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3ニン著作チョサク年表ネンピョウ <3 ニントシ オモテ> (V. 2.8.) * ブラウザーが IE 6.0 で印刷インサツ場合バアイは、
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* クワしくは「フィヒテショウデン」を参照サンショウクダさい。 * 初期ヘーゲルについては → ヘーゲルのイェナ期年表
ネン フィヒテ   シェリング   ヘーゲル   ネン 出来事デキゴト
             
             
1762 5ガツ19ニチ フィヒテ Johann Gottlieb Fichte、ドレスデン Dresden 近郊キンコウ寒村カンソンラメナウ Rammenau にまれる。              
               
1770 牧師ボクシ A. G. ヴァーグナーが教会キョウカイ着任チャクニンし、フィヒテは日曜日ニチヨウビごとに説教セッキョウく。       8ガツ27ニチ、ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrig Hegel、シュトゥットガルト Stuttgartにまれる。   1770  
1771 ミルティッツ男爵ダンシャクられる。            
                 
1774 プフォルタ王立オウリツ学校ガッコウ入学ニュウガク              
1775     1ガツ27ニチ シェリング Friedrich Wilhelm Joseph Schelling、シュトゥットガルトStuttgartチカくのレオンベルクLeonbergにまれる。          
                 
1777         シュトゥットガルトのギムナジウムに入学ニュウガク   1777  
1778 レッシングをみ、感激カンゲキする。              
                 
1780 プフォルタ王立オウリツ学校ガッコウ卒業ソツギョウする。イェナ大学ダイガク神学部シンガクブ入学ニュウガク神学シンガク法学ホウガク哲学テツガク講義コウギく。              
  スピノザを知り、哲学に関心をもつ。              
1781 ライプチヒ大学ダイガク転学テンガク           1781 カント『純粋ジュンスイ理性リセイ批判ヒハン出版シュッパン
                 
1783         熱病ネツビョウにより、ハハ死去シキョする。   1783  
1784 学業ガクギョウ中断チュウダンし、ザクセンの各地カクチ家庭カテイ教師キョウシをする。   ニュルティンゲンのラテン学校ガッコウ入学ニュウガク       1784  
1785             1785 汎神論ハンシンロン(スピノザ)論争ロンソウ
1786     ベーベンハウゼン修道院シュウドウイン上級ジョウキュウ課程カテイ寮生リョウセイになる。          
                 
                 
1788 スイスのチューリッヒのオットーで、家庭カテイ教師キョウシ       テュービンゲン大学ダイガクTübinger Stift神学シンガク入学ニュウガクドウ学年ガクネンのヘルダーリンと親交シンコウムスぶ。 テュービンゲン時代ジダイ 1788 カント『実践ジッセン理性リセイ批判ヒハン出版シュッパン
1789 後年妻となる、ヨハンナ・マリア・ラーンと出会う。       フランス革命カクメイ支持シジする。   1789 フランス革命カクメイ
1790 5ガツ ライプチッヒにモドる。   10ガツ テュービンゲン大学ダイガク Tübinger Stift に入学ニュウガク哲学テツガク   哲学テツガク修士号シュウシゴウ取得シュトクする。   1790 カント『判断力ハンダンリョク批判ヒハン出版シュッパン
  ある青年セイネンからカント哲学テツガク教授キョウジュタノまれ、カントの『実践理性批判』『判断力批判』『純粋理性批判』をこの順に読む。   ヘルダーリン、ヘーゲルと寮の勉強部屋が同じ。         マイモン『超越チョウエツロンテキ哲学テツガクについての試論』出版シュッパン
1791 7ガツ4 カントを訪問ホウモン              
1792 3ガツ カントの仲介チュウカイで『あらゆる啓示ケイジ批判ヒハンココロみ』を刊行カンコウ   テュービンゲン大学の神学部シンガクブウツる。       1792 4ツキ、シュルツェ『アイネシデモス』出版シュッパン
1793 カント、ラインホルト、シュルツェ、マイモンなどを研究ケンキュウする。       アキ テュービンゲン大学神学部を卒業ソツギョウ   1793  
  10ガツ ヨハンナ・ラーンと結婚ケッコン       スイスのベルンの貴族キゾクシュタイガーイエ家庭カテイ教師キョウシをする。 ベルン時代ジダイ    
  年末ネンマツ <自我ジガ>の概念ガイネン想到ソウトウする。 前期ゼンキ思想シソウ            
1794 年初ネンショ イェナ大学ダイガクにラインホルトの後任コウニンに、助教授ジョキョウジュとしてマネかれる。           1794 テルミドールの反動ハンドウ
  5ガツ テュービンゲンに半日ハンニチ滞在タイザイする。   9月26日付 フィヒテに『哲学一般の形式の可能性について』を手紙とともに送る。          
  『全知識学の基礎』を配布。              
1795     2月4日 ヘーゲル宛の手紙で「スピノザ主義者になった」と書く。   フィヒテの『全知識学の基礎』をむ。   1795  
      12月 ヘルダーリンと会う。          
1796     フランクフルトでヘルダーリンとう。       1796  
      4月 ライプチヒへ移り、リーデゼル男爵ダンシャクイエ家庭カテイ教師キョウシとなる。          
      家庭カテイ教師キョウシのかたわら、ライプチヒ大学ダイガクで、自然シゼン科学カガク数学スウガクマナぶ。          
1797 哲学テツガク雑誌ザッシ Philosophisches Journal』ダイカン以降イコウを、ニートハンマーと共同キョウドウ編集ヘンシュウ     自然シゼン哲学テツガク ゴーゲルイエニワ教師キョウシとして、フランクフルトにく。 フランクフルト時代ジダイ 1797  
  息子のイマーヌエル・ヘルマン・フィヒテ Immanuel Hermann Fichte が生まれる。              
1798 フォルベルク F. K. Forberg の「宗教シュウキョウ概念ガイネン発展ハッテン」を、フィヒテ自身ジシンの「神の世界支配に対する、私たちの信仰の根拠について」とともに、『哲学テツガク雑誌ザッシに』発表ハッピョウ   8ガツ イェナ大学ダイガクマネかれ、ライプチヒを出発シュッパツ          
  年末 匿名の文書によって「無神論」だと攻撃される。   ドレスデンで、シュレーゲル兄弟キョウダイ、カロリーネ、ノヴァーリス、フィヒテなどとう。          
  その結果、「無神論論争」が起きる。   10ガツ イェナ大学に赴任し、フィヒテとトモ講義コウギする。          
1799 フィヒテは文書ブンショ手紙テガミで、弁明ベンメイ反論ハンロンする。       1ガツ チチ死去シキョする。   1799 カントは、フィヒテの『純粋ジュンスイ理性リセイ批判ヒハン解釈カイシャクシリゾけることを公表コウヒョウ
  イェナ大学を辞職、7月にイェナを去り、ベルリンに移住する。              
  7ガツ20ヅケ シェリングへの手紙テガミ一連イチレン文通ブンツウ開始カイシ          
  ベルリンでは、シュレーゲル兄弟キョウダイ、シュライエルマッハ、ティークトウ交遊コウユウする。              
  8ガツ、カントが『文芸ブンゲイ公論コウロン Allgemeine Literaturzeitung』誌上シジョウで、フィヒテ哲学テツガク批判ヒハン              
1800 シェリングと新しい雑誌の出版を企画する。 後期思想 5ガツ〜9ガツ バンベルクで医学イガク研修ケンシュウける。  移行期     1800  
      7ガツ カロリーネのムスメアウグステが死去シキョする。          
      超越論的ch観念論カンネンロン体系タイケイ』を出版シュッパン          
      思弁的シベンテキ物理学ブツリガクのための雑誌ザッシ(Zeitschrift für spekulative Physik)」を編集(-1801)          
1801 知識学を私的に講義する。生前は未公刊(→『知識学の叙述』)     同一ドウイツ哲学テツガク 1ガツ イェナに移住イジュウ イェナ時代ジダイ 1801  
  シェリングとの見解ケンカイ相違ソウイハゲしくなる。       8ガツ イェナ大学ダイガクワタシ講師コウシとなる。      
          10ガツ 『フィヒテとシェリングの哲学テツガク体系タイケイ差異サイ』を公刊コウカン      
1802 1月25日付 フィヒテへの手紙テガミ(2ニン文通ブンツウ最後サイゴ       1802  
      ヘーゲルとともに、「哲学テt批判雑誌(Kritische Journal der Philosophie)」を編集ヘンシュウ(-1803)。          
      ランツフート大学より、医学博士を受ける。          
      シン思弁的物理学雑誌」を編集(本年ホンネンのみ)          
1803     ヴュルツブルク大学教授にマネかれる。       1803  
      カロリーネとシュレーゲルは離婚リコンする。        
      6ガツ カロリーネと結婚ケッコンする。          
1804 知識学チシキガクアタラしく構想コウソウしなおし、講義コウギをするが、生前セイゼン出版シュッパンせず。           1804 カント死去シキョする。
                ナポレオンが皇帝コウテイ即位ソクイする。
1805 エルランゲン大学ダイガク教授キョウジュとなる。           1805 アウステルリッツのサンミカド会戦カイセンで、ナポレオンが、ロシア・オーストリアグンヤブる。
  フユ ベルリンでごす。          
1806 サイワいなるセイへのミチビき』を公刊コウカン   5ガツ ミュンヘンに移住イジュウ   馬上バジョウのナポレオンをる。   1806 10ガツ イェナがフランスグンによって占領センリョウされる。
  ベルリンからケーニヒスベルクに避難ヒナンする。   学士院ガクシイン会員カイインとなる。          
1807 ケーニヒスベルク大学ダイガク教授キョウジュとなる。       2ガツ 庶子ショシ誕生タンジョウ   1807 6ガツ ケーニヒスブルクが仏軍フツグン占領センリョウされる。
          3月 イェナ大学封鎖。      
  8ガツ 仏軍フツグン占領下センリョウカのベルリンにカエる。       バンベルク新聞シンブン編集者ヘンシュウシャとなり、バンベルクにく。      
  翌年3月まで、「ドイツ国民に告ぐ」を講演。       4月 『精神の現象学』を出版。この書をシェリングに贈る。      
      11ガツ2 シェリングは、『精神の現象学セイ』を贈呈ゾウテイされたことへの返信ヘンシンす。これで、2ニン交友コウユウはいったんわる。      
1808 リウマチで、半身ハンシン不自由フジユウとなる。温泉オンセン治療チリョウく。   ミュンヘン造形ゾウケイ美術院ビジュツイン理事長リジチョウとなる。   11ガツ ニュルンベルク・ギムナジウムの校長コウチョウとなる。 ニュルンベルク時代ジダイ 1808  
1809     9ガツ ツマ・カロリーネが死去シキョする。          
1810 ベルリン大学が開学。教授・哲学部長となる。   ** Karoline Schelling (1763.9.2-1809.9.7)          
1811 ベルリン大学ダイガク初代ショダイ総長ソウチョウとなる。       マリー・フォン・トゥーヘルと結婚ケッコン   1811 イギリスでラッダイト一揆イッキ
1812 4月 ベルリン大学の総長を辞職。   パウリーネ・ゴッターと再婚サイコンする。   翌年ヨクネン 『論理学ロンリガク ダイ1カン』を出版シュッパン   1812 10ガツ ナポレオングンがモスクワより撤退テッタイする。
1813 フィヒテ夫人フジン、ボランティア看護士カンゴシとして、病院ビョウインハタラく。              
1814 1ガツはじめ、婦人フジン兵士ヘイシからのチフスに感染カンセンし、フィヒテは看病カンビョウする。           1814 ナポレオン、エルバトウナガされる。
  1ガツ27ニチ、フィヒテはチフスに感染カンセンし、死去シキョ              
1815     10ガツ 「サモトラケの神々カミガミについて」を講演コウエン       1815 ナポレオン、ワーテルローで敗戦ハイセン
1816       『論理学 第2巻』を出版シュッパン   1816  
        10ガツ ハイデルベルクダイガクセイ教授キョウジュ就任シュウニン ハイデルベルク時代ジダイ    
1817         『エンチクロペディー』を出版シュッパン   1817  
1818       ベルリン大学ダイガク教授キョウジュとなる。 ベルリン時代ジダイ 1818  
                 
1820   エアランゲン大学ダイガク教授キョウジュとなる。       1820 イタリアでカルボナリ(炭焼スミヤトウ)の反乱ハンラン
1821         ホウ哲学テツガク』を出版シュッパン   1821  
               
1824         フォイエルバッハが聴講チョウコウする。   1824  
1825             1825 ロシアでデカブリストのラン
               
1827     ミュンヘン大学ダイガク教授キョウジュとなる。 後期哲学     1827 ミュンヘン大学ダイガク創設ソウセツされる。
                 
1828                
1829   避暑地カールスバートで、シェリングとヘーゲルは出会う。   1829  
          ベルリン大学総長に就任。      
            1830 7ガツ革命カクメイ勃発ボッパツ
1831         英国エイコク選挙センキョホウ改正案カイセイアンについて」を寄稿キコウしたが、ブンミツル途中トチュウで、プロシアオウ掲載ケイサイ禁止キンシされる。   1831  
          11ガツ14 コレラに感染カンセンし、死亡シボウする。生前セイゼンからの希望キボウで、フィヒテのハカのそばに埋葬マイソウされた。      
               
1833     積極セッキョク哲学テツガク体系タイケイ講義コウギする。 積極セッキョク哲学テツガク        
1834   クーザンの著書チョショ独訳ドクヤクの「序文ジョブン」で、ヘーゲルにはじめてオオヤケ言及ゲンキュウする。          
1835     バイエルンのルートヴィッヒオウより、太子タイシマクシミリアンの教育キョウイクタクされる。          
                 
1840   ベルリン大学ダイガク赴任フニン          
1841     11ガツ 「啓示ケイジ哲学テツガク」の講義コウギハジめる。キルケゴール、ブルクハルト、エンゲルス、バクーニンなどが聴講チョウコウする。          
1842   神話シンワ哲学テツガク」の講義コウギ          
1843     シェリングの41〜42ネン講義コウギ筆記ヒッキを、パウルスが無断ムダン出版シュッパンする。シェリングは告訴コクソする。          
               
1846     シェリングは敗訴ハイソする。          
               
1853     貴族キゾクレッせられる。          
1854     8ガツ20 スイスの湯治場トウジバラガツで、死去シキョする。          
                 
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 また、この年表の作成にあたっては、以下の文献を参照しました。深謝いたす次第です。
・『世界の名著 フィヒテ シェリング』(岩崎武雄編集、中央公論社刊)記載の「年譜」
・『世界の名著 ヘーゲル』(岩崎武雄編集、中央公論社刊)記載の「年譜」
・『現代思想 12月臨時増刊号 総特集=ヘーゲル』所載の「ヘーゲル詳細年譜」(茅野良男)
* ヘーゲルの詳細ショウサイ年表ネンピョウとしては、『ヘーゲル事典ジテン』(弘文ヒロフミドウ平成ヘイセイ4ネン)があります。
** シェリングのツマ・カロリーネについては、Karoline と表記ヒョウキしましたが、文献ブンケンによっては Caroline となっています。