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 ヘーゲルの「形而上学」草稿(1804-05年)
冒頭の翻訳
 v. 1.1
  目 次 

  はじめに
(1) テキストについて
(2) 凡例
(3) 冒頭の翻訳


   はじめに

 ヘーゲル初心者の方で、「イェナ期の草稿群を読んで見たいが、箸(はし)の取り方が分からない」とおっしゃる方がいます。そこで――先輩風を吹かすのではありませんが (^^v ――、1804-05年の草稿から、「形而上学」の冒頭を選んで訳出してみました。


(1) テキストについて
 Felix Meiner 社の Jenaer Systementwürfe II(Philosophische Bibliothek 版、書籍番号 332。以下では PB 版と略記)所収のものが、便利です。この版は、いわゆる『決定版全集(GW)』に基づいており、信頼が置けます。編集者 H. P. Horstmann 氏の草稿成立事情の解説も、一読の価値があります。
 なお、訳出した形而上学冒頭は、PB 版では 133ページ、GW 版では 126 ページです。


(2) 凡 例

 [  ] 内は、訳者の挿入です。


(3) 冒頭の翻訳

        形而上学

 [諸項間の] 関係が尽き、諸項(Glieder)が自存的存在(für sich seiende)としてばらばらになるところで、論理学は終わる。このとき、[本来的には] 自己自身の内への反射としての認識は、自らに対し最初の自己契機となる。この契機は、認識の外部に存する受動的な自存的存在としての契機である。またこの契機は、認識の自己自身の内への反射を [逆向きに] 展開し、認識自身に対し他のものであるような、そして自己自身としては他のものへの関係であるような、[自己内への反射とは] 別の契機なのである。
 自己を他のものへと関係させるところの、この [本来の自己認識とは] 異なる認識は、その他のもの自体を他のもの自体として措定する。この他のものは、もはや私たちにとっては他のものなのではなく、認識自身にとっての他のものである。すなわち、認識は自己自身を否定する。というのも、反射の統一性は、認識の諸契機においても同じままにとどまるのであるが、認識自身にとっては他のものが、認識自身に対して存在するからである。すなわち、この認識は自らの一契機なのであって、自らに対し観念的である。
 私たちにとっては、この認識のもつ対象 [他のもの] が、認識の全体である。形式的認識としての認識にとっては、認識は対象の内で否定されており、対象とは別のものである。認識にとっての他のもの [対象] は、認識自身を否定的する意味しかもたない。[認識の] 対象は、たんにこの認識に対して他のものとして規定されており、認識自身は対象の内でただ否定されている。
 形而上学にとっての即自的なもの(das Ansich, まずは最初のもの)は、認識の前述したような形式、つまり認識にとって否定的なものである。形而上学の進展、すなわち認識が認識にとって他のものから自己自身へ帰るということ、つまり認識へと生成する認識は、[認識には] 無関係な(indifferent)他のもの [対象] が、認識に対して異なっている(different)ものになるということである。また、この無関係な他のものが、認識のたんなる否定として規定されることである。このことによって認識は、すなわち唯一肯定的なものは、真に即自的なもの(Ansich, 本来のもの)になる。


(初出 2011-3-9)
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