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ヘーゲル哲学の現代的理解


目 次

 はじめに               
 凡例                                
 ヘーゲル略年表                                            

第1章 「実体は主体である」という構制

第1節 「意識」の一元論         

第2節 世界のメタ化運動     

第3節 フィヒテの「自我」

第2章 観念論の存在観   

第1節 若きヘーゲルの言語観  

第2節 言語と事物の共通構造  

第3節 ヘーゲルの絶対的観念論 

第3章 メタ化運動の成立 

第1節 「矛盾」が発生する理由    

第2節 メタ世界観への課題 

                                                              


はじめに

 ドイツ観念論哲学の掉尾を飾ったヘーゲル(1770-1831)については、評価が大きく分かれていることで有名である。一方では、彼において近代哲学が大成されたとの評もあれば、他方では、彼の弁証法や「運動」などはたわ言の類であるとされる。彼がたんなる奇矯の言や、神秘的妄想の類を弄したに過ぎないのであれば、世界史に名を留めるということはありえない。しかし、ヘーゲルの形而上学的言説を、合理的に説明することもむずかしい。要するに、ヘーゲルの根本的意想は、いまだに理解されていないと言えよう。

「『人々はスピノザを死んだ犬のように扱う』とレッシングは言っている(1)ヘーゲルは述べたが、いまでは彼自身が、私たちにとっては「死んだ犬」となっている。それも正当な理由があってであれば、彼の思想を今さら理解する労をとる必要はないかもしれない。ヘーゲルはつづけて、主張している――

「後世において、スピノザ主義やまた思弁哲学一般に対する扱いが、改善されたとはいえない。哲学に従事してそのようなことを判断する人たちが、事実を正しく把握し、そして正しく語るといったことすらしていないのである。だが、そうされることは最低限の公正さというものであり、要求する権利があると言えよう」(2)

 上記の不当な「扱い」は、そのままヘーゲル自身に妥当する。しかも他方では、彼の片言隻句の少なからぬものが世上に流布し、私たちの注意を今なお引いている。ルソーが近代の父であるならば、近代世界をはじめて体系的に批判したヘーゲルを無視することは不可能なのである。したがって、科学的合理性に反するとのかどで、彼の形而上学を早急に斥けたり、頭で立っている彼の哲学を足で立たせようとしたりする前に、彼の主張を「正しく把握する」作業が、なされるべきであろう。幸いなことに、彼の思想を理解するための格好の視点が、次の3つの知見の登場によって用意されたように思われる。

1. メタ言語の「メタ」の概念。  
2.
構造主義言語学の「差異の体系」に見られる関係主義。  
3.
とりわけ、ヘーゲルの批判的継承者であったマルクスの思想が、廣松渉氏によって解明されてきたこと。

 これらに助けられながら考えるとき、ヘーゲル形而上学の核心は、「1つの世界が固定的に存在するのではなく、世界はつねに自己自身を積層化させ、また1つのものへと収斂していくという『メタ』化運動のうちにある。あるいは、むしろ、世界とはそのような運動そのものにほかならない」という洞察であるように思われる。従来言われてきた疎外論――すなわち、精神的絶対者が自己疎外あるいは自己外化して、実在の世界になるという説――は、そのような事態を比喩的に表現したものである。しかし、比喩で説明の代わりとなすわけにはいかない。

ところで、上記3つの知見は、ほぼ20世紀に入って登場してきており、それらが用いる諸概念が一般に受容されるようになったのは、ようやく世紀の末になってである。19世紀初頭のヘーゲルの思想が、いかに先駆的だったかということと同時に、そうした思想を当時表現することの困難さが推測される。ヘーゲルとしては、独自の表現法をあみ出すほかはなかったであろう。そして、彼の著作を読んだ人たちが、混乱に陥ってきたのも、また無理からぬことではあった。


凡 例  

1. ヘーゲルの著作からの引用は、Suhrkamp Verlag, Werke in zwanzig Bändenによった。巻数とページ数は、同版のものである。

2. しかし、『エンチクロペディー』からの引用は、参照のしやすさを考えて、節の番号を表示した。(ただし、その序文からの引用は、前記の判の巻数とページ数で表示した)。

3. また、いわゆるイェーナ期体系草稿については、1970年代に出版された全集に基づくFelix Meiner VerlagNeue Studienausgabenによった。したがって、ページ数は、同版のものである。

4. 引用文中の[ ]内は、滝が補った文章である。  


ヘーゲル略年表 (3)

出来事

1770

シュツットガルトに生まれる。

1801

シェリングの勧めで、イェーナに移る。

1801

フィヒテとシェリングの哲学体系の相違」を公刊。

1801

12条の教授資格討論提題」を提出。

1802

「信仰と知」を公刊。

1803-04

「イェーナ期体系草稿 I

1804-05

「イェーナ期体系草稿 II

1805-06

「イェーナ期体系草稿 III

1806-07

『精神の現象学』出版。

1812-16

『大論理学』出版。

1817

『エンチクロペディー』出版。

1821

『法哲学』出版。

1831

コレラに罹患して死去。

 



第1章 「実体は主体である」という構制  


 
私の見るところでは・・・すべては次のことにかかっている:真なるものをたんに実体としてではなく、主体としても把捉し、表現することである(1)。このように、ヘーゲルは最初の著書である『精神の現象学』の序文において宣言した。

哲学が対象とすべき真実に存在するものを、まずは、スピノザ的実体として理解しようとすることは、友人シェリングなどとも共通の志向であった。物質的延長のみならず精神をも属性としてもつスピノザの実体は、人格神に代わる神の新たな概念として、当時の人を驚かせたようであるが、私たちは「世界総体」といった意味合いにとっておけばよいであろう。ヘーゲルは、それが主体でもあると言うのだが、この主体の意味は、ふつう私たちが「主体的に行動する」などというさいの「主体」と同じである。すなわち、自立的・自己決定的ということであり、「[他のものによって]動かされることのないもの、みずから動くもの」(2)である。ヘーゲルによれば、「実体は、みずからを措定する運動である限りにおいて、あるいは、みずからによって媒介されながら他のものになる運動において……主体であり、現実的存在である。」(3)

この「実体=主体」テーゼこそは、彼の哲学のかなめを表すものといえよう。そこで問題は、次のようになる。

1.       そのようなヘーゲルの実体は「精神」とも称され、その直接的な現存は「意識」であるが、ヘーゲルの「意識」とはいかなるものなのか。(「精神」については、後述)

2.       みずからを措定する運動、いわゆる弁証法的運動とは、いかなる事態なのか。

ちなみに、この運動は根源的には、時間と空間の中での物理的運動ではなく、また、心理的な動きでもない。たとえば、「自然や有限な精神を創造する以前の、永遠の本質における神の叙述」(4)とされる彼の論理学も、この運動によって展開していく。つまり、弁証法的運動は、現代的にいえばある種の意味論的、ないし記号論的運動(展開)ということになる。むろん、たとえばゼノンの飛ぶ矢など時空における運動が、『エンチクロペディー』の自然哲学などでは、扱われている(5)。しかし、そうした感覚的で外面的な運動は、ヘーゲル的「精神」の運動が時空の内に現象したものであるから、前者は後者より理解されねばならない。ニュートンがリンゴの落下を見て、抽象的な万有引力の法則に想到したような、伝説的事情にはなっていないのである。

 さて、1番目の意識の問題から検討しよう。  


1 「意識」の一元論

 近代の認識論の主流は、周知の三項図式にのっとっており、またそれが、私たちの常識ともなっている。つまり、「認識の対象(例えば、木そのもの)――意識の内容(木の表象、記憶された像など)――意識する主体(あるいは、意識の働きそのもの)」の三項が想定されている。まず、認識の対象である客体(客観)と、意識する主体(主観)が別個に存在し、ついで、主観が客観の影響下ないしは相互影響のもとで、意識内容を生み出すとされる。

 したがって真理の基準は、意識内容の秩序や構成が、客体のそれと対応しているかどうかにおかれる。しかし、両端の二項である意識の働きそのものと客体とは、もともと存在論的に完全に分かたれており、意識が知りうるものはただ中間項の意識内容である以上、どのようにして意識内容と客体の対応・非対応を知りうるのか、との疑問がつねに生じることにもなる。

 ヘーゲルは、この三項図式、ならびにそれが前提とする「主観(精神)−客観(物質)」の二元論的存在観を、否定したことが知られている(6)。といっても、客観的対象あるいはその主要な部分を、主観的意識がうみ出したものだとする、いわゆる観念論の立場からではない。しばらく若きヘーゲルの論旨をたどってみよう――

  「独断的観念論は、客観というものを否定し、客観と対立する主観を絶対的なものと措定することによって、原理上の統一を得ている。これは、唯物論をその典型とする独断論が、主観的なものを否定するのと同様である。<主−客>対立の一方を否定し、捨象することによって達成されるような同一性が、哲学に対して要求されるというのであれば、そのときには主観的なものが否定されようが、客観的なものが否定されようが変わりはしない」(7)

 実際の認識をみるならば、「認識全体のうちには対象のみならず、認識する自我があり、また、自我と対象との関係、すなわち意識もある」(8)。ヘーゲルは「意識」を、主観と客観との関係(態)として捉えているのである。そして、前記の三項図式でいえば、中間項である「意識内容」の意味で、「意識」を使っているように一見みえる。いずれにせよ、両端の二項のうちの一つである「意識の働きそのもの」ではない。そして、「意識は、一般的に対象についての知であるが、その対象は外的なものであったり、内的なもの[心的なもの]であったりする」(9)のだから、ヘーゲルの「意識」は、現象界のすべてを表すことになる。

 では、三項図式での両端の二項はどのようになっているのであろうか。「経験的[現実の]意識のうちには、純粋意識[意識の働きそのもの]は、独断家のとなえる物自体[対象そのもの]と同様に、存しないのである。……純粋に主観的なものは、純粋に客観的なものと同じく、抽象物である」(10)

 以上からヘーゲルは、「主観−客観」の二元論的存在観ならびに、一方が他方をのみこむ形での一元論を破却するところから、出発したことがわかる。多くの論者が「実体=主体」テーゼの主体Subjektに、近代的な主観Subjektの意味を読み込んでいる。しかし、そのような含意は、主体Subjektにはありえないのである。若きヘーゲルの目には、そうした主観性の哲学は先輩たちによって完結をみており、今さらそれを発展させるということなどは論外と映っていたであろう。じっさい、1802年の著作『信仰と知』の副題は、「完成形態における主観性の反省哲学、すなわちカント、ヤコービそしてフィヒテの哲学」となっている。

ところで、少しおかしくはないだろうか。三項図式の両端二項である「物自体(対象そのもの)」と「純粋意識(自我)」をたんなる抽象物として消去して、残った「意識」は「自我と対象との関係」であった。消去された非存在物どうしが関係しあって、実在の意識ができることになってしまう。なるほど、200年後の私たちであれば、廣松渉氏にならって、「いや、真実に存在するのは関係(態)のみである。ところが、関係態が有する二つの契機、すなわち対象的契機と認識主観の契機を実体化(物象化)させることによって、あたかも第一次的に対象そのものと自我があるかのように思ってしまう。そして、実体化した両者に関係が生じて、「意識」が発生するかのごとき認識論におちいる」と、答えることができよう。しかし、19世紀初頭にこのような論理や、「物象化的錯視」なる用語法が成立するはずはなかった。

そのため、ヘーゲルは「関係」という用語を提出しても、関係態がまずあって、しかる後に対置される自我と対象が生じることを表す「関係の第一次性」(廣松氏)という論法に進むことはできなかった。その代わりに「統一Einheit「中間項Mitte」なる用語で事態を説明しようとするむろん論理的には、両端あっての中間項であり、諸部分が対置されてからの統一ではある。とはいえ、行間からうかがえるヘーゲルの発想は、「関係の第一次性」に近いものといえよう。以下で、それを確かめておこう。

「私たちは意識というものを、そのうちで能動的に現れるものと受動的に現れるものとの統一として見る。……私たちは、みずからを組織する意識を主観の側にもとづいて、能力、傾向、情熱、衝動等々の形式においては見ないし、また、対立する他の[客観の]側にもとづき、事物の規定性とも見ない。意識が両者の統一と中間項として、絶対的に対自的[自立的]な様子を見るのである。意識それ自身のうちに、能動的なものの受動的なものへの運動がある。意識はその運動そのものとして、そのうちでは対立が……止揚されているような一つのものである。意識のすべての契機は、能動的な能力、傾向として存在し、また他方の[受動的な]諸規定としても存在する」(11)

こうしてヘーゲルは、近代哲学や常識が前提とする「主観−客観」、この対立しあう二項を廃却するのであるから、後には彼の「意識」のみが残り、それが全存在領域を満たすことになる。したがってヘーゲル的意識とは、存在する世界全体であり、彼の哲学は、このような意識の一元論としてまずは特徴づけられる。

ところで、この「意識」は伝統的に現象と言われてきたものに相当するのであるから、現象主義、すなわち、ただ私たちに対して出現するもののみが実在し、それがすべての認識の基礎とならねばならないとする現象主義と、ヘーゲルの哲学を呼ぶこともできそうである。しかし、「意識」は、「みずからを措定する運動」をしていくのであるから、ふつう、ばらばらな現象の並置を含意する現象主義とは、趣を異にしている。そこで次に、第2の問題であった「運動」の内容を調べよう。


2 世界のメタ化運動

 ヘーゲル哲学の内容と方法を、はじめて体系的に明らかにしたのは、『精神の現象学』であるが、同書で「意識」は、「感覚的な確信」を出発して、さまざまな形態を遍歴しつつ、「絶対的な認識」へと高まっていく。そのとき、いずれの意識形態も、それぞれ世界全体を包括しており、そのことによって独自の世界を形成している。たとえば、「感覚的な確信」においては、すべては直接的な「このもの」とか「今」として存在している。次の「知覚」では、すべては「事物」である(12)

また、本来の形而上学と称される『論理学』においても、「有」、「無」、「生成」という諸段階が登場するが、そこでも、最初すべては有であり、ついで無となり……と、それぞれ独自の世界が現出している。

それらの世界は、やがて「絶対的な認識」や「絶対的理念」といった最高の段階にたっするが、それが直接態において現れれば、最初の段階の「感覚的な確信」や「有」に他ならないとされる。したがって、主体的運動は自己同一性を保ちつつ、円環をなしており、この円環の総体が精神あるいは絶対者と呼ばれる。なお、ヘーゲルからすれば、真に存在するものは精神ないし絶対者であって、個々の世界はその現象する契機である。(絶対者というのは、宗教的に表現された神の哲学的表現であって、主観的・客観的その他の条件がつかない、絶対的に真なるものという意味である。なお、訳語では「者」がついて人間のようであるが、直訳すれば「絶対的なもの」となり、人間の意味はない。スピノザの実体を踏まえて、当時シェリングなどが使っていた最先端の用語であった。)

こうして、私たちが主体的運動を見るとき、そこには、世界全体が先行する世界より生じており、また、諸世界を統一する一者が想定されている。しかも、真に存在するのは一者の方だとされる。なんとも面妖な形而上学、との感想をもつ方も多いと思われるが、どこか既視感(デジャ-ヴュ)を覚えないだろうか。じつは、メタ言語の相貌に、似かよっているのである。

メタ言語というのは、「ある言語または記号体系を論じたり、記述・分析したりするのに使用される言語、または記号体系」(13)である。たとえば、日本語の文法を日本語で分析して記述するとしよう。このとき、分析される日本語は対象言語、分析する方はメタ言語といわれる。両言語ともこの場合には同じく日本語であるが、両者は階層を異にしており、その点では別言語とみなさねばならない(14)。しかし、そのメタ言語はどこから来たのか、と問われれば、私たちが日常使っている日本語、つまり対象言語となった日本語からだと、答えるしかない。日常の日本語を分析しようとした瞬間に、あたかもそれをコピーしたかのように、メタ日本語を私たちは持つのである。ヘーゲル風に言えば、日本語がみずからを対象として、自己措定している。そして、後日別の件で日本語が問題になるときには、たとえば、「日本語は論理的言語ですか」と聞かれたときには、対象言語であった日本語のみならず、メタ日本語もあわせて思い浮かべるであろう。対象言語、メタ言語である個々の日本語が存するのみならず、統一的な日本語なるものが想定されえるのであり、むしろ、前者は後者の部分とみなされてしまう。

言語のメタ化、自己対象化という事態は、文法分析という特殊な場面でのみ起きるのではない。「あなたが『彼は利口だ』というのは、どういうことですか」などと聞くときなど、ふだんに起きている。つまり、言語はもともと「メタ構造」とでも名付けられるものを内在させているのであり、それは、論証抜きでいえば、私たちの意識そのものがそのような構造に、ヘーゲル風にいえば「自己意識」の構造になっているのである。ヘーゲルはこの構造に着目し、それを言語や近代的主観の内部に局在させることなく、世界そのものの構造として解き放ったといえよう。

「精神」の主体的運動を説明するにあたって、私たちは言語を引きあいに出したが、いささか牽強付会の印象となったかもしれない。だが、彼は次のように述べている。「私たちは、……言語を精神の実在物と見る。……言語は、みずからを自己自身から分離する自己であり、純粋な『自我=自我』として、自身の対象となる」(15)。「自我=自我」については後述することにして、ここでヘーゲルが、「精神」と言語双方のメタ構造に着目しているのは、明らかであろう。また、「イェーナ期体系草稿 I」では、後述するように構造主義言語学の論点を先取りするような言語観を、展開している(16)私見では、彼の「精神」についての諸論点は、言語の性質に想到することによって得られたものが多いようである。したがって、私たちが彼の「精神」と言語とを比定したとしても、不適切だとはいえないように思われる。

ともあれ、「主体的運動」は、現代の私たちから見れば、世界の「メタ化運動」を意味する。それでは、若きヘーゲルはこうした発想を、どのような哲学史の脈絡において得たのであろうか。  


第3節 フィヒテの「自我」

 ヘーゲルは、デビュー作となった論文『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』(1801年。以後、『相違』と略記)の緒論において、彼の目にうつる当時の哲学界の状況を次のように述べている。

「カント哲学については、その精神を文字から切り離し、純粋に思弁的な原理を取り出すことが必要であった」。「思弁の原理とは、主観と客観の同一性」である。「純粋思惟自体が、すなわち主観と客観の同一性が、<自我=自我>の形式において、フィヒテの体系の原理となっている。そして、この原理のみに忠実であるとき、大胆に闡明された真正の思弁的原理をもつことができるのである」(17)

ヘーゲルは、当時のスタンダードともいうべきカント哲学の本質を、主客同一の思弁的原理に求め、それが、フィヒテ哲学で<自我=自我>の形式において発展させられていると見ている。こうした発展は、彼や友人シェリングが、熱狂的に支持するところであった。
 フィヒテの<自我=自我>という第一原則は、むろん形式論理学の同一律「A=A」や、たんなるトートロジーを意味するのではない。左辺の自我が、みずからを右辺の自我として措定するという、自我の絶対的自己措定を表すのである(18)。したがって、「<自我=自我>は、同時に同一性と二重性であり、<自我=自我>の内には対置がある」(19)。これは若きヘーゲルにとって、じつに魅力的な形而上学と見えたであろう。「実体=主体」のテーゼはここに誕生の地をもっていたのである(20)

 しかし、「実体=主体」は絶対者のあり方として、無制約に妥当すべきものであるが、フィヒテの<自我=自我>は、ほかに第二原則(自我に対して、絶対的に非我が反措定される)、第三原則(自我は自我の内で、可分的な自我に対して、可分的な非我を反措定する)がある中での一つの原則にすぎない。「それでは、<自我=自我>の原則も、……経験的自己意識に対置される純粋自己意識に終わってしまう」(21)。つまり、現実の現象的世界に対置される近代的主観の運動にすぎなくなる。そこでヘーゲルは『相違』において、フィヒテの自我に、経験的意識ないし「自然」をも組み込む方向を目指す。そして、ヘーゲル流の「意識」に変換しようとする。そうなれば、<自我=自我>の原則が、「主観と客観の絶対的同一性」(22)の実を示し、無制約に妥当することができると考えたのである。

そのために、この章の第1節で述べたように自存的な主観と客観を認めず、両者を「意識」の両契機とすれば、両者の「絶対的同一性」を説きえる条件も整うかにみえる。しかし、まさか最初から、「意識」は主観と客観のそのような総合であると確言するわけにはいかない。私たちに実際に現象してくるのは対置された両者であるから、両者を措定した上で、総合ないし同一性を説かねばならない。しかも、両者の本質は同一性で、両者はその現象であると説明するだけでは、その同一性は「絶対的」なものとはならない。なぜなら、今度は現象と本質とが分離されたままに残っており、統一されていないからである。

そこで、主観と客観とが絶対的に同一となり、ひいては、精神の主体的運動が可能となるような、存在観を提示してみせる必要がある。それは、主観と客観の双方が、「観念的要因として措定されている」(23)ような存在観にほかならない。すなわち、ヘーゲル的「観念論」が要請されているのである。  



第2章 観念論の存在観


少し迂遠なようであるが、視野を広げておこう。

たとえば、「上」、「硬さ」、「善」などの概念は、それぞれ反対にある「下」、「柔らかさ」、「悪」などと相補的であって、一方が無ければ他方も成立しない――こうした考えは、かなり多くの人に受け入れられるであろう。このような考え方は、知的常識の一つともいえる。むろん、「善」はそれ自体で意味をなすといった考え方も、多数の人から支持されている。

 ところが、「赤色は、黄色や青色がそれに対立するかぎりにおいて存在する」(1)という立言になると、ふつうこれらの色やその概念は、並置して独立に存在していると見なされている以上、もはや常識の枠内には収まらず、特別な存在観を前提とする。この立言は、ソシュール以来の構造主義言語学を思わせるが、じつはヘーゲルのものである。彼の発想は、20世紀になって登場した構造主義言語学のものと、一致する面がある。

 構造主義が登場する以前の言語学においては、言葉の意味は、使用環境や文脈の影響を受けつつも、各言葉がそれぞれにもつとされた。なるほど、言葉の「意味」が何を意味するかはさまざまであり、論者によって違っている。たとえば、オオカミという言葉の意味は、オオカミそのものなのか、その観念なのか、内包なのか、それとも発話者の心的状態や感情の表出なのかは、論者によって異なり、また発話状況にも左右されるであろう。しかし、オオカミという語の意味を考える際には、イヌやネコをはじめとする他の語まで考慮はしなかったのである。

 それに対し、構造主義言語学は、言語体系(たとえば日本語)内の各要素――簡単にいえば単語(2)―の意味は、各要素の体系内での位置や、他の要素との差異の関係によって決定されると考える。各要素は自存的に存在するのではなく、ヘーゲルの用語を使えば、対他存在なのである。たとえば、イヌという言葉の意味は、ネコやオオカミとの対照において決定される。オオカミという言葉を知らない子供は、動物園でオオカミを見てもイヌとみなし、その子供にとってイヌの意味は、オオカミをも含んだものになろう。逆に、言語体系の方は、各要素間の関係から成りたっているとされる。

 若きヘーゲルは、はたして言語の対他性ということを、視野に入れていたのであろうか。彼の哲学が形成されていく『イェーナ期体系草稿I (1803-04)を見てみよう。


第1節 若きヘーゲルの言語観

  説明の便宜のために、まず、自立した体系となる以前の、個人的に使用される記号について、ヘーゲルが考察するところからたどっていこう。たとえば、手帳に明日会議があることを、丸印を使って記す場合などである。そうした「記号の意味は、ただ[その記号を使う]主体との関係のうちにある。記号は、主体の恣意に依存しており、主体が記号を使って考えたことを理解できるのは、その主体だけである。記号はみずからの意味を自分のうちに持っていない、すなわち、主体は記号のうちで止揚されていない」(3)。しかし、それでは不十分で、「意味は、意味するもの[主体]に対しても、意味されるものに対しても対置して、自立(für sich)せねばならない」(4)

 意味を付与する記号の使用者のみならず、意味される言語外の対象物をも記号の意味作用から締め出すヘーゲルの態度は、ソシュールを思わせる。後者によれば個々の言葉は、音や文字である能記と、意味される概念である所記の統一体であり、言葉の意味するものは言葉以前には存在しない。その点、言語は自己充足的体系である。問題はヘーゲルがなぜ上記のように、ありうべき記号は自己充足的でなければならないと、すなわち、記号の意味を「自立」的なものにしようと考えるかである。それは、記号の発展した「言語は、意識の存在する概念である」(5)とあるように、ヘーゲル的「意識(=精神)」の存在形態ないし発展形態の一つが言語だからである。したがって彼にとっては、言語はそれ自身が一個の世界でなければならないのである。

 さて、意味の自立した記号が、名(Name)である。「名においては、具象性や多様性、生命や現存などの経験的存在物は止揚されており、一個のまったく単純で観念的なものになっている。……名そのものが、事物や主体ぬきで存続している」(6)。(ここでも、「観念的」なる用語が現れるが、説明は次節で行うことにする)。

 名が集まったものが言語であるが、ホーリズム(全体論)をとるヘーゲルであるから、言語のほうから発想していく。「単純でありながら無限な言語は、意識の無限性であることによって、みずからの内で……みずからを区切り、分節化して、多様な名になる。同様に、言語は[名の]絶対的な多様性から自己を取り戻してもいる。……言語は名の関係態である……」(7)

 しかし、ここでヘーゲルに反論する人もいるであろう。「私たちは言葉によって言語外のものを語りえる以上、言葉は言語外の事物となんらかの対応をしていなければならない。つまり、言葉はその有する意味によって、外的事物を指示しているはずである」。むろんヘーゲルはそうした契機を認めている。「名は、[言語外的な]具象的なもの、規定されたものを表現する。しかし同時に、名が存在している[言語という]領域の統一性が、名をこの規定態として、すなわち、互いの差異として……措定する」(8)

 こうして、ヘーゲルは彼の哲学形成のほぼ出発点において、言語を自己完結した差異の体系として、関係主義的に捉えていたのである。ソシュールに先駆けることほぼ1世紀、偉とすべきであろう。


第2節 言語と事物の共通構造

 前節で述べた言語存在のあり方を、言語論としては受け入れるにしても、そのまま現実世界の存在論とすることには、私たちの多くはなお抵抗があろう。なるほどヘーゲルにとっては、言語的世界は彼の「意識」の存在形態の一つであるから、<言語論=意識論=存在論>とできる。しかし、私たちはひとまずヘーゲルを離れて、現代的観点から、やはり言語論が存在論と通底することを確認しておこう。そのためには、廣松渉氏の諸説が恰好の援用となる。

 氏もまた、眼前に開ける、可及的にありのままの現象世界に定位する。そのとき現象は、ふつう信じられているように私たちの感官にそのままに現れるのではなく、「単なる“感性的な所与”以上の或るものとして現れる」(9)。私たちの行論に関係のある範囲で略述すると、この所与以上の或るものというのは、たとえば窓の外の緑の物体を樹として見る場合には、「樹」にあたる。実在のそれぞれの木は、個別的で生成消滅するのに対し、「樹」は、すべての木がそれであるところの普遍性を有し、また不変である。そのため、「所謂『イデアール』[観念的]な存在性格を呈する」。

 なおここで注意すべきは、木の想像されたイメージとか記憶像など、いわゆる「観念」とふつう称されているものが、イデアールな或るものではないことである。そうした木の「観念」、すなわち心的像の所与も、それ以上のイデアールな「樹」として現れるのである。イデアールな或る物とは、簡単にいえば所与の有する意味である。

 現象的世界の所与は、それ以上のイデアールなものとして存在するというテーゼは、これだけを取り出してみるならば、アリストテレスの「質料−形相」の「形相」から、ハイデッガーの「<として>構造」まで、哲学史上には類似のシェーマが数多くあることでもあり、奇矯なものではない。したがって、このテーゼが妥当することの詳細な説明は、ここでは割愛したい。問題はこのテーゼにそうとき、言語の働き、すなわち知識の伝達とはいかなるものかということである。

 「知識が伝達されるといっても、一方の人物の『意識内容』が他方の人物の意識に、いわば一つの箱から別の箱に物を移すような具合に移動するわけではないし、そもそも伝達とは、自分がいだいているのと同じ心像、イメージを相手の意識に喚起することではない。因みに、何らの心像をも伴うことなく端的に了解がおこなわれる場合もある……」。廣松氏はこのように指摘した後で、次のように結論する。「知識が伝達されるというのは、一方の人物が所与を[イデアールな]etwas[或る物]として把えるその仕方と、他方の人物がそれを[イデアールな]etwasとして把える仕方とが同じになるということにほかならない」。つまり、同一所与を、2人ともが同じイデアールな或るものとして把握するとき、知識の伝達があったことになる。

 そして特に知識の伝達の場面では、所与が「イデアールなetwasたる『意味』を“懐胎”し、『意味』の肉化した範例となっている限り、そのものの“実在的”な性質や状態は副次的な意味しかもたない」。たとえば、火事がおきたことを知らせようとするとき、なにも実際にものを燃やして見せなくてもよいのである。炎の線図を描いても、また「kaji da」と叫んでも、もしその図や声を「火事」として把握してくれれば、コミュニケーションが成りたったことになる。

 「そのものの“実在的”な性質や状態」はできるだけ簡略化し、イデアールな「意味」を最大限に発揮さすべくつくられたのが言葉であると、廣松氏は指摘する。言葉もやはり他の事物同様、実在的所与がイデアールなそれ以上の或るものとして現れるという基本的構造をもっている。したがって局面によっては、言語論が世界の存在論の雛形たりえるのである。

 ところで、この章の第1節で、「名においては、……経験的存在物は止揚されており、一個のまったく単純で観念的なものになっている」というヘーゲルの主張を引用した。引用中の「観念的」という語の示すものは、私たちの観点からすれば、イデアールな或るもの、「意味」だったのである。しかし、まだこれは、ヘーゲル「観念論」というさいの「観念」ではない。


第3節 ヘーゲルの絶対的観念論

 ヘーゲルによれば、「有限なものは観念的である、という命題こそが[ヘーゲル的]観念論を形成している。哲学[本来]の観念論は、有限なものは真に存在するものとは認められない、ということにほかならない」(10)。有限なものは、真なる存在ではなく、そのことが「観念的」と表現されている。その説明として、タレスの万物の元である水が取りあげられている。「水は他の諸物の……本質である。他の諸物は自存的でなく、みずからのうちに基礎をもたず、他のものによって、すなわち水によって措定されている」(11)

ここでは「観念的」という用語が、ヘーゲル的観念論の意味で使われている。それは、自存性をもたず、その存在を他の物から、究極的には普遍的全体からうけとるもののことである。したがって、前節でのイデアールな或るものを表現する「観念的」とは、用法を異にしている。およそヘーゲルの文の書き方は、その場その場で意味が通れば可というふうで、同じ用語がさまざまな意味に使われる。これもヘーゲルの「難解さ」の一因である。

 有限なものが観念的だということ、すなわち、その存在は対他存在だということは、言語をとってみれば納得しやすい。「有限なもの」は単語にあたるが、単語の意味は既述のように、単語相互の差異の関係によって決定される。一つひとつの単語は、いわばゲシュタルト心理学でいうところの「図」であって、明確には意識されない言語全体を「地」として、浮かびあがってくるのである。図がそのような図でありえるのは、地によっている。

 だが、レアール(実在的・現実的)に現れるのは個々の単語であって、言語全体ではありえない。辞書の類においては、言語全体が提示されているかのようであるが、じつは、レアールな単語の集積にすぎない。辞書の単語を読んでいくとき、それらの意味を理解できるのは、個々の単語のそれぞれが言語全体という「地」を背景として現れるからである。つまり、言語そのものはレアールではなく、つねに背後に留まっている。

 各要素の存在は全体から付与されるが、全体は現前することなく、その意味で「無」であるという洞察、これこそ、ヘーゲルの「絶対的観念論」にほかならない。「有限な事物はみずからのうちに存在根拠をもたず、普遍的・神的イデーのうちにもつということ、……このように事物を把握することを、絶対的観念論と呼ぶ」(12)ただ、「普遍的・神的イデー」といっても、そのような全体性が地上から隔絶したイデア界などにあるわけではない。廣松氏の用語を借りて言えば、歴史的にレアールに展開していく諸事象のイデアールな或るものが蓄積されたものが、「普遍的・神的イデー」に他ならない。また、言語にあっては、発話された個々の単語の意味が蓄積されたものが、「地」の言語全体である。つまり、絶対的観念論では、存在論的には全体は部分に先立つが、存在的には部分が全体に先立つという事態になっている。




第3章 メタ化運動の成立


 これまで「意識」と観念論を検討してきたが、この2つの構制に支えられて、絶対者すなわち真なるもののメタ化運動が、どのように生じるのかを問題にすべきときである。

まず、基本的なところから確認しておこう。ヘーゲルも、哲学とは真なるものを認識することだと考える。しかし、ここからして、私たちの常識的な考えとは齟齬をきたす恐れがある。ふつう真実の認識といえば、客観的な対象と、認識する主観がもつ意識内容の一致だと思われている。ところがヘーゲルの場合には、第1章第1節で述べたように、主観と客観が自存せず、両者の関係態が現象として現れるのみであるから、両者の一致・不一致で真偽が根本的に決まるわけではない。

なるほど、認識を扱う以上、ヘーゲル哲学においても客観的対象の契機、主観的知の契機は当然存在する。なかんずく、『精神の現象学』での「感覚的確信」から「悟性」までのように、意識がまだ無自覚な場合には、両契機が対置、自存するかのようである。ところがその場合でも、「感覚的確信―このもの」や「悟性―力」といった知と対象の組み合わせこそが、すなわち両者の関係態が、精神の現象として出現しているのである。このことを、同書の緒論(Einleitungでは、フィヒテの自我の第三原則(自我は自我の内で、可分的な自我に対して、可分的な非我を反措定する)に仮託して、次のように述べている。「2つの契機、すなわち、[知の有する]概念と対象……は、私たちが探求しようとする知そのものに属している」。「概念と対象、あるいは、基準となるものと吟味されるものは、意識自体のうちにある」(1)

だから、常識的な観点ではありえないたとえば次のような展開が、起きることになる。「[知と対象の]両者が一致しなければ、意識はその知を対象に合致さすべく、知を変更せねばならないかにみえる。しかし実際には、知の変更が起きるときには、知の対象自体も変わるのである。……というのも、対象は本質的に知に帰属するからである」(2)。そして、「悟性」までの単なる意識も、やがて対象と知は同一の意識であるという「自己意識」の段階へと、至るのである。

 したがってヘーゲルの観点では、私たちに現われる対象や知を、客観的対象とくい違うとのかどで、否定するわけにはいかない。といって、現象主義的思想に見られるように、諸現象を現れるがままに、同格的に並置させてすますのでもない。現象は、一つの形態から別の形態へと発展していく、すなわち、メタ化運動をするが、その原動力は「矛盾」だと言われる。  


第1節 矛盾が発生する理由

 「すべての事物は、もともと矛盾を持っている」(3)。「矛盾は、すべての運動と活動の根源である。みずからの内に矛盾をもつ限りにおいて、それは運動する」(4)――このような考えは、まさにヘーゲル哲学を代表するものであるが、彼の哲学形成の初期から見出される。彼がイェーナ時代に書き残した「矛盾」についての考察は、比較的よく知られているが、検討してみよう。

1801年、『相違』論文を執筆していた頃、ヘーゲルはイェーナ大学で教える許可をえるために、「12条の教授資格討論提題」を大学に提出した。その第1条が、次のテーゼである。「矛盾は真理の規則であり、無矛盾は虚偽の規則である」(5)

このテーゼを、資格討論のおりにヘーゲルがどのように説明したのかは、今の私たちには知るべくもない。そこで、『相違』論文を参照してみよう。「絶対者は、意識に対して構成されねばならない。これが哲学の課題である」(6)、すなわち、哲学は絶対者を構成的に叙述すべきだと、彼は述べる。続けて、「[そのためには]絶対者は、[哲学的知によって]考察されて、[何かとして]措定されねばならない」(7)

これは、主張としては誰しも納得できるものである。しかし、「絶対者は、[何かとして]措定されれば、制限されることになる」(8)。つまり、措定することは規定することであり、規定されれば、それは何ものかではないものとなってしまう。たとえば、「本質である」と言えば、「現象ではない」ことになる。スピノザが「すべての規定は否定である」と述べたとおりである。絶対者が無制限な普遍者であるということは大前提であるから、制限を受けたものはもはや絶対者とはいえない。これは背理である。とはいえ、他方では絶対者は現象し、あるいは定在を得て、現実性を有する。そのような現実存在は、規定されえるのであるから、無規定のままにしておくわけにもいかない。

そこで、「考察[のおこなう措定]は、存立するためには、自己破壊の法則をみずからに与える」(9)。それは、翌1802年発刊の『信仰と知』では、次のように定式化された。「+A−A=0。<無>が『+A−A』として、ここには存在しており、……それは無限性であり、思考、絶対的概念、絶対的純粋肯定である[すなわち、絶対者である]」(10)つまり、ある規定+Aでの措定があるときは、かならず反対の−Aを伴うというのである。そこに、矛盾が生じざるをえない。そして、両者はともに没落し、次の規定Bが生成する。そのときには、また新しい世界が開けていることになる。そのBも−Bとともに消え、Cが登場する……。

さて、A、B、C……と規定されたものが自存的なものならば、それぞれが消滅していった後には、何も残らないであろう。しかしヘーゲル的観念論では、それらはいわば「地」となって背後にひかえて、新しく登場する規定の「図」を支える。言語の例でいえば、A、B、Cと新しい単語が加わるごとに言語総体が豊かになり、言語総体から意味を付与される次のDも、豊かな意味内容を持てることになる。したがって、絶対者を構成的に叙述するとは、はじめは直接的に現象したものが、他者とさまざまな関係を持つことによって、媒介されていくことなのである。またそれが、客観的対象と意識内容の一致度を高めていくという常識に代わる、ヘーゲルの認識発展についての見方である。


第2節 メタ世界観への課題

前記A、B,C……という規定は、それぞれ別個の全体性を(11)、すなわちそれぞれ別世界を伴っている。さて、このように世界がメタ化するのに、つねにヘーゲルの言うような「矛盾」は不可欠であろうか。

ヘーゲル哲学で登場する規定は、絶対者の叙述なのであるから、それぞれの領域において世界全体をおおう普遍的なものである。なるほどそのような規定であれば、イェーナ時代のヘーゲルが洞察したように、対立規定が必然的に生じざるをえない。たとえば、「色」と「空」は対立する概念であるが、両方とも万物を包含する規定であるゆえ、「色即是空」となる。「色即是空」という命題も、世界全体をおおう命題ゆえ、反対の「空即是色」が登場せざるをえない。もちろん仏教のこれらの教えは、深い内容をもち、たんなる論理上の展開ではない。しかし、論理構造をとり出せば、「+A−A=絶対者」のそれと同じであろう。

それでは、世界全体を包含しない規定、ないしは、その有するイデアールな或るものが世界全体を包含しないような存在物が、現れればどうであろうか。ロダンの人物彫刻を例にとってみよう。それは、芸術世界(の一部)を形成している。もちろん、ヘーゲルは『精神の現象学』などで、芸術世界の生成も彼の論理で扱っているが、ここでは、彼の哲学をひとまず傍らにおき、メタ世界一般を意味論的あるいは記号論的に考えてみよう。日常世界の何かが「矛盾」して、芸術世界に属する人物彫刻が成立したというのは、やはり無理があろう。製作者ロダンに、心理的葛藤や矛盾があったにしても、それは今の問題には関係ないといえよう。世界の意味論的構造が、問題となっているのである。

私たちはヘーゲルを、メタ世界観を創始した哲学者として位置付ける。だが彼とても、メタ化運動一般の構造を解き明かし、メタ世界観を基礎づけるには至らなかったようである。これはむしろ、私たち自身の今後の課題であろう。

さまざまな文化や思考様式をもった人々が、絶えず出会い、交渉せざるをえない21世紀において、私たちは多様性を認めつつも、なお個々人はそれぞれに統一性を欲している。そして、統一化された世界観を持ったときには、そのような自己の世界観の位置を他の世界観との関係で確認したく思う。このような要望に、一つの世界をしか前提としない旧来の諸哲学では、たとえ多元論をとるにしても、答えられないのではないか。メタ化運動によって展開する多世界の哲学が、待たれている。その足場を固めるためにも、ヘーゲル哲学への理解が必要だと思われる。


はじめに

(1) 『エンチクロペディー』、「第2版への序文」、第822ページ。戻る
(2) 同上、
22ページ。戻る
(3) 茅野良男氏の「ヘーゲル詳細年譜」(『現代思想』1978年臨時増刊号)に基づく。戻る

第1章

(1) 『精神の現象学』、第322, 23ページ。戻る
(2) 同上、26ページ。戻る  
(3)
同上、23ページ。戻る  
(4)
『大論理学』、第544ページ。戻る  
(5)
『エンチクロペディー』、261節の補遺。戻る  
(6)
ヘーゲルの「主−客」二元論の克服ということに留意したものとしては、アンソロジー『ヘーゲル』(廣松渉編、平凡社)がある。戻る  
(7)
『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』、第261ページ。戻る  
(8)
『哲学予備学のためのノート』、第4111ページ。戻る  
(9)
同上、112ページ。戻る  
(10)
『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』、第261-2ページ。戻る
(11)
『イェーナ期体系草稿I』、203ページ。戻る  
(12)
このことをヘーゲルは、次のように述べている。「各契機[すなわち、各意識形態]のもつ規定性が、全体的なものとして、あるいは具体的なものとして、あるいは固有な規定のうちで全体として考察されるときには、各契機はそれ自体が個々の全体である……」(『精神の現象学』、33ページ)。戻る  
(13)
小学館『ランダムハウス英語辞典』による。また、同辞典では、metalanguageの初出は1936年となっている。戻る  
(14)
両者を混交すれば、「あるクレタ島人いわく、『クレタ島人はウソつきである』」といった自己言及文のパラドックスが、生じることになる。 戻る 
(15)
『精神の現象学』、第3巻、478-79ページ。  戻る
(16)
『イェーナ期体系草稿I』、特に200-202ページを参照。同書巻末索引で、NameならびにSpracheとして記載されているページをたどると、若きヘーゲルの言語観を知ることができる。 戻る 
(17)
以上の引用は、『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』「序文」、第2巻、9-11ページ。戻る  
(18)
同上、57ページ。 戻る 
(19)
同上、55ページ。戻る  
(20)
ヘーゲルは後年、「実体=主体」の内容を表したいときには、彼がその発想をえたフィヒテ哲学に戻って、「自我」ないし「自己Selbst」をよく用いている。したがって、ヘーゲルが「自我」と記したとしても、それはよく解されるような近代的主観ではなく、「自我=自我」の短縮形である。戻る  
(21)
同上、57ページ。 戻る 
(22)
同上、41ページ。戻る  
(23)
同上、58ページ。なお、ここではヘーゲルは、主観を、自我を措定するフィヒテの第一原則、客観を、非我を措定する第二原則で代置して論じている。戻る

  第2章

(1) 『エンチクロペディー』、42節の補遺1戻る  
(2)
意味を担う最小単位を、「文」とする見方もありえる。最小単位を「単語」、「文」そしてまた個々の「文法規則」のいずれにしても、拙稿の論旨には影響しないので、一応簡単に「単語」としておく。戻る  
(3)
『イェーナ期待系草稿I』、200ページ。戻る  
(4)
同上、200ページ。戻る  
(5)
同上、201ページ。戻る  
(6) 同上、201ページ。戻る  
(7)
同上、202ページ。戻る  
(8)
同上、202ページ。戻る  
(9) この節の廣松氏の所説の引用と紹介は、氏の『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房、1972年)I、第一章ならびに第二章によった。戻る
(10)
『大論理学』、第5巻、172ページ。戻る  
(11) 同上
172ページ。戻る  
(12)
『エンチクロペディー』、45節の補遺。戻る

  第3章

(1) 以上の引用は、『精神の現象学』、第3巻、77ページ。戻る  
(2)
同上、78ページ。戻る  
(3)
『大論理学』、第6巻、74ページ。戻る  
(4)
同上、75ページ。戻る  
(5)
教授資格討論提題』、第2巻、533ページ。戻る     
(6)
『相違』、第2巻、25ページ。戻る(7)同上、25
ページ。戻る
(8) 同上、25ページ。戻る
(9)
同上、28ページ。戻る  
(10)
『信仰と知』、第2巻、351ページ。戻る  
(11)
ヘーゲル哲学では、各領域の各段階が全体性を有することについては、たとえば、次の文を参照していただきたい。「絶対者は、考察されることによって意識に現前することになるが、客観的総体性に……認識が組織化されたものとなる。この組織においては、各部分は同時に全体でもある。というのは、部分は絶対者への関係として存在しているからである」。(『相違』、第2巻、30ページ戻る    


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