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アジアの域内帝国主義 

(2001/12/07)


以下の文は、岡崎研究所へ投稿(12月11日)したものです。
http://www.okazaki-inst.jp/okazaki-inst/diaries/diary121101.html


 まだネール首相が活躍し、平和国家インドのイメージが日本では定着していたころのことである。仏文学者の桑原武夫は、アジアで唯一航空母艦をもっているのがインドであり、周辺諸国ではインド帝国主義という言葉が聞かれる、と指摘した。中国との紛争でやりあうためであれば、航空母艦は必要としなかったであろう。そしてインドは現在、隣国パキスタンとともに原爆を所有している。
 ベトナムに対しても、近隣諸国からは同じような声が上がっていることが、先日の新聞で報じられていた。私たちはベトナムを貧しい小国と考えがちだが、面積は日本より一割程度小さいだけであり、人口は約
8000万人。何よりも戦いに明け暮れせざるをえなかっただけに、同国で軍隊の占める意味は大きいであろう。
  中国は周知のように、チベットやシンチアン自治区などの周辺区域で、民族運動や反政府的な政治活動をきびしく弾圧している。また、すでに軍事大国化しているが、今後も軍事力の強化は推し進められよう。
 インドネシアでも、地方の民族への抑圧はきびしく、東チモールのように独立を目指す地域もある。それらを押さえるためにも、軍事力を強大化したいであろうが、今は経済が崩壊しており、予算的に無理かもしれない。 

ところでこれらの国は、第二次大戦後に輝かしい独立を成しとげ、植民地状態から脱した国である。それが、周辺諸国に対し、あるいは自国内の地方民族に対して、帝国主義的にふるまっている。「帝国――植民地」構造を再生産しているのである。20世紀前半までのヨーロッパ諸国の帝国主義は、海をこえて遠方の地をめざすものであった。後半のこれらアジア諸国は、地域内あるいは自国内での構造再生産であるから、域内帝国主義と称せよう。
(もっともここでは、帝国主義の用語を厳密に定義せず、やや比喩的に用いている。すなわち、「中心」から「周辺」には、軍事力を背景とした政治的抑圧があり、それがしばしば、富の分配の極端なかたより(収奪)をもたらす経済構造をともなっている――こうした場合に用いている)。

その先頭をきり、大規模におこなったのは、いうまでもなく日本である。明治維新のあと、不平等条約の改正、日清・日露戦争でストップせず、さらに韓国併合、中国侵略へと進んでしまった。
 ヨーロッパ的な海外帝国主義とアジア的な域内帝国主義をつなぐものは、ロシア帝国であろう。ロシア民族は、19世紀後半、鉄道などを伴いながら東進をし、ついに朝鮮半島近辺にまで達した。その領土はソ連に引きつがれたが、公式の宣伝とは異なり、民族問題は常に生じており、また暴力的に「解決」された。第二次大戦後は、東欧を衛星国化した。

こうして、アジアを考えるとき、域内帝国主義、あるいはそれをソフトに言い換えた「民族問題」は、20世紀からの負の遺産となっている。アジア全域にわたっての、根の深い宿痾といえる。しかし、戦後の日本は経済面で大国となったにもかかわらず、さいわいにもこの病をまぬかれた。これは、大日本帝国が解体させられたあと、平和憲法と日米安保条約の2つの相乗効果によるためと思われる。そのかわり、日本は国家の体をなしていないとか、「日本の首相というのは、結局アメリカの51番目の州知事だ」(藤原弘達氏)といった評をまねく面をもつことになった。
 域内帝国主義は、まさに歴史のロジック自体が産みだしているものと言えようが、そのロジックの淵源するところは何であろうか。それは、やはり内外に対する暴力装置(目立つものとしては軍隊)を独特の仕方で内在させる近代国家そのものであろう。私にここで国家論を展開する学力はないが、一応前提となる常識を記せば――

1. 社会そのものと、国家は分けて考えねばならない。ルソーなどの社会契約論では、諸個人が契約して成立する社会が、そのまま国家であるかのごとき論理構成となっている。けれども、これは、独学者ルソーがスイスの田舎から出てきた後進性のせいなどとされている。

2. 古代や中世も視野に入れて、国家とは何かについて問うときには、次の3説が有名である。これら3説は相互に対立しつつも、補完しあっている。現実の国家は、多かれ少なかれ3つをあわせ持っており、それがまた恐ろしいところである。
a) 
幻想共同体としての国家。ここで「幻想」というのは、たんなる個人の空想の産物の意味ではなく、共同主観的(集団的)な観念形象の意味である。例えば、イスラム教徒にとっては、アラーの神こそが真実に存在するものであろうが、その意味で、国家も通常は強固に存在する。共同体や民族全体の「永遠の生命・発展」への願いというより、永遠の生命・発展そのものが国家である。「おクニのために」というときのクニなどで、よく表現される。
b) 
分業国家論。社会全体の利益になる仕事を遂行する機関としての国家。社会構成員どうしの争いを、最終的に(強制的に)調整することなども含まれる。
c) 
階級国家論。支配的階級(階層・グループ)の支配の道具としての国家。むろん、国家がこのcの相貌をむき出しにすることは、危機のときを除いてはあまりない。通常は、上記aの衣装をまとい、bの回路を通ることによって、cの機能を果たすことになる。

3. なるほど昨今は、経済・情報・技術面のグローバリゼーションが全世界をおおっている。しかし、J. ナイ氏が指摘するように、それによって国家のもつ政治的権力一般が衰退しているとはいえず、逆に、グローバリゼーションのダイナミズムをうみ出しているものは(あるいは、承認しているものは)、ナショナルなメカニズムである。

 パウエル国務長官は、911日でポスト冷戦も終わったと述べたが、けだし至言であった。今こそ活眼を開いて新しい時代を見るときであろうが、前世紀からの負の遺産への注視も、また必要だと思われる。


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