―― 自己紹介です―― v. 5.0.

 こんにちは、管理人 takin こと、滝紀夫です。
 (ご連絡は:takin#be.to #記号を、@に変えて下さい

・学恩ある先生方 (v. 2.0.)
・好きな芸術家と作品 (v. 2.0.)
・影響を受けた学者・評論家の方々 (v. 2.0.)
・私の第二芸術の創作 (v. 2.6.)
 ・E-mail アドレス (v. 1.0.)


学恩のある先生方

 私が自分の土台のようなものを形成できたのは、仏文学者・桑原武夫氏の著作のおかげです。高校2年のときから、夢中で読み始めました。古典であれ現代文であれ、ふつう文章に接すると、著者の「声」が聞こえてくるものです。桑原氏の場合には、氏の声の出し方、あるいは声帯の振るわせ方が、自分と同じだとの感がしたのです。
 日本の近代化のために氏が戦後まもなく書いたものに、その二十年後、後進・地方県に住んでいた私は、全幅の共感を覚えました。血液A型の氏の緻密な思考が、粗雑O型の私にはありがたかったこともあります。(氏のように、ほとんど360度すきのない論客というのは、めずらしいです)。図書館と立ち読みで読める単行本や、当時出始めた朝日新聞社版の全集を、繰り返し熟読することになりました。
 やがて大学1年の夏、P. ヴァレリーの『ボードレールの位置』という講演に出会いましたが(岩波文庫『悪の華』の巻末付録)、その秀逸さがすぐに分かりました。これが「フランスの知性」か、と感心すると同時に、このように理解しえる力をつけてくれた桑原氏には、本当に感謝したものです。
 それから三十年――氏の御仏壇の前で一礼し、手を合わせることがかない、翌日には墓参をしました。晩春の午後、ぬか雨の降るなかを少し息を切らせながら、草木につつまれた黒谷を上ります。墓前に至って、記念にと思いライカを取り出し、不器用な私が傘をさしたままレンズ交換を――案の定、90mmズミクロンが手からすべり落ちました。ズミクロンは、すぐお隣の氏の父君のお墓の角に当たって、草むらの上に・・・ここからの私の行動については、2説が流布されているようです:
1. レンズが転がるのにはかまわず、父君のお墓に損傷はなかったかと、墓石を凝視した。
2. 墓石には目もくれず、レンズの方へすっ飛んで行った――
 いずれにしろ、ズミクロンは繰り出しの回転ができなくなり、ン万円で修理するはめとなりました。しかし、不忠の私ではありますが、お墓に傷が付かなかったことを、何よりのことと今は思っています。
 私にとって桑原氏は、滑り台、ブランコ、ジャングルジム等々を備えた小学校の校庭のようなものでした(もちろん、低レベルということではなく)。そこで運動能力を総合的に、安全に発達させることができたのです。そして大人になってからも、青空や夕焼けのもとでの校庭がなつかしいように、謦咳に接することはありませんでしたが、氏はつねに敬愛の念とともに思い出されます。

 学恩の大きい3人の先生のうち、実存主義の哲学者である竹内芳郎氏の著作に接したのは、大学1年の初夏の頃だったと思います。少し読み進めるうちに、性格的な疎隔感や批判点を、見いだすようになります。けれども、氏には多くのお話の時間をさいてもらい(尊敬する人に会い、お話ができる――これは青春の最大の喜びの一つでしょう)、奥様の手料理をいただくなど大恩があります。またある意味で一番真剣に読んだのは、氏の著作です。それは私ばかりではなく、どれほど多くの人が氏の著書をくい入るように、涙のうちに読んだことでしょう。
 氏のパーソナリティは、宗教家のそれに近いのかもしれません。それも、時として自分勝手な創始者ではなく、時として偏狭な殉教的フォローアーです。しかしその徹底した文化・日本社会批判は、やはり誰かが言わねばならなかったことであり、少しでも良心があるものならば、共感を覚えずにはいられないものです。

 廣松渉氏については、今さら私などが述べても――とは言え、私もここで「私の廣松体験」を記せば:
 22歳のとき最初に氏の『マルクス主義の地平』を読んだときには、いわば氏の太刀筋が見えませんでした。その主張がとびきり素晴らしいのは分かるし、また多くの説や人が切り倒されていくのも直接に見え、また予感もできました。しかしどのようにして、そのような氏の諸説が生まれてくるのかが、見えなかったのです。このような経験は初めてでした。
 私たちが本を読むときには、ふつう書かれていること自体は(語弊がありますが)どうでもよく、問題はそれを生み出している著者の頭のしくみですから、読書中はそれを探っていくことになります。そして、この種の頭がそう書いているのだから、こういう意味だろうと、逆に本の内容を理解していきます。
 しかし廣松氏の上記『地平』や、続けて『世界の共同主観的存在構造』を読んだときには、そのように探ることができませんでした。まさに、批評家でもあったシューマンが読者にショパンを紹介した言葉――諸君、帽子を取りたまえ。天才だ!――が、思いだされた次第です。
 ただし、氏はいわゆる大秀才型の天才で、空海などもそうだったのではないかと思います。天才型の天才は、後進国日本からは出ないといいますか、大成できないような気がします。

 将棋にたとえれば、桑原氏は「歩」の使い方が大変うまかったといえます。むろん、局面が全体的に見えていなければ、「こんな所に、歩を!」といった使い方はできないわけです。そして氏によって、西欧近代の偉大さに触れたことが、私の姿勢を決めました。
 竹内氏からは、「金・銀」の誠実な動かし方を習ったように思います(身に付いたかどうかはともかく)。やはり、「王」はきちんと守らないといけません。また、実存主義、構造主義を初めとした、現代哲学の手ほどきを受けました。
 「飛車」や「角」を縦横に動かしたのは廣松氏で、まったく新しい局面が展開しました。麒麟児が最先端を疾駆する趣です。氏の業績がなければ、私もいまだに「主-客」図式などの近代的世界観に、拘泥(こうでい)していた事でしょう。

 さて、私などはさしずめポスト廣松の1人、あるいは廣松右派ということになるのでしょうか? どちらかといえば、おっかけ桑原学派のほうが、似合っているように思うのですが(あるいは、桑原学派裏参道とでも)。えっ、それにしては氏とは違う分野を勉強しているですって? いえ、好児爺銭(やせん)を使わずって、言うじゃありませんか。


好きな芸術家・作品

・法隆寺の百済観音と、金堂壁画第 6 壁)・・・先日(2013年4月)奈良に小旅行したときの、感想です:
 日本人の心の古里などと称されることもありますが、奈良の良さは、古代中国ないし朝鮮文化の直輸入にあると思います(古里は、むしろ出雲大社の方でしょう)。そして――いささか危険な考えですが――これらオリジナルの文化は、日本に大きな影響を与えたとはいえ、その核心はわが国では継承・発展できなかったのではないでしょうか。
 国宝といったところで、作品にはなっているといった程度のものが多い中で、小品ながらすばらしいと思ったものについてその制作年代を確認すると、「唐時代」などと書かれていることがしばしばありました。そうした諸作品には、立体的な構成力があり(日本文化に欠けている最たるものが、比喩的な意味も含めてこれでしょう)、ふだん見慣れているものとは異質な感じがします。
 法隆寺の百済観音と金堂壁画(第 6 壁)の 2 つについては、最高傑作であるとの評価が定まっています。まさにそのとおりで、じつにハイセンスなものでした(後者については、大宝蔵院だったか、そこでの写真を拝観)。私の場合、ザッキンなどの現代彫刻を少しは知っており、またパリ・ヴォーグもときどき覗いていたおかげで、これらに接しても違和感はありませんでした。ただ、これらの美に類似したものを、日本の他の場所に見いだせないのは残念です。
 だいぶ以前になりますが、ルーブル美術館でサモトラケのニケ像を見た後で、化粧品店のマダムの胸に同種の曲線美の表現を感じ、伝統なるものに想到したのでしたが(例が若干よくないですが、私相応ということで――)、そのような伝統を中国・朝鮮からの輸入美は持ちえなかったようです。遣唐使を廃止した平安時代の国風文化ともなりますと、仏像・仏画はいよいよ魅力ないものになっていきます。しかし、鎌倉彫刻はどうなのか? という次第で、興福寺の北円堂・南円堂を参観しました。
 運慶の無著菩薩と世親菩薩の立像ならびに弥勒如来坐像は、しっとりと心にしみ入るものがあり、向かって右斜めから見た弥勒如来は、優美とさえいえる風情です。運慶に人気があるのも当然です。運慶のよさは、いわば万人に、団体のおじいさん・おばあさんにも分かるものでしょう。
 他方、百済観音については、明治以来そのレプリカをヨーロッパの美術館はたびたび求めたといわれます。そして 1997年には、ルーブル美術館で展示されています。百済観音(そして金堂壁画もそうでしょう)のよさは、エジプト、アッシリアからピカソまでの美を解する人たちが、好むところのものだと言えそうです。
 結局、輸入されたオリジナルの芸術・思想は、我が国においては継承発展できないのではないでしょうか。そのかわり、また新しいものを輸入しますし、また、それらの周辺の低く見られていたジャンル(かな文学、マンガ等々)が、刺激を受けて発達するというのが実情のようです。
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★ オンラインでは、Yamashina 氏のサイトに、金堂壁画を観賞できるものがあります。


浦上玉堂・・・一言で規定すれば、江戸ロマン派の巨魁。彼を抜きにして、江戸文化論や精神空間論は、成立しないのではないでしょうか。厳密には好きな画家とは違うような気もするのですが、彼の絵はときとして卑猥である、との非難に抗弁すれば――

 彼は2人の子を抱えて「忠義」に背き脱藩したくらいですから、世の中の仕組みに相応しながら人を縛りつける儒学には、嫌悪感を持っていたことでしょう。もとより無頼の徒ではないのですから、精神的支柱を求めることになりますが、それは易でした。鬱勃たるエネルギー(ポテンツ)を秘めた陰・陽二つの原理が変転するところに、世界の真理を見いだし、そこに彼は安心立命の場を得ようとしたと思われます。正統な道徳規範を破却して、いわば世の中を斜めに突っ切って生きようとするのですから、やはりパワーのある原理をもっていないと、やって行けるものではありません。
 そして陰陽のパワー原理がよく分かる形で顕在化するのは、男女の組み合わせですから、それを象徴的に画面に取り入れたというのが、私見です。

 (えっ、雪舟ですか? 語りたくないなぁ(笑)・・彼の作品は技法が濃密で、きっちり描き上げ、日本の風景ではないような趣となるのはいいのですが、構図がカタイといいますか、奔放ではなくてもいいにしても、なにか躍動しません。要するに、あまり面白くない・・・こんなことを言うと、いかに水墨画が分かっていないかを、告白するようなものかもしれませんが。)


ベラスケス・・・頭をおもいっきりブン殴られたような気がしました。これが絵というものですか!?  でも、ちょっと素朴な田舎のアンチャンのようなところもあっていいです。


マネ・・・色彩、構図、センス、生気と、どれをとってもイイですね! 一番好きな画家です。


ブラック・・・ゆで卵の白身の奥から、黄身が覗くような・・


「エリーゼのために」・・・小品ながら、ベートーベンの天才および人間性がよく分かります。彼の晩年の作品群は、私はあまり感心しません。


ショパン・・・シューマンが彼の音楽を評して、「不協和音に始まり、不協和音を通って、不協和音に終る」と述べたのは、最高の褒め言葉でしょう。 とにかく音楽空間すべてを使っています。
 「ノクターン第 1 番」をはじめて聴いたとき、ふと自分のアイデンティティが分かったような気がしました。


シューベルト・・・ロマン派というのは、青年を熱狂させるというより、老人を泣かせるものだと思わせる人。ベートーヴェンの音がいかなる時でも安定しているのに対し、その間から不安が、歌が流れ出すといった趣があります。そして表現される感情・情感が、またたいへん自然なために、忘れがたい感動をもたらすことになります。シューマンが彼のスコアの1つをを見て、ある田舎町の情景を思い出したと書いていましたが、むろんシューベルトはその町を思って作曲したのではないでしょうが、彼の曲は、聴き手それぞれが宿す情感に、率直に働きかけるのです。
 しかし、シューベルトを不滅にさせているのは、このようなよく知られている叙情性にあるというよりも、形而上学的空間の広さ、世界の大きさにあるのではないでしょうか。
(1) 彼は若いときから、感情に流されることなく、極限状況を問題にしており、そのことによって意識の拡大が図られていました。 公にした最初の曲が『魔王』であり(親・世の中の無理解のうちに、子供は死ぬのですね)、17才で『糸を紡ぐグレートヒェン』(中世キリスト教世界での、出来事ですから)を作曲しています。(ちなみにこの曲は、女性歌手にとっての条痕板とでも言うべきもので、歌い手の魂のありようが――その人が世界のどこに位置しているか――、表れずにはいません。男性歌手にとっての同様な曲は、『菩提樹』でしょうか?)
(2) もとよりシューベルトは、ベートーヴェンの後を受けて、また彼自身の業病のために、激情の人でした。と、同時に、幼いときからの聖歌隊での経験、長じては友人とワインによって、平安・幸福感に親しんでもいたと思われます。この両者をつなぐのが諦観・悲哀であり、台風の目の中のような静けさでしょう。
 したがって演奏家には、激情、静けさ、幸福感の表現が求められ、これは大変です。が、一方では老大家たちをして、その真実さに、人間・世界双方の真実さに、涙ぐまさせるのでしょう。


ラスキーヌ・・・知・情・意を備えたハープの貴婦人。彼女の演奏するボワエルデュ『ハープ協奏曲』を聴いたとき、「玉階の恨み」なんて言葉を思い出しました。曲自体は、「ドナウ川のさざなみ」(大好きです)などと同じく俗曲なのですが、ハープの演奏に――いわゆる「魅入られた」ってことですね。
 ところでこの貴婦人が、裸足で駆けているような演奏があります。同曲の演奏では最高といわれる、モノラルの「フルートとハープのための協奏曲」です。無理もありません、フルートがこれまた田園の貴公子といった風情のモイーズなんですから。


ホロビッツ・・・「ヴィルトゥオーソ」という言葉の意味が、よく分かる人です。そもそもテクニック以前に、意識の単位がふつうの人より一桁細かいのです(例えば、1965年のショパンのバラード第 1 番の演奏)。まったく違う表情・音形の高音部と低音部を、同時に進行させる意識の分立性にも、驚嘆させるものがあります(1972年の「革命エチュード」)。
 「ヒストリック・リターン」(1965年カーネギーホール・コンサート)のアルバムで言えば、前記バラードとトロイメライ、そしてスクリャービンの「ピアノソナタ第9番」が、彼の3角形をなしていると思います。そして彼のホームグラウンドは、ショパンやシューマンではなく、スクリャービンだったのではないでしょうか。


米芾(べいふつ)・・・「書」って、人間の心の内奥に直接進入してくるものだと、教えてくれた人。「芸術のための芸術」って、正しいんじゃないかなと、それ以来思ってます。


ソルジェニーツイン・・・涙で洗われたあとの、世界の美しさ。小説の読み方を教わりました。


「寅さん」の渥美清・・・日本の役者さんは素朴な写実主義の人が多く、理想は役になりきることだったりします。しかし、寅さんは渥美さんの創造物です。ミツバチが多くの花から蜜を集めてきて、調整・加工しローヤルゼリーを作る――渥美さんの演技は、そのようなものに思えます。


・ 25才の頃、最高だと思った 3 冊の本:
ツアラストラはこう語った』:読み進めると、よく各章の終わりの1~2行の意味が、突然消えてしまうのでした。私の知性の限界を、越えてしまっていた書物。
 (しかしながら――ニーチェは、芸術を人生の観点から見ると言いましたが、彼は人生を芸術的に見たような気がします。芸術における効果と、人生における意義とは、交わるときがあるにしてもやはり異なるのではないでしょうか。
 また、彼は子供のころ「小さい牧師さん」とのあだ名がついたそうですが、私は学級委員――それなりに政治的――で、いわば人間のタチ(質)が違ったのでした。という次第で、やがて関心は論語に、そして運命的に(笑)華厳宗に移ったのでした。)

アンナ・カレーニナ』:トルストイの最高傑作。(よく知られているのは、『戦争と平和』や『復活』ですが)。平凡な描写と思われる個所に、いわゆる「意識の光を当てる」と、恐ろしい、底なしに恐ろしい世界へと――。無人島に持って行く一冊にすれば、人の世を離れている喜びと悲しみを、同時に味わえるかも・・
(保養地で脚のわるい女性の慈善家が、灯火の影でふとうかべる奇妙な笑い――私の頭にこびりついてしまいました!)

論語』:もしかしてこれ最高かも、と当時予感したのですから、私も思想的センスがなかったわけではないのでしょう。


影響を受けた学者・評論家の方々(遅まきながら、この欄を新設しました)

・アイザック・ドイッチャー(Isaac Deutscher)・・・彼の描いたロシア革命群像は、まさに 20 世紀の「史記」だと言えます。『スターリン伝(Stalin)』での、赤軍の進撃がワルシャワ蜂起を前にして、とつじょストップする場面などはただ涙でした・・
 彼はユダヤ教の神童であり、学生時代にはトーマス・マンをして、『魔の山』の登場人物については、私以上によく知っていると、言わしめたようです。が、やがてスターリンとヒトラーの「漆黒の夜」を、ユダヤ人として、トロツキストとして(ソ連外での最初の反スタ運動)生きることになります。中国の文化大革命を否定的に捉えていたことも、印象的です。


私の第二芸術の創作

 いぇ、ショセンは――というものではありますが…

  (ブラウザーによっては、レイアウトが崩れたり、漢字の一部が欠落することがあります。マイクロソフトのIE9をもとに、制作しました。)


  酔いざめに 照らす心の古鏡  

明けゆく空は 初雪ぞふる


 
(20代中ごろだったか、上の句は10分くらいで簡単にできました。しかし、下の句に苦しみました。といっても、時たま考えるだけでしたが、ようやく30才近くになって得ることができました。最初は「初雪のふる」としたのでしたが、やがて「初雪ぞふる」に変更。しかし、前者にも捨てがたいものがあります。


  笹舟に  揺られかがよう木もれ日を  

透かし聞こゆる待ちびとの声

 (「揺られかがよう」の語句を、笹船ではなく、木もれ日の方に付けたところが工夫です。)


  刻まれし文字はかそけく 墓の石   

   なおの愁いも 木の葉にそよぐ


 (志士の墓前で。「はかのいし」という即物的な意味・散文的な響きで、ユーモアを表現したつもりなのですが・・・なお、「愁い」はまず志士のものです。)



  声はるか 拍子木寒く 燗(かん)の酔い


  冬の日は 水に溶けゆくわが心

ほのかに映る椀底の影



  要介護 母に添い寝のせつせつと

 稲穂は昔 ただネオン見ゆ

 (斉藤茂吉『赤光』からのパロディーです。さすがに、本歌取りなどと称する勇気はありません。庶民的な母でしたから、やはり歌も小さい世界が似つかわしいようです)



  夜は深く 庭に孤影をもたらせば   

      嗚咽に潤む凍天の星


 (1 語で 2 役の言葉を使った句です。「嗚咽に潤む」と「凍天の星潤む」。)


  雲のゆく  五月の空にとんびかな  

 故きょうの風は なおまた異郷

 (年月を経て、帰郷の後の偶感。よく見られるステレオタイプの表現と言われれば、それまでですが。)
    

  増し水に 鷺も降りかね御坊川(ごぼうがわ)

とどろ流れに白影は添う

 (故郷の川辺で歌うのは、詩人のお約束事ですね。変哲もない川ですが、僧侶の敬称を名に持っているのが、面白いところです。なお、「白影」は上の句の「鷺」を指します。)


  玉藻よし讃岐の花のしののめに

惑い暮れゆく残り道かな


(辞世の句にかえて。いささか早すぎるようですが、いつ交通事故にあうとも限りません。「玉藻よし」は「讃岐」の枕詞です。一度は、枕詞も使ってみたかったので。なお、自らを花に喩えるほど厚顔ではありません)。


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