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同時テロ事件と文化戦争論

(2001.11.01)


以下の文は、原題『李赫燮論文「テロ戦争の世界現象」へのコメント』として、岡崎研究所へ投稿(11月1日)したものです。
http://www.okazaki-inst.jp/okazaki-inst/diaries/diary11201taki.html


1012日(金曜日)の「なんでも日記」に掲載された李赫燮氏の論文「テロ戦争の世界現象」には、教えられる点が多かった。だが、疑問に感じたところもあるので、以下では賛同できない点に絞って、私見を述べたい。

氏によれば「この度の事例(自爆テロ――滝)は・・・キリスト教対イスラム、ユダヤ民族を取り囲む西方世界とアラブ民族を中心とする中東の原理主義国家の間に展開された」ことになり、「そこで、今後の国際安保環境は、人種-宗教の次元で『文化戦争』へと展開される可能性が大きい」こととなる。しかし、

1) テロ事件後の国際社会は、アフガニスタンやイラクを除き、こぞってテロを非難している。イスラム諸国や、アメリカとは敵対的だった北朝鮮などもそうである。これは、アルカイダなどにつながるイスラム原理主義に、イスラム諸国といえども体制側が手をやいてきた点が大きいであろうし、なかには損得計算でアメリカ支持に回ったような国もあろう。したがって、テロを行った勢力の側に、イスラム諸国や、「アラブ民族を中心とする中東の原理主義国家」がついているわけではない。

2) イスラム諸国の富裕層や支配層の多くは、欧米に出かけることで生活をエンジョイしており、また彼らの子弟は欧米に喜んで留学している。(今回のテロの首謀者とされるビン・ラディン氏の兄弟もアメリカに留学していたが、テロ事件後はさすがに身辺が危うくなって帰国したということである)。そして、イスラム世界の知識人で、西洋流の民主主義や自由、人権に反対する人は少数派ではないだろうか。
 また、イスラム教の聖職者でも、西洋文明の流入を防止して、その汚れからイスラム精神を防衛せねばならぬと考える人は多いであろうが、欧米に進攻して西洋文明を撲滅せねばならぬと考えている人はまれであろう。したがって、今後「人種
-宗教の次元で『文化戦争』へと展開される可能性」は、李氏の主張とはちがって少ないとみるべきであろう。

むろん、タリバンやアルカイダに連なるイスラム過激派は、世界各地に存在し、彼らの手法を真似るグループも多いと思われる。したがって、テロによる危険性は現在アメリカを中心に大きいといえよう。しかし、問題はそうした人々の思想や政治信条が、私たちに衝撃を与ええるものかどうかである。アフガニスタンでタリバンによって行われたことを見ても、失望と嫌悪を感じるだけであろう。

江戸時代末期の大塩平八郎の乱によって、大阪市中は分の1を焼かれてしまった。しかし、彼の信条と乱までの行動を知る大阪の庶民は、「大塩様」と呼んでいたというが、そのような事情にテロ側はない。たしかに、パレスチナ問題でのイスラエルへの反感や、「生活水準があまりにも低」い人たちのイスラム過激派支持といったことはある。けれども、それらは「人種-宗教の次元で」の「人類和解」の問題として検討されるべきではなく、パレスチナの政治問題として、貧困と圧政の問題として解決されねばならない。

世界を二分している今回の争いの性格を明瞭なものにするため、20世紀の反ファシズム戦争と、冷戦を見てみよう。

ファシズム側は、経済・軍事力で強力であったのみならず、思想面でも「優位」を思わせるものがあった。反ファシズム陣営や西側の近代的「民主主義」は、1718世紀のロックやルソーに依拠し、基本的にその枠内にとどまっている。すなわち、社会を捨象して得られたアトム的個人が、人権概念を与えられて実体化され、その後、それら諸個人が共通利益を確保するために社会契約をかわして、国家を形成するとされる。そして、今でも学校の義務教育ではここまでしか教えない。
 しかし、
19世紀初頭ヘーゲルは、そうした民主主義では、ばらばらの個人による欲望の体系が帰結されるのみで、真の普遍性は生じえないと批判した。思想史の教えるところでは、ここに近代社会が根底から否定され、共同体、民族、歴史、さらには階級の概念が登場してくることになる。

ファシズム運動もその思想的上澄み液をとってみれば、近代批判を志向しており、時代の最先端であったわけである。枢軸国側は、わが国の京都学派、ドイツでは一時にせよナチスに賛同したハイデッガーなど、多くの知識人を擁していた。そしてそこには、ワグナーに心酔する総統と、世界最高の指揮者・オーケストラがいた。ムッソリーニもカリスマ性は十分であり、わが国でも最近の政界に比べれば、キラボシのごとき人材がいた――カミソリ東条、新官僚の岸信介、最終戦争の石原莞爾、等々。

冷戦期では、さすがにモスクワに忠誠をつくす優秀分子は少なかった(例えば、ルカーチ)。しかし、資本主義を積極的に肯定するものは、なおまれであった。経済学では、キャピタリズムの効率性を称揚する人にこと欠かなかったにせよ、思想分野では名前をあげるのに苦労する。名をなした思想家の多くは、モスクワに多かれ少なかれ抵抗し、官許マルクス主義を否定しつつも、認識論から国家論のレベルまで、反近代・反資本主義の方向で仕事をしたのである。

このように見てくれば、20世紀においてこそ「文化戦争」が行われており、現実の戦争での惨禍なども考えるとき、李氏の主張するような「国家安保政策の重要な原理は、今までとは異なって『人類和解』の次元で発見しなければならな」いとの観点も、ありえたかもしれない。けれども、今回のテロ事件ならびにアフガニスタン問題は、上述のようにおよそ様相を異にしている。

とはいえ残念ながら、私にテロ対策問題についての成案はなく、アフガニスタンについても、国内民族諸派や周辺諸国家の妥協の産物である「民主的国家」が、国連関与のもとで成立してほしいという、平凡な感想をもつにとどまっている。
 ところで、そうした民主的国家のもとで法律や産業インフラ、教育・福祉などが整備されねばならないとき、そこに生じるのはいわゆる「近代化」の問題であろうと思われる。私たち「先進国」の人間としては、自分の持つ民主主義や市場をはじめとする諸概念が、その近代化の場面でも普遍性をもつかどうか、改めて検証しなければならないであろう。


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