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 フィヒテの著作の紹介
『全知識学の基礎』(1794年) v. 1.1.7
Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre (1794)

     拙稿の目次
はじめに
『知識学』の諸版について 
凡例

訳語一覧
  
  『知識学の概念』の目次
第1部 全知識学の諸原理
  第1章 最初の、まったく無条件な原理
     [自我は自らを措定する。]
  第2章 2番目の、内容の面で限定された原理
     [自我は非我を措定する。]
  第3章 3番目の、形式の面で限定された原理  
     [自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する。]
     :1, 2, 3, 4, 5
     :1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9
     :1, 2
     , , , , , , , ,
第2部 理論的知識の基礎
  第4章 第1の命題  
第3部 実践の学問の基礎 (以下、工事中)
  第5章 第2の命題
  第6章 第3の命題
  第7章 第4の命題
  第8章 第5の命題
  第9章 第6の命題
  第10章 第7の命題
  第11章 第8の命題


〔はじめに〕
 例えばヘーゲルの文章は、その場その場で意味が通じればそれでよしとする書き方です。手近にある言葉を、後先のことは気にせず使います(そのようにしか書きえなかったのでしょう)。シェリングの前には、つねに聴衆がいました。彼らを包む広い空間に向かって、シェリングはよく通る声を響かせたのです。
 そして、フィヒテの前には――ありがたいことに、彼は1人の理想的読者に向かって、書いてくれていたのです。つまり、フィヒテ自身に・・・
 フィヒテの主著『全知識学の基礎』を紹介するのは、容易なことではなさそうです。なんでも西洋哲学における三大難書の一つとか。  
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〔『知識学』の諸版について

 「知識学 Wissenschaftslehre」に関しては、フィヒテは何度も書き直していますが、その中でもっとも有名で、また大きい影響力を与えたものは、最初のものでふつう「1794年の知識学」と呼ばれている『全知識学の基礎』です。
 この書は、フィヒテが着任したばかりのイェーナ大学で行った講義(1794年5月から翌1795年まで)草稿で、学生に配られました。テキストとしては、A版、B版、C版、SW版と伝統的にそれぞれ呼ばれている4つの原版があります。

A版:1794年の9月(ミカエル祭)にガブラー社 C. E. Gabler から、第1部と第2部が出版され、1795年7月末か8月初めに、第3部が出版されました。
B版:A版の内容を変更しないで、1802年1月に『知識学の特質の概要』と合本で、コッタ社J. G. Cotta’schen Buchhandlung から出版されました。多くのミスがあると言われています。
C版:1802年にガブラー社 C. E. Gabler から、改定と増補をして出版されました。
SW版:フィヒテの息子であるイマヌエル・ヘルマン・フィヒテ Immanuel Hermann Fichte が、父フィヒテの全集を編集するとき、『全知識学の基礎』の父の「手稿」を原本としました。上記の諸版とは少し変更があり、書法は全面的に変えられたようです。

 なお、現在の基準となっているアカデミー版は、A版を基礎にし、適宜、B, C, SW版を採録しています。
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〔凡例〕
● 拙稿の「訳」は、全訳に近い抄訳です。
 全訳に近くなりましたのは、既刊の翻訳書は分かりにくいからです。しかし、抄訳にしたのは、忠実に全訳を試みますと、かえって思想展開に不必要なものにまで煩わされるためです。これが現代日本の哲学書であれば、全文を読んだ方がむろん分かりやすいものとなります。さまざまなニュアンスや著者の世界観、知性・感性の働かせ方、状況の捉え方など、著者や作品を判断する上で、多くの情報を得ることができますから。
 しかし、現代の主婦には「調理済み」の魚でないと手に負えないように、古典、とくに外国のものなどは適当に調理しておく必要があると思いました。
● [ ]は、論旨を分かりやすくするために、訳者が挿入したものです。
● 原文の段落は長いものが多く、訳出した文章を原文どおりの段落表示にした場合には、とくにホームページ上では、読みづらいものとなります。そこで訳文の段落は、適宜、細かく細分化しました。

● 読むテキストとしては、フェリックス・マイナー社 Felix Meiner Verlag の「哲学文庫」版 Philosophische Bibliothek が便利です。
・信頼できる、最新のアカデミー版のフィヒテ全集に基づいています。入手しやすく、もっともポピュラーな版でもあります。索引も詳細です。

・本文には、ページ数が4つ記されています。
 左(右)ページの左(右)上端の数字(例:122)は、この「哲学文庫」版そのもののページ数です。
 左(右)ページの左(右)外側の余白の数字(上記122ページの例:I, 203)は、息子のフィヒテが編集した SW 版全集のページ数です。(例:第 I 巻, 203 ページ)
 左(右)ページの右(左)上端の2つの数字のうち、左側の数字(上記122ページの例:161)は、1794年のA版のページ数です。
 左(右)ページの右(左)上端の2つの数字のうち、右側のイタリック体の数字(上記122ページの例:165)は、1802年のC版のページ数です。

・購入先:amazon.co.jp 「洋書」でフィヒテを検索するのが便利です。 
● 『全知識学の基礎』の翻訳には、隈元忠敬訳(フィヒテ全集第4巻所収、晢書房、1997年刊行)、木村素衞訳(岩波文庫、上巻 青627-2、下巻 青青627-3)があります。
 戦前の訳ではありますが、分かりやすさと値段からいって、岩波文庫の木村訳をお勧めします。
・購入先:amazon.co.jp が便利です。
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訳語一覧〕(重要と思われる用語の、本サイトでの訳です)
Affektion 触発
Akt 活動
Akzidens 遇有性
Akzidenz 遇有的なもの
Antithesis 反対命題、反対措定
Arten zu sein 存在の種類
aufstellen 提示する
begrenzen 境界づける
beschränken 制限する
bestimmte ある特定の
Beziehungsgrund 関係の根拠
Charakter 特性
Effekt 結果
Eingreifen 貫入
einschränken 限定する
Einschränkung 限定
einschließen 局限する
einwirken 働きかける
Entäußern 外化
entgegensetzen 対立措定
festsetzen 定まる
fortlaufen 連続する
Ganze, das 全体
Gegensatz 対立
gegenseitiges Verhältnis 相互関係
gleich 同等
Glied 項(関連しあっているものの中の一つのものを、意味する)
Grad 程度
Grenze 境界
Grundsatz 原理
Grundsynthesis 基本的総合
Handeln  働き
Handlung 行為
Handlungsweise 行為仕方
Hiatus 間隙(かんげき)
idealer Grund 観念的根拠
Leiden 受動
leidend  受動的
Maß 基準
Maßstab  尺度
Merkmal  特徴
nachgewiesen 確認された
ohngeachtet にもかかわらず
postulieren 要請する
Qualität 質
Quantität 量
Quantum  定量
Real-Grund 実在的根拠
reproduzieren sich selbst 自らを再生産する
Relationsgrund 関係根拠
Schema 図式
schlechthin 端的に(直接的に; 他のものを介さずに; 理由なくして・・との意味)
Schranken 制限
Sphäre 領域
Synthesis 総合命題、総合
tätig 活動的
Tätigkeit 活動
Teilbarkeit 可分性
Thesis 定立
Totalität 総体
Tun 行い
Übergehen 移行
Übertragen 移動
Umfang  範囲
Umkreis  周
Unterscheidungsgrund 区別根拠
Verfahren 仕方
Verminderung 減少
Verringerung 減少
verwechseln 交代させる
Wechselbegriff 相互概念
Wechselbestimmung 相互規定
Wechselsätze 交代命題
Wirksamkeit 作用性
wirken 作用する
Wirkung  因果作用
zukommen 帰属する
zurückgehen in sich selbst 自らのうちへ帰還する
Zusammenhang 関連
zuschreiben 帰属する


第1部 全知識学の諸原理
  第1章 最初の、まったく無条件な原理

コメント:
 読者にとって、この著書が分かりにくいものになっている原因の1つに、著者フィヒテの論理学へのこだわりがあります。フィヒテが自分の哲学を叙述するさいに、論理学の諸規則との対応を強く意識したのは、直前に読んだシュルツェの『アイネシデモス』の影響だと思われます。同書の第3便には、「真実とみなされるすべての知識の試金石は、普遍的な論理学である。事実をめぐるいかなる議論も、そのような普遍的論理学の諸法則と一致する限りで、正当性を主張できる」とあります。
 したがって、論理学の命題「A = A」を使ってのフィヒテの論理展開を、文字通りに論理学的にとれば(とくに、現代論理学的にみれば)、強引というか、無理筋、無茶苦茶、よく分からないという印象になってしまいます。

 デカルトのコギト(我思うの自我)を全世界にまで膨張・拡大した尊大な唯心論(観念論)が、フィヒテ(そしてドイツ観念論)の「自我」だとふつう考えられています。しかし、繰り返しますが、フィヒテの「自我」の根本は、経験に先立つ自我の純粋自己措定・自己意識(本文で出てくるXという構造)なのです。すなわち、私たちの表現でいえば、世界がメタ化運動をするという構造です。そのことを念頭におきながら、読み進めていただければと思います。

 なおXというのは、カントでいえば純粋統覚(すべての具体的経験に先だって、それらの経験を可能にし、構成する根本原理。意識の超越論的統一。)に当たります。
 「反省Reflexion」という用語は、ここでは「問題の考察」という一般的な意味にとっておいて、大過ないと思います。
 「自我das Ich」という語と、「私ich」という語は、同じ意味でこの書では用いられています。

 7と番号をふられた節では、自己措定する自我は、絶対的主体(主観)であると宣言されます。ちなみに、後年のヘーゲルの有名な「実体は主体である」の「主体」は、このフィヒテの意味での主体です。

 この章の最後でフィヒテは、カント、デカルト、ラインホルト、スピノザに対してコメントしています。彼らの哲学への批判というより、フィヒテ自身の考え方を説明するものとして、読めばいいかと思い、訳出しました。

訳(全訳ではありません):
 最初の、絶対的で無条件な原理というものは、そのようなものであるだけに、証明されたり、規定されることはない。この原理が言い表しているのは、事行Tathandlung [事行の説明は、この章の番号6の節の最後にある] であるが、この事行は、私たちの意識がもつ経験的な諸規定のもとで現われることはなく、むしろすべての意識の根底にあって、それのみが意識を可能にしているのである。
 一般的論理学の諸法則にのっとって、事行は知識の基礎であると考えていかねばならないが、そのような論理学の諸法則は、いまだ妥当するものだとは証明されていない。ただ、暗黙のうちに前提されているだけである。それら諸法則は、上記の原理より導出されるべきであるが、その原理が立てられるのは、逆に諸法則が正しいときのみである。ここには循環があるが、この循環は避けられないのである(『知識学の概念』第7節を見よ)。したがって、循環が避けられず、また広く認容されているのであってみれば、上記の原理の確立にさいしては、論理学のすべての法則に依拠できるのである。

 反省 [問題の考察] をするにあたっては、ある一つの命題より出発するほかはないが、その命題は万人が承認するものでなくてはならない。そのような命題は、いくつかあろうが、私たちは、目標へ最短となるようなものを、選ぼう。
 そのような命題が承認されるやいなや、同時に私たちが知識学の基礎として置こうとしている事行が承認されていなくてはならない。しかもそうしたことは、不必要なものを捨象しながらの問題の考察 [反省] から、おのずと生じるのでなければならない。
 すなわち、例えば、ある経験的な意識事実が提示される。そして、その意識事実からは次々に経験的規定性が捨象される。ついには、もはや何ものも捨象されない純粋なもの [事行でもあれば論理的命題でもある] が残る [といったような事態である。]

1. 「AはAである」(A = A)という命題は、すべての人が承認し、まったく確実であると認めている。この命題を証明することは不要で、この命題は理由なくして端的に確実だと主張されている。

2. 上記の「AはAである」は、Aの存在を表す命題「Aはある」「あるAなるものがある」とは、違っている。[このことは、Aが存在するはずがないものである場合を、たとえば、] 2つの直線で囲まれた空間である場合を、考えてみればよく分かる。この場合、「AはAである」は正しいが、「Aは存在する」は誤りとなる。
 「AはAである」では、「Aが存在するならば、すなわちAは存在する」ということが、措定されているのである。したがって、Aが存在するかどうかということは、問題とはなっていない。命題の内容ではなく、たんにその形式が問題なのである。
 それゆえ、「AはAである」という命題が、端的に確実であるということは、上記の「ならば」と「すなわち」のあいだに必然的な関連があるということである。この必然的関連が、端的に措定されているのである。この必然的関連を、さしあたり「X」と名づけておこう。

3. Aが存在するかどうかについては、Xによってはまだ何ものも措定されていない。そこで、いったいAはいかなる条件下にあるのか、という問いが生じる。
a) Xは少なくとも自我の中にあり、自我によって措定されている。というのは、「AはAである」という命題において、判断しているのは自我であるし、それも法則としてのXにしたがって判断しているのであるから。したがって、Xは端的に、いかなる理由付けもなく提示されているのだから、Xは自我自身によって、自我に与えられていなくてはならない。

b) Aが措定されているのかどうか、あるいはどのように措定されているのかということは、分かっていない。しかし、[「Aが存在するならば」という] Aのまだ未知の措定と、この未知の措定の条件下での同じAの絶対的措定 [「すなわちAは存在する」] の連関をXが表すのであるから、この連関が措定されている限りは、Aは自我の中に、そして自我によって、X同様に措定されている。
 [というのも、そもそも] Xは、Aとの関係においてのみ存在することが可能だからである。だから、Xが自我の中にじっさいに措定されていれば、Aもまた自我の中に措定されているはずなのである。

c) Xは、「AはAである」という命題で、主語の位置を占めているAと、述語の位置を占めているAに関係している。というのも、両方のAは、Xによって統一されているからである。2つのAは、措定されているかぎり、自我の中に措定されているのである。
 述語のAは、主語のAが措定されているという条件で、端的に措定されている。したがって、「AはAである」という命題は次のように表現されえる:「Aが自我の中に措定されているならば、すなわちAは措定されている(すなわちAは存在する)」。

4. したがって、Aは自我によって、Xを介して措定される。Aは判断をする自我に対して端的に存在し、ただ自我一般の中に措定されていることによってのみ存在する。すなわち、措定していようが判断していようが、どのような活動を自我がしていようとも、自我の中には、つねに自己同一なある一つのものがあるといえる。そして、端的に措定されているXは、「自我は自我であるIch = Ich; Ich bin Ich.」と表現できる。

5. かくして、私たちは知らず知らずのうちに、「私は存在する」Ich binという命題に到達している。というのは、以下の理由からである。
 経験的意識の事実として、Xは端的に措定されている。Xは「自我は自我である」という命題と同じことである。したがって、「自我は自我である」もまた、端的に措定されているのである。
 しかし、「自我は自我である」という命題は、「AはAである」という命題とは、まったく別の意味をもっている。つまり、「AはAである」においては、Aが措定されるならば、Aは命題の述語として措定されることになるが、そもそもAが措定されているかどうかは分からない。
 ところが「自我は自我である」という命題は、無条件で妥当する。というのは、この命題はXに等しいからである。(くだいて言えば:[「A(主語)はA(述語)である」という命題を措定するとき、] 述語の位置でAを措定する自我は、Aが主語の位置に措定されたことで、自我の主語措定を必然的に知ることになり、したがって、自我自身を知ることとなるゆえ、自我自身を直観することになり、自らに等しい。)
 「自我は自我である」という命題は、形式的のみならず、内容的にも妥当する。この命題のうちには、自我が、自身と等しいということを表している述語とともに、端的に措定されている。だからこの命題は、「自我は存在する」とも表現できる。
 「自我は存在する」という命題は、これまで、ただ事実に基づいているだけである。「A = A」という命題(正確にいえば、この命題中に措定されているX)は確実なのだから、「自我は存在する」という命題もまた確実でなければならない。私たちがXを端的に確実だと考えざるをえないこと、したがってXが基づいている命題「自我は存在する」も確実だということは、経験的な意識に現れる事実である。
 したがって、自我のうちのすべての措定作用の前に、自我自身が措定されているということは、経験的意識に現れるすべての事実の説明根拠である。

6. 私たちの出発点にもどって、考察してみよう。
a) 「A = A」においては、判断が行われている。すべての判断は、経験的意識にしたがって言えば、人間の精神の働きである。というのも判断は、経験的な自己意識のうちに、行為の全条件を持っているからである。これら全条件は、反省 [問題の考察] を行いえるためには、明白で確定されたものとして前提されていなければならない。
b) この判断の基礎には、より高次のものなどには基づいていないX(私は存在する)がある。
c) こうして、端的に措定されたもの、自らにのみ基づいているもの [ X ] が、人間の精神のある行為の(そして知識学全編を通じて明らかになろうが――すべての行為の)基礎である。したがって、精神の行為の純粋な特徴である。個別的な経験的条件を捨象された、精神活動の純粋な特徴だともいえよう。
 
 したがって、自我の自己自身による措定は、自我の純粋活動である。自我は自らを措定し、この自己自身によるたんなる措定によって、自我は存在する。逆にいえば、自我は存在し、このたんに存在することによって、自我はみずからの存在を措定する。
 自我は同時に行為するものであり、またその行為の産物でもある。行為と [産物である] 事実は、一つのものであって、まさに同一といえる。よって、「自我は存在する」は、事行Tathandlung [事実Tatの「事」+行為Handlungの「行」] の表現である。そして、知識学全体を通じて明らかとなるように、事行こそが「自我は存在する」の唯一可能な表現である。

7. もう一度、「自我は自我である」という命題を考察してみよう。
a) 自我は端的に措定されている。
 [つまり、] 上記命題の主語(原注)の位置にある自我は、端的に措定されたものを意味するとし、述語の位置にある自我は、存在する自我を意味するとしよう。すると、「両者 [の自我] は完全に一つのものである」という端的に妥当する判断によって、「自我は存在する、というのも自我は自らを措定したから」ということが [上記命題では] 言われており、端的に措定されている。

(原注)こうした事は、すべての命題の論理形式から言えるのである。
[すなわち、] 「A = A」という命題で、最初のAは自我のうちで、自我自身のように端的に措定されているか、あるいは、各非我のように、何らかの根拠をもって措定されている。こうしたことでは、自我は絶対的な主体としてある。In diesem Geschäfte verhält sich das Ich als absolutes Subjekt; したがって、最初のAは主語Subjekt [主体、主観] と言われる。
 2番目のAによって表されるのは、自らを反省の対象へとなした自我が、自らのうちに措定されたものとして見いだす――というのは、自我ははじめにそれを自らのうちに措定したのだから――ものである。[A = Aと] 判断をしている自我が [~である、と] 賓述(ひんじゅつ)prädizierenするのは、Aについてではなく、自ら自身についてである。すなわち、自我が自らのうちにAを見いだすということを賓述しているのである。よって、2番目のAは述語(賓辞)Prädikatと呼ばれる。
 だから「A = B」という命題では、Aは措定されるものを示し、Bは措定されたものとして、見いだされるものを示す。「~である(=)」は、自我が措定から、措定されたものの反省へ移行するということを表現する。(原注の終了)

b) 最初の意味での措定された自我と、2番目の意味での存在する自我は、まったく同一のはずである。だから上記の命題を逆にすることもできる:自我は存在するがゆえに、自己を措定する。自我はただ存在することによって自己を措定するし、ただ措定されていることをもって存在する。
 
 こうしたことが、絶対的主体としての自我へ私たちを導く。ただ自己自身を存在するものとして措定することに、その存在や本質が存するようなものが、絶対的主体としての自我である。
 したがって、自我は端的にまた必然的に、自我に対して存在する。自己に対して存在しないようなものは、自我ではない。

(さらに説明すれば――
 「私が自己意識を持つ前は、私は何であったのか?」という問いを聞かれたことがあると思う。それへの当然な答えは、「私は存在しなかった」である。というのは、私は自我ではなかったからである。自我はただ自らを意識しているかぎり、存在する。
 上記の問いは、主観としての自我と、絶対的主観が反省する対象としての自我との混同から生じており、問い自体としてはまったく成立しないのである。
 [どのように混乱から生じているかと言えば] 自我は自らを表象し、自己自身を表象の形式へと取り入れる。そこではじめて何ものかに、対象になる。意識は表象の形式の中に基体をえる [つまりは、基体なるものを得たと錯覚する]。この基体は現実に意識されなくとも、存在すると、なおその上、有体的であるとまで考えられている。
 このような状態が想定されたうえで、問いが発せられることになる:私が自己意識を持つ前は、自我は何であったのか? すなわち、意識の上記の基体は何なのか?
 しかもそのとき、基体を直観するものとしての絶対的主観も、知らずしらずのうちに、一緒くたにされてしまっている。つまり、[私が自己意識を持つ前という設定によって] 捨象したと称されているものまでが、知らずしらずのうちに一緒くたにされてしまっているのである。これは自己矛盾である。自らを意識するものとしての自我と一緒でなければ、何ものも考えることはできないのである。自己意識を捨象することは決してできない。
 したがって、上記のような種類の問いには、答えられない。事情が分かってしまえば、そのような問いを持ち出すことはできないのである。)

8. 自我が存在するのは、自己措定する限りにおいてなのだから、自我はただ措定するものに対して存在し、ただ存在するものに対して措定する。これが、「自我は自我に対して存在する」ということである。
 自我は存在すると同時に、端的に自己措定するということは、自我は必然的に自己措定をするということであり、自我に対して必然的に存在するということである。私はただ私に対して存在するのであるが、それは必然的である。(「私に対して」ということによって、私の存在がすでに措定されている。)

9. 自己措定と存在は、自我に関してはまったく同一である。さらに、自己措定をする自我と、存在する自我も完全に同じものである。自我は自己措定したところのものであり、また、自我であるところのものを自己措定する。

10. こうした事行の説明を、知識学の冒頭に置くとすれば、次のように表現せねばならないだろう:自我は端的かつ根源的にその自らの存在を措定する。(1802年C版の注)

(1802年C版の注)こうしたことは、その後の私の表現法によれば、次のようにいえよう:自我は、必然的に主観と客観との同一性である。すなわち、「主観-客観」である。このようであるのは、いかなる媒介もなくして、端的にそうなのである。(注の終了)

 私たちは「A = A」という命題から出発したが、しかしこれは、そこから「私 [自我] は存在する」という命題が証明できるためではない。経験的な意識に与えられている何かあるものから、出発せざるをえなかったためである。そして検討していくなかで、「A = A」という命題が「私は存在する」という命題を基礎づけるのではなく、その逆であることが分かったのである。
 [すなわち、]「自我は存在する」という命題の中のある特定の内容、つまり自我が捨象されるならば、たんに形式が、措定されていることから存在することへの推論の形式が、残される。
 こうして、論理学の原理としての命題「A = A」が得られるが、この命題はただ知識学によって証明され、規定されえるのである。
 証明:「A = A」である、というのは、Aを措定した自我は、Aがそのうちで措定されているところの自我に等しいから。
 規定:存在するものはすべて、自我の中に措定されているかぎりで、存在する。自我の外には、何ものも存在しない。命題「A = A」中のいかなるAも(いかなる物Dingも)、自我のうちに措定されているもの以外ではありえない。

 さらに、ある特定の働きとしてのすべての判断を捨象して、上記の形式によって与えられている人間精神一般の行為の仕方に目をやるならば、実在性Realitätのカテゴリーがえられる。命題「A = A」が適用できるものは、すべて実在性をもつ。何か或る物(自我の中に措定されたもの)のたんなる措定によって、措定されているものが、その物における実在性であるし、その物の本質である。

 (マイモンの懐疑論は、結局のところ、実在性のカテゴリーを適用する資格が私たちにあるかどうかという問題に、立脚している。この資格は、他の資格から導出することはできないが、しかし、私たちには端的にこの資格を持っているのである。これ以外のすべての資格が、むしろこの資格から導出されねばならない。
 そしてマイモンの懐疑論でさえ、一般論理学の正しさを承認することによって、この資格を気づかぬうちに前提している。
 すべてのカテゴリー、そこから導出されるところのものを、示すことができる:それは、絶対的主体としての自我である。実在性のカテゴリーが適用されるべき [自我以外の] 他のすべてのものへは、自我から実在性が移されるのである。自我が存するかぎり、それらもまた存する、ということである。)

 すべての知識の原理を表す私たちの [事行に関する] 命題を、カントは [『純粋理性批判』超越論的分析論 第二章 B116-169]「カテゴリーの演えきについて」で暗示した。しかし、原理として確定して提示はしなかった。

 それ以前には、デカルトが似たようなことを主張した。すなわち、「我思う、ゆえに我あり」であるが、この命題は、「すべて思うものはある」という大前提をもつ三段論法の小前提と結論を表す、というのではなかろう。デカルトもまた、「我思う、ゆえに我あり」を意識の直接的事実として、考察したのであろう。
 とすれば、彼の主張は「我は思いつつ、あり、ゆえに我あり」となろう(私たちなら、「我あり、ゆえに我あり」というように)。しかしそれでは、「思いつつ」というのが、まったく余計である。人は存在するからといって、必然的に考えるというものではない。思考は [人間の存在の] 本質といったものでは決してなく、存在の一つの特殊な規定にすぎない。思考以外にも、多くの諸規定が私たちの存在にはあるのである。

 ラインホルトは、「表象の命題」を提示した。彼の原理をデカルト的に定式化すれば、「我表象す、ゆえに我あり」となろう。より正確には、「我は表象しつつ、あり、ゆえに我あり」。
 彼はデカルトより相当前進している。しかし、たんなる学問の入門書ではなく、学問そのものを提示しようというのであれば、その前進はなお十分とはいえない。というのも、表象はやはり [人間] 存在の本質などではなく、存在の一つの特殊な規定にすぎないからである。これ以外にも多くの諸規定が私たちの存在にはある。たとえ、それらの諸規定は、表象という媒介物を通してしか経験的意識に到達しないにしても。

 私たちが提示した命題を超え出たのは、スピノザであった。彼は経験的意識が統一されていることを、否定はしない。しかし、純粋意識を完全に否定する。彼によれば、経験的主観がもつ諸表象の1系列すべてが、唯一の純粋主観に対して持つ関係は、1つの表象がその系列に対して持つ関係と同じである。彼にとっては、自我(彼が彼の自我と呼び、私が私の自我と呼ぶような)は、ただ存在するがゆえに、端的に存在するというようなものではない。そうではなく、何か他のものが存在するがゆえに、自我のほうもまた存在するのである。
 彼にとっても、自我は確かに自我に対して存在する。しかし、彼は問うのである:自我は、自我の外部のものに対しては、なんであろうか、と。そのような「自我の外部のもの」も、同様に1つの自我ではあろうが、この外部の自我の変様が、措定された自我(例えば、私の自我)であり、すべての措定可能な自我であろう。
 スピノザは、純粋意識と経験的意識を分離する。純粋意識は神のうちに置くが、神は自らを意識することは決してないであろう。というのも、純粋意識は決して意識に到達することはないからである。経験的意識については、スピノザは神の個別的な変様のうちに置く。
 かくして、彼の体系は首尾一貫しており、理性がもはや彼について行くことのできないような場所に彼はいるので、彼の体系は反論できないものとなっている。
 だが、その体系は根拠のないものである。というのも、経験的意識の中に与えられている純粋意識を、超えていくことを、何が彼に許したのか? 彼をして体系構築へと駆りたてたものは、示すことができる。すなわち、人間の認識に最高の統一をもたらそうとする必然的な希求である。この統一は彼の体系のうちにある。
 だが、欠陥は次の諸点にある:彼は理論的な理性的根拠によって推論したと思っていたが、たんに実践的必要によって駆りたてられていたのである;彼は現実の所与のものを提示したと思っていたが、たんにあらかじめ設定された理念を、決して到達することのない理念を提示したのである。
 彼の行った最高の統一を、私たちは知識学においてふたたび見いだすであろう。しかし、存在する統一としてではなく、もたらされなければならない統一として、だがそれが不可能なものとしてである。
 「自我は存在する」ということを踏み越えていく時には、必然的にスピノザ主義になると、私は言いたい。(ライプニッツの体系は、それが完成したところを考えると、スピノザ主義に他ならないことは、マイモンが一読すべき論文「哲学の進歩について」で示している。)
 ただ2つの首尾一貫した体系しかありえない:「自我は存在する」という境界を承認する批判哲学と、その境界を飛び越えるスピノザ哲学である。
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  第2章 2番目の、内容の面で限定された原理
コメント:
 知識学の第2原理「自我は非我を措定する」が登場します。ここでも第1章と同じように、論理学の命題「非A ≠ A」を使っての展開ですが、それだけに我田引水的なものとなっています。
 注意すべきは、「非A ≠ A」という原理も、経験的意識によって、つまり、経験でえられる表象から特殊な規定性を捨象することなどによって、真理性を保証されるのではないということです。
 この章の最後近くの( )内で、フィヒテはそのような表彰に基づく実在論を批判しています。これは科学的帰納法への批判の原型でもありますので、採録しました。
 「意識の統一(性)」という用語がこれからしばしば出てきますが、「その場面において論理的矛盾が起きていないこと」くらいの意味にとっておいていいようです。

訳(全訳ではありません):
 最初の原理を、証明も演えきもすることができなかったのと同じ理由から、2番目の原理もそうすることはできない。そこで、ここでも第1章と同じように、経験的意識に与えられる事実から出発し、また同じ資格、同じ仕方であつかう。

1. 命題「非A ≠ A」[「非AはAでない」の意味。原文表記は:-A nicht = A] は、疑いもなく万人によって、完全に確実だと承認されている。この命題の証明を要求する人は、ほとんどいないであろう。

2. しかしながら、この命題の証明が可能であるならば、この証明は私たちの体系においては、命題「A = A」から導かれるものであろう。

3. しかし、そのような証明は不可能である。
 というのは、「非A ≠ A」が「非A = 非A」と等しいと(したがって非Aは、自我のうちに措定されている何かあるYを表していることになる)、してみよう。すると「非A ≠ A」は、「Aの反対物が措定されているならば、すなわちAの反対物は措定されている」となる。するとここには、[「ならば、すると」の] 関連Xが、「A = A」と同じく、端的に措定されている。
 だから、「非A = 非A」[したがって「非A ≠ A」] は、「A = A」より導出されたものではなく、またこの命題によって証明されたものでもなく、この命題そのものになってしまうのである。

4. では、Aの反対物である非Aは、はたして措定されているのであろうか? 措定されているとすれば、いかなる条件下で、措定されているのか? 
 命題「非A ≠ A」自体が導出された命題であるとすれば、この条件は、命題「A = A」から導出されなければならない。しかし、この条件はそこからは生じえない。というのも、対立措定Gegensetzen [すなわち、Aの措定に対する非Aの措定] の形式は、措定の形式の中には含まれていないからであり、2つの形式はむしろ対立しているからである。
 したがって、反対物はいかなる条件もなくして、端的に対立措定されるのである。非Aは、措定されるがゆえに、端的に措定される。
 命題「非A ≠ A」が経験的な意識に事実として現れているかぎり、自我の行為として対立措定が現れるのである。そしてこの対立措定は、その形式のみについてみれば、端的に可能な、いかなる条件下にもない、より上位の根拠には基づいていない行為である。

5. ただ [自我の] 絶対的行為によって、対立措定されるものは、反対物一般として措定される。各反対物は、自我の行為によって端的に存在し、他の理由にはよらない。対立措定されているということは、自我によって端的に措定されているということなのである。

6. 非Aが措定されるためには、Aが措定されねばならない。したがって、対立措定の行為は別の観点からは、条件付けられているといえる。一般的に、ある行為が可能かどうかは、他の行為に依存する。だから行為は、質料Materie [実質、内容] 面からみれば、一つの働きとして条件づけられている。
 まさにそのように働いて、他のようには働かないということについては、無条件である。行為はその形式面(「どのように」、という点)からは、条件はない。
(対立措定は、措定するものと対立措定するものの意識の統一があって、はじめて可能である。措定するものの意識が、対立措定するものの意識と連関 [統一] していなかったならば、対立措定をしようにも対置するということができず、ただの措定になってしまう。措定への関係によってこそ、対置が生じるのである。)

7. これまでは、行為について述べてきたが、今からは行為の産物である「非A」に移ろう。
 「非A」では、2つのものを区別することができる:その形式と質料である。形式によって、非Aはあるものの反対物であることが、規定されている。非Aが、ある特定のAに対立措定されているならば、非Aは質料を持っていることになる。[だが] 非Aは、何かある特定のものでは [まだ] ない。[ただ、Aではないというだけである。]
 
8. 「非A」の形式は、[自我の] 行為によって端的に規定されている:「非A」は対置されてできたものであるから、それは反対物なのである。「非A」の質料はAによって規定されている:「非A」は、Aがあるところのものではないし、その本質のすべては、この「Aがあるところのものではない」ということである。私が「非A」について知っていることは、私がAについて知っていることによって、左右される。

9. [知識学の観点にもどって言えば、] もともと自我以外には、何ものも措定されていない。また自我はただ端的に措定されている(第1章を参照)。したがって、何に対して対立措定されるかといえば、自我に対してだということになる。そこで、自我に対して対立措定されるものは、非我である。

10. 命題「非A ≠ A」が、経験的意識において絶対的に確実な事実として現れるからには、自我に対して非我が端的に対立措定されるのも、また確実である。この根源的対立措定から、今しがた対立措定一般について述べられたことすべてが、導出される。したがって、対立措定一般について述べられたことは、自我に対する非我の対立措定についても、本来的に妥当する。
 だから、自我に対する非我の対立措定は、形式的にはまったく無条件であるが、質料的には条件づけられている。こうして、人間の有するすべての知識がもつ2番目の原理が、見出されたことになる。

11. 自我に帰属するすべてのものの反対物が、たんに対置によって、非我に帰属しなければならない。
[以下のフィヒテの議論は、飛ばすことも可能です。しかしここには、実在論の立場に立つ科学的帰納法への批判の原型がみられますので、採録しました。なお、彼の議論はここでの文脈だけで判断しますと、いささか強引な印象を与えます。]
(ふつうの考えでは、非我の概念はたんに、すべての表象されたもの [=自我ではないもの] から抽象によって生じた、普遍的な概念である。しかしこのような説明の浅薄さは、すぐに明らかにすることができる。
 [上記の説明にしたがえば、何はともあれ私は表象されたものをもたねばならない。つまり、私は表彰せねばならないが、] 私が何かあるものを表象すれば、私はすぐにこれを表象するもの [=自我] に対置しなければならない。ところで、表象された客体 [=表象されたもの] には、なにかあるXが――つまりこのXによって、この客体が表象されたものであって、表象するものではないと見て取れるのである――、たしかになければならないし、またありえもする。
 ところが、このXをもつものはすべて、表象するものではなくて、表象されたものだということは、私はいかなる対象からも知ることができないのである。たんに何かある対象を、措定することができるためにも、私はすでにXを知っていなければならない。したがってこのXは、根源的にすべての可能な経験に先だって、私自身のうちに、表象するもののうちになければならないのである。
 この解説はきわめて明白であるから、これを理解しなかったり、これによって超越論的観念論へと高められなかった人は、疑いもなく精神的に盲目であると言うほかはない。)

 質料的な命題「私は存在する」から、その内容を捨象することによって、たんに形式的で論理学的な命題「A = A」が生じた。同様な捨象によって、この章で提示された命題からは、論理学的命題「非A ≠ A」が生じる。この命題を反立命題と呼ぶことにする。
 判断の行為の諸規定を完全に捨象し、たんに、対立措定されていること [非A] から非存在 [≠] への推論の形式を見るならば、否定のカテゴリーが得られる。
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  第3章 3番目の、形式の面で限定された原理
コメント:
 この章は比較的長いので、まず章の構成を形式的に見ますと:
・序論に当たる部分
Aの1~5 [3番目の原理が示す課題の演えき]
Bの1~9
Cの1~2
Dの1~9
 以上によって構成されています。

 A3からA5の段落では、原理そのものが自己対立を含んでいると言われます。ちなみに、フィヒテのこの発想の延長上に、ヘーゲルの有名な「すべての事物は自己矛盾を内在させている」(初出?は1801年の「教授資格のための討論提題Habilitationsthesen」の第1条「矛盾は真理の規則であり、無矛盾は虚偽の規則である」)があると思います。ヘーゲル哲学の形而上学での主要な考えは、ほとんどフィヒテに淵源するようです。

 B2では、「意識自身も、自我の最初の根源的行為の所産、すなわち、自我の自己措定の所産である。」といわれ、人間の意識の重要な規定があります。

 C1での制限による実在性の議論は、ヘーゲル論理学では冒頭の「有、無、定在」に相当します。難解とされる彼の論理学冒頭も、フィヒテの議論を下敷きにすれば、案外見やすいものとなるわけです。

 D8では、フィヒテは知識学の第3原理を、「自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する。」とまとめます。図式的にいえば、「Aは自らの内部に、Aと非Aを措定する」となりますが、この入れ子型構造のうちにドイツ観念論の主要なテーマが尽くされることに、注意すべきだと思います(たとえば、シェリングとヘーゲルの「同一と差異の同一」など)。

 D8の部分では、結局哲学は、フィヒテの賛同する批判的哲学(批判的体系)と、独断論(実在論のことで、その究極はスピノザの実体主義だとされる)に2分されます。批判的哲学は、「すべてを自我のうちに措定する」ということからも、物自体を自我の外に設定するカント哲学とは違います(フィヒテがカント哲学に言及する場合は、ふつうカントの名前を挙げるようです)。
 したがって注目すべきは、フィヒテ哲学の根本的意想が問題となる場面では、カント哲学は登場しない、しえないということです(あえて言えば、批判哲学と独断論の折衷がカント哲学?)。フィヒテ哲学はカント哲学のたんなる批判的な継承発展ではなく、まずは別個のものとして捉える必要があるということだと思います。
 また、哲学のこの2分類は、シェリングにも引き継がれます。
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訳(全訳ではありません):
 3番目の原理は、形式の面で、また前の2つの原理によっても規定されているので、ほとんど完全に証明できる。
 3番目の原理が形式面で規定され、内容面では無条件であるということは、この原理によって示される行為への課題は、先行する2つの原理によって与えられているが、しかし、課題の解決は与えられていないということである。課題の解決は、端的に、無条件に、理性の力によってもたらされるのである。
 したがって、この課題を導きだすような演えきから始めよう。そしてこの演えきで行けるところまで行き、それ以上進むことができないところで、演えきを中止して、そこで今度は課題から生じるであろう理性の力に頼ろう。


1. 非我が措定されているかぎり、自我は措定されていない。というのは、非我によって自我は完全に廃棄されているからである。
 さて、非我は自我のうちに措定されている。というのは、非我は対立措定されるからである;すべて対立措定というものは、自我の同一性を前提とするが、その同一の自我のうちで、措定が行なわれ、その措定されたものに対立措定されるのである。
 したがって、非我が自我のうちにおいて措定されているかぎり、自我は自我のうちには措定されてはいない。

2. しかし、自我のうちに(つまり、同一意識のうちに)、非我が対立措定されえるような一つの自我が措定されているかぎりにおいてのみ、非我は措定されることができる。
 さて、非我は同一の意識のうちで、措定されねばならない。
 したがって、非我が措定されねばならないのであれば、同一意識のうちに、自我もまた措定されていなければならない。

3. この2つの結論は、おたがいに対立している。両者は2番目の原理からの分析によって導出されたのであるから、両者とも2番目の原理に含まれている。したがって、この原理は自己対立しており、自らを廃棄する。

4. しかし、2番目の原理が自らを廃棄するのは、措定されたものが対立措定されたものによって廃棄されるかぎりであり、すなわち、この原理が妥当性を持つかぎりである。ところが、この原理が自らによって廃棄されるというのであれば、妥当性を持つことはできない。
 かくして、この原理は自らを廃棄しない。
 2番目の原理は自己を廃棄する;そしてまた、自己を廃棄はしない。
 
5. 2番目の原理が上記のような事情にあるとすれば、最初の原理もまた同じ事情にある。最初の原理も自らを廃棄するし、また廃棄しない。というのは、
「自我=自我」であれば、自我のうちに措定されているものは、すべて措定されている。
 さて、2番目の原理は自我のうちに措定されている [つまり、自己を廃棄していない] はずであり、また、措定されていない [つまり、自己を廃棄している] はずである。
 したがって、「自我≠自我」ということであり、「自我=非我」、「非我=自我」である。
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B.
 上記の推論はすべて、提示された原理から演えきされたものであるから、正しいはずである。しかし正しければ、私たちがもつ知識の統一された絶対の基礎である意識の同一性が、廃棄されてしまう。そこで、私たちの課題は次のようになる:意識の同一性が廃棄されることなくして、上記の推論が正しいままでありえるような役割をはたすX [1章や2章のXとは別] を発見することである。

1. 統一されねばならぬ対立は、意識としての自我のうちにある。したがって、Xもまた意識のうちになければならない。

2. 自我は非我と同じく、自我の根源的行為の所産である。意識自身も、自我の最初の根源的行為の所産、すなわち、自我の自己措定の所産である。

3. 上記の推論から、非我を生みだすような行為、つまり対立措定は、Xなくしては不可能であると言える。したがってX自身も、自我の根源的行為の所産でなければならない。そこで、人間の精神の行為には、Xを生みだすような行為(Y)があるということになる。

4. このような行為Yの形式は、上記の課題によって規定されている。Yによって対立する自我と非我は、統一されねばならず、同等に措定されねばならず、また、相互に廃棄し合うことがあってはならない。上記の対立は、統一された意識の同一性の中に摂取されねばならない。

5. とはいえ、どのようにして上記4のようなことが起こりえるのか、ということについては規定されていない。上記の課題からは何も分からないのである。したがって、私たちは次のように問うてみる必要がある:Aと非A、存在と非存在、実在性と否定性は、相互に否定したり廃棄したりすることなく、いかにして一緒に考えれるのか?

6. 5での対立しているものどうしは、互いに限定しあうのである、と答えるほかはないであろう。そこで、この答えが正しいとすれば、行為Yは2つの対立物を相互に限定することであり、Xは限定Schrankenを表すことになろう。

7. しかし、限定の概念のうちには、X以外のものも含まれている。つまり、統一されるべき実在性と否定性の概念がそこにはある。そこで、純粋なXを得るためには、なお抽象化を行わねばならない。
 
8. あるものを限定するとは、あるものの実在性を否定によって、全部ではなく部分的に廃棄することである。したがって、限定の概念のうちには、実在性と否定性の概念以外にも、可分性Teilbarkeitの概念(量化可能性Quantitätsfähigkeit一般の概念であって、規定量の概念ではない)がある。[あるものが限定されることによって、ある部分は実在として残り、ある部分は否定されて消滅する。そこで、残る部分、消滅する部分へと、あるものが分割されていく。あるものは、可分的である。]
 この可分性がXであり、したがって行為Yによって、自我と非我は端的に可分的に措定される。

9. 自我も非我も、可分的なものとして措定される。というのも、限定する行為Yは対立措定の行為のあとで起きるわけにはいかないからである。つまり、上記の証明によって、Yの行為がなければ、対置ということが成立しえないので、Yは対立措定の行為によって始めて可能となるとは考えられないからである。
 さらに、限定する行為Yが、先行することもできない。というのもYはたんに、対立措定を可能にするために行われるからである。[Yがもたらす] 可分性は、[措定・対立措定された] 可分的なものなくしては、無意味であろう。
 したがって、限定する行為Yは、対立措定の活動において、またその活動とともに、直接的に生じる。Yと対立措定活動は、一つであって同じである。ただ反省においてのみ、両者は区別される。自我に対して非我が対立措定されるやいなや、自我と非我は可分的なものとして措定されるのである。
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C.
さて、このような行為Yによって課題が本当に解決されたのか、また、諸対立が統一されたのかを、調べなければならない。

1. 最初の結論 [A1を参照] は、今や次のように規定されている:自我のうちで、自我は非我が措定されているところの実在性の分だけ、措定されてはいない、つまり廃棄されている。
 このことは、2番目の結論 [A2を参照] と矛盾しない。非我が措定されているかぎり、自我もまた措定されていなければならない。すなわち、自我も非我も、実在性に関しては可分的なものとして措定されている。

 上記の「限定」の概念によって、今始めて私たちは自我と非我について、次のように言い得る:それらは [有限な] あるものである、と。最初の原理の絶対的自我は、「あるもの」ではなく(それは述語を持っていないし、また持ちえない。)、ただそれがあるところのものであって、これ以上は説明できないのである。[ところが] 今やこの概念によって、意識のうちにすべての実在性がある。
 この実在性のうち自我に属さないものは、非我に属する。逆に、非我に属さないものは、自我に属する。自我と非我は [有限な] あるものである。非我は自我でないものであり、その逆もまた成立する。[他方、] 絶対的自我に対立措定される非我は、端的に無である。(そのように対立措定されえるのは、非我が表象される場合であり、それ自体としてではない。)限定可能な自我に対して対立措定される非我は、負量negative Größe [マイナス量] である。

2. 自我は自らに等しく、そしてそれにもかかわらず、自らに対置されて存在する。しかし、自我は意識の観点からは、自らに等しい。意識は統一されている。この意識のうちに絶対的自我は、不可分なものとして措定される。これに対し、非我が対立措定されているような自我は、可分的なものとして措定される。したがって、自我はそれ自身、非我が対立措定されているかぎり、絶対的自我に対立措定される。
 こうして、意識の統一を損なうことなく、あらゆる対立は統一されている。これはまた、上述の概念が正しいものであったことの、証でもある。
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D.
 知識学の完成後にはじめて証明できる前提ではあるが、その前提によれば、次の3つの原理しか可能ではない:端的に無条件な原理、内容面で条件づけられている原理、形式面で条件づけられている原理。したがって、これまで述べてきた3つのもの以外に、原理はありえない。
 私はそれらの原理を、次のように定式化しようと思う:自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する。 この認識を超えでる哲学はありえない。逆にすべての根本的な哲学は、この認識へとたち帰らねばならない。そのとき哲学は知識学となる。今から人間の精神の体系のうちに現れるものは、上記のことから導出されねばならない。

1. 私たちは対立措定されていた自我と非我を、可分性の概念でもって統一した。自我と非我という規定された内容を捨象し、たんに形式を残せば、根拠の命題Satz des Grundes と呼んできた論理学の命題がえられる。つまり、「Aの一部分=非A」であり、「非A=Aの一部分」でもある。すべての互いに対立措定されたものは、ある特徴Xにおいて同等である。また、すべての互いに同等なものは、ある特徴Xにおいて対立措定される。
 このようなXを根拠といい、前者の場合は「関係の根拠Beziehungsgrund」、後者の場合は「区別の根拠Unterscheidunsgrund」という。というのは、対置されているものを同等にしたり、比較したりすることは関係させることだからである;同等にされているもの
 この論理学の命題は、私たちが提示する質料的原理によって、証明され、規定される。

証明:
a) 対立措定されているすべての非Aは、Aに対立措定されており、このAは措定されている。
 非Aの措定によって、Aは廃棄されるが、しかしまた、廃棄されない。
 したがって、Aはただ部分的に廃棄されたのである。そして、A
のうちの廃棄されないXのかわりに、非Aのうちでは非XではなくX自体が措定される [und statt des X in A, welches nicht aufgehoben wird, ist in –A nicht –X, sondern X selbst gesetzt:この一文は意味が取りにくいですが、意訳すれば次のようになるかと思います:
1. A(例えば、有機物)が措定されているところへ非A(無機物)が対立措定されるとはどういうことかを、考えてみる。
2. Aと非AはX(物質)という同等なものを共有している。
3. そこで、非Aが対立措定されたときでも、AにおけるX(物質)は廃棄されない。
4. そして非A(無機物)が対立措定されるといっても、非Aすべてではなく、また非Aのうちの非X(炭素の化合物ではないもの)でもない。非AのうちのやはりX(物質)が、あらたにAのうちのXにかわって、措定されるのである。]
だから、「Xにおいては、A = 非A」。これが「関係の根拠」の場合である。

b) すべて同等とされているものは(AとBの場合だと、A = B)、自我のうちに措定されていることによって、自己自身に等しい:A = A. B = B.
 ところが、「B = A」が措定されているとすれば、BはAによって措定された [たとえば、Aが原因となってBが生じた] のではない。というのは、もしそうならば、Bも [やはり] Aとされるべきであり、[Aとは違う] Bとはならないからである。(つまり、もしそうならば、[AとBの] 2つの措定されるものがあるのではなく、措定されるのはただ [Aの] 1つであろう。)
 BがAによっては措定されていないとすれば、[BはAではないのだから、] Bは非Aである。そして、AとB両者の同等措定 [B = Aすなわち、非A = A] によって措定されるものは、A [「非A = A」であるようなAは存在するはずもないから] でもBでもなく、あるXである。このXは、Xであり、Aであり、Bでもある。こうしたことが、「区別の根拠」の場合である。
 命題「A = B」はそれ自体としては、命題「A = A」に矛盾するものであるが、上記のことから「A = B」はどのように妥当するかが、分かってくる。[つまり、] X = X, A = X, B = X したがって、A = B。
 しかし、AとBが非Xであれば、A = 非B。[この文を、前文のXに非Xを数学的に代入するようにして、解釈すれば、この文は誤っていることになります。したがって、日常的にこの文を解釈するのがいいと思います:「AとBが共通のXを持たず、それぞれX以外のものであれば(例えば、AはP、BはQであれば)、A = 非B。」]

 一つの部分においてのみ、同等なものは対立措定されており、また、対立措定されているものは同等である。[ここから私には文意が取れません] というのは、それらがいくつかの部分で対立措定されているとすれば、つまり、対立措定されているもの自体の中に、対立措定された諸特徴があるならば、両者のうちの一つは、そのうちにおいては比較されているものが同等であるようなものに属しているであろうし、したがって、両者は対立措定されていないからである。その逆もまた成りたとう。
。[Denn wenn sie(Gleiche)sich in mehreren Teilen entgegengesetzt wären, d. i. Wenn in den Entgegengesetzten selbst entgegengesetzte Merkmale wären, so gehörte Eins von beiden zu dem, worin die Verglichenen gleich sind, und sie wären mithin nicht entgegengesetzt; und umgekehrt.ここまで文意は不明。]
 したがって、すべての根拠のある判断は、ただ一つの「関係の根拠」ないし「区別の根拠」をもつ。もし多数の根拠をもっていれば、それは一つの判断ではなく、多数の判断である。
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2. 論理学の根拠の命題は、上記の質料的原理によって規定される。つまり、この根拠の命題の妥当性は、限定されており、私たちの持つ認識の一部分にしかあてはまらない。
 一般に異なった物どうしが同等なものとして措定されたり、対立措定されるという条件下でのみ、それらの異なった物は、ある特徴において同等に措定されたり、対立措定される。とはいえこのことは、私たちの意識に現れるすべてのものが、端的にまたなんら条件なしに、なにか別のものと同等に措定ないし、第3のものに対立措定されねばならない、ということではない。
 何ものにも同等と措定されえず、また対立措定されえないものについての判断は、根拠の命題には属さない。というのは、このような判断は、根拠の命題の妥当性の条件下にはないからである。こうした判断は、基礎づけられず、むしろすべての可能な判断を基礎づけるものである。またこの判断は、根拠を持たず、むしろ基礎づけられた判断すべての根拠を告げるものなのである。このような判断の対象は、絶対的自我であり、この自我を主語にもつすべての判断は、端的に妥当し、いかなる根拠も持たない。このことについては、後で述べよう。
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3. 比較されているものの中に、それらが対立措定されるような特徴をさがす行為を、「反対的な仕方das antithetische Verfahren」という。ふつうは「分析的な仕方das analytische」といわれるが、これは適当な表現ではない。というのは一つには、「分析的な仕方」という表現では、ある概念から、はじめに総合Synthesisによって付け加えはしなかったものを [つまり、「ある概念から、その固有の内容を」] 発展させるという考えを、排除できないからである。また一つには、「反対的な仕方」という表現が、この仕方が「総合的な仕方das synthetische」の反対であるということを、より明確に表すからである。
 すなわち、「総合的な仕方」というのは、対立措定されているものの中に、それらが同等であるような特徴をさがすことである。
 すべての認識内容や、認識にいたる方法を捨象しているような論理学的形式の面からみると、はじめの仕方でもたらされる判断を、反対的判断あるいは否定的判断といい、後の仕方でもたらされる判断を総合的判断あるいは肯定的判断という。
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4. すべての反対命題Antithesisと総合命題Synthesisが従っている論理学の諸規則が、知識学の3番目の原理から演えきされるのであるから、反対命題と総合命題の有効性Befugnisもまた3番目の原理から導出される。
 3番目の原理について述べているときに、この原理が表している根本的行為、すなわち、第3項において互いに対立措定されているものどうしを結合させるという行為は、対立措定の行為なくしては可能でなかったことを、私たちは見た。また、対立措定の行為もまた結合の行為なくしては可能でなかった。したがって、対立措定と結合の両者は、じっさい分離しがたく結合しているのであり、ただ私たちの反省においてのみ、区別することができる。
 ここから言えることは、上記の根源的諸行為に基づき、本来的にはそれら諸行為の特殊な規定にすぎないところの論理学的諸行為も同様に、一方は他方なくして可能ではないであろう。総合命題なくしては、いかなる反対命題も可能ではないのである。というのも、同等なもののうちに対立する特徴をさがすことにおいて、反対命題は成りたつ;そして、同等なものは、あらかじめ総合的行為によって同等に措定されていなければ、同等ではないのだから。[しかし、総合命題がなくても反対命題が可能であるかのように、ふつう思われているのは] たんに反対命題においては、同等なものは総合的行為によって、同等に措定されたということが、捨象されているからである。同等なものは、端的に同等なものとして受けとられる。そして、私たちの思考は、同等なもののうちにある対立措定されているものへと向かい、この対立措定されているものが明瞭な意識へと上っていくのである。
 逆に、総合命題は反対命題なくしては、可能ではない。対立措定されたものが、統一されなくてはならないからである。
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5. カントが『純粋理性批判』の冒頭に掲げた有名な問い「いかにして先見的総合判断は可能なのか?」は、今やもっとも普遍的にして十分な仕方で答えられている。私たちは3番目の原理において、対立措定された自我と非我のあいだで、両者の可分性を媒介にして、総合を行った。この総合の可能性については、これ以上問うことはできず、また根拠を持ちだすこともできない。この総合は端的に可能である。
 他のすべての妥当な総合は、この総合のうちになければならず、この総合のうちで、また共に行われていなければならない。そしてこのことが証明されるや、他のすべての総合もまた、3番目の原理での総合と同様に妥当するという証明が、確実になされるのである。
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6. すべての総合は、3番目の原理での総合に含まれていなければならないということ、このことが私たちがこれから進まねばならぬ道を確定する。私たちの今後の仕方は、総合的になるだろう。(少なくとも、知識学の理論的部門では。実践的部門では、やがて明らかになるように、事態は逆である。)すべての命題が、総合を含むであろう。
 総合命題は、それに先行する反対命題なくしては可能とならない。しかし、反対命題 [の措定] も行為である以上、私たちはそれを捨象し、ただその行為の所産である対立措定されたもののみを求めてしまう。したがって、いずれの命題においても、それと統一されねばならない対立措定されたものを示すことから、出発すべきである。
 [繰り返すと、] すべての提示された総合は、3番目の原理での最高の総合のうちに存在しなければならず、またそれから発展しなければならない。したがって、私たちはこの最高の総合によって結合されている、また結合されているかぎりでの自我と非我のなかに残されている対立する特徴を、探さなければならない。そしてこれらの対立的特長を、新しい「関係の根拠」によって、つまり、すべての結合根拠中最高のものにふくまれている結合根拠によって、結合しなければならない。
 最初の総合によって結合されている対立措定物のなかに、新しい対立措定をさがし、またこの新しい対立措定者を、最初に導出された根拠に含まれている新しい根拠によって結合する、そしてこうしたことを続けていくのである。いつまで続けるかといえば、もう完全には結合することができないような対立措定に達するまでである。そのときには、実践的な領域へ移行することとなる。
 このようにすれば、私たちの歩みは確実であり、事柄そのものによって決められており、途上において迷うことはないと、あらかじめ知ることができるのである。
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7. 反対命題Antithesisも総合命題Synthesisも、定立Thesisなくしては、可能ではない。定立とは端的な措定であるが、この定立によって、A(自我)は、他のものに対して同等であるとか対立しているとかいうことではなくて、ただ端的に措定される。
 私たちの体系に関して言えば、この措定が、体系全体に堅固さと完成を与えるのである。ただ一つの体系が存在しなくてはならない。対立措定されているものがあるならば、絶対的統一が生じるまで、結合されていかねばならない。やがて明らかになるようにこの統一は、無限への接近が終わることによってもたらされる。無限への接近は、それ自体としては不可能であるにしても。
 ある特定のし方で対立措定されたり、結合されたりすることの必然性は、直接3番目の原理に存する。結合すること一般の必然性は、最初の端的に無条件な最高原理に存する。体系の形式は、最高の総合に基づく。そもそも体系があるはずだということは、絶対的措定に基づいている。以上が、上記の所見を私たちの体系に適用することについて、言うべきことである。

 けれどもなお、判断の形式へのより重要な適用があって、それを看過するわけにはいかない。すなわち、反対判断antithetische Urteileや総合判断synthetische Urteileがあったのであるから、類比によれば、定立判断thetische Urteileがあってもいいことになる。この定立判断は、ある規定によって反対判断や総合判断とは対立措定されている。
 つまり、反対判断と総合判断の正しさは、「関係の根拠」と「区別の根拠」という2重の根拠を前提としており、これらの根拠は示すことができるのである。
(例えば、「鳥は動物である」という判断をみてみよう。ここで考えられる「関係の根拠」は、動物のある特定の概念である:つまり、動物は物質から、有機的物質から、動物的な生命ある物質からできているということである。捨象される「区別の根拠」は、異なった動物間に特有な差異である:例えば、2本あるいは4本の足があるか、羽、うろこ、あるいは毛皮があるかどうか。
 「植物は動物ではない」という判断では、ここで考えられる「区別の根拠」は、植物と動物間に特有な差異である。捨象される「関係の根拠」は、有機体一般である。)
 定立判断においては、他のものに対して同等ないし対立したものとして、措定されるようなものはない。ただ自己と同等なものとしての措定があるだけである。したがって定立判断は、「関係の根拠」も「区別の根拠」も前提とはしない。論理的形式にしたがって、なお定立判断が前提としなければならないものとしては、ただ根拠への課題があるのみである。

 定立判断の根源的にして最高のものは、「私は存在する」だが、ここでは自我 [私] については何も述べられてはいない。自我の絶対的な措定のもとに含まれているすべての判断は、こうしたものである。(たとえそれらの判断が、実際に自我を判断の論理的主語 [文法上の主語] として、持っていないことがあっても:)例えば、「人間は自由である」。
 この判断を肯定的なものein positivesとして考えるとすれば(この場合には、この判断は、「人間は自由な存在の部類Klasseに属する」を意味するから)、あるいは人間と自由な存在間の「関係の根拠」が示されるべきかもしれない。その場合には、この「関係の根拠」は、自由の根拠として、自由な存在一般の概念の中に、また、人間の概念の中に含まれていなければならない。しかし、そのような根拠は示されることがないどころか、自由な存在の部類も提示されえないのである。
 あるいは上記の判断を否定的なものein negativesとして考えるならば [つまり、「人間は、必然性に支配されてはいない」]、人間は、自然必然性の法則のもとにあるものすべてに対して、対立措定される。この場合には、「必然的である」と「必然的でない」との間に、「区別の根拠」が示されなければならない。そして「区別の根拠」は、人間の概念の中にではなく [というのは、人間の側は「・・・ない」とされており、欠如態であるから、「区別の根拠」は存在していない]、人間に対立して措定されている存在の中にあるということが、見えてこなければならない。そして同時に、人間とそれに対立して措定されているものの両者が一致するような特徴が、示されねばならない。しかし、人間に自由という述語づけがされるのが妥当であるかぎり、すなわち、人間が絶対的な主体であって、表彰されたり表象されえる主体ではないかぎり、人間は自然物とはなんら共通なものを持たず、したがって、それらとは対立措定されえない。
 しかしながら、[「人間は自由である」という] 判断の論理的形式が肯定的であることによって、[人間と自由の] 2つの概念は、統一されねばならない。しかし、この2つはいかなる概念においても統一することはできず、ただ自我の理念においてのみ統一できる。自我の有する意識は、自我以外のものによっては規定されず、むしろ自我以外のすべてを規定する。
 だが、自我の理念自体は、私たちにとっては矛盾を含むので、考えることができない。それにもかかわらずこの理念は、私たちの最高の実践的目的なのである。人間は、それ自体としては到達しえない自由に、無限に接近し続けねばならない。
 同様な事情にあるものとしては、趣味判断が挙げられる:「Aは美しい」は、定立判断である(Aのうちに、美の理念のうちにもある特徴があるかぎりにおいて)。というのは、私は理念を知らないのだから、Aのうちのその特徴を理念と比べられないからである。理念を見つけるのは、むしろ私の精神の課題であろう。しかしその課題は、無限なもの [理念] への接近が完成した後に、解消されるべきものであろう。
 カントとその後継者たちは、この趣味判断を正しくも「無限判断」と名づけたが、しかし、私の知るかぎり、誰一人としてこの判断を明確には説明しなかったのである。
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8. したがって、個々のの定立判断に対しては、根拠を与えることができない。しかし、定立判断一般において人間精神がすることは、自我の自らによる措定に基礎をもっているのである。定立判断一般の基礎を、反対判断や総合判断の基礎と比較することは、有益であって、批判的体系固有の特徴への明快な洞察を与えるだろう。

 「区別の根拠」を示している概念において対立措定されているものはすべて、より高次の(より普遍的、より包括的)概念においては一致する。そのような高次の概念は、類概念と呼ばれている。つまり、対立措定されているものどうしが、同等なものとして含まれているような総合 [類概念] が、前提とされているのである。
 (例えば、金と銀とは同等なものとして、金属という概念に含まれる。この金属という概念は、金と銀両者を対立措定させるような概念、例えばある特定の色といった概念を含まない。)
 だから、定義の規則は次のようになっている:「定義は、「関係の根拠」含む類概念と、「区別の根拠」を含む特殊な差異を、述べねばならない。」
 さらに、同等なものとして措定されているものはすべて、より低次の概念においては、対立措定されている。つまり、すべての総合は先行する対立を前提としているのである。
 例えば、物体という概念においては、色、重さ、味などの違いは捨象されている。そして、空間を占め、不加入的で、ある重さを持っているものは、物体でありえる。しかし、それらは色、重さ、味などの点では、相互に対立措定される。
 (どのような規定性 [概念] がより普遍的・高次のものであり、また、より特殊的・低次のものであるのかということは、知識学によって規定される。最高の概念である実在性Realitätの概念から、ある概念が導出されるときに、両者を媒介する概念が少なければ少ないほど、導出された概念はより普遍的・高次のものである。すなわち、最高概念からの導出の系列において、概念Xが概念Yよりはじめに来れば、XはYより普遍的・高次のものである。)
 
 端的に措定されている自我については、上記とは事態が異なる。自我には非我が対立措定されると同時に、同等に措定されるが、それは、「自我と非我」以外の比較の場合のように、より高次の概念においてだというのではない。つまり、自我と非我両者を自らのうちに含み、より高次の総合、あるいは少なくとも措定を前提としているような、より高次の概念においてなのではない。
 逆に、より低い概念においてである。自我は、非我と同等に措定されえるために、より低い概念へと、つまり可分性の概念へと下げられるのである。可分性の概念において、自我は非我に対立措定される。したがってここには、他のすべての総合の場合のように上昇があるのではなく、下降がある。
 自我と非我は、「相互の限定可能性」の概念によって同等的かつ対立的に措定されるやいなや、両者自体が、可分的実体としての自我における「あるものetwas」(偶有性Akzidenzen)なのである。両者は、絶対的で限定されることなき主体としての自我によって、措定されているのである。この絶対的主体としての自我には、いかなるものも同等ではなく、またいかなるものも対立措定されない。
 こういうわけで、論理的主語 [文法上の主語] が、限定可能な、あるいは、規定可能な自我であったり、自我を規定するようなものであったりするすべての判断は、より高次のものによって限定ないし規定されねばならない。
 これに対し、論理的主語が、絶対的で規定できない自我であるような判断はすべて、より高次のものによって規定されることはない。というのは、絶対的自我はより高次のものによって規定されないからである。こうした判断は端的で、自らによって基礎づけられ、規定されている。

 端的に無条件に、またより高次のものによって規定されることのないものとして、絶対的自我を提示することに、批判的哲学 [俗に言えば、観念論] の要諦がある。批判哲学がこの原理からそご無く推論されるとき、この哲学は知識学となる。
 逆に、自我に対してなにものかを、同等ないし対立措定するような哲学は、独断論dogmatisch [実在論のこと] である。このようなことは、より高次に存在しなければならないとされる物Ding(Ens)という概念において、起きるのである。この概念は、端的に最高の概念として、まったく恣意的に、提示される。
 批判的体系 [批判的哲学] においては、物は自我のうちに措定されている。独断論においては、自我が物のうちに措定される。批判哲学は、すべてを自我のうちに措定するので、内在的immanentである。独断論は、自我を超えて行くので、超越的transzendentである。最も首尾一貫した独断論は、スピノザ主義である。
 独断論をその諸原理にしたがって扱うとすれば、私たちは問わねばならない:独断論は物自体を、より高次の根拠もないのに、どうして仮定するのかと。 独断論は、自我に対してはより高次の根拠を求めて問うたのである:自我は絶対的なものではないのに、どうして自我は絶対的なものとして妥当しえるのかと。しかし独断論は、物自体を仮定しえる自らの権利を示さない。そこで私たちは、次のように要求しよう:独断論は、根拠なくして何ものも仮定しないという自らの原理にしたがって、物自体の概念のために [その根拠となりえる] より高次の類概念を述べるべきだし、また、この高次の概念のためにさらにより高次の概念を述べ、かくして無限に述べ続けるべきであると。
 したがって、徹底的な独断論は、「私たちの知識は根拠を持っている」という考えや「人間の精神のうちには、一つの体系が存在する」という考えを否定するか、自己矛盾に陥るかのどちらかである。徹底的な独断論は、疑うということを疑う懐疑主義でもある。というのは、独断論は意識の統一を、そしてそれと共に全論理学を廃棄せざるをえないからである。だから独断論は、独断論であると告げることによって、自己矛盾に陥るのである。(原注)

(原注)ただ2つの体系しかありえない:批判的体系と独断論的体系である。懐疑論は、体系一般の可能性を否定するので、体系とはなりえないであろう。体系の可能性を、懐疑論はただ体系的にのみ否定しえるので、懐疑論は自己矛盾に陥るし、まったく不合理である。人間の精神の性質Naturによって、懐疑論は不可能たるべく配慮されているのである。また誰も本気で、そのような懐疑論者であるわけはない。
 ヒューム、マイモン、アイネシデモス [エーネシデムスとも] などの批判的懐疑論は、上記の懐疑論とは事情をことにしている。彼らの懐疑論は、それまでの諸根拠が不十分であることを発見し、またそのことによって、より堅固な根拠をどこに見出せばいかを暗示している。批判的懐疑論によって、学問はそのつど、たとえ内容面ではなくとも形式面で、得るところがあったのである。[上記ヒューム以下のような] 明敏な懐疑論者に当然の尊敬を払わないような人は、学問のいい点を知らない人である。(原注の終了)

 (上記のことを避けるために、スピノザは意識の統一の根拠を、唯一の実体のうちへ置くのである [スピノザの実体はただ一つである。]。唯一の実体のうちで、意識は質料的な側面(表象の系列)でも、統一しているという形式的な側面でも、必然的に規定されている。
 しかし私は彼に問いたい:質量的な側面(実体に含まれているさまざまな表象系列)と形式的な側面(その形式において、実体のうちにあるすべての可能な表象系列が尽くされ、完全な全体が形成されるような)で、この実体が必然的であることの根拠をもっているものは何かと。
 この必然性については、スピノザはそれ以上の根拠を提出しはしないのである。そのかわり彼は言う:端的にそうなっていると。彼がこう言うのは、絶対的に最初のものを、最高の統一を仮定するよう強いられているからである。しかし、そうした最初のもの、統一を欲するのであれば、彼の意識のうちに与えられている統一のもとに、止まっているべきであった。何ものも彼を強いてはいないのであるから、意識内の統一より高次の統一を作り出す必要は、なかったのである。)

 かつてある思想家が、どのように自我を越えでることができたのか、またどのようにして、越えでた後にどこかに落ち着きえたのか――というようなことは、こうしたことの説明根拠になるような、思想家に与えられた実践的な与件を知らないかぎり、説明できない。独断論者をして自我を越えさせたのは実践的な与件であって、ふつう考えられているように、理論的与件ではない:すなわち、実践的であるかぎりの自我は、端的に私たちの立法に服さずそのかぎりでは自由な非我に、左右されているという感情である。
 そして、ある実践的与件が、再び独断論者にあるところで落ち着くように強いたのである:すなわち、自我の実践的法則のもとに、すべての非我が必然的に従属し、統一されているという感情である。しかし、このような非我の従属と統一は、概念の対象として現実に存在しているようなものではなく、理念の対象として存在すべきものであり、私たちによって生みだされるべきものである。このことは、後で明らかとなろう。 
 ここから、ついには次のことが明らかとなる:一般に独断論は、自称しているようなものではないのであり、私たちは上記の推断によって、誤解をしたのであり、また、独断論があの推断を身に招いたとすれば、それは自らを誤解していたためである。
 独断論のもつ最高の統一は、現実には意識の統一であり、またそれ以外ではありえない。独断論の [実体である]「物」は、可分性という基体である、つまり、自我と非我(スピノザの知性と延長)の両者がそこで措定されている最高の実体である。
 独断論は、絶対的純粋自我にまで高まらないし、ましてや自我を越えていくどころではない。スピノザの体系においてのように、独断論は最大限進んでも、私たちの第2原理、第3原理までであって、最初の端的に無条件な原理にまでは進まない。この最後の一歩を進め、学問を完成させることは、批判的哲学がなさねばならない。

 知識学の理論的部門は、上記の第2原理、第3原理から発展するのであるが(理論的部門では、最初の原理はただ規制的regulativ妥当性を持つだけである)、やがて明らかになるように実のところ、体系的スピノザ主義である。ただ、個々の自我そのものが唯一最高の実体なのである。
 しかし、私たちの体系には [スピノザの体系とは違い]、実践的部門が加わり、この部門がはじめの理論的部門を基礎づけ、規定し、そのことによって学問 [知識学] 全体を完成する。また実践的部門は、人間の精神のうちに存在するものすべてを尽くし、そのことによって常識を哲学と完全に融和させる。この常識は、カント哲学以前のすべての哲学によって傷つけられており、私たちの理論的体系によっても一見すると融和の希望がないほど、哲学と疎隔させられているのであるが。 
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9. 判断から特定の形式(つまり、対立措定の判断、同等判断、「区別の根拠」による判断、「関係の根拠」による判断などがもつ個々の形式)が完全に捨象され、[判断をするという] 行為仕方の一般性(あるものの他のものによる限定)のみが残されると、私たちは「規定性Bestimmung」(限定Begrenzung、カントでは制限Limitation)というカテゴリーをえる。すなわち、その量が実在するものの量であろうと、否定されるものの量であろうと、量一般の措定が規定性と呼ばれるのである。
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