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 シェリングとヘーゲルの、絶交の原因について(v. 5.2.)


  目 次 

 はじめに
 凡例
I. 手紙の内容
II. 問題の 2 語
III. ヘーゲルの反応
IV. その後の 2 人の交際
注 記


   はじめに

 ヘーゲルが、出版したばかりの『精神の現象学』をシェリングに送り、それへのシェリングの返信(1807 年 11 月 2 日付)を最後に、2人は絶交状態となります。この絶交がどうして起きたのかという説明が、これまで明確にはされてこなかったように思います。通念では、ヘーゲルが同書の「序文(Vorrede)」でシェリング哲学を非難して袂を分かち、それにシェリングが腹を立てて、絶交になったと考えられています。
 なるほど、序文でヘーゲルに非難されたシェリングは、立腹したはずです。しかし、前記の最後の手紙では、ヘーゲルの行った概念と直観の区別立てには、シェリングは異論をとなえましたが、その他すべては「調停されえる」と言っています。訣辞(けつじ)では、「お元気で。またすぐにも君の手紙を待っている。さようなら。君の誠実な友、シェリング」などとも、書いているのです――そしてヘーゲルが、これに対する返信を出さなかなったのです。

 一方ヘーゲルの方は、『精神の現象学』の緒論・本文を脱稿した後、最後に序文の原稿を 1807 年 1 月に出版社に送りましたが、それ以降も 2 月と 5 月にはふつうにシェリングに手紙を出しています。そうすると、彼が「序文」を書いた前後でシェリング哲学とは袂(たもと)を分かつ決意をしたとしても、最後となったシェリングからの手紙のあとでも音信不通になるのではなく、
・2 人は連絡を取り合って、切磋琢磨しあうか、
・自説を主張しあう手紙の交換が、しばらくは続くのが、
自然な流れだったように見えます。

 こうしてみますと、シェリングの最後の手紙が、いよいよ興味深いものとなります。そして、絶交の直接の原因は、2 つの語句の挿入という、意外なところにあったようです。
 (ただこの原因は、研究者間では暗黙の了解事項となっていて、家臭を挙げることになるため、あえて明確には述べられてこなかった、という可能性はあります。筆者としてはドイツ観念論研究史上に、このような原因の発見(?)によって名が残ってしまうと、家名に傷がつかぬかと怖れるばかりです)。

 なお、問題の手紙の原文と拙訳、また語句の解釈については、こちらを参照いただければと思います。


   凡 例

・テキストとしては、Meiner 社の 哲学文庫版 BRIEFE VON UND AN HEGELJ. Hoffmeister 編)が、入手しやすいと思います。
 というよりGoogle で "München, den 2. Nov. 1807." を検索すれば、全文が閲覧できます。

・ [  ] 内は、訳者の挿入です。


I.手紙の内容

 シェリングからヘーゲルへの 1807 年 11 月 2 日付手紙には、シェリングが「少し前に行った講演のコピー」が、添付されていました。手紙の冒頭でシェリングはこの講演について言及した後、講演の評価はヘーゲルにまかすと述べ、それでこの話題は手短に打ち切っています。この部分は、久しぶりの旧友への手紙で、当方の最近の活動状況を知らせるといった感じの、ふつうの書き出しです。

 その後、『精神の現象学』序文においてシェリング側に向けられたヘーゲルの「論争」について、シェリングは不満を述べます。が、2 人の相違点については「調停されることになるだろう」と、楽観的に書いています。ただ概念と直観との関係については、シェリングは自説を簡単に主張し、これで手紙の主要部は終わりです。
 ここまで、シェリングは激した言葉は使っておらず、誇り高い彼にしてはよく忍耐したなという印象です。ヘーゲルもほっとしたことでしょう。「序文」で行ったシェリングへの突然の乱暴な非難には、内心忸怩(じくじ)たるものがあったでしょうから。また、シェリングに『精神の現象学』を送った後、彼からの音沙汰は長い間ありませんでした(*1)

 そして最後にシェリングは、「すまないが・・・」と、ヘーゲルの友情を確信している調子で、何気なく手紙冒頭の講演コピーに触れるのですが、ここにヘーゲルを驚愕させ、怒らせたであろう 2 語が、挿入されていたのでした。


II.問題の 2 語

 「すまないが、[他の人たちも] 読めるようにぼくの講演のコピーを、庶子のことも、伝えてほしい。この講演の出版部数は少なかったため、ぼく自身はあと残り 1 部だけしか持っていない。もう 1 部見つけることができれば、彼らにも送るのだが。」

 これが手紙最後の段落の全文ですが、「庶子」とは 1807 年 2 月に誕生したヘーゲルの庶子を指すとしか考えられません。そこで、「庶子のことも(auch Liebeskinds)」の 2 語の挿入がなければ、最初の文は、
 Sei so gut, Dein Exemplar meiner Rede zum Lesen mitzuteilen;
となり、意味は、「すまないが、君に送ったぼくの講演のコピーを [他の人たちも] 読めるように、回してほしい」ということです。
 ところが、auch Liebeskinds があるために、
 Sei so gut, Dein Exemplar Liebeskinds zum Lesen mitzuteilen
が、加わってきます。このとき、Dein Exemplar は「ヘーゲルに送ったシェリングの講演のコピー」から、「庶子という君の [示した] お手本」に意味が変わります。そして、それを「文書で(zum Lesen)、(秘密を)打ち明けて(mitteilen. 相良守峯『大独和辞典』の mitteilen の項目 I, 1)ほしい」、という文意になります。(*2)
 この 2 語の挿入は、思わず筆がすべったというものではなく、意図的なものでしょう。訣辞を見ますと、通常とは違って「君の誠実な(aufrichtig, 率直な)友、シェリング」となっています(ふつうは簡単に、「君のシェリング」で終わっています)。

 シェリングとしては、今まで長年同志的な交友があり、手助けもしてやったヘーゲルが、『精神の現象学』序文で突然に公然と非難してきたのですから、これは驚くというより、裏切られたという思いだったでしょう。とはいえ、ヘーゲルからの前便(1807 年 5 月 1 日付)には、
 「ところで、君 [シェリング] には言う必要もないことだが、[『精神の現象学』の] 全体の数ページでも君が賛同してくれるなら、これはぼくにとっては、他の人たちが全体に満足する・しないということより、重要なのだ」
などという文言もあります(*3)
 そこで、哲学方面での衝突は避け、「序文」で攻撃してきたヘーゲルには退路も用意したのでしたが(*4)、しかし一言無かるべからずです。そして、ゴシップによるしっぺ返しとなったのですが、わずか 2 語の追加によるみごとな自らの文章構成に、微笑むシェリングを想像したとしても、あながち不自然ではないでしょう。(*5)

 では、遠くミュンヘンにいたシェリングは、どのようにしてイェナのヘーゲルのプライバシーを知りえたのか? これは答えるまでもないでしょう。この種のうわさはもっとも速く、広範囲に伝わるものですし、シェリングともなれば、御注進に及んだ人がいたのかもしれません。インテリ・芸術家集団の活動の半分が(えっ、それ以上?)、人事を含めてのゴシップ交換に費やされるのは、洋の東西・古今を問いません。(真っ当な職業を選びたいものです・・)


III.ヘーゲルの反応

 ヘーゲルが 1807 年にシェリング宛に出した手紙 3 通には、庶子のことは言及されていないことから、ヘーゲルとしてはそのことはもっとも触れてほしくない、世間にはできるだけ隠しておきたかったことだと思われます。彼の性格と時代環境からして、この後、「君も知っていたのか。悪事千里を走るというわけだ」などとは、シェリングに返信できなかったのでしょう。そして、才媛カロリーネとシェリングのロマンスに比して、あまりにも――しかし、拙サイトはむろんスキャンダルも追いはするのですが、下世話な方面は忌避するという方針ですので、これ以上の言及は控えたいと思います、コホン。(*9)

 では、ヘーゲルはこの件には触れず、また、シェリングの用意した退路を用いて、あいまいに「序文では、ぼくも少し不注意だった」と、シェリングに一応詫びを入れることはできなかったのでしょうか? そうするには、ヘーゲルの状況はあまりにも余裕がなく、追い込まれていたようです。ヘーゲルは庶子の母と(*6)結婚する気は無く(修羅場があったことと思われます)、その上手元不如意で、このときバンベルク新聞の編集者でした。表面的にはともかく、内面は半狂乱状態だったのではないかと察せられます。
 彼にとってはおそらく、人間には 2 種類しかなかったでしょう:彼のプライバシーを知りながら、そ知らぬふりをしてくれる人と、それをほのめかす人――ところが、シェリングはあからさまに述べたのですから、もはや何をかはいわんやです。


IV.その後の 2 人の交際

 この拙稿の表題は、「・・・絶交の原因について」となっていますが、正確には「絶交」ではなく、交友が1807 年末から一時途切れ、また再開したような(といっても、以前のようにはいかなかったでしょうが)外観を呈しています。「ヘーゲル詳細年譜」(『ヘーゲル事典』弘文堂、平成 4 年の付録)によりますと:
 1812年 シェリングがヘーゲルを訪ねる。
 1815年 ヘーゲルがシェリングを訪ねる。
 1829年 保養地カールスバートでの邂逅(かいこう)。

 ここで哲学史家たちは、絶交の原因を取り違えたためか、「これらいずれの場合にも、哲学については話されなかったようである」と重々しく(笑)記すのを常とするのですが、「あの件については」の誤りでしょう。
 それはともかく、フィヒテとシェリングの場合とはちがって(*7)、とにかくこうした交友あるいは社交がありえたのは、やはりシェリングの 1807-11-2 付手紙以降、双方とも相手に対して沈黙を守ったことによるのでしょう(*8)。そして、1829 年 9 月の有名な邂逅では、ヘーゲルからシェリングに声をかけ、2~3 日間散歩や食事を共にしています。これはヘーゲルが晩年を意識したこともあったのでしょうが、彼に社会的な余裕のできたことが、大きかったと思われます(翌 10 月には、ベルリン大学総長に就任しています)。


   注 記

(*1) シェリングが『精神の現象学』を受けとったのは、1807 年の 5 月中だと思われますが、こちらを参照して下さい。
 なお、前回のシェリングからヘーゲルへの手紙は、同年 3 月 22 日です。そこで、この 11 月 2 日付手紙には、「長い間、君 [ヘーゲル] には手紙を書いていなかった」とあります。(Briefe von und an Hegel, Bd. I, hg. von J. Hoffmeister, 3. Auflage,1969, S. 194.)

(*2) ただし、フールマンス(Horst Fuhrmans)が編集した F. W. J. Schelling. Briefe und Dokumente (1975 年)では、問題の Liebeskinds が 2 格ではなく、語尾に s のない 4 格の Liebeskind になっています。このことについては、こちらをご覧ください

(*3) Briefe von und an Hegel, Bd. I, hg. von J. Hoffmeister, 3. Auflage,1969, S. 162.

(*4) この 1807 年 11 月 2 日付手紙においてシェリングは、次のように書いています:

 「この論争 [=『精神の現象学』序文で、ヘーゲルがシェリング側に行った非難] は、君がぼく [シェリング] への手紙で言ってるように、ともあれ [シェリングの思想の] 乱用や [シェリングの] 模倣者に対して向けられたものなのだろう」。

 つまり、ヘーゲルの非難はシェリング本人に向けられたものではなく、彼の追随・模倣者に対してなされたのだろう、というわけです。ところが、前記引用文中の「ぼく [シェリング] への手紙」(1807 年 5 月 1 日付)では、ヘーゲルは以下のように述べていたのです。この箇所は、ヘーゲルも注意深く婉曲に書いていますので、直訳にします:

 「[『精神の現象学』の] 序文については、君 [シェリング] は次のようには思わないだろう:とりわけ君の [提示した] 諸形式をひじょうに損ない、君の学問を不毛な形式主義へと追いやった平板さに対し、ぼくがあまりにも好意的だったとは」。(Briefe von und an Hegel, Bd. I, hg. von J. Hoffmeister, 3. Auflage,1969, S. 162.)

 ヘーゲルが、シェリング本人を批判したことは明らかです。そしてこの箇所を、論戦には細心の注意を払うシェリングが、忘れたとは思われません。それを暗示するのが、上記の引用に続くシェリングの但し書きです:

 「もっとも序文そのものにおいては、[シェリング本人と乱用・模倣者との] 区別がつけられてはいないが」。

 つまり、ぼく(シェリング)は、それほどうっかり者の甘ちゃんじゃないぞと、ヘーゲルに対して釘を刺したのでしょう。
 したがって、シェリングがあえて「この論争は・・・ともあれ乱用や模倣者に対して向けられたものなのだろう」と述べたのは、ヘーゲルに退路を用意して、今回のことはそういうことにしておこうじゃないかという、提案だっと思われます。

(*5) さらに言えば――「すまないが、[他の人たちも] 読めるようにぼくの講演のコピーを・・・」で始まるこの段落すべては、問題の 2 語を書きたいがために虚構されたものでしょう。といいますのは、
(1) 「[他の人たちも] 読めるように」とか、「彼らにも送るのだが」などとありますが、それが誰なのかは書かれていません。
 シェリングも住んでいた大学町イェナに、ヘーゲルが今もいるのであれば、「彼ら」とは、その地の哲学関係ないし教養ある共通の知人ということになります。しかし、ヘーゲルはこのときバンベルクで、新聞の編集者をしているのです。

(2) もし、シェリングが「彼ら」ということで特定の人たちを念頭に置いていたのであれば、ヘーゲルではなく、その人たちの 1 人に講演コピーを郵送したと思われます。ヘーゲルは、この講演記録を送ってほしいとは、要求していなかったのです。
 それにこの講演は、「折にふれての一般大衆向け講演」でした。そのためシェリングは、彼の哲学をよく知るプロの哲学者ヘーゲルに対して、「講演がどう評価されるべきかといった判断は [つまり、講演の価値評価は]、君の方でしてほしい」と、断り書きを記したのでした(そこには謙遜もあったでしょうが)。したがって、後 1 部しか残っていない(といわれる)講演コピーを、他の人たちをさしおいてヘーゲルに送る理由はありません。
 そこで、この段落が 2 語のために虚構されたということであれば、ヘーゲルの方もそれに当然気付いたはずです。そしてますます怒りが、高じたと思われます。

 とはいえ、シェリングがたんに「序文」での非難に対するリベンジのためだけに、2 語を書いたと考えるのは、すこし早計かもしれません。以下は筆者の主観的推測にすぎませんが――
 ヘーゲルは学生時代に、「老人」というあだ名を呈せられていました。また、ヘルダーリンは手紙のどこかで、ヘーゲルを理性的で安定感がある人物だと書いていたように思います。理性的で老成した重厚さ、これが自他ともに認めるヘーゲルのイメージであり、役回りだったわけです。ところが、「序文」での友人シェリングへの悪口雑言の数々は(これらは、「批判」と呼べるものではありません)、そうしたヘーゲル像からは想像できないものです。
 ではどうしてヘーゲルは、あのような悪口を(それが本心だったとしても)書き散らすようなことをしたのかと、私たちと同じくシェリング自身もそう考えたはずです。となれば思い当たることは 1 つ、ヘーゲルについての噂です――庶子・相手の女性・結婚の意志がないこと等々。ヘーゲルが相当なストレス(後悔、罪悪感、羞恥、絶望)を抱えていることは、容易に想像できます。そして、経済的に豊かではない彼がストレスを発散でき、自らを正しいと主張できたのは、非難・悪口を書くことにおいてだったのでしょう。
 そこでシェリングは、「君が『序文』でぼくへの非難を書き連ねた原因ないし動因は、じつは庶子にあるのではないかな」と、皮肉ったものと思われます。こうしたことも、手紙で 2 語が登場した理由だったのではないでしょうか。

(*6) この母子については、例えば『ヘーゲル事典』(弘文堂、平成 4 年)の「ブルックハルト夫人」の項目に、記述があります。

(*7) この 2 人の場合については、拙訳『『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』の「エピローグ」を参照。

(*8) いわゆる泥試合にはならなかったわけですが、これには 2 人の大学以来の交友の深さとともに、彼らをとりまく人間関係も影響したと思われます:
・ヘーゲルが信頼し頼ってもいた先輩のニートハンマーは、シェリングとも親密でした。
・シェリングの弟は、「1801/02 年のヘーゲルの最初の講義・・・の聴講生」で、医学を学んで開業しますが、「ヘーゲルの妹クリスティアーネ(Christiane Luise Hegel 1773 - 1832)の主治医を勤め、ヘーゲルとは終生親交を結んでいた」そうです。(『ヘーゲル事典』(弘文堂、平成 4 年)の「シェリング Karl Eberhard Schelling 1783 - 1854」の項目)

(*9) このさい一言申しそえれば――
 この拙稿が私の代表作のように受けとめられているとすれは、まことに遺憾千万なことです。むろん拙稿は、本来の哲学研究ではないのでありまして、一つには日ごろ哲学にいそしむ皆様の息抜きになればとの思いから、また一つには、段平を振りまわすだけでなく、当家には小太刀の舞もあることを知っていただきたく、草したしだいなのです。


(初出 2012.1.26.)
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