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「戦争反対」への対応をめぐって 

(2001/11/18)


以下の文は、岡崎研究所へ投稿(11月19日)したものです。
http://www.okazaki-inst.jp/okazaki-inst/diaries/diary111901-1.html

もともとX氏の投稿に対する反論として書いたものですが、その後、X氏よりメールをいただき、氏が投稿文を書かれた意図や、背景を私が誤解していたことが分かりました。
 したがって以下の拙文は、氏への反論ではなく、一般論として読んでいただければ幸いです。


アフガニスタンの戦争は、軍事的には山を越したかに見えます。今回の同時多発テロ事件に対する私たちの対応を、ふり返る余裕がうまれたといえます。

1031日の「なんでも日記」に掲載の]氏のご意見に共感する人は多いと思われ、重要な一論点に違いありません。しかしその結論は、残念ながら私見とは異なります。

 A氏によれば、アメリカ軍のアフガニスタン攻撃によって誤爆が生じても、それはある程度仕方のないものであって、
「1)誤爆による悲劇をすまないと思うは誰しも。それをことさら前面に押しだしてヒューマニティーを云々するのはあたらない。さらにだから戦争はいけない、やめろと、いまになって正義ぶるのは偽善だ。
2)誤爆の許容範囲はタリバンでさえも分かっている。なぜ軍事、政府関係施設から一般市民を誤爆予想地域から移転させないのか。いまや市民のなかにタリバン部隊が移転して市民を盾にしはじめた。ヒューマニティーを云々する人はまず市民に逃げるように教えてあげるべきで、パキスタンとイランに国境封鎖を解いて、難民を受け入れるよう働きかけるべきなんです。
特に欧米の聖職者はここにきて一斉にセイントスマイルか沈痛な面持ちのどちらかで停戦を説きはじめた。セイントスマイルは無内容をあらわします。」
と、主張される。

 私は、「誤爆するから戦争はいけない」との説には、それがどのような立場から主張されたかによって、私たちの対応を変えねばならないと思います。すなわち、宗教的・倫理的立場からなされたのであれば、無条件に尊重せねばなりません。
 例えば、いささか経済的に不如意になった家庭で、母親が幼児と楽しく遊んでいたとします。そこへ、きびしい顔つきをした夫が現れて、母親に向かって、「遊んでいるヒマがあったら、一円でも節約する方法を考えろ」などと怒鳴ったとすれば、これはムチャです。幼児の性格までおかしくなってしまいます。
 こういう場合、むしろ母親に対してにっこり笑って、「すまないネ、いつも苦労をかけて」と言うのが夫たるものでしょう。たとえ妻のことを、三食昼寝つきのグウタラだとふだん思っていても、それはまた別の問題のはずです。

 同様に、聖職者や倫理的見地に立つ人が、戦争反対を唱えるのは、まさにそうあってしかるべきなのです。そうした方が抗議に来られたときには、私たちとしては、「すみません、しかしながら、現実の政治的判断としては・・」と答えればいいのです。医者は、悪人であれ善人であれ、とにかく眼前の病人を救おうとする、聖職者は殺人を止めようとする、こうした態度は尊ばれて当然です。
 
 政治においては現実的方策が必要とされるが、宗教や倫理的理想はもともと「非現実的」なものに立脚していることは、社会がよく承知していることがらです。したがって、両者が同じ土俵で正面衝突するということは、基本的には起こりえません。(自由な政治活動が許されていない社会であれば、政治(活動・組織)が宗教(活動・組織)の装いをとる事はよくあり、これはまた別問題です)。
 宗教や倫理的理想が、社会全体を引き回すことは無いわけです。もし仮に、宗教者などが先頭にたつ運動が多くの人を巻き込むことがあるとすれば、それは行われている政治が、現実的意味においても大きな欠陥をもつからにほかなりません。その場合は、政策の変更が望まれます。

 私たちの住む近代市民社会のいいところは、さまざまな役割を互いに尊重しあうところに、また適宜交換できるところにあります。極端に言えば、朝には倫理的戦争反対のデモに拍手を送り、夕べには自衛隊派兵の細目を議論したとしても、これは非難されるべき矛盾ではないのです。
 逆に四六時中一生、斬った張ったでソロバン勘定のリアルポリティックスに邁進するか、あるいは、狐狼の世界で福音書的な声をあげるしかないとなれば、しかも互いに認め合わないというのであれば、これはもう人間がおかしくなるか、世の中がおかしくなるか、どちらかしかないわけです。


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