として、或る表象を実現するという原因性(因果性)は、ここではまったく問題でないから)、・・・

◆ 原文は:
  . . . weil Vorstellung an sich selbst (denn von dessen Kausalität, vermittelst des Willens, ist hier gar nicht die Rede,) ihren Gegenstand dem Dasein nach nicht hervorbringt, . . .

☆ 拙・改訳では:
 ・・・表象自体はその対象を、現実的存在に関しては産出しないのだから(意志を介しての、表象の原因性 [因果性]は、ここではまったく問題でない)、・・・

◇ 改訳の個所は:

 ( )内の元の訳が問題です。”dessen Kausalität“ dessen は、Rosenkranz の校訂にしたがい、deren だとする他はありません。すると、拙訳のようになります。その意味は:
たとえば、「ある望ましい状態のイメージ(表象)が心に浮かんだために、それを実現しようという意志のもとで頑張って、その状態を実現した」という事態では、表象が原因となって、望ましい状態という現実存在が産出されたことになります。しかしそういった事態は、ここでは扱わないと、カントは言うのです。
(初出 2007.7.2, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、167 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 しかし現象がなぜBのようなものを含むかという理由は、ア・プリオリには明白でない・・・。

◆ 原文は:
 Es ist a priori nicht klar, warum Erscheinungen etwas dergleichen enthalten sollten . . .

☆ 拙・改訳では:
 しかし諸現象が、なぜそのような特殊な総合を含むのかは、ア・プリオリには明らかでない。

◇ 改訳の個所は:

 元の訳では „etwas dergleichen” を、「Bのようなもの」と訳しています。しかし、主語が B と対応する A ではなく、一般的に「諸現象」となっています。そこで、前文に出てきた「特殊な総合(=原因の概念 [精確には因果 Kausalität の概念だと思いますが])」と改訳しました。
(初出 2007.7.2, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、164 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 つまりア・プリオリな純粋概念を今後使用するとなると・・・別の出生証明書を提示しなければならない、かかる純粋使用は経験とはまったくかかわりがない筈だからである。

◆ 原文は:
 . . . weil in Ansehung ihres [= die reinen Begriff a priori] künftigen Gebrauchs, der von der Erfahrung gänzlich unabhängig sein soll, sie einen ganz anderen Geburtsbrief . . . müssen aufzuzeigen haben.

☆ 拙・改訳では:
 なぜなら、ア・プリオリな純粋概念の将来の使用に関しては、すなわち、経験なるものとはまったくかかわらないはずの将来の使用に関しては、これらの純粋概念は・・・まったく別の出生証明書を、提示しなければならないにちがいないからである。

◇ 改訳の個所は:

1) “der von der Erfahrung . . .”der は、「(ア・プリオリな純粋概念の)将来の使用」を受けていることは、明白です。ではなぜ「将来の使用」が、経験と関係しないかといえば、経験なるものは過去・現在に存在している(した)ものについては教えますが、将来のことに関しては、教えることができないためです。つまり、経験には普遍性がないということす:
「たしかに経験は、私たちに存在するものを告げるが、しかし、その存在するものが必然的に、そのようにであって別様にではなく、存在しなければならないことを、告げはしない」。(A版の緒言 Einleitung、1ページ)

2) このように考えて、あとは文字通りに改訳しました。
(初出 2007.7.1, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、163-164 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 かかるア・プリオリな概念は、対象を表象するために経験から何ものをも借りることなく、ただ対象にそれぞれ関係する仕方に関してのみ、直観の形式と純粋悟性概念という性質上の区別が存するわけだからである。

◆ 原文は:
 . . . weil eben darin das Unterscheidende ihrer Natur liegt, dass sie sich auf ihre Gegenstände beziehen, ohne etwas zu deren Vorstellung aus der Erfahrung entlehnt zu haben.

☆ 拙・改訳では:
 というのは、直観の形式と純粋悟性概念の性質は、次の点で [経験的概念とは] 違っているからである:すなわちそれらは、対象を表象するために経験から何かを借りてこなくても、対象に関係しえるのである。

◇ 改訳の個所は:

 この文の直前と直後は、直観の形式と純粋悟性概念が、同じくア・プリオリなものとして扱われているのに、ここだけ区別されていて、ちょっと変です。というわけで、率直に改訳しました。
 ただ直訳では、最後は「関係する」ですが、文章としてすわりが悪くなるために、「関係しえる」としました。
(初出 2007.6.30, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、161 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 これに反して我々はかかる概念と対象との関係を無視して、分量のカテゴリーを、認識がそれ自身と一致するために従わねばならぬ論理的規則としてのみ使用するのである。

◆ 原文は:
  . . . sondern nur, indem das Verhältnis dieser Begriffe auf Objekte gänzlich beiseite gesetzt wird, das Verfahren mit ihnen [= die Begriffe von Einheit, Wahrheit und Vollkommenheit] unter allgemeine logische Regeln der Übereinstimmung der Erkenntnis mit sich selbst gebracht..

☆ 拙・改訳では:
 そうではなく、これらの概念と対象との関係が、まったくの御用済みとされることによって、これらの概念に対する考え方が、認識のそれ自身との一致という普遍的な論理規則の下へと、もたらされるだけなのである。

◇ 改訳の個所は:
1) nur は、“das Verfahren . . . ” 以下に、かかると思います。つまり、「認識のそれ自身との一致という」ことは、あたりまえのことですが、そうしたことしか達成できない、とカントは言いたいようです。

2) “das Verfahren mit ihnen” は訳しづらいのですが、直訳すればこれらの概念の「取り扱い方」になりますが、内容から考えて、「考え方」としました。

3) “das Verfahren . . . ” 以下の文には、受動の助動詞 wird が省略されていますが、これは直前の副文中に wird があるためです。
(初出 2007.6.29, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、160 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 分量の三カテゴリーにおいては、量の産出における統一はあくまで同質的なものでなければならないのに、彼らは一つの意識において異質的な個々の認識を結合したいばかりに、かかる結合の原理であるところの認識の性質を用いて、もともと認識一般の可能に関する単なる論理的標徴を分量のカテゴリーに改変した、ということである。

◆ 原文は:
  . . . dass diese logischen Kriterien der Möglichkeit der Erkenntnis überhaupt die drei Kategorien der Größe, in denen die Einheit in der Erzeugung des Quantums durchgängig gleichartig angenommen werden muss, hier nur in Absicht auf die Verknüpfung auch ungleichartiger Erkenntnisstücke in einem Bewusstsein durch die Qualität eines Erkenntnisses als Prinzips verwandeln.

☆ 拙・改訳では:
 これらの、認識一般の可能性についての論理的標徴 [一者、真、善(完全性)] は、量の3つのカテゴリー [単一性、数多性、総体性] を――これらのカテゴリーにおいては、分量が生じるためには、単一性 [=単位] がまったく同種のものでなければならない――、ここでは、変容させているのである。つまり、これら論理的標徴は、3つのカテゴリーを、一つの意識内の異質な認識諸部分をも結合するというただそのことのために、原理としての認識の質によって、変容させているのである。

◇ 改訳の個所は:
1) この dass 以下の副文では、主語の「論理的標徴」は、目的語の「3つのカテゴリー」を改変するのですが、このことはカントの主張する考えを表しています。といいますのは、文中に「ここでは hier」という用語があり、直前のカントとの解釈(論理的標徴と3つのカテゴリーの関係についての)を、指しているからです。したがって、この複文の直後の文章は、「そこで So」で始まり、依然としてカントの考えが述べられることになります。
 したがって意訳するにせよ、もとの訳文のように、「彼ら(カントとの考えとは違う、古人ないしスコラ学者)」が、「改変した」というのは、無理というほかはありません。

2) この dass 以下の複文では、質と量が対比されているので、元の訳の「認識の性質」を「認識の質」と改めました。

3) “eines Erkenntnisses” を誤植と思われた方もいるでしょうが、今では女性形のみになった「認識 Erkenntnis」を、カントは中性形としても用いています。
(初出 2007.6.30, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、160 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 我々はこれを共通の基礎としての一つの概念に属する(しかしこの概念の含む量とは考えられない)標徴の質的数多性と名づけてよい。

◆ 原文は:
 Dieses könnte man die qualitative Vielheit der Merkmale, die zu einem Begriffe als einem gemeinschaftlichen Grunde gehören, (nicht in ihm als Größe gedacht werden,) nennen..

☆ 拙・改訳では:
 このことは、一つの共通な根拠としての概念に属するところの、標徴の質的数多性と名づけられよう(しかしこの数多性は、共通な根拠における量として考えられるのではない)。

◇ 改訳の個所は:
1) 元の訳では Grund は「基礎」となっていますが、前の文の「帰結Folge」と対になっているので、「根拠」にしました。

2) 元の訳では読点が打たれていないこともあって、( )内の「しかしこの概念の・・・」が、どこにかかっていくのか、分かりにくくなっています。
(初出 2007.6.29, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、158 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 従って帰結が理由と共に一つの全体をなす(世界創造者とその被造物である世界との関係のように)ということもないのである。

◆ 原文は:
  . . . die Folge . . . darum mit diesem [= dem Grund] (wie der Weltschöpfer mit der Welt) nicht ein Ganzes ausmacht.

☆ 拙・改訳では:
 従って帰結が理由と共に(世界が世界創造者と共に、のように)、一つの全体をなすことはないのである。

◇ 改訳の個所は:
 元の訳では、世界創造者と世界が、「一つの全体をなす」ことになってしまい、意味が反対になります。
 なお Vaihinger は、原文の( )内の「世界創造者」と「世界」の位置を入れ替えて、”(z. B. die Welt mit dem Weltschöpfer)” と訂正しており、拙訳はそれに従いました。
(初出 2007.6.28, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、156 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 悟性概念の四綱目を含むカテゴリーは・・・

◆ 原文は:
  . . . dass sich diese Tafel, welche vier Klasse von Verstandesbegriffen enthält, . . .

☆ 拙・改訳では:
 悟性概念の四綱目を含むこのカテゴリー表は・・・

◇ 改訳の個所は:
 元の訳の「カテゴリー」は、ミスで「表」がぬけ落ちています。
(初出 2007.6.28, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、154 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 この純粋ではあるが、しかし派生的な悟性概念を純粋悟性の(賓位語に対して)客位語(praedicabilia)と名づけることを許されたい。

◆ 原文は:
 Es sei mir erlaubt, diese reinen, aber abgeleiteten Verstandesbegriffe die Prädikabilien des reinen Verstandes (im Gegensatz der Prädikamente) zu nennen.

☆ 拙・改訳では:
 この純粋な、しかし派生的な悟性概念を、純粋悟性の可述語 [
Prädikabilien] と名づける(カテゴリー [Prädikamente] に対して [その下位区分として])ことを、許されたい。

◇ 改訳の個所は:
 元の訳で、「賓位(ひんい)語」と「客位(きゃくい)語 Prädikabilien, praedicabilia」が突然出現し、以後この2つの用語を使っての文章が続くので、読者は驚かれたと思います。(賓位語, 客位語 Prädikabilien, praedicabilia は、通常の日本語やドイツ語、羅和の辞書にはのっていません)。
1) 「客位語」については、カントが説明しているように、純粋で「派生的な悟性概念」であり、何から派生するかといえば、その前の段落にあるように、「純粋悟性の・・・根本概念としてのカテゴリー」からです。

2) 「賓位語 Prädikament」については、元の訳の6~7行あとに、ちらっと「賓位語 [カテゴリー]」と出てくるように、カテゴリーのことです。ドゥーデンの Deutsches Universal-Wörterbuch(第6版)でも、Prädikament は「カテゴリー」となっています。といいますのは――ここから以降の説明は、平凡社『哲学辞典』(1979年)を参照しています―― Prädikament という語は、ラテン語の praedicamentum から来ているようで、これはギリシア語の kategoria [カテゴリー] の翻訳だからです。

3) そこで、カテゴリー(賓位語)の下位区分が、客位語だということになります。

 さて、この二つの用語はアリストテレスに由来しています。アリストテレスの翻訳用語が、「客位語 praedicabilia」「賓位語」として定着しているのであれば、このままでいいのですが、前記の『哲学辞典』では、praedicabilia を「可述語」と訳しています(p. 1315 の左)。そこで拙訳でも「可述語」を用いました。
 ちなみに、”-abilia” は英語の”-able, ~できる と同じ意味なので、「可」を付けたのでしょう。「述」は、”praedic, 独 Prädik” からです。なぜ「述べる」という意味が、カテゴリーや可述語に付いているかといえば、前記『哲学辞典』によれば:

カテゴリーのギリシア語の語源「kategorein は、訴訟の義。訴訟、特殊事件を一般法律に準じて判決することから、すべての事物の意味を一般的に述語することに転義し、述語の意味に用いられ、もっとも一般的な述語は事物の一般的分類 [つまりカテゴリーですね] を規定しうることにな」ったからのようです。
(初出 2007.6.28, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、153 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 悟性はみずからのうちにこれらの概念をア・プリオリに含んでいる、それ故にこそかかる悟性のみが純粋悟性と呼ばれるのである。

◆ 原文は:
  . . . die [= alle ursprünglich reinen Begriffe] der Verstand a priori in sich enthält, und um derentwillen er auch nur ein reiner Verstand ist;

☆ 拙・改訳では:
 悟性は自らのうちに、これらの純粋概念をア・プリオリに含んでいる。そしてこれら純粋概念を含んでいるが故に、悟性はまたたんに純粋悟性でもある。

◇ 改訳の個所は:
1) derentwillen は、女性あるいは複数名詞を受けるので、ここは「すべての純粋概念」を指します。すると、”um derentwillen“ は「これら(すべての)純粋概念の故に」となりますが、文脈からは「これら純粋概念を含んでいるが故に」です。
 したがって、元の訳のように「それ故にこそ」としてもいいのですが、それでは「純粋概念」の「純粋」が記されないため、後の「純粋悟性」への橋渡しができなくなってしまいます。

2) 元の訳の「かかる悟性のみが純粋悟性と呼ばれる」では、そう呼ばれない悟性も別に存在するかのような印象になります。しかしそれでは、「悟性は一つの自立的な・・・統一態である」(B 版、89-90 ページ)に反します。そこで、率直な、文字通りの訳にしました。
(初出 2007.6.27, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、151 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 ところで一般的に表象された純粋総合は、純粋悟性概念を与える。しかし私はこの純粋総合を、ア・プリオリな綜合的統一を基礎とする総合と解する。

◆ 原文は:
 Die reine Synthesis, allgemein vorgestellt, gibt nun den reinen Verstandesbegriff. Ich verstehe aber unter dieser Synthesis diejenige, welche auf einem Grunde der synthetischen Einheit a priori beruht:

☆ 拙・改訳では:
 ところで、一般的に表象された場合の純粋総合は、純粋悟性概念を与える。そして私はこの純粋総合を、ア・プリオリな綜合的統一に基づいている総合だと、理解しているのである。

◇ 改訳の個所は:
 元の訳では aber が「しかし」となっていますが、それではカントの考えを述べた前の文が、単純に否定されてしまい、カントの意図するところが分からなくなります。
 このaber は、論文などでよく使われるところの、たんに接続を示す「そこで」とか「そして」だと思います。
(初出 2007.6.26, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、150 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています:
 しかし私はまた総合(Synthesis)を最も一般的な意味に解して、種々な表象を互に加え合わせて、その多様を一つの認識に統括する作用であるとする。

◆ 原文は:
 Ich verstehe aber unter Synthesis in der allgemeinsten Bedeutung die Handlung, verschiede Vorstellungen zueinander hinzuzutun, und ihre Mannigfaltigkeit in einer Erkenntnis zu begreifen.

☆ 拙・改訳では:
 そして私は、最も一般的な意味では「総合」を、さまざまな表象を互に結合して、これら表象の多様性を、一つの認識において把握する行為であると理解する。

◇ 改訳の個所は:
1) 元の訳では aber が「しかし」となっていますが、それでは前文の「かかる思惟作用を、私は総合と名づけるのである」が、単純に否定されてしまい、カントの意図するところが分かりにくくなります。
 このaber は、論文などでよく使われるところの、たんに接続を示す「そこで」とか「そして」だと思います。

2) 元の訳では、「・・・また総合(Synthesis)を最も一般的な意味に解して・・・」となっているため、前文の「かかる思惟作用を、私は総合と名づけるのである」から読んでくると、カントは「総合」をたんに2通りに解釈しているかのようです。“Synthesis in der allgemeinsten Bedeutung“ ですから、「最も一般的な意味においての総合」という意味です。

3) Handlung は、元の訳では「作用」ですが、すこし意味がずれており、率直に訳して「行為」だと思います。

4) begreifen は、元の訳では「統括する」ですが、やはり意味がずれており、率直に訳して「把握する」。
(初出 2007.6.26, v. 1.0)
 

岩波文庫『純粋理性批判』上、147 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 これらの範囲の一つから、その範囲を占めている認識を取り除くことは、この範囲を残りの二範囲のどれか一つに入れることを意味する。これに反して二つの範囲を残りの一つの範囲に入れることは、これらの二範囲から、それぞれその範囲を占めているところの認識を取り除くことを意味するわけである。

◆ 原文は:
 Das Erkenntnis aus einer dieser Sphären wegnehmen, heißt, sie in eine der übrigen setzen, und dagegen sie in eine Sphäre setzen, heißt, sie aus den übrigen wegnehmen.

☆ 拙・改訳では:
 これらの範囲の一つから、前記の認識を取り去ることは [つまり、前記の世界に関する認識を、その一つの範囲に帰させないのであれば]、この認識を残りの二範囲のどれか一つに帰することを意味する。これに対して、この認識を一つの範囲に帰することは、この認識を残りの二つの範囲から、取り去ることを意味する。

◇ 改訳の個所は:
 „Das Erkenntnis“Das は、Valentiner の校訂のように、Die の誤植だとする以外にありません。すると、後続の sie は、すべて Die Erkenntnis になり、文意が通じるようになります。
(初出 2007.6.26, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、145 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 そうすると一切の可能な物の無限な領域と言ったところで、可死的なものがそこから除かれ、あとに残った空間の領域に霊魂が入るのであるから、かかる無限な領域なるものはやはり制限されるわけである。

◆ 原文は:
 Dadurch aber wird nur die unendliche Sphäre alles Möglichen insoweit beschränkt, dass das Sterbliche davon abgetrennt, und in dem übrigen Umfang ihres Raumes die Seele gesetzt wird.

☆ 拙・改訳では:
 しかし、このことによって一切の可能な物の無限な領域が制限されるのは、ただ、可死的なものがそこからは除かれ、あとに残った無限な領域の範囲内に霊魂がおかれる、ということだけである。

◇ 改訳の個所は:
 元の訳では、aber と nur の意味のとり方がおかしいために、「やはり制限される」となったようです。それでは、後の文章とのつながりがギクシャクします。

(初出 2007.6.25, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、130-131 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 するとこういうことが明らかになる、それは――真理即ち真なる判断のかかる普遍的標徴にあっては、一切の認識内容(認識とその対象との関係)はすべて度外視せられる、ところが他方で真理がまさに認識の内容に関するとしたら、かかる認識内容を真であるとするところの標徴は何かと問うのは、まったく不可能でありまた不合理でもある、従って真理の十分でしかも同時に普遍的な標徴は示され得ない、ということである。

◆ 原文は:
 Es ist aber klar, dass, da man bei demselben von allem Inhalt der Erkenntnis (Beziehung auf ihr Objekt) abstrahiert, und Wahrheit gerade diesen Inhalt angeht, es ganz unmöglich und ungereimt sei, nach einem Merkmale der Wahrheit dieses Inhalts der Erkenntnisse zu fragen, . . .

☆ 拙・改訳では:
 しかし、明らかなことは――真理の基準に関しては、一切の認識(対象への関係)の内容はすべて捨象されるし、また、真理というものはまさにこの内容にかかわるものなので、この内容の認識の真理標徴を問うのは、まったく不可能でありまた不合理でもある・・・

◇ 改訳の個所は:
 1) 元の訳のように「するとこういうことが明らかになる」では、「すると」以前の内容が原因となっているかのように、理解されるおそれがあります。が、ここの aber の意味は、「しかし」だと思います。

2) 元の訳では、理由を表す da が訳出されていなかったので、「・・・なので」と訳して、文意を明確にしました。

3) 元の訳のように「ところが他方で」としたのでは、文意がとりにくくなります。und は「ところが」ではなく、並列を意味するものとして訳出しました。
(初出 2007.6.24, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、130 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 真理が、認識とその対象との一致にあるならば、この対象はその他の対象から区別せられねばならない。もし或る認識がその関係する対象と一致しなければ、たとえその他の対象には十分に妥当するところのものを含んでいるにしても、この認識は偽である。ところで真理の普遍的基準であるからには、認識の関係する対象の差異にかかわりなく、一切の認識に妥当するものでなければなるまい。

◆ 原文は:
 Wenn Wahrheit in der Übereinstimmung einer Erkenntnis mit ihrem Gegenstande besteht, so muss dadurch dieser Gegenstand von anderen unterschieden werden; denn eine Erkenntnis ist falsch, wenn sie mit dem Gegenstande, worauf sie bezogen wird, nicht übereinstimmt, ob sie gleich etwas enthält, was wohl von anderen Gegenständen gelten könnte. Nun würde ein allgemeines Kriterium der Wahrheit dasjenige sein, welches von allen Erkenntnissen, ohne Unterschied ihrer Gegenstände, gültig wäre.

☆ 拙・改訳では:
 真理が、認識とその対象との一致にあるならば、このことによってその対象は、その他の対象から区別されねばならないことになる。というのは、ある認識がそれが関係する対象と一致しないときには、その認識がその他の対象には妥当するものを含んでいるにしても [つまり、その認識と他の対象は一致するにしても]、その認識は偽であるからである。ところで、真理のもつ普遍的標識は、認識対象の区別にかかわりなく、一切の認識に妥当するものでなければなるまい。

◇ 改訳の個所は:
1) „. . . so muss dadurch . . “dadurch を「このことによって」と訳出し、文意を明確にしました。

2) „. . . denn eine Erkenntnis . . .“denn を「というのは」と訳出し、文意を明確にしました。

3) „. . . was wohl von anderen . . .“wohl は、元の訳では「十分に」となっていますが、譲歩を表す wohl だと思われます。

4) 元の訳では「真理の普遍的標徴であるからには・・・なるまい」の文の主語が不明確なため、文意がとりづらくなっているので、主語を明確にしました。
(初出 2007.6.23, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、118 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 ・・・以前は、土星には二個の柄 [え] があると言ったものである。

◆ 原文は:
 . . . die zwei Henkel, die man anfänglich dem Saturn beilegte.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・初めのころは、土星には二個の耳があると言ったものである。

◇ 改訳の個所は:
 Henkel は、なるほど柄(取っ手)のことですが、この故事はガリレオが土星の輪をはじめて観察したとき、それを「耳のようなもの」と形容したことから、出ています(当時の望遠鏡の解像度からいって、しかたありませんが。ガリレオ自身は、これらを2つの衛星だと推測しました)。日本では「土星の耳」が定着しているので(グーグルでは2千件のヒット。「土星の柄(え)では、ヒットなし)、「耳」が適切でしょう。
 最初、「土星の柄」を読んだときには、思わずエ~ツと・・そうなんです、これを書きたいために、ここの個所を (^^;
(初出 2007.6.22, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、116-117 ページ

★ 元の訳では:
 ところが人間にあっては、自分自身を意識するには、前もって主観に与えられている多様なものの内的直観を必要とする、そしてこの多様なものが、自発的でなく心意識に与えられる仕方は、知性的直観の場合とは異なり、感性と呼ばれねばならない。自分自身を意識する能力が、すでに心意識のうちにあるところのものを探す(覚知する)ということになると、この能力は心意識を触発せねばならない、そしてまたこういう仕方でのみ、自分自身を直観し得るのである。しかしかかる直観形式は、前もって心意識の根底に存し、多様なものが心意識において共在する仕方を、時間の表象において規定するのである。このように主観は、自分自身をそれ自体直観するのではなく、また自発的に自分自身を直接に表象するのでもなくて、内から触発せられる仕方に従って直観するのである、・・・

◆ 原文は:
 Im Menschen erfordert dieses Bewusstsein innere Wahrnehmung von dem Mannigfaltigen, was im Subjekt vorher gegeben wird, und die Art, wie dieses ohne Spontaneität im Gemüte gegeben wird, muss, um dieses Unterschiedes willen, Sinnlichkeit heißen. Wenn das Vermögen sich bewusst zu werden, das, was im Gemüte liegt, aufsuchen (apprehendieren) soll, so muss es dasselbe affizieren, und kann allein auf solche Art eine Anschauung seiner selbst hervorbringen, deren Form aber, die vorher im Gemüte zugrunde liegt, die Art, wie das Mannigfaltige im Gemüte beisammen ist, in der Vorstellung der Zeit bestimmt, da es denn sich selbst anschaut, nicht wie es sich unmittelbar selbsttätig vorstellen würde, sondern nach der Art, wie es von innen affiziert wird, . .

☆ 拙・改訳では:
 ところが人間にあっては、主観が自らを意識するには、前もって主観のうちに与えられている多様なものの内的な知覚を必要とする。そしてこの多様なものが、[心の] 自発性なくして心のうちで与えられる仕方は、自発性がないという相違点のために、感性と呼ばれねばならない。意識するという能力が、心のうちにすでにあるものを探す(覚知する)ということになると、この心のうちのものが意識する能力を触発せねばならない。そしてまたこういう仕方でのみ、心のうちのものを直観し得るのである。しかしかかる直観形式は、前もって心の根底に存しており、多様なものが心のうちで共在する仕方を、時間の表象において規定するのである。というのは、主観は自ら自身を直観するのではあるが、主観が直接自発的に自らを表象するというふうにではなく、主観が内部から触発せられる仕方に従って、・・・自らを直観するのだからである。

◇ 改訳の個所は:
1) innere Wahrnehmung" が元の訳では「内的直観」となっていますが、「内的知覚」の誤りです。ここでのカントは、知(性)的直観を廃して、感性的な直観を主張していますので、感性と関係の深い「知覚」が出てきています。

2) „um dieses Unterschiedes willen“ の dieses は、その前の「自発性なくして」をさすと思われますので、元の訳のように「知性的直観の場合とは異なり」ではなく、「自発性がないという相違点のために」と訳出した方が、文意も明瞭になります。
むろん、「自発性がないという相違点のために [知性的直観の場合とは異なって、] 感性と呼ばれねばならない」という意味です。

3) „sich bewusst zu werden“ は、たんに「意識する」だと思います。

4) „so muss es dasselbe affizieren“ の主語の es と、目的語の dasselbe が、何を受けているのかが問題です。
まず、「触発する affizieren」ものは、対象であって、されるのは主観の側ですから、元の訳のように、主観の側の「能力」が触発するというのは、おかしいことになります。したがって、触発する es は、「心のうちにあるもの」(=多様なもの)です。
 つぎに、触発される dasselbe が受けている語ですが、文意からすると、「意識するという能力」だと思います。むろんそれは「心意識 Gemüt」であるので、元の訳がまったくの誤りだと言うのではありません。が、ここでは「心 Gemüt」は、「心のうちに im Gemüte」とあるように、容器のようなものとして、舞台として登場しているので、「心意識」とまで引っ張った訳をするのは、苦しいものがあります。

5) 上記のように読解してきますと、“eine Anschauung seiner selbst“seiner (= 主語の es)は、「心のうちにあるもの」(=多様なもの)になります。

6) 元の訳では、「このように主観は、自分自身をそれ自体直観するのではなく・・・」とあります。しかし、否定の nicht は、wie 以下にかかっていくはずなので、「主観(文法的には、その前の「心」あるいは「意識する能力」)」は、「自分自身をそれ自体直観」はします。ただその仕方が、「自発的に自分自身を直接に表象するので」はないのです。
(初出 2007.6.22, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、116 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
  ・・・さもなければ内感の対象であるところの主観(心)が、内感によって現象として表象せられ得るか、二つのうちのいずれかである。しかし主観が現象として表象せられるにしても、その場合に主観が自分自身を判断するのは、主観の直観がまったく自主的、自発的にはたらく場合――換言すれば、この直観が知性的直観であるような場合とは、おのずから異なるであろう。

◆ 原文は:
 . . . oder das Subjekt, welches der Gegenstand desselben [eines inneren Sinn] ist, würde durch denselben [einen inneren Sinn] nur als Erscheinung vorgestellt werden können, nicht wie es [das Subjekt] von sich selbst urteilen würde, wenn seine Anschauung bloße Selbsttätigkeit, d. i. intellektuell, wäre.

☆ 拙・改訳では:
 ・・・さもなければ内感の対象であるところの主観(心)が、内感によってただ現象としてのみ表象せられ得るか、いずれかである。しかし主観が現象として表象せられるにしても、そのことは、主観が自分自身を判断する――主観の行う直観がまったく自発的な場合、つまり知性的直観の場合であるが――ようなものとは、異なるであろう。

◇ 改訳の個所は:
1) nur als Erscheinungnur は重要なので、「ただ・・・のみ」と訳出しました。

2) 文法からいって、nichtwie 以下を否定しているのですから、「主観が自分自身を判断する」のは、主観の行う直観がまったく自発的な場合であって、つまり知性的直観の場合であって、「主観が現象として表象せられる」場合ではありません。
(初出 2007.6.19, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、116 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 ところで表象として一切の思惟作用に先だち得るものは直観であり、もし直観が関係だけしか含まない場合には、直観の形式である、直観形式は、何か或るものが心意識のうちに入ってこない限り何も表象しないから、この形式は心意識がそれ自身の活動によって――と言うのは、表象が心意識のうちに入ることによって触発される仕方であり、従ってまた心意識自体によって触発される仕方にほかならない、そしてまたこの仕方は、その形式から言うと内感にほかならないということになる。(イタリックは私)

◆ 原文は:
 Nun ist das, was, als Vorstellung, vor aller Handlung irgend etwas zu denken, vorhergehen kann, die Anschauung, und, wenn sie nichts als Verhältnisse enthält, die Form der Anschauung, welche, da sie nichts vorstellt, außer so fern etwas im Gemüte gesetzt wird, nichts anders sein kann, als die Art, wie das Gemüt durch eigene Tätigkeit, nämlich dieses Setzen ihrer Vorstellung, mithin durch sich selbst affiziert wird, d. i. ein innerer Sinn seiner Form nach.(イタリックは私)

☆ 拙・改訳では:
 ところで表象として、一切の思惟行為に先だち得るものは直観であり、もし直観が関係だけしか含まない場合には、それは直観の形式である。この直観の形式は、何かあるものが心のうちで措定されない限り、何も表象しないから、この形式は心がそれ自身の活動によって――すなわち、心自身の表象のあの措定によって――触発される仕方であり、従って心自身によって触発される仕方にほかならない。つまりこの直観の形式は、形式からみた内感にほかならないということになる。

◇ 改訳の個所は:
1) 原文中 „ . . . dieses Setzen ihrer Vorstellung . . .“ ihrer (前記引用文中ではイタリックで表示)が原因となったのか、元の訳では「表象が心意識のうちに入ることによって」(前記引用文ではイタリックで表示)とされ、文意が通りにくいものとなっています。
このihrerKehrbach の校訂のように seiner の誤記だとして、Gemüt を受けると解するより、仕方がないと思います。

2) 元の訳の最後の文中では、「・・・そしてまたこの仕方は、その形式から言うと内観にほかならない・・・」となっており、「その形式」の「その seiner」は「仕方 die Art」を受けています。しかし、これは文法的には無理なので、直前の「内感 ein innerer Sinn」を受けると思われます。
(初出 2007.6.18, v. 1.1)


岩波文庫『純粋理性批判』上、113 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 それならば単なる概念或はア・プリオリな直観によってかかる必然的、普遍的認識に達する第一の方法は――そしてこれはまた唯一の方法でもあるが――どのようなものであるかと言えば、単なる概念から得られる認識は、決して綜合的認識ではなくて、分析的認識にすぎないことは極めて明白である。

◆ 原文は:
 Was aber das erstere und einzige Mittel sein würde, nämlich durch bloße Begriffe oder durch Anschauungen a priori zu dergleichen Erkenntnissen zu gelangen, so ist klar, daß aus bloßen Begriffen gar keine synthetische Erkenntnis, sondern lediglich analytische erlangt werden kann.

☆ 拙・改訳では:
 そうすると、単なる概念あるいはア・プリオリな直観によって、このような必然的にして普遍的な認識に達する第一の方法が――これはまた唯一の方法でもあるが――どのようなものであるにしろ、明白なことは、単なる概念からは決して綜合的認識は得られず、ただ分析的認識しかえられないことである。

◇ 改訳の個所は:
 元の訳では、「どのようなものであるかと言えば、・・・明白である。」という文の構造が、分かりにくいものとなっています。
 原文の “. . . sein würde,“ を認容の意味にとり、「どのようなものであるにしろ」と訳しました。
 (初出 2007.6.17, v. 1.0)


岩波文庫『純粋理性批判』上、99 ページ

★ 元の訳では:
 「・・・いかなる概念をも・・・」となっています。

◆ 原文は:
  ". . . kein Begriff . . ."

◇ 改訳の個所は:
 前記引用文中の「をも」は、「も」の誤植です。つまり、「いかなる概念」は目的語ではなく、主語です。
(初出 2007.6.12, v. 1.1)


岩波文庫『純粋理性批判』上、91-92 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
(四) 空間は、与えられた無限量として表象せられる。ところで我々はどんな概念でも、無限数の種々な可能的表象のなかに(これらに共通の標徴として)いちいち含まれているような表象――従ってまたかかる無数の表象を自分のもとに包括している表象と考えて差支えない、しかしそれだからといってどんな概念でも、それがもともと概念である限り、無限数の表象をあたかも自分のうちに包括しているかのように考えることはできない(唯一の空間をなす一切の部分は、同時に無限であり得るから)。故に根源的な空間表象は概念ではなくて、ア・プリオリな直観である。

◆ 原文は:
4. Der Raum wird als eine unendliche gegebene Größe vorgestellt. Nun muß man zwar einen jeden Begriff als eine Vorstellung denken, die in einer unendlichen Menge von verschiedenen möglichen Vorstellungen (als ihr gemeinschaftliches Merkmal) enthalten ist, mithin diese unter sich enthält; aber kein Begriff, als ein solcher, kann so gedacht werden, als ob er eine unendliche Menge von Vorstellungen in sich enthielte. Gleichwohl wird der Raum so gedacht (denn alle Teile des Raumes ins Unendliche sind zugleich). Also ist die ursprüngliche Vorstellung vom Raume Anschauung a priori, und nicht Begriff.

☆ 拙・改訳では:
(四) 空間は、与えられた無限量として表象される。ところで確かに我々は、どのような概念をも、無限数の種々な可能的表象それぞれのなかに(これらに共通の標徴として)含まれている表象として――従ってまたかかる無数の表象を、自分のもとに包括している表象として――、考えなければならない。しかしながら、概念である限りはどのような概念も、あたかも無限数の表象を自らのうちに包括しているかのように、考えられるわけにはいかない。けれども空間は、そのように考えられるのである(というのは、空間の諸部分は全部合わせると、無限の数になるから)。故に根源的な空間表象は、ア・プリオリな直観であって、概念ではない。

◇ 改訳の個所は:
1) 上記原文の第2文中の、mußzwar を、「確かに…なければならない」と率直に訳しました。

2) 元の訳には、“Gleichwohl wird der Raum so gedacht“ の文が欠けていたのを、補いました。

3) 原文の zugleich を、zusammen(合わせて)の意味にとりました(小学館『独和大辞典 第2版』。現在では使われなくなった語意のようです。DudenDeutsches Universalwörterbuch, 6. Auflage には記載されていません)。
(初出 2007.6.9, v. 1.1)


岩波文庫『純粋理性批判』上、81 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 つまりこの批判が、批判全体の本旨であるところの総合に見出すような懸念は、分析には存しないのである。

◆ 原文は:
  . . . indem sie die Bedenklichkeit nicht hat, welche bei der Synthesis angetroffen wird, um deren willen eigentlich die ganze Kritik da ist, . . .

☆ 拙・改訳では:
 つまり総合において――この総合のために、批判全体が本来存在するのであるが――見出されるような事態の重大さが、分析にはないのである。

◇ 改訳の個所は:
 元の訳では Bedenklichkeit が「懸念」となっており、誤訳ではないにしても、意味が取りにくくなっています。「事態の重大さ」の方が、分かりやすいと思います。
(初出 2007.6.27, v. 1.1)


岩波文庫『純粋理性批判』上、81 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 ところで我々の批判も、なるほどかかる純粋理性を構成する一切の根本概念を剰すところなく枚挙して見せねばならない。

◆ 原文は:
 Nun muss zwar unsere Kritik allerdings auch eine vollständige Herzählung aller Stammbegriffe, welche die gedachte reine Erkenntnis ausmachen, vor Auge legen.

☆ 拙・改訳では:
 ところで我々の批判も、なるほどかかる純粋認識を構成する一切の基本概念を、剰すところなく枚挙して見せねばならないのではある。

◇ 改訳の個所は:
 元の訳の「純粋理性」は、「純粋認識」のミスです。
(初出 2007.6.27, v. 1.1)


岩波文庫『純粋理性批判』上、57 ページ

★ 元の訳では以下のようになっています: 
 対象は我々の感覚を触発して、或はみずから表象を作り出し、或はまた我々の悟性をはたらかせてこれらの表象を比較し結合しまた分離して、感覚的印象という生の材料にいわば手を加えて対象の認識にする、・・・

◆ 原文は:
 . . . die [Gegenstände] unsere Sinne rühren und teils von selbst Vorstellungen bewirken, teils unsere Verstandesfähigkeit in Bewegung bringen, diese zu vergleichen, sie zu verknüpfen oder zu trennen, und so den rohen Stoff sinnlicher Eindrücke zu einer Erkenntnis der Gegenstände zu verarbeiten, . . .

☆ 拙・改訳では:
 対象は我々の「感覚器官」を刺激して、あるいは表象をおのずと生じさせ、あるいは我々の悟性能力を働かさせて、これらの表象を比較、結合、分離させて、感覚的印象という生の素材を、対象の認識へと加工させるのである。

◇ 改訳の個所は:
1) この訳書下巻の事項索引では、Empfindung を「感覚」、Sinn を「感官」と訳しているので、この個所も元の訳「感覚」は、「感官」ないしは分かりやすく「感覚器官」とすべきでしょう。

2) 同じ事項索引では、Affektieren, Affektion を「触発」と訳しており、対象によって私たち自身(心)が影響を受けることが、主な意味になっています。テキストのこの個所は、感覚器官を rühren するのですから、「刺激する」と改訳しました。

3) 元の訳では、「表象を比較し・・・認識にする」の主語は、「対象」になってしまいますので、「・・・させ」を補いました。

(なお、Verstandesfähigkeit は、”Die fünfte Originalausgabe” によりました)。
(初出 2007.7.16, v. 1.0)


  注意点] v. 1.0

・原文テキストには、Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek, 1976 を使用しました。(シュミットの編集によるもの。オリジナルテキストの重要な校訂は、この Felix Meiner Verlag のテキストに、注として記載されています)。
・[  ] 内は私の挿入です。
・なお、誤解を防ぐために「はじめに」を読んでいただければと思います。

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